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第7回 腕組みの男性

この日おれんじドアはちおうじを訪れたのは、70代の男性でした。

男性は腕を組んで、言葉少なに座っています。わたしとほかの来場者さんをじーっと見つめながら、会話の様子を伺っている様子でした。

タイミングを見計らって、わたしから男性に声をかけてみました。

 

「今日はここまでどのような交通手段でいらしたのですか?」

「室内は暖房が効いていますが、暑くないですか?」

そんなたわいもない会話を、ひとつ2つ。

「バスでな、家内と来たんだよ」

男性は、そんな言葉とともに初めて少しばかりの笑みを見せてくださいました。

 

しかしその後も、「ここはどんな場所なのか?」「どうして、オレはここに座っていなきゃいけないのか?」とでも言うように、腕を組んだまま周りを見回しています。

その様子は、どこか自分を守ろうとしているかのように、警戒しているかのように見受けられました。

 

私は、発達障害をもつひとり息子の、育児時代を思い出しました。

 

周囲の人たちに存在を気付かれないように、自分の殻にこもっている姿。「自分が何かを話せば、弱さを相手に見せてしまう......」とでも思っているかのよう。

 

わたしは、男性に無理はしてほしくないと思いながら、様子を伺って少しずつ声をかけていくことにしました。

「コロナ禍の中で、どんな風に暮らしているか、または、コロナが落ち着いてきたらどこか行きたい場所があるか、みんなで話をしているんですが、どこかありますか?」

 そんな風に、改まった感じではなく、優しく、自然の会話の流れの中から問いかけてみます。その場の空気によい意味で包み込むよう意識しました。


ふとした仕草や言動が、大切なその方のメッセージ


そして、私がちょっと失敗したという、おっちょこちょいな自分の話をしてみることにしました。

今までの経験から、まずは自分の殻を破り、自分の話をすることの大切さを感じていたからです。といっても無理にではなく、わたしもその場の空気や雰囲気が楽しいと思える程度に、何よりご来場いただいている方がひとりも取り残されないようにという工夫です。


私が話すと、認知症地域支援推進委員の皆さんと来場者の皆さんの笑い声が上がり、会場全体がひとつになったように笑顔で包まれました。


すると男性は、吹っ切るかのように、強く腕組みをしていた両腕をほどいたのです。

「自分の話をしてもいいんだ」「私たちと一緒に何か語ってみようか」と思えた瞬間のように感じられました。


ピアサポートをしていると、ご本人やご家族のふとした仕草で、心を開く瞬間が分かることがあります。そんな仕草や言動を見逃すことなく、大切なその方のメッセージだと一つひとつ拾っていくことが大切です。


男性は少しずつ、ほかの来場者にも問いかけます。

「どこから来たんですか?」

「ここにはどうして来たの?」

そんな男性の言葉に、私はハッとしました。その男性自身が、今日、ここに来た目的が分かっていなかったのです。


なんとなくご家族と一緒に来たか、もしくは自分で「行く」と思ってご家族と一緒に来たけれども、目的を忘れてしまったのかもしれません。どちらのケースにしても、この場の目的をきちんと伝えたいという思いで、わたしは男性にチラシやカタログなどを見せながら、自分の言葉で伝えていきます。


男性は目を細め、まるで自分の記憶を辿るかのように遠くを見つめると、ため息のような絞るような声を吐き出しました。


「あー、そうか」


そしてわたしに対して、さまざまなことを問いかけてきます。時にはドキッとするような質問もあります。まるで、人生の先輩である男性が、わたしを信頼できる相手かどうか試しているかのようでした。

わたしは、答えられる範囲で答え、男性と同じ目線で、同じ景色を見ているように、自分の気持ちを伝えました。


そして一番男性が知りたかったであろう、「認知症」の私たちのことを語ります。


「わたしも43歳の時に認知症の診断を受けたんです」


わたしのその言葉に反応して、男性は眉間にしわを寄せ、何とも言えない表情でわたしの方を優しい目でじーっと見つめました。


「ほぉ〜、いまはいくつだね?」


決して興味本位だけで、わたしを見つめているのではなく、ひとりの人として、わたしより先に人生を歩んでいる先輩として、心配をしてくれる優しい眼差しでした。



不安や怒りを抱いて来る方も、肩の力が抜けるように


このように「おれんじドアはちおうじ」には、さまざまな世代の方がお見えになります。ご家族と一緒に足を運んでくれても、到着されると緊張や慣れない会場の雰囲気などから、「わたしはどこにいるんだろう?」「何しに来たのだろう......」と、多少の不安を抱く方もいます。


最初は自分から話すことも少なく、皆さん様子を伺っているのですが、なんとなく「認知症」と診断を受けた仲間たちが集っていることを感じ取って、みんなが少しずつ想いを口にされたり、生活の工夫が共有されたりすることに耳を傾けています。

嫌悪感を示す人はほとんどいません。

お互いがタイミングを見て、それぞれの話を語り合っていると、肩に力が入っていた方も緊張がほぐれ、リラックスされていくのが分かります。その瞬間、わたしもホッとして肩の力が抜けるのです。


時には、ご家族から何も伝えられないまま、ごまかして連れてこられたかのようなご本人もいます。そんな方は、自分を抑えながらも語気強く、怒りやいら立ちを見せることもあります。当たり前の反応です。


しかし、いままで誰ひとりとして、途中で帰られた方はいません。こちら側がきちんとお話をして、その方に合った寄り添い方をしているためでしょう。

さらに、次回も来てくださる方々が多くいます。今度は、ご本人の意志を持ってしっかりと。



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医学書院で書籍『フィジカルアセスメントに活かす 看護のためのはじめてのエコー』が好評発売中です。

超音波検査(エコー)に苦手意識のある看護師さんたちに、そのハードルを下げてもらいたいとの願いから生まれた書籍です

第3回では、プローブマークの位置とエコー画像の関係を解説します。

プローブマークの位置が重要です

患者さんの体表に直接触れるプローブには、プローブの方向を示す「プローブマーク」があります。

第3回 プローブマークとエコー画像の関係1

プローブマークは、患者さんの断面像と臓器の上下左右を表すために付いています。置く方向を間違えると、エコー画像の上下左右が逆になってしまいます。測定する時には、プローブマークの位置を確認してから超音波検査を行いましょう。

プローブマークの位置をどちらにするか分からなかったら、以下のように原則を覚えましょう。

  • 体幹の長軸像(縦断面)を観察する時→ プローブマークは足側にする(図1A)。
  • 体幹の短軸像(横断面)を観察する時→ プローブマークは向かって右側(患者の左側)にする(図1B)。
第3回 プローブマークとエコー画像の関係2

上肢・下肢の場合もあまり悩まないで、原則は次のように単純に考えましょう。

  • 長軸像(縦断面)を観察する時→ プローブマークは遠位側(指先側)にする(図2A)。
  • 短軸像(横断面)を観察する時→ プローブマークは向かって右側にする(図2B)。
第3回 プローブマークとエコー画像の関係3

このようにして得られた像は、患者さんの下側から患者内部を観察した像になります。

ただし、頸部血管を観察するときはドップラーをかけるので、プローブマークを上にする場合もあります。これは病院によって若干の違いがあるので、病院のやり方に従ってください

ここまでは、書籍の第2章で詳しく解説しています。

プローブマークとエコー画面の位置関係をみてみよう

では、以上のことを実際のエコー画像でみてみましょう。

図3は甲状腺エコー短軸(横断)画像です。プローブマークを患者の向かって右側に置きます。エコー画像は画面の右側が患者の左側になっています。

第3回 プローブマークとエコー画像の関係4

図4心窩部(正中)縦断画像です。プローブマークを患者の向かって下側に置いたものです。エコー画像は画面の右側が患者の下側になっています。

第3回 プローブマークとエコー画像の関係5

以上、プローブマークを置く方向について簡単に述べましたが、原則に従ってやっていただければいいので、あまり難しく考えず、まずは画像の描出にトライしてみてください。



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第2回 超音波の基本

医学書院で書籍『フィジカルアセスメントに活かす 看護のためのはじめてのエコー』が好評発売中です。

超音波検査(エコー)に苦手意識のある看護師さんたちに、そのハードルを下げてもらいたいとの願いから生まれた書籍です

第2回では、超音波の基本をレクチャーします。

超音波って?

超音波はひと言で表すと"聞こえないくらいの高い音"です。では、なぜそのような高い音(高周波)を使うのかというと、音源から発生した高い音はある程度の距離まで拡がらずにまっすぐ進む性質を持つからです。

図1は音源(探触子、プローブ)から発生した音波の伝わり方を示したものです。音源から発生した超音波は拡がらずに平面波のまま進み、ある程度進んだところで球面波になり拡がっていきます。この平面波として音がまっすぐ進んでいる範囲を「近距離音場」といい、球面波となって拡がって進む範囲を「遠距離音場」といいます。超音波は図1に示すように周波数が高いほど近距離音場が長く(拡がらずにまっすぐ進む)なります。音源から発信した音がまっすぐ進んで反射して返ってくれば、その進行方向に反射源(たとえば臓器、胎児など)があったと認識することができます。だから超音波を使用しているのです。

第2回 超音波の基本1

図1


超音波の反射はどこで?

 

超音波の反射波は個々の媒質(対象臓器など)による「音響インピーダンス」によって決まります。図2に示すように並ぶ媒質の音響インピーダンスの差の大きさによってどれだけ反射するかが決まります。逆にその差がない場合はすべて透過するため、2種類の媒質を分けることができません。難しいですね......。詳しくは書籍の18ページを参照してください。

第2回 超音波の基本2                   図2

超音波でどのように画像を作っているのか?


皆さんが目にする超音波画像はどのように作られているのでしょう。ここからは実際に画像が構築されるまでを簡単に説明します(図3)。


1.個々の媒質による音響インピーダンスの差によって生じた反射波を受信し、反射波のあった走査線上に振幅として表示します。


2.走査線上で反射波の振幅が多いところには白(高エコーといいます)、振幅の無い(反射波の無い)ところには黒(無エコーといいます)を表示していきます。


3.その作業を走査線数の数だけ同様に行います。 


4.この走査線の間隔を狭くすると、点と点がつながり、線として描かれていくようになります。これが通常、超音波画像で見ているBモード画像です。このように点と点をつないで線として描いていくので、超音波検査では「描出」といった表現が用いられます。


第2回 超音波の基本3
図3

超音波が苦手なものは?



超音波検査は超音波を対象に届けさせて、そこで生じた反射波を画像化するのが基本です。ではどういったものが邪魔をするのかと言うと、対象の臓器と音響インピーダンスがかけ離れている空気(密度が無い)と骨(密度が高く硬い)です。さらに空気は超音波を著しく減衰させます。ですから検査を行う際には、装置と体表の間の空気を無くすためにゼリーを塗るのです。空気(ガス)と骨を避けながら検査を進めることがきれいな描出の第一歩です。


超音波検査の上達の道は?

超音波検査の上達の道は、これまで話した基礎的な内容の理解も大切ですが、それ以上に対象となる臓器の構造が分かっていないといけません。超音波で映し出されているものを理解するためにしっかり解剖を覚えてください(書籍の第3章を参照ください)。そして病息を見つけるためには対象臓器の機能も把握しておく必要があります。 そして最後に、最も大切なのは経験です。上達への近道はなく、たくさん触ればそれだけ上達します。エコーはそんなに難しく考えず、とにかくプローブを手にとってみましょう。



← 第1回はこちら

第3回はこちら→



医学書院で書籍『フィジカルアセスメントに活かす 看護のためのはじめてのエコー』が好評発売中です。

超音波機器(エコー)に苦手意識のある看護師さんたちに、そのハードルを下げてもらいたいとの願いから生まれた書籍です

「とにかく一度、プローブを持ってみてほしい。アセスメントに活用できる場面はこんなにあるんですよ」――そんな思いをweb連載にも込めました

今日から3回にわたって、超音波機器の基本と書籍のご紹介をします。

超音波検査は難しくない

臨床の看護師のみなさんは、身近なデータとして超音波画像を活用されていると思います。でも、それは医師や検査技師が画像や動画を描出・撮影したものが多いのではないでしょうか。

看護職のなかでも助産師の場合は、妊婦健診で自ら機器を操作していることが多いと思いますが、その助産師でさえも2019年実施のアンケートでは、超音波検査の技術・知識の自己評価は100点中26点と、とても低いことが分かりました1)。その理由は、「勉強の機会がない」「技術に自信がない」「高額な機器を故障させるのではないか」など、尻込みしている様子がうかがえます。

でも、心配はいりません。いまはポケットエコーが登場し、スマホを扱う気軽さで(実際にディスプレイ部はスマホです)エコーに触れることができます。10年前と比較するとずいぶん入手しやすい価格にもなりましたし、リースもあります。すでに、訪問看護や自宅出産で、看護師・助産師がポケットエコーを使っています。これからは、病院内でもベッドサイドで看護師自らが当たり前に超音波機器を扱う時代になります。

臨床でこんなに使える超音波機器

 

では、訪問看護や病院のベッドサイドで、看護師自らが超音波機器を使ってできるフィジカルアセスメントの場面を紹介しましょう。初心者でも、意外と簡単に画像を描出できる部位も多いのです(詳しくは書籍の第4章を参照ください)。

例えば、膀胱の観察は比較的難易度が低いです。身体の外側から膀胱内の尿量を把握することができれば、不必要な導尿を行わなくても済みます。直腸内の便の観察は少し難しいですが、超音波検査によって便の有無や、便の硬さなども把握できるため、適切なタイミングで下剤の投与や浣腸の実施ができます。排泄のケアは患者さんの負担も大きいので、負担を軽減するためにも超音波検査の活用は効果的です。

褥瘡は、視診や触診で深達度を判断しますが、表面上では浅い褥瘡のように見えても、深部の組織に損傷がある場合もあります。超音波機器を活用すれば、表面からは分からない内部の状態を観察できるため、正確な評価につながります。

書籍では画像を用いながら、プローブの操作や観察のポイントを第2章で詳しく解説しています。さらに、書籍では触れていませんが、分娩の場面では、胎児の下降を超音波機器で観察することもできます。何度も内診をせず、産婦さんへ負担を強いることも少なくできるのです。

体表と臓器の位置関係を知る


超音波機器を扱う上で難しいと思われているのが、内臓の位置関係でしょう。プローブを動かしていても、何が映っているのか分からないと、正しい観察はできませんよね。超音波画像を読み取るためには、内臓の位置関係を理解していることが必要です。そこで、解剖が苦手な方にも理解しやすいように、書籍の第3章では体内のイラスト(解剖図)を用いて、位置を解説しています。

また、基本的に超音波画像とその横にシェーマ(イラスト)を並べて解説していますので、書籍と照らし合わせることで何が映っているか理解しやすいと思います。実際に超音波機器を操作しながら、書籍の画像と比較しつつ、同じような画像を描出してみてください。同僚と練習し合うのもお勧めです。

web付録として、書籍内に掲載したQRコードから、動画(一部静止画)にアクセスできるようになっています。これらも利用しながら、超音波機器に慣れ親しんでください。

***

 

私は大学の教員ですが、本音を言えば、学生のカリキュラムに超音波検査が組み込まれる必要があると思っています。学生時代から慣れ親しんだツールであれば、臨床に出たときに、すぐにフィジカルアセスメントに応用できるはずです。いま、徐々にそのような流れがきているかな?と感じることもありますし、臨床現場ではすでに活用の場面も広がっていますので、看護師が当たり前のように超音波機器を手にして患者さんのベッドサイドを訪れる日も近いと思っています。

次からの第2回と第3回では、超音波の基礎知識と超音波機器の扱い方のポイントを解説します。


1) 土肥聡:助産師の超音波検査における現状、自己評価、教育、ニーズ―助産師を対象とした超音波教育のあるべき姿は何か?.助産雑誌738):638-6432019


第2回はこちら→



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薬を知れば気づけるミス、チェックできる徴候、防げる事故がありますよね。
それはわかっていても、膨大な薬の知識を、病態と結びつけながら、体系立てて理解することは簡単ではありません。
たくさんの知識を整理するために「まず必要」な基本事項を、まんがで解説します。

「まんがだからわかる!できる!看護のための薬理学レッスン」 アーカイブ

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この連載では、脳塞栓症になってから2023年までの変化を順に辿ってきました。右半身のまひや失語の経験は、わたしの認識にどのような影響を与えたのでしょうか。最後にそれを振り返ってみます。

 


■人類学者として見た障害者の世界

 

わたしの発症は20024月でしたから、もう20年以上も前のことになります。その間わたしの生活している世界は、時には急激に、時にはゆっくりと変化しました。わたしの身体とこころの変化が大きかったのですが、わたしの変化に応じて周りも変化してきたのです。

 

発症直後の数年間は、劇的な変化がありました。それを「不幸なこと」と一口では言えないのですが、今から振り返ると、まるでジェットコースターに乗ったような経験だったのです。

 

こう書くと、今、病気と闘っている当事者からは「何という思いやりのないことを書くのだ」と誤解を受けるのかもしれません。しかし、人類学者として見た障害者の世界は、それまで過ごしてきたわたしの日常とは違った異次元の世界でした。もうひとつ別の例を挙げれば、まるでワープによって時空を超えた異世界に投げ出されたような感覚でした。

 

人類学者にとって「すでにある価値観では理解できない世界」に暮らしてみることは、わくわくする未知の体験です。この体験が調査であり、研究なのです。新しい価値観の理解に努め、何とか自分たちの言葉で表現できる方法を探ろうとします。

 

長く現地に住み、擬似的にその人たちの一員になって生きる術(すべ)を学べば、やがて共感できるようにさえなります。そしてその人たちと同じように振る舞えるのです。わたしの場合は、まさに「障害者という文化圏」の一部となりました。

 

 

■死が怖くなかった時期

 

わたしが飛び込んだ異世界を振り返ってみましょう。わたしは「不思議なことに、わたしが脳塞栓症を患ってから2、3年は死を恐ろしいものだとは感じませんでした。わたしにとって『死』は、それほど身近だったのかもしれません」(第2回 頭が引き裂かれて角が生えてきた)と書いています。この体験は特異です。死ぬことに恐怖を感じなかったと言っているのです。人に限らず生き物は皆、死ぬことが恐ろしいはずです。

 

わたしは、わたしよりも年長者が、死ぬことが恐ろしくてたまらないと言ったことを思い出します。なぜ人は死ぬことを恐がるのでしょうか。現在のような複雑な社会は容易に自殺を誘います。しかしそれは社会の異常性を表しているのでしょう。

 

そもそも死ぬことを恐がらないような生き物は生きていけません。アフリカの草食動物アンテロープはライオンに襲われることを恐がって逃げ回ります。それでもわたしは、死を恐ろしいとは感じなかったと書いたのです。

 

「死を恐ろしいとは感じなかった」あいだ、ことさら死にたかったわけではありません。また漠然と死にたいと思っていたわけでもありません。生きていたいのです。

 

死ぬなら死ぬでしかたがない。そのような感情だったのでしょうか。あるいは生きていることと死ぬことの境目が曖昧で、区別のつかない状態だったのでしょうか。それはちょうど生まれたての赤ん坊とか、死に近い高齢者が死を恐がらないことと近いのかもしれません。

 

その意味で「2回 頭が引き裂かれて角が生えてきた」で触れた、水中を漂う夢は象徴的です。人の「生き死に」を司るタヒチの神は、川のほとりに立ち、「生きて死ぬ」という人間の究極の運命を、水の流れに託しています。わたしの「生きる死ぬ」という運命も、水中で漂う夢の中で決まったのかもしれません。

 


■あがきの先で見つけた研究の道

 

それからの数年間は、わたしにとってあがきの時間でした。がんばれば、まひや失語から回復し、やがて報われる......のかどうか、医療について素人のわたしにはさっぱり見通せませんでした。プライドを持ち続けてみても、そんなプライドが現実になる保証はなく、簡単に潰されてしまいます。そんな中で妻はわたしを励まし、ふたりの子どもたちはわたしと遊ぶことを喜んでくれました。そうして時間は経っていきました。

 

そうしたあがきの先で、わたしは「聴覚失認者に緊急災害情報を届ける」という研究テーマを見つけました。本来、認知できないはずの聴覚失認者に情報を「聞いて」もらうのです。

 

研究テーマという以上、漠然と「聴覚失認者に緊急災害情報を届ける」ことに興味があるというだけではだめです。さらに、研究を仕事としてやるためには、まず研究環境が整った研究室に移籍すること、競争して研究費を取ってくること、研究を助けてくれる仲間を作ることが肝心です。この研究テーマは、障害者のわたしだからできることが強みです。研究者であっても、非障害者にわたしと同様の研究はできません。つまり、研究を続けるのに競争相手が少なくてすむのです。その分、このテーマは未知の部分が多い研究ということになります。

 

幸いなことに研究室はわたしにぴったりのところがありました。それまでの哺乳類の行動や地理分布を調べる研究室から、障害者とどのように付き合うかを研究する研究室に移ることができました。

 

研究を助けてくれる仲間には、失語症者の作業所や失語症の友の会の皆さんがいます。病気になってまもない頃、妻がひとりで抱えてきた思いをぶちまけることのできた人たちです。失語症者の作業所や友の会の皆さんなら、わたし自身が失語症者なのですから十分な信頼感があります。

 

残る課題は研究費の獲得です。「競争して研究費を取ってくる」ためには審査員へのていねいな説明が必要です。

 


■研究費獲得のために

 

14回 ついにインドネシアに上陸した(1)」に、わたしたち研究者がどうやって研究資金を獲得しているのかが書いてあります。下記に引用(一部追記)しておきます。 

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研究者は、文部科学省やその外郭団体の日本学術振興会が世話をしてくれる科研費(かけんひ)と呼ばれるお金で研究活動をしています。もちろん厚生労働省やその他の省庁、またいろいろな財団からも研究費はもらえるのですが、わたしの場合は日本学術振興会が主な財源です。

 

科研費はいわゆる「競争的資金」と呼ばれる公金で、審査委員役を仰せつかった誰かは秘密のままの研究者が、この研究計画は優れている、この研究計画はもうひとつだと順番を決め、優れた計画だと評価された順に研究費が下りるという仕組みです。

 

審査委員はあまり自分に近すぎる分野の審査ではなく、計画調書を読めば何がしたいのかは理解できるが、申請者一人ひとりの顔まではわからないという微妙な距離感で審査をするのです。

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わたしは学問として確立されて間もない「博物館学」で研究計画を立てました。

 

博物館は、建前上、どのような人も拒むことなく受け入れなければならない社会教育・生涯学習のための施設です。そこで緊急事態が起こったとき、情報が聞こえない人がいるのは大問題です。聴覚障害者だけでなく、「聞こえているのに言葉が理解できない」という聴覚失認者も館内放送は分からないことが多いでしょう。これはぜひとも解消しなければなりません。

 

しかし「博物館学」の審査委員に聴覚失認という、一般には理解が進んでいない現象を分かってもらい、どこがどう問題なのかも理解してもらわなくてはいけません。その上で、わたしの提出した計画なら研究が進みそうだと納得してもらうことが必要です。

 

そこでもうひとつ、大切な取り組みを考えました。それは博物館で行う社会実験です。

 

日本の社会は障害者などのマイノリティを受け入れるのに四苦八苦しています。まだまだマイノリティは差別され続けているのです。しかし「どのような人も拒むことなく受け入れなければならない」博物館では、一般の社会で差別されているマイノリティであっても、建前上、差別するわけにはいきません。

 

一般の社会では規模が大きすぎて改革には時間がかかりますが、博物館なら大げさになり過ぎません。いわば社会のひな形です。そこで放送法の実験をやってみる。問題があれば修正して、もう一度やってみる。この観点を取り込むことにしました。このことを計画に書いて研究費を申請しました。すると、幸運なことにわたしの研究は採択されました。首尾よく研究費がもらえるのは全体の約25パーセント前後とのことです。

 


■そして研究は続く

 

20234月からも科研費をもらって研究を続けられることになりました。もう現役は引退しているのでだめかと思ったのですが、もう一度だけ科研費を申請してみて、だめだったら研究者は辞めようと覚悟を決めていました。するとわたしの覚悟とは裏腹に、あっさりと採択されました。今回は「文化人類学・民族学」の一分野、医療人類学で申請してみました。

 

19回 障害者と少数民族は似たところがある」に書いたように、「障害者」は独自の文化や言語を持った少数民族と近いところがあります。視覚障害者は点字という独自の言語体系を持っていますし、聴覚障害者は手話という独自の言語体系を持っています。

 

ご存知の方も多いでしょうが、失語症者にも失語症者独特のしゃべり方があります。それを「失語症者のピジン語」とか「失語症者のクレオール」と呼んでいいのなら、「言葉」が違うのですから、これは少数民族と呼ぶべきではないか。そういう発想です。

 

「障害者」と少数民族が似ているというのは、わたしだけの発想ではありません。実際に「障害者」の側から少数民族であると宣言した文書もあります(木村・市田, 2000)。

 

「障害者」も少数民族になぞらえるなら、いろいろな障害者とさまざまなマイノリティそれぞれの多様性を活かしたマジョリティとの共存の道を探し出せるかもしれない。今、わたしはそう考えています。

 

 

■「障害者の人権モデル」の確立に向けて

 

現在の日本において、「障害者」はけっして「恥ずべき存在」ではなくなりました。「恥ずべき存在」であると誤解を招いた「障害の医学モデル」は衰退し、「障害の社会モデル」や「障害者の人権モデル」がおもてに躍り出てきたのです――日本の「人権の国際基準」との齟齬(そご)を認識するためには国連からの外圧が大きかったと思います。

 

「障害の社会モデル」とは、今、「障害」があるとされている状態は当人のせいではなく、当事者に不便を与え、就労や結婚で差別している社会がおかしいのだから、まず社会を変えていく努力が必要だという考え方です。もう一歩進んで「障害者の人権モデル」では天賦の権利であるはずの人権が「障害者」に与えられないのはおかしいから、当人が成功するにせよ失敗するにせよ、同じ人間として同じだけの権利を主張するべきだという考え方です。

 

わたしは「障害者の人権モデル」を取りたいと考えます。

 

ただ、そこで障害者の側も発想の転換が必要です。障害者も同じ人間なのだから、非障害者と同じだけの権利を主張するべきだという考え方からは、「障害者も一社会人」であるという認識が生まれます。「21回 地域の防災と障害者の役割」で書いたように、「障害者」がいつも自分たちは世話をしてもらう側であるという認識では、地域は回っていかなくなります。べてるの家の皆さんが悪戦苦闘しつつ工夫を重ねてきたように、地域でどのように振る舞っていくかということが問われるようになるのです。

 

「障害者の人権モデル」を障害者が非障害者とは別の人生行路を歩かざるを得ない今の日本社会で実践しようとすると、われわれ障害者にはとんでもない苦労があるはずです。現実には、まず制度や基本的な考え方を改めることが先決であるはずです。

 

では、どう制度や基本的な考え方を改めるのかと言えば、行き過ぎた競争社会を改め、「障害者」を含む多様な人びとが無理なく生活でき、学び、働けるような社会になることです。

 

それは夢のようなことに思えますが、地域の人たちが多様性を受け入れ、「障害者」が地域のことを我が事として真剣に考えるなら、けっして不可能なことではありません。

 

わたしはこの2年間、「『ことばを失う』の人類学 わたしをフィールド・ワークする」の連載を通じて、やっとここまでの認識に辿り着きました。

 

木村晴美・市田泰弘 (2000) ろう文化宣言:言語的少数者としてのろう者. 現代思想編集部(編), ろう文化青土社, 東京, pp. 8-17.



「『ことばを失う』の人類学 わたしをフィールド・ワークする」完




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「かんかん!」の連載記事「マンガでなっとく! がんにまつわるメカニズム」が書籍化しました!


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「がんはどうして生じるの?」

「がんの定義って?」

「がんは遺伝する?」

「標準治療よりも"スゴい治療"があるの?」

「がん検診ってどれくらい意味があるの?」――

患者さんのこうした質問に迷わず答えるために、医療者が知っておきたいがんの基本知識60トピックスを、マンガ家ドクターである筆者がとことんわかりやすく解説しています。

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■助け・助けられる障害者


高齢者や障害者は行政機関から被援助者としてリスト・アップされ、災害時には非障害者から助けられる。それが当然だと思っている人は、障害者に、そして非障害者にも多くいると思います。ですが、一分一秒を争う避難のときに、自分だけでなく障害者まで助けられる余裕のある人は多くないような気がします。

 

一方で、一口に障害者といってもさまざまです。知的障害のある力の強い人なら車いすを押すことなど造作もないでしょう。また片マヒがあっても、地域の人のために、あらかじめ地図上で避難経路を考えておくことが得意な人もいるでしょう。

 

防災と障害者の役割は、助ける人/助けられる人などと固定的に考えるべきではありません。柔軟にとらえるべきです。

 

20回の「地域で暮らす」の中で、わたしたち障害者は何も特別な存在ではなく、地域で生活する普通の人間なのだと書きました。今回は障害特性を積極的に活かして、障害者が地域住民と共に防災活動に奮闘(ふんとう)している姿を紹介します。それは北海道の浦河町にある「べてるの家」の取り組みです。

 


■べてるの住居と仕事


「べてるの家」は精神障害者の地域活動拠点です。ここでは「べてるの家」のことを「べてる」と呼ぶことにします。

 

べてるの始まりは浦河赤十字病院精神科病棟を退院した仲間たちが「回復者クラブどんぐりの会」を始めたことに遡(さかのぼ)ります。1978年のことでした。

 

精神病院を退院したものの、これからどうやって生きていったらいいのだろうと、どの人も大きな不安を抱えていました。そして、仲間と何度も話し合いを続けた結果、自分たちが抱える精神障害という困難だけでなく、過疎化が進む浦河町の困難も同じようにわが事とできる「精神障害を持った町民」として活動をするのはどうだろうと思い至りました。

 

べてるでは、地域で暮らす精神障害の当事者に「住まいの提供」「働く場の提供」「ケアの提供」を行うという、3つの取り組みがあります。

 

精神障害の人に服薬は欠かせません。また発達障害、今の言い方では自閉スペクトラム症で、重い知的障害の人もいます。そんな人は独居よりも集団で暮らす方が過ごしやすいのかもしれません。まず、そうした人たちのための共同住居を整えました。住まいの確保です。

 

浦河の特産品は日高昆布です。最初は浦河の人びとから昆布を袋詰めする下請けの仕事をもらいました。働き手が足りない一地方で下請けの申し出は好都合だったでしょう。その一方で浦河の人びとは「精神障害を持った町民」にどれだけの仕事ができるのだろうと疑っていたのかもしれません。事実、袋詰めの下請けの仕事はやがてなくなりました。しかし、自前ではじめた昆布の産地直送が事業として発展し、働く場の確保につながりました。

 


■ピア・カウンセリングを中心とした、べてるのケア


べてるにはいくつもの理念があり、そのひとつが「三度の飯よりミーティング」で、また「手を動かすより口を動かせ」というものもあります。


 

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<三度の飯よりミーティング>

「話し合う」ということは、大切な自己表現の場であると同時に、支え合いの場でもある。

べてるのメンバーが精神障害という病気をとおして経験してきたさまざまな危機は、「表現することの危機」でもあった。その意味で、話し合いの質が一人ひとりの生活の質に影響を与える。そしてその影響は、べてるの家ばかりでなく、べてるに連なるさまざまな人のつながりや、その場全体のコミュニケーションのあり方にも影響を与えるということを経験的に学んできた。

だから、「三度の飯よりミーティング」という理念に象徴されるように、ミーティングはべてるの家の生命線であると同時に、一人ひとりにとっての暮らしの生命線でもある。

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(「社会福祉法人浦河べてるの家」「べてるの家の理念」より引用)

 

 

この「三度の飯よりミーティング」や「手を動かすより口を動かせ」は、わたし流に言い直すなら、第20回「地域で暮らす」で書いた「ピア・カウンセリング」です。

 

医療人類学的には「素人の知識」と言えるでしょうか。わたしたち障害者は医師や看護師といった医療の専門家ではありません。しかし、専門家には分からない、当事者だから分かるということがあるものです。ときには、障害者や難病者がお互いに相談に乗り、当事者でなければ気が付かない、実感として理解し合えることをアドバイスし合う姿勢が必要です。べてるも同じだと思います。これはケアの確保です。

 

べてるは精神障害者が見る幻覚や妄想を(しかも、当事者自身がおもしろがって!)互いに披露し合う「幻覚&妄想大会」や、当事者の経験を仲間と共に「研究」とし、分析し合う「当事者研究」など、先進的な取り組みで注目を集めています。ちなみに「幻聴さん」の声の主は「いなくなると寂しい」ので、薬で消すのではなくお友だちとしてうまく付き合っているそうです。

 


■べてる、防災訓練へ


このように特色豊かなべてるですが、「障害特性を積極的に活かして、障害者が地域住民と共に防災に奮闘(ふんとう)」する機会が訪れました。浦河町地域の皆さんといっしょにやる防災訓練です。

 

浦河町は地震の頻発地域です。その上、海がすぐ近くにあります。安心して暮らすには、まず地震と津波からどうやって避難するかを取得しておく必要があります。しかし、練習(防災訓練のこと)をしていなければどうしてよいか分からず、混乱してしまいます。事実、2003年に起こった十勝沖地震では、浦河赤十字病院やべてるのスタッフが、おのおのの住居を回って高台への避難を促したそうですが、睡眠導入剤を服用していた人は地震に気付かずに眠ったままでしたし、長期入院から退院したばかりの人は緊急事態だと認識できず避難を拒否したそうです。

 

幸いこのときは支援スタッフと共に共同住宅に住む仲間からも促されて全員避難できたということですが、べてるではこの失敗を教訓に地震と津波に重点を置いた非常災害時の防災プロジェクトを2004年から行うようになりました。この防災プロジェクトには浦河町行政と国立身体障害者リハビリテーションセンター研究所(国リハ)、それに支援技術開発機構(ATDO)が協力しています。

 


■仲間と行う防災訓練で幻聴を克服


精神障害者は普段から生活技能訓練(SSTsocial skills training)をしています。SSTとは、その人が、その人らしい生活を取り戻すための訓練です。ロールプレイをしながらコミュニケーションのしかたを練習します。

 

べてるではこれを障害者が相互に行います。生活上の課題に対しても仲間たちと話し合い、それぞれが対処方法を編み出そうとする実践活動と位置づけているのです。不安があっても「学べばいい」「練習すればいい」「研究すればいい」という共通認識を確立させるものだそうです。

 

このSSTを防災訓練に応用しました。

 

練習する前は、津波注意報が聞こえても危険だと思わなかったり、危険だと分かってもどうしてよいか分からなかったのが、国リハの研究スタッフから「過去の浦河町のデータから津波は4分以内に10メートルの高さまで押し寄せる」と具体的に教えてもらい、「避難は4分以内に10メートル以上の高さの高台へ」を目標に何度も練習をかさねて、克服できたそうです。

 

十勝沖地震のときは、頭の中に「幻聴さん」が表れ、「逃げるな」と言ったので逃げることができなかった人がいましたが、この練習をしてからは、「いっしょに逃げよう」と「幻聴さん」に呼び掛けると、「幻聴さん」もそれならといっしょに逃げることができたそうです。

 


■マルチメディアDAISY(デイジー)の活用


もうひとつ、国リハの研究スタッフから教えてもらったことがありました。それはマルチメディアDAISY(デイジー)の作り方です。

 

精神障害者には「幻聴さん」と共に、頭の中に世の中のことをマイナスにばかり考えてしまう自動思考「お客さん」がよくいます。「お客さん」がいるとその相手もしなければならず、せっかく地図の上に避難経路を描いてくれたとしても集中できません。そんなとき、頼りになるのがマルチメディアDAISY(デイジー)です。

 

マルチメディアDAISY(デイジー)は、音声を吹き込むと、その音声と音声を表す文字、そしてその場面に沿った絵や写真を表示します。音声と文字、絵や写真は互いに同期しており、読み上げた音声に従って文字が黄色にハイライトされます。

 

精神障害者は認知が困難なことがありますが、いつもの仲間と会話すれば普段の自分に戻れると言います。マルチメディアDAISY(デイジー)によって、複数の感覚器官に同時に働き掛けが行われ、仲間の声が聞こえたり、仲間が写真に写っている様子を見ることにより、本来の自分を取り戻し、集中して避難経路を確認できるのだと思います。

 

ATDOの河村宏さんはマルチメディアDAIS(デシジー)の開発に関わった有名な方です。河村さんは浦河町を訪れて次のように言います。



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浦河町は地震の多いところですが、幸いこれまで津波や土砂災害による甚大な被害を受けることはあまりありませんでした。おそらく、町の皆さんも地震・火事への対策ほど、津波被害についてどこが安全でどのようにすれば危険から逃れられるか具体的に話し合う機会がなかったのだろうと思います。(中略)べてるの家の皆さんがきめ細やかに、グループ・ホームとかニューべてるからの避難をし、自分で努力すれば確実に安全を確保できる方法を見つけてきているのは、大きな意味があります。(中略)こういうときにここに逃げれば安全なんだということを皆さんが体で覚えていること、そして全員が同じ方向へ逃げていき、こっちへいけば安全なんだと思えることは、とても安心感があります。(中略)DAISY(で作った)避難マニュアルで『ここの交差点を右に曲がります』などと言っているのはとても意義があります。全員でひとつの流れになれば、避難そのものが安全になっていくからです。それを多くの人、地域のみんなで確認しておくのが重要でしょう。地元の人が同じ方向へ避難していれば、(地理に不慣れな)旅行者が来ても、一緒に逃げながら、こっちにいけば安全なんだということがわかります。

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「べてるの家の防災プロジェクト2008Area」から、一部改変の上、引用)

 


■津波避難のエキスパートとなったべてる


警察署の交通課長は、べてるの避難訓練を見て感心したそうです。べてるの人が車いすの人をかばいながら、黙もくと避難所へ急ぐ姿を見て驚いたというのです。

 

浦河町の職員は、べてるの退避行動を評して、自主訓練の行き届いているべてるの人には、今まで以上の配慮が必要だとは思いません。それよりも、せっかく集団行動をしているのだから、訓練のときに赤い誘導灯を持ってくれたら町民もどちらに逃げたら良いのかがよく分かる、と言ったそうです。

 

こうして、べてるは、被援助者から、今や地震や津波避難のエキスパートになりました。町で津波防災に関する一番の物知りになったのです。何も特別なことをしたわけではありません。精神障害者が日ごろから気を付けていることや、とっさの場合に忘れがちなこと――例えば避難している間のくすりの準備など――を仲間で述べ合い、工夫を重ね、苦労を分かち合う、その延長でした。

 


■これからの課題


当然ですが、これからの課題もあります。それは地域の人びとと過ごす避難所での生活です。精神障害者は他の人とコミュニケーションを取ることが苦手です。何日間も町の人といっしょに過ごさなければならない避難所の生活は辛いでしょう。それをどうするかは今後の課題です。

 

普段の生活でも地域の人といっしょに暮らすというのは、わたしたち障害者にとっては、とても重い課題です。同時に大切な課題でもあります。べてるの皆さんのように、それを解決する糸口をつかんだグループは、まだ少ないと思います。多くのグループは試行錯誤の途中かもしれません。また社会に向けて自分たちの障害を理解してほしいと訴えることに忙しくて、とても他の障害者や非障害者の安全までは気が回らないという場合も多いでしょう。

 

しかし、障害者にも非障害者と同じだけの人生の可能性があるはずだと信じるのなら、いつか解決しなければならない問題です。


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今回の原稿は「社会福祉法人浦河べてるの家」©2021 Bethel.or.jp「べてるの家の防災プロジェクト 2008(社会福祉法人 浦河べてるの家, 2009「北海道べてるの家に学ぶ地域防災」AJU福祉情報誌 No.109)(社会福祉法人AJU自立の家, 2010)を参考にさせていただきました。


第20回はこちら


日本人の死因ダントツの1位は悪性新生物、いわゆる"がん"です。およそ2人に1人はがんに罹患し、3人に1人ががんで亡くなる現代にあって、誰にとっても非常に身近なものであり、医療従事者として働くうえで基本中の基本として、避けては通れない「学びの対象」でもあります。本連載で、がんに関連する各種メカニズムについて体系的・視覚的に解説していきます。2019年7月~2022年5月 連載.

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本連載が単行本になりました!

 

第1回 死亡率から捉える、がんで死ぬということ

第2回 部位別に注目! がんの「治りやすさ」とは

第3回 がんが生命を奪う3つの特徴

第4回 がんは「どこ」で生まれるか

第5回 がんの年齢調整死亡率

第6回 がん死は減っている

第7回 がん遺伝子とがん抑制遺伝子

第8回 エピジェネティクスという奇跡

第9回 がん家系と遺伝のメカニズムとは

第10回 生活習慣と発がんのメカニズム

第11回 感染症とがん発生のメカニズム

第12回 肝炎ウイルスと発がんのメカニズム

第13回 B型肝炎ウイルス(HBV)の悩ましさ

第14回 子宮頸がんとワクチンをめぐるメカニズム

第15回 がんのできやすさは臓器で異なる

第16回 臓器の「暗黒大陸」小腸とがん

第17回 二次予防の砦! がん検診のメカニズム

第18回 がん検診でどれくらい死亡率は下がるのか

第19回 がん検診にはデメリットもある

第20回 「過剰診断」はなぜ起きるのか

第21回 がん検診で注意すべき4つのバイアス

第22回 肺がん検診のメカニズム

第23回 胃がん検診のメカニズム

第24回 ピロリ除菌のメカニズム

第25回 ピロリ菌感染率と胃がん検診

第26回 大腸がん検診のメカニズム

第27回 続・大腸がん検診のメカニズム

第28回 乳がん検診のメカニズム

第29回 子宮頸がん検診のメカニズム

第30回 続・子宮頸がん検診のメカニズム

第31回 前立腺がん検診のメカニズム

第32回 腫瘍マーカーのメカニズム

第33回 PET検査のメカニズム

第34回 続・PET検査のメカニズム

第35回 発がんに関わる放射線と被ばく

第36回 医療被ばくの発がんリスクとは

第37回 CTとMRIを使い分ける理由

第38回 がんの初発症状と腫瘍随伴症候群

第39回 がん病理診断のメカニズム

第40回 治療方法を選ぶメカニズム

第41回 続・治療方法を選ぶメカニズム

第42回 インフォームドコンセントのメカニズム

第43回 セカンドオピニオンとドクターショッピング

第44回 がんの外科療法のメカニズム

第45回 がんの外科療法を選択するメカニズム

第46回 がんの薬物療法のメカニズム

第47回 続・がんの薬物療法のメカニズム

第48回 薬の費用対効果評価とは

第49回 続々・がんの薬物療法のメカニズム

第50回 がんの放射線治療のメカニズム

第51回 続・がんの放射線治療のメカニズム

第52回 がんの免疫療法のメカニズム

第53回 がんの緩和ケアにおける痛みとは

第54回 続・がんの緩和ケアにおける痛みとは

第55回 がんの治療効果を判定する

第56回 がんの在宅医療と地域包括ケアシステム

第57回 がんの在宅医療と地域医療構想

第58回 平穏な最期のためのアドバンス・ケア・プランニング(ACP)

第59回 医療者が、がん患者のためにできること

 

 *ガストロペディア【消化器に関わる医療関係者のために】でも公開情報共有*

 

第20回 地域で暮らす

ALS患者と声の役割


あるALS(筋萎縮性側索硬化症:きん・いしゅくせい・そくさく・こうかしょう)の方が、「声は自分のものだが、けっして自分ひとりのものではない」とおっしゃいました。わたしはこの言葉を聞いて、ALS患者が言葉を喪失するときの思いは、失語症者に似ているんだと感じました。

 

ALSは全身の運動ニューロン(神経)が、だんだん衰えていく病気です。手足と共に、のどの筋肉も衰えていくので、病気が進行すると声が出せなくなるのです。声を「けっして自分ひとりのものではない」と言った方は、声を失うと、声でつながる人と人のネットワークも失われてしまうと言っているのです。この方にとって「声」は、多くの人と結びつくためのネットワークの要(かなめ)でした。だから「けっして自分ひとりのものではない」のです。

 

ALS患者と失語症者、それぞれの声


高次脳機能障害も、その一部の失語症も、言語音(げんご・おん)が出し難いというところはALSとよく似ています。一方、違うところは、失語症者は言葉を出しにくいのではなく「ぴったりした単語が見つからない」というところです。

 

ALS患者は、運動ニューロンは衰えますが、頭はクリアなままです。その意味でALS患者は、最初から「ぴったりした単語は見つかっている」のです。ただそれを、「発声」という形で表現することはできません。失語症者は「ぴったりした単語が見つからない」のですが、それでもタイミングが合えば、「ぴったりした単語」は見つかることがあります。頭の中の貯蔵庫に収納されてはいるのです。

 

先のALSの方がおっしゃるように、声は人と人のネットワークの要です。人と人は、声を掛け合うことで楽しい時間を共有できます。いっしょに働くこともできるのです。

 

何も肉声である必要はありません。最近の人工合成音声は肉声と聞き間違えるほど滑らかなものができています。有名な免疫学者の故・多田富雄さんは脳梗塞で声を失ったとき、一音ずつ五十音が出る鍵盤のようなものでお孫さんと会話するのが楽しみだと、どこかの雑誌に書かれていました。また、多田さんは、発声ができなくなって以後も、大学のセミナーには普通に参加されていたようです。若手の研究者や大学院生の研究内容に辛辣(しんらつ)な意見を述べられていました。その姿をテレビで拝見したことがあります。

 

■失語症者と介護保険制度のねじれた関係


多田さんのような著名な学者でなくても、以前はコミュニケーションを、失語症の「友の会」で取ることができました。ところが、失語症の当事者会や家族会の活動は下火になっていると聞きます。

 

理由は介護保険制度とのことです。介護保険制度ができたことで、高齢者であれば「友の会」に参加しなくても、福祉サービスが受けられるようになったからです。それと参加者の高齢化で、実質的に会を運営していける人がいなくなった(原山・種村, 2020)ことも理由にあるようです。

 

介護保険は2000年に施行された国の社会保険制度です。国の制度以外にも民間の保険会社が提供している介護保険もありますが、ここでは民間の介護保険は置いておきます。

 

介護保険制度は、介護が必要な高齢者のためのものです。介護士の方が、利用者の家を訪問して介護を行ってくれたり、介護まではいかなくとも、いろいろ援助をしてくれます。施設での介護が必要であれば、入所まで面倒をみてくれることもあり、医療にもつなげてくれます。

 

介護保険を利用できるのは65歳以上の高齢者だけですが、40歳以上でALSやパーキンソン病など「老化に起因する疾病(指定の16疾病=(介護保険制度でいう)特定疾病)」であれば、介護保険制度の対象になります。この特定疾病に脳血管障害が含まれているのです。なので、失語症者は介護保険を受けられるということになります。

 

でも待って下さい。脳血管障害によって高次脳機能障害者、失語症者となっている人は、40歳以上の人に限りません。それに高齢者でも、受給資格があるのに受けていない人は、結構いるはずです。

 

わたしの知っている青年は、高校生のときに脳梗塞になり後遺症が残りましたが、いたって元気で、介護を受けるどころか、がんばって大手企業に入社しました。

 

また別の高齢女性は、若い頃の脳内出血で重度の聴覚失認があり、肉声でコミュニケーションが取れません。でも ICTInformation and Communication Technology:情報通信技術」を活用してコミュニケーションを取り、(失語症の「友の会」ではなく)一般の市民団体に参加して、積極的に飛び回っておられます。

 

かく言うわたしも、介護保険料はずっと払っていましたが、65歳を過ぎてからも一度もお世話になったことはありません。本当に必要ならば使えばよいですし、使うのは当然の権利なのですが、(今のところ)わたしには必要ないようです。

 

■若い失語症者の集い


40歳までの若い失語症者が集(つど)う会があります。若い方々の集まりの話題で、高齢者中心の「友の会」と決定的に違うのは、「就労」の問題です。皆さん若いので、働いて社会人として生活したいという希望があります。勤労によって自力でお金を得るという喜びも必要です。

 

しかし、障害者の就労は、せっかく障害者雇用促進法があるのですが、相変わらず進んでいません。特に失語症者は「コミュニケーションが難しい」と見なされるので、就労が難しいのだと思います。ちなみに「障害者雇用促進法」は、「身体障害者雇用促進法」という名称で1960年に発布されています。その後、知的障害者や精神障害者も含まれました。1960年と言えばかなり昔のことです。その間、日本では「障害者」をどう扱ってきたのでしょう。不思議な気がします。

 

若い失語症者の集いについてネットで調べてみると、集まる目的は、まず「仲間づくり」となっています。次に「仕事」や「就職」、その次に来るのが、未婚者は「恋愛や結婚」、既婚者は「子どもの成長・家庭の問題」となっています。そして最後が「親からの独立」です。

 

「仲間づくり」が、集まる理由の第一に挙げられているのは、失語症になると社会から孤立しがちになるということでしょう。未婚者の「恋愛や結婚」が上位に挙がっているのも同じ理由だと思います。その一方で「親からの独立」が挙がっているのは、それでも社会に出たいという願望の表れなのでしょう。

 

「仲間づくり」では、「同病のよしみ」や「自分の方が重いんだぞ!」といった「病気自慢」もあるのかもしれません。しかし、そんなことよりも、そのコミュニティに参加すれば、つかえながらも会話ができるというメリットが大きいと思います。それが許される人間関係が大事なのです。

 

一般の社会では「つかえる会話」や「たどたどしい会話」は受け容れられません。企業では特にそうです。それだけ人びとは「せわしない」「落ち着かない」社会に暮らしているのでしょう。

 

■失語症者のピア・カウンセリング


集いでは、皆さん、たどたどしくても何かを伝え合います。「溜まっていたものが発散できる」のかもしれません。「恋愛・結婚」や「家庭の問題」「独立」などの話題が挙がるということは、信頼できる人間関係がそこにあるということです。これは「ピア・カウンセリング」に結びつきます。

 

「ピア・カウンセリング」とは、障害者や難病者がお互いに相談に乗り合っているさまを表します。当事者でなければ気が付かないことを、実感として理解し合えることが大きいのです。もちろん障害者や難病者は医療関係者のような専門家ではありません。しかし、専門家には分からなくて、当事者だからこそ分かるということがあるものです。

 

世のなかには、医学的にあいまいなまま留まっていることもあります。医学の進歩は日進月歩ですが、研究には分からないことが付きものです。わたしは、医療には「専門家の知識(professional knowledge)」とは別に、「素人の知識(lay knowledge)」でのピア・カウンセリングが必要だと思っています。「専門家の知識」や「素人の知識」は医療人類学で使う言葉です。地域の人間関係や家族・親族の中で「素人の知識」が人を救うこともあるのです。

 

■地域における多様な人の相互理解


また、若い失語症者の集いは、高齢者の「友の会」とは違って「自分たちだけで集まる」、つまり「脳血管障害者や脳挫傷を起こした人しか集まれない」形ではないようです。積極的に当事者以外の人へも参加を呼び掛けています――新型コロナ禍だからかもしれませんが、参加の呼び掛けに「Zoomで参加できる」としていた会がありました。

 

同時に感じたのは、当事者以外の人に参加を呼び掛けたのだから、自分たちも地域の人に溶け込んだ活動ができればもっと良いということでした。これは「失語症のことを理解して欲しい」という自分たち本位の態度を取れと言っているのではありません。「失語症のことを理解して欲しい」のであれば、当然「失語症でない人のことも理解しなくてはならない」のです。これは本来、地域で暮らすために必要なことです。

 

日本精神障害者リハビリテーション学会の野中猛さんが、『心の病 回復への道』という本の中に書かれていたのですが、先進国よりの発展途上国の方が、精神障害者の回復は早いのだそうです。日本などでは、いったん「精神障害者」になってしまうと、一生、元「精神障害者」としてのレッテルを貼られるのですが、発展途上国では急性期に投薬するだけで、その時期を過ぎると「普通の人」として特別な扱いはしなくなるとのことでした。

 

日本のように医療が「精神障害者」を抱え込み、地域がその人たちを特別視する社会は、ある意味、特殊だと言えるのかもしれません。「失語症者」も同じだと思います。障害がない人と違うところはあるに違いありませんが、それを越えて同じところを探す方が、地域で暮らす上では有益だと思います。

 

それにしても、高齢者ばかりが目立つようになった多くの既存の失語症「友の会」は、これからどうなっていくのでしょう。介護保険制度にばかり頼るのも考えものです。介護の必要な人も参加されているのは事実ですが、元気な失語症高齢者も多くいます。それにこれまでは、仮にも「友の会」の運営を主体的にこなしてきたのです。

 

若い失語症者の集いについて指摘したように、わたしは地域に開かれた会とかコミュニティにすることが第一だと思います。「失語症のことを理解して欲しい」のなら「失語症でない人のことも理解しなくてはならない」のです。それは本来、地域で暮らすためには、どなたにとっても必要なことです。

 

必要ならば人に頼ることは必要です。人に頼り、頼られるのが社会です。でも「失語症者」は地域で暮らす普通の人だという当たり前のことを忘れないようにしたいのです。

 

1)原山 秋・種村 純(2020)失語症友の会の加盟団体数の推移とその関連要因の検討高次脳機能研究40: 432-436

2)野中猛(2012)心の病 回復への道.岩波新書1373


19回はこちら


第6回 迷子

不思議と雨が降ることが多い、毎月第3土曜日開催の「おれんじドアはちおうじ」。

この日は珍しく快晴でした。


久しぶりの心地良い気候がうれしくて、早めに家を出ました。

平日に当事者スタッフとして勤務しているデイサービス「DAYS BLG !」に顔を出してみようか、その後、たまにはひとりでゆっくりとランチでもして......なんて考えながら支度し、自宅を出ました。

 

最寄駅のプラットホームに入ってきた電車は思いのほか混んでいて、人混みにまみれるような状態。体調に不安があったので空いていた優先席に座り、トラブル防止のため、手作りしたヘルプマークをかばんにぶら下げます。

揺れる車内でスマホ片手に、仕事などのご依頼メールに目を通しました。人の波がドッと降りたところで、画面を見たまま「立川駅だな」となんとなく考えました。

 

八王子駅まではまだしばらくかかります。今日のおれんじドアはちおうじではどんな出逢いがあるだろうと、楽しみに想像を膨らませていました。

 

ふと、車窓からの景色が目に飛び込んできます。

「見覚えがない!」と慌てて飛び降りました。

 

その駅は、やっぱり初めて見る景色です。

あたふたしながら、Facebookで「迷子中」という投稿をしました。


そこからの記憶は曖昧です。

普段ならば落ち着いて、人に尋ねたり、スマホを利用して地図アプリで位置を確認したりします。それすら頭に浮かばなかったことを思うと、その日の自分の混乱ぶりが想像できます。


記憶に残っているのは、立川駅の改札口を通過したときに、「なぜわたしは立川にいるんだろう?」と思ったこと。それから八王子駅の改札口に、どんな風に移動したかは定かではありません。

 

改札口に佇んでスマホを手に取ると、たくさんの着信とLINEなどのメッセージが届いていました。わたしは慌てて、それらを開封して目を通し、なんとなくその日の状況をつかみます。


そして、おれんじドアのスタッフに八王子駅の改札口にいることを連絡しました。


「失敗するのは、自分だけじゃない」


すぐにお迎えに来ていただき会場に着くと、認知症地域支援推進員(以下、推進員)のみなさんがホッとした表情でわたしの顔を見上げてくださいました。わたしも少し恥ずかしく思いながらも、ホッとしました。

集合時間は過ぎてしまいましたが、オープン前にはスタンバイ完了。

 

今日はこんなスタートで、本調子ではないことが不安になり、「誰も来なければいいなぁ......」なんて考えましたが、開催時刻になると、認知症のあるご本人がおひとり、元気よくお見えになりました。

 

そのお顔を見て、その日のわたしも少しずつ自分の役割や立場などを思い出し、状況を飲み込んで、いつものように「おれんじドアはちおうじのさとうみき」として対応ができていたと思います。

 

わたしは、お会いしていきなり「何か不安なことがありますか?」と伺ったりするのではなく、雑談など何気ない日常の話を大切に、表情などからなんとなくその方の様子を伺います。

この経験は、大変だった子育てで培われたものだと感じています。

 

前半の記憶は曖昧ですが、記録を見ると、この日わたしは来場くださったご本人に、自分がここに来るまでに迷子になり、どんなに不安だったかという想いと、周りのサポートでここに来ることができたことなどをお話しした様子です。

当初は、目の前にいるわたしが認知症の診断を受けた当事者とはなかなか理解し難い様子だったご本人も、その話を聞いてココロをふっと通わせたように軽い表情となり、いろいろな想いをお話ししてくださいました。

 

同席している推進員の方々も含めて、そこには、「失敗してもいいんだ。自分だけではないんだ」「大丈夫」という空気が自然と流れていたのではないかと思います。

それはわたしだけではなく、ご来場くださったご本人にも感じられたことでしょう。

とても心地よい場になっていたのではないかと、記録を見返して感じています。

 

わたしが席を立っていた間、ご本人が推進員の方にこんな話をしてくれたそうです。

「目の前にいたさとうさんが、初対面で会ったばかりなのに、自分のために恥ずかしい、失敗した話を笑ってしてくれた。自分だけではないんだと思った。不安な気持ちを素直に話してくれた、その気持ちが嬉しかった」

 

この方は、最初は言葉少なく、緊張からか表情もどこか硬さがありました。

しかし、後半は笑い、書類をなくしてしまう話など、ご自身の失敗談をしてくださいました。

わたしは書類などの管理の難しさに共感しつつ、自分が実際に行っている工夫を話したりと、お互いの話題が尽きなくなりました。

 

大切なことは、相手にリラックスしていただくこと。

そのためには、まずは自分からココロを開くことです。その想いが伝わるとご来場くださった本人もリラックスし、ココロを開き、語りの場となり、それがお互いによい効果をもたらすのではないでしょうか。

 

DAYS BLG !など、ほかの活動でのご本人との関わりなども通して、日々模索しながら頭の中で描いては、記憶が薄れてゆく......。

そんな決まった「カタチ」はない、おれんじドアです。

だからこそ、そのときの雰囲気に合わせた場づくりが大切!と心がけています。


おたがいさまの関係があるから


この日、推進員のみなさんは、わたしの体調を気遣って休憩をとるように促してくださいました。

しかし、たった2時間。

この日もわたしは、休憩を必要と感じないほど、すべてのパワーをこの時間に費やしました。

毎回、終わった頃は、とてつもない達成感と次回への希望、そしてまだお会いしていない、不安を持っているであろう認知症当事者の方々への想いでいっぱいになります。

そのような方々との出会いは、どのようにしたらつくれるのだろうかと、日々考えながら、次回のおれんじドアへの想いを巡らせています。

 

初めておれんじドアに足を運ぶときは、ご本人も、ご家族も緊張されることでしょう。わたしも、初めての方にお会いするときは毎回緊張します。

それでも、ここまで足を運んでくださったことへの感謝を感じながら、お話しをします。そして、いらしたときの緊張感が、帰られるときには消えていて、リラックスした空気をまとわれている背中を見るとき、わたしは次回へ向かうエネルギーをいただくのです。

 

だからわたしは、ご来場の方が見えなくなるまで、「今日はこれでよかったのだろうか」と思いながらも、お見送りをしているのかもしれません。

足を運んでくださったご本人を、わたしが笑顔に、元気にしているのではなく、わたしもたくさんの気づきや想いをいただいている、「おたがいさま」の関係なのです。

 

おれんじドアはちおうじでは、今回のように、行政が関わりつつも、前面に出るのではなくサポートをしてくれる体制で、わたしを優しく包み込んでくれています。

わたしが安心して、ひとりの当事者としてピアサポート活動に専念できていることに、感謝しかありません。


■フィリピンの先住民アエタについて

 

吉田舞さんの『先住民の労働社会学―フィリピン市場社会の底辺を生きる』(吉田, 2018)という本を読んでいます。この連載の執筆のために読んだというわけではありません。狩猟採集民と都市環境の関係という、どちらかというと民族学に根差した興味から読んだのです。

 

この本を読んでいると、わたしにとっては、今さらながらですが、都市の経済社会に取り込まれた先住民の困難さと障害者の困難さには似たところが多いと気がつきます。「今さらながら」と書いたのは、ずっと以前から<障害者>の社会的立場は、さまざまな少数民族と似ている気がしていたからです。

 

フィリピンのルソン島にはアエタという先住民がいます。フィリピンに多く住むのは「マレー人」と総称される直毛が多い人たちですが、アエタは「マレー人」よりもずっと肌の色が濃く、巻き毛で、身長も低い人たちです。そのため「小柄で黒い人」という意味の「ネグリト」と呼ばれることがあります。

 

アエタは少数民族で、自分たちの言葉を失った人たちです。同じ島に住む「マレー人」と似た言葉を母語にしています。このことは、わたしには不思議でも何でもありません。アフリカのピグミーも同じでした。ピグミーはバンツー農耕民の古い言葉を母語にしていました。

 

もうひとつピグミーと同じなのは、アエタが狩猟採集をしていることです。一方、ピグミーと違うこともあります。それは、焼き畑農耕をすることです。ただ狩猟採集にしても、焼き畑農耕にしても、貨幣や時間の感覚とは無縁です。アエタはひたすら子どもが無事に成長することを祈り、里芋やバナナの実りを見守ります。時間を気にすることはありません。元気がないときは無理をせずに休み、また元気になってから、精一杯働くのです。

 

■現在に投げ出されたアエタ

 

そんなアエタの生活に大変なことが起こりました。1991年に起きたピナトゥボ山の大噴火です。

 

これは、20世紀で2番目に大きな噴火だとされています。山の上近くまであった森は火山灰に埋もれ、アエタは住む場所を失いました。それまでは差別されることを恐れて「マレー人」の多い平地民とは接触しないようにしていましたが、噴火によって嫌でも平地に下り、平地民の中で暮らさざるを得なくなったのです。平地民の社会はグローバル化した市場経済社会です。農耕の始まりは1万年程前だと言われていますから、人間は狩猟採集の生活から1万年という時間をかけて市場経済を発見したのです。ところがアエタは噴火という自然災害によって、狩猟採集生活から現在に、一気に「投げ出された」のです。



図1 フィリピンの地図





図2 ピナトゥボ山周辺の地図 

 

それにしても障害者の困難がアエタの困難と似ているとはどういうことでしょう。

 

■障害者の困難とアエタの困難は同一か?

 

障害者と一口に言っても、さまざまな人がいます。なぜなら<障害者>とは<非障害者>の対立概念だからです。「<非障害者>でないのなら、とりあえず<障害者>に入れておけばよい」。

 

また<障害者>とは医療行政上の枠組みでもあります。誰が行政サービスを受けるのか、行政はその優遇措置を執るために<障害者>に属す人を決めておく必要があります。<障害者>にはさまざまな障害種別の人がいるのだから、「アエタと<障害者>が似ている」というと誤解を招きかねません。少数民族であるアエタの立場からも、社会的マイノリティである障害者の立場からも、そんなことはなかなか言えないのです。

 

躊躇しました。そこで、ここは<障害者>のなかでも、わたしの場合ではどうだろうと考えてみました。わたしと同じ障害を持つ人からは文句が出るかもしれませんが許して下さい。わたしも気にしないことにします。ここでは自分を例にとって比べてみます。



 

 

■わたしをアエタと比べてみる

 

まず見かけです。アエタは身長が低く、毛が縮れていて、暗褐色の肌をしています。わたしは右半身にまひがあり、歩き疲れると右足を引きずります。どちらも一目で分かります。今は気にならなくなりましたが、後遺症の初期には人の目が気になりました。

 

アエタの母語をマガンチ・アエタと呼ぶそうです。先にも書きましたが、これはアエタ本来の言葉ではなく、「マレー人」の言葉です。「ピジン語」とか「クレオール」という呼び方はよく知られていると思います。これは、イギリスやフランスが植民をした時に、英語やフランス語が現地の言葉に影響を与え、また影響を受けて変形して出来た言葉のことです。

 

マガンチ・アエタも「クレオール」一種だと思います。わたしがアフリカの村人から習い憶え、使っていた「アフリカ訛りの強いフランス語」というのも、「クレオール」の一種だと言えるのかもしれません。

 

一方、障害者としてもわたしは関西訛りのある日本語をしゃべります。しかし、連続してしゃべるのは1時間半が限度です。1時間半というのは講義1コマの時間です。1時間半を越えると失語が出始めます。これは「便利なタイム・キーパー」だとも言えます。調子に乗って講義時間が過ぎないように、失語の出方で調節ができるのです。

 

わたしよりも失語がひどい人は、ゆっくりとですが、独特のしゃべり方をします。「そう。だからね......、あのね......、(腕を指さして)これがね......、(指で焼き物を指して)これ。ね(と、穏やかに笑う)」といったように。この人が言いことは「そう。だからね、自分の焼き物は評価されているので満足しています」という意味です。これを「正しい日本語ではない」と言って直そうとする人がいますが、考えようによっては、これも「失語症者のピジン語」だとか「失語症者のクレオール」と言えるのかもしれません。

 

狩猟採集や焼き畑農耕では必要があれば多く働き、必要のない時は仕事を止めてさっさと切り上げます。アエタには「勤務時間」という概念がないのです。

 

これは元来の人の時間の過ごし方です。ですからアエタに「勤務時間」を守れというと、とんでもないストレスを与えます。わたしはと言うと「勤務時間」のことはよく知っていますが、易疲労性のために連続して作業ができません。これも、障害者になって分かった自然なストレスかもしれません。

 

■市場経済の中でもがくアエタ

 

市場経済の下で働こうとすると、字が読める・書けるということは必須条件になります。また簡単な四則演算も必須条件です。しかし、アエタはこれができません。学校に通った経験がないからです。

 

突然、市場経済に「放り出された」アエタは、字を知らない・足し算/引き算ができないという理由で職を得る機会を奪われます。また運良く職に就けたとしても、労働者にとって大切な「契約書」はおろか、休日はいつで、給料はいくらといった約束事もあやふやになりがちです。雇用主によっては、ろくに給料も払わず、休日の保証もしないということさえあるのです。事実、吉田舞さんの『先住民の労働社会学』には、イヌの世話係として雇われたけれど、毎晩、イヌといっしょに寝ることを強要されたアエタの少年の話が出て来ます。

 

このような都市の市場経済をアエタはどのように感じているのでしょうか。山に帰って火山灰を取り除き、焼き畑耕作を始めた人もいました。しかし、大勢のアエタは市場経済を受容しようとしています。

 

してはいますが、適応しきれないというのが本当のところでしょう。すでに説明した識字の問題もそうですが、貨幣を数えるのにも訓練が必要です。若いアエタなら早く取得できるのでしょうが、中年や老人はお金をうまく数えられない人がいてもおかしくはありません。カメルーンでわたしの森のお師匠さんだったピグミーの老人も、お金は数えられませんでした。

 

もちろん福利厚生などない場合が多いのです。それどころか、ホームレスになるアエタもいたということです。わたしはというと、公立大学の教員でしたので契約や福利厚生は安定していました。これは中途障害者の怪我の功名です。しかし、生まれつき障害があったのなら、たとえ日本でも、わたしは職に就くこと自体が難しかったはずです。

 

一方、アエタがアエタであるがゆえに、市場経済社会で有利になる点がありました。それは「先住民を売りものにした観光業」です。吉田さんは20名のアエタの職業や収入を調べていますが、その内のひとりは、観光業に就いていた50歳代の男性でした。正規職員として勤めていたので、当然、通常の給与以外に残業代が支払われます。アエタの中で、その男性はもっとも収入があった人でした(吉田, 2013)。他にもガイドや民族衣装のモデルという人もいましたが、いつでも仕事があるというわけではなさそうです。

 

「集落へ電気が供給され、交通手段が整えられると、外資系の所有者によるリゾート施設が建設された。観光地と化したサパには、アエタとの交流やエコ・ツアーを謳ったパッケージツアーが組まれて、多い日には一日に100人以上の外国人が訪れるようになった」(吉田, 2018, p.42)そうです。ちなみにサパというのが、アエタの住んでいた森林地域の名前です。

 

観光事業ではアエタの生活を大げさに脚色して見せるのですから、雇用主にとってアエタは「差異を持った、なくてはならない存在」なのです。

 

脚色の程度が問題ですが、「なくてはならない存在」として、自らの「肌の色が濃く、巻き毛で、身長も低い」という見た目が収入に結びつくのなら、そして市場経済のまっただ中で生きていく覚悟があれば、これを利用しない手はないでしょう。観光客に慣れない高齢者も納得してくれるのではないでしょうか。

 

■<障害者>を人類学的に見直す

 

もちろん、アエタの感じる困難と障害者の感じる困難は違います。ただ同じ原因でもたらされている部分もあります。それは市場経済の下で働くときの決まり事が、多数者の都合と習慣で決まっていること、そして、その決まり事に適応できなければ、二級市民の扱いに甘んじなければならないことです。

 

障害者の未来をポジティブに考えるモデルとして、少数民族の権利運動はよい例になりそうです。失敗した権利運動も多いのでしょうが、よい例を探して、そこから「障害者の未来」について学びましょう。

 

それからもうひとつ。<障害者>はさまざまな少数民族と似ているのだから、<障害者>を人類学的に見直すという気運は、もっと広まってもよいのではないでしょうか。これは、わたしの主張です。

 

吉田舞(2013)市場経済との遭遇―フィリピン先住民にみる排除の構造―社会学論考, 34: pp.65-92

吉田舞(2018)先住民の労働社会学―フィリピン市場社会の底辺を生きる風響社, 東京

(三谷雅純 「ことばを失う」の人類学 わたしをフィールド・ワークする 第19回おわり) 

18回はこちら


涙の出方が変。【後編】

『シンクロと自由』刊行記念

村瀨孝生×繁延あさトークイベント

 

の記事は、20211016日、長崎市の「すみれ舎」(障害福祉サービス生活介護事業所)で行われたトークイベントの内容を加筆修正のうえ再構成したものです。当該イベントの内容はこちらで見ることができます。

当日司会をしてくださった編集者/ライターのはしもとゆうきさん、動画を作成していただいた山田聖也さん、会場を快く貸してくださった「すみれ舎」の山下大介さん、そしてご参加いただいた皆様に厚く御礼申し上げます。

*本文中の写真はすべて繁延さん撮影(ⒸA.shigenobu)Ⅲ章の3枚を除いて「すみれ舎」の日常です。

 

【目次】

前編【⇒こちらです

 死ぬまで生きる

 記憶と作話と、複数の自分

後編【このページです】

 母の介護は何の修行か

 事前の思想(コントロール)から、事後の思想(付き合う)へ

 質問コーナー

 



 母の介護は何の修行か

 

◆触れると嫌悪がやってくる

 

繁延 『シンクロと自由』の村瀨さんのお母さんのところ、私はメチャメチャ興味深く読みました。親の介護がむずかしそうっていうのはなんとなく分かるわけですよね。私が介護の資格を取ったときに、親に言ったんです。「介護をするときになったら、全部はできなくても、介護のローテーションの一部にはなれるよ」って。そうしたら「いやぁ、あづさには介護されたくない」って。お互いに、子どもを育てるようにスッと親の介護をできるようには出来てなさそうです。

 

村瀨 ぼくは、母の介護が始まったときは生理的な嫌悪感から入りましたからね。

 

繁延 あの言葉、すごく分かりやすかったです。

 

 介護するために母の体をさわったとき、言いようのない恥ずかしさと生理的な嫌悪が生じた。一緒に歩くために手を握っただけで、そのような感覚が生じていた。

 かつては、ぼくが手を引かれ、陰部を洗われていた。そして長いあいだ、母もぼくも互いの体にふれたことはない。立場が逆転したことに、ぼくの体が慣れていないのだ。混乱し緊張しているのだった。体を委ねる母も、委ねられるぼくも「怖さ」と「恥ずかしさ」を抱えている。

――村瀨孝生『シンクロと自由』82

 

村瀨 『ニワトリと卵と、息子の思春期』で、下の子ができたときに、長男さんに対して生理的に「触るな」みたいな感じになった部分がありましたね。

 

繁延 おっぱいをせがまれたときに、ちょっと前まで普通にあげてて可愛いと思ってたのに、そのときは痴漢に触られたような気持ちになって......

 

村瀨 それはすごいなと思った。

 

繁延 同じ"触る"でも、好きな人とそうでない人では違うように、同じ心で同じように触られてるのに、こんなに違う。本当に自分でもよく分からなくなりました。痛いとか涼しいとか暑いとかだったらもっと一直線なのに、人に触られることがなぜそんなに違って感じるのかっていうのが不思議。

 

村瀨 その変化ってすごいですよね。ちょっと前まで母乳をあげてたのに、それがまったく違う触られ方として感じられる。すごく興味深かったんですよ。

 ぼくも母の手を引いて歩くときに、なんかね、気持ち悪くて。母が嫌いとかそういうことではない。どうも生理的に受け入れられない。でも向こうがどんどんできなくなっていくので、手を引いて歩かざるをえなくなる。ましてや母の性器を触らざるをえなくなるわけですよ、洗ったりしなきゃいけないから。

 お風呂とか便所とかね。そこに突入せざるをえなくなってくると、イライラが募るわけですね。やっぱり汚れるし、くさいし。それでもせざるをえない状況に突入していけばいくほど――本にも書きましたけど――心をちょっと自分から切り離して、洗面所に置いてから一緒にトイレに行く。修行に近いですけど、そうこうしていくうちに、だんだん慣れてくるんです。すると生理的な嫌悪感はたしかに消えていく。

 

繁延 そこにすごく感動しました。嫌悪感のところで終わらずに、その先に進んでいくのが。

 

村瀨 終われないんですよね。

 

繁延 最初は村瀨さん親子の介護の風景が、目の前で起こってるように見えてたんですけど、どんどん先に進んでいって、最後に二人の後ろ姿に出会ったっていう感じですかね。こういうことはあまり書かれてない気がします。生理的にダメという時点で別の人にお願いすることもできるじゃないですか。村瀨さんのなかに、「その先を知りたい」みたいなことがあるのかなぁって。

 

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介護で供養ができる?

 

村瀨 いや、どっちかっていうと、知りたいということより......なんていうんですかね、ぼくは介護を35年間ずっとしてきて、人様の親をずっと介護させてもらって、なおかつその人たちの体とシンクロしてきたわけですよ。そして最後に看取るというところまで立ち合っていく。そのなかで亡くなっていったお年寄りたちから、なんか課題を与えられちゃった感じがあるんですよね。

 老いていくということに家族の情実が絡んでいくと、紙一重で幸せな介護にもなるし虐待にもなる。この紙一重感のなかに、家族の介護ってあるんですよね。どっちにも行きうる。同時にも起こりうる。そういうなかで先人たちは、どのように親を介護してきたんだろうって。

 介護はほとんど女性に押し付けられてきたわけです。日本の場合は長男の嫁、つまり他人が一手に引き受けてやってきた。その世界から、いま肉親である息子や娘たちが介護をせざるをえなくなっている。もしかして今初めて、肉親が介護しないといけない社会になっているのかもしれないです。血肉を分けた息子や娘たちが親を介護するということは、される側もする側も「合わせ鏡」みたいになっているわけですね。育てられたぼくのなかに育てた母がいる、というように。

 そのすごく複雑な人間関係、これまで引きずってきた系譜のなかで家族がどうしようもなく病(やまい)化していくこともあるでしょうね。成仏できないものがあったり。村瀨家のなかにどうしようもなくあった病(やまい)的なものが、介護によってもしかしたら供養できるんじゃないかって。そんなことをお年寄りたちから課題として与えられちゃってる気がして......だから母の介護はやろうと決めたんですよ。

 

繁延 そうですか。何か見えてきましたか。

 

村瀨 いや、先はまったく見えてないですね。いま真っ最中で。

 

白石 執筆期間中は「ちょっと大変なことになりそうだ」という感じでしたが、今はもっと大変になっちゃってるわけですね。

 

◆ふっとゾーンに入っていく

 

村瀨 まあ、他人の親ですら「見たくなかった自分」が引き出されますからね。それが肉親になると、もっと自分の知らなかったことに気づいてしまう。それは言葉ではまだまだ言えない。13歳がいまだに生きてて反抗期的に振る舞ってるみたいなものです。

 

繁延 58歳の村瀨さんを凌駕する瞬間があるってことですよね。

 

村瀨 そうなんですよ。レコード盤の傷が入ってるところで必ず針が飛ぶ。飛ぶのも分かるわけですよ、58歳だから。「これ、もう飛ぶなぁ」って思って、それでも抑えきれない。で、やっぱり飛ぶんですね。いつ飛ばなくなるのかは分からない。自分が成長したら飛ばないのか、もっと違う変容の仕方なのか、それとも最後までキレ続けるのかっていうのはよく分からない。

 

繁延 途中でお母さんのほうが変化をしていかれますよね。

 

村瀨 これを乗り切るきっかけになるのは、たぶん、母がますますできなくなることなんですね。母ができなくなっていくときに、キレながら、やっと母の体とシンクロできる感じがしてきたんですよ。

 

繁延 今まではお母さまの輪郭がありすぎた。

 

村瀨 トイレまで一緒に歩くのにも、「バランスをこう崩してこっちの手を引いて、そしたらもう一回こっちをクッと引いて軸足を移して」みたいなことに集中できるようにやっとなってきているんですよ。母が歩けなくなればなるほど、それに集中できる。ぼくの体と向こうの体で、とにかく波長を合わせてトイレまで一緒に歩く、みたいな感じです。

 あぁ仕事に行くこのタイミングでトイレかぁ! と思いながら「じゃ、トイレまで行こうか」ってときに、ゾーンに入っていくんですよ。一緒に共同作業しているときに、そこに救いがふっと......

 

繁延 へぇぇぇ、じゃあ、この本にも書かれていないちょっと先が出てきてますね。

 

村瀨 そうですね、いまリアルタイムなんで。

 

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◆何もしないことが殺害になる

 

白石 コントロールできないものに対したときに、普通はコントロールしようと思うじゃないですか。でも村瀨さんは、コントロールできないほうにさらに行く。それによって逆にうまく回る。そんなノウハウを持っている気がします。

 

村瀨 子育てなんかも結構そうじゃないですか。コントロールできないでしょ。特に長男さんのコントロールには相当ご苦労があるみたいだし。

 

繁延 制御不能です、本当に。我が家の人生が変わってしまったぐらいです。それでも赤ちゃんもお年寄りも、何かを為さなきゃいけないじゃないですか。親からすると赤ちゃんはお腹のなかでは放っておいても育ってたわけですよ。だけど外に出たら、食べること、暖かくくるむこと、そして排泄の汚れを取り除き続けてあげないといけない。それをし続けることが、その子が生きることになる。ちょっとでもやめてしまったら死んでしまうわけですよね。「人を殺す」みたいなことではなくて、「何もしないことが殺害になる」じゃないですか、親って。

 それがみんなに行くんじゃなくて、産んだということだけで母親に集約されてくる。育てたい、可愛いという気持ちだけじゃなくて、社会にそういうふうに負わされてる緊張感のあいだで、イライラすることが多かったです。

 

村瀨 保護責任みたいなところに対する抗(あらが)いですね。ぼくも初めて読んだ気がするんですよ。「一方的に全部担わされてるって、どういうこと?」と。

 

繁延 いろんなことがあって成り立っているのに、責任だけが母に集約される。それがすごくしんどい。社会の一員だから負わなきゃいけないこともあるけれど「何もしないことが人殺しになる」というこの不安感はすごい。

 

白石 不作為が殺人になるというとんでもない状況に、一方的に置かれるってことですよね。

 

◆介護職は社会の「母」か

 

繁延 母になったときの息苦しさのなかには、そういうことが含まれていたと思います。

 

村瀨 たぶん介護職ってこの社会全体の「母的なもの」の役割を担わされてるんですよ。だからそこに抗いがあるっていうのは、ぼくも共感します。介護職に全部担わされてるものをどうやってもう一回、家族や地域社会に再分配し、共有し直せるか。これはお年寄りへのケア実践の中核なんですよね。

 

繁延 『シンクロと自由』にもご家族との話もあるし、外にあちこちにお散歩に出てしまう方について地域で共有するシーンも出てきますね。それを読んで私は、どこか母親心として救われた感じがありました。そうやって間口を開けてくださろうとする空気みたいなものに救われたというか。

 

村瀨 本来、一人の人間が受け止めきれないような責任を、日本の母的な存在としての介護職に一気にポンと投げ渡されているわけですね。そして結構ハードルが高いんですよね、介護職が社会から求められることって。

 

繁延 そうですよね。 


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Ⅳ 事前の思想コントロールから、事後の思想付き合う

 

◆みんな縛りたくない

 

村瀨 家族からすれば当然、母親が縛られたらはイヤだろうし、閉じ込められるのも切ないですよね。しかし介護保険以降、じつは抑制率は上がってるんですよ。家族から身体拘束の同意書を取ってから抑制する。

 今回母がろっ骨を折って入院したんです。肺炎が少しあるからその治療もしましょうとなったんだけど、最初の入院の手続きの段階で、身体拘束の同意書がワンセットで来たんです。ぼくも分かってたことなのに、すごく衝撃でした。「身体拘束ありき」で来る。

「これ、書かないと入院できないんですか」って聞くと、「せん妄とかがあるからですねぇ......」とか若い看護師さんが言ってた。悪い人じゃないんですよ。だけど人を縛ることに関してなんのためらいもなく治療が優先されていく。ぼくはこれまでずっとそこに向き合ってきたんだけど、今度は自分の母がそこに直面したわけです。

 ぼくが「もし縛るような状況があれば電話をください。迎えに来ますから」と言ったら、次の日に電話かかってきた(笑)。そのときにお医者さんが説明するんですよね。「この状態なら、家でも大丈夫だろうから」って。「もし、もっと肺炎の状態だったら、縛ってでも治療するところでしたぁ」みたいに明るく言われました。

 それで、「連れて帰ります」ってぼくが言ったときの看護師さんたちの様子が印象的だったんですよ。「帰れるよね、ここにいたら縛られるもんねぇ〜」って。リハの人からも、レントゲン技師の人からも、みんな「縛られないでよかったぁ〜」というメッセージが来るんですよ。だから本当はみんな縛りたくないし、閉じ込めたくないんだけど......これ、なんの話でしたっけ?(笑)

 

白石 社会が要求するハードルの高さ......

 

村瀨 はい、そうやってハードルが高いわけです。老人は動くし、転倒するし、そういう人を転ばせるわけにはいかない。かといって寝たきりにもさせられない。市民的自由を守るには鍵を掛けるわけにもいかない。「もうどうしたらいいんでしょう」みたいな難問が、病院だけでなく、介護現場や、障害者の分野でも知的障害のある人たちの現場に投げ込まれているんです。

 

繁延 最初に私が「見たかったのに見れなかった」と言ったのは、それがあるからだったんだなと、いま聞いてて思いました。やっぱり何かあったら大変で、管理しなきゃいけないから、「その先」を知ることができなかった。何度もおウチに帰ろうとして、一緒に何度も付いていって、だけどなかなか家には到達できない。でもそれを続けているうちに施設が自分の家になっていって、本人も納得する。そうしたプロセスを知ることができなかったんですよね。

 私は新聞の連載で、「できなくなることは、たしかに明るい未来とは捉えがたい。でもそれはもしかしたら、現役世代が想像している虚像なんじゃないか」みたいなことを書いたんだけど、村瀨さんが書かれたような「その先」の風景がたくさん見えてきたら、社会は変わってくるんじゃないか。見えないなかで勝手に想像してるから、「管理しなければ」になってしまうのかなと思いました。

 

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◆最後に残った選択肢が、いちばん楽だった

 

村瀨 最初はぼくらも同じなんですよ。「このタイミングはちょっと勘弁して」「今、帰ろうとしないで、できればこの時間一緒にいてほしいから」っていうようなアプローチをしている。「ご飯がいますぐ炊けるから」とか、「おいしいケーキがあるから」とか食べ物で釣ってここに居てもらおうとしたり。それ乗っかってくれる人もいれば、食べ終わったら「では失礼します」っていう人もいるけれど、そうやって最初は自分たちの都合に合わせてほしいわけですよ。

 それもぼくは決して手放さないです。「なんとか今はやめてくれる?」みたいな対応をまずはする。それでもやっぱり振り切って出ちゃうんですね。すると次はどうアプローチすればいいんだろうかって移行していく。でも最終目的としてはみんな、「あなたが帰ろうとするのには付き合いませんよ」っていうアプローチなんですよ。

 あの手この手でそうしたアプローチを重ねていって、それでも全部破綻したときに、最後にいちばん選択したくなかった「付き合う」という選択肢が残る。こうして仕方なく、自分たちがいちばん選択したくなかった「付き合う」をせざるを得なくなったときに、我々の社会が見てこなかった風景がそこに立ち上がってくるんですね。

 こうしたことを重ねていくとですね、じつは介護は集団的に楽になるんですよ。すごく楽になっていく。よく「よりあい」の介護を指して、「そこまで付き合えない」「いまの社会状況のなかでそこまでやるか」みたいに言われる。「そんなにしんどい思いをしてまでちょっと無理な気がする」みたいに取られるんですよ。でもね、逆に全然しんどくない方向に向かっているんです。

 

繁延 付いていく、っていうのが?

 

村瀨 そうです。結局お年寄りにとって「よりあい」が自宅のようになっていくのには、いろんな理由があるんですよね。身体的な限界が来てただ単にもう歩けなくなったとか、老いて衰えて行動できなくなって帰らなくなっていく、っていうのも現実には多いと思います。それを待つようにじ~っと、ハゲタカが朽ち果てる動物の上を飛んでるような(笑)付き合い方でもあったり。

 でもそれだけじゃなくて、一緒に歩いてるとだんだん向こうが「あんたも帰れんで気の毒」とか言いはじめるんですよ。「いや、あんたが帰れんとやけど」と思うけど(笑)。自分が帰れなくて気の毒だったはずなのに、自分の境地に引き寄せて、「あんたも大変ね」とケアが始まっていく。相手からケアが始まってきたときに、「帰る」っていう度合いがグッと減ってくるんです。

 

白石 この本で印象的なのは、「そうこうしているうちに、こうなっちゃった」っていう話ですよね。それは事前の計画でもなんでもない。しているうちに、なんか向こうがこっちをケアしてくれるようになった、みたいな。

 その"しているうちに"っていうところにいろんな秘密がたぶんあるはずなんです。"しているうち"というのはPlan-Do-See思考の人が最もできないことですからね。そこに風穴開けたっていうことはすごく大きい。でもそうかといって、最初から結論に飛んでも絶対にうまくいかない。このプロセス、つまり「時間」こそが、村瀨さんの文章にはちゃんと出てくるからぼくらは納得できるんじゃないですかね。まあ、だからこそさっき言ったように引用もしにくいわけですが。

 

◆お年寄りにケアされるとき

 

繁延 『シンクロと自由』にはそうした話がいくつも出てきますね。一緒にさまよって最後に「よりあい」に帰ってきたとき、そのお年寄りの方にだけ食事が出たんですね。そうしたら「この人にはないのか」みたいなことを言いますよね。

 

村瀨 付き添った職員にね。

 

繁延 気づかってるんですよね。ケアをするっていうか、相手をなんとかしようとする行動が最後に出るのが私にはすごく興味深い。ケアをするというのは、人の欲求のなかにあるのかな。こんな自分が力尽きそうなときでも、気づかう人がいっぱいいるじゃないですか。

 

村瀨 おもしろいですよね。人間って生き物のなかで唯一ケアする動物なのかもしれないですね。相手の持ってるポテンシャルを引き出してしまう。本来、そういうものを持ってたはずなんじゃないですかね。いまそれが自己責任的社会みたいになって、自己利益の拡大ばっかりの方向に行ってるんだけど、本来人間はケアしちゃうんじゃないかなぁ。

 

繁延 私は、お年寄りから「一緒に生きよう」みたいに言われてる気がした。

 

村瀨 お年寄りは結構ケアするんですよ。自分の座位も保てないのに、入浴中にぼくの体を洗おうとしたりとか。

 

繁延 お母さんもされるんでしたよね。

 

村瀨 おふくろも洗おうとするんですよ、ぼくはTシャツ着てるのに。そのときのまなざしが、なんともいえない目をしてるんですよね。息子だと思って洗ってるわけでもない。そういう目じゃないんです。手がこう伸びてきて洗おうとするんですよ。「よかって」って言うけど。

 

繁延 母じゃないんですね。

 

村瀨 そこはちょっと未知な世界ですよね。でも、息子だから可愛がってとかいうような目じゃない。それはなんか継続的な感じじゃなくて、ちょっと瞬間的な目なんですよね。

 

白石 そこに人がいるからっていう感じなんじゃないですか。

 

村瀨 そうかもしれない。そこに自分の立場がどうだとか、こんな障害があるって私には無理だよねというような規定がまったくない。自分で食べられない人ですら、食べこぼしたやつを拾ってぼくの口に入れようとします。断りづらいですよ。

 

繁延 えっ、食べるんですか。

 

村瀨 一度食べたことがあったんですよ。それを周りの職員が見てて引かれたことがあって(笑)。それかからは「すいませ~ん、ありがとうございます」って言って断ってはいますけど。

 

繁延 じゃ、周りが見てなかったら逆に食べたいって思います?

 

村瀨 落ちたものを?

 

繁延 いま、周りに引かれたからもうやめるって言ったから。

 

村瀨 いやいやいや、それはイヤです。でもそれは非常に申し訳なさを伴いますね。「いいです」って簡単には言えない。

 

繁延 そうですよね。お母さんの話は全部おもしろかったです。でも、まだまだ聞きたいな(笑)。

 

◆感謝の意味が分かった!

 

村瀨 ぼく、最後にちょっと言いたかったことがあったんですよ。「涙の出方が変」というのにもつながるんですけど、この『山と獣と肉と皮』を読んでいて、「あ、そうか」って腑に落ちたことがあった。

 じつはぼくは自分が人に感謝ができない人間だってずっと思ってきてました。これまでいろいろ「ありがとう」って言ってきましたが、心の底からの感謝というものがよく分からない人間だったんです。本当の意味で感謝したことがないというか。もちろん強制された感謝はたくさんあったんですよ。「一粒も残さず食べなさい。農家の人がいなければ、食べられないのだから自分は存在してない。だから農家の人に感謝」。そして「いただきます」みたいなね。感謝が全部、人にまつわる部分に閉じ込められてたんですよ。

 でもこの本に「おいしく食べてやる」って書かれていますが、「おいしい~っ!」っていう喜びが本当に腹のなかから生じたときに、「命に感謝」みたいなものが出てくるんですね。それまでは「対人間に対する感謝」に囚われていた自分がいたんですが、そこをポンと突き抜けさせてくれた。

 そう考えると歌とか踊りというのは――今は人に向けて行われてるけども――本来は人の集団の外にあるものに対して、なんとかコンタクトをとろうとする努力なんじゃないかって思えてきました。

 

繁延 どうしても私たちは現在の時点からしか昔の生活を想像できないけれども、山に行くと、体験としてそこから始まることがあるんですね。

 

白石 そこというのは?

 

繁延 「その前はどうだった」みたいに今から遡るんじゃなくって、殺して、食べる地点からまた順を追って進むわけです。そこから始めると、頭で理解することではなくて、もっと体に生じてくる感情があるんですよ。もちろんそのときは言語化されてないですけども、最初の「絶対おいしく食べてやる」っていう感情は、そこから来てるなと思いました。

 その感情を伝えたくて、体験するように読んでもらいたいって発想が強かったんです。そのプロセスが、自分にとっては大事だったと思います。

 

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 質問コーナー

 

◆意思とイヤと中動態

 

――お年寄りのほうからケアが差し出される話に感銘を受けました。もしかしたらその老人の方は、目の前でケアをしてくれてる人の模倣をしているんじゃないですかね。あたかも赤ちゃんが、目の前の大人の真似をしているのと同じように。つまりその老人は、自分の意思というより、周囲の人と一緒に生きていこうとする段階に突入したのかなぁと。こうした意味で、老人の意思が衰えていくなって感じることはありますか。

 

繁延 私も知りたいです。

 

村瀨 意思が衰えるっていうよりも、手放されていく感じなのかなぁって思います。言葉で表現できなくなったお年寄りが、「よりあい」の場をどう感じてるのかとか、自分はどのように生きていたいのか。それをぼくらは探るんだけど、意思っていうのは結局よく分からないんですよ。

 いよいよ最後、自分で立つこともできないし歩くこともできないし、食べることもできない段階になる。さっき「不作為の死」ってありましたけど、たぶんぼくらが何もしなければ亡くなる。だけど、そうなったとしても恨まれる感じがしないんですよ。責められる感じがしない。そういう存在に移行していく。

 ただ体が要求することは間違いなくあります。寒いのはイヤだし、暑すぎるのもイヤだし。それは表情でしっかり最後まで表現されますから、「イヤだ」っていうのはあると思いますね。だけど「こうしてほしい」っていう要求めいたものは感じられないんです。もしかしてこっちが感じ切れていないだけかもしれませんが......

 

繁延 イヤだけがあるっていうのは、赤ちゃんに似てますよね。。

 

村瀨 そうですね。

 

繁延 どうしてほしいはないけど、イヤだけはある。

 

村瀨 イヤだけは明確。どんなにぼけが深くて、言葉もほとんど発しないときになっても歯医者さんはイヤでしょ。みんな「イヤ~っ!」って言葉で適切に表現されます。そんなときは、久々にその人から言語を聞いたって気がする。

 

繁延 あかちゃんが「イヤ」って言葉を覚えるのも確かに早いですよね。私も子育てのとき「イヤが先に来たか」みたいに思いました。

 

村瀨 58年生きた人間は58歳の振る舞いをするように社会から求められていて、そこから自分の振る舞いを装ってる可能性は大いにあるんですよね。それが「イヤッ!」って言えるようになったら、「次のステージに移った」ということじゃないかな。最後はイヤすらなくなって体そのものをも手放していく人もいるかもしれない。そのときに「不作為による死」という部分がたとえ生じても、彼らは責めないだろうと。そんな領域があるんですね。

 

白石 そこ、おもしろいですよね。意思というのがあると便利なんですよ。「この人があれをやりたい、じゃ与えましょう」って等価交換的に関われるから。人はだいたいそうやって生活していくんだけど、生まれたときと最後のところだけは、そうじゃない方法で交渉している。それは明らかにステージが違うんだろうなと思います。そこをどう考えるかは、人によってだいぶ差が出てきますね

 と同時に、ぼくはやっぱり『中動態の世界』という本を担当していてよかったなと思いましたね。この意思の話もそうだし、今日もずっとコントロールできないものにどう対処するかを話していたように思います。「コントロールできないものとどう付き合うか」こそが介護の中心テーマなんだけども、どう語っていいか分からない。そこにたとえば中動態という切り口があると、「あっ、それそれ!」って言いやすい状況ができたんだと改めて思いました。

 

繁延 その中動態が歴史的に廃れていったのは、行為と責任がつなげにくいからですよね。でも、介護とか子育てをしてると、中動態がなくなって「悔しい!」みたいな気持ちになる。受動とも能動ともいえない間で立ち往生しているのが母だなと思って。


村瀨 そういう意味では、責任のあり方も、介護の世界からもう一回再提出できる可能性はあると思います。

 

白石 そうそう、ケアを等価交換的な文脈に乗せていくら説明しようとしたって、あいつら聞かないですから(笑)。そういう無駄な努力はやめて、もっと意思とか責任そのものをこっちで勝手にバージョンアップしていくのがいいんじゃないかな。

 

◆心理や関係の前の「身体」

 

――お二人が本を執筆されるきっかけは何ですか。また、最初に顔を合わせた第一印象などありましたら。

 

白石 2020年の2月に、「ポニポニ」という大牟田市の未来共創センターが主催した小さなトークイベントが東京であったんです。そこで初めて村瀨さんにお目にかかって。いやもうホントにびっくりしました。一筋縄ではいかない感じが素晴らしかった。

 ケアの話って、わりと最初から結論が分かる話が多いんですよね。要するに「いい話」か、社会に訴える話か。だけど介護の複雑な世界を複雑なまま語って、なおかつおもしろいという希有な方だなぁと。村瀨さんはそれまでに数冊書いてるんですが、ぼくとしては代表作を書いていただきたかった。そして「こういうすごいことを考えてる人なんだ」っていうのを言いたかった。それが2年前の2月ですから。できるまで2年半ぐらいかかったことになります。

 

村瀨 そのときにぼくは白石さんから課題を与えられたんですね。介護というのをもう少し身体に引き寄せてと。どうしても介護は精神性だったりとか、理念的なものだったり、もしくは技術だったりとか関係論だったりに行きがちなので、その前の身体に立ち返ってほしい。そこからもう一度、精神的なものとか、関係とかに戻るようなイメージをおっしゃったんです。

 

白石 その程度の思いつきを言っただけで、村瀨さんはちゃんとアウトプットをしてくれる。

 

村瀨 そこは、ぼくのモヤモヤしてた部分とすごくリンクしていたんですよ。「じつはぼく、ず~っとそこにモヤモヤして引っかかってるところなんですよ!」っていうのはあのとき言わなかったですけど(笑)。

 

◆猛々しくて、おいしいそう

 

白石 繁延さんは、『山と獣と肉と皮』を読んでとにかく驚いたんです。最初の序文から30ページぐらいまでのスピード感がすごいし、そこにあらゆることが書かれてあるんですよね。30ページ以降ももちろんおもしろいですが、そこまで読むだけで、どういう問題意識でシシ肉を見ているかみたいなことがすべて分かる。

 ここに出てくる「絶対おいしく食べてやる」というセリフがやっぱり衝撃的ですよね。動物を仕留めてびっくりしてるなかで、一枚皮を剥いたら赤い肉が出てきて、それをうまそうだと感じてしまう。そのように人間は本来矛盾した存在であるということを、ちゃんと書いてる人ってあんまりいないなぁと。

 

繁延 自分でも意外だったんですよ。よく聞くじゃないですか、むかしニワトリを絞めたのを見て食べられなくなったとか。私も正直、「絶対おいしく食べてやる」と思うなんて思ってなかったんですけど......。そう思ったことに自分でもちょっと驚いた。

 

白石 ある意味、その「びっくり」だけで書いた本だと思うんです。つまりそのびっくりというのは、人間存在の根底的なところにつながっているんでしょうね。

 

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◆コントロール不能な体を抱えて

 

繁延 今日は吃音の白石さんと私、チック症の村瀨さん。なんか、いいメンバーだなと個人的には思ってます。村瀨さんはチック症のことも『シンクロと自由』に書いてらっしゃるじゃないですか。

 

村瀨 はい、書いてますね。

 

繁延 本筋ではないようだけど、すごくいいバランスでモヤモヤを書かれている。私もたぶんモヤモヤを書くほうですが、うまくまとめられない。でも村瀨さんのモヤモヤにはいろんな要素がちゃんと絡まっていて、書き手としてもすごいって感じました。

 

白石 チック症も吃音も、自分でコントロールできないってことですよね。村瀨さんを見ていると、それと付き合っていくことが成熟につながるんだなぁと。まあ13歳の部分も残っているんでしょうが(笑)。

 

村瀨 このトークが始まりだしてから、チック症が騒ぎ始めかけまして(笑)。「どうしよう」って思ったんですけど、話が深まってくるとどこかに行きました。本当に面倒なんですよね。もっとすごい大変な症状を抱えた人がいるので一概に言えることってほとんどないと思うんですけど、コントロールできない体っていうのは、やっぱり生きづらさはありますもんね。

 

繁延 ふつうはコントロールできている人のほうが多いからから、できないことを考えてしまうんでしょうが、介護の現場だと「できない」の要素がいっぱいあるじゃないですか。『シンクロと自由』を読んでいると、そこがいいなと思った。できないことに意識を持たなくてよさそうだなって。

 

村瀨 そうそう。介護現場にいると、ぼくらが一般的に感じてる「できる/できない」なんてたいしたことはないなって思えてきます。それを超えたところでちゃんと人は生きていけるんですよね。

 

◆やられる人たち

 

――100歳と2歳が同居しているという話がありましたが、そこって多くの人にとっては無意味ですよね。そういう無意味性と楽しみながら付き合うにはどうしたらいいか聞いてみたくなりました。

 

繁延 無意味なことに付き合っている、という自覚がない3人です(笑)。

 

村瀨 社会から見れば無意味に見えちゃうということなんだと思うんですけど。白石さんからきょうだいと言われましたが、たしかに繁延さんとの共通性を感じることはある。それは、なんかこう、まず相手からノックアウトされちゃうっていうんですかね。

 

白石 なるほど。

 

村瀨 「参りました!」的な感じ。「そんなふうに見えてましたか」とか、「そんなふうに聞こえてましたか」というところでノックアウトされちゃうわけですよ。ノックアウトされた後って、こちらの立場が弱いです。だからもう「師匠、もうちょっと教えてください」みたいな感じになりますね。「この先どうなりますか」とか。そういうアプローチで、さらに引き込まれてしまう。「その先は?」って聞く繁延さんにもそれがすごくあるんだと、今日感じましたね。

 その先が見たかったら、こっちの物差しをいったんしまわないと見えないんですよね。だからそんな形の付き合い方になっていったんじゃないかと思います。

 

白石 二人ともメチャ受動的なんですよね。受動的とは何かってずっと考えていたんですが、今おっしゃったことで分かりました。「自分の物差しは使わない」ことなんですね。向こうの物差しに魅かれてしまう。たしかに、やられちゃう感じは本当にありますよね、お二人とも。

 

村瀨 やられる、やられる。

 

◆名前は付いてないけど大きな世界

 

白石 ぼくもそうなんですよね。本を作るときも自分で「こうしてください」と言った覚えはなく、その方の魅力に負けて「じゃ、その線でひとつ」って。

 

繁延 私は白石さんに「どうやって本は作られていくのか」を聞きたかったんですけど、いま聞けてよかったです。「ケアをひらく」でも一冊一冊が全然違うじゃないですか。あと当事者研究も、もともと書き手でもなかったりする人に書いてもらうじゃないですか。まだ名前がないものに名前を付けるみたいな感じだなと思います。「ないのにあることにしていく」みたいな。

 

白石 でもそれは、名前はないけど圧倒的に大きいんです。名前のあるものってだいたい小さい。小さいから名前が付けられるんですよね。だけど現実の世界で小さいものをいくら扱ったってしょせん小さいわけです。ケアの世界には名前が付いてないものが多いですが、すごく大きい。

 

村瀨 医学とは逆の方向ですね。

 

白石 そうですね。小さく確定された事実を分母にして、その内部で差異を探る世界ですよね。それはそれで重要なことで、知的にもトレーニングしないとできないけれど、ぼくはむしろ分母のほうを変えたくなっちゃう。問題のほうを変える。答えるんじゃなくて、問題のほうをちょっと別のフィールドに置くと、「なんだあれ、ちっちゃかったんだな」って分かって気持ちいい(笑)。それだけです。

 

村瀨 よく分かります。

 

白石 いや、なんか喋りすぎて恥ずかしいです、すいません。

(終わり)


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涙の出方が変。【前編】

『シンクロと自由』刊行記念

村瀨孝生×繁延あさトークイベント 05051_シンクロと自由_ケアをひらく_書影0623.jpg

の記事は、20211016日、長崎市の「すみれ舎」(障害福祉サービス生活介護事業所)で行われたトークイベントの内容を加筆修正のうえ再構成したものです。当該イベントの内容はこちらで見ることができます。

当日司会をしてくださった編集者/ライターのはしもとゆうきさん、動画を作成していただいた山田聖也さん、会場を快く貸してくださった「すみれ舎」の山下大介さん、そしてご参加いただいた皆様に厚く御礼申し上げます。

*本文中の写真は繁延さん撮影による「すみれ舎」の日常ですⒸA.shigenobu)

 

【目次】

前編【このページです】

 死ぬまで生きる

 記憶と作話と、複数の自分

後編【明日更新です

 母の介護は何の修行か

 事前の思想(コントロール)から、事後の思想(付き合う)へ

 質問コーナー

 

 



 死ぬまで生きる

 

 

繁延 長崎在住繁延あづさと申します。写真をやっています。『山と獣と肉と皮』(亜紀書房)という本を一昨年に出して、去年『ニワトリと卵と、息子の思春期』(婦人之友社)を出しました。


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村瀨 こんにちは。「宅老所よりあい」というのが福岡市にありまして、お年寄り、特に認知症、ぼけのあるお年寄りが通って泊まって、いざとなったら住めるというところで30年前に始まりました。その「宅老所よりあい」と、「第2宅老所よりあい」の2か所と、2015年に26名定員の小さな特別養護老人ホーム「よりあいの森」を運営しています。その3つの「よりあい」を統括する形で代表を務めている村瀨と申します。

 

白石 医学書院で「ケアをひらく」というシリーズをやっている白石です。8月に出た村瀨さんの『シンクロと自由』がシリーズ最新刊です。

 

◆生体に興奮する二人

 

白石 この本が出来上がるころ村瀬さんに「繁延さんと対談しませんか」と言ったんです。そのとき「繁延さんと村瀨さんは、きょうだいみたいにそっくりなんですよ」みたいなことをメールに書いたらしいんです。あまり覚えていないんですが(笑)。一方は介護の現場の人だし、一方は写真家であって直接は関係ないんだけど、でも、たしかに似てるんですよね。

 繁延さんの『山と獣と肉と皮』は、狩猟に行って、動物が死ぬ瞬間から始まります。そのときに繁延さんがものすごく興奮してるんです。なんていうかな、生体そのものに興奮してる感じがものすごく鮮烈だったんですね。村瀨さんも『シンクロと自由』で、老人が死ぬ間際って体が活発に動いてると書きながら、なんか興奮してる。その二人の興奮度合いが似てるんじゃないかなと思いました。ケアって「いい話」のようにみんな思うんだけども、この「興奮」というのがケアにとってすごく重要な気がするんですね。

 今回のトークのタイトル「涙の出方が変。」は、繁延さんの本を読んで村瀨さんが漏らされた感想をそのまま使っているんですが、繁延さんは『シンクロと自由』を読んでどう思われましたか。

 

繁延 とにかくすごかった。夢中で読んで、Twitterに「すごい本を読んだ」ってそのままの感想を書いたんです。白石さんから「トークをしませんか」って言っていただいて、何に自分が反応したかを分かりたいなと思ってます。

 いちばん大きかったのは「人が老いて死んでいく風景が描かれている」ところですね。私は10年ちょっと出産の撮影もしてるんですけど、なぜ人が生まれてくるところを自分は撮っていたのかは深く考えてなかった。でもこの本を読んで、自分を発見したような気持ちになりました。

 じつは私は、資格を取って介護をやってみたことがあるんです。こんな言い方をするとひどい人だと思われそうですが、人はどんなふうに老いていくのか、そこにある可能性を知りたかった。でも結局見れないまま辞めてしまったんですけれども、私が見たかったものは、村瀨さんの本にたくさん書かれていたんですね。それが私のなかでいちばん大きな興奮でした(笑)。生まれる風景を見たい気持ちと、老いて死んでいく風景を見たい気持ちは通じていたことに気づきました。

 さっき白石さんが言ってくださったように、私はたしかに獣が死んでいくときの「かわいそうだな」とか、見ていて苦しいような気持ちの一方で、死んだ後に解体が始まると、特に同じ哺乳類だったりすると、「こんなふうにできてるんだ」という生き物の成り立ち方に魅了されていたなと思います。

 でもそれは村瀨さんの本にもあったような気がしたんですよ、解体はされないですけど(笑)。死んでいく人の体を触ったりして。

 

村瀨 介護って最終的に、体を触ることに集約されていくんですね。どんどん「できなくなっていく体」に、こっちの「まだできる体」をシンクロさせる。見えなくなった目や耳に代わって見聞きをしたり、できなくなった手に代わって何かをしたり。こっちの体と向こうの体をシンクロさせて補完するような形で、二人で生活を成り立たせていく。体と体が本当に密着していくわけです。

 そうやって接していくうちに、どうしたら寿命って分かるんだろうと思うようになりました。この体が自然の摂理に導かれて死んでいく、という寿命ですね。やっぱり触り続けた人間が手の感触によって知るしかないんですよね。「もうこれが寿命なんだな」と了解するために触り続けるんです。 


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◆「隠される死」と「にぎやかな死」

 

繁延 村瀨さんが、寿命を迎えお年寄りが死んでいくのに触れたのは若いときですか?

 

村瀨 ぼくは最初、100人が暮らしてる特養ホームに勤めていたんです。23歳から31歳まで。そのときはお年寄りは施設で死ねなかったんですよ。寿命だろうがなんだろうが関係ない、とにかく病院に運ぶというのが看護師さんの仕事でした。当時は生活指導員って言ってましたけど、ぼくはそこに付き添う。寿命とか関係ないんですよね。「施設じゃもう対応できないから」みたいな感じで運ばれていく。施設でみることができるのは、急に心肺停止しちゃったとか、突然亡くなった人だけです。

 

繁延 「死をここで迎えちゃいけない」という空気があるんですか。

 

村瀨 それがねぇ......何なんでしょうね。

 

繁延 なんかボールを渡すような感じに聞こえました。

 

村瀨 いや、本当にそういう現実でしたね。ぼくが最初に勤めた特養は福岡県下でも3番目ぐらいにできた古いところなんです。病院の霊安室って、誰の目にもつかない地下にあったりするじゃないですか。だけどその特養には、食堂の横に霊安室があったんですよ。仏壇があって畳の間になっていて。

 

繁延 リビングみたいな感じ?

 

村瀨 そう、リビングですよ。お年寄りがご飯を食べる普通の食堂の、その横に一緒にあった。だから看取って亡くなって、自然にそこに横になってた時代があったはずなんですよ。でもぼくが就職したときにはもう、とにかく死は伏せるものだった。でも隠しきれないですよ、お年寄りはみんな知ってるから。「あの人、死んだっちゃろ~」とか言って。

 

繁延 村瀨さんは今は「この人は寿命で死んだな」と分かるようになった。でもその話のころはまだ隠されていた。その間はどうつながるのでしょう?

 

村瀨 31歳ぐらいのとき「宅老所よりあい」に勤めたんですね。「よりあい」は大場ノブヲさんっていうたった一人のおばあちゃんからスタートしたんですが、このおばあちゃんが亡くなったんです。じつはその同じ日に、ぼくの祖母が亡くなったんです

 その日ぼくはたまたま仕事が休みで祖母の面会に行ったら、処置が始まっていて、同居してる叔父が来るまで延命されている。病院も一生懸命だと思うんですけど、何の説明もなく病室から出されちゃうわけですよね。廊下でずっと看護師さんの出入りとか、叔父とかが集結するのを見て、はじめて「祖母が亡くなろうとしてるんだな」っていうのが分かる感じです。息を引き取る瞬間に、ぼくは本当は運よく立ち会えたはずだったんですが......

 

繁延 廊下に出されちゃった。

 

村瀨 はい。で、その夜に呼び出しがあったんですよ、「大場さん、亡くなるから」って。今日は祖母が亡くなったんだけどなぁと思いながら、大場さんが亡くなるところに立ち合うことになったんです。

「よりあい」というのは、(会場を見回して)こういう築100年くらいの民家なんですね。こういう空間のなかに大場さんが寝てて、末期の水とかありますよね、あれもビールで浸されてて。「ビール好きだったんもんねぇ」とか言って(笑)。

 そのとき地震があって揺れたんです。みんなが「これ、大場さんが呼び出されてるんだよ」って。「そんな人やった」とか。話されてることはほとんど悪口なんですよね、「もう大変なばあさんだった」みたいな。でも悪口が悪口ではないんですよ。みんな勲章のように話してる。そこに自分がつきあったんだ! みたいな感じ。

 その時間と、祖母の亡くなり方があまりにも違っていた。人の死に方に良い悪いなんて、ぼくはまったくないと思うんですよ、野垂れ死のうがどんな亡くなり方をしようが。でもやっぱり亡くなり方があまりに違うなって。

 その後も「よりあい」に関わってる人たちがどんどん亡くなっていくんだけど、寿命を迎えて亡くなるであれば、病院に連れていくんじゃなくてこのまま見守ろうと。そんな実践が「よりあい」では始まってました。そこにぼくは最初から関わることができたわけです。

 

◆死にゆく体は絶好調!

 

村瀨 寿命かどうかっていうのは、日本社会ではどうしてもリビングウィル的になっちゃう。本人の意思で死を選択するっていう。「意思を書き残してもらったら、それに則ってやればいいのね」みたいな流れがある。でも、ぼくは全然それは了解できないです。それよりも体で触る。脈は電子計だと最終的には拾えないでエラーになるんですよ。それでもとにかく動く脈を探して、それが速いとか遅いとか、強いとか弱いとか、体だったら温かいとか冷たいとか、体のなかでも足先は氷のように冷たいのにちょっとここは汗ばんでるだったりとか。そうやって触ることで、人間の体が躍動してるっていうのが分かってくるんですね。やがてこの体が死んでいくんだなっていうのを感じ取れるようになる。

 

繁延 『シンクロと自由』のなかに、死にゆく人の体は絶好調だっていうのがありますよね。

 

村瀨 そうなんです。ぼくには絶好調に感じられる。人が飲み食べしなくて亡くなるまでに、「よりあい」では最高17日なんです。

 

繁延 17......

 

村瀨 はい、17日間、飲み食べしないで生きられるかっていうと......もしかしたら会場のみなさんは死んじゃうんじゃないかな(笑)。限られた自分のなかにあるエネルギーを体が連携し合って、分け合って、循環して、燃やし尽くして亡くなっていくんですよ。もう体史上、最高の連携があって、「オレたちいま、最高だよね!」って。「連携し合ってるよね!」って。そんな声が聞こえてくるんですよ。

 

繁延 脳は置いてきぼりって感じですかね。

 

村瀨 脳も肉体の一部ですよね。勝手に観念化されたり、精神のなかで脳だけが体のなかで特別扱いされていた。でもそれがやっと、なんていうんですか、脳はホッとしてるんじゃないですかね。やっと体の一部に戻って、何も考えずに、"全からだ"の求めに応じて「なんか俺、やることある?」みたいな状態になってる気がするんですよ。

 

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◆内臓は最後まで現役だッ

 

繁延 おもしろいですね。私はそこを読んだときに、人はこうやって死んでいくんだって思いました。

 あと、これはあまり喜ばれない話かもしれないんですけど、ウチはよくニワトリも含めて解体をして食べるんですが、それとすごく似てるというか、「やっぱりそうだったかぁ」と思った箇所でもあります。肉の部分はある程度時間が経ったらパサパサになってきて月齢を感じる肉になっていきますが、心臓とか肝臓とかはわりと――山の獣でもニワトリでも――特に固くなることもなく、味わいもほぼ同じなんですよ。最後までの現役感っていうのがある。だから、読みながら「やっぱそうだったか!」と。

 

白石 筋肉は衰えるけど、内臓は最後まで現役!

 

繁延 食べる側からすると、(太腿あたりを指して)ここは古くなるとダシになっちゃうんですけど、心臓とかは最後までおいしく焼き鳥で食べられる。

 

白石 なるほど......。やっぱりお二人は、きょうだいみたいですね。ぼくの感覚は正しかった(笑)。

 

村瀨 人が年を取って最後に「亡くなる」という印象が、観念的にはあると思うんです。でも実際にお年寄りを見ていると、体というもの、生体というものが、最後まで「生き切る」のを感じるんですね。『山と獣と肉と皮』に出てくるイノシシ、最後まで生きてるっていうんですかね、手首が取れても、そのまま逃げられるはずなのに、もう一回Uターンして猟師さんに突っかかってくる。

 

繁延 ただ生きてる、って感じがすごくあるんですよね。「死なないように生きてる」じゃなくて。

 

村瀨 イノシシもそうだけど、人間も本当は生き物である以上は、死そのものの概念なんてないんだろうなって。

 

白石 生と死を反対物として捉えて、「生から死へ移行する」みたいに考えるけど、本当は生しかないってことですよね。最後に生がなくなって、まわりの人はそれを""という言い方をするだけで。

 

村瀨 そうですね。そのイノシシも最後まで生きた、お年寄りも寿命を迎えて最後まで生きたんだっていうその最後まで生きたところに立ち合った者には、何かが生じちゃうんですなんて言っていいか言葉がむずかしいけど。

 

繁延 それはある。今までも生き物を食べてきたはずなんですけど、山へ行くようになったらやっぱり、自分の生きている感覚が変わってきたんですよね。何が変わったのかっていうのはちょっと言いづらいんですけど。

 

村瀨 そこは似てるかもしれないですね。だいぶ看取りに立ち合ってる就職して4年目になった20代の若い職員、「看取りってどう?」って最近聞いたんですよ。死って怖いいうイメージが最初はあったらしいんだけど、「今は死が怖いっていうものではなくなりました」みたいな感想が聞けるので。人が亡くなっていくところに立ち合うと、その人のなかで何かが変わってるんです。

 

 

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 記憶と作話と、複数の自分

 

◆え、なんでここで涙が?

 

白石 二人とも死を迎える生体のエネルギーに圧倒されて、「参りました」っていう感じがあるじゃないですか。その一方で、冒頭に言ったように興奮もあるように感じます。「涙の出方が変だった」というのは、そのあたりのことをおっしゃっているでしょうか。

 

村瀨 ......説明できないから「変」なんですよ。

 

繁延 説明が聞けると期待してました、今日(笑)。

 

白石 涙が耳から出るとかじゃなく?(笑)

 

村瀨 なんていうんですかね......ふつう映画を観たり本を読んだときの涙って「何かのフレーズでグッと来て」みたいな出方なんです。でも繁延さんの本は2冊ともそうだけど、「えっ、ここで出る?」みたいな涙の出方。じゃ、そのフレーズがどこですかって言われても、別にどこでもよかったのかもしれない。ずっと読んでるあいだに、無意識のなかに何かが蓄積されて、ふとしたときにポロッと出るんですよ。

 

白石 「そこで感動したんですね」って言われると、「いや、そこじゃないんだけど」って言いたくなるような?

 

村瀨 そうなんです。「この本のどこですか?」って聞かれて、「ここですね」と言えないんですよね。

 

白石 なるほど。でも、そう言う村瀨さんの本も意外に引用しにくいんですよ。「ここはどうだ!」と思って人に言っても、意外に普通のことを言ってる感じがあっ。あの感動は何だったんだろうかって(笑)。まず文脈があって、その文脈に乗っていってこその最後の一言なんですよね。

 

繁延 村瀨さんの語りにやられたなって感じなんですね。

 

白石 そう、そうなんです。

 

繁延 一つひとつに、強烈な言葉が入ってるわけじゃないんですけど、順を追って語りを聞いていくと、じわっとくる。

 

白石 だから書評を書くのは大変じゃないですか。

 

繁延 長崎新聞で『シンクロと自由』を紹介したときに、すでに何人かの方が書評で取り上げている部分を私も使ってしまいました。100歳のおばあちゃんと2歳のお子さんが一人の人のなかで......

 

村瀨 夜中にね、100歳のおばあちゃんが「おかあさん、おかあさん」って呼ぶんです。すると職員が、おかあさんのように登場する(笑)。

 じつはこれ、どの職員もその経験をするんですね。ぼくのようなオッサンでも「あぁ、おかあさん」って言ってくれるんですよ呼ばれるたびに「ふみちゃん」とか言って行くんだけど、3回目までは「おかあさん」って言ってくれたのに、4回目は「おじさん」って(笑)。たぶん途中でおじさんであることを認識されたんですね。

 本の話に戻りますが、大学を卒業してすぐ働いた22歳の子が、そうやって対応したときに「あぁ、おかあさん来てくれた」っていってグ~って抱きしめてくれた。そして耳元で「おかあさん、入れ歯がないの」って(笑)。タイムスリップの仕方がとてつもない。

 

◆記憶と作話のふしぎな関係

 

繁延 人の記憶ってどういうものなのか、最後はどうなっていくのかなぁっていうのにすごく興味があります。私はよく「今しかないんじゃないか」という不安にかられるんですよね。過去って見えないし、もう今は消えつつあるし、そうやって考えると未来もない。結局、この今しかない。これは私が写真を撮ってることにも関係しているかもしれないです。

 福岡伸一さんの本にもチラッと書いてあったんですけど、思い出というのはフォルダとかアーカイブみたいなものに入っているんじゃないらしいですね。脳に同じように電流が流れたときに記憶がよみがえる。そうだとしたら実態があまりになさすぎると思う。

 以前介護の仕事をしていたときに、ぼんやりしたおばあちゃんがいらしたんですね。私はその方とお留守番をしていて、いつもぼんやりされてるから、その人のことをどんな人だったか知りたくて、私は手掛かりが欲しいわけです。いろいろやるんだけど、全然反応がない。

 二人きりの留守番だから、あるとき、恥ずかしさもなく歌をうたってみることに。私が「ぞ~さん、ぞ~うさん」って歌ったら、そのあとを合唱コンクールみたいな感じで歌い出したんですよ。そのとき初めて「この人を見た!」みたいな感じがしました。さっき食べたものも分からないけれども、じつはこうした記憶を最後まで握りしめてるような感じがするんですよ。もしかしたら、ご自身がお子さんのときにタイムスリップしたのかもしれないし、あるいは子育て中に自分が歌ったほうなのかもしれない。

 その同じ方なんですけど、だんだん誤嚥がひどくなってきたときに、スプーンの向きと本人の感覚が合ってないんだろうなと思って、私が後ろに回って二人羽織みたいにしてみたんです。体の記憶を思い出すんじゃないかと思ってやって。すると本当に誤嚥が減ったんですよ。

 

村瀨 記憶って変ですよね。なんかよく分からないなぁって思うんです。都合よく改ざんされてもいくと思うし。

 

繁延 さっき打合せのときに聞いた作話の話が、すごく面白かった。

 

村瀨 ああ......作話っていうのは、ほとんど記憶に基づいてないと思うんですよ。むしろ今この瞬間に即興的に立ち上がってくるものだから。

 すごいお年寄り見たことがあって。バザーが終わったあとに、ボランティアさんのお宅で打ち上げをしたんですよ。そのお宅は無垢材がたくさん使ってあって、木の香りがするような家です。伝統的な日本家屋の建築とは違って、天井がなかったり、骨組みが見えていたり。「おしゃれで、だけど木の香りがする」っていう感じですね。

 そこで、ちょっとぼけのあるおじいさんにバザーの打ち上げの挨拶をしてもらったんですよ。最初はちゃんとバザーの打ち上げという認識があって、「バザーもみなさんのおかげで」とか挨拶が始まった。でもだんだん話しているうちに、それが新築祝いになっていって(笑)。「もうちょっとで完成します。そのときはもう一度みんなで集まって......」みたいな話に変わっていくんですよね。

 

◆状況をつなぎ止めるための知性の振る舞い、それが作話

 

繁延 それにもやっぱり経験が含まれてますよね。

 

村瀨 そうそう。そこにはやっぱり自分の経験があって。場所の記憶でしょうね。

 

繁延 経験と経験をつなぎ合わせて......

 

村瀨 時と場に応じた対応をしようと思って、本人は必死なんですよ。

 

白石 脳内がのすごく活発に動いて、この状況をなんとか説明しようと必死に考えている。ということは、ものすごく頭を使ってるわけですよね。

 

村瀨 そうなんですよ。

 

白石 それを「作話」って言ってしまうのはちょっと失礼というか。こちら側はボ~っとしているのに。

 

村瀨 ぼくらのほう、この時と場を不動のもの、揺るぎないものと勝手に規定していて、じつはぼけのあるお年寄りのほうが「この時と場でいいのか?」みたいに推測している。こっちの顔色とか振る舞いとかで、「どうも自分の感じてる時と場と、なんか違うんじゃないかな」って感じてくると、こっちの時と場に合わせようとする。つまり、お年寄りがいま感じてる時と場と、ぼくらが共通概念的に捉えている時と場が全然違うんですが、つなぎ止めようとしてるのはお年寄りの側なんですよ。それをぼくらは作話って呼んで、「だいぶおかしくなってきたね」なんて言ってる。

 

繁延 そのお年寄りのほうがこの世界を分かろうとしているのに。

 

村瀨 「いま、この瞬間が何なのか」ということに、いちばん向き合ってるんですよね。

 

白石 この不可解な状況を説明しようとして、ものすごいトライをしている

 

村瀨 トライしているからこそ途中から新築祝いになってきて、「この家が完成の暁には......」と始まってくると、みんながクスクスクスクスって(笑)。

 

繁延 笑いが止まらない。

 

村瀨 みなさんもお分かりだと思うんですけど、それは決してバカにしてるのではまったくない。「スゲェな、じいさん」っていうふうに思えてくる。だから時と場、記憶っていうのは不思議なんですよ。我々は観念的に固定化してそれを自分自身に命令しているけれど、その規定が外れたときの知性の振る舞いっていうんですかね。今の時と場を捉えるために、記憶から何から縦横無尽に活用しているんですよね。

 

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◆58歳と13歳の「ぼく」が同居している

 

繁延 いやぁ、おもしろい。記憶というのは最後になるとどんどん減ってくって感じがしますが、村瀨さんはどう思われますか?

 

村瀨 さっきの100歳のおばあちゃんが2歳になったりするっていうのは、記憶ということよりも、「自分のなかにある2歳が生きてる」ってことのような気がするんですね。......ぼくはいま母の介護してますけど、母の振る舞いに、ある時点でどうしてもキレちゃうんです。

 

繁延 どんなときですか、それ。

 

村瀨 母はせっかちの心配症。だからすごく疑り深いんです。「どうなの?」「大丈夫なの?」みたいのがいつもあって、それにせっかちが加わると......分かりますよね。せき立てられながら、ず~っと疑われてるみたいな。これはね、58歳になって初めて「そういう母に育てられたんだな」というのが了解されたんです。そのせっかちの心配症が母から立ち上がってきたときに、ぼくはキレるんですよ。

 

白石 それ、いい話ですねぇ。

 

繁延 いい話っていう、白石さんも不思議です(笑)。

 

村瀨 58歳のぼくがキレてる感じじゃないんですよ。13歳の、たぶん思春期あたりのぼくと、それこそ2歳ごろのイヤイヤ期のぼくが同時にキレてる。自分のなかで生きている2歳とか13歳が、「イヤ~っ!」って言ってる。それは記憶じゃない感じがするんですよ。

 

白石 昔を思い出してどうこうじゃなくて、自分のなかにいる2歳なり13歳なりが勝手に暴れてる。それはもう制御できないんですね。

 

村瀨 そう、制御できないんですよ。58歳のぼくが分析してるという部分もあるけれど、抑えることはできない。過去を思い出して「あぁはぁはぁ、なるほど」となって「よし、怒るぞ!」ではないんです。もう13歳が制御不能に立ち上がってきている。それを「記憶」と呼ぶのか、「13歳がいまだにまだ生きている」と言うのか。

 

繁延 なんか分かる気がする。私は『ニワトリと卵と、息子の思春期』で、「子どもを産むたびに母が生じる」みたいな言い方をしています。「その子の母」が、自分のなかに勝手に生じてしまう。そうすると、もう自分の意思とは関係ない。たとえば、その子がいま何をしてるかをず~っとアンテナがキャッチしようとしてしまうから、家で仕事をしていても全然集中できない。自分でそうしようとしてるんじゃなくて、そういう自分になってしまっている。

 その本のなかで「母殺し」という書き方をしたんです。何かが殺されるようなことがないと「母」を手放せないんですね。生じてしまってるものに対する「どうしようもなさ」みたいなのがある。だから村瀨さんの「どうしようもない」っていうのも、ちょっと分かる気がする。

 

村瀨 ぼくもこの本のなかに母殺しというフレーズが出たときに、本当に「ぼくもいま母殺しをしている」って(笑)。

 

繁延 村瀨さんのなかの母、みたいなことですか?

 

村瀨 そこが分からない。ウチの母はマスヨっていう名前なんですけど、マスヨという一人の人間としての性分なのか、繁延さんが書かれているように、立ち上がってくる「母」のせいなのか。そういう意味では、母もその「母」に支配されてるし、せっかちで心配性という母の性格もあるのかもしれないですけど......

 

繁延 せっかちも心配性も、人を守ろうとする動きですもんね。

 

村瀨 そうなんですよ。だからぼくが向き合ってるのは、マスヨという一人の人間なのか、「母」的なものなのかっていう部分は不可分なのかもしれない。もしかしたら「母」的なものに対して母殺しをしてる......58歳になってですよ(笑)。でも13歳が生きてるもんで。

 

白石 じゃ、いま喋ってるのは13歳の村瀨さんであって......

 

村瀨 そうそう。13歳のぼくが、58歳のぼくの力を借りて初めて弁明している可能性がある。

 

白石 なるほど、弁明!

 

村瀨 というふうに、自分のなかでは感じている。

(前編了)

⇒後編はこちら


■「均質な潜在能力」は存在しない

 

「第17回 世間の理屈と<障害者>の理屈」で、「古典的レイシズム」と「現代的レイシズム」という言葉を例に挙げて、「現代的レイシズム」は簡単に差別を隠すことを示しました。また「能力主義」とか「成果主義」という概念、つまりメリトクラシーも巧妙に差別を隠す機能があるのです。

 

「現代的レイシズム」の信奉者が「障害者があえいでいるのは、他ならぬ障害者自身の努力が足りないからだ」と主張するのは、その人たちが心からそう信じ切っているからかもしれません。

 

また「能力主義」とか「成果主義」の信奉者は、社会が一人ひとり違った多様な才能で成り立っているのではなく、すべての人が「均質な潜在能力」を持っているはずだし、競争の判定は公正に行われているはずだと主張します―わたし達に「均質な潜在能力」はなく、現実の競争では判定が公正に行われてはいないということも十分に認識しているはずだと思うのですが、そうは言いません。人類学的にはその態度が何に由来するのかということに興味がそそられます。

 

■「厳罰傾向」の強化

 

しかし、せっかくの人類学的な興味もあいまいになることがあります。それは世の中には差別かどうかの見極めが難しいことが多いからです。差別されているのか、いないのか、さっぱり判断がつかないということが増えたのです。日本の社会全体に「厳罰傾向」が強まっているという指摘は、その典型例でしょう。

 

社会全体の「厳罰傾向」とは何のことでしょうか。それは裁判所が下す刑罰を考えればよく分かります。犯罪者には、かつてよりも重い刑が科されるようになったのです。

 

これは「被害者が受けた苦痛」を考慮し、道徳的に考えても犯人のやったことは許せないという「社会全体の反感」を考慮してといった、あまり論理的でないものに裁判官や検察官が影響を受けて「厳罰傾向」を強めるということです。そしてこの「厳罰傾向」を後押ししたのが、世界的な新自由主義の盛り上がりだというのです。

 

■押し寄せる「効率化」の波

 

新自由主義の基本的な考え方は「小さな政府」です。大きな事業の国有化と公共事業を進めるのではなく、すべての営みを市場経済に任せてしまおうという発想です。日本では電気やガスなどの基本インフラが民営化されました。鉄道も民営化されています。民営化されれば会社には競争が働いて、より安いものを、より効率よく、より充実したサービスで提供するようになるだろうというわけです。そうしなければ倒産してしまう危険があるからです。

 

新自由主義の考え方は、環境や農業・漁業といった食糧生産の分野と共に、教育や福祉、そして医療の分野にも及んでいます。例えば、公立病院は統合されてまとめられたり、民営化によって効率化されたりしている自治体がいくつもあります。

 

すべての分野を市場経済に任すと、とんでもない欠陥も「効率化」という言葉の前に目をつぶらなくてはならなくなってしまいそうです。わたし自身は、分野によっては採算を度外視してでもやらなくてはいけないことがあると思っています。今は競争と効率化を重視する新自由主義と新自由主義だけではいけないという考え方が、せめぎ合っているのではないでしょうか。

 

■効率化には馴染まない存在―高齢者や幼児、病人、障害者

 

もちろん新自由主義といっても、最初から競争や効率化には馴染まない存在があります。高齢者や幼児、病人、そして障害者はそんな存在でしょう。それならば高齢者や幼児、病人、障害者をどう扱えばよいのでしょうか。

 

今、新自由主義を奉ずる人の間では、どうやって経済的、かつ効率的に面倒をみればよいのか、という議論が主流です。例えば、高齢者医療はどうすれば納税者の負担が軽くて済むかという議論や、障害者が地域の他の住民、つまりわたしの言い方では非障害者と同じ地域で住み続けるために、どのような支援が必要かという議論です。

 

基本的に高齢者と障害者は、幼児や病人などと共に、社会にはコストが掛かるので「(健常者は? 納税者は?)覚悟を決める必要がある」と言っているように聞こえます。そこには「<障害者>ゆえの感性を生産性に、あるいは人生に活かす」という視点はなく、<障害者>という存在は、ただ一方的に「(非障害者から)援助を受けるだけの存在」に過ぎないのです。

 

この新自由主義の考え方を見れば、わたしに投げ掛けられた「職場に残りたいのなら、(障害がどうのと)あれこれ言わずに<健常者>のように働くべきだ(それができないなら辞職するべきだ)」という言葉や、「退職勧告者候補」という書類の持つ意味が痛いほど分かります。

 

「退職勧告者候補」を用意した人に悪意があったのか、なかったのかは分かりません。少なくとも、トラウマのために大学院の講義ができないと言ったわたしに対して、異議を唱えるべきだという思いがあったことは確かでしょう。

 

■「二項対立」によって生まれる厳罰傾向

 

このことを分析するのにぴったりの論文がありました。『法と心理』に載っていた「厳罰傾向と"非合理な"思考」という論文です(向井・三枝・小塩, 2017)。

 

この論文の中で、向井さんたちは、今、犯罪の厳罰化と共に「法律の感情化」ということがよく議論されていると言います。司法では犯罪の反感や憎しみに囚われることなく冷静な判断が求められるはずです。それにもかかわらず「法律の感情化」と言われるのは、現実には司法の現場にも感情的な判断が持ち込まれていて、そのことが厳罰傾向につながっているからだと述べています(向井・三枝・小塩, 2017)。

 

向井さんたちは、いくつかの感情的な思考法を一つひとつ検討していきます。

 

まず「二項対立の思考様式」です。「二項対立の思考様式」とは、「外集団/内集団」、「敵/味方」、「犯罪者/通常人」といったふうに、実際は分けられないのに、無理やり人びとを二つのグループに分ける思考法です。

 

そして「外集団・敵・犯罪者」と見なされた人は厳しく罰し、グループから排除します。また「内集団・味方・通常人」と見なされた人には、本当は犯罪者であったとしても寛大な処置をするというものです。これは一種の認知バイアスです。事実とは異なる感じ方ですが、「二項対立の思考様式」は人びとの判断に、そして司法にも、大きな影響を与えていると指摘する研究者は多くいるそうです。

 

次に挙げるのは「社会的支配指向性」です。「社会的支配指向性」とは秩序の維持のために厳罰傾向が強くなるということです。

 

大きな病院の看護師という集団を考えてみましょう。そこには看護師長がいて大勢の看護師がいるとします。カンファレンスは患者一人ひとりの病状を、さまざまな立場の医療人が報告し合う大切な会議なのに、無断で欠席してしまった看護師がいたとしたら、その看護師長はどうするでしょう。「社会的支配指向性」の強い看護師長なら欠席した看護師に厳罰を下すでしょう。ところが「社会的支配指向性」があまり強くない看護師長なら、むやみに罰を下すのではなく、穏やかに諭すのかもしれません。「社会的支配指向性」はリーダーの人間性が大きく影響しそうです。

 

最後に挙げるのが「仮想的有能感」です。「仮想的有能感」とは、他者の価値を根拠なく低く見積もることです。そうすることで自分自身の価値を高いかのように錯覚するのです。実際に「仮想的有能感」を得るために、人には厳罰傾向が表れるそうです。内集団に属する人には自分と同じだけの価値と有能性を感じ、外集団に属する人には(仮に有能な人であっても)低い価値しか認めないというのはよくある認知バイアスです。

 

医療者と患者は暗黙の内に「仮想的有能感」の影響を受けています。社会的には有能な人であっても、患者になれば価値は低く扱われがちです。医師と看護師も、元来は職種が違い、働き方が異なるだけなのに、「仮想的有能感」の影響を受けて、上下関係があると錯覚するのかもしれません。もちろん「仮想的有能感」は医師側が持ちます。

 

研究の結果はというと、合理的な思考ができない人が「二項対立の思考様式」に囚われると、他者に対して厳罰傾向は強くなることが分かったそうです。また「仮想的有能感」も厳罰傾向を強くします。ただし、この結果は「二項対立の思考様式」に影響を受けているそうです。

 

一方、ちょっと考えると「社会的支配指向性」の強い人は厳罰傾向も高まりそうですが、統計的にその傾向は弱かったということでした。

 

どうも厳罰傾向をもたらす最大の原因は「二項対立の思考様式」にあるようです。つまり、「外集団/内集団」、「敵/味方」、「犯罪者/通常人」という、元来は分けようがない分け方で人びとを分け、「外集団・敵・犯罪者」と見なされた人に厳罰を科していたのです。ということは、わたしも「外集団・敵・犯罪者」と見なされたがゆえに「退職勧告者候補」という書類を送り付けられたということになりそうです。

 

 

■一人ひとりのマイノリティの意図を活かす社会へ

 

先にわたしは「すべての分野を市場経済に任すと、とんでもない欠陥も『効率化』という言葉の前に目をつぶらなくてはならなくなってしまいそうです。わたし自身は、分野によっては採算を度外視してでもやらなくてはいけないことがあると思っています。今は競争と効率化を重視する新自由主義と新自由主義だけではいけないという考え方が、せめぎ合っているのではないでしょうか」と書きました。

 

宇沢弘文という経済学者がいます。2014年に86歳で亡くなりました。新自由主義と市場原理主義を批判し、「社会的共通資本」という概念を打ち出しました。非常に有名な研究者でした。

 

「社会的共通資本」として、宇沢さんは自然環境や農の営み、上下水道や電気などのインフラストラクチャー、そして教育や医療を軽がるしくお金で量るべきではないということを言いました。実はわたしは、この宇沢さんの言葉に感銘を受け、宇沢さんの書いた本を読み、多くのことを学んだのです。特に教育や医療を軽がるしくお金で量るべきではないという言葉は重いと感じています。

 

「職場に残りたいのなら、(障害がどうのと)あれこれ言わずに<健常者>のように働くべきだ(それができないなら辞職するべきだ)」という言葉や「退職勧告者候補」という書類を送って来た行為は、新自由主義の発想を忠実に守ったがゆえの行為だと感じています。ある意味では古くさい発想です。現在はさまざまな立場のマイノリティがさまざまに発言できる時代です。

 

一人ひとりのマイノリティの意図を活かすことが、新しい社会を形づくる時代なのです。


(文献)

向井智哉・三枝高大・小塩真司(2017)厳罰傾向と"非合理な"思考法と心理, 17: 86-94


(三谷雅純 「ことばを失う」の人類学 わたしをフィールド・ワークする 第18回おわり) 

17回はこちら


乳がん患者の実態を笑いと涙で描いた医療ラブコメ劇

「ブレストウォーズ®️恋する標準治療!〜女の胸はときめくためにある。」(ブレ恋!)

アンコール配信されています。

それを記念して、このたびその劇中歌1曲が本日0円リリースされました。

看護師さん、看護学生さんたちに歌ってもらいたい、使ってもらいたい――

その思いを、本演劇の脚本・演出家の鹽野佐和子SARAさんに

つづっていただきました。

ブレ恋!とは?

ブレ恋!は昨年20213月に横浜市で上演し医療ラブコメ劇です。脚本・演出家である私、鹽野佐和子SARA(しおのさわこ・さら)が、自分の乳がん体験をベースに、"がん友達"に取材を重ねて執筆。公募したサバイバー3人に演技レッスンを受けてプロ俳優と共演してもらうという、演劇界的にも医療界的にもあり得ない、前代未聞の企画でした。自身のプロの表現者としての生命と、肉体的命(小葉がんステージ3)、そして丸2年の月日をかけた一大プロジェクトでした。 

感染症予防のため客席数は半数、稽古時間は30パーセント短縮という過酷な条件でしたが、おかげさまで公演は大成功。評判は海外まで届き、昨年10月はアメリカと日本の両方でオンライン観劇会(舞台を録画した動画を鑑賞)も開かれました。その時ご覧いただいたSatoko Fox先生は、「かんかん!」に「涙ちょちょぎれ」とレビューを寄せてくださっています

 

劇は、横浜の平凡な48歳の主婦が乳がんの告知を受けるシーンから始まります。医師との葛藤、夫とのすれ違い、患者同士の友情など、この病気の現実を歌とダンスを交えてユーモラスに描いています。 


 タイトルからも分かるように、医師と患者の信頼関係をラブストーリーっぽく描いているのも特徴です。ラブ仕立てにした理由は、女が胸を痛めると言えば、やはり乳がんではなく「恋」であって欲しいと考えるからです。恋は、どんなにつらい時でも人を再起させるパワーになります。まさに、「女の胸はときめくためにある」のです。 


逆に胸を失う時、恋やパートナーとの関係が崩れていく、その敗北感は類がありません。そんなリアルな患者の思いを、言葉ではなく、感動を通して、「かんかん!」をご覧の皆さまに届けたい。そのために、この演劇配信を見ていただき、そしてラストでは、「使命と希望」を感じていただきたいと願っています。


サントラ制作―歌で乳がんの不安を吹き飛ばすために

ブレ恋!を再配信するにあたって、劇中音楽を1本のサウンドトラック・アルバムにまとめるプロジェクトを今年10か月間かけて進行してきました。

 

この企画に賛同した乳がんサバイバー5人を含む男女19人が「ブレ恋! ラララ組」としてスタジオに集結。プロもアマも素人も元気に楽しく歌い踊りました。ラララ組全員の思いがいっぱいのアルバムは9月末に発売され、中でも「ときめきの歌」と「恋する標準治療!」は耳目を集めています。「ときめきの歌」は人生讃歌。「恋する標準治療!」はM-POP(メディカル・ポップス)です。

M-POP「恋する標準治療!」シングル0円リリースへ

「恋する標準治療!」は、劇中、先輩患者たちが主人公に病気の基礎知識と心構えを諭すシーンのために作った曲です。


♪ 癌癌言われて凹む胸 恋する標準治療 


 という歌詞で始まり、


♪ ステージ0 シコリがないの ガンが乳管にじっとしているの 


と続き、 


 ああ だけど恋のステージは一気飛ばしで100まで行きたい  

  応えてドクターこの胸の痛みを止めるのは誰? 


とクライマックスで歌い上げます。 

リズミカルなビートによって難しい内容が伝わりやすくなっており、歌・劇の医療監修をしてくださった中山紗由香先生(昭和大学病院)のご希望で「治療、がんばろう!」と思える応援歌にもなっています。


 舞台では乳がん患者役がキレッキレのダンスを、医療者役がヲタ芸を繰り広げて、シーンは大いに盛り上がりました。それをご覧になった医療教育者の方が「教材に使いたい」とおっしゃった時から、私はこの曲のシングルアウトを考えていました。 

医療従事者の方が歌ってくだされば、一般の人は乳がんをより身近に感じて、「病気になっても1人じゃない」というメッセージが伝わりやすくなると思います。 

そんな願いから、この記事が「かんかん!」に掲載される本日に、「恋する標準治療! Short Ver.」のシングルアウトを0円リリースしました。カラオケ付きです。

大事なことを楽しく伝えるために

この曲を、看護師さん、助産師さんをはじめとする医療従事者の皆さん、看護学生さんや看護教員の皆さんに学校や施設内外のイベントで歌ってもらいたい、動画サイトに「歌ってみた」「踊ってみた」動画をどんどん投稿してもらいたい、なんならNHKのど自慢にもエントリーしていただきたい、と心から願っての0円リリースです。


 医療情報の伝え方はさまざまですが、大事なことほど楽しく伝えたいというのが、エンタメで社会貢献を目指す私の願いです。 

かんかん愛読者の皆さま、M-POP「恋する標準治療!」を歌って踊ってダイエット......ではなくて、歌って踊って、乳がん啓発しませんか?  

歌詞にもあるように、 


 あなたのガンがどんなガンでも皆で踊れば怖くない 


 と広く伝えるために!



M-POP「恋する標準治療! Short Ver.」シングル0円はこちらのURLからダウンロードできます

https://rabbitsbase.stores.jp/

M-POP「恋する標準治療!」シングル ジャケット.jpg










◎舞台動画配信チケットとサントラアルバムの39セット

https://rabbitsbase.stores.jp/items/63241b0a25c9062bea4d6182

 

・舞台動画チケット発売:1231日 24時まで

・配信:202319日 24時まで

 

 ブレ恋!のあらすじはこちらをご覧ください

ブレ恋!1分ダイジェスト

https://youtu.be/wpfb0Eifj7Q

 

130秒で泣けるブレ恋!モーションコミック祈編 若年性乳がん患者の恋

https://youtu.be/wGqkNxzf6Gc



◆同僚の言葉に苦しむ


2009年、日常から解放されたインドネシアでの調査を終えて日本に帰ると、大学から厳重に封をした封筒が届きました。何だろうと開けると、わたしは「退職勧告者候補」であるという書類でした。動悸が速まります。

 

この連載の8回「もうひとつの生き方―前哨戦」には、

 

脳塞栓症におちいる以前は仲の良かった同僚が、研究室を代表して、わたしに「最後通告」を告げに来ました。


君はもう研究はできない。これからできることは、脳梗塞の患者として、医学者の研究に(自分の身体を使って)素材を提供することだ。

 

とあります。そして

 

職場に残りたいのなら、(障害がどうのと)あれこれ言わずに<健常者>のように働くべきだ。(それができないなら辞職するべきだ)

 

と言われたと書きました。


それでも、わたしは、失語や易疲労性のこと、たった今したことでも簡単に忘れてしまう悔しさについて、できる限り説明してみました。聞きながらその人は怪訝な表情をしていましたが、それ以上、わたしの進退を追求することはありませんでした。ただ、本当のところは、いまだに分かっていないと思います。


と続きます。

 

今では、社会は<障害者>を受け入れるのが当然のこととされています。事実、法律上も、前身の身体障害者雇用促進法から数度の改正を経て、理念上は現行の障害者雇用促進法(障害者の雇用の促進等に関する法律)が、働きたいという希望を持つ障害者の味方となっています。

 

◆容易に差別と見なせない言葉の存在


しかし、わたしが脳塞栓症を発症した2000年代初め頃の社会には、<障害者>は「<健常者>のように働けないのなら、辞職するのが当然だ」という<健常者>がつくった暗黙のルールが生き残っていました―これを読んでいる皆さんもうすうす気が付いているように、この暗黙のルールは今も生き残っています。理想は理想として、<健常者>の本音は別にあります。

 

わたしは、兵庫県には哺乳類の専門家として務めました。もともとは霊長類学という人類学が本来の専門だったのですが、研究者は職がない時代を迎えていました。少しょうのことには目をつぶり、狭き門から「哺乳類の専門家」として職を得ました。

 

この連載の2回「頭が引き裂かれて角が生えてきた」の中に「当時わたしは、兵庫県で新しく野生動物の研究施設を立ち上げようとしていて、その基礎となる哺乳類や鳥類のデータをまとめ、分かりやすく行政職員の言葉に直す(翻訳する?)という作業を行っていました」という文章があります。


私は、もともとはフィールド・ワーカーですから、机に座って行うGIS(地理情報システム)の取り扱いは、どちらかと言えば苦手です。しかし、兵庫県域の哺乳類の現状を行政職員に説明するためには、是が非でもGISを使いこなす必要がありました。また、この経験がインドネシアのスマトラ島で行った哺乳類調査(14回「ついにインドネシアに上陸した(1)」)でも役立ったのです。


わたしにその言葉を投げ掛けた人に悪意はあったのでしょうか?

 

悪意があったと思うこともありますし、なかったとも言えます。どちらにせよ、今、言えることは、わたしに投げ掛けられた言葉の罠は、わたしの心を引き裂く力を持ちながらも、容易に差別とは見なせなかったということです。

 

◆レイシズムについて


この原稿を書くにあたり、いくつか論文に当たってみました。その中で「古典的レイシズム」と「現代的レイシズム」という言葉がある(高・雨宮, 2013)ことを知りました。「レイシズム」とは人種差別のことです。

 

「人種」は科学的には根拠のない言葉です低緯度地域の人の肌の色が濃いのは、降り注ぐ紫外線に抵抗するためですが、それでも社会には人種差別が根強く残っています。

 

アフリカ系アメリカ人から始まった黒人差別反対運動のスローガン「ブラック・ライブズ・マター(BLM)」は有名で、「黒人の命を粗末にするな」と京都大学で文化人類学を教えておられる竹沢泰子さんが訳されています。

 

そして日本には民族差別があります。レイシズムを民族差別と読み替えてみれば、日本に住むわたし達にも「黒人の命を粗末にするな」という意味がよく分かるはずです。

 

古典的レイシズム(Old Fashioned Racism)とは、対象のグループが生まれつき劣っているという偽の信念に基づいた、公然とした偏見のことです。アフリカのカメルーンで出会ったホテルのオーナーは、「ここはお前の泊まるところじゃない」と言い放って、泊まろうとしたわたしのカメラの入ったカバンを道に叩きつけました。そのオーナーは初老の白人女性でした。しかし、このような露骨な偏見による古典的レイシズムは、今はほとんど見られません。たいていの人は露骨な差別をしないのです。

 

古典的レイシズムに取って代わったのが、現代的レイシズム(Modern Racism)です。

 

現代的レイシズムでは人間の平等原則を認めています。そして偏見や差別は、今では認められない過去の遺物でしかないと主張します。それでも一部の人種が貧困にあえいでいるのは、他ならぬ当事者の努力が足りないからだと主張するのです。そんな努力の足りない人たちが公的な優遇を求めるのは、現代的レイシズムを信じる人たちにとっては理屈に合わないことでしょう。そして、もうとっくになくなってしまった昔の偏見や差別があった時代の出来事を、当事者はただ言い立てているだけだと言うのです。

 

レイシズムは人種差別が顕在化している地域や国での言い方ですが、人種差別を障害者差別に置き換えてみれば、同じことを言っているのだということがよく分かるでしょう。試しに人種差別を障害者差別に言い換えて作文してみます。

 

現代的レイシズムでは人間の平等原則を認めています。そして偏見や差別は、今では認められない過去の遺物でしかないと主張します。それでも障害者が貧困に(うつなどの二次的精神疾患に、社会からの孤立感に、etc.)あえいでいるのは、他ならぬ障害者自身の努力が足りないからだと主張するのです。そんな努力の足りない障害者が公的な優遇、例えば物価の高騰に応じた障害者年金の増額や受験のときの障害者に配慮した試験の方法(点字で受験する視覚障害者は晴眼者よりも長い試験時間がもらえます)、そして会社や公官庁に障害者の優先求職枠を求めるのは、現代的レイシズムを信じる人たちにとっては理屈に合わないことでしょう。そして、もうとっくになくなってしまった昔の偏見や差別があった時代の出来事を、障害者はただ言い立てているだけだと言うのです。

 

いかがでしょうか。あまりにもぴったり当てはまると思いませんか。

 

これを他のマイノリティの概念、例えば性的少数者、アイヌ、華僑、在日朝鮮人などの異民族、被差別部落に生きる人びと、外国人技能実習生などに変えたとしても、ほんの少し言葉を変えるだけで今日の状況が説明できてしまいます。つまり「現代的レイシズム」とは、わたしから見れば、マジョリティが常識として社会に定着させてきたマイノリティ排除の理屈に過ぎないのです。

 

◆メリトクラシーについて


メリトクラシー(meritocracy)という言葉もありました。日本では「能力主義」とか「成果主義」という方がよくわかるのでしょうか。つまり、努力をして能力を伸ばした人ほど優遇され、努力をしないし、伸ばすべき能力も見失った人は冷遇され、やがて見捨てられるという主張です。営利企業では、今でもよく使う信念です。

 

この考え方には原則があります。それは「平等な競争」と「平等な判定」です。この2つが、メリトクラシーにはぜひとも必要なのです。

 

どういうことかというと、平等でない競争では、本当は誰が勝ったのかよく分からないし、その判定がいびつでは公平性が保証できません。そしてメリトクラシーが成り立つもっとも大事な要素は、すべての人が「均質な潜在能力」を持っているはずだと信じていることです。つまり人間は、生まれつき誰もが等しい「金太郎飴」のような、どこで切っても同じ顔が覗かなくてはならないのです。

 

「努力をして能力を伸ばした人ほど優遇され、努力をしないし、伸ばすべき能力も見失った人は冷遇される」ということは、一見、理にかなったことに思えます。努力をしたのだから、どんな人であっても、その努力は正当に評価されてしかるべきです。反対に努力を怠った人は不利に扱われてもしかたありません。資格試験の直前に、集中して勉強した人と、どうしても集中できなかった人で、一方は合格し、もう一方は不合格になるのが当然だとは思いませんか。

 

でもこの競争(資格試験でしたら、実際は「勝ち負けのつく競争」ではないのですが、今は話を続ける都合があるので「競争」としておきます)は、本当に平等になされたのでしょうか。また合否を決める判定が公平であるという保証はどこにあるのでしょう。

 

例えば試験の直前に、運悪くカゼをひいた人がいたら、その人は実力を発揮できないでしょう。また、ある属性の人にだけゲタを履かせていたとしたら、とても公平だとは言えません。思い出してください。医学部の入学試験で、いくつかの大学では女子受験生は男子受験生よりも不利に扱われました。

 

我われはもともと「金太郎飴」のような「均質な潜在能力」など持っていません。社会は一人ひとり違った多様な才能で成り立っているのです。

 

メリトクラシーは競争が大好きな人の理屈です。それに対して研究者は、「自分の才能は他の誰とも違うが、自分は研究を続ける能力がある」と信じることが大切です。わたしはそう信じてきました。

 

◆障害者として、そして人類学者として思うこと


わたしは人類学者として、障害のない人を前提とした社会の設計には反対です。人という存在は、誰しも障害を抱えているもの―DNAレベルで見ると、当然、さまざまな変異があるものです。誰も彼もが非<障害者>の振りをして、毎日毎日、競争に明け暮れなければならない現代はいびつです。そして非<障害者>を前提に設計された社会が、<障害者>を排除してしまう行為はもっといびつです。

 

わたしに<退職勧告者候補>であると伝えた封筒は、わたしが大学院の講義が行えないと告げたことへの返答でした。

 

大学院の講義は「兵庫県域の哺乳類の現状」を語るというものでした。わたしにとって「兵庫県域の哺乳類の現状」を語ること自体は簡単です。しかし、同時に聞いた「職場に残りたいのなら、あれこれ言わずに<健常者>のように働くべきだ」という言葉が、わたしが大学院の講義ができなかった理由なのです。この言葉はトラウマとなり、時に突然思い出すことがあります。わたしを苦しめるのです。

 

「あなたは<退職勧告者候補>であると伝える」ことに合理性はあったのでしょうか。わたしはそこに、現代的レイシズムやメリトクラシーの理屈を感じてしまいます。


(文献)

高 史明・雨宮有里(2013)在日コリアンに対する古典的/現代的レイシズムについての基礎的検討.社会心理学研究 28: 67-76

 

(三谷雅純 「ことばを失う」の人類学 わたしをフィールド・ワークする 第17回おわり) 

16回はこちら


この日はあいにくの雨のお天気。

認知症の診断を受けて3年が経った、70代の女性がお1人で来てくれました。

何気ない会話の中で私が自己紹介をすると、「とてもお元気そう!」と素敵な笑顔。

 

最初は、雨の中、会場までどんな交通手段を使ってきたかなどの話題から始まりました。

やがて不安が語られ、お互いの「もの忘れあるある話」になり、安心感が生まれ、一緒に笑い声。その場が和やかな空気に包まれました。

 

だんだんと心を開いてくれているかな、と感じ始めた時でした。

女性がかばんの中をゴソゴソと探り、何かを取り出します。

 

それは、丁寧に折り畳まれた書類の数々でした。


診断を受けて3年が経っても......


「わたしは大きな病院で診断を受けたのです。その時、先生から『3年後には何も分からなくなってしまいます』と言われました。でも3年が経って、もの忘れはあるけれど、さほど進行していないことが逆に不安になってしまって......。『進行してないけれどいいのかしら? 私、大丈夫?』と思うようになったのです」

 

思いもよらないご相談に、共感の想いで胸が締め付けられました。

 

私も講演会などに出ると,皆さんが励まそうとしてくれるのか、「全然、認知症らしく見えないから大丈夫」「誤診じゃないの?」「うちの人とは違って進行してないね」と声をかけられることがあります。

そんな言葉を聞くたびに、「私はもしかしたら誤診では?」「進行すれば、私の話も理解されるのか......」という思いが頭をよぎりました。

 

あまりにそう言われるので、あらためて検査入院もしました。

その時は、もしかしたら「認知症ではありません」という言葉が聞けるのではないかという期待と、「認知症でなかったら、今までの活動はどうお詫びしたらいいのだろう......」という複雑な思いで診断を待ちました。そして3度目の「若年性認知症で間違いありません」という結果を聞いた時の気持ちは、言い表すことができません。

 

そんな私の思いと女性の気持ちが重なったかのように感じて、胸が痛くなりました。

「3年後には何も分からなくなる」。そう医師に言われてから3年間、どんな思いで今まで過ごされていたのでしょうか。

実は私はこの日は体調が優れなかったのですが、その女性の言葉を聞いて、一気に自分の中で何かが目覚めるようでした。

 

「それはつらかったですね。3年の間に、どなたかに気持ちをご相談できましたか?」

「離れて暮らす子どもにも伝えられなかったのです」

 

女性は涙ぐみ、ハンカチで涙をぬぐっていました。

彼女は、「進行しない自分」が心配になり、おれんじドアはちおうじに行けば、自分と同じように認知症の診断を受けた人の様子を聞いたり、診断を受けた時の話ができたりすると思って足を運んでくれたのでしょう。


1人1人違う。そのことが大切


私は、自分が診断を受けた直後に感じたことをお話ししました。

当時は認知症のイメージが今よりもよくなかったことから、インターネットで検索して見つかる情報はとてもつらいものだったこと。

認知症にはたくさんの種類があり、個人差があるため、人によっては進行してしまうこと。しかし現在では、たくさんの方が、認知症という診断を受けた後も生き生きと生活していること。

どんな病気にも初期の状態があり、認知症も同じように、いきなり重度にはならないこと。

そして、今、私の目の前にいる女性は、とても笑顔が素敵であることをお伝えしました。

 

「その笑顔の裏には、進行しないご自身について悩み、笑顔ではない時間もきっとあったことでしょう。それでも、認知症には個人差があり、その個人差こそが大切だと私は思います。何より今日、この雨の中、足を運んでくれたことが私はうれしいです」

 

そんなふうにお話しすると、女性は「不安」という憑き物がストンと落ちたような表情になり、丁寧に畳まれた書類を広げて見せてくれました。

 

それは、病院でもらったらしい検査結果の用紙でした。

その裏には、びっしりと、彼女が書き記したであろう不安の言葉が並んでいました。

 

私はその文字が目に入りましたが、話題にはしませんでした。

なぜならば、その時目の前にいた彼女は、同じ診断を受けた者同士の会話や、ファシリテーターの助言などを通して、安心感あふれる表情をしていたからです。

 

女性は最後に、「そうよね。個人差はありますよね」と言いました。その瞬間、折り目のついた検査結果は、彼女にとってただの「記録」になったように見えました。

 

女性は、来た時よりもさらに素敵な笑顔と軽やかな様子でおれんじドアを後にしました。お見送りする私が「いつでもまたいらしてくださいね」と声をかけると、ちょっと照れながら小さく手を振ってくれました。帰り道では、きっと軽やかに、雨の日のステップを踏んで歩いているのではないでしょうか。そう感じられる、上品で素敵な女性でした。



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3年目のインドネシア


インドネシアのジャワ島やスマトラ島でご一緒した渡邊邦夫さんは、インドネシアのスラウェシ島やタイ王国のカニクイザル、中国のキンシコウの調査へと、精力的に飛び回っていました。わたしはジャワ島のパンガンダラン自然保護区でルトンという葉っぱばかり食べる変わったサルの調査を続けていました。

 

そんな調査も2009年に入り、3年目になりました。家族も息子はいつの間にか中学生、娘は小学校の最終学年になっています。

 

その年もインドネシアに出発する日が来ました。毎年、大学の夏休みを調査に充てています。いつもは妻が見送ってくれるのですが、その年は妻に代わって息子が空港までエスコートしてくれることになりました。トランクなど重いのに持てるのだろうかと心配になります。しかし、わたしが持ってもマヒがあるので同じようなものです。

 

わたしが左手で階段の途中までエッチラ、オッチラ運んでいると、見かねた息子が代りに運んでくれました。そして空港に着いて、ご苦労さんと言うと、「じゃ」と言ってあっさり別行動になりました。何のことはない、息子は最初から飛行機を間近で見たかっただけでした。

 


◆インドネシアのお汁粉


インドネシアに着いてしばらくすると、パンガンダラン(15回「ついにインドネシアに上陸した(2)」参照)からインドネシア人の観光客が消えてしまいました。イスラム教徒にとって大切な断食月が、2009年は822日から始まったのです――暦の仕組みが違うので、太陽暦、つまり普段わたし達が使っている暦とは、毎年、少しずつずれていきます。

 

断食月は日の出から日の入りまでは飲んだり食べたりできません。今回も調査に付き合ってくれているボゴール農科大学のカンティさんは、わたしや渡邊さんのために、昼間、開いている食堂を探してくれました。しかし、パンガンダランから歩いて行ける距離には見当たりませんでした。しかたがないので、スーパーマーケットで乾パンのような甘くないパンを買ってきて、もそもそと食べていました。

 

お世話になっている宿のラウト・ビル(青い海)の奥さんは、わたし達が一日の調査を終えてシャワーを浴び、寛(くつろ)いでいると、甘く冷たい飲み物を持ってきてくれます。わたし達は「お汁粉」と呼んでいました。ニコニコしながら持ってきてくれるので、心が温かくなります。断食月といっても日没以後はものを食べてもよいのです。飲み物の名前は忘れてしまいましたが、中に小さなタピオカ(キャッサバ芋のでんぷんを練ったもの)が入っていて、疲れた身体に甘さが染み渡る気がしました。日本ではタピオカ・ドリンクと呼んでいますが、それをもっと甘くした感じです。

 

その日も遠くのモスクからお祈りを誘う声が響いてきます。ところが、いつもとは声の主が違います。いつもはアラビア語で詠唱する男性の声なのですが、その日は女性の、しかもよく聞くとインドネシア語なのです。きっと断食月の特別な行事が始まったのでしょう。


 

 

写真1 石灰岩でできたパンガンダランにはイチジクの仲間が多く育ちます


 

 

写真2 パンガンダランを発つ日。左端から、渡邊邦夫さん、カンティさんの先生のバンバンさん、カンティさん、ラウト・ビルの奥さんと、たぶんお孫さん

 


◆サンティさんへのお土産


スマトラ島のサンティさんに話を移します。サンティさんは、西スマトラ州のアンダラス大学から東隣のブンクル州に移り、ブンクル大学に務めていました。男の子が生まれ、その赤ん坊の世話で休職中です。そのサンティさんのためだと言って、渡邊さんはブンクル大学に挨拶に行く予定でした。わたしも、当然、ブンクルまでお供します。

 

 

図1 スマトラ島の西スマトラ州とブンクル州

 

赤ちゃんでも分かる日本のお土産ということで、わたしは妻と相談して『いない いない ばあ』という絵本を持って行くことにしました。

 

『いない いない ばあ』は息子が赤ちゃんのとき、大好きな絵本でした。何度も繰り返し見たために、背表紙がすり切れています。それに「いない いない ばあ」遊びは、どの民族の赤ちゃんも好きに違いありません――ちなみに「いない いない ばあ」はインドネシアでは「チュルッバア」といいます。これを言えば赤ちゃんは大喜びです。

 

『いない いない ばあ』に加え、同じような絵本を数冊用意しました。サンティさんや赤ちゃんは喜んでくれるでしょうか。

 


◆ラマダンの夜に


ブンクルに到着した日のことです。深夜に宿のドアをノックする人がいます。そして「サフール、サフール」と大声で部屋の中のわたしに呼び掛けるのです。「サフール」とは何のことだろうと寝ぼけ眼(まなこ)でドアを開けると、客室係の青年がわたしを見て、

 

カーフィル?(異教徒?)

 

と言ったのです。びっくりしていました。「サフール」とは、断食月に日が昇る前の深夜、3時頃に食べる朝食のことでした。朝食ができたと告げに来たのです。まさか異教徒が泊まっているとは思わなかったのでしょう。

 

ブンクルは開発が遅れた地域でした。湿地が多く蚊が湧くためにマラリアになる人が多くいるそうです。それだけ野生動物は豊富なのでしょう。わたしはコンゴ共和国のンドキの森の湿地林のことを思い出しました。とりあえず、ここがどのようなところか確かめてみなければなりません。

 


◆家畜としてのスイギュウとゾウ


朝の4時に起き出し、渡邊さんに連れられてブンクル近郊の二次林に行ってみました。そこにもカニクイザルや黄色い毛色のコノハザル(リーフモンキー)がいましたが、わたしの興味を引いたのは藪の中から聞こえる「コン、コン」「コン、コン」という奇妙な音です。

 

渡邊さんは、家畜のスイギュウ(水牛)が首に提げている鐘を鳴らす音だと教えてくれました。スイギュウはウシに似ていますが、まったく別の動物です。「水牛」というくらいですから川に浸って眠り、夜の外敵を避けるのだそうです。スマトラ島の経験ではありませんが、ボルネオ島(カリマンタン島)のサバというところで、突然、川からウシ(実はスイギュウ)がヌッと上がってきて、びっくりしたおぼえがあります。スイギュウを飼うためには伝統的な飼育法が必要なので、最近は子どもを効率よく産むウシを飼う家が多いそうです。

 

スイギュウはサンティさんたちミナン人とはとても縁の深い動物です。ミナン人のことをミナン・カバウ人ともいいます。「カバウ」というのはミナン語で「オスの水牛」という意味だそうです。

 

故事によれば、ある王子がミナン人と領地を争ったことがあったそうです。その争いに決着を付けるために、互いのスイギュウを戦わせることにしたのですが、王子の側はいかにも強そうなスイギュウだったのに対して、ミナン人のスイギュウは、まだ母親のミルクを欲しがる子どものスイギュウでした。ただ、子どもの角はナイフのように研いでありました。2頭のスイギュウを出会わせたところ、子どものスイギュウはミルク欲しさに大きなスイギュウのお腹の下に潜り込んで、乳房を探して何度も頭を突き上げたものですから、王子のスイギュウは一溜まりもなく負けてしまったということです。

 

実際のスイギュウは大変おとなしい動物です。家畜になってからの歴史も長いのです。スイギュウにスポットを当てた文化人類学のドキュメンタリーが撮影できれば、皆がとっくに忘れてしまった時代に戻れるようなドキュメンタリーができあがることでしょう。テーマは「水牛と飼い主のスローライフ」ではどうでしょうか。

 

ゾウを飼育しているところもありました。野生のゾウが村に来て暴れるので、捕まえて訓練し、家畜にするのだということです。

 

飼育場の近くまで行ってみると、ゾウのいるところまでは斜面を上っていかなくてはなりません。何カ所かぬかるんだところがあり、坂が急です。道幅は30センチ・メートルほどしかありません。ゾウは、毎日、この坂を上り下りするのだそうです。よくもまあ、巨体のゾウがこの狭い坂を上り下りするものだと感心します。一個所、上りきれなかったのか、大きく迂回した跡がありました。

 

坂を上ろうとすると、わたしの右足首は力が入らず、内向きに体重がかかるとクニャと曲がってしまいます。しかし、泥の斜面では曲がるのは当然です。難行苦行、悪戦苦闘を続けました。学生や元レンジャー、それに渡邊さんや他の日本人の青年にも助けられて、やっとのことで上りました。

 

ゾウの繋がれた草地は放棄された畑のように見えました。ゾウはそこで、おとなしく草を食べていました。

 

わたしにとって本当に大変なのは下りです。上りは足に力を入れれば上れるのですが、下りるときはバランスが必要です。どうやって下りようか迷っていると、元レンジャーの青年がわたしを背負ってくれました。一歩一歩、足下を確かめながら、体重が70キログラムはあろうかというわたしを背負って下りていくのです。一瞬、不安になりましたが、心配することはありませんでした。

 

坂の麓まであと少しというところで青年が一休みすると、わたしは行けそうに思えたので、滑り台の要領でおしりを付いて滑り降りました。そして最後の滑り台で泥んこにはまってしまいました。それでも、どうにかこうにか、ゾウは見に行けました。

 

 

写真3 狭い坂を上るゾウ


 

 


写真4 ゾウが野生のバナナを引き倒した痕。ゾウはバナナの茎にある髄が好物です


 

 



写真5 草を食べに来たゾウ

 


 

◆ブンクル大学へ


渡邊さんの言っていた挨拶をする機会がありました。ブンクル大学で互いの研究内容のお披露目のような集会が開かれたのです。若い学部長と副学長、それに教員が10名以上集まっています。学部長は英語が上手です。まず英語で簡単に大学の成り立ちなどを説明してくれます。渡邊さんは、インドネシア語も英語もどちらもできますが、この時は、インドネシア語だとわたしが分からないので、英語で哺乳類の地理分布を調べにスマトラ島にやってきたと話していました。

 

次はわたしの番です。昨夜は簡単に英語で自分の研究を振り返り、これでいいだろうと安心して眠ったのですが、いざ本番になると思わぬところで失語が出て、後はぼろぼろでした。話し終えると、思わず肩で息をしていました。それでもブンクル大学の教員は、わたしのたどたどしい英語を黙って聞いていてくれていました。

 

青年が一人、日本に留学していたことがあると言って、日本語で話し掛けてくれました。東北大学と岡山大学で学位を取り、今は日本で研究者の職を探しているのだそうです。

 

学部長の招待で、ブンクルのレストランに行きました。海岸近くのレストランです。するとそこにサンティさんが赤ん坊を連れてやってきました。

 

にこにこ笑いながら、「ミタニ センセイ、わたしの男の子です」と言って赤ん坊を見せてくれます。抱かせてもらおうかと思いましたが、マヒのことを思い出して諦めました。うちの娘なら小さいときに抱いたおぼえがあるのですが、それからは時間が経っています。サンティさんは、それまで抱いていた印象と違う顔立ちに見えました。それでも確かにサンティさんでした。

 

サンティさんらも交えて、何人かで夕食をとりました。学部長は会話を盛り上げようとして盛んに話し掛けてくれます。しかし渡邊さんにばかり会話の相手をしてもらい、結局、わたしはひと言も喋ることができませんでした。疲れていたのです。ただ笑うことしかできませんでした。

 

夕食会の後は、学部長をはじめ、副学長やもう一人の丸顔の男性が並んで、わたし達を送り出してくれました。そうすることが正式の礼儀なのでしょう。

 

サンティさんに我が家からの贈り物だと言って、絵本を差し上げました。妻が娘と一緒に買いに行った絵本です。そのことを伝えると、サンティさんは

 

「ありがとうございます」

「奥さんや息子さん、娘さんによろしくお伝え下さい」

 

と、顔がほころびました。

 


◆突然届いた郵便物


今回も、周りの人に甘えて、無事、調査を終えることができました。インドネシアでは時間がゆっくり流れています。ゆったりとした気分になるのです。

 

そのゆったりとした気分は、飛行機で日本に向かうとともにじょじょに壊れていきます。日本に向かう飛行機は重い空気の中を飛んでいるようでした。

 

日本に帰り、溜まったメールをチェックし、郵便物を開封しているところに、大学から厳重に封をした封筒が届きました。何だろうと開けると、わたしは「退職勧告者候補」であるという書類でした。動悸が速まります。筋緊張が上がりました。

 

話は次回へ続きます。


(三谷雅純 「ことばを失う」の人類学 わたしをフィールド・ワークする 第16回おわり)


15回はこちら


2022723日、東京・代官山 蔦屋書店にて、「シリーズ ケアをひらく」の最新刊、村瀨孝生さんの『シンクロと自由』の刊行記念トークイベントが行われました。

お相手は、同シリーズで『どもる体』を刊行している伊藤亜紗さん。村瀨さんの最高の理解者である伊藤さんは『シンクロと自由』をどう読むか――注目の対談を、当「かんかん!」では4日連続更新でご紹介します。

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【目次】

1 介護と「わたし」(823日更新)

2 心ないシンクロは気持ちいい(824日更新)

3 自由は、後ろのドアを開けてやってくる(825日更新)

補 ヒントいっぱいのQ&A826日更新)

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 補 ヒントいっぱいのQ&A



「あなたそういう人だったよね」――家族を看る難しさ

 

――(代官山 蔦屋書店・宮台由美子さん)見てくださってる方がQ&A書き込まれているのでご紹介します。「介護する人/される人が、夫婦にたとえられたり、親の介護の話が出ましたが、おふたりにとって、家族とそうでない関係の最も異なるところはどんなものだと感じられますか」

 

伊藤 いかがですか、村瀨さん。

 

村瀨 家族と、そうでない関係の最も異なるところ。......なんでしょう、情実かなぁ。

 

伊藤 情実......。

 

村瀨 いま母の介護してて、どうしても怒りが湧き上がってくる瞬間があるんですよ。母、せっかちなんですよね。心配性のせっかちなんです。それは認知症だとか、症状によって起こってるというのではなくて、「あなたいつもそうだったよね」っていう気持ちが出てくる。デイサービスを待つ時間にしても何にしても、「あぁ、いつもそうやって僕を急かしてきた」みたいな。「そうやって僕の心配をしてるようで、結局自分が心配なんだよね」と。

 それを子どものころは言語化できなかったわけですよ。だけど大人になって、言語化できるようになっちゃった。「あっ、あなたそういう人だったんですね」って。そうやって、あれだけ思春期で抗ってたことの正体が、なんとなく自分なりにつかめちゃったりする。他人には生まれない情実みたいなものが編み込まれてた、その縄の成分を知っちゃったみたいな感じです。

 僕はいつも同じところで、母に対してキレてしまうんです。どうしてそうなるのかにだんだん最近気づいてきて......それはやっぱり赤の他人にはないでしょうね。

 他の人は、母のようにせっかちな状況であっても、「お怪我なく済みましたね」とか言えるし、単なる病気としての認知症状に見えたりする。だけど家族は違う。あれは病気でもなんでもなくて、「あれはあの人そのものなんだ」と。

 

伊藤 わたしは親の介護はまだしてないですけれども、子どもに接するときとかに、自分の母親が出てくる。切羽詰まるとすごく怒ったり。普段そんなに人に怒るタイプじゃないんですけど、子どもってけしかけるのがうまいじゃないですか(笑)。お年寄りが、表に出したくないところをうまく引き出すのとおそらく同じで、人をけしかけて怒らせるみたいな。

 そこで引き出されているものって、自分の母親がわたしによって引き出されていたものみたいな感じがします。自分がすごい怒りに飲み込まれたときに、母親がわたしに対して怒っていたのと同じような行動が出たりとかするんですよね。

 それは自分が育ててもらって何十年間も完全に忘れていたことなんですけれども、ふと自分からそういうものが出てくる。もしかしたらわたしの母も、その上から代々伝わってきた、一家でずっと継承してる行動パターンみたいなものなのかもしれないですね。母とそのおばあちゃんと、その向こうがずっと筒の中から見えるような感じにはなりますね。

 

村瀨 子育てと介護ってやっぱり共通してる気がしますね。自分の出自とか、自分の系列、「こういうことか!」みたいな。こういうものを抱えて先祖も生きてきたか、と。

 

伊藤 オートマチックに何かが発動してしまう感じが、やっぱり家族の場合は多いかもしれないですね。

 

村瀨 そうなんですよ。最近僕は本当に、介護って親との出会い直しだと思っているんです。そういう意味では『犬神家の一族』や『八つ墓村』みたいな一族共同体のドロドロしたものがあって、もしかしたら介護っていうのはそれを成仏させる可能性があるかもしれない。母を介護しながら、そういうことに期待してるんです。

 

 

感じてほしい――高1へのアドバイス

 

――高校1年生の息子さんがいらっしゃる方から、「介護の仕事に興味があるようなので、何か一言アドバイスがあればうれしいです」と。いかがでしょうか。

 

村瀨 貴重な存在ですよ。なかなかなり手がなくて、我々の介護業界は、職業的にはもう嫌われてますからね。だからそういう人がいるのはすごくうれしい。しかも高校1年生で。むしろ、どうしてそんな気持ちになったのかを聞きたいぐらい。

 そうですね......どんどん感じてほしいです、僕は。思い通りにならない他者がいて、その思い通りにならない他者と共に、一緒に行動せざるを得ないという状況の中で、どんどんその人を感じてほしい。いま自分の中で起こってることを感じてほしいし、感じていることを思いにしてほしいし、思ったことを考えにしていってほしい。全身でフル稼働したときに生じる「感じる」っていうことに意識を向けてお年寄りと接してもらったら、仕事って楽しいと思います。

 

 

3人目を連れて行く――関係のつくり方①

 

――もう1件「介護やインタビューなどで、初めての人と新しい関係を築くとき、おふたりが特に気にしていること、意識していることがあればぜひ教えてください」というご質問です。

 

伊藤 そうですね......最近インタビューするときには、学生とか、もうひとり連れていくようにしてます。3人目がいるとすごく楽になるんですよね。つまり、いかに「ここで出会います」「関係つくります」みたいな雰囲気にしないかってことのような気がするんです。3人だと、2人が向き合うよりも、ちょっと向き合い度が減ってくるので、いろんな出会い方を探れます。

 学生がすっとんきょうな質問とかしてくれるとすごくいいんですよね。やっぱり相手もいろんな本を読んできたり準備してくれてきちゃうので、それはそれでこっちもつらいんですよね。なので、たまたまご近所さんとして住んでしまったくらいの感じになれたらなと思って、3人目を連れていくようにしてます。合理的な理由になってるのかわからないけど......村瀨さんはどうですか。

 

 

向き合わない――関係のつくり方②

 

村瀨 僕は人と関係をつくるのが、すごく苦手なんですよ。にもかかわらずこういう職業で、人と関係せざるを得ない。ましてや、地域の人とも関係せざるを得なかったりして。そうやって僕的には難しいっていうか、けっこう頑張ってやってるというところがあって。

 人と向き合うのがやっぱり苦手なんですよね、きっと。だから伊藤さんが第三者を連れて行くというのはすごく共感しました、「あぁ、なんか似てるな」と(笑)。職員にも、職員同士の関係をつくるときに、必ずお年寄りを真ん中に置きなさいって僕はいつも言ってます。お年寄りを介して出会うわけです。

「向き合う」「出会う」というところから入ると、お互い苦しいとすごく思います。僕なんか特にそれが苦しくて。なので、介するものが人じゃなくてもいい気がするんですね。用事を入れちゃうとか。それで言うと、介護によって人がつながることができるんじゃないかって思うことがあって。

 今まではたとえば農業共同体だったら、農作業を通じて人が関わらざるを得なかったと思うんですよ。協力せざるを得なかった、ひとりで屋根は葺き替えられないしとか、水の管理なんかひとりじゃできない。そうやって労働が中心にあって、人同士がむしろ直接向き合わない。「労働」じゃなくて「自然」を入れたりしてもいいと思います。だからいま、人が向き合いすぎちゃってるというか。

 そういう形で介護が今後は人をつなぐと思ってたんだけど、なかなか介護でも人はなかなか協力し合わないっていう実感もありますね。短い僕の職業人生ですから、もっと時間がかかることだと思うんですけど。

 でもいま、おばあちゃんのお庭にニンニクを植えさせてもらって、そのニンニクをボランティアさんや職員が世話をしに行ってます。そこで獲ったニンニクをオイル漬けにして、そのオイルを売って我々の資金にする。

 

伊藤 面白~い。

 

村瀨 見守りではなくて、ニンニクをただ庭に獲りに行くだけ。それってニンニクを媒介に、さりげなく「まだ生きてるな」みたいな感じ。そういう形で関係をつくろうとしてるのかな。いずれにしても、あんまり向き合わないほうがいいんじゃないですかね。

 

 

ステルス介護の提案――感謝の外へ

 

伊藤 ステルス(隠密)介護ですね。その話をもう少しうかがってもいいですか。

 

村瀨 今はどこでも、契約して、意識化して、本人も参加するって感じですよね。だから真逆なんですよ。そうじゃなくて、本人に気づかれないうちに介護してた、されてたっていう関係です。

『シンクロと自由』で、あるおじいちゃんのことを書きました。ゴミ屋敷にみたいになってて、夕方になるとたそがれちゃって、電話魔になるおじいちゃんの話です(8章「たそがれるお爺さん」)。僕たちは電話がかかってくると大変だから、電話するときに誰かが行くことにした。サービス精神旺盛なおじいちゃんが自分の旅の話をすることによって、電話のことを忘れちゃう(笑)。


「所長、今、岡山まで行って、帰ってきたところ」

 そう言いながら、玄関先で靴を脱いだ。

「岡山って、今ですか?」

 時計に目をやると針は午前10時を指している。

「所長、そうだよ」

「また、なんで?」

「それが、不思議なことってあるもんだよ。所長。通帳がなくなってね。実はパリでなくしたの。それが、岡山の郵便局で見つかってさ。さっき連絡があったから、取りに行ってきた」

 お爺さんは近所のコンビニにでも行ってきたような感覚で話す。

「岡山まで何に乗って行ったんですか?」

「自転車だよ、所長」

「えっ! 自転車で!? どのくらい時間がかかるものなんでしょうか?」

「いやぁ、休み、休みだからねぇ。1時間ぐらいかなぁ」

(『シンクロと自由』271頁)


村瀨 おじいちゃんはその目論みに乗ってくれて、電話はかかってこなくなるんだけど、そこに行く人たちの靴下が真っ黒になるっていう問題が今度は起こったんです。みんな掃除をしたくなっちゃう。でも、おじいちゃんは困ってないんですよ。困ってるのは僕らの靴下であって。

 こうして、汚いことを気にしないおじいちゃんの問題を、関わることで増やしていくっていうことになり、今度は介護保険でヘルパーさん入れろなんて話になっていく。契約によって、本人の生活がどんどん変質してくるわけです。

 そこで、おじいちゃんをこっそり風呂に誘い出して、留守を預かってる間に、床だけは拭いておこうと。帰ってきたおじいちゃんは、床拭かれたことはわからないだろうって。

 そういう文脈で介護をされていく、地域のなかで生きていく。我々もそういうふうに事を終わらせていく。そういうことがあってもいいんじゃないかなって。むしろ僕はそれをベースにしたいと思ってます。

 

伊藤 すごい話ですよね。落語みたいな話なんだけど。さっきのニンニクの話を聞いてから今の話を聞くと、どんどんステルス化していくっていうか。ふふふっ。介護の"介"って媒介の"介"、間になにか挟まっていくっていう意味ですよね。挟まってお互いが違う方向を向いてるんだけど、全体としては何かが回ってしまう。「制度」としての介護を否定するような、「現象」としての介護、みたいな世界ですよね。

 

村瀨 そうなんです。お年寄りも感謝しなくていいじゃないですか。感謝されたら、僕らもまたやんなきゃいけないって感じになりません?

 

伊藤 たしかに(笑)。

 村瀬さんとのトークは第2弾が実は予定されてまして、919日の敬老の日に福岡の書店、ブックスキューブリックさんで対面で行います。わたしと村瀨さんでずっとやらせていただいてた往復書簡が、ミシマ社から『ぼけと利他』という本になるんですが、その出版記念です。またそのときに村瀨さんと直にお会いできるのを楽しみにしています。

 

村瀨 今度は直接ですよね。楽しみです。

 

伊藤 少しずつ距離を詰める感じで、よろしくお願いします。

村瀨孝生×伊藤亜紗『介護現場から自由を更新する!」了

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【編集部からのお知らせ】

10月16日(日)に、『山と獣と肉と皮』(亜紀書房)や『ニワトリと卵と、息子の思春期』(婦人之友社)で、いのちを鮮烈に描写する繁延あづささんと村瀨さんのトークを、長崎で行います。

タイトルは「涙の出方が変。」

無料でオンライン配信も行いますので、ぜひお申し込みください。詳細はこちら。





2022723日、東京・代官山 蔦屋書店にて、「シリーズ ケアをひらく」の最新刊、村瀨孝生さんの『シンクロと自由』の刊行記念トークイベントが行われました。

お相手は、同シリーズで『どもる体』を刊行している伊藤亜紗さん。村瀨さんの最高の理解者である伊藤さんは『シンクロと自由』をどう読むか――注目の対談を、当「かんかん!」では4日連続更新でご紹介します。

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【目次】

1 介護と「わたし」(823日更新)

2 心ないシンクロは気持ちいい(824日更新)

3 自由は、後ろのドアを開けてやってくる(8月25日更新)

補 ヒントいっぱいのQ&A826日更新)

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 3 自由は、後ろのドアを開けてやってくる



鼻水に、癒やされ許され、救われる

 

伊藤 ここからはPARTⅡの「自由」の話もうかがいたいです。前回の「お年寄りとシンクロしてる状態が怖くなったときに、そこから離脱してよい」という話は、「そういう自由がある」というように一見読めるんですけれども、たぶんそうじゃない。もし離脱していいという話で終わっていたら、それは介護する人が自分を守るための方法の話にしかならないですから。

 この『シンクロと自由』には、その先があると思うんです。つまり離脱したときって、なんらかの罪の意識っていうんですかね、罪悪感みたいなものを介護する側は背負うんじゃないかと思うんです。離脱をしたことによって背負った罪の意識が、なんかとても不思議な形でお年寄りの側から「許される」――結果的に許されるような不思議な出来事が起こる。そんなことがこの本にはたくさん書かれています。

 たとえば、おばあさんが鼻水すすってるうちに、それがハミングになり、さらにソプラノの歌声に変化した話が出てきます(27頁~)。これは一体何が起こっていたのかなって。

 

 ぼくは危険な領域へと向かいつつあった。それを制したのは、おばさんの悲しみに満ちた口調だった。

「私にもまだ、まだ、やれることがあると思うの。どうして......どうして......」

 シクシクと泣きはじめたのだ。呼吸に合わせてすすられる鼻水。それが徐々にリズムを帯びてきた。やがてリズムはハミングに変わる。ハミングは見事なソプラノの歌声へと変化していった。

 おばさんは自らの歌声に励まされていく。悲しげな顔から、晴れ晴れとした表情になり、艶のある伸びやかな声で歌いあげる。ぼくはあっけにとられ一部始終を見届けた。わずか数分の出来事はぼくを劇的に変えた。

(『シンクロと自由』28頁)

 

村瀨 いわゆる若年性のアルツハイマーの方だったので、「おばさん」って書いてましたね。老いによるものではないんですが、それを抱えて長く生きてこられてるんで、認知症状としてはかなり低下している状態なんです。

 言葉も断片的でしかなかったんですけど、明け方4時ぐらいにね、「わたしにもできることがあると思うんだ」みたいなことをお話しされて、それで急に泣き出されたんですね。もうそのときは本当に号泣に近いというか、慟哭というか、そういうとっても重たいものだったんですよ。僕はもうどうしようもできない。ああいうときには、肩に手を添えることもできないんですよね。

 そしたらね、鼻をすすりながら泣きじゃくっていたら、だんだんリズムに乗ってきて、それがやがてハミングになってきて、最後には、クリスチャンの方だったから讃美歌のようなすごい高いソプラノになって、歌い上げる。鼻をしゃくりあげるのがリズムになって、そこからハミングになって、その自分の歌声がワ~っとのびやかになったときにもう生き生きしてて。

 そのあいだ、僕はなんにもしていないんですよね。さっき泣いてたじゃんって。あんな深刻に泣いてたのにって。そんなことが起こるんですよね。

 

伊藤 その手前の段階では、村瀨さんはかなりその方に手を焼いていた。どう付き合ったらいいんだろうみたいに感じてたのに、その方が自ら慰めていくというか、鼻水の力で癒やされていくみたいな。不思議ですね。

 

村瀨 そうなんですよね。その方が寝ないから僕も結局寝れなくて、限界が来てたんですよね。それ以前に、寝かせよう寝かせようとしてる僕に問題があるんですけどね。そういう関わりの中で、お互いに破綻していったんだと思うんです。だけど、そんな両者が、こんなふうにして鼻水に救われるという......僕もそこで解放された。

 

 

後ろのドアが開いちゃう問題

 

伊藤 なんか救いっていうんですかね。癒しというか。そういうものが常に訪れるわけではないだろうし、繰り返し起こせるものではないと思うんですけど、ときにそういうものがやってくる。これがすごいなぁと思うんですよね。

 わたしの中で、「後ろのドアが開いちゃう問題」っていうのがあるんです。それは、自分がなんとかしなきゃみたいな、この問題をどう解決しようみたいに集中してるときに、ふっと後ろのドアが開いて、ス~って風が入ってきて、「あっ、そうだった」みたいな、「こっちか」みたいなふうにして解決する。

 問題が解決するときって、だいたいそういうパターンのような気がするんです。自分が狙っていた道筋で解決したように見えるときって、実は小さいサーキットの中で問題が一周しただけの話で、根本的な何かはほぐれてないときが多いんですよね。でも根本的な何かがほぐれるときって、いつも後ろのドアが開く感じがする。

 

村瀨 うん、うん、いや、わかりますね。狭い中で自分でコントロールしようと思ってたり、自分の思惑に囚われているとき、しかも「この方法しかない」と思ってるときに、それが崩壊して、たぶん後ろのドアが開いて、外から何かがやってくる。もしくはハツカネズミのようにグルグルグル回ってたけれど、回り過ぎてはじき飛ばされて、囚われから解放される。そういった形で、まったく自分が思いもしなかった方法でその場を乗り切れたりとか、次に展開できるってことがやっぱり起こるんだと思うんです。

 介護現場なんかは、それがむしろ起こりやすい感じがするんですよ。特に言葉による合意ができないお年寄りが多いので、一般社会から比べるとそういうことが起こりやすいのかな。

 

伊藤 なるほど。たしかに言葉じゃないっていうは大きいかもしれないですね。わたしも同じ「ケアをひらく」のシリーズで、『どもる体』という吃音の本の出させてもらったんです。原稿を全部書き終えて、カバーの絵をイラストレーターの三好愛さんが描いてくれたときも、けっこう後ろのドア開いたんですよね。吃音の人、絶対そんな絵描かないよっていう、傷つく絵なんですよね(笑)。


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村瀨 やっぱり傷つくんですね。

 

伊藤 その本の中に「吃音って言葉の代わりに体が出ちゃってる状態」という当事者の方の言葉があるんですが、それをそのまま絵にしてくれてるんです。吃音の人からしたら、痛すぎて、こんな描けないんですけれども(笑)、やっぱり言葉じゃなくて絵でパッと示されると、後ろのドアからフ~って風が入ってきた感じがした。

 

村瀨 絵を見て、「あっ、こういうことなんだな」みたいな了解みたいなものが生じるってことなんですかね。

 

伊藤 そうです、了解って感じですね。ピタッとはまってしまう感じですかね。

 

村瀨 傷つくものであったとしても、でも「あっ、そうなんだ」って自分が了解することって、解放されていく、自由を得ていくという感じなのかなって。

 介護現場ではお年寄りと生活を一緒につくっていきます。その中で「両者の了解」っていうのがやっぱり起こるんだなっていう気はしますね。そこに解放されていくっていうんですかね、そういうものかもしれないです。

 

 

エビデンスから了解へ

 

伊藤 両者の了解っていうのは、お年寄りからするとどういう感じなんでしょう。

 

村瀨 「両者」という言い方をするとまた違ってくるんでしょうね。ただなんとなく、お年寄りの側も、あれだけ怒ってた人が怒らなくなってくるとかね。あれだけ5分おきに「オシッコ」「オシッコ」って言ってたのがスッと治まっていったり。歯ぎしりがすごかった人がいつの間にかしなくなっていったりとか。

「あれは決して本人にとってもいい状態ではないよね」って思えることがなんとなく消失していくことがあるんですよね、時間をかけて。「そういえば最近ないよね」っていう形で。なんかそういうことを、「僕も了解し、おばあちゃんも了解してくれた」と感じてるのかもしれないです。

 

伊藤 なるほど。

 

村瀨 そこに僕らの関わりがまったくなかったかっていうと、やっぱりあったと思うんですよ。でも「何がそうさせたの?」と言われても、エビデンス的には言語化できない。

 

伊藤 わからなさって言うか、ブラックボックスが絶対残るわけですよね。お年寄りだとより不確定さは高まるでしょうけど、本当は誰だってそのわからなさは必ずあるはずです。お年寄りの場合は、そのわからなさがより際立つからこそ、意図とは離れた現象みたいなところで、結果的に介護が成り立っている。そういう不思議な領域が開けますよね。

 

村瀨 そう、そうなんですよ。それがやっぱり醍醐味っていうか、面白いんですよね。意図して計画的に、「これをすればこうなるだろう」とわかってることに基づいてそのとおりになったときに、それはお互いが自由を失うっていう感じがするんです。しかもそれが生活の中で起こってしまうとね。生活外の、限られた時間と限られた空間の中で意図的に行われるのはいいんだけど、生活の中で常にそれが起こるというのは......。それを目論んで介護する側も自由を失うでしょうし、そういった形で落ち着いてしまうお年寄りも、まったく自由ではないなぁって思うんです。

 それに実際には、そんなことは起こらない。そんな科学的に再現されるように、普遍性に基づいて、どの人もこの方法論で落ち着くっていうようなことは絶対にないから心配はしてないんですけど(笑)。


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了解から「仕方ない」へ

 

伊藤 だからこの本で使われてる「自由」って、すごく大きいものに対する「自由」ですよね。ある種の科学的な、エビデンス主義的な、再現性重視的な、そういう価値観からの自由。あるいは、放っておいてもそこに生まれるような自由。介護しようと思ってする介護を超えていく介護。そういう意味での自由というものでもあるような気がします。

 私は、「自由」という言葉が入ったタイトルを見たときに、少しびっくりする感じがあったんですよ。それがどういった経緯で出てきたのか、教えてもらえますか。

 

村瀨 このタイトル自体は編集の白石さんが付けてくれたんですけれど、僕にとっては自由って、ずっと大きなテーマだったんですよね。そもそも介護自体が時間にも空間にもお互いが拘束されます。食べたくないのに食べる時間ですよって言われて、限られた時間の中で食べなかったらお膳を引かれてしまったり。夜食べられなくて空腹で目覚めても「ごはんの時間じゃない」って言われたり。トイレに行きたいのに「今は行けない」って言われたり。そういった形でまったく不自由なわけです。

 一方で介護する側も拘束されるんですよ。僕もいま母の介護で生活そのものが自由じゃなくなってます。じゃ介護を投げ出しちゃっていいのかっていうと、そうはならない。こんなにお互いに拘束しあって不自由を感じている、その拘束しあってる状況の中で、どうしたら自由になれるのかと......。

「介護することによって自由を得る」ということがあるとは最初は思ってなかったです。だけど、介護してお年寄りとず~っと関わっていく中で、今日お話ししたような爽快な気分になっていたり、ホッとしていたりする。それは世間で「ダメでしたよね、あなた失敗しましたよね」って言われてることなのに、「はぁ、もうよかったぁ、これで」「これでなんか自由になった」って感じる。

 あれだけなんとか連れて帰ろうとあの手この手でやってたのに、「いやいやもういい。一緒に歩こうか」っていう現象が起こる。そのときに「あぁよかった」と心から思える。こっちの思いは全然成就してないんですよ。だけど「よし、一緒に歩こう」っていうことになっていく。

 

伊藤 思い通りになっていないけど、了解とか納得みたいなことってすごく大きいことなんでしょうね。結果がどうこうというよりも、そのプロセスの中で、自分の質みたいなものが変わっていく。その変わった方向っていうのは、それまで気づいてなかった自分の形なんだけど、でも変わっていくプロセス自体に了解があったり、納得感があったりすると、実はそれはそれで「新しい土地見つけた」みたいな、「新しいやり方見つけた」みたいなことでもあるっていうことですよね。

 

村瀨 そういう意味では、了解とか納得っていうのはどっちかというとポジティブ感がまだ残ってるんですけど、ある意味、すべての手の内が尽きたときの、「仕方ない」という感じです。「仕方ない」という言葉が、こんなに奥深いと僕は思わなかったんですよ。

「仕方ない」っていうのはあらゆる手段を講じて、そのすべての手段がまったく無効だった。もう自分にはなんの打つ手はまったくありません、どうしていいかわかりませんっていうようなときの「諦め」感ですよね。でもこうして諦めたときに、結果的には「一緒に歩くしかない」という手段が残ってた、ということになるんです。万策が尽きて、すべての仕方がなくっていったときに残された手段が、もしかしたら両者にとっては取るべき道だったかもしれない、と後から了解される。

 もちろんそのときは「あっ、こういうことだったんだ」なんて実感できないですよ。もう失意のもとで歩いてますから(笑)。「今日俺、帰ってあのテレビ観たかったのにぃぃ~」とか「なんで、よりによってこの水曜日の8時なのか~」みたいなね。そういうさまざまなことが諦められた一瞬なんですよね。

村瀨孝生×伊藤亜紗『介護現場から自由を更新する!」第3回了

 

←第2回はこちら 第4回はこちら(8月26日更新)→

2022723日、東京・代官山 蔦屋書店にて、「シリーズ ケアをひらく」の最新刊、村瀨孝生さんの『シンクロと自由』の刊行記念トークイベントが行われました。

お相手は、同シリーズで『どもる体』を刊行している伊藤亜紗さん。村瀨さんの最高の理解者である伊藤さんは『シンクロと自由』をどう読むか――注目の対談を、当「かんかん!」では4日連続更新でご紹介します。

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【目次】

1 介護と「わたし」(823日更新)

2 心ないシンクロは気持ちいい(8月24日更新)

3 自由は、後ろのドアを開けてやってくる(825日更新)

補 ヒントいっぱいのQ&A826日更新)

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 2 心ないシンクロは気持ちいい


 

シンクロには二つある

 

伊藤 この本『シンクロと自由』は大きく二つの部分に分かれていて、PARTⅠのほうは不自由な体同士がシンクロする話ですよね。シンクロというのは介護という行為を成り立たせる一つの方法だと思うんですけれど、PARTⅡになると自由の話になっていく。

 まずはPARTⅠ。読むとどんどん作者が消えていくというか、村瀨さんが消えて、風のささやきのような文章になっていくような感じがしました。単純に主語がどんどんなくなっていって、現象が淡々と記述されていくみたいな印象があって、後半のPARTⅡと全然違う感触をもったんですよね。

 

村瀨 へぇ~。

 

伊藤 シンクロっていうのがどういうものなのかを教えていただけたらと思うんですけど......ここにはいろんなシンクロ出てきますよね。

 

村瀨 ご飯を食べてもらうのもそうですよね。「できる体ができない体を補う」といっても、その人の気分とか、体の調子とかに、波長というかタイミングを合わせていかないと補えないんですよね。介護ってタイミングだっていう気がする。

 介護は、優しさとか受容とかすごくハートフルに、精神的な感じで語られることが多いし、それが求められるじゃないですか。でもそれよりも、「いま、トイレに行かないと」っていうタイミングで行けるかどうか。

「ご飯食べたいんですよ、食べさせてくれますか、わたし食べることできないですから」と意識的に了解できている人はちゃんとシンクロできるんです。契約的にタイミングを合わせられるというか。だけど、ぼけが深い人なんかは、そういう申し合わせができないんですよね。

 オシッコをしたいのは明らかなのに、トイレに座ることができない。お腹が空いて、今ご飯を食べたほうがいいのに、お腹が空きすぎて食べられない。すんなり次の行為にいけなくて、しかも言葉も通じないというような状況になるわけです。こうなると常にタイミングをはかることになる。それは「信頼関係があれば行ける」なんてものでは全然ない。

 お風呂に全然入りたくないお年寄りがいます。もう2か月も入ってない。どんなアプローチしても断られて、かといって強引にすることもできない。どうせ入らないと思ってるけど、「アプローチだけはしとかんとね」「いちおう仕事だし」みたいな感じで、「おばあちゃん、風呂入る?」って聞いたら、向こうが「はいっ!」って言うときがあるんですよ。

 

伊藤 ほー!

 

村瀨 まさかそんな返事が来るとも思ってないから、こっちは全然準備できてない。もう一回「ホントに入る?」とか聞き直したりしちゃって(笑)。「さっきの間違った」って言うのを聞きたくて、「マジで?」と聞いても「入る」って。こんなふうに、合わせようとも思ってもないのに、タイミングが合っちゃったりということがあります。

 シンクロにも二つくらいありますね。意図的にこっちの努力で、その人のリズムをつかんだり、その人の習慣を一緒につくって、相手のリズムをうまく乗っ取るような。ある意味、意のままにドンピシャに「あぁ、トイレに行けた」となるシンクロがあります。

 もう一つはこのお風呂の話のように、思いもしない感じで「そんなふうに事が進んでもこっちが心の準備ができてないよ〜」みたいなシンクロもあるんです。そんなことが面白くて書いているのかなっていう気がします。

 

 

「シンクロしちゃった」の気持ちよさ

 

伊藤 ハートフルと言われがちな介護現場で、村瀨さんは「心は洗面台に置いておく」と書かれていますよね(82頁)。そして現在形で"いま・ここ"を一緒につくり出すことに専念するのがシンクロだっておっしゃっています。

 こちらで乗せて乗せて、こちらの思うときに相手もトイレ行こう、お風呂入ろう、ご飯食べようって思うのを「シンクロ」と感じるのはよくわかるんですけど、そうじゃないときもシンクロする感じがするのが不思議だなって。つまりこのタイミングではたぶんOKしないだろうと思っているのに、向こうが「お風呂入ります」と言ったときのシンクロ感というのもある。これが面白いと思ったんですよね。

 

 母を追いつめたぼくは、自分自身が怖くなり、情けなさと恥ずかしさに襲われる。母のお漏らしを容赦なく責める自分の怖さ。傷ついた母に優しくできない情けなさ。人として恥ずべき態度をとってしまうことに対する自責の念。

 心が邪魔だと思った。少しのあいだ、体から心を切り離して洗面台に置くことにした。無心に母の尻と床を拭いた。母の体をうんこまみれから救い出し、快適になるように努めた。温かいタオルできれいに拭く。シャワーを浴びる。ふかふかのバスタオルで体を包む。

 「すっきりした?」

 母に尋ねると「気持ちいい」と答えた。

(『シンクロと自由』82頁)

 

村瀨  面白いですよね。精神的交流はないんですよ。おばちゃんも本当は入る気じゃなかったはず、こっちも入ってもらうつもりでもなかったのに、シンクロしちゃった。そういうのも間違いなくあって、そっちのほうが気持ちがいいんですね、心が通うより。

 

伊藤 ハハハハッ。なんかその気持ちよさはわかる気がするけど。なんですかね、心が通い合うことよりも気持ちいいんですよね、深いとかじゃなくてね。

 

村瀨 そうなんです、気持ちがいいんですよ。それになんでしょうね、心通わせてうまくいくっていうのは......それヤバいっていうか、ハハハッ、不埒な手ですよね、それこそ。

 

伊藤 あぁぁ、そっか、そうですね。

 

村瀨 心を通わせて一緒に風呂入ったら、ヤバい気がしますね。今は同性介護じゃないとダメだと言われるから、僕もだんだん表で言えなくなってきてるけど、僕は結構おばあちゃんたちと一緒に風呂入ってきたんですよ、お互い裸で。なんかね、そういうときに心通わせちゃったらねぇ。

 

伊藤 そうですよね(笑)。なんか生理的な欲求に忠実であることの「健やかさ」みたいな、「潔さ」みたいな。それだけは確かだっていうのがありますよね。

 

村瀨 生理的欲求って心はいらないですね、きっと。バイオレンス映画とかでも、たとえば誘拐されて拉致された主人公がトイレ行きたいとかって言ったら、どんな悪人でもトイレ行かせるじゃないですか。そして逃げられたりするじゃないですか。ヘタしたら命を奪ってもおかしくない非情な人ですら、トイレに行かせる。あれは全然、心は通ってないと思うんですよね。共感してるわけでもないし。

 

伊藤 たとえば盲導犬と暮らしてる人も、「盲導犬の膀胱の中に尿が今どれだけ溜まってるか常にわかる」みたいなことを、みなさんおっしゃる。それがある種の取引の条件になってくるっていうか、尿の量でタイムキープしてるわけですよね。もうそろそろいっぱいになるから、今のうちにトイレ連れていっておこうみたいな。盲導犬の生理的な要因が主導権を握る瞬間というのが、何時間かおきに定期的にやってくるわけです。

 

 

ぼ〜っとすると見えてくる

 

村瀨 僕らも同じですよ。一緒に生活をして、そうやってお互いの習慣をつくっていく。これまでの自立した体だと、全部自分の思うままにできてたんだけど、それを他者の手を借りる。それは「こうしましょうね」っていう意識的な同意の世界というよりは、感覚的な合意の世界です。感覚交流みたいな部分がたぶんベースになっている。だけど意外とそのことが介護の教科書には載っていない。「感覚で介護しろ」とかって言ったら、非科学的になっちゃうんですかね。

 

伊藤 そうですね。この本の中にも「ぼ〜っとすると見えてくる」(96頁)と書かれてましたけど、むしろすごく感覚を開いてるわけで、非科学的なのではないですね。むしろ科学がすごい狭めてしまっている。「注意すべきことはコレとコレとコレ」みたいにパラメータを設定して、そのほかは入らなくなってるのが科学のよくあるパターンです。そうじゃないものにも常に感覚を開くっていうのが、「ぼ〜っとして」シンクロするあり方だと思うんですけどね。


 もちろん記録(データ)によって排泄間隔を知ることや、いい介護を実現するために意味や価値を追求する態度は必要である。けれども、介助者の意識が先立ちすぎると、老体の発するサインを拾う感受力が育たない。

 「する」ことや「しなければならない」ことで頭も体もいっぱいとなり、お年寄りの体が発する微弱なサインが入り込む余白が生まれない。目的や価値と意味で埋め尽くされてしまった介護は生活からお年寄りを遠ざけてしまう側面もある。車のハンドルに遊びがあるように、介護者にも遊びが欲しい。

 そのような余白を介助者の体に育てるには、ぼ〜っとするのがよいと思う。ぼ〜っとしていると感覚器が開きはじめる。開かれた感覚はさまざまなものと交感する。そのような営みは老体の声なき声を介助者の体に蓄積してくれる。

(『シンクロと自由』96頁)


村瀨 だから職員が出勤してくると、「まず記録を見る」みたいなことが起こっちゃうんですよ。まずパソコンをのぞいたりノートを開いて、前任者の言葉とか文字を取り込んで、それからお年寄りに出会う。たぶん今はこれが普通なんでしょうけど、僕はそこにすごく抵抗感があります。

 まず座って一緒にお茶を飲む。お年寄りの顔をじ~っと見る。見るだけじゃなくてたぶん聞くし、匂うし、一緒にお茶を味わう。そこでまず「ふ~、着いた」みたいに思いながらも、「今日目ヤニすごいなぁ」とか、「今日どうしたの? なんでそんなにあなた喋ってるの? いつも寝てばっかりなのに今日すごいね、よくそんなに喋ってるね、昨日の夜なんかあったの?」とか。

 要するに聞きもしないけど、立ち上がってくるものがたくさんあるんですよね。まずそこからお年寄りと出会って、それから前任者の記録を見る。自分の感覚を補完するような形で記録を見てほしいなと思います。でもたぶん現実の介護現場ってそうじゃないよね。まず記録を見て、情報を得て、そしてしっかり理論武装してからお年寄りと出会いましょうみたいなことになっている。そんなことしてたら、みんな働いてて苦しいんじゃないですか。

 

 

隠しきれから隠さない

 

伊藤 自分が介護をされる側を想像したときに、村瀨さんの体の中に、この本に書かれていたようないろんな衝動があるっていうことは、すごく恐ろしくもあり、逆に安心するようでもあり。村瀨さんの衝動っていうのは、バイクで高速道路を走っているときにハンドルを切りたくなるとかっていう。

 

村瀨 そうそうそうそう(笑)。

 

伊藤 子どものころは、教室の窓から外に飛び出しちゃうような。

 

村瀨 そうなんですよ。だからたぶん、今で言うと発達障害とか多動症だとか間違いなく診断されたでしょうね。やっぱりそういう衝動みたいなものが、たとえば夜勤でもお年寄りには伝わってると思いますよ。漏れ出るから。だからもう隠せないんですよね。

 

伊藤 夜勤のときの村瀨さんの衝動っていうのは、どういう?

 

村瀨 イライラして「もう~っ!」とか「く~っ!」とか。そうなってるのは向こうがいちばんわかってるから、余計に落ち着かないんだと思うんですよ。悪循環なんです。向こうは逃げられる体だったら、たぶん逃げたと思う。でも逃げられない体なので留まるしかないわけですよね。だからそのときはこっちが逃げないといけない。だってわからないですもん、僕が突き飛ばすかもしれないし。

 でも一方で、怒ったら本当に怖いおばちゃんもいるんですよね。なんかもういきなり呪文みたいなの唱えて、呪い殺されるんじゃないかって。「なんとかかんとか、ハ~っ! フ~っ!」とか言って息を吹きかけて退散させようとする。

 

伊藤 はいはい(笑)。

 

村瀨 それはたぶん、自分の意に沿わないことが起こって、おばあちゃんも怖がってると思うんです。霊力に頼るっていうのは、自分がすごく危機的な状況にあるわけだから。呪文を切り出したときはおばあちゃんが怖がってるんですけど、それが我々職員からすると怖いわけです。

 そうは言ってもちゃんと介入して事故を防ぐことができる職員も多いわけですけど、ある職員は「わたし、怖くてしょうがない」って言うんですよね。「自分は他の職員のように、『とはいっても』という形で介入できない」と相談されたんです。

 今まではイライラする自分が怖いっていう相談はたくさん受けてきたんですね、僕もそうだったし。そういうときは、はずみでおばあちゃんを倒すよりも、自分で倒れたほうがいいから、「逃げていいよ」って言ってました。だけど、「相手が怖い」って言う職員にはどんなアドバイスしたらいいんだろうと。でも結局は、こちらのほうも「逃げていい」だったんですよね。

 おばあちゃんの側からすると、おそらく怖がらせてるわけですよね。「来るな!」「あんたはイヤだ!」って威嚇してる。だからおばあちゃんからすると、怖がってる職員のほうが、怖がらない職員よりも信頼に値するんじゃないかなって話をしたことがあります。他の職員はなんやかんや言いながら安全を優先して介入してくるのに、あなたみたいに本当に怖くて逃げる職員は、おばあちゃんからしたら「あいつはちゃんとわたしの威嚇を受け取った」っていうことになる。

 このへんの問題って、やっぱり結果的には両者が隠し切れないんだと思いますね。お互いが感じてることは、どんなにうまく伏せたつもりでも、伝わっている。

村瀨孝生×伊藤亜紗『介護現場から自由を更新する!」第2回了

 

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1 介護と「わたし」

2022723日、東京・代官山 蔦屋書店にて、「シリーズ ケアをひらく」の最新刊、村瀨孝生さんの『シンクロと自由』の刊行記念トークイベントが行われました。

お相手は、同シリーズで『どもる体』を刊行している伊藤亜紗さん。村瀨さんの最高の理解者である伊藤さんは『シンクロと自由』をどう読むか――注目の対談を、当「かんかん!」では4日連続更新でご紹介します。

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【目次】

1 介護と「わたし」(823日更新)

2 心ないシンクロは気持ちいい(824日更新)

3 自由は、後ろのドアを開けてやってくる(825日更新)

補 ヒントいっぱいのQ&A826日更新)

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 1 介護と「わたし」)


伊藤 村瀨さんとお話しするのは、若干気まずいような気が......(笑)。

 

村瀨 意外とあまり話したことないですよね。お手紙はかなりやりとりしましたけど。

 

伊藤 ミシマ社という出版社のサイト上で、すごい密度で往復書簡を交わしていて。だからわたしの中で勝手に村瀨さん像が出来上がっちゃってるんですよね。

 

村瀨 僕もずっと伊藤さんの文章で、濃密な時間を過ごしてました。でも肉声でやりとりするのはすごく緊張する。

 

伊藤 なんか近すぎる感じがして(笑)。この場でも手紙のように、ちょっと考えながら話したいなと思っています。



賞を獲るなら芥川賞!

 

伊藤 この『シンクロと自由』は、手紙を交わしているときに同時並行でご執筆されていたんですよね。

 

村瀨 そうなんです。だから伊藤さんの影響をすごく受けてるんですよ。

 

伊藤 本が出て、まだ1週間ぐらいのタイミングですね。これから読もうという方もいらっしゃると思うので、内容についてもこの場で語っていただけたらなと思います。

 最初に、わたしが読ませていただいた感想を僭越ながらお話しすると、この本がもし賞を獲るとしたら、芥川賞かなって。

 

村瀨 ハハハハッ。

 

伊藤 小見出しを抜いて読んだら小説、っていう感じがして。それはいろいろ理由があります。まずわたし自身の関心からいくと、「文学をケアの問題として読む」ということが最近ちょっと流行ってますよね。古典と言われているような作品を、「ケア」という視点から読み直す。ただわたしが文章を書く中で最終的にたどり着きたいと思っている場所は、ちょうどその逆なんです。ケアの問題の中に、文学じゃなければ語れないものがあるんじゃないかと。そこがめちゃくちゃ面白いと思っているんです。

 わたし自身の本だと『手の倫理』(講談社選書メチエ)のいちばん最後に「不埒な手」という章があります。最初はあの章がない状態で終わりそうだったんだけど、「なんか足りない......文学が足りないんだ!」と思ったんですよね。それで最後に付け足したのが、ケアをしている人がいろんな体に触れあう中でどうしても性的な自分の記憶がよみがえってしまうこと。つまり職業倫理上あってはならないことが、その線を体が踏み越えていく。それがどうしても消せないこととして起こるという話なんです。

 そういう世間的な正しさ、道徳、倫理みたいなものを踏み越えてしまう力が、おそらくケアという体を介したコミュニケーションの中には絶対含まれている。そこをないことにすると、逆にとても危険なことになると思います。怖いんだけどそこを解放すると、なにか新しい可能性が見えてくる。そういう意味でも、文学的な部分を絶対言葉にするべきじゃないかって思っているんです。

 

村瀨 なるほど......。

 

伊藤 今回の村瀨さんの本は、ダイレクトに「わたし」という問題が扱われていますね。ぼけの世界は「わたしじゃなくなる」とか「わたしがいなくなる」みたいなイメージがあると思いますが、実はお年寄りたちと関わる側の人たちの「わたし」、ケアする側の「わたし」が、お年寄りとの関わりの中ですごいところに行ってしまう。そういう、ある種のすごい逆説があると思うんですけれども、そこに踏み込まれた。

 もうこの本を読んでしまったからには元には戻れない。つまりそういうヤバさ、「淡々とヤバい」みたいな感覚が読んだあとに残ったんですよね。

 

村瀨 僕がお年寄りの仕事をしてきて、いちばん感じてきたことって、それなんですよね。自分というものが、それこそ「ヤバいわたし」がお年寄りに引き出されていくんですよ。本当は隠しておきたかったとか、誰にも知られずにそっとしておきたかった「わたし」が、どんどん引っ張り出されちゃう。そういうことをこの本では結構書いているのかもしれないですね。

 

 

「ヤバいわたし」が引っ張り出される

 

伊藤 「わたし」というものを一つの軸として本を書こうという構想は、最初から意識的にあったんですか。

 

村瀨 どうしても介護って「わたしが介護する、あなたは介護される」「あなたは介護する、わたしは介護される」という「わたしとあなた」の関係だったような気がするんです。だけどずっとお年寄りと関わっていると、これは「ふたりのわたし」だなと思うようになったんですよね。

 

伊藤 あぁ。

 

村瀨 お年寄りは、機能障害が出て体が不自由になっていくじゃないですか。あと、いわゆる認知力が落ちていくと、体はいろんなことができるはずなのに、行為を失っていく。その最中にたぶん、行為によって支えられていた「わたしらしさ」みたいなものが失われていくように感じちゃうんですよね。

「男衆が先に入らないとダメ」とか言って、なかなかお風呂に入ってくれないおばあちゃんってたくさんいます。じゃ男が先に入ったんなら後で入ってくれるんだなと、ちょっと髪を濡らしてバスタオルかなんか掛けて「僕、先に入ったからどうぞ」と言っても、「わたしは風邪をひいております」とか、結構平気で先に入らないウソをたくさん並べられるんですよね。

 食べきれない量のごはんが盛られてくると、最初から手をつけない人もいます。「箸をつけたら最後まで食べないと申し訳が立たない」みたいな感じなんですね。そういう人は小鉢で出さないといけないし、あとからお代わりができる量でつぐみたいなことをするわけですが。

 本当に、「ずっとこうやってこの人生きてきたんだなぁ」って思うことがたくさんあります。その行為の中に「わたし」がたぶん宿っているんですね。でも結局、歳を取ってできなくなる。それを一緒にもう一回再生することになるんですよ、ふたりでね。

 

伊藤 ああ、ふたりで。

 

村瀨 はい。でも僕には僕の食べ方がある。それが最初ぶつかり合いながら、それぞれの「わたし」が抗い合いながら、やがて両方の食べ方が統合されていくみたいな感じです。もちろんお年寄りの行為を取り戻すのを僕が手伝うわけだから、その方寄りの食べ方にはなるんだけど、どこか「こっちの食べ方も吸収せざるを得ない」みたいなところもある。そんなふうにして一つの行為が成り立つので、僕の中には「ふたりのわたし」だなぁていうイメージがずっとあったんですよね。

 それでも最終的には「ふたりのわたし」でも破綻が来るので、最後は他のスタッフも含めた「わたしたち」で乗り越えざるをえない。そのあたりを書けたらなっていうのがありました。

 

伊藤 お話をうかがうと、ちょっと結婚っぽいですね。結婚も、違う何十年かの習慣を背負ってきたAさんとBさんというのが、それぞれの習慣を統合させるような形で新しい習慣をつくり出して一緒に生活しはじめるところがありますよね。気づくとそれがもう一体になっていて、「ふたりのわたし」になっていくみたいなプロセスがある。

 

村瀨 なるほど、たしかにそうですね。

 

 

家族介護は、隠したい「わたし」が漏れ出してくる

 

伊藤 村瀨さんは今お母様の介護もなさってますね。この本は、家族の介護をしてる人たちにすごく響くのでは? って思ったんですよね。家族の介護をしているときの、その「ふたりのわたし」の輪郭が切り離せなくなってくる苦しさと、「一体だったと思ったらバラバラだった」というせつなさと、そこの部分を書いてくださってるので。

 

村瀨 それはすごくうれしいです。家族のことって、なかなか書けないんですよね。これを読むことで何か伝わるものがあったとしたらうれしいですね。母の介護ってまた違うんですよね。他人の介護は最初から受け入れられるんです、変なことが起こってても。

 お年寄りがみかんを皮ごと食べていても、ちょっとためらいながら「あれぇ、皮食べてるけどどうしよう」みたいに思う。その人が嫌な気持ちにならないようにあの皮をどう取り去ることができるんだろうかとか、あるいは「放っておいていいのかな」とか。赤の他人だと、そんなためらいがある。だけど家族ってストレートだから、皮のまま食べてたら「なにしよっとね!!」みたいな感じについ(笑)。

 逃がれがたい情実があるからこそ、そこにどういう余白を入れ込むか、どうやって距離を取って赤の他人になれるかという意味では、家族介護というのは面白い。本当に出会い直しをしていくといく感じなんです。

 

伊藤 往復書簡の中でも、お母様のことを書かれるときは全然テンションが違いましたもんね。

 

村瀨 そうなんですよ(笑)。もうね、それこそ秘匿しておきたい「わたし」が漏れ出すんですね。特に夜は、赤の他人のおじいちゃんおばあちゃんの介護ですら漏れ出しますから、それはもう......。

 やっぱり人間って生身の限界を超えられないんですよ。お腹が空いたとか、寒いとか、暑いとか、眠れないとかっていうのはね。介護する側もされる側も、そこにいちばん「わたし」が漏れ出す。

 

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文学の夜、申し送りの朝

 

伊藤 夜っていうのも、この本の中の大事なモチーフですね。夜勤ですよね。すごく小説的な時間だなぁと思うんです。夜勤は基本、おひとりでなさるんですか。

 

村瀨 我々が運営している施設でも宅老所のほうは、通ってこられる人数も12人ぐらいがマックスです。その中で必要に応じて、12人泊まられるんですよね。そういうとき夜勤はひとりなんです。特養になってくると、夜勤者は1階と2階に分かれてふたりいるけれども、それぞれひとり1018人ぐらいに対応することになっている。なので、基本やっぱりひとりなんですよ。孤独なんです。

 

伊藤 だから、よりコントロールしなきゃっていうマインドになりますよね。誰かおひとりが騒ぎ出してそれにつられて他の人も目を覚ましちゃったら、手に負えなくなるとか。

 

村瀨 夜勤者がいちばん恐れてるのはそれです。おばあちゃんがひとり起き出して、他の人の部屋とかに入っていったりする。自分は昼になっちゃってるから、大きな声で歌ったり他人のベッドに入り込んだりする。それがどんどんどんどん広がって、起き出す人が出てきたら、もう自分ひとりでどうしようか......と大パニックになる。

 予測するからなんですね、「そうなるんじゃないか」って。予測しちゃうとパニックになって、なんとかその予測にならないようにしたい。だからお年寄りがひとりで溌剌と夜起きてくることに対して、どうしても予防的対応をしていく。そのときに自分が崩壊するっていうことが起こるんですよね。......僕はそれがすごく楽しい。

 

伊藤 えぇぇぇ。

 

村瀨 そのときは冷や汗ものなんですよ(笑)。だけどそれを朝の申し送りで職員が話したりするのを聞くのが大好きで。自分もそれを話すのが好きだったんですよ。

 

伊藤 申し送りという制度が毎朝あるところが、文学とは違いますね。夜はすごい文学なんだけど、それが終わると、共同体という場の中で、自分の孤独が共有される。自分が経験した怖さみたいなものを成仏させる場所でもありますね。なんか最後に「集団の時間が来る」というのが文学と違うところで、面白いなと思ったんですよね。

 

村瀨 夜が文学的だっていう話はすごく共感しますね。本当にそうだと思います。太陽が昇ってきて白々としてきますよね、あのね、陽の上がる安堵感っていう、ふふふ、そして人が来る安堵感。「もうちょっとで来る!」っていう。

 

伊藤 もうちょっとで来る......ハハハハハッ。

 

村瀨 あの時間は至福なんですよ。日頃は「あの人とはなんかちょっと介護観が合わない」とかね、「目指すべきケアが違う」とか言ってても、白々と夜が明けて、その人が早出で来るときにもう喜びをもって迎えますよ。

 

伊藤 ふふふふふ。

 

村瀨 よく「どうしたら意識が合うんでしょうか」とかいちばんよく聞かれるんだけど、どうやっても意識が合わないっていう人もいるんですよ。でもそんな気の合わない人ですら、あの白々とした夜が明けていくときにやって来たときには、もう堰を切ったように「こんな夜だったぁ!」「おばあちゃんが帰る帰るって言ってね!!」みたいなことをいきいきと話すんだよね。人との接点って、もしかしたらそこなのかもしれないなと思ったりします。

 

 

「キミは何回目で叩きたくなった?」

 

伊藤 「怖いけど楽しい」っていうのは村瀨さんの真骨頂ですね。怖いもの見たさというか、そこに何か大事な宝物を見つけていらっしゃるんだと思うんです。

『シンクロと自由』の中で、新人さんがただの報告のように申し送りを終わらせようとすると、村瀨さんが所長力を発揮して(笑)、結構すごい質問をされてますよね。なかなか眠らないおばあさんがいて、何回も起きてくるんだけど、「ところでキミは何回目でおばあさんを叩きたいと思ったの?」とか。

 

村瀨 そうそう。これホントはね、書いちゃいけないことかもしれないぐらいのことなんですよね。でもねぇ、それはないだろうと思うんですよ。寝なかったおばあちゃんに淡々と明け方まで付き合ってですね、それでなおかつですね、おばあちゃんの昼の睡眠状態を心配してるっていうのは......「いや、それは違う!」って。そんなふうに人のことを大切にできるだろうかって。そこにかなり過剰な無理があるというふうに僕はどうしても思ってしまう。

「過剰なわたし」を演出しなきゃいけないのは、この仕事が倫理性の高い仕事であるということだし、人間を本質的に大切にしなきゃいけないっていうことが課せられてるからです。寝ないおばあちゃんに付き合ったことで自分を見失って、ヘタしたら突き倒すんじゃないかっていう怖さを抱えた......みたいなことは、誰も言えないんですよ。それ言っちゃったら「自分はこの仕事をする資格がない」ってまた自分を責めるし、周りから責められるんじゃないかっていう怖さもある。それでみんな言えないんですよ。

 だからね、22歳ぐらいの若い職員が、「むかつきました」とか、「もう顔を見たくない」「おばあちゃん、しばらくいいです!」とか言ってる姿を見ると僕はホッとする。職員たちもクスクスクスクス笑いながら聞くんですよね。笑いながら聞いて、「あぁよかった、自分のときじゃなかった」とか思ってるわけ(笑)。なんて言ったらいいかなぁ......そういう形でみんなで迎え入れてるんですよね。

 それを聞いて、決して「あのおばあちゃんひどいから、みんなでいじめよっか」みたいにはならないんですよ。「じゃぁ、あのおばあちゃんをみんなでシカトしようか」みたいなことにはならないのが僕は逆に不思議なんです。倫理的な言葉で縛らなくたってそうなるんです。

村瀨孝生×伊藤亜紗『介護現場から自由を更新する!」第1回了

 

第2回はこちら(8月24日更新)→


妊孕性について悩んだご自身の経験と、 

乳腺の画像診断を専門とする放射線科医の立場から、 

同じ悩みを持つ方の力になりたいという想いを 

つづっていただきました。 

活動の一環として、8月26日(金)に主催される 

対談イベントについてもご紹介いただきます。 


AYA世代乳がんの問題

「AYA世代」という言葉を耳にしたことがある方も多いでしょう。AYA: Adolescent and Young Adult(思春期・若年成人)の意味で、15歳から39歳までを指します。

AYA世代の後半である、30~39歳では乳がんの頻度が最も高く、22%を占めています。AYA世代の乳がん患者は全乳がん患者の4%です。人数にすると毎年3,800人。そんなに多いとは感じないでしょう。

その方たちは、治療前から治療中、治療後にかけて妊孕性の問題に直面することになります。

妊孕性に悩まされた人生

自分のことを書いて恐縮ですが、私自身、妊孕性について深く考える人生を歩んできました。
小さな頃から「年の近い子どもを3人産むんだ!」と将来を勝手に思い描いていましたが、そううまくはいきませんでした。
産婦人科の授業や研修で、早く妊娠したほうがいいという知識はあったものの、一方で医師として早く一人前になるよう、仕事も頑張らないといけない状況。
その後、専門医もとり、博士号もとり、仕事も1人で回せるように。
キャリアの面からはいつ妊娠してもいい状況となりましたが、
結婚相手がいない!
35歳が近づくにつれ、卵子凍結について調べたりもしました。でもお金がかかる割に未受精卵だと妊娠率が低いし、シングルで卵子凍結することがまだ一般的ではないと知りました。


そんな中、35歳でスタンフォード大学に研究留学をさせてもらえることになり、単身で渡米。喜びの反面、「私このままで結婚・出産できるのかな?」とかなり不安に思っていました。
その後、人生は一転、留学中にアメリカ人と結婚、37歳で可愛い子どもを授かることができました。


「間に合ってよかったー! よーし、もう1人は絶対産むぞー!」


と息巻いて妊活を開始するも、38歳の時に流産2回、異所性妊娠1回を立て続けに経験。異所性妊娠は右卵管に着床していたため、手術で右卵管を失うことにもなりました。


振り返ると、このときは次の妊娠を焦らないほうがよかった、と思います。でも「もう後がない、待っていても妊孕性は下がる一方だ」と焦っていた私は、すぐに妊娠にトライ。妊娠自体はしたのですが、うまくいきませんでした。相次いで3回のグリーフを経験した私はかなり落ち込み、しばらく何もできない状態になりました。


現在、気持ち的にはだいぶ回復しましたが、この間40歳を迎え、自然に任せるべきか、もう1人産めるよう頑張るべきか、毎日悩んでいます。

乳がん治療開始前に妊孕性温存をするのか?

若年性乳がんサポートコミュニティ「Pink Ring」のアンケート【乳がんと診断された時の心配事】では、「生存率」の次に「妊娠・出産のこと」が挙がりました。

乳がん告知と同時にくる、妊孕性喪失への恐怖

乳がん患者さんのなかには、もう既にお子さんがいる方もいらっしゃるでしょう。でも、もう1人欲しいと考えていたかもしれませんね。
パートナーがいても、「子どもはもう少ししてからかな?」と考えている方や、不妊治療中の方、パートナーがいない方など、さまざまですが、乳がんの告知のすぐ後に、突然「妊孕性を温存するのか?」という選択を迫られます。

乳がん治療による不妊は2種類で、抗がん剤治療による卵巣機能障害、ホルモン療法による卵巣機能低下となります。
どのサブタイプで、どの治療になるかによりますが、卵巣刺激をし採卵するためにはがんの治療開始を遅らせる必要があること、生殖医療にかける費用が高額であること、妊孕性を温存したとしても将来100%子どもを持てるわけではないこと、などの問題がある中で

子どもを持ちたいという夢を叶えるため、将来へ妊娠できる選択肢を残すのか?

子どもを持つことをあきらめるのか?

突然、人生の大事な決断を短期間で決めなければならない状況となるのです。

実際にがん治療前の妊孕性温存療法を実施するのは圧倒的に乳がん患者さんが多いのですが、情報提供に病院格差・地域格差があるのも事実です。妊孕性温存の選択肢が提示されない、あるいはしっかりと説明されないままで、乳がん治療を開始し、後から悔やむこともあります。

ホルモン治療中の妊娠希望

ホルモン受容体陽性の乳がんであった場合、術後にホルモン療法を行います。その方の状況によりますが、治療期間は5年から10年と長期にわたります。ホルモン治療で用いる薬剤は胎児奇形が報告されているため、ホルモン治療中に妊娠は許可されていません。 「あと5年経ったら、私は◯歳。もう子どもは諦めないといけない」。お子さんが欲しかった場合、治療中に悶々とするのは想像に難くありません。

命は確かに一番大事です。しかし、人生は他にも大事なことがあるのです。

私が現在の体制で抜けていると思うのは、その想いを吐き出せる場所がないということ。

患者さんはその思いを1人で抱えて生きていかなければいけないのでしょうか?

納得のいく意思決定をしてもらうには

子どもを持ちたいという想いは、patient journeyの中で変化していくといいます。

どうしても子どもが欲しくて妊孕性温存をしたが、治療がひと段落したらそんな気になれなくなった。

手術前はこだわらなかったのに、治療後に子どもを強く望むようになった。

子どもが欲しい、と思う一方で、もし再発したらどうしよう、再発したら子どもを残して死んでしまうかもしれない、という不安な気持ちもあり、日々葛藤は繰り返されます。

インターネットには、よくこう書いてあります。

「主治医とよく話し合って決めましょう」

一般論でいえば、医師として再発を防ぐために「ホルモン療法は5年間は必ず続けてください」と説明します。そして忙しい外来の中、患者さんが本当に納得するまでじっくりと話す時間はないでしょう。

また最初に書いたように、AYA世代乳がん患者は乳がん患者の全体の割合から言えば多くはありません。

それが故に、よほどの大きな病院でない限り
1つの病院で、1人の医師の経験で、「こういう場合はこうしよう」という答えを主治医が、また病院が持っていないのも、真実だと思います。

でも患者さん側からすれば、本当に大事なこと。

私は乳がんになっていませんし、乳がん治療と妊孕性についての葛藤を経験したわけでもありません。しかし妊孕性について悩んできた身として、妊孕性について悩む方の力になりたい、という想いが強くあります。

私はこれからも患者さんからヒアリングを重ね、どうすれば納得した意思決定ができるのか、そのために必要なサポートを考えていきたいと思っています。

◆イベント案内:妊娠期・授乳期の乳がん早期発見のために◆

30~40代に乳がんになることで、妊娠・出産・授乳という女性のライフサイクルとかぶってしまうことがあります。

妊娠期・授乳期は、画像で所見が見えづらくなるため、乳がん検診をスキップすることになりますし、そもそも乳がん検診推奨年齢(40歳)に至っていないことも多いでしょう。授乳期には乳汁のうっ滞でしこりができやすいため、がんのしこりを母乳のつまりだと思い込んでしまうこともよくあります。そのため授乳期に乳がんになった場合、受診が遅れ、ステージが進行した状態で見つかる傾向があります。

乳がんは早期発見・早期治療が本当に大切。
小さなお子さんを残したまま、お亡くなりになる方が1人でも減るように何かしたい、とずっと思っていました。
数は多くないかもしれない。でも私はこの問題に取り組んでいきたいと思っています。

8月26日に、30代で乳がんを経験され、さまざまな葛藤をした/している当事者からお話を伺える対談イベントを企画しています。

保健師・看護師さんも大歓迎です。奮ってご参加ください!

対談【助産師さんだからこそ知ってもらいたい乳がんのお話】

AYA世代乳がんサバイバーさんお2人をお招きし、
授乳期乳がんの落とし穴
助産師さん本人が経験する乳がん治療と妊孕性の葛藤
という2つのテーマで対談を行います。

助産師さんに知ってもらいたい乳がんのお話

【日時】
2022年8月26日(金) 22~23時(Zoomによるライブ配信)
 ※お時間の合わない方は、後日動画視聴が可能です。

【対象】
第一対象:助産師さん
第二対象:保健師さん、看護師さん
専門職でなくても、このテーマにご興味のある方はどなたでも参加可能です。

【参加費】
500円(税込)

【お申し込み】
https://satoko-fox.mykajabi.com/offers/GvGedHQE/checkout

詳細はこちらのブログからもご覧いただけます。
https://satokofox.com/2022/07/midwifeevent/


◆サンティさんとのメール


前回書いたとおり、わたしはインドネシアに再上陸しました。それは、信頼して人びとの善意に任せておけば、障害者も安心できる道のりでした。


「かんかん!」にわたしのスマトラ行のようすを書いたとサンティさんにメールで知らせ、その原稿を英語に直して添付すると、しばらくしてサンティさんから返事が届きました。英文原稿はわたしのresearchmapというサイトに載せてあります。興味のある方は、覗いてみてください。第14回 ついにインドネシアに上陸した(1)」の対訳です。テキストファイルのダウンロードもできます。

 

サンティさんからのメールの一部(わたしはインドネシア語がよく分からないので、サンティさんは英語で書いてくれます)を、個人情報や研究の内容などを省いた差し障りのない範囲で、今度は日本語にして載せておきます。


***


「ミタニ先生の原稿を全部読みました。ミタニ先生の原稿を読んで私は涙が出ました。ミタニ先生の話を読んでいると、あのときのリアウ州への調査旅行の状況がよみがえるのです。特に最後の段落では、もう一度、泣きながら微笑んでいました。」

 

 

 

「ワタナベ先生は、おっしゃるとおりの方です。特に霊長類を研究しているインドネシアの研究者の間でワタナベ先生は有名で、尊敬の念が広がっています。私たちはワタナベ先生を "とてもインドネシア人らしい日本人 "と呼んでいます。ワタナベ先生はインドネシアをよく廻っているので、インドネシアの文化にも精通しています。ワタナベ先生と出会えたことに、私はとても感謝しています。ワタナベ先生のおかげで、私はようやく多くの研究のチャンスと貴重な経験を得ることができました。」

 

 

 

「最後の段落に書いてあることは本当です。それは私が本当に感じていることです。ミタニ先生と私の父は、顔は似ていませんが仕草に似ているところがあります。空港でのお別れのときは急に悲しくなり、涙が出ました。」 


***


2007年の1回目の調査が終わって、サンティさんもやれやれと落ち着いたころ、サンティさんは妊娠をしました。しばらくは産前・産後と子育てで科学調査はお休みです。一方、わたしにとっては、スマトラ島の調査に優秀な付き添い役がいなくなったことを意味します。

 


2年目のインドネシアーフィールド・ワークの再開


2008年度に行う2年目のインドネシア調査をどうするべきか、渡邊さんと腹を割って話しました。わたしはスマトラ島をもう一度調査してみたかったのですが、サンティさんはまったく時間が取れません。どうするか。

 

幸い脳塞栓症になる前に詳しく調査をしていたパンガンダラン自然保護区の公園地域なら、起伏がほとんどないので、わたしでも歩けます。今度は調査地をスマトラ島からジャワ島に移して、渡邊さんといっしょにパンガンダランを調査することにしました。


 

 

1 ジャワ島パンガンダランの位置とパンガンダラン自然保護区の自然保護地域と公園地域 

※Sは二次林を、TMは、それぞれチーク(T)とマホガニー(M)の人工林を表す。二次林にかこまれたメッシュは草地を表す。破線は、市街地、公園地域、自然保護地域のそれぞれの境界を示す。


読者の皆さんは、200412月のスマトラ島北部の海底で起きた地震のことを聞いたことがあるでしょうか。マグニチュード9を越える巨大な地震で、大きな津波を引き起こしました。それ以来、スマトラ島とジャワ島の沖合では、毎年のように大きな海底地震が起こっています。

 

わたしや渡邊さんがスマトラ島にいた2007912日にも地震がありました。我われが泊まっていたホテルは、ゆっくりと長い間揺れていました。その翌日も朝から地震があり、渡邊さんは日本で待つわたしの妻に、こちらは無事だと電話で知らせてくれました。

 

そのような海底地震が2006717日にもジャワ島南西部沖で起こっています。そのとき、パンガンダランは津波に呑み込まれました。

 

その津波の影響が樹木や霊長類にも及んでいるはずです。そのようすを調査することは、津波のなかった年に調査をしていた者の義務かもしれない。これが渡邊さんの意見でした。もっともです。わたしのフィールド・ワークの再スタートです。

 


◆今の自分に合わせたフィールド・ワーク


公園の奥にある自然保護地域は山がちで、わたしが登ったり降りたりすることは(少なくとも、ひとりでは)無理です。そこで、ひとりで歩いて行ける公園地域の調査に的を絞りました。自然保護地域が天然の森に覆われているのに対して、公園地域はもともとチークやマホガニーといった有用木材を育てるプランテーションでした。そしてチークやマホガニーは、サルの仲間の良いエサになるのです。ただしサルなら誰でも食べるというわけではありません。繊維食が大好きなルトンというサルが住み着いているのです。ルトンはチークの葉やマホガニーの新芽が大好物です。そのサルを調べようというわけです。

 

公園地域なら、以前、調査していたときの歩道の地図が手許にあります。この地図がそのまま利用できます。しかし、わたしにはフィールド・ノートが書けません。前年のスマトラ島の調査でも問題になりましたが、わたしは左手しか使えません。フィールド・ノートに代わるものが必要です。さあ、どうする?

 

フィールド・ノートというのは、何でも書いておく小型のノートのことです。わたしの愛用していたものはA6サイズ(5号)で105 mm × 148 mmのものでした。つまりA4サイズの紙を四つ折りにした大きさのノートです。

 

以前、わたしはこのフィールド・ノートを常に太ももに付いている横ポケットに入れて森を歩いていました。何かあったとき、とっさにメモが取れるからです。それを調査期間の長さによって30冊から40冊も用意していたのです。

 

わたしはフィールド・ノートの代わりにボイス・レコーダー(ICレコーダー)を用意しました。ボイス・レコーダーは日本での講義録にも使っていました。フィールドでは、何か気が付いたことは何でもボイス・レコーダーに吹き込んでおくのです。そして一日の終わりにボイス・レコーダーを再生して、それを聞きながら調査日誌をまとめます。音声データをコンピュータに保存することはもちろんです。こうしておけば、いつでも聞き直せます。

 

ただしボイス・レコーダーで絵は描けません。これも工夫が必要でした。わたしはカメラで写真を撮り、記録に残そうとしました。近頃のデジタル・カメラは軽量でも性能が良く、撮りたいものは何でも撮れます。

 

ただ、あまりにも何でも撮れるので(わたしの撮影のしかたがへたなのかもしれませんが)、あとで何を記録したかったのか分からないときがあります。花の構造を撮りたかったのか、葉っぱの付き方が気になったのか、それとも木に隠れたリスの一匹を撮影したのかが、さっぱり見分けられません。ちょっと困ったことになりました。これは未だに解決していません。

 

調査日誌はコンピュータで付けます。調査日誌用にモバイルのノート・パソコンを買いました。日付を振ったフォルダーを用意しておき、シャワーを浴びて落ち着いてから、おもむろに調査日誌を付けるのです。感覚的には日記のようなものです。音声データや映像データも同じフォルダーに保存します。こうしておけば、いつ、何があったのかが一目瞭然です。

 


◆津波の痕跡と復興


下の図2の写真はパンガンダランが津波に呑まれて2年目のようすです。これは海岸近くの森ですが、塩をかぶって立木が枯れ、草が生えてきました。しかし、人工的に植えたマホガニーやチークにはほとんど被害が出ていません。もともと塩をかぶっても枯れることがない樹種なのかもしれません。

 

そのためでしょうか、ルトンが食料が足らなくて困っているようすがないのです。そのことよりも、雨が多い雨期とぜんぜん雨が降らない乾期の交代がルトンにとっては大問題なのかもしれません。雨量と植物の生長は関係が深いからです。ただ、ここでルトンの問題には、これ以上立ち入りません。興味が湧いた読者は、ちょうどこの調査の後出した、わたしと渡邊さんの論文[https://www.jstage.jst.go.jp/article/psj/25/1/25_1_5/_pdf/-char/ja]を見てください。

 

 

 



2 洪水で塩をかぶった木と生えてきた草

 

 

 



3 ルトン

 

 

 



4 チークの葉を食べるルトン

 

 

 



5 公園地域にもう1種類いるカニクイザル

 

パンガンダランには、ボゴール農科大学から大学院生のカンティさんとプジさんが同行してくれました。二人とも自然大好きな女子学生です。わたしが困っていたら助けてやってくれと言われて、渡邊さんとわたしに付いて来たのでしょう。二人とも元気いっぱいで、パンガンダランの調査では公園地区を行ったり来たりしています。

 

 

 



6 カンティさん(左)とプジさん(右)

 

津波の痕は2年経っても修復できていない家並みに残っていました。閉めてしまった店も多く、再開できたところも代の変わったところが多いのです。

 

前からお世話になっていた安宿のラウト・ビル(青い海)は、津波で壊れてしまったところを修理して、仰仰しくも「ラウト・ビル・リゾート・ホテル」と名乗っていました。しかし何のことはない、中味は昔のラウト・ビルのままでした。管理人のご一家は、幸いにも津波でひとりも欠けることなく、以前と同じ笑顔で挨拶してくれます。変わったことと言えば、以前はまだ幼かった女の子が娘さんになり、部屋の掃除など、手伝いをしていたことでした。

 

 

 



7 壊れた家と戻って来た観光客 馬車は観光用ではなく実用

 


◆インドネシアの優しい心根


パンガンダランには、さまざまな人が働いています。公園の管理をする公務員、漁師、漁師の中でも岩場の一本釣りをする人から地引き網猟師、エビ専門に狙う漁師、灯りをともしてタチウオ漁をする人もいます。お客が自炊できる安価な宿もあります。もう少しお金を持った観光客相手には鮮魚レストランもありました。日本で言えば「人力車」とでも言えばよいのでしょうか、前に客を乗せて後ろから自転車で押すベチャ引き(ベチャ押し?)や津波で壊れてしまった堤防の工事をする労働者など。その一人ひとりに津波は異なるしかたで影響を与えたに違いありません。


漁師の生活は以前と何も変わっていないように見えました。宿とレストランは閉めてしまったところが多かったようです。




図8 底引き網を舟からたぐる 小エビやアミが捕れる





図9 魚市場 タチウオが上がっていた

 

ある日、パンガンダランの裏通りを散歩していました。表通りは、かつて洪水が来るまでは土産物屋が軒を並べていました。そして裏通りには、洪水の後先で何も変わっていない普通の生活がありました。

 

公務員の制服を着た人がわたしを見とがめます。でも、わたしと目が合うとにっこりと微笑みます。道ばたでよもやま話をする男性の一団も、道行くわたしが会釈をすると笑って挨拶を返してくれます。

 

「セラマット シアン」(こんにちは)

 

わたしが道に迷っているのだと見て取ると、家から出て来て、どこのホテルだ、どこへ行くのだと聞いて来ます。わたしのことを心配しているのです。

 

「オラン コレア?」(韓国人か?)

「オラン コレア」(韓国人だ)

 

フィールド・ワークで使う洗いざらしの長袖シャツを着ているせいでしょうか、アフリカのコンゴ共和国でも、ここインドネシアでも、わたしはよく韓国人の船員に間違われました。

 

「ジャラン?」(通りは?)

 

この畑の中を行くと、通りに出るよと教えてくれます。「テリマ カシ」(ありがとう)と何度か言い、手を振って分かれると、路地で洗濯をしていた奥さんが手を止めて、「ハロー」と笑いかけてくれました。

 

インドネシアに来るといつも驚くのですが、人びとは、異教徒や、外国人や、そして障害者に、とことん優しいのです。日本人、特に日本の若者の障害者へのよそよそしい態度に慣れてしまった身には、正直なところ、人びとの優しさにびっくりさせられます。そしてほっとします。


初めて来たときにはモスク(イスラム教の礼拝堂)のスピーカーから鳴り響く礼拝の声にびっくりしました。先導する導師の声が大音響で流れ出るからです。しかし、やがて人びとと挨拶を交わし、優しさに触れると、モスクの大音響もさほど気にならなくなりました。

 

わたしに津波のトラウマを聞き出せる語学力があったなら、どれほど良かったかと思いました。

 

ラウト・ビルに帰り着いてひとり座っていると、遠くのモスクから礼拝の声が響きました。


(三谷雅純 「ことばを失う」の人類学 わたしをフィールド・ワークする 第15回おわり)


第4回 ご夫婦の不安

この日、来てくれたのは70代のご夫婦。

ご本人は2年前に認知症の診断を受けていました。そしてご家族も、ご自身の認知症の不安を感じているということでした。

そこでファシリテーターがご夫婦ご一緒に「ご本人席」に案内し、お2人同時にお話を伺うことになったのです。


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「自分のもの忘れが気になっている」と言うご家族


ご本人は、口数は少ないものの、ご自身の体調や認知症によるもの忘れなどを理解されていました。

そして最近自分にも、もの忘れの兆候があると気が付いたというご家族が、ご夫妻共通の不安として「火の始末」について語り始めました。


ご家族は、料理中のコンロの火の始末などで、最近不注意が続くとのこと。

「わが家だけ、私たちだけが火事で被害に遭うのはいいけれど、周囲の方には迷惑をかけられないから......」

ご本人1人のとき、ちょっとした調理をして火を使い、消し忘れてしまうことも不安に思っているということでした。


そしてご本人は診断を受けたものの、服用している薬はなく、やはりもの忘れが進んでいらっしゃるとのこと。

そんなご本人の様子を見ていて、ご家族は、自分が認知症かどうかという「白黒」をつけることへの不安もあり、受診を迷っていらっしゃるようでした。


「もし私が認知症と診断を受けても、年齢的にも治療ができるわけでもないし......」


私は、ご家族に受診を勧めるのではなく、認知症当事者として自分の経験をお話しすることにしました。

現在は、認知症の進行を緩やかにできるかもしれない薬があり、私も服用していること。

これらのお薬は、認知症を完治させるものではなく、人によっては副作用に苦しむケースもあること。私も最初に服用した薬が合わず、悪夢を見ては毎晩うなされ、目覚めても「脳の疲労」が取れずに、別の薬に変更したこと。


そして「調理中の火の課題」について、人生の後輩ではあるけれど、認知症当事者としてはひと足先に診断された先輩である私から、ちょっとした工夫をお伝えしました。

それは、調理中にタイマーを活用することです。しかしタイマーをかけてもその場を離れてしまって気が付かないことがあるので、百円均一店でストラップを購入し、タイマーに付けて首から下げようと思っている......などとお話ししたところ、ご家族のお顔が晴れ、明るい表情になりました。


「いいわね! エプロンのポケットにタイマーを入れても音は聞こえなくなってしまうけれど、首から下げていたらわかるわね!」


そんなふうに同意してもらい、2人で盛り上がりました。

ご家族に笑顔が溢れると、横に座っていたご本人も安心されたのか、会話に参加したり、メモを取ったりしていました。



本当に不安だったこととは......


そしてご家族は、ご自身が認知症の診断を受けることの不安について、より具体的にお話ししてくれたのです。

ご本人は、認知症の診断を受けた今も介護保険の申請をしていないとのこと。だから万が一、ご家族が認知症の検査を受け、認知症以外の病気が見つかって、ご本人を1人ご自宅に残して入院することになったら......。それがご家族の、一番の不安なのでした。


歳を重ねれば、夫婦は一緒に年老いていきます。

お連れ合いを思う気持ちと、ご自身の体調に対する不安。どちらを優先することもできないというご家族の心情が伝わってきました。


聞けば、介護保険の申請はしていなくとも、近くの地域包括支援センターとつながりがあるとのこと。

「それならば、奥様がご心配されているようなことがあれば、地域包括支援センターがご主人を支援できますよ」と、八王子市の担当者が助言してくれました。


そして、認知症専門の医療機関から来ているスタッフにお2人をおつなぎしました。

ご本人がたくさんの医療機関にかかられているそうで、これまで、どこで介護保険の申請をすればいいのかがわからずにいたそうです。

専門職であるスタッフから、ご夫婦ともに納得と安心感を得て、早速、一番話しやすい先生に介護保険の申請をお願いすることになりました。



ありのままの私でいられる場所


実はこの日、私は体調が思わしくなく、おれんじドアに遅刻して参加しました。

同じ認知症当事者仲間として活動してきた方がデイサービスを卒業されるなど、別れが重なっていたのです。

正直、外出できるような体調ではありませんでした。


それでも、おれんじドアはちおうじの当事者スタッフは、今は私だけです。私と同じような不安を持ったご本人やご家族が待ってくれているという思いで、必死に家を出ました。

しかし誤った会場に行ってしまい、目の前には椅子も何もないフロアがあるばかり。何が起きているのかわからず、頭が真っ白な状態になりました。

どうにか各所に電話をかけ、自分の置かれた状況をつかむと、スマートフォンのマップ機能を使い、正しい会場に到着したのでした。


私は認知症ですから、もの忘れだけではなく、頭が混乱することもあります。

事前に「体調が悪いので、行けないかもしれません」と伝えたときも、八王子市の担当者から「一日中ゆっくり休んでいいよ」と温かい言葉をいただきました。

会場に着いてスタッフとしてお話を伺っている最中にも、「命」が話題に上ったとき、堪えきれずに席を離れ、こみ上げてくる涙を拭うしかできない時間もありました。

そんなときも、ありのままの自分として、そこにいていいのだと感じています。

おれんじドアはちおうじでは、来てくれるご本人やご家族から気づきや元気をいただくだけでなく、八王子市の担当者など、たくさんの方々に支えていただいているのです。



そんな私の体調もあり、今回のご夫婦のケースでは、配慮が足りなかったと反省したことがありました。

途中で、ご家族の不安が取れてきたとき、ご本人に厳しい口調で話される場面があったのです。

きっとご自宅でも、ついついそのような言葉を使っているのだろうと思われる状況でした。


ご本人が小さくなっている姿を目にし、ご家族と分けてご本人の言葉に耳を傾けることの大切さを再確認しました。

今後の課題にしたいと思います。

◇先輩研究者に誘われて


ついにインドネシアを訪れることができました。

 

ずっと思い焦がれていた熱帯林へ出かける夢が叶ったのです。2007年のことでした。行先はスマトラ島です。わたしが脳塞栓症になって5年目のことです。

 

わたしたち研究者は、文部科学省やその外郭団体の日本学術振興会が世話をしてくれる科研費(かけんひ)と呼ばれるお金で研究活動をしています。もちろん厚生労働省やその他の省庁、またいろいろな財団からも研究費はもらえるのですが、わたしの場合は日本学術振興会が主な財源です。

 

科研費はいわゆる「競争的資金」と呼ばれる公金で、誰かは秘密のままの審査委員役を仰せつかった研究者が、この研究計画は優れている、この研究計画はもう一つだと順番を決め、優れた計画だと評価された順に研究費が下りるという仕組みです。なので研究を続けるには、次の研究費獲得のために論文を出し続け、学会発表をし続けなければいけません。世に言う「定期的に論文が出せる小ぶりな研究がまかり通る」というやつです。

 

その科研費に、わたしの学問上の大先輩である渡邊邦夫さんが通りました。かなり大型の研究費です。わたしはその研究の研究分担者、つまり、いっしょに研究をする仲間のひとりとして名前を挙げてもらったというわけです。

 

あとで伺うと「(わたしの研究者としての)実力はよく知っているのだが、はたしてインドネシアでの調査に耐えられる体力があるだろうか」と心配していたそうです。

 

実は自分でも不安でした。わたしはフィールド・ワーカーです。フィールドに出なければ調査になりません。ところが、まひの後遺症で野山を走り回るわけにはいかなくなったのです。

 


GISの知識が生きる

 

幸いなことにわたしは、兵庫県でGIS(地理情報システム: geographic information systems)と呼ばれるコンピュータを使った調査法に取り組んでいました(第2回 頭が引き裂かれて角が生えてきた)。渡邊さんは、そこに注目してくださいました。

 

渡邊さんは、リザルディさんやサンティさんという若いインドネシア人研究者といっしょに、スマトラ島という巨大な島(日本列島と同じくらいの巨大さ)で、そこにいる哺乳類がどんなところに棲んでいるかを調査していました。

 

インドネシアにも整備されはじめたGISの技術が使かえるかもしれない。これなら座ってできるので、三谷は障害と関係なく研究に貢献できる。渡邊さんはそう考えたのです。

 

ここは「体力がなくなった」などと言っている場合ではありません。せっかく研究費が下りたのだから、その機会は最大限活かされなければならない。その上、渡邊さんは「スマトラ島では世話を焼いてくれる人がいる」と言うのです。

 

わたしの「世話を焼いてくれる人」? このときは何のことか、それが誰のことか、さっぱり分かりませんでした。また、渡邊さんは「かわいい人」とも言ったような気がします。どんな「かわいい人」が、わたしの「世話を焼いてくれる」というのでしょうか?

 


一路インドネシアへ

 

200799日に関西国際空港を発ちインドネシアに向かいました。空港には妻が見送りに来てくれました。

 

今は障害者がひとりで飛行機や列車に乗ることも珍しくなくなりましたが、2007年頃は、そんなに多くはなかったはずです。

 

当時、航空関係者にも障害者の接遇研修がさかんに行われていました。ですから、わたしを見て空港の職員は妙に丁寧に対応してくれました。わたしがひとりでジャカルタのスカルノ・ハッタ国際空港に着くまでは、何が何でも無事に送り届けるという気概に溢れていました。

 

ただ、わたしは観光に行くのではありません。仕事に行くのです。行くのは熱帯林です。空港の職員がいくら丁寧に扱ってくださっても、森の事情はまた別です。まかり間違っても死ぬことはないでしょう。ないと思います。ないとは思うのですが、しかし、万が一ということもあります。その「万が一」は、わたしの場合、ふつうの確率よりもずっと高いでしょう。妻はだんだん無口になっていきました。

 

離陸です。インドネシアは障害者に優しいところでしょうか。障害者の人権を尊重してくれるでしょうか。それとも「まともに働けない者」として粗末に扱われるのでしょうか。今はまだ分かりません。それでも関西国際空港を離陸してからは、インドネシア人の男性チーフ・パーサーが何かと気を配ってくれています。フライトは快適でした。わたしは、これまで気を張っていた疲れが出たのか、いつしか眠ってしまいました。

 

スマトラ島でサンティさんと出会う

 

インドネシアの空港では大柄な男性職員が私を車いすに乗せて、丁寧に出口まで連れて行ってくれました。

 

渡邊邦夫さんが空港に迎えに来てくれています。日本からはそれぞれ別の便で発っています。渡邊さんは数日前からインドネシアでのいくつかの用事を片付けて、ジャカルタでわたしと落ち合うことにしていたのです。

 

渡邊さんはいつもひょうひょうとして、気取りやこだわりといったものがありません。いっしょにいて安心できる穏やかな人です。それでいて責任感が強く、チーム・リーダーにはぴったりです。インドネシア人にも信頼されていました。インドネシアの大学で出世した人から、若い学生まで、多くの人の尊敬を集めています。

 

そんな渡邊さんに連れられて、ジャカルタのあるジャワ島を飛び立ち、調査地であるスマトラ島のリアウ州に向かいました。リアウ州はスマトラ島の中ほどにあります。そこにサンティさんが待っていました。




図1 スマトラ島のリアウ州

 

サンティさんは女性の大学教員で、最近結婚されたばかりだそうです。渡邊さんやリザルディさんと共にスマトラ島の哺乳類の地理分布について調べています。わたしの「世話を焼いてくれる」「かわいい人」というのは、このサンティさんのことでした。

 

渡邊さんは、サンティさんがリザルディさんと共に調べてきた最新の調査報告を聞いています。その研究タイトルは、日本語にすると「スマトラ島における現生中大型哺乳類の分布現状およびその歴史的変遷に関する調査研究」となります。

 

要は、スマトラ島の中型や大型の哺乳類は人為的な影響で今のような分布をするようになったが、人為的な影響と言ってもそれは農耕に起因するものなのか、それとも企業の行う大規模な開発なのかは確かめなければいけない。もともとの哺乳類の分布がどのように変わったのかが分かれば、スマトラ島の環境保全と人間活動のバランスも取りやすくなる。そういう研究です。

 

なるほど、それならGISの技術が使えます。わたしがスマトラ島に呼ばれた理由が分かりました。がぜんファイトが湧いてきました。サンティさんによれば、スマトラゾウとスマトラトラはぜひ調べたい動物だそうです。

 


神経質なゾウの話

 

渡邊さんは、用事があって一足先にリアウ州を離れ、わたしはサンティさんと二人で調査を続けることになりました。

 

サンティさんの案内でカルテックスという企業(後のシェブロン)の原油採掘の場所を見学しました。そこには、採掘した原油を港まで送るパイプ・ラインが延えんと張られていました。サンティさんによれば、パイプ・ラインはゾウの移動の妨げになっているのだそうです。

 

 




2 原油採掘のようす

 

 



図3 港まで延えんとのびるパイプ・ライン

 

ゾウと言えば、わたしはアフリカのコンゴ共和国で出会った森林生のアフリカゾウ、マルミミゾウのことしか知りません。そして、神経質なマルミミゾウだと、このパイプ・ラインは越えて行けないと思います。

 

ゾウのけもの道は人が掃き清めたようにきれいに続いているのですが、それはマルミミゾウが神経質に「掃除」をするからです。枝が落ちていると足の裏に刺さるので、ゾウは本気で嫌がると聞きました。アジアゾウとアフリカゾウでは性格が違うかもしれませんが、もしマルミミゾウと同じなら、スマトラゾウもパイプ・ラインは絶対に避けるはずです。

 


広がる「緑の砂漠」

 

また、サンティさんは熱帯林を剥いだ跡地にアブラヤシの植え付けをしているところも見せてくれました。アブラヤシから採れるパーム油は食用油としてだけではなく、石鹸や洗剤などに広く利用されています。ただし広大な森林を剥いで苗を植え付けるので、アブラヤシのプランテーションには動物が棲めません。例えて言うなら「緑の砂漠」のような地域が広がってしまうのです。

 

石油の採掘と同様に、アブラヤシ農園も、国や大きな企業が経営しているのが一般的で、小規模な農家では手に負えません。

 

古くなって実が採れなくなったアブラヤシを植え直している農園がありました。その農園の外側に、ジャワ島から移り住んだ農民一家がいました。農園は国の経営で、そのそばに国策としてジャワ島から入植民を勧誘しているのです。ジャワ人は働き者として有名です。その上、ジャワ人は穏やかな人が多いと聞きます。国策の入植者には打って付けなのかもしれません。

 

 




図4 実が採れなくなった古いヤシを取り去り、苗を新しく植え付けたアブラヤシ農園。手前に見えるのはパイプ・ライン

 

 




図5 ジャワ島から入植した若いご夫婦と子ども。ヒジャブで頭髪を隠しているのがサンティさん。その横はわたし

 


サンティさんは森に詳しい人を見つけると、森のようすやどんな動物がいるのかを聞いて回ります。大抵は優しく教えてくれるのですが、なかには拒む人もいます。

 

 

サンティさんが森のようすの聞き込みをしていると娘さんが割り込んできて、「この人に何も言っちゃだめ!」と情報の提供を拒否する場面に出くわしました。わたしは訳がわからず、なぜだめなんだろうと聞くと、サンティさんは民族によって対応が違うのだと教えてくれました。

 

ジャワ人やミナン人(サンティさんはミナン人です)は、知らない人にも友好的だけど、よそよそしく、場合によっては嫌悪感丸出しで応対してくる人もいるとのことです。

 

 




図6 農村で聞き込みをするサンティさん。聞き込みの物珍しさに子どもたちが取り囲む

 


帰国ーそして、後日談

 

このようにして、スマトラ島のリアウ州のようすを見ることができました。わたし自身が現場に行かなければ、決して観察できなかったあれやこれやです。わたしは見せてもらったリアウ州のようすから、自分ならどんな研究をするだろうと考え込んでいました。サンティさんには、そんなわたしの考え込んでいる姿がどう映っていたでしょう?

 

帰国の日が来ました。昼過ぎにサンティさんに伴われて空港へ向かい、ジャカルタに向かう国内線の飛行機を待っていました。サンティさんとはお別れです。サンティさんはわたしの右手が不自由なことを良く知っていて、わたしの右手を包むようにして別れの握手をしてくれました。

 

わたしが身体障害者だということで、中年の太った空港職員も親切にしてくれました。次にインドネシアに来る時には、サンティさんが喜ぶデータを用意して来ようと思います。

 

実はこの話には、後日談があります。

 

日本に帰って、スマトラ島のGISの情報がないだろうかと探していると、サンティさんからメールが届きました。研究者は、国境には関係なくメールでやり取りをするのが一般的です。そんな日常のメールだと思って開くと、意外なことが書いてありました。そして渡邊さんがサンティさんのことを、わたしの「世話を焼いてくれる」「かわいい人」と言った理由が分かりました。

 

サンティさんのメールには

 

ミタニ センセイ

 

ミタニさんを空港で見送った後、私は、長い間泣いていました。ミタニさんのちょっとした仕草から父を思い出していたからです。父は3年前、脳梗塞で他界しました。

 

私はミタニさんが多くの困難を乗り越えてこられたことを誇りに思います。ミタニさんが病気を克服されて、ここ(スマトラ島)にいたことは驚異です。ミタニさんの精神力に敬意を表します。

 

 尊敬を込めて サンティ


そう記されていました。




(三谷雅純 「ことばを失う」の人類学 わたしをフィールド・ワークする 第14回おわり)

 

←第13回はこちら













 

訪問看護事業所の仕事は、訪問によるケアが全てではありません。それが中核的な業務である一方で、日々の記録書や報告書、計画書の記載、レセプト請求、労務管理、公的調査・学術研究への協力……と「周辺業務」も数多く存在します。利用者と向き合う時間を充実させていくには、この周辺業務の効率化も大きな課題です。

 

そこに取り組もうと立ち上がったのが、一般社団法人Vehicle for Nurses(ビークルフォーナース、以下VFN)の皆さんです。法人の異なる訪問看護師たちが周辺業務の効率化を図るための組織を作りました。

 

本サイトでは、VFNが2022年6月10日に行ったオンラインイベント「訪問看護の『これあったらいいよね』を語り合おう」の模様を再構成してご紹介します。

※本記事は一部抜粋版。完全版は『訪問看護と介護』2022年9-10月号に掲載予定

 

企画:一般社団法人Vehicle for Nurses

構成:『訪問看護と介護』編集室

 

* *  *

 

これは「もうちょっとどうにかできるんじゃないか」

 

 

吉江 定刻になりましたので始めます。ご参加の皆さん、よろしくお願いいたします。本日のイベントは、一般社団法人Vehicle for Nurses(ビークルフォーナース、以下VFN)の私吉江とメンバー5人、さらにゲストの高山義浩先生(沖縄県立中部病院・医師)とともに訪問看護の「これあったらいいよね」を語り、それを通してVFNの狙うところについても紹介するという主旨のものです。

 

座談会に先立って私からVFNの事業内容を説明していこうと思いますが、まずは私個人が訪問看護の現場で働く中で感じていることからお話しさせてください。ごく一部ですが、訪問看護の業務フローの中で「もうちょっとどうにかできるんじゃないか」というものを列挙してみました。


 

 

訪問看護報告書や訪問看護記録書

多くの現場において「月末に送る」ことが多いと思います。ただ、例えば、「月初のエピソードを月末に送ったところで意味があるのだろうか」と書きながら思うことがあるんです。届けられた医師やケアマネジャーにとっても、月末に読んだところで時期を逸しているものが多いはず。そう思うと、この業務は誰かのためになっているのだろうか、そもそも読まれているのだろうかと考えてしまいます。

 

 

レセプト

介護保険における訪問看護療養費請求は電子化されている一方で、医療保険における訪問看護療養費請求については紙の運用で行われています。これは本当にどうにかしてほしいと思っているところです。

 

余談ですが、私の地域(千葉県柏市)では「請求を提出する際に添付する訪問看護療養費明細書は青紙に印刷する」ように指導されます。今朝まで知らなかったのですが、これって全国共通のルールではなく、ローカルルールだったようです。電子化されると、こうしたローカルに決められていることも統一化が図られるのかなとも思います。

 

 

記録・業務システム

厚生労働省で様式が決まっていて、それに基づいて記録・業務システムが設計されているんだと理解しています。ただ、その設計が必ずしも現場の動線と合っていない感覚があります。

 

例えば、私たちは日々、訪問看護記録書IIを書いていますよね。でもこの毎日書く記録書と、月々に書く報告書・計画書との動線が完全に分離してしまっている。1か月間のこと思い出したり、記録書を振り返ったりしながら、報告書・計画書を書くという感じで。記録書を毎日書いているわけですから、何らかの形で集約され、自動的に報告書・計画書として書き起こされるといったことが記録・業務システム側でできれば、業務負担の軽減が図れるのではないかと想像します。報告書・計画書の発送自体も外注なり、電送なりが可能になるとさらによいですね。

 

あと、現場では電話、FAX、メール、多職種連携アプリなど、いろんな形で多職種と日々連絡を取り合っている状況があります。そうした連絡手段は多様なままであっても、相手からの様々な連絡事項が全て記録・業務システムの方に集約されるといった仕組みができたら、すごく便利だろうなと考えていたりもします。

 

 

それで立ち上がったのがVFNです

 

……と、挙げ出すときりがないのですが、訪問看護に関わっている中ではこうした「もうちょっとどうにかできるんじゃないか」というものとは多く出会います。

 

そうしたどうにかできそうなものに取り組んでいこうと、有志の看護師たちで一般社団法人を立ち上げました。名前は、「Vehicle for Nurses(ビークルフォーナース)」です。言葉の通りで、「看護師にとって便利な乗り物(Vehicle)になりたい」という希望を込めています。なお、一般社団法人ですが、その中でも非営利型と言われる類型であるのも特徴です。

 

VFNが行っていきたいことは、「訪問看護の周辺業務の最適化」です。実際に訪問看護事業所には、看護を提供するという直接的な業務以外にも、さまざまな周辺業務が存在しています。

 

 

 

 

まずは業務・記録システムの最適化を

 

そうした周辺業務の最適化を図るために、VFNとしては手始めに業務・記録システムの最適化に取り組んでいきたいと考えています。

 

現状、訪問看護の記録・業務システムはさまざまなものが存在しており、各事業所・法人はそれぞれで各種メーカーの商品を選んで使用している状況です。

 

例えば、病院であれば専属の情報担当者を置いて、その担当者が100~1000人規模の看護師の声を吸い上げて電子カルテを選び、仕様変更をメーカーに要望するといったことをしているはずです。

 

 

一方で訪問看護事業所はそうではありません。全国平均で言えば、1事業所当たりの看護師数は5人程度。当然、専属の担当者などはおらず、多くの場合、素人である看護師自身がシステムメーカーとやりとりしながら、選定したり、仕様変更の要望を出したりしているというのが実態です。

 

そこでVFNでは、訪問看護事業所とシステムメーカーとの仲介――病院でいうところの情報担当者の部分ですね――を担いたいと考えています。

 

現場をよく知り、かつ情報システムにも比較的明るい非営利団体として、複数の訪問看護事業所の記録・業務システムに対するニーズを集約し、皆さんの代表としてシステムメーカーに要望を出す。あるいは皆さんに対し、「このシステムメーカーの電子カルテがよさそうだ」という情報をシェアしたりしていきたいと考えているわけです。例えれば、保険加入希望者と保険会社の間にいるファイナンシャルプランナーのような立ち位置と言えるのかもしれません。

 

 

 

VFNは何をもたらすか

 

VFNのような中間組織は、訪問看護事業所側、システムメーカー側の双方にとって利益があると考えています。

 

まず、訪問看護事業所側のメリットです。電子カルテの選定や乗り換えに際し、「訪問看護事業所にとって最適なものは何か」を小規模の各法人で悩まなくて済むようになります。システムメーカーと1から10まで直接やり取りする必要もなくなるはずです。

 

また、皆で同じものを使っていれば、「こういうふうに使うと便利だよ」という現場のアイデアを他者から得られやすくなると考えられます。

 

さらに、公的調査の回答負担を最小化できます。毎年、厚生労働省などの調査が行われていますが、今のところ紙で回答するものが多い。この作業も記録・業務システムを最適化し、例えば、自動集計・出力が可能な形になれば、事業所の回答不可を軽減させ、かつ調査実施側も必要なデータをより正確に高い回収率で集められるようにも作れるはずです。

 

一方のシステムメーカー側にとっては、VFNが窓口になることで効率性が高まります。単独事業所・法人の要望に逐一対応する必要がなくなったり、現場の感覚に合ったシステム更改の優先順位を把握しやくなったりもするはず。結果的に契約ロット数を大きく増やし、増収につながる可能性もあるかもしれません。

 

なお、VFNとしては、契約ロットを大きくすることで多少は価格を下げられるかもしれないという期待もあるにはあります。

 

しかし、システムメーカーの持続可能性にも配慮すべきであることから、値下げ自体は目標とはしていません。例えば、公的期間の入札と同様、定期的な契約更改を行い、適正な競争が保たれる仕組みなどを考えたいと思っています。

 

 

先生、記録は読んでいますか?

 

柳澤 ここから座談会に入っていきたいと思います。ゲストには沖縄県立中部病院の高山義浩先生にお越しいただきました。よろしくお願いいたします。早速ですが、VFNに対する率直な感想はいかがでしょう。

 

高山 はい。よろしくお願いします。沖縄県立中部病院の高山です。いつも訪問看護には大変お世話になっています。VFNの活動には共感します。われわれ医師も―――。

 

* * *

 

本サイトではここまで。この続きは、『訪問看護と介護』2022年9-10月号に掲載予定です。

 

なお、動画を視聴されたい方は、一般社団法人Vehicle for Nursesへ下記フォームよりお申し込みください。

https://forms.gle/W5NoMnh8tNuXJicBA

 

一般社団法人Vehicle for Nursesはクラウドファンディングに挑戦中(~2022年6月30日23時まで)です。詳細は下記にて。

https://readyfor.jp/projects/vfn

 

 

■学校現場における技術の進歩

 

現在の学校現場では、いろいろな場面で液晶ディスプレイが使われています。コンピュータと接続して大型のディスプレイに映し出せば、模擬的に行う理科実験なども、その様子を一度に多くの生徒に見せることができます。

 

わたし達のころは、みんなが先生の周りに集まって、押し合いへし合いしながら先生の手もとを覗き込んだものでした。しかし、今では、生徒は席に座ったまま理科実験を見ることができます。インターネットから取り込んだ情報も、その場で大型のディスプレイに映し出せます。まるで、もう黒板は不要になったかのようです。

 

......ちょっと待って下さい。本当にそうでしょうか?

 

■板書の重要性

 

生徒の前で先生は黒板を使って授業を進めます。授業の中心は、今でも板書なのだと思います。わたしはマヒのために板書ができないので、講義や講演ではコンピュータとスライドを常用していますが、これだと学生や参加者の集中度が落ちてしまうような気がしています。

 

大学では授業時間を90分としているところが多いのですが、だいたい30分過ぎあたりから寝ている学生が出てきます。もちろん、話をしっかり聴いている学生が多いのですが、目は開いていても、ただ座っているだけという学生が何人かはいるものです。教室の後ろの方に座り、あくびをしながら心ここにあらずという学生です。

 

それでも興味を引き出すのが教員の腕だと思います。ただし社会人対象の講演で寝ている人は驚くほど少なくなります。義務で座っている講義と、知識を求めて自ら集まる講演の差なのでしょう。

 

学生が寝ているのは、わたしが板書できないことと大いに関係しているのではないでしょうか。板書というのは、先生が喋った内容をホワイト・ボードや黒板に書くことで先生自身がまとめ直すものです。学生はその内容を自分のノートに書き写します。学生もまた、そうすることで先生の喋った内容を自分の中で確認し直すのです。確認し直すのですから学生にとって書くという行為は、繰り返し刺激を受け続けることを意味します。これが板書の利点だと思います。

 

ということは、わたしには板書ができないことを補う技(わざ)が、どうしても必要になってきます。それが障害者になってから開発した工夫の数かずです。

 

■自己紹介で学生の心を開く

 

セミナーや講義をするのに「障害のあるなしは関係ない」というのが持論(希望?)ですが、それでも、わたしの場合はいろいろと手順を踏んでからセミナーや講義に臨みます。

 

第一に、わたしは話を始めるとき、必ず自己紹介から始めます。話し始めて5分ぐらいはもろに失語が出ます。よく話が詰まります。聴いている方は何事が起こったのだろうと思うかもしれません。また、先程も書いたように、わたしは板書ができません。スライドを映してやる講義も、いつもととは勝手が違うでしょう。

 

そこで、なぜコンピュータを使うのか、なぜ板書をしないのか、聞き手が理解しやすいように、あらかじめ自己紹介から始めるのです。

 

自己紹介では現在の自分の状態を包み隠さず公開します。やってきた研究も大事ですが、それよりもまず病気のことです。

 

――脳の血管に血栓が詰まりました。

 

――今のように緊張していたり(学生や聴衆の前では、今でも緊張します)、疲れた時には失語が出ます。いったん右半身がマヒしていましたから、動きがぎくしゃくしています。そのためにスクリーンの前を行ったり来たりできません。

 

こういった説明を終えたあたりで、わたしはやっと滑らかに口が回り始めます。エンジンが正常に回転し始めたのです。

 

ところが、聞き手は目の前にいる教員が障害者だということにとまどっています。「障害」という事実に圧倒されて口が利けなくなっているのです。

 

――教員は自分の障害のことを話しているけれど、でも、それに関することを本当に質問してもいいのだろうか......

 

明らかに不安に駆られた目をしています。

 

わたしは「わたしの障害について、何か聞きたいことがありますか?」と、なるべく平静を装って声をかけます。そんな時の学生は、聞いてみたいことがあるのだが、他の学生の前で聞くのは気が引けると気をもんでいます。それが良くわかります。学生に比べて社会人の方はよく手を挙げます。たぶん人生経験を積んでいる分、ご自分とわたしが変わらなく思えるのでしょう。

 

このように講義中はもじもじしていた学生ですが、講義が終了した後で「僕はADHD(注意欠如・多動症)の診断を受けています」と言ってきたり、「高校の時、クラブをしていて脳梗塞(こうそく)で倒れ、救急車で運ばれました」と言ってきたりするのです。どの人も深刻な顔つきではなく、わたしに笑いかけて、そう言ってくれるのです。

 

 

講義や講演のときに使う「自己紹介」のスライド

 

■わたしと同じ障害を持つ学生

 

脳梗塞を起こした男子学生へは、わたしと同じ障害なので親近感が湧きました。もちろん、そんな感情を表に出してはいけません。教員はどの学生とも等しく付き合うべきです。そして、一番気になるのは、その学生が講義に興味を持ってくれたかどうかです。

 

その学生は利き腕側がマヒしていたのでノートが取れませんでした。わたしの方も「板書」代わりのスライドで講義をしています。これでは興味が持てなくてもしかたがないでしょう。

 

試しに他の教員の講義ではどうしているのかを聞いてみました。するとその学生は困っていると言うのです。教員は、学生が困っていることに気がつかないのでしょうか。しかたがないと突き放すのは冷たすぎます。教員側に共感と想像力が足らないのかもしれません。

 

その学生が言うには、ノートが取れないので、黙って聞いている。そしてできるだけ憶えておいて、講義の後でコンピュータに入力する。

 

......う~ん。

 

実を言うと、わたしも大事な会議の後では似たようなことをやっていました。ただし、抜けたところがないかを同僚にチェックしてもらいます。たいていはこれでオーケーです。学生に仲間の学生はいないのでしょうか。

 

心配になったわたしは、教員が板書を終えたら、消す前にデジタル・カメラで写すというのはどうかと提案しました。基本は今まで通り記憶に頼るにしても、写しておけば、見直して見ることができる。それで抜けていたら、書き足せば良い。

 

しかし、学生は困った顔をしています。何に困っているのかはよく分からなかったのですが、わたしは、教員が「カメラで撮るな」と怒るのなら、なぜカメラで写すことが必要なのかを、わたしからその教員に説明してあげるからと言ってみました。その場はそれで分かれましたが、結局、この「記憶とデジタル・カメラ」作戦は実現しなかったようです。

 

それでも、この話には後日談があります。まじめなその学生は、何とかしてハンディキャップを乗り越えて大学院に進みました。確か乗り物の設計がしたいと言っていました。そして大学院を終えると、有名な乗り物の会社に研究員として採用されたということです。めでたいことです。ただ、わたしも同様ですが、本人にとって乗り越えるべき障壁はこの先も続けて現れることでしょう。

 

■音声に関する工夫

 

講義は大抵大きな教室でやるので、マイクが必要です。ただし、わたしは手でマイクを持てませんから、世話をしてくださる事務職員にピン・マイクを用意してもらいます。もちろんマヒのない方の手で持つことは可能なのですが、そうするとスライドを示したり、学生や参加者を当てたりできません。

 

それから自分が喋った内容や質問にどう答えたかを記録するボイス・レコーダーも活用しています。ボイス・レコーダーの記録を次の講義のために聞き直し、もっと良い答え方ができるのであれば、それを考えるためです。

 

■対面式、少人数で行うセミナーでの工夫

 

次に少人数でやるセミナーで工夫していることです。

 

第10回「もうひとつの生き方――新たな苦労の喜び」で紹介したセミナーは、わたしにとって不安に満ちた市街でやる社会人セミナーでした。しかし、勇気を出してやってみると、セミナーの参加者もわたしも、共に良質な時間を過ごすことができました。病気をする前には、なかなかできなかった経験です。

 

セミナーで喋ろうと思うことをあらかじめ考えておくことは大切ですが、そのことよりも、その場で自分の頭で考え、参加者と共に作り上げたことが楽しいのです。それができたときは本当に贅沢な時間を過ごすことができました。この経験から、再び研究者の喜びを感じることができたのです。

 

セミナーでは、わたしが「手持ち原稿」と呼ぶ原稿を紙に打ち出しておきます。14ポイントとか、16ポイントとかの大きなフォントを使います。わたしが見てすぐに分かるものでなければ意味がないので、フォントはわたし好みの丸ゴシックです。視認性が良いものが好みです。明朝体は縦と横の線の太さが変わるので、わたしには見にくいのです。

 

これはたぶん、わたしの学習障害と関係があるのだと思います。わたしは小学校以来、漢字が憶えられなくて苦労したのですが、これはわたしの「左右利き」、つまり右側と左側の認識が曖昧なことが関係しているのだと思います。漢字の偏(へん)と旁(つくり)がごちゃごちゃになって、正しく漢字が書けないのです。

 

それが縦と横の線の太さが変わる明朝体が苦手なことと関係しているだと思います――読んでおかないといけない論文の草稿などは、文書作成ソフトで書いたものを送ってくださると、フォントが変換できるので、わたしにとってはとても便利です。明朝体が読めないということはありませんが、好きなものを選んで良いと言われれば、わたしは丸ゴシックで書いたものを選びます。

 

この手持ち原稿の右上には、巨大なページ数を振っておきます。喋っている間に失語で言葉が出て来なかったら、堂どうとこの「手持ち原稿」の該当するところを開きます。そうすれば、すぐに忘れた言葉に行き当たるのです。こうしておけば、わたしにもセミナーの参加者にも大きなストレスはかかりません。

 

配付資料も用意します。絵や写真を使ったスライドをつくっておいて、講義で使うスライドの代わりにセミナー用に印刷して配ります。なるべく大きな文字になるように、1ページにスライドを2コマずつ印刷します。学生のように若い人であれば小さな文字でも平気ですが、セミナーに高齢の社会人が参加する場合を想定して用意しておくのです。

 

セミナーは大体、2時間ほどかかります。わたしは参加者と向かい合わせに座ります。参加者が何か分からないことや意見があったら、遠慮しないでわたしの話を止めて意見を言ってもらうというスタイルが好みです――何だか、古代ギリシャの哲学者・ソクラテスの「問答」みたいですが、わたしはソクラテスのように怖くはありませんよ。

 

いつも出席する参加者は、わたしの好みのスタイルを良く承知していて、セミナーの開始前には机を向かい合わせに並べ替え、セミナーが終わると、次の講義ができるように、元通り戻しておいてくれます。

 

 

セミナーの様子

 

■進歩する技術に対して思うこと

 

現在はソフトウェア、ハードウェア共に、さまざまな技術の進歩があります。障害者だから講義ができないという時代ではありません。ないはずです。脳―マシン・インターフェイスの実用化は、もうそこまで来ています。頭で考えるだけで本物の手のように動くロボット義手でさえ実用化が間近だと言われています。これが実現したら、きっとすばらしい。

 

しかし、開発される技術は、マヒや失語の障害で言えば「欠けている能力」を補うことが主眼の技術ばかりのような気がします。

 

「欠けている能力」を補うということは、多数者の生き方を模擬的に真似するということです。もしかすると、それは人の多様性を認めるのではなく、暗黙の内にひと色の生き方を強要しているのではないでしょうか。わたしには、そういう心配があるのです。

 

 

(三谷雅純 「ことばを失う」の人類学 わたしをフィールド・ワークする 第13回おわり)

 

←第12回はこちら

 

 

おれんじドアにはさまざまな年代の方がみえます。

 

若年性認知症のご本人とご家族の年代は、50代から80代と幅があります。

それぞれが抱えている問題や不安、ご家族の背景などはさまざまで、そのためご本人のお気持ちもおひとりおひとり異なってくるのです。

 

 

配慮されても「迷惑をかける」と感じてしまう

 

今回のエピソードは、若年性認知症のある50代の方。

おひとり暮らしをしています。

 

若年性認知症という診断を受けた後も、職場や仲間の理解を得て、今もご本人が納得いく形で仕事の継続ができているそうです。体調の変化によっては急に出勤ができなくなるかもしれないと、職場に近い社宅に暮らしています。

 

そのお話を伺ったとき、私にはとても恵まれた環境に感じられました。おひとりで生活をする際に起こる難しい場面や、体調の変化があってもSOSが出せる、その配慮に安心を感じました。

しかしご本人の口からは、こんな不安が語られました。

 

「わたしは、いつまでも働き続けたい。しかし、職場の仲間に迷惑はかけたくない」

 

やはり当事者は、周囲のひとに協力を得ることへの申し訳なさを感じてしまうのです。

 

「頼れるひとに頼っていい」と言うことは簡単でも、実際にそうすることの難しさ。

相手がご本人を思って、何かあったときに気づけるようにと配慮してくれたとしても、ご本人は「迷惑をかけてしまう」と申し訳なく思う。それが現実なのだと思い知らされました。

 

わたしは「それでも、職場が、今ご自身が納得できる環境を用意してくれており、『頼ってもいい』という状況を作ってくださっているのならば、今からでも甘え上手になっていただきたいのです」と伝えました。

 

でも、認知症と診断されたとき、わたしも「家族に迷惑をかけたくない」という思いがありました。

仕事を続けながら、認知症と共に生活する人の思い。

どんなに職場が配慮してくれていても、ご本人が甘えることのむずかしさ。

ご本人の考え方次第と思われるかもしれませんが、そこは診断を受けた当事者にしかわからない、認知症と診断を受けたひとと診断を受けていないひととの間にある、見えない壁なのかもしれません。

その壁は、社会や環境の影響を受けて、本人が作り出してしまっているのかもしれません。

 

 

自分の経験が誰かのためになるのなら

 

この日の後半になってその方から出てきたのは、「自分の経験を活かし、わたしも誰かのためのサポート活動をしたい」。そんなうれしい言葉でした。

 

わたしは、その方の生活の背景を思いました。

そして責任感があり、ひとに頼ることは難しいけれど、きっとひとからは頼られる存在でいたい方なのではないかと推測しました。

 

この日の「おれんじドアはちおうじ」はご本人ご家族のご来場が多く、おひとりおひとりとゆっくり時間をかけてお話しすることができませんでした。

 

そこで、最後にその方とわたしの2人の時間を作っていただき、別室「みきの部屋」へご案内。

 

わたしから、その方の思いをしっかりと聞き、「無理なく参加できるときにご来場いただき、わたしと一緒にご本人さんの言葉を聞いてみませんか?」とお伝えしました。

 

すると、キラキラとした素敵な表情で「はい。やりたいと思います」そんな言葉が返ってきたのです。

自分にも「役割」がある!

そんな声が聞こえてくるようでした。

 

その後、お仕事が忙しくなったとのことで、まだこの方との再会には至っていません。

周囲の方から、「○○さん、次は参加されるようですよ」と、情報だけはいただけます。

ひとに頼ることの難しさを感じながらも、きっとご本人なりの工夫をされていることと思い、再会の日を楽しみにしています。

認知症になったからこそできる活動も、ご一緒にスタートできたら、きっとこの方にとってエネルギーの源になるはずです。

 

 

認知症と診断を受けると、すぐに、「介護してあげなければいけないひと」、もしくは、「何かしてあげなくてはいけないひと」になってしまうケースが多いかもしれません。

しかし診断を受けたその日と、次の日は何も変わらないのです。

職場の環境であったり、ご近所付き合いであったり、家族や知人との関係が、認知症と診断を受けたというただそれだけのことによって、全く違うものになってしまうことを危惧しています。

 

残念なことに、現在のところ認知症は進行性の病気です。

でも、どんな病気にも初期の頃があり、役割を持って楽しく前へ進むことができるのならば、きっと楽しく、認知症と共に過ごす時間を続けることができるのです。

 

「おれんじドアはちおうじ」の扉は毎月第三土曜日に開いてます。

 

何気ない日常の話題。

何気ない夫婦の話題。

いまの世界情勢などの話題。

 

そんな話で盛り上がり、ふとした瞬間にご本人から語られる不安、そして孤独な気持ち。

そしてそんなご本人の表情が、明るく変化するとき語られる言葉。そんなひとことひとことを大切にしています。

 

その方に合った言葉を選択しながら、短い時間ではありますが、大切に寄り添い、最後はまた再会できることを願っています。

 

 

■霊長類学を志すー伊谷純一郎さんとの出会い

 

新聞の連載を続けながら、わたしが後遺症を得る前と後で、自分の興味は変わっただろうかと考えてみました。

 

後遺症を得る前にわたしが主に研究していた学問は霊長類学と言います。霊長類学とは「霊長類」、つまりサルや類人猿や昔の(=今は滅んだ)人類も含めて、その社会と行動を観察し、あるいは思い描いて、今、生きているヒトの本質は何なのかを科学的に探ろうという学問です。

 

わたしと霊長類学との出会いは、かつて教科書で読んだ、伊谷純一郎さんが書かれた高崎山のサルの話でした。初めて読んだときにはそれほど驚いたという記憶はなく、ただおもしろいことを調べている先生がいるものだと思っただけでした。しかし、どこか印象に残る研究で、時間が経ってもしっかりと記憶に残っていました。そして京都大学に入学して実際に伊谷純一郎さんにお会いしてみると、その研究のすごさが身に染みて分かりました。

 

日本に棲むサルは森に溶け込むようにして暮らしています。それが元来のサルの生活です。ですからサル集団の全体像は森に隠れていて目には見えません。またサルは他の哺乳類に比べると寿命が長いので、野生状態でサルの一生をひと通り観察するのも難しくてできません。特にオスザルは集団を出て、短い期間ですが独りで暮らします。だから、メスとコドモ、それにオスまで含めたサル集団の全体像を図に描き出すのは至難のことなのです。

 

ヒントとなる手掛かりは森の陰からちらりと見える断片だけです。伊谷さんは、そこから「ニホンザル集団の社会構造」を描き出したのです。言ってみれば抽象的な現象の具象化です。象徴的な意味を図に表すのです。とんでもなく高度な知的作業です。

 

セミナーの席だったと思いますが、伊谷さんは、自分の研究はクロード・レヴィ=ストロースを手本にしたと話されたことがありました。レヴィ=ストロースとはフランスの人類学者です。自分たちヨーロッパ人だけが優れているのではない。他にも優れた社会はあるのだと言って、南アメリカの狩猟採集民の社会構造を図に表して見せた人です。

 

 

図 伊谷純一郎さんが描いた大分県高崎山のニホンザルの社会構造

 

 

■生態学と重なり合う課題に心血を注ぐー河合雅雄さんに師事

 

わたしは研究者を目指していました。しかし、はたしてわたしに伊谷さんのような「抽象的な現象の具象化」ができるのだろうか。あるいはレヴィ=ストロースのように、自分の知らない民族の社会構造を描き出すことなどできるのだろうか。それを思うと自分の研究者としての将来が見通せなくなりました。

 

霊長類学の中でも人類学に関連の深い分野のフィールド・ワークというのは、とんでもない体力と、とんでもない直感力と、とんでもない知恵がなければ勤まらない学問のようです。自分にはそのような才能はなさそうだけれど、はたしてどうしたものだろう。

 

これが、当時、霊長類学の中でも生態学と重なり合う課題の解明を目指しておられた河合雅雄さんに師事した理由でした。

 

当時のわたしは、生態学というのは、重さでも、長さでも、ともかく測って測って測り抜けば自ずと答えは出るものだと信じていたのです。測り抜いた後は統計学が、どれがよいかを決めてくれる。自分に直感力がなくても何とか研究を続けられそうだ。そう思えたのでした。

 

もちろん現実の生態学はもっとエレガントなものでしたが、ともかく直感力も知恵もないわたしは、河合雅雄さんに従って、アフリカの熱帯林で泥だらけになって霊長類の生態調査を続けたのでした。

 

そして2002年4月に脳塞栓症に倒れました。この病気が原因で亡くなる方も多いそうです。幸いわたしは死にはしませんでしたが、これまで書いてきたような後遺症が残りました。

 

■脳塞栓症後、自分の興味を見失う

 

病気の前後で確実に変わったのは、わたしがICT(Information and Communication Technology: 情報通信技術)を、それまで以上に多用するようになったことです。疲れや緊張から失語が出そうなときは、ICTが便利です。わたしはもう熱帯林には行けません(行けないことになっています。でも本当のことを言うと、今でも行けるチャンスを狙っています)。

 

わたしは今でも研究を続けていますが、では病気の前後で興味の対象はどう変わったのでしょうか。

 

病気をしてすぐの頃は、自分が何者に変わったのか分かりませんでした。何をすれば自分の科学的な興味を満たし、社会の役に立ち、自分やまわりの人の役に立つのかが分からなかったのです。

 

なので、惰性で、それまでの作業を続けようとしました。できることもありましたが、できないこともありました。

 

わたしが行っていたのは、兵庫県に棲む野生動物の研究の基礎となる哺乳類や鳥類のデータをまとめて、分かりやすく行政職員の言葉に直す作業でした。GIS(地理情報システム)というコンピュータを使ったシステムでなら、研究者でなくても分かります。わたしは「霊長類の専門家」ならぬ「哺乳類の専門家」として病気をした後も、行政職員との打ち合わせや会議にも出ようとしていました(事実、いくつかの会議には出ました)。

 

しかし、これはすぐに頓挫しました。一つは行政職員と上手く意思疎通ができなかったこと、もう一つは、研究対象であるはずの「兵庫県に棲む野生哺乳類」に愛着が湧かなくなったことが原因です。

 

■後遺症を負い自分自身を発見する

 

その代わりに、わたしにとって後生大事になったのは人間そのものでした。なかでも自分自身です。

 

後遺症が残っている自分の姿は、安易に見過ごせる姿ではありません。何も考えなくても自動的に腕や足が動き、舌が回る時代は過去のものとなりました。一つひとつ、慎重に動かし方を考えなければ腕や足は動かず、口も利けなくなっていました。自ずと意識は自分に集中します。当然のことです。

 

わたしは自分がどんなになっても生きている価値があると信じています。ですから、正直に言うと障害を負ったからといって悲観する人の気持ちはよく分かりません。そもそも、完璧な人間はいません。障害を負う前の自分も完璧ではなかったはずです。

 

だとすると、病気をする前も、後遺症が残った今も、わたしという存在は何も変わらないはずです。ただ変わったのは、活動の一つひとつに意識が集中していることだけなのです。

 

わたしの存在を中心に置いて考えてみたときに、「わたし」とはいったい何者なのだろうという疑問が浮かび上がります。ずっと付き合ってきて一番よく知っているはずの「わたし」。

 

「わたし」は大阪の下町で育ち、あまり人と争うこともなく研究者となり、結婚して二人の子をもうけました。人生の自慢は深く関わった「ンドキの森」がUNESCOの世界自然遺産になったことぐらいです。あとはごく普通の人生でした。それが病気を境に世の中のわたしの取り扱い方が変わってしまった。中味の「わたし」という存在は何も変わらないのにです。

 

もちろん、気を張って体を操っているのですから、以前のわたしとは違います。それなのに「わたし」の何が変わったというのでしょう。

 

それはおそらく社会の中でのわたしの位置づけが変わり、その反作用でわたしも変わってしまったということ。そしてまた、わたしが変わったことで社会の位置づけが再び変わり、さらにわたしが反応した。そしてそれが何度も繰り返し起こった。そういうことではないでしょうか。

 

■新しい人類学が誕生する予感

 

仲良くなった高次脳機能障害者の仲間を観察していると―人類学や社会学では「参与(さんよ)観察」と呼ぶそうです―、症状は共通するものもあるのですが、細かな点は違うようです。ある人はほとんど喋れません。しかし、手足を動かすのは平気です。別の人は、今しがた恐ろしい目に合ったのに、次の瞬間には何事もなかったかのように忘れてしまいます。脳の中の世界は広大です。果てしがないのです。そのどこかに不都合が起こったのだとしたら、さまざまな点が違うのは当然だとも言えます。

 

つまり同じ「高次脳機能障害」と言っても、その実態は多様なのです。「高次脳機能障害」という言葉は、その共通する側面だけを覗いて付けた仮の呼び名だという気がします。

 

元来人間は、多様な存在です。多様な存在をそのままに研究してみたら、どんな世界が広がるのだろう。しかも観察対象は自分をはじめとする人たちです。これはやってみる価値がある。間違いありません。しかも、研究を行うのはわたしという当事者です。もしかすると、新しい人類学が誕生するかもしれない。誕生して欲しい。

 

■「ことばを失う」の人類学の誕生

 

社会人セミナーの席で高次脳機能障害者の女性にこんなことを尋ねられました。

 

「三谷さんは、どんな立場の人にも必ず優れたところがあると言いますが、私は高次脳機能障害者になってよかったと思ったことはありません。どんなところが優れていると思っていらっしゃるのですか」

 

わたしは、さまざまな社会的マイノリティと同様に、それぞれの障害者にも優れたところがあるはずだと言いました。それがわたしの主張だったのです。それに対して今度はその女性から「どんなところが優れているのか」と聞かれたのです。咄嗟(とっさ)のことで、上手く答えられませんでした。それでつい「落ち着いてものを考えられるところ」「心根(こころね)が優しいところ」とごまかしてしまいました。

 

そのとき上手く答えていたら、現在、どんなところが優れているのかなどとは考えていなかったかもしれません。上手く答えられなかったがゆえに、その質問(叱責?)は澱(おり)となって心の底に残りました。

 

わたしが予感する新しい学問とは、ひと色のヒトではなく、本質的に多様なヒトに向き合える人類学です。そこで向き合うのは「自己」であり「他者(たしゃ)」です。わたしにとっては、さまざまな特質を持った高次脳機能障害者のことです。

 

効率主義の社会ではわたし達の才能を存分に発揮することは不可能でしょう。わたし達はゆっくりとしか動けません。競争社会でも不可能だと思います。市場経済至上主義ならどうでしょう。市場経済至上主義というのは、簡単に効率主義や競争社会になりそうです。ここでも活躍は難しそうです。

 

しかし、世の中には、どうあっても市場に乗せて、価格を付けてはいけないものがあるはずです。教育はそうでしょうし、医療もそうでしょう。さまざまな野生動物や野生植物もそうかもしれません。そしてまさにヒトがそうなのです。どんなヒトも生きる価値があるはずだ。でも、皆がそれを納得するには「生きる価値」を証明して示さなければなりません。

 

今はまだ、マジョリティ中心の、効率優先で経済優先の価値観が色濃く残る社会です。しかし、さまざまな社会的マイノリティが、自分の意見を、誰に遠慮することなく主張できる社会であって欲しい。それが<新しい人類学>、つまり<「ことばを失う」の人類学>の誕生です。

 

(三谷雅純 「ことばを失う」の人類学 わたしをフィールド・ワークする 第12回おわり)

 

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「おれんじドア」は、若年性認知症当事者の丹野智文さんが2017年に仙台で始めた、認知症当事者による、認知症当事者とご家族のための相談窓口です。認知症のある当事者を中心としたケアの機運が高まるにつれ、少しずつ全国に広がっています。

会場は大学や病院が多いですが、東京都八王子市では、認知症フレンドリーシティに向けた取り組みの一環に位置付けて、当事者と支援者と行政が手を取り合って、駅近にある市の施設で開催されています。

 

そんな「おれんじドアはちおうじ」で起こるエピソードや運営のあれこれを、若年性認知症当事者であり、代表であるわたし、さとうみきの目線でお届けします。なお、本連載に登場するスタッフ以外の方々は、個人が特定されないようにお名前やご年齢等を改変しています。

 

おれんじドアはちおうじ

 

算数ドリルを毎朝10冊以上

 

この日来てくれたのは、介護保険を申請したばかりの、70代の男性です。

最近、デイサービスが決まったそうで、最初は嬉しそうにこれからの話をしてくれました。

ご本人はもともと、カラダを動かすこと、物を作ることが好きだったといいます。

今は、ご家族の提案で、小学生用の算数ドリルを毎朝10冊以上こなすことを日課にしていると、にこやかに、自慢気に話してくれました。

 

しかし話を聞いているうちに、だんだんと表情が曇り、「デイサービスでもドリルをたくさんやるんだってさ」とひとこと。

わたしが「ドリルをしているとき、楽しめていますか?」と尋ねると、首を横に振り、「それでも家族の期待に応えたいから、我慢してやっているんだ」と話してくれました。

 

世の中には、認知症予防や認知症改善をうたったドリルや脳トレなどがたくさんあります。

それをご本人が楽しく続けるならばいいことです。

しかしご本人が「間違えてしまったらどうしよう」「家族の期待に応えなくては」という想いで我慢したり、ご本人の負担になったりしては、ご家族の優しさがかえってよくない方向に向かってしまいます。

 

ご本人がファシリテーターと話している間に、わたしは、その男性と一緒に来ていたご家族のもとへ。

ご本人から伺ったことは、ご家族には伝えないルールです。わたしは自分も認知症(若年性認知症)の診断を受けていることをお話しし、何気ない話の中から普段のご自宅での様子などを聞き出しつつ、会話を進めてみました。

すると、ご家族の口から、毎日何種類ものドリルをご本人にがんばらせていること、そのことにご本人が応えてくれることに、ご家族が喜びを感じているというお話を伺うことができました。

 

「今日ここに来る途中にも、こんなにたくさんドリルを買ったんですよ〜」

ご家族の表情からは、ドリルで頭を使うことで、少しでも進行しないように...という優しさを感じます。同時に、ドリルを探すことで、ご家族も頑張っていると認めてほしいかのように見えました。

 

ご家族も必死であり、ご本人を想う優しさから出た行動なのでしょう。

しかし、ご本人は、「家族の期待に応えなくては...」という思いで我慢をされている。その気持ちをどう伝えるか考えました。

 

「よかったら、奥様もご一緒にやってみてください」

 

そして思い切って、「毎日こんなにたくさんの量のドリル、わたしはやりたくないですね!」と言ってみたのです。

「ご主人もきっと最初は新鮮で楽しかったかもしれません。でも、こんなにたくさんのドリルを毎日やったら......。よかったら、奥様もご一緒にやってみてくさい」

ご家族がハッとした表情をされました。

 

わたしは続けて、ご家族の優しさやご本人への想いは大切に認めつつ、

「もしも自分だったら、こんなにたくさんのドリルを楽しんでできるかどうか。時に、ご主人の目線で考えてみると、気づきがあるかもしれないですね」と伝えました。

ご家族は、「そうよね......」としばし考え込まれた後、「ありがとうございます」と言ってくださいました。

 

おれんじドアでお会いするご家族からは、ご本人と一緒に頑張っているという気持ちが伝わってきます。

だからこそ、その気持ちがご本人の気持ちとズレていたら、気づいていただきたいし、ご家族もちょっと立ち止まって、一緒に当事者目線で考えていただけたらいいな。

おれんじドアでは、そんな想いで、一言ひとことを大切に伝えています。

 

最後には、ご本人もご家族もスッキリした笑顔で「ありがとう」と言ってくださいました。

わたしは、ご夫婦仲良く肩を並べて遠ざかる後ろ姿が見えなくなるまで、見送らせていただきました。

 

 

■注文は「高校生が読んでわかる文章」

 

毎日新聞社の記者からメールをいただきました。

 

読んでみると、連載をお願いしたいというのです。ついては、わたしの都合に合わせるので、お目にかかりたいということでした。

 

最初はびっくりしました。以前にもアフリカの調査記を頼まれて、今は休刊になっている『科学朝日』や『アニマ』という雑誌に連載を持ったことがありました。ですから原稿を書くこと自体に問題はありません。題材はいくらでも湧いて出て来ます。しかし、脳塞栓症になってからのわたしの頭は以前とは違います。霧がかかったままです。はたして連載を頼んできた記者は、わたしの後遺症のことを知っているのだろうか。

 

毎日新聞社の記者はTさんという男性でした。好青年です。社会部の記者で、わたしが人類学、なかでも化石や遺跡に残らないヒトの行動や社会の話をするのを聴いて目を付けてくれていたのです。病気をしてからのわたしの講義も聞いていました。そのため、当然ですが、わたしの後遺症についても承知の上でした。

 

――先生の講義で発達障害の「わたし」という概念や「仲間はずれ」の話を聞きました。

 

――4月から1年間、「新しい霊長類学」の視点で週一回、現在のいじめや発達障害、先生自身のフィールド・ワークを題材に連載をしていただけないでしょうか。35回程度の予定です。

 

――いかがでしょうか。

 

願ってもないことでした。こちらからお願いしたいくらいです。ただ、わたしは後遺症を抱えています。頭に霧がかかった状態で連載を引き受けたりして良いのでしょうか。

 

連載は毎週のことです。毎週、毎週、新しい原稿を新聞社に届けなければならないのです。その上、今度の原稿は原稿料をいただいて書く「商品」です。それなりのクオリティが求められます。病気をしてからも、原稿料はもらわずに訓練として同人誌に書かせていただいたことはあるのですが、商品としての原稿はひさしぶりです。わたしにできるだろうか。

 

――承知しました。

 

――やっていただけますか。

 

――何の問題もありません。

 

わたしは嘘をつきました。問題は大ありなのです。不安が募ります。しかし、Tさんの前では不安はおくびにも出さず、快活、かつ鷹揚(おうよう)にふるまって見せました。わたしにとって、それからは毎週が戦いでした。

 

打ち合わせのあとの雑談で、Tさんはジャズがお好きなボートマンということが分かりました。わたしもスローなジャズが好きです。「最低、高校生が読んでわかる文章を書いて下さいますか」。Tさんはそうおっしゃいました。

 

■高次脳機能障害者も視野に入れると

 

わたしの脳塞栓症の後遺症と、以前にこの連載でも書いた漢字の学習障害――わたしは左右利きなので編(へん)と旁(つくり)をよく間違えます――を考慮して、原稿執筆のわたしなりの作戦を立てました。

 

まず原稿は1週間前に出してしまう。こうしておけば担当して下さる記者も時間に余裕があるので、書き間違いがあっても確実に指摘して下さいます。

 

次に学術用語は極力避けました。わたしは、普段、論文や論文に類する報告書を書く機会が多いので、何の気なしに学術用語を使ってしまいます。しかし学術用語では、一般の人には通じないことがあります。もちろん、どうしても学術用語でないと表せないことも、あるにはあるのですが――「ヒト」とか「DNA」とかがそうでしょうか――、学術用語を使いそうになったら、まず国語事典や類語辞典を見て、何とか社会一般で通じる文章に直そうと試みました。

 

それから、Tさんの要求は「高校生が読んでわかる文章」だったのですが、高校の教科書などを見ると、書いてある内容は、結構、難しいのです。それなら、わたし流の「社会一般で通じる文章」でも十分かもしれません。しかし、わざわざ「高校生が読んでわかる文章」をと要求されたのです。どうしたものかと考えて、ここは(こっそりと)もう一ひねりして「高次脳機能障害者が読んでわかる文章」にしてみてはどうだろうと考えました。具体的には失語症者や聴覚失認者です。今ふうの呼び方では聴覚情報処理障害者のことです。

 

この作戦はTさんや毎日新聞社の方には相談していません。わかしがひとりで(こっそりと)やったのです。学術用語を使わないで、それなりの内容の文章を一般の人向けに書く。しかも、同時に「高次脳機能障害者が読んでわかる文章」を試みる。

 

ですが、「高次脳機能障害者が読んでわかる文章」の定型などあるわけがありません。わたしは、今だに、それを研究しているのです。まさに知的冒険のつもりでした。

 

では、失語症者や聴覚失認者に適した文章とはどんなものでしょう。

 

失語症者の言語リハビリでは、「それに しても 失語症者や 聴覚失認者に 適した 文章とは どんな もので しょう」というふうに文節(か文節よりも細かい単位)に分けて書くのが良いと言われています。

 

これを「分かち書き」と言います。分かち書きをしたところに「ね」を入れて読んで、自然に聞こえたら分かち書きは完成だとされています。「それにね してもね 失語症者やね 聴覚失認者にね 適したね 文章とはね ……」というふうにです。別に「分かち書き」でなくても、要は何か印(しるし)を入れて、文章を理解しやすいものにすれば良いのです。例えば「/」を入れるとすると「それに/しても/失語症者や/聴覚失認者に/適した/文章とは/……」といった具合になります。

 

■表意文字を使って書く

 

しかし、新聞に書く文章は言語リハビリとは違います。そのままでは「商品」になりません。わたしはどう考えたかというと、まず、なるべく表意文字の漢字を使って書くことにしました。ひらがな/カタカナは表音文字です。表音文字だけだと、失語症者や聴覚失認者は意味が取りにくいのです。そこで迷ったら、ためらわずに漢字を使うようにしたのですが、問題は二つありました。第一に、わたし自身が漢字を書くのも読むのも苦手なこと、第二に、むやみに漢字を使うと、今度は漢文みたいになって、かえって読めなくなってしまいそうです。

 

第一の問題は、コンピュータに自分の使い慣れた日本語入力システムを入れておけば解決します。現在、わたしは2種類の日本語入力システムを使っています。それにウェブ上でも、さまざまな辞書が利用可能です。

 

第二の問題は発想を少し変えてみました。あえてひらがなで書く言葉を入れるのです。この連載でも、わたしは「私」と書かずに「わたし」と書いています。普段から「わたし」「わたし」と書いていると、いつの間にか、人は「言葉の塊(かたまり)」として認識するようになるのです。それはちょうど「girl」を、「g」「i]「r」「l」ではなくて、「girl」という塊(かたまり)として認識するのと同じです。だから、わたしは必ず「わたし」と書くのです。

 

どの言葉を漢字にするか、どの言葉をひらがなやカタカナにするかというのは、実は難しく決め手がありません。マニュアルもありません。試行錯誤の連続です。

 

そして連載したのが「霊長類学の窓から」(1年後に「ヒトは人のはじまり:霊長類学の窓から」と改題)です。担当された記者(実際の担当はTさんではありませんでした)は変な文章だと感じたこともあったのかもしれません。それでも一般読者には思った以上に好評で、連載は1年を超えて4年間続きました。おかげで頭の霧も晴れ始めました。

 

それにしても「頭の霧が晴れる」のはなぜでしょう。連載をするための適度な緊張と、原稿を出したあとの適度な弛緩が、程よいリズムを作り出します。そのことが、わたしには「効いた」のではないでしょうか。のべつ幕なしに緊張していたのでは精神的に保ちません。反対に弛緩が長すぎると霧が濃くかかってしまいます。一週間ごとの緩急が、わたしに考える術(すべ)を思い出させてくれたのだと解釈しています。

 

■順調に回復? 現実は一進一退

 

上記の連載は、2011年には毎日新聞社から『ヒトは人のはじまり:霊長類学の窓から』という同じタイトルで書籍にしていただきました。書籍になることは特別な意味があります。自分自身のやったことにクサビを打ち込んだような気がするのです。

 

ここまで読むと、わたしの高次脳機能障害やまひは順調に回復していったと誤解されたかもしれません。しかし、現実は一進一退でした。思うようには行きませんでした。

 

その典型がひどく体力がなくなっていたことです。やはり、自由自在に体を動かすことができずにいました。拘縮(こうしゅく)のせいなのか右肩や右肘は可動域が狭(せば)まっています。右足は、気を付けていないと膝が上がりません。そのために屈伸はできるのですが開脚ができません。股の関節が硬くなっているらしく、右足が以前のようにはまっすぐに伸びないのです。足首も回せなくなっています。

 

走ることも試みました。しかし、うまく走れませんでした。自由に動く左側で引っ張るような走り方になってしまいます。もちろんスピードは出ませんし、距離も伸びません。

 

「両足が地面を離れた瞬間があれば<走っている>と言っていいです」「ゆっくりと走ってみることはできませんか?」と背中を押してくれたリハビリ病院の医師もいたのですが、結局、満足に走れないままでした。

 

さいわい歩くのに不自由は感じませんでした。それでも、最初は2~3キロメートル歩くのが大変でした。

 

どこで聞いてきたのか、娘が「はだしの小道」に行ってみたいと言い出しました。当事住んでいた三田(さんだ)市には武庫(むこ)川という大きな川が流れています。「はだしの小道」は武庫川脇の遊歩道に作られた、足裏をマッサージするための屋外設備です。このような施設は、場所によっては「足つぼ遊歩道」とか「足つぼロード」という呼び方もあるようです。

 

丸い小石や細長い小石、中にはわざと尖ったところを上にしてコンクリートで固めた小道で、石を踏んで歩くと、自然にツボを刺激するようになっています。病気になる前、裸足になって歩いてみたことがあるのですが、わたしには「気持ち良い」というよりも、ただ痛いだけでした。実際にそこを歩いている人を見かけたこともあるのですが、そんな人はたまにいらっしゃるだけです。ひょっとすると娘は、わたしのリハビリテーションに役立つと思ったのかもしれません。

 

わたしは娘を連れて「はだしの小道」をめざして歩きます。行くのは太い幹線道路の側の歩道です。勾配らしい勾配はありません。そこを2~3キロメートル歩くだけです。今なら、どうということはありません。ところが、それができなかったのです。愕然としました。

 

小さな娘はもっと先に進みたそうです。幼くても元気いっぱいです。しかし、息が上がったわたしは、大きな建物のわきで息を整えさせてもらいました。また歩き始めます。息が上がります。もう一度息を整えます。そして三度目の休憩で、「これ以上進むと、お父さんは戻れなくなると思う。今度、また連れてきてあげるから、今日は帰ろう」と声を絞り出しました。ギブ・アップです。

 

娘は何とも言えない、複雑な表情を浮かべました。しかし、それ以上「はだしの小道」に行きたいとは言いませんでした。本当にわたしが弱っていると分かったのでしょう。「帰ろう」という言葉に素直に従ってくれました。

 

■よみがえるンドキの森の記憶

 

来た道をゆっくりと引き返しました。その時、アフリカの森を歩いていた頃の記憶がよみがえりました。コンゴ共和国の無人の森――今だかつてサピエンスが立ち入ったことのない原生林――の湿地を何日もかかって歩いた記憶。あの時の肩に掛かった荷の重みと擦れて肉が見えた肩口や内股。湿地の木を這うハチのように刺すアリ。体が簡単に沈み込む深い泥沼。初めて見るヒトを興味深そうに見つめるカバの見開いた目。もろもろの記憶の断片が、これでもかこれでもかと押し寄せてきたのです。

 

決して自慢したい記憶ではありません。調査のために、しかたなくやっていたのです。

 

調査が終わった後も充実感はありませんでした。と言うより、ただ休みたかった。日本に着いたその日から、抜け殻のようになって1か月を寝て過ごしました。激しい調査行で身も心も弱り切っていたのです。

 

そのうち、抜け殻になって寝て過ごす日びは終わりました。フィールド・ノートを開いて調査を振り返ります。まとめるべき要点をリストにして書き留める日がよみがえるのです。

 

わたしは武庫川沿いの遊歩道を使って歩く練習をすることにしました。幸い遊歩道にはジョギングをする人のために、正確な距離が表示してあります。わたしはその表示を使って、できるだけ長く歩き続けることにしました。

 

最初は2キロを歩くのがやっとでしたが、4キロ、5キロと距離を伸ばしていきました。やがて安定して、ゆっくりとですが10キロほどを歩き通せるようになりました。けれど油断は大敵です。油断すれば、たちまち元に戻ってしまうからです。

 

コンゴ共和国のンドキの森(現在のヌアバレ=ンドキ国立公園)のマルミミゾウのけもの道でへたっているわたし

 

(三谷雅純 「ことばを失う」の人類学 わたしをフィールド・ワークする 第11回おわり)

 

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■夢のない夜

 

第9回「もうひとつの生き方――妻のこと」の原稿を「かんかん!」編集部に出し終えてから思い出したことがありました。それは脳塞栓(そくせん)症になって2、3年は、夜、夢を見なかったことです。

 

この連載の第2回目「頭が引き裂かれて角が生えてきた」に、血栓が脳血管に詰まって最初に入院した病院で、頭にニョキニョキと角が生えてくる夢を見たと書いています。それは睡眠薬か何かで眠っていたとき、うなされて見た夢だと思います。夢を見なくなったというのは、退院してから日常の生活に戻ってからのことです。

 

第9回では、わたしの表情のない顔の写真を見てもらいました。パーキンソン病の人は身体の筋肉だけでなく、顔の表情筋もこわばって動かなくなるそうです。パーキンソン病の人のような表情を「仮面様顔貌(かめん・よう・がんぼう)」と呼ぶそうです。写真に写ったわたしの顔も表情筋が動かなくなっているようです。まるで仮面のようです。Webで調べてみると、レビー小体型認知症の人やうつの人にも、この表情が見られるそうです。何か脳のメカニズムに共通のものがあるのでしょうか。

 

わたしがこの表情をしていた頃は、確実に夢を見なくなっていました。いや、本当は夢を見ていたのかもしれませんが、目が覚めたときにはきれいに忘れていました。

 

■恐怖も消えた

 

夢を見ないだけではなく、いつの間にか恐怖というものも感じなくなっていました。それは〈怨霊〉とか〈呪い〉といった禍々(まがまが)しい何かだけではなく、〈座敷わらし〉や〈おんぶおばけ〉のように、別に悪さをしない、場合によったら幸運をもたらしてくれる妖怪まで、わたしの前からは消えてしまった感じです。わたしにとって、目に見えないものの一切合切が存在しなくなりました。

 

そしてこれが一番重大なことかもしれませんが、自分が死ぬことに恐ろしさを感じなくなっていました。もちろん死にたいと願っているのではありません。どう言えばいいでしょう。「生きる」とか「死ぬ」という感覚がなくなったというのが一番近いでしょうか。それとも機械の「心」のような何かを思い浮かべればいいのでしょうか。機械は岩や砂と同じで「生きる」ことも「死ぬ」こともないはずです。ただそこにあるだけです。

 

■ここは暑いのか?それとも寒いのか?

 

もうひとつの不思議な感覚は、微妙な暑さ/寒さを感じなくなったことです。これは何となく理由が分かります。脳にダメージを負った人は赤ん坊の身体にリセットされるのです。

 

そして微妙な暑さ/寒さを感じなくなったというのは今でもそうなのです。わたしはよく、同じ部屋で仕事をしている人に、こっそりと「今は暑い?」「それとも寒い?」と聞いてから、上着を脱いだり、一枚余分に羽織ったりしていました。赤ん坊時代のようで、体温調節が十分には機能しません――赤ん坊はお母さんに抱かれているので、お母さんの体温をもらうために自分で体温を維持する必要がないのです。

 

一方、わたしは、極端に暑いとか、極端に寒い場合は、さすがに分かります。なので、体温調節機能が赤ん坊時代のままだというのと、夢を見なくなったとか死ぬことが恐ろしくなくなったというのとは、どうやらメカニズムが違うようです。

 

■少しずつ見始めた夢

 

いつから再び夢を見始めたのだろうかとか、いつから暗闇が怖くなったのだろうとか、いつから死ぬのが怖くなったのだろうというのは、今となってみれば「少しずつそうなった」としか言えないような気がします。だから、いつから元に戻ったかは分かりません。

 

暗闇や死ぬのが怖くなるというのは「少しずつそうなった」としてもあまり不思議に感じませんが、夢は見るか見ないかのどちらかしかないのですから、「少しずつ」夢を見始めることなどあるのだろうかと考えてしまいます。でもやはり、「今日は何年かぶりに夢を見た」という記憶はないのです。

 

若い頃は死ぬのが恐怖でした。夜中に目が冴えてしまい、どうにも眠れなくなったときなど、不意に自分はいつか必ず死ぬのだという思いが募って、布団の中で震えていました。少しずつですが、その頃の感覚が戻ってきたのです。

 

でも、いったい何がきっかけで、感覚が戻ってきたのでしょうか。

 

ひとつ考えられることは日記を書き続けたことです。急性期で入院していたときを除いて、わたしは日記を義務だと思って書き続けました。その日記がコンピュータに残っているから、この原稿も書けるのです。

 

日記を書くことはリハビリ病院の医師からも勧められました。その日一日の出来事をできるだけ思い出し、書き付けていく(わたしの場合は左手でコンピュータに打ち込む)。文章を書くことは苦になりませんが、その日に起こったあれやこれを思い出すのには苦労しました。

 

そして本の音読です。わたしの口が回らないことを心配してくれた言語聴覚士が、本の音読を勧めてくれました。今から思えば「口が回らない」というのは舌や喉の筋肉が思うように使えていないことと、しゃべる対象を不意に忘れてしまう、つまり短期記憶の障害によって起こることのようです。それならば最初から文字が書いてある本を使って、まず舌や喉の筋肉を鍛えることが効果的かもしれません。音読というのは、高校以来、もう何十年もなじみのない習慣ですが、幸い読書は大好きです。わたしは気に入った本を選んで音読してみることにしました。

 

神戸新聞出版センターから出ている「のじぎく文庫」というシリーズがあります。そのシリーズの一冊に、当事住んでいた三田(さんだ)のお好み焼き屋さんを題材にした本がありました。筆者は地域づくりを研究している研究者です。薄い本です。まずはこの本を音読することにしました。

 

やってみると音読は日記を書くより何倍も大変でした。黙読なら普通にできます。ところが音読となると口が動きません。自然な会話ができているつもりでいましたが、とんでもない。最初は1ページを音に出すだけでへとへとになりました。

 

商店街に並ぶ、なじみのあるお好み焼き屋さんの話です。三田は驚くほど多くのお好み焼き屋が繁盛している街だそうです(どうしてだかは分かりません)。薄いこの本なら音読ができそうだと思って選んだのですが、それでも大変でした。約30分かけて4ページほど音読したでしょうか。読み終わったときには、疲れ切って机に突っ伏してしまいました。

 

■「出前セミナー」に挑む

 

発病から2年ほどたったある日、教員が交代で社会人相手に「出前セミナー」をするという企画がありました。三ノ宮という神戸市でも一番の繁華街で、それも勤めを終えた社会人相手に行う、夜間のセミナーです。教員は全員が参加するというという決まりでした。でも、わたしに務まるでしょうか。

 

セミナーのまね事は言語聴覚士の前でやったことがありますし、しゃべる言葉が頭の中からスムーズに出なくなっても、大きな字で書いた手持ち原稿があれば平気です。セミナー自体には不安はありません。しかし、脳塞栓症になってからは、夜の繁華街を歩いた経験がありません。夜は非常に疲れているので、よく知った街でも出歩きたくありません。わたしには、ためらいがありました。

 

そんなためらいを知って、リハビリ病院の医師が言ってくれたことがあります。

 

「仕事をするというのは、ものすごい負荷が掛かることです。これは<生きている>とか<生活する>というレベルとはわけが違う。その負荷によって三谷さんに脳梗塞が再発する恐れもあります。でもそれは、交通事故で脳損傷を起こした人が<交通事故に遭わないために外出をしない>と言っているのと同じです。ナンセンスです。」

 

この言葉に勇気をもらいました。

 

日々の仕事をやり遂げるためには、毎日、何かに挑戦し続けなければいけない。自分にできることもあれば、できないこともある。でも、できるかできないかは、やってみなければ分からない。やる前に、自分にはできないと言って尻込みしていては、できることもできなくなってしまう。ここ一番の踏ん張りどころだと、勇気を出してやってみました。

 

■研究者としての新たな喜び

 

セミナーは順調に進みました。わたしも人前で穏やかに笑えたと思っています。わたしのセミナーの参加者はごく少なく、3、4人しかいません。セミナーですから向かい合って座ります。すると互いの表情が手に取るように分かります。わたしに意地の悪い質問をしてくる方がいらっしゃいました。そして、あるときを境にその意地の悪い質問はぱったりと止まりました。その方が、わたしの右まひや失語のことに気が付いたからです。ハッと息を呑む声が聞こえました。意地の悪い質問は、わたしの実力を試していたのでしょう。

 

それからは、皆さん、有益な意見を交換するようになりました。「意地の悪い質問」ではなく、本質を突いた「鋭い質問」を受けました。わたしも、精一杯それに答えました。そのときの参加者のおかげで、わたしはとても良質な時間を過ごすことができました。参加者も研究者も、その場で自分の頭で考えてみる。参加者と共につくり上げる贅沢な時間は研究者の喜びです。そんな時間は、病気をする前にはなかなか経験できませんでした。

 

■象徴の喪失と復活

 

そうして、わたしは再び夢を見るようになりました。〈座敷わらし〉や〈おんぶおばけ〉が復活し始めました。そして「自分の死」を怖いものだと感じ始めました。

 

わたしはこの連載の第2回目「頭が引き裂かれて角が生えてきた」に「(発病後の)わたしにとって<死>は、それほど身近だったのかもしれません」と書いています。生きるか死ぬかの瀬戸際ならば、「自分の死」を怖いものだと感じないほうがいいのかもしれません。そして症状が落ち着いてきて、少しぐらい無理もできるとしたら、「自分の死」が怖いものだと感じることは理にかなっています。わたしの場合は、まさにそうだったと思います。

 

それにしても、どうやったらこのような変化が生まれるのでしょうか。

 

わたしの脳神経が、何年もかけて互いに手を繋ぐことによって、目には見えない〈おばけ〉や「自分の死」を復活させたのかもしれません。

 

生物としてのヒトが他の哺乳類と違うのは「象徴」としての「宗教」や「国家」を生み出したことだと言います。第一、人がコミュニケーションに使う〈ことば〉自体が「象徴」で成り立つのです。例えば「ば」「な」「な」だけではただの音の羅列に過ぎませんが、日本語を知った人なら「ば」「な」「な」から、あの甘いバナナを思い浮かべることができるのです。

 

わたしは目に見えないもの、言い換えるなら「象徴」を失っていました。しかし、脳神経が何年もかけて手を繋ぎ、あるいは別の脳神経が新しい機能に目覚め、それがあるとき、「死」という人間にとってきわめて重大な概念に気が付いた。自分ではそんなプロセスが頭の中であったのではないかと想像しています。

(三谷雅純 「ことばを失う」の人類学 わたしをフィールド・ワークする 第10回おわり)

 

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第1回 自己紹介

はじめまして。わたしは、2019年1月に43歳で若年性アルツハイマー型認知症の診断を受けた、さとうみきと申します。

 

認知症と診断されるきっかけは、2018年に、若年性認知症のある主人公を描いた連続テレビドラマを観たことでした。回を重ねるごとに、テレビの中の主人公と自分の姿が重なりました。

 

インターネットやお店で同じ商品を繰り返し買ってしまう。

 

修理などのアポイントを取って、当日訪ねて来られたとき、以前だったら「あ、あのとき電話で約束したのにスケジュール帳に書き忘れた」といったように思い出されたことが、全く思い出されない。

 

一歩外に出て、挨拶をしてくれたご近所のお子さんの名前が思い出せない。

 

お買い物中に見知らぬ人に声をかけられて、会話から、きっと息子と同じ学校に通うお子さんの保護者なんだろうけど...。

 

頭の中から、記憶がすっぽりと消えている。

そんなことが重なりました。

 

最初は、疲れているのか、それとも更年期? などと考えました。まさか自分が「認知症」であるとは想像すらしませんでした。

 

しかし、テレビドラマの出来事に重なる、何とも言えない感覚。心配になりゴロンと横になりながら、スマートフォン片手に「もの忘れ外来」のある病院やクリニックを探しました。医師をしている夫にも相談し、夫の知人が院長を務める近所のメモリークリニックを受診したところ、若年性アルツハイマー型認知症の診断を受けました。

 

わが家は、夫と息子とわたしの3人家族。

 

ひとり息子は2歳で、自閉スペクトラム症という診断を受けています。多忙な夫を支えながら、発達障害のある子どもを相手に初めての子育て。わたしは疲弊し、入退院を繰り返す生活からなかなか抜け出せなかった時期もありました。

 

そんな息子もがんばり、地に足を付けてしっかりと成長すると共に、わたしの体調も回復してきました。これからは家族との時間をもっと楽しみたいと思っていた、そんな矢先の「若年性認知症」の診断だったのです。

 

当時は、認知症のイメージも、インターネットでの情報もネガティブなことばかりでした。

今度は「介護」という負担を夫とひとり息子に負わせてしまう申し訳なさでいっぱいで、診断を受けた瞬間、隣の席に座っていた夫に「ごめんなさい、ごめんなさい」と伝え、泣き崩れた記憶があります。

 

そんなわたしの膝をまるで、「大丈夫、大丈夫」と言うように、夫なりの精一杯のメッセージなのかポンポンとしてくれていたのが印象に残っています。

 

そんな絶望感しかなかったわたしも、認知症と診断を受け3年が経ち、少しずつ前を向いて進んでいます。

 

そのきっかけや、わたしが若年性認知症の当事者として果たしたいと思っている役割、大切にしていることなどをこの連載で少しずつお伝えできればと思います。

 

 

「おれんじドア」との出会いは、わたしが認知症と診断を受けて間もないころでした。

 

「当事者の方にお会いしたい」

 

そんな気持ちから、仙台の若年性認知症の当事者である丹野智文さんとお会いしました。

 

そして、わたしと同じように診断を受けた方が、わたしと同じように「当事者と話がしたい」と思っていることを知ったのです。

 

丹野さんは、2017年に仙台で「おれんじドア」を始めました。認知症当事者が、認知症当事者や家族の相談にのる窓口です。その「おれんじドア」からのれん分けをしてもらうような形で、わたしのスタイルで「おれんじドアはちおうじ」がスタートしました。

 

この連載では、そんな当事者同士の会話やエピソードなども綴りたいと思います。

 

どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

■怒るわたし、沈黙する家族

 

これは、わたしにとって書くのがつらい原稿になりました。

 

わたしが書いた下書きを読んで(投稿する前には、いつも読んでもらっています)、現実はこんなに穏やかではなかったと妻は言います。怒ったようです。いらだっています。下書きの原稿はボツにしました。

 

確かに退院した直後のわたしはいつも不機嫌で、何かというと怒り出すのです。いつもリハビリだ、リハビリだと言っていろいろな道具を持ち出すのですが、思い通りにできないと癇癪(かんしゃく)を起こします。リハビリ病院を退院して、短い時間でしたが家で過ごしたあと、国立循環器病研究センターに検査入院することになったとき、妻はほっとしたと言います。また別の病院に行っていてくれる。家族で過ごす団らんは、当時の我が家にはありませんした。

 

いらだった妻に聞くのも気が引けたので、こっそりと息子に発病前後のわたしの様子を聞いてみました。

 

発病前のことはあまり記憶にないそうです。考えてみれば、当事のわたしは何年間も野生哺乳類の研究施設の計画作りに没頭し、家にはあまりいませんでした。少なくとも、子どもが起きている時間に家に帰ることは、ほとんどありませんでした。

 

病気をしてからは、病院にいるか、家にいるかだったのですが、家にいるときは何かと言えば怒っていて、そんなとき、息子はどう接すれば良いのか分からなかったそうです。

 

娘はチック症を発症し、まばたきを繰り返すようになりました。チック症というのは子どもがなりやすい心の病気です。ストレスや不安が原因でなるそうです。当時、娘は2歳でしたから、まだ幼稚園にも入っていません。妻も娘に子どもらしい遊びをさせてやる余裕はなく、「公園デビュー」もできないまま幼稚園に入園したのです。ですから、ほかの子どもたちと外で玩具の取り合いをしたり、順番を待って滑り台で滑ったりした経験がないのです。仲の良いお友だちはいましたが、お母さんと「お出かけをする」といっても、わたしの見舞いに病院に行くくらいが関の山でした。

 

確かに、発症後のわたしの写真は、何やら険しい顔をしています。発症してからしばらくは笑う余裕もなかったのでしょうか。

 

 

 

写真1 実はこの写真、無邪気に笑う娘と左手を繋いでいます。

 

妻も笑う余裕はなかったはずです。しかし子どもたちがいます。子どもの前で悲しそうな顔はできません。精一杯、笑顔をつくって触れ合っていました。

 

時には子どもを置いてでも、わたしの顔を確認して妻が承認しなければならないことがあります。特に国立循環器病研究センターは検査入院ですから、通常は使わない放射性薬剤を使って検査をすることがあります。そんなときは託児所に娘を預け、息子には玄関の鍵をかけてから小学校に行くのだと何度も教えて、家を出てくるのです。

 

任せてよい歳ではありません。しかし、任せなければしかたがない。娘は託児所を嫌がって泣きました。息子もひとりでちゃんとできるという保証はありません。まだ小学校1年生なのです。でも、どうしてもわたしの検査には妻の承認が必要です。妻は子どもたちの身の上に、万が一の事故が起こることも覚悟していたはずです。

 

■「わたしはこれからどうなるのか」誰も答えてくれない

 

妻はかなり早くから、わたしが元に戻ることはないと悟っていました。妻は看護師です。若い頃から今まで、何人もわたしと同じような立場の人に出会ってきたはずです。

 

ところがわたしは、いまだに暗闇の中をさまよっていて、自分がこれからどうなってしまうのか、将来はあるのか、それともきれいさっぱりなくなってしまったのかが、どうにも、見通せなかったのです。自宅でやるリハビリテーションは自分で計画を立て、ただひたすら真剣に立ち向かいます。しかし、少なくともわたしには、やった先の見通しはないのです。

 

リハビリで世話になっている医療関係者に、わたしはこれからどうなるのかと聞いてまわったことがありました。皆、異口同音に、どうなるかは人によって違うと答えます。なかには、その人の脳が受けたダメージは、大きさも受けた場所も違うのだから、人によって違うのは当たり前だと、少し理屈っぽく答えてくれた人もいました。でも、わたしが求めていたのは、そうではありませんでした。わたしが聞きたいのは「人によって違う」という答えではなく、「わたしはこれからどうなるのか」だったのです。

 

でも誰にも「わたしはどうなるのか」は分かりません。平均的にどうなりそうだというのなら、答えられたかもしれません。しかし、個人個人がどうなるかまでは答えようがありません。……覚悟を決めるしかありませんでした。消し忘れた炭のように燻(くすぶ)り続ける不安を抱えたまま、生きていくしかありませんでした。

 

■励まし支えてくれる妻

 

わたしの後遺症といっしょに暮らした妻はどんな思いだったでしょう。

 

自宅でリハビリテーションに励んでいた最初の頃、妻はいつも励ましてくれました。回復がどこまで進むのか、それとも無駄な努力で終わるのか、さっぱり先が見通せないというのに、妻はわたしのリハビリテーションに役立ちそうだと、ホームセンターで上下左右に穴の開いたパンチング・ボードと木製ピンを買い求め、お手製のペグ・ボードをつくってくれました。また指先を鍛えるために、一般には「セラパテ」と呼ばれるそうですが、ベタ付かないプラスチック製のセラミック粘土も買ってくれました。

 

室内で使う小さなトランポリンを買ってくれたこともあります――わたしが必要だと主張して買ってもらったのですが、何に使おうとしたのかは忘れてしまいました。これはいつの間にか子どものおもちゃになっていました。

 

わたしは左手だけでもタイピングができましたが、まひした右手も練習すればよいと思ったので、自分でタイピング・ソフトを買ってきて、しばらくは右手も参加して、毎日、ぽつり、ぽつりとキーボードを打つ真似をしていました。ただし2、3か月続けても、わたしの右手の指は思うように機能せず、そのうち、日記などを本気で打ち込む必要が出てきたので、せっかく買ったタイピング・ソフトでしたが、使わなくなってしまいました。

 

 

写真2 右手で箸を使って煮魚を食べてみた

 

 

■暴走するプライド

 

あまりリハビリだ、リハビリだと言って杓子定規な生活を続けるのも息が詰まります。わたしが家にいるときに、たまには外食をしようと言って、妻が家族を連れ出してくれたことがありました。電車に乗って行ったのか、家の近所の店だったのか、今となっては記憶にありません。あいまいです。かすかに記憶に残っているとすれば、そこはレストランだったような気がするだけです。

 

わたしと家族はテーブルを囲みます。子どもたちは、はしゃいでいたのかもしれません。周りでは他の家族が食事をしています。何やら幸せそうです。わたしはお箸を真剣な表情で右手に持たせます。左手なら簡単に扱えます。しかし、ここでは右手です。右手でなければいけないのです。

 

わたしはうまく食べることができませんでした。妻はフォークを頼めばいいと言いますが、わたしは頼みたくありません。どうしてなのかは分かりません。気恥ずかしかったのでしょうか。それともプライドがあったのでしょうか(どんなプライドがあったというのでしょう?)。どうしても頼めなかったのです。そして何度も引っかかり、うまく食べられないと言って、ついには癇癪(かんしゃく)を起こすのでした。

 

妻と子どもは静まり返ってしまいます。わたしはどうしてよいのか分かりません。そんなとき、別のテーブルで食事をしていた老夫婦が、お箸では食べづらいと言ってフォークを頼みました。店員は愛想よくフォークを持ってきてくれます。食べづらければ、別の食事用具を借りるのは当たり前のことなのです。

 

私の後ろで食事をしている家族は笑い声を上げます。その家族は、今日が誰かの誕生日のようです。うちの家族だけが黙って下を向き、座り続けていたのでした。

 

■回復への固執と妻の思い

 

妻は看護師として多くの人に出会いました。その人たちのなかには、回復しないままであったという方もいたはずです。それでは、わたしはどうだったのだろうかというと、先に書いたように妻はわたしが元に戻ることはないと、決して口には出しませんが分かっていたはずです。

 

それなら、なぜ、わたしのリハビリテーションを熱心に手伝っていたのでしょうか。妻が言った言葉があります。

 

――この病気は、リハビリをすればするだけ良くなる一方だ。

 

妻とてためらいはあったはずです。「リハビリをすればするだけ良くなる一方だ」と、まるで信仰のように信じていたわけではありません。おそらく妻の言葉は「(効果的な)リハビリを(適切なタイミングで)すればするだけ(発症のよりときも)良くなる一方だ」と解釈するのが正しいのです。

 

無茶苦茶なリハビリテーションをやみくもにやっても消耗するだけだ。これは妻の経験から分かっていたことです。しかし、(効果的に)とか(適切なタイミングで)といった限定が、この人(つまりわたし)に当てはまるとは限らない。この人は特別であって欲しい。その感情も現にあったのではないでしょうか。「無茶苦茶なリハビリテーションをやみくもにやっても消耗するだけだ」という言葉と矛盾するようですが、リハビリテーションも、数をこなせばその内には必ず(効果的に)とか(適切なタイミングで)に当てはまるものがありそうです。医療関係者も含めて、人間はすべての原理を理解しているわけではないのです。

 

リハビリ病院で理学療法士から身体の進展を見てもらうとき、わたしは必ず、新しくできるようになったことを報告するようにしていました。報告することを自分に強いていました。医学的にどうだとか、理論的にこうだとかいった理屈づけは何もありません。例えば「右手で字が書けた」ことを発見した次の週には「右手で封筒の住所が書けた」と報告しました。また、1キロメートルのウォーキングができたので、その次の週には2キロメートルに伸ばしてみましたといった類いのことです。それは、回復は進行しているのだと自分を納得させるためでもありました。

 

このときはまだ、どこまで治るのか分からないと言って、わたしは回復に固執していたのです。ところが妻の方は、もうとっくに次のステップへ進んでいたようです。それは「もうひとつの生き方」を磨いていくことでした。

 

次回に続きます。

(三谷雅純 「ことばを失う」の人類学 わたしをフィールド・ワークする 第9回おわり)

 

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今回のタイトルは、わたしに霊長類学調査の大枠を与えて下さった故河合雅雄さんが、「京都大学霊長類研究所やモンキーセンターは、(障害者として)<負ければ見捨てられるだけ>だという戦いの場であった」とおっしゃったことを心に刻む意味で付けました。

 

■気楽に受けた検査だったが

 

リハビリ病院で認知症の検査を受けました。今になって思えば、それは「改訂長谷川式簡易知能評価スケール」でした。脳梗塞や脳内出血を起こして脳にダメージを負った人は誰でも受けるルーティンのようなものだったと思います。義務として行う検査ですから、わたしに対して、医師もあまり重大なこととは考えていなかったでしょう。

 

そうして、「気楽に受ければいい検査」が始まりました。

 

わたしの年齢や今日の日付、今、検査を受けている場所が病院であることはすぐに分かりました。関連の薄そうな3つの単語を復唱するのも簡単でしたが、それを覚えておいてくださいと言われると少し不安がありました。

 

そして100から7を順に引いていく引き算になりました。引き算など簡単だと思いましたが、本当はこれが問題でした。しかし、始めたときは問題である自覚はありません。

 

まず、100から7を引くのですから、答えは93です。ピンポーン!

 

次は93から7を引きます。93の一桁は3なので7よりも小さい。だから90から10を借りてきて、まず13にします。3という数字は7から見れば4小さい。今さっき10を借りているので、80になっていますから、80に小さかった4を足します。答は84です。

 

医師の顔が曇りました。

 

意外なほど曇りました。

 

わたしは自信をもって「84」と答えたのに、おかしな空気になってしまいました。どうしたのでしょうか。わたしは訳がわかりません。訳がわからなくってドギマギしてしまいました。あまりにドギマギしたので、それからの検査がどんな具合だったのか、はっきりとは憶えていません。わたしの記憶からは消えています。

 

正しい答は86です。借りてきた10から小さかった4を引けば6です。ですから、80に6を足して86というのが正解です。けれども、わたしは84と答えてしまいました。

 

その先の設問には、覚えた単語を思い出して声に出して言ってみたり、わたしの苦手な「野菜の名前」を言えるだけ言ったりという難問があり、どうやら、そこでもあまり十分には答えられなかったようです。医師は考え込んでしまいました。

 

■研究が続けられない?

 

数日して妻が呼ばれました。そして医師から「三谷さんには研究という高度な仕事を続けることは無理だと思います」と告げられたのです。

 

誠実な医師の言うことですから、妻もわたしも大抵のことは素直に聞いていました。家庭で出来るリハビリも、アドバイスを聞き入れて真剣に計画を立てました。しかし、その「研究はできない」という言葉だけは、妻もわたしも信じられませんでした。

 

わたしに研究者としての能力がなくなった? もしそれが本当なら、わたしは大いに嘆き悲しむことになります。なぜなら、それまで日中は他の仕事があり出来なかった研究を諦めきれず、夜、自宅でほそぼそと続けていたからです。

 

わたしが研究を続けたのは、(建前上は)研究をして給料が貰えるからでした。それなのに「研究という高度な仕事は無理」とは何という言われ方でしょう。妻は言いました、

 

「あなたに研究ができなくなったなんて信じられない。あなたの顔付きを見れば、以前と何も変わっていないことがわかる」と。

 

■研究室の現実

 

退院後、研究室に行ってみました。そこは病院のように<患者>が外界から守られる場所ではありません。研究者にとっては激しい競争の場です。

 

同僚の態度はぎごちなく、誰もわたしに話し掛けようとしません。わたしは、その態度を善意にとることにしました。きっとどう話し掛けたらよいのか、何を話題にするべきなのか、想像がつかなかったのだと。

 

このときのわたしには、まず職場に慣れるのが先だという思いと、長時間(それでも6時間ほど)席に居て、ひとつのことをし続けるのは無理だという思いが共にあり、毎日座っているのがつらかったことを覚えています。まさに<易疲労性>そのものです。どうしても疲れて我慢できないときには、倒れる前に――泡を吹いて倒れるのではないかと真剣に心配していました――早めに帰るようにしました。そのような日が続きました。

 

ですが、それがどうにも気に入らない同僚がいました。

 

「三谷はまともに口をきこうとしない」――口をききたくても、相手が失語症のしゃべり方に慣れていなければ、何を言っているのか通じません。

 

「仕事の打ち合わせができない」――<健常者>のように振る舞うことが期待されているのは理解できましたが、わたしはすでに<健常者>ではなくなっています。

 

「仕事をする気がないのだ」――1日も早く仕事を再開したいという思いは強くありましたが、マヒのある高次脳機能障害者に適した、わたしの能力を活かす仕事はなかなか見つかりません。

 

この「仕事をする気がないのだ」という言葉は、容易に「早く職場を去るべきだ」という発想に結び着きます。「役に立たないのなら辞職しろ」。そう暗黙の内に迫っているのです。

 

そして脳塞栓症におちいる以前は仲の良かった同僚が、研究室を代表して、わたしに「最後通告」を告げに来ました。

 

「君はもう研究はできない。」「これからできることは、脳梗塞の患者として、医学者の研究に(自分の身体を使って)素材を提供することだ。」「職場に残りたいのなら、(障害がどうのと)あれこれ言わずに<健常者>のように働くべきだ。(それができないなら辞職するべきだ)」

 

マヒした身体は目で見て分かります。しかし、失語や易疲労性といった高次脳機能障害は、一見しただけでは分かりません。その上、職場に高次脳機能障害者はわたし以外にはいません。実はいたのかもしれませんが、いないことになっていました。

 

今では<障害者>を受け入れるのが当然のこととされています――それでも「障害者」にとって職場には果てしなく高い壁が立ちはだかっています――が、当時、<障害者>には「働けないのなら辞職するのが当然だ」という<健常者>がつくったルールがあったのです。

 

もともとは仲の良かった同僚だったので、失語や易疲労性のこと、たった今したことでも簡単に忘れてしまう悔しさについて、できる限り説明してみました。聞きながらその人は怪訝な表情をしていましたが、それ以上、わたしの進退を追求することはありませんでした。ただ、本当のところは、いまだに分かっていないと思います。

 

一計を案じたわたしは、脳が疲れたらウォーキングに出ることにしました。1時間ほどウォーキングをしてくると、痺れたような脳の疲れが、幾分、和らいだ気がします。

 

■閉鎖した組織の中で起こるハラスメント

 

それにしても研究者の住む世界とは残酷なものです。わたしは人類学の一種である霊長類学の指導を河合雅雄さんから受けましたが、河合さんは子どもの頃、小児結核で片肺を失っています。治療のための薬が強すぎたからです。その河合さんはわたしが脳塞栓(そくせん)症に陥ったとき、

 

「きっと快癒(かいゆ)する.その確信が大切です.」

 

「世間は弱者に冷たい.冷酷でさえある.でも負けないように.負ければ見捨てられるだけです.誰も助けてくれない.生きるということは、確信に達する力を持つことです.」

 

と書いた手紙をくださいました。涙が出ました。わたしが今感じていることと同じことを、昔、河合さんが感じていたのです。

 

大学や研究所というところは、実によくハラスメントが起こります。企業や行政の組織でも、もちろんハラスメントを見聞きしますが、大学や研究所はハラスメントがひどく、それがいつの間にかなかったことにされていたりします。

 

学問の現場で起こるハラスメントをアカハラと呼んでいます。アカデミック・ハラスメントの略称です。アカハラは、酷い場合には、地位の低い研究者が集めたデータの権利をまるで認めず、本人を組織から追い出し、データは残りの地位の高い研究者が山分けするのです。そういう事例を知っています。信じられないかもしれませんが、これは事実です。

 

なぜ学問の現場でハラスメントが起こるのでしょうか。

 

わたしが思うに、研究室が小さな単位で互いに独立していることに関係があります。研究に関わることは、研究室の中でほとんどが完結しているのです。研究者はその中で、やろうと思えば好き勝手に振る舞えます――ただし、毎年毎年の研究成果は継続的に出し続けることが条件です。それができない「研究者のまねをしている人」は嘘の成果をでっち上げたりします。

 

もちろんすべての研究者がハラスメントをするわけではありません。しない人の方が圧倒的に多いでしょう。だから研究機関では「研究者は善人だ」という性善説に立った組織運営が行われているのです。しかし、ハラスメントをする人は、それをよいことに狭い組織の中で勝手気ままに振る舞うのです。

 

わたし自身が経験したことですが、ハラスメントがばれても、地位の高い人は巧妙に言い逃れようとします。それはまるで、「本当は被害者とされている人の方が悪いのだ」と錯覚させるような言い方をします。事実はどうあれ、ことによったら本人も「本当は被害者とされている人の方が悪い」と思い込んでいるのです。

 

こうなると地位の高い人の思うがままです。組織はなるべく現状を変えないようにおさめるので、地位の高い人は何をしても地位の高いままなのです。減給や解雇はよほどのことです。

 

■想像の中の共生

 

もうひとつの難点は、わたしが所属していたのが公立大学だということと関係あるのかもしれません。公立大学は法人とはいえ、その地方自治体の考え方と密接に関係がある組織です。

 

地方自治体は「(人の)多様性」と「共生」という言葉が大好きです。わたしはこれらの言葉を聞くと、「(人の)多様性」をスローガンにして、人びとが想像の中で「共生」している姿を思い浮かべます。ですが、その人びとは現実に生きている人間ではありません。何者かの想像の中でだけ生きているのです。公立大学が持つ雰囲気も同じだと感じています。

 

――生きた一人ひとりの障害者といっしょに働きたい人はいない。障害者は他所にいて欲しい。

 

――しかし、今はいわゆる「障害者差別解消法」があるのだから、「障害者は他所にいて欲しい」と大っぴらに言うことはできない。それに例え法律で決まっていなくても、社会には倫理というものがある。障害者と共にいることが「正義」だと、皆が言っている。

 

――多数者に従うというのも社会のルールだ。そのことはよく分かっている。でも本音としては、どこかで静かにしていてほしい。あまりやっかいをかけないでほしい。

 

――本当に「共生」するとなると、社会のルールをいろいろ変えなければならない。それが決して「嫌だ」というのではないが、そもそも面倒なのだ。せっかく今まで「健常者」のルールの中で穏やかに暮らしてきたのだから、これからもそっとしておいてほしい。

 

このように感じる人には<障害者>の姿が見えていません。ですが、当時、本当に<障害者>の姿が見えていなかったのは、わたし自身でした。

 

■<健常者>と<障害者>その区別のナンセンス

 

わたしは、今では「健常者/障害者」の区別はナンセンスだと思っています。自分に「障害はない」と信じている非<障害者>はたくさんいます。しかし、実のところ「本当に障害はないのですか」と真剣に聞かれれば、ためらう人が大多数でしょう。この認識を持った上で言うのですが、人は変化するのが常なのです。

 

例えば年齢です。年齢は誰でも時が経てば同じだけ重ねていくものです。肉体の変化も同じでしょう。子どもだった人は成長して青年になり、やがて壮年を経て老人となります。そうして人は世代を重ねます。

 

人は変化するのが常なのだし、わたしは「健常者/障害者」の区別がナンセンスだと考えているのだから、いくらリハビリテーションをしても、もう脳塞栓症の前の身体に返ることはありません。

 

だとしたら、何のためにリハビリテーションをするのでしょう。生まれ落ちたときでも同じことですが、それは新しく与えられた身体と心に最高のパフォーマンスをさせる術(すべ)を身に付ける訓練なのです。

 

しかし、そのことに気が付くのは、頭にかかった霧が晴れるもう少し先のことでした。

 

(三谷雅純 「ことばを失う」の人類学 わたしをフィールド・ワークする 第8回おわり)

 

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体の微調整

5 自己目的化したコミュニケーション 

 

川口 ノイズが見えたときにその人が見える。それもコミュニケーションですからね。介助でも、お互いにいろいろ微調整するっていうのが楽しいじゃないですか。「ちょっと曲がってるよ」とか言われて直したりとか。

 

伊藤 微調整が楽しい?

 

川口 『逝かない身体』のテーマの一つは微調整なんです。私たちは体が動いてるので、考えなくても微調整できてるんですよ。お尻が痛くなるまで動かないってことはないですよね。こうやって話しながらでも、知らないうちにちゃんと動かしています。でも神経難病の人とか、障害の方たち、動かなくなってしまう体の持ち主は結構います。

 ただ「動かない」といっても、いろんな病気で動かないわけです。たとえば頸損とか脊損の人の「動かない」と、ALSみたいな神経難病の方の「動かない」は、違う「動かない」なので。介護の仕方が全然違います。

 

伊藤 そうなんですね。

 

川口 全然違います。動かないから、同じ介護の仕方をすればいいってもんじゃない。たとえば、CIL(Center for Independent Living)っていう障害者団体にヘルパーさんがたくさんいるんですけど、彼らはもともと脳性まひとか、あまり医療的ではない人たちのケアをしてきた人たちが多いんです。最近そういう人たちが、医療的な呼吸器つけてたりする神経難病の人たちのケアをするようになっていますが、本当に難しいらしくて。前の感覚でやると、もう怒られまくりなんですね。

 

伊藤 どんな違いがあるんですか?

 

川口 たとえばALSだと神経がなくなって筋肉が細くなって、骨と皮の間にうすく脂肪の層があるだけみたいになる。動けないから体中が非常に痛くなるんです。あと神経がなくなっていくときにもすごく痛みがあったりして。だから少し体を動かしてあげないといけないんです。体をちょっと持ち上げておろす、ということをしょっちゅうしている。それから手の位置とか脚の組み方とか、ベストはないにしてもベターなものがあるんですね。その位置決めにほとんどミリ単位の要求をされるわけです。それも言葉じゃなくて、文字盤だとか、視線でパソコンに入力するとか、そんな特殊な仕方で教えてくれるのを、ヘルパーはいろんな方法で読み取ってやっていく。

 それを一日中繰り返してやっていくので、お互いすごいしんどいことはしんどいです。ただそれさえも、病気がうんと進んじゃうとできなくなって、うちの母も最後できなくなってしまって……。「それをやってるときがはな」なんて言ったら申し訳ないですけど、それ自体がコミュニケーションなんですよ。

 

伊藤 そうやって「ここだ」って決まったらうれしいみたいな話ですか?

 

川口 そう、やった~! って、でもその状況が3分ぐらいしかもたなかったりするんですよ。寝る前にだいたい1時間ぐらいかけて、寝る姿勢をとるんですよ。ミリ単位ですね。

 

伊藤 へぇ~。左右のバランスとかは?

 

川口 左右違います。右がこうだから左もこうだとは限らなくて、肘の置き方だとか、脚の組み方とか、本人の思ってるイメージっていうのがあるんですよ。それに向けて一生懸命やる。病院に入院したりすると、看護の方たちは忙しいから、わりとぞんざいに扱われて……でも本人たちは変な形でおかれると眠れないので、どうしてもそこはこだわるから何回もナースコールを押して呼ぶでしょ。そうすると、それを意地悪だというふうに変換して取る看護師さんも多いんですよ。それでモメちゃうんですけど、ALSのような病気の方のために代弁しますと、意地悪してはいないんです、全然。必死なんです。

 

伊藤 その形でどのくらいもつんですか?

 

川口 位置が少しずつ変わっていったり、このあいだはこうしてたけど、今はこうなってるとかってあるんです。いつも同じではないので、とにかく毎日聞いていて、少しずつ工夫していちばん長くもつ体勢というのを工夫していく。それが仕事なんです。だからもう別に面倒くさいと思わないで、楽しむしかなくて。決まったときにお互いに「よし!」って思うんですね。1時間ぐらいしかもたないときもあるけど。

 私もダメ出しのオンパレードでしたから、ず~っと「ダメ」「ダメ」「ダメ」とか、「もうちょっとこっち」とかっていうふうにして。そのたびに文字盤とか、口の形で「あかさたな」とか、すごい時間をかけてやる。それ自体がコミュニケーションですね。

 

 

ALSの完成形

6 蘭の花のように守ればよい 

 

伊藤 体の位置の微調整がお母さまとのコミュニケーションだったというお話でしたが、介護するなかでナンバー2ぐらいに楽しかったこと、逆にしんどかったからこそよく覚えてるでもいいんですけど、教えていただけますか。

 

川口 うちの母は本当に早く進んでしまったので、最終的には眼球も全部止まっちゃったんですよ。目が少し動いてれば、「Yesのときは眼球を右に向けて」とかでYes/Noも取れるんですが、それもできなくなって。ちょうどそのころ、頭にディテクター(探知器)をくっつけて脳波を読み取る「マクトス」という機械の試作品みたいなのができたんです。「試作品でもいいので、とにかく最初に使わせてくれ」ってお願いをして、社長さんに持って来てもらったりしたんですけど。

 結局、うちの母の場合はそうこうしているうちに、脳波を測るとθ(シータ)波が出るようになっちゃったんですね。α、β、γ……の先のθ。θ波って何かなと調べたら、もう「瞑想状態」というか、意識がないような状態なんですね。たとえばすごい高僧が瞑想するときの状態。たぶんすごい穏やかなんですよ。「あれ~っ!?」って思いました。「苦しんでないな」って。もう苦しいのもわからない、そこまで行っちゃったと。

 私は一生懸命母に話しかけて、なんとかコミュニケーション取り戻したいと思ってた。「こうやったら痛い?」とか「かゆい?」とか、そういうレベルのケアをしなきゃいけないとずっと思ってた。でも、そこまで行っている体は、たぶんそんなのどうでもいいんじゃないかなと。苦しくないんだから。で、もうやめたんです、そういうコミュニケーションとるのを。

 その代わりに、体を放ったらかしにしておくと褥瘡ができちゃったりとか、栄養状態が悪くなったりするので、母の意思と関係なく、体をきれいに保とうと思った。それで「あっ、植物と同じ」と。植物と同じように母の体を育てればいいんだって思って、「魂の器である身体を温室に見立て、蘭の花のように大事に守ればよい」っていう表現が出てきたんですね。

 

伊藤 なるほど。

 

川口 もともとはコミュニケーションを取りたいとは思ってたんですよ。「★○◆▽」などが描かれているエスパーカードを使ってテレパシーの訓練をしたり(笑)。θ波に至るまでの間にもしかしたらなんらかの方法で、もうちょっとコミュニケーション取れるっていう段階があったかもしれないんですけど、そこは私の場合はうまくいかないで、θ波のところまで行っちゃったんですけどね。

 

伊藤 そのときのお気持ちって、あんまり突っ込んで聞くようなことではないかもしれないですけど、どういう感じなんですか。別れみたいな感覚だったり、違う出会いがあったり……どんな感じだったんですかね。

 

川口 なんていうのかな……ALSって病気自体、そこに至るまでに肺炎になったりとか、他の疾患で亡くなっちゃうんですよね。なかなかそこまで到達できない。私はだから「完成形」かなと思って。こういうこと言ったら悪いかもしれないですけど、病気としては進行していって最後そこに至ってるんですけれども、わりと自然だったんですよ。

 途中もちろん葛藤はありましたよ。脂汗かいたりとか、伝わらなくて焦ったりという状況のときもあったんですけど、やっぱり進行していってそこに至ったときに、私は一種の救いのような気がしました。そういう……なんていうのかしらね……うまく言えなくて哲学的な話になりますけど、神の存在を感じましたね。

 

伊藤 結晶化したみたいな感じですか。

 

川口 うん。涅槃(ねはん)って言うじゃないですか、普通の病人は地上にいて、死んだあとは天国というか別のところに行くんですけど、ちょうど真ん中へんにいるかなと思って。でも体は死なないので、それで『逝かない身体』というタイトルが出てきたんです。

 体はあるけれど、θ波で別にそんなに苦しんでない。だから母はこの世の諸々のことにもう全く興味がない。私たちがどんな生活してるかも全然心配してないと。私たちのことも、もう……。それは悪くないと思ったんですよね。

 

伊藤 すごいですね。

 

文中写真2.JPG

 

心身二元論

7 魂が中空から自分の体を見ている 

 

川口 こういうふうに考える人ってあんまりいないかもしれないけど、でも私たちはその母の体の周りで、すごく仲良く暮らせたんです。私たち家族だけじゃなくて、ヘルパーさんたちも毎日同じように来て。ヘルパーさんたちは母が生きてるかぎり仕事があるので(笑)。本当にみんなで大事に大事にしていて、悪くないなぁと思っていたんですね。

 病気になったこと自体は悲しかったんですけど、進行して最終的にそういうふうになっていくという過程を、母もどこかでやっぱりもうしょうがないって思ったんだと思うんですよ。しょうがない、任せようって。このままいくしかないなって。そうなっていったのに、悲しんだら悪いなと思って。

 

伊藤 ……

 

川口 周りも明るくて、「一緒に生きていこう」って腹をくくったというか。私たちだけじゃなくて、たぶんこういう病気で長く在宅で一緒に暮らしてる家族は、みんなどっかしらそういう覚悟でいると思います、患者さんもね。

 途中で呼吸器を取って死ぬっていうのが「治療停止」ですね。そうしたいっていう人も結構いるんですけど、それはそれですごく難しいですよ。だっていつ取るかって決めなきゃいけない。たとえば来週のいつとか、再来週のいつ何時とかって。それはね、やっぱり幸せに療養してたら、ちょっと難しいです。

 

伊藤 私、自分のこの『どもる体』の最初のほうに、「この本は心身二元論の立場をとります」って書いたんです。

 

川口 書いてあった、書いてあった!

 

伊藤 哲学のなかでは、心身二元論なんて「はぁ~っ?」みたいな感じで、完全に否定されている。「心が体である」みたいな言われ方が一般的なんです、今は。だけど、うまくいってる体はそうだけれども、うまくいかないときって基本的に二元論化していきます。吃音は特に、そのある種のピークを経験してると思うんですよね。「これを言いたいのに体が言ってくれない」わけですから。やっぱり二元論、めちゃくちゃ面白いなと思って。

 

川口 いま、私はまさに二元論の話をしたんですよね。

 

伊藤 そうなんですよ。心と体の分離ってだいたい危機的な状況、一刻も早く一体化させないとヤバい事態、みたいに思われがちなのですが、そんな人間観は超狭い、ということを今日知りました(笑)。分離のなかには、その分離そのものが均衡を生み出すような可能性も含まれていたんですね。しかも川口さんのお母さまの場合には、その均衡が、川口さんやヘルパーさんを常時招き入れることで成立する均衡になっている。というか、体はある意味では余白そのものみたいな感じだったわけですよね。心は地上と天国のあいだくらいの場所で完成されていて、地上的な関心からはある意味切り離されているけど、体は物質として地上に残されていて、その余白に、他者が入ってくる。まさに湿った体ですね。心はここにあらずとも体が湿るという永続する世俗性が、均衡を作り出していますね。

 

 

川口 そうですね、毎日毎日他人に介護されながら生きているうちに、「自分の体は自分だけのものじゃない」という自覚が患者さんに生まれてくるんですよ、たぶん。私の周りにも、自分はもう死んじゃってもいいなってつぶやく患者さん結構います。だけど「自分の体がなくなると、周りのみんなが困るので」って言われます。実際にそういうふうに実感されてると思うんですけど、ほとんどの方が、自分の体はもう自分だけのものじゃないって思ってますね。

 

伊藤 へぇぇぇ。

 

川口 だから完全に二元論化してるんですよ。体は残しておかないといけないって思ってる。母の場合も、脳は生きてるんだけれども、どっかに魂が行っちゃってる、意識が行っちゃっている状況ですよね、そのθ波って。

 だけど私たちにしてみれば、体がそこにあるってことがすごい大事だったんですよ。体の調子がいいとみんなご機嫌で。そういう状況だったんですね。

 そういうふうにならなくても、1日中あっちこっち痛いとか、微調整しろって言ってる患者さんとのやりとりっていうのも、まさにそうなんですよ。患者さんだけのものじゃなくて、みんなの体なので。やっぱりいちばんいい状態にしておくことが、家族にとってもヘルパーにとってもすごい重要なことです。自分だけの体じゃないから大事にしなきゃいけないって。

 

伊藤 なるほどねぇ、面白いですね。

 

川口 なんかね、一元論を言わないとお医者さんには怒られるんですね(笑)

 

伊藤 分身ロボットでやってることも、やっぱり二元論なんですよね。

 

川口 二元論ですね、完全に。

 

伊藤 あのロボットは湿ってない体ですけど、やっぱり「ある」ことによって、なんかみんなのものなんです。みんながケアして、ちゃんと電波つながってるかなぁとか、充電足りてるかなぁとか、声聞こえてるかなぁとか。シンプルな機械なので、反応がわからないというところも結構大事かなと思うんです。

 「ロボットが健康な状態にあるか」ってみんなが気にするから、そこにちゃんと存在する理由が生まれるっていう感じがします。

(伊藤亜紗×川口有美子「湿った体のサイボーグ」後編 了)

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■目次

【前編】→ここをクリックしてください。

1 家の中は工場――『逝かない身体』

2 サイボーグになった私――『どもる体』

3 手がかかるから「居る」ことができる――分身ロボットその1

4 ノイズがリアリティをつくる――分身ロボットその2

【後編】→ここをクリックしてください。

5 自己目的化したコミュニケーション――体の微調整

6 蘭の花のように守ればよい――ALSの完成形

7 魂が中空から自分の体を見ている――心身二元論

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2021年11月、東京・下北沢にある横町BONUS TRACKで、「Caring November」というイベントが開催されました。たくさんの催しがありましたが、横町の一角にある本屋B&Bさんでも、シリーズ「ケアをひらく」の著者のおふたり、『どもる体』の伊藤亜紗さんと、『逝かない身体』の川口有美子さんによるトークが行われました。

タイトルは「湿った体のサイボーグ」。

え、どこがケアなの?っていう感じですが、お読みいただければこれこそケアの核心だとお感じになられるでしょう。当「かんかん!」では、当日のトーク第1部を、前編・後編に分けてご紹介します。

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■目次

【前編】→この欄です。

1 家の中は工場――『逝かない身体』

2 サイボーグになった私――『どもる体』

3 手がかかるから「居る」ことができる――分身ロボットその1

4 ノイズがリアリティをつくる――分身ロボットその2

【後編】ここをクリックしてください。

5 自己目的化したコミュニケーション――体の微調整

6 蘭の花のように守ればよい――ALSの完成形

7 魂が中空から自分の体を見ている――心身二元論

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伊藤 みなさん、こんにちは。今日は会場にお客さんが参加してくださっていて、誕生日会みたいな、「久しぶり~!」みたいな雰囲気ですね(笑)

 

川口 ビール飲みながらやればよかったかなぁ(笑)

 

伊藤 では最初に川口さんから自己紹介をお願いしていいですか。

 

 

逝かない身体』

1 家の中は工場

 

川口 伊藤亜紗さんの話は「ケアをひらく」編集の白石さんからいつも聞いていて、今日は伊藤さんとお話しするのを楽しみにしてきました。そのシリーズで『逝かない身体』という本を、2009年に書かせていただきました。実は、きょうのテーマでもある『湿った身体』という書名候補もあったんです。

 

伊藤 湿った身体というのはどういうことですかね? 汗かいてるってこと?

 

川口 発汗したりとか、吸引したりとか、胃瘻から経管栄養で水分入れたりするので、そういう意味では病人って湿った体なんですね。今日はそんな生物としての湿った人間と乾いたサイボーグ(人造人間)の間というか、機械と人間の中間地点の話ができたらいいなと思っています。

 

伊藤 『逝かない身体』は、お母さまの介護をされた経験を書かれた本ですね。

 

川口 ALS(筋側索硬化症)の母の介護をしていました。ALSは全身の運動神経が消えてなくなってしまうので、筋肉が衰えていって動かなくなってしまうんです。ただ動かないだけじゃなくて、コミュニケーションも難しくなっていく。だからどうにかして母を生きながらえさせたいって考えたときに、移植というわけにいかないので、機械をつけてなんとか……という発想になっていったんですね。

 

伊藤 へぇ~。

 

川口 要するに、身体と機械との融合、それから身体の拡張性。生身の人間だとこういう病気になると長く生きていけないし、QOLもどんどん下がっちゃうけど、なにかの機械につながっていけばいろんなことができるんじゃないなかなぁと思ったわけです。そういう研究をしたい、ということで立命館大学の先端総合学術研究科に入りました。

 

伊藤 お母さまが実際に使われてた機械というのは、人工呼吸器とかですか?

 

川口 最初は人工呼吸器と、胃瘻も機械だと思えば胃瘻も装着していましたし、ベッドも電動のベッドだし、あとリフトも使いますし、ありとあらゆる機械を使って。普通の在宅介護って高齢者のイメージですよね。でも全然違うんです。機械だらけになって、家の中が工場みたい。母の時代と違って、いまの患者さんたちは意思伝達装置でもいろんな種類のものを使うので、パソコンの画面がいっぱいあるような部屋で暮らしてます。

 

伊藤 じゃ、最近出ているような機械ができる前から、こういう機械があったほうがいいんじゃないか、みたいに思ってらしたんですね。

 

川口 そうですね。うちの母が発症したのは1995年だったんで、いまの鼻マスクを使うような非侵襲的な人工呼吸器もなくて、すぐ気管切開をしてそこから呼吸器をつけるっていう野蛮なことをしていました。パソコンはまだそんなに普及してなくて、コミュニケーションの方法も文字盤しかなかったです。そんなアナログの介護をしながら、機械があったらいいなぁとか、インターネットと母がつながれればいいなぁとか、そういう発想がありました。まあ思ってたとおりに社会も変わってきたし、介護の方法も当時私たちが想定していたとおりになってきましたね。

 

 

『どもる体』 

2 サイボーグになった私 

 

 

伊藤 私も「ケアをひらく」で、『どもる体』という吃音に関する本を書きました。吃音は、今日のテーマのサイボーグみたいなこと直接つながるところはそれほど多くはないんですけど。ただ1回、私はサイボーグ化したことがありまして……。

 

川口 え、すごい!(笑)

 

伊藤 2019年にMITの客員研究員をしていたのですが、そのときちょうどメディアラボで吃音の研究をやっていたんです。学内にたまたま「吃音の人募集」というポスターが貼ってありまして。で、その実験に参加したんですね。吃音って基本的に喋ることに関する障害だって思われてるから、その人の中で完結してる問題のように見えます。でも実際には、いま私は声を出して喋ってるけど、それがまた耳に入っている。そういう「サイクル」の中に起こってる問題なんですよね。

 吃音の人は、フィードバックの調整の仕方が変なんだっていう研究成果があるんですよ。自分が喋った声を聞くときに、空気の伝導で聞くっていう経路と、自分の中を通る骨伝導の経路の2つがあって、どちらの情報を注意するかというところで吃音の人は普通の人と違うそうです。

 そもそも「自分の体」と言ったときに、それがサイクルというか、サーキットを持っているわけです。いちばん小さいレベルは自分の声と耳ですね。だけど本当はもっと大きくって、たとえば話を聞いてくれる人の表情もそのサイクルの中に入ってくるし、周りの環境だったり、自分が使う言語だったり、さまざまな外部との関係のなかで生まれてくるサイクルの問題なんです。

 で、そのサイクルが、結構介入可能だというのが私は面白いなぁと思って。そもそもサイボーグって、自分と自分でないものを一体的に扱うような情報の経路を作ることだと思いますが、自分の体の中にすでにそのサイクルがあって、それに介入できるということ自体がすごく面白いし、ケアとか介助の可能性を探ることだと思うんです。

 私がアメリカで「サイボーグ化」したというのは、まさに自分の発話のサイクルに、機械的に介入したからなんですね。

 

川口 どんなふうに?

 

伊藤 やってることは超シンプルで、自分が喋ってる声をその場で波形編集して、違う声にして耳に届くようにするんです。口元にマイクをつけて、それがすぐコンピュータに取り込まれて、即座に違う音になって聞こえる。たとえば普通に喋ってるのに、洞窟で喋ってるみたいな音で聞こえるとか、「わわわわ」とすごい反響音が聞こえたりとか。あと普通に喋ってるんだけど、宇宙人みたいな「ワレワレハ~」みたいな声で聞こえるとか、ダークボイスだったり、さまざまなエフェクトがかかって聞こえるっていう実験でした。

 それは吃音を緩和するための研究で、実験の意図とはちょっと違うかもしれないんですが、やっていると、ちょっと演技入ってくるんですよね。演じるとどもりにくいって言われてるんですけど……。

 

川口 『どもる体』に書いてありましたね!

 

伊藤 はい。だから演劇をやってる吃音の人って多いんです。声が編集されて耳に入ってくるだけで自分に酔うというか、いま洞窟で話してるとなったら少人数で親密で大事な話をしているような気分になったりとか、宇宙人っぽい声だとSF映画のアテレコをしているような気分になったりとか。聞こえてくる声によって、外側から自分の人格みたいなものが作られていく。それによって実際に私の吃音がどれぐらい減っていたのかわからないんですけど、いつもの喋るパターンとは全然違う、むしろそのキャラクターに意識が向くようなことはありました。

 だからそうやって機械に自分がつながってることによって、機械を介してもう1回自分というものが再編集される。そんな経験をしたんです。超シンプルな仕組みですけどね。でもそのぐらいで自分の喋る仕組みが変わったり、もしくはそれで吃音が出にくくなったりするくらい、体ってゆるいんですよね。外部の、自分でない存在からの介入の余地がめちゃくちゃある。そういう体のいい加減さってものすごい救いです。

 

川口 いまの話で思い出したんですけど、たとえばALSの人は長いあいだ呼吸器を使っていると、自分の手ではできないんですけど、ヘルパーさんや家族を介して、「深呼吸したいから、もうちょっと空気のボリュームを調整して」とか……

 

伊藤 深呼吸ってあるんですか?

 

川口 ないんですけどね(笑)。1分間の呼吸量をもうちょっと多くするとか少なくするとかはできるんです。私たちの体は自動的にそれができてるんですけれども。いまのお話は、呼吸機能を自分の体の外に置いているのと同じですよね(笑)

 

伊藤 結構呼吸って大事ですよね。

 

川口 呼吸は大事ですよ~。

 

伊藤 さっき換気っておっしゃったけど、自分のなかの状態が呼吸によって全然変わりますもんね。

 

川口 そうですね。でも呼吸器をつけることに対しては、批判があるんですよ。長く生かされちゃうからつけないほうがいいよっていう人、特に神経内科の専門医なんかにそう言う方が結構いらっしゃる。不思議なのは、専門分野の方々じゃないですか。呼吸器つけたら呼吸が改善されるにもかかわらず、なんでそれを否定するのかなって思います。そもそも苦しさがなくなるんですよ、呼吸器つけた途端に。明らかに治療としては非常に有効なのにね。

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分身ロボットその1

3 手がかかるから「居る」ことができる 

 

川口 このへんで分身ロボットの話をしましょうか。みなさんご存知かもしれないですが、OriHime(オリヒメ)という小さなロボットがあります。

 

伊藤 この新型コロナになってから、私は外出できないことの可能性を考えてなかったと思って、あわててOriHimeのことをやり始めたんですけど、川口さんはもっと前から?

 

川口 そうですね。だいぶ前からなので、OriHimeも、開発者の(吉藤)オリィくんもこんなに有名になるとは思ってなかったです。すごいですよね、今。

 

伊藤 じゃぁ、この開発が完成する前から?

 

川口 私は介護事業所をやってるんですけど、うちのヘルパーさんが介護に行ってるお宅にちょうどOriHimeがあって。そのヘルパーさんがなんかの拍子に首をすっ飛ばして壊したんですね。それでわぁ~っと思って、オリィくんに謝りにレトルトカレーのセットを送ったっていうのが最初なんですけど(笑)。『逝かない身体』を書いた頃だったから、たぶん2010年くらいだと思うんですけど。まさかこんなふうになるとは思わなかったです。伊藤さんはどういうきっかけで? さっきコロナとおっしゃいましたね。

 

伊藤 そうです。自分は体の研究者のつもりでいたんですけど、コロナになって、自分が体だと思ってたものがすごい狭かったということを猛反省しました。分身ロボットを使ってる方と関わることによって、別に人間の体だけが体じゃないよねって思ったんです。Zoomとかは会議などで毎日のように使ってますけれども、Zoomで人とつながるのと、分身ロボットでつながるっていうのは全然違う。

 

川口 うん、そうですね。そこのところを伊藤さんがどう評価されるのかなと思って。

 

伊藤 まず「そこに居る」っていうことを皆さんおっしゃいますよね。さっき「つながる」って言っちゃったんですけど、たぶんそれはちょっと違っていて。自分が実際に、ここに居る、そこに居る、という感じがすごく強い。

 

川口 OriHimeの中に入っている方(パイロット)とは、OriHimeを通して知り合いになられたんですか、それともその前から?

 

伊藤 パイロットの方とはZoomでインタビューをしたのが最初で、そのあと分身ロボットを使って一緒にいろんなところに行ったりしてるって感じですね。

 

川口 その方と最初にZoomでお話しされたときと、パイロットのときの印象は違いますか。

 

伊藤 全然違います。OriHimeになると、すごく介助している感じになります。川口さんも本の中で、お母さまが動かなくなってから「体のすべてを川口さんに預けた」とおっしゃってましたよね。もちろんそれとはだいぶ違うんですけれども、この丸投げ感すごいなって思ったんです。つまり、この分身ロボットを連れてたとえばどこかに行くってなったら、私が充電したり、いろんな器材を集めて持っていくわけです。

 

川口 もうケアするわけですね。

 

伊藤 持って行った先でも、どこに置こうかとか、どっち向きだったら見やすいかなとか、そういうことをすごくケアする。その感覚がすごく面白くて。それは私だけじゃなくて、たとえばマイクを装着するときに――そのときは音声の専門家の方がジャックを差してたんですけど――「すいません」って言いながら差すんですよね。「失礼します」みたいな感じで。

 

川口 なるほどぉ、介助してるんですね。ロボットなんだけど介助が必要だっていう。

 

伊藤 そうそう。中の方は「さえさん」というのですが、それを介助だって思うってことは、このロボットをさえさんの疑似的な体と思って、周りの人が自然に扱い始めている。そのことがさえさんの「そこに行ってる感」にもフィードバックしてくるわけですよね。単なるペットボトルのように扱ったら、たぶん行ってる感はしない。周りの人がさえさんを介助するように分身ロボットを扱うから、彼女も仲間でそこにいるっていう感じになるんだと思います。

 体って基本、面倒くさいじゃないですか。邪魔なもので、でもその邪魔さが周りの人のケアを引き出していて、「そこに居る」ということを成り立たせている。ここがまず、Zoomとすごく違うところだなと。

 

川口 まず物体がある、存在があるっていうことですよね。Zoomのように画面で現れれば簡単なんですよね。だからそっちのほうがいいじゃないかっていう話も結構あったんです。「じゃ、なんでOriHimeがいいの?」っていうのは今まで言語化されてなかったんですけど……すごいわかってきた。手がかかるからいいんですね!

 

 

分身ロボットその2

4 ノイズがリアリティをつくる 

 

伊藤 そう、手がかかるからいい。パイロットのほうもそうなんです。「居る」という感覚を支えてるのは、やっぱり自分が欲しくない情報が入ってきたりするときだっておっしゃってました。たとえば、接客のお仕事を分身ロボットでされてる方がいますけど、そうすると、イヤなこと言ってくる人とか、向こうのほうであんまり聞きたくない会話をしている人の声とかも入ってくるわけです。そこで電源切って抜けちゃえばすごい楽なんだけど、それはしないし、そもそもその選択肢が思い浮かばないって。

 やっぱり人間が体ごとそこに居るっていうことは、想定外の出来事に出合うということなんですね。今日も私、久しぶりに本屋さんに来て、なんかすごい想定外だらけですよ。「こんな本出てたんだ」みたいなことだらけで。そういうノイズこそが、パイロットさんにとっても「行ってる」という感覚を作っている。だからそれはこちら側と、ある種同じような感じですね。

 

川口 要するにピンポイントじゃないからですよね。能率としては悪いのかもしれないけれども、そのノイズの中に生きるために必要なものがあったっていう……。なるほどぉ。さっそくオリィくんに教えてあげないといけない、私たちの分析と評価を(笑)

 

伊藤 同時に、やっぱり体そのものではないので、不思議な感覚をいろいろ持つんですよ。たとえば、この写真を見てください。

orihime服を着た写真|川口有美子さん.jpg

 OriHimeの洋服を作っていらっしゃる方がいて、結構いっぱい売ってるんです。ここに写っているのは全部、パイロットの方が外出する前日とかに「明日はこれを着て行きたいです」と送ってくれる服です。これを着せたときの感じが、ちゃんとファッションなんですよね。つまりその人に似合ってるって感じがする。このロボットに似合ってるんじゃなくて、さえさんにすごく似合ってるなっていつも思うんですよね。物理的にはロボットに着せてるんだけど、中の人に着せてる。この感覚はすごく面白いし、人格みたいなものですよね。

 

川口 さえさんとは、じかには会ってはいない?

 

伊藤 会ったことないですね。

 

川口 会ってはいないのに、さえさんと会ってるような気持ちになってるんですね。

 

伊藤 会ってる気持ちになってるのかなぁ。会ってないかもしれないけど、でもさえさんはこういう人っていうイメージはあるんですよね。

 

川口 重い障害を持ってる方たちのなかには、「ロボットを動かすのは簡単なので、それによって自分たちの外出の支援が減るんじゃないか」と心配する人が結構いるんですよ。たしかに本人はずっと自宅にいても、ロボットはどこにでも行ける。だから「移動にかかるコストをカットできる」って取られると困ると言います。でも私もそうですしオリィくんもそうだと思うんですけど、ロボットは逆に「本人が外出をしたい気持ちになる」というきっかけを作ると思うんです。

 実は外出したくない障害者も結構いるんですね。「こんな体になって」と、自分の体に対して否定的な印象を持ってしまって。うちの母もずっと外出をいやがってました。人に見られるのがイヤでイヤで。それで閉じこもってたんです。他の障害でも、引きこもってしまうっていうのはよくある話です。

 でも自分の体は見えないわけですから、まずロボットで出て行って、いま伊藤さんがおっしゃったように、もうあたかも本人と話すみたいな人もいる。出先にそういうふうに理解してくれる人が待ってるとなれば、今度はもしかしたら頑張って自分が出かけようというきっかけになるんじゃないかなって。そういう使い方がもっとされてもいいかなと思います。

 

伊藤 たしかにそうですね。ユーザーさんのなかにはさまざまなタイプの方がいて、さえさんは体は動くんですけれども、外出ができないっていうタイプなんですね。

 

川口 難病なんですか?

 

伊藤 身体表現性障害っていう、ちょっとした刺激で吐き気が出たり、めまいがするというタイプなんですね。一方で体の動作範囲が限られてる方だと、バイバイって手を振れることがまずうれしいみたいな。どこかに行くっていうことよりも、体が動くっていうことに喜びを見出す方もいらっしゃいます。

 

川口 伊藤さんの利他学会議の動画を見ていたら、「池の水をパシャパシャしてみて」とかリクエストされていましたね(利他学会議 第1日目 エクスカーション「分身ロボットとダンス」)。

 

伊藤 ダンサーの砂連尾理(じゃれお・おさむ)さんっていう方、ご存知ですか。

 

川口 まだお会いしてないです。いろんなところから聞いてるんですけど。

 

伊藤 ダンスって、他人の体に振り付けをしますよね。自分の体で踊ればいいのに、他人の体にやらせるっていうところにも価値を見出している。分身ロボットも実は同じ構造なんです。面白いのは、現地にいる人がOriHimeを振り付けているようで、実は逆、つまり遠くにいるパイロットの方が、OriHimeを介して現地の人を振り付けている、というところです。

 たとえば砂連尾さんと、OriHimeさえさんと、私で、国分寺という西東京にある湧水群みたいなところを散歩したことがあります。その湧水の様子をさえさんがすごく感じたがるんですよね。最初は砂連尾さんが、池の水に手を入れてパシャパシャさせたりして伝えようとしてたんですが、カメラ越しにそれを見ていたさえさんがだんだんじれったくなって、「手を魚の尻尾みたいに動かして水紋を作ってみてください」みたいな感じで砂連尾さんを振り付け始めるんですよね。こっちもこの状況がOriHimeのカメラ越しにどう見えているのかわからないんで、「あ、それそれ、その感じ!」ってさえさんが納得するまでやってました。

 私たちが湧水を飲もうとしたら、さえさんがとっさに「喉のところをアップにしてください!」って叫んだのも面白かったです。私たちは、言葉とか体の動きで、この水がどんな感じかっていうことを伝えようとしていたんですが、さえさん的には、その水が喉を通っていくときの体の自然な反応のほうが、むしろ情報量が多かったんです。たしかに、その水が冷たければ、ちょっとためらいながら飲むだろうし、逆にそんなに冷たくなければゴクゴク飲みますよね。そういう私たちが伝えようとしてることよりも、体に起こってくること、起こってることをそのまま見たいって。OriHimeは向こうの様子がわからないという非対称性があるので、こちらもさぐる感じになるのが面白いですね。

 

川口 意図しないものが出てきますよね、いろいろやると。

 

伊藤 たとえばこの分身ロボットを私が持つといつも曲がってるらしいんですけど(笑)、そういうことが秘かに見られていて。それも一種のノイズですよね。そういう部分が見えたときに、その人がすごく見える。

(伊藤亜紗×川口有美子「湿った体のサイボーグ」前編 了)

【後編はこちら→】

 

■地名を忘れてしまう

 

脂汗を垂らし、苦労して思い出しても、手がかりをつくっておかないとすぐに忘れてしまうものがあります。第6回で書いた、店の名前や仕事の上で付き合いのある人の名前もそうですが、地名も「すぐに忘れてしまう」のです。本当のことを言えば、これは今でもそうです。

 

このように、固有名詞は常に忘れてしまいます。なぜなのかはっきりしたことは分かりませんが、実際にそうなのです。何かと結びつけておかないと簡単に忘れてしまいます。


例えば、関西国際空港があるのは、わたしの住んでいる兵庫県側では「伊丹(いたみ)市」ですが、この「伊丹」という地名が、わたしには、なかなか思い出せません。

 

そうして忘れては、「あ」の段から始まる言葉であれば、「あ、い、う、え、お」をたどり、「あ、い……」まで行けば、「い」、「い」、「い・た・み」というふうに思い出します。かろうじて言葉を取り返し、記憶を固定しておく碇(いかり)が、わたしにとって「伊丹」であれば、「あ」の段の「あ、い……」なのです。

 

■キーボードが使いこなせない

 

パソコンのキーボードのさまざまな記号も、脳塞栓を発症したタイミングで基本的なことまで忘れてしまいました。

 

例えば、「Shift」や「Ctrl」、「Fn」や「Backspace」の区別はあいまいになっていました。

 

病気をしてもコンピュータが動く原理は理解しています。理解はしているのですが、わたしはその利用のところでつまずいたようです。左手だけでキーボードが打てても、それは習慣的に打てているだけです。

 

「Shift」を押さえながら「1」を打つと「!」が出ます。「5」なら「%」です。このような詳しいキーボードの使い方が分からなくなってマニュアルを見てみると、例えば「Fn」については、「画面を明るくしたいなら<Fn>を押さえながら<F7>を打て」と指示してありました。しかし、わたしは、そもそも「Fn」が何のことだか分からなくなっていたのですから、言うならば「一からの学び直し」です。

 

しばらくはマニュアルと首っ引きになりました。

 

■電車に乗ってみる

 

社会復帰の「お試し」を利用して、乗り物の乗り降りに挑戦してみました。これは「喚語(かんご)困難」や「語想起の障害」など、わたしにとって問題のある発話に関係した困難ではありません。ただ乗り物に乗るだけのことです。危険なときはいっしょに乗った妻が見てくれています。それでも、乗り降りの際の足運びは心配でした。

 

まずは電車です。空いているときを見計らって電車に乗り、降りるときはプラットホームの位置をよく確認して、そこに右足を着きます。

 

できました。その右足に体重を乗せてホームに出ます。

 

次は改札口です。改札口は幅の広いバリアフリーのものもありますが、自動改札は多数者が便利なように、切符の挿入口は進行方向の右側に付いています。わたしは右半身がまひしているので、左手で切符を持って身体をねじり、右側の挿入口に入れるのです。

 

慣れていないせいかドギマギしましたが、これも何とか通過できました。

 

■エスカレーターの問題は

 

駅のエスカレーターも使ってみました。エレベーターのほうが簡単なのですが、わざと難しいエスカレーターに挑戦してみました。ステップが目の前に来たときにタイミングを合わせて、右足を踏み出せるかどうかが勝負です。

 

どうにかこうにか乗れました。ただ、乗ってからが大変でした。わたしは左手で手摺りをつかんでいなければいけないのですが、これがやっかいです。

 

エスカレーターに乗ったとき、関西では右側に、関東では左側に寄って立つという習慣があります。もともとは「急ぐ人が通過できるようにという配慮から」だそうですが、関西では、左手で手摺りをつかんで乗っていると、通行したいから通せと後ろから腰を突かれるのです。

 

ですが、わたしは左手を離せません。そのままの姿勢で降り口まで乗っていると、後ろの通行人がものすごい形相で睨み付けていきました――現在では、だいぶ「エスカレーターでは階段のように上り下りしない」というマナーが浸透してきたようです。それでも舌打ちされることが、たまにあります。

 

なので、我が家では、エスカレーターに乗るときは、わたしの前後に妻や息子が立って、わたしを「守って」くれるようになりました。

 

■バスは案外

 

当初、バスは電車と違い、ステップの段差が高い印象がありました。乗り降りには気合いが要りそうです。

 

このときは、走っているバスに乗ってみる勇気はなかったので、ターミナルで停まっているバスで試してみました。するとバスという乗り物は乗降口の両サイドに手摺りが付いていて、思いのほか、スムーズに乗ったり降りたりできるのだと分かりました。

 

 

■子どもが成長するように

 

妻がお手玉を落とし、わたしがそれを手の平で受け止める練習をしていたときです。これは指を広げる訓練です。それまで、グーの手は簡単にでき、パーは難しく、指2本が独立して動かないとできないチョキはさらに難しかったのですが……

 

お手玉を受け止めようとがんばって指を広げているときに、指がばらばらに動いた感覚がありました。

 

それは前から経験があるような、ないような、奇妙な感覚でしたが、とりあえず右手にとっては(正確には右手をコントロールしている、新しく役割を担うことになった脳神経にとっては)「生まれて初めての経験」です。

 

指がばらばらに動いたようだと妻に伝えると、「我が家の3番目の子どもが成長している」と言って喜んでくれました。まひした半身を生まれたての赤ん坊に例えたロマンチックな表現です。

 

ですが、2歳の娘や6歳の息子にとっては指が動こうが動くまいが関係ないらしく、いつものように娘はわたしの右手で遊びますし、息子はわたしが何かしようとして尻餅をついたとき、平気な顔で右手を引っ張り、起こしてくれるのでした。

 

■新たなリハビリ

 

わたしや妻にとっては「指がばらばらに動いた」ことは大事件でしたが、リハビリ病院に行ってそのことを報告すると、作業療法士の皆さんは別に驚きもしませんでした。きっと「動くようになるのが自然だ」ということなのでしょう。

 

変わったのは、手の指がばらばらに動いたことで新しい課題がいくつか始まったことです。一つは「お手玉のぶらぶら放り投げ」です。まだ手首がしっかりしていないので、垂直に伸ばした指でお手玉をつかんで、そのままアンダースローで投げる練習です。

 

これはわりと得意だったのですが、すぐに指が固まってしまいました。脳が慣れていない動作にびっくりして、指の筋肉がこわばってしまったのです。医療現場では「筋緊張の亢進(こうしん)」と表現される現象です。適度に休みながら練習を続けて、やがて、こわばらなくなれば、このステージはめでたくクリアーです。

 

「輪投げつかみ」は、ボールの代わりに輪投げをつかむのですが、輪投げだけに「つかむ」に加え「持ち上げる」という動作が入ります。ですが、わたしにとってはこちらのほうが、対象が大きいのでボールをつかむよりも簡単でした。

 

それから手に「ページをめくる」というような動作を覚えこませる練習もありました。やりながら、こうした練習のどれもこれもが、大切であることが実感としてわかりました。

 

■リハビリをまとめてみる

 

家でできるリハビリテーションを理学療法士や作業療法士、それに言語聴覚士の皆さんと相談しながら、まとめてみました。

 

装具をつけて5分から15分歩く練習、1時間程度の散歩(万が一のために携帯電話を持っていくことを妻が求めました)、全身の体操、買い物(歩く、買う、運ぶ)、夕方の洗濯物の取り込み(左手で取り、右手で押さえておく)。

 

本の音読は言語療法士の方から勧められました――これは20年経った今でも続けています。これには30分くらい時間をかけます。それから、子どもたちには評判の悪いしりとり、パソコンの練習、左手での書き取り(ひらがな、漢字、ローマ字)。右手も時々がんばります。

 

装具をつけて歩く練習とパソコンの練習は、その後、必要なくなりました。パソコンは、左手だけの操作にすっかり慣れてしまったからです。

 

■脳神経外科と脳神経内科を受診

 

わたしの病名は脳塞栓症で、血栓が脳血管に詰まったのだということは理解しています。しかし、何だと言ってわたしの身にそんなことが起こったのでしょう。血栓が詰まるなど、考えてみれば異常です。血液は血管の中をさらさらと流れているものです。普通はありえません。

 

そこで大阪府吹田市にある国立循環器病研究センターで徹底的に調べてもらうことになりました。場合によっては、頭を開いて脳の血管を外科的に手術しなければならないことも覚悟しました。

 

あらかじめ外来患者として予約をして国立循環器病研究センターの脳神経外科を訪ねます。わたしの治療と再発防止策を探る上で、脳神経外科の医師の意見がひとつの試金石になりそうだったからです。

 

ところが、脳神経外科の医師は、リハビリ病院で撮ってもらったわたしのMRIを観察し、血栓は流れて消えてしまったというわたしや妻の説明を聞いて、「(血流が)再開通したのですか」とひとこと言い、手術の必要はありませんねと断言するのです。

 

そして、脳血管の走り方の異常やこぶがないことを確認し、同じ循環器病研究センターの脳神経内科に電話をして、親しい医師に相談に乗ってあげて欲しいと頼んでくれました。

 

わたしにすれば開頭しなくてもよくなったのですが、一方で、また最初の疑問に逆戻りです。何だと言ってわたしの身に脳塞栓症などということが起こったのでしょう。これが分からなければ再発防止策が決められません。

 

■そして原因は?

 

国立循環器病研究センターに転院したときには、すっかり暑くなっていました。数日間、家で過ごしてから、家族と過ごす時間に未練を残して循環器病研究センターに向かいました。脳神経内科では、よくある原因から始まって「あまり起こらないが、念のために調べておこう」という原因まで、ありとあらゆることを調べてくれました。それでもはっきりとした原因は見当たりませんでした。わたしの検査を担当した医師がこう説明してくれています。

 

「原因は特定できませんでした。一つは心房の壁にわずかな穴が開いており、その穴が何か悪いことをしたのか――この穴自体は、日本人では全人口の約15パーセントの人に開いているということです――、あるいは、心臓の拍動にイレギュラーがあり(心房細動のことだと思います)、それが悪いことをしたのかもしれません。しかし、今は、原因は治癒(ちゆ)している可能性が高く、<何も悪いところはない>ということになるでしょう。」

 

「ただ印象としては、脳血管に柔らかい物質(コレステロールだと思います)がたまり、そこに血栓が詰まったが、脳血管に裂け目が入って柔らかい物質はどこかへ行ってしまい、血管のでこぼこが消えた、という推理が、一見筋が通っているようです。」

 

「あと、一つの可能性として、足に血栓ができて、それが<定期的に>脳に飛んでいるのかもしれません。次は足のエコー検査をやってみます。」

 

結局、心臓を中心にして足のつま先から頭のてっぺんまで、かなりの検査を重ねたのですが、「健康体」であるということが分かるのみで、これという原因は見つかりませんでした。これが即、本当の「健康体」であることを表すわけではありませんが(現実に右半身はまひしています)、しかし「健康体」である可能性は高いようです。

 

検査をしていただいた複数の医師には「よく調べていただいた」と感謝しています。ただ、わたしが血栓のできやすい体質なのかどうかわかりませんし、今後も血栓が脳に飛ぶのかどうかも未知です(そのようなことは、もう起こってほしくありません)。ですが、脳に血栓が飛ぶ可能性があることは、否定できないのです。

 

最終的には「原因はよく分からない」ということが分かっただけでした。それでも予防は必要です。再び脳に血栓が詰まる可能性を下げるように、アンプラーグという薬を飲むことになりました。

 

 

第7回写真A加工済.png

 

A: 2013年 7月13日に撮影したMRI画像のうち、もっともダメージがクリアーに写った1枚

 

 

第7回写真B加工済.png

 

B: 同様の2016年 1月18日の画像

 

 

第7回写真C加工済.png

 

C: 同様の2021年05月10日の画像

どれも脳細胞の壊死が楕円でくくった左の側脳室の外側に見られ、脳室は拡大しています。ここにはありませんが、2002年に脳塞栓症を患ってしばらくしてから、わたしの脳のダメージは、ほとんど変わっていません。「脳神経が再生して改善してきている」という証拠もなく、「認知症が進行している」という証拠もありません。

 

写真は3点とも国立循環器病研究センターに提供してもらいました。

 

■リハビリで講義をやってみる

 

あるとき、国立循環器病研究センターの言語療法士の方から「生態学のレクチャーを1回10分程度でやっていただきたいのですが、どうでしょう」と提案がありました。「生態学のレクチャー」であれば、ついこの前までやっていたことです。お受けしました。

 

レクチャーが終わると、この言語療法士の方から「言語療法士の立場で見た場合、何か言葉に詰まっては探すという場面があるように見えましたが、それで話の筋が見えなくなったとか、聞きづらいという事はありませんでした。また、いち聴衆としては、<生態学の5回シリーズ>を素直に楽しめました」と言っていただきました。

 

そして「今後は、ぜひ無理のないように仕事を続けて下さい」とのことでした。

 

分かりました。おかげで自信がつきました。ありがとうございます。

 

しかし、わたしが職場に復帰するためには、もっとシビアーな問題が残っていることにも気がつきました。それは周りの人びとの、わたしという「障害者」の捉え方です。

 

リハビリテーションに夢中になっていると、つい忘れてしまうのですが、わたしはどこから見ても立派な「障害者」です。ただし、まだ慣れていない新米の「障害者」です。言ってみれば「障害者見習い」なのです。

 

立派な「障害者」として自立した意見を持つまでには、さらに時間が必要でした。

 

次回は社会に復帰するまでの葛藤のようすです。

 

(三谷雅純 「ことばを失う」の人類学 わたしをフィールド・ワークする 第7回おわり)

 

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■よかったことを三つ書いてきてください

 

いいことなんかひとつもないと思っていた。実際なかった。

 

今年の6月、睡眠導入剤を過剰摂取し、かかっていた心療内科に「薬をください」とも、そのわけも話せない気がして、自宅から近い別の心療内科にこそこそと駆け込んだ。

 

若い女性の医師はお薬手帳をしばらく見ていたが、「まだお薬はありますか?」とは聞かず、「では、以前と同じお薬でいいですね」と処方箋の内容をパソコンの画面に打った。私は薬を手に入れられたと思い、ホッとした。「では、2週間後にしましょうか」と言われ、次回の予約を取る。私は、こういう形でかかりつけ医を変えたことに罪悪感のような、危ない綱渡りをしたような気持ちでいたから、「2週間後にここに来られるよう、今度は昼間の服用は決してしないことだ」と気持ちを定めた。椅子から立とうとしたとき、「中山さん」と先生から声がかかった。

 

「1日過ごされてよかったこと、できれば三つ、書いてきてくれませんか」

私は突然出された宿題に驚き、思わず「えっ」と言った。先生はニコッと笑い、

「できれば、毎日」

と言う。私はしばらく先生の顔をみつめてから目を逸らし、

「あのー、先生、私にそんないいことなんて……」と小さな声で呟く。

「ムリはしないでくださいよ。でも、見つけてみてくださいね」

また先生がニコッとする。

 

「いや、ムリです」と言おうとしたが言えずに立ったまま戸惑う私に、先生は「中山さん、きょうは来てくださって、ありがとうございます」と明るい声で言った。医師に「ありがとうございます」なんて言われたのは初めてのような気がした。

 

私は立ちくらみしそうだった。ボォーッとガラス張りの診察室の扉を引き、待合室に出た。そこは陽の光が射しこみ、夏が始まる明るさが溢れていた。大きな鉢植えの観葉植物がたくさん置かれ、新緑の明るい緑の葉を茂らせていた。木製の椅子にはアレンジされた生花の大きなかごが置かれていた。小さな男の子が患者さんの間を渡って遊んでいる。先生の息子さんらしかった。少し変わった心療内科だった。

 

■それより、書いてますか?

 

睡眠導入剤を飲んで、テーブルに肘をつき、考える。

いいことなんか、ひとつも浮かばないわ。

私にいいことなんかあるわけがない。こんな生活にいいことなんかない。悪いことならいくらでも書けるけど。そう思った。そして寝た。

翌日も、考えてみるが浮かばない。そのうち、私は考えるのもやめた。

 

10日が経った。新しい心療内科を受診した頃、前回お話ししたような、骨のストレッチを始めた。毎日、地味に手足の指の間をこすったり、指の関節を伸ばしたり、爪を上下にぎゅっと押したり、手首や足の裏を叩いた。そのわずか10分ほどの時間が、うつの特徴ともいえる、一切合切をなし崩しにしたくなる気持ちを止めた。導入剤の昼間の服用も収まっていた。

 

診察の日が近づいたが、私は「書けないものは書けないから」と居直る気持ちでいた。

診察日、「調子はいかがですか?」と聞かれ、「あまり変わりませんが、悪くはなっていない気がします。ストレッチを始めました」と答えた。

「そうですか! それはいいですね。中山さん、やりたいことをどんどん見つけてください」と言われた。

 

――うつの私に、そんな……。

と思いながら、もやもやとわだかまっていた胸の疑問を口にしていた。

「では、やりたくないこととか、気がすすまないことはどうすればいいですか?」

と聞くと、

「やりたくないことは、やめてください。嫌なことはしなくていい」

「でも、責任とか、感じます」

「責任? 責任なんて、どうやって取るんですか? いいんですよ、そんなことは考えなくて」

と笑顔で言われる。

 

「それより、書いてますか?」

「は? ええ、まあ」

「今度、持ってきてくださいね。楽しみにしています」

と言われる。

「では、2週間後でいいですか? 中山さん、きょうも来てくださって、ありがとうございました」

私は振り向いて、ガラス扉を引く。その日も待合室の緑は満々としていた。

 

会計を待つ間、待合室から診察室を眺める。私の後に入った初老の男性が、身振り手振りを交えて先生に話しかけている。男性は背中を丸め、ウォーキングシューズを履く両足は(かかと)が浮いたままで、椅子に浅く座って前のめりに話し続ける。が、胸に詰まっていたものすべてを出し切ったのか、やがて醒めたようにひとつ息をして黙り、椅子からふらっと立ち上がる。先生が、にこやかに送り出す。

 

――同じかもしれない。

私も、頭の前に不安や心配ごとをたくさん吊るして、それだけを見て生きてるような気がしてくる。

きょうは先生の息子さんは診察室の床でお絵描きをしているのだった。

 

■次回も見せてくださいね

 

バレエストレッチのスタジオは偶然、新しい心療内科の近くで、私はAmazonで購入した厚手のヨガマットを抱え、心療内科とレッスンをはしごした。

 

心療内科の先生が「調子はどうですか?」とほほ笑む。

「はい。体を動かすようになって、少しだけよくなりました」

「それはよかった」

私はリュックからごそごそと一枚の紙を取り出した。1週間前から、コピー用紙にその日のよかったことを書くようになっていた。けれど、いいことはあいかわらず見つからず、嘘っぱちやどーでもいいことを書いた。食事をするテーブルに、角が丸まり、ところどころ紅茶の染みのついたその紙を常時置いておくようになっていた。だからと言っていいことなど浮かばず、天気がよい、とか、雨があがったとか、犬の足が少しよくなった、とか、そんなことを書き続けた。

 

先生は、くちゃくちゃになった紙を見て、

「いいですねー。すごくいい感じのことですねー」と言った。

「えっ。そんなのでいいんですか」

「いいんですよ。すばらしい。次回も見せてくださいね」

と言われ、診察室を後にする。

 

――あんなんで、いいのかあ。

そのあと、私はスタジオに向かうことになっていた。ほめられたこともあり、週一の楽しみにやっと出会えることもあって、気持ちは高揚し、足取りが軽くなっていた。

 

■毎日、点数をつけてください

 

しかし、毎日の手足の手入れや覚えて帰ったストレッチを家で続けるうち、真夏に心身のバランスが大きく崩れた。骨と骨の間が柔らかく、離れてきたからだろうか、そこに澱のように溜まっていたらしい、長年正体がわからなかった感情が溢れ出てきた。どうしようもない気持ちをなんとかしようと、紹介されたカウンセリングセンターの予約をした。

 

初回カウンセリングの日まで少し時間があったので、淡々と体の手入れを続けながら、今の自分をみつめてみた。そうするうちに、気持ちが少し落ち着いてきた。

当日、ひととおりの過去の履歴や精神障害について話すと、年配のカウンセラーさんは言った。

「つらいことがたくさんおありだったのですねぇ。そこを生きてこられたのだから、これからはラクに生きられたらいいですね。日々、自分の毎日に肯定的に点数をつけられたらどうでしょう。自分にちょうど合うスケールをつくってみるんです」

ここでも日々のワークを奨励されたのである。

 

「点数のつけ方ですが、もうあなたは、生きてるだけでじゅうぶん。だから、生きてるで1点。食べられたら2点。犬の散歩ができたら3点。家事ができたら4点。お仕事ができたらもう5点以上でいいんじゃないですか? そして、7点以上にしようなんて、思わなくていいです。9点や10点は、あまり目指さないほうがいいですねぇ。『7点が自分の満点だ』でもいいんじゃないでしょうか。大事なのは、あなたにマイナスはない、ということです」

 

――マイナスは、なし?

これができない、あれもできない、こんなにたいへん、こんなに悲しいと思って暮らしていたのに、マイナスのない私の「設定」ができるだろうかと思った。けれど、なぜか安心している自分もいた。私は1点だ。いや、食べてるし、犬の散歩には行けてるから、少なくとも3点だと自分に確認し、家路についた。

 

■回復日記と手足の手入れ

 

「回復日記」というタイトルで、紙っペラから移行してノートに日々のよいことを書き始めたのは、カウンセリングを受けてから1週間後、9月17日のことだ。日記が3日と言わず2日も続いたことのない私が、齢56にして1日も欠かさず日記を書いている。

 

9月17日の日記を読み返す。

まだいろんなことが自分のなかに錯綜し、もがいていたことがわかる。人間関係の悩みや悲しみが溢れ、そこにはどうやら依存の影が見えた。人に変わってほしいと願っていたり、人の言動に傷ついたことが書かれていた。しかし、こうも綴っている。

 

振り返って、自分が「重くて抱えられないなあ」と感じたことを、やめることができかけた1週間。体の手入れを丁寧にすること、この上はない。

 

よかったことは相変わらず、ネトフリの韓国ドラマに癒される、とか、犬のシャンプーができた、とか、お風呂が気持ちいい、とか、あれこれ考えない1日だった、とか、梅干しがおいしい、とか、小さなことばかりだ。そういう小さなことの横に付箋が貼られ、「ちゃんとしない、まともに生きることを目指さない」などと標語のような言葉も書かれている。

 

昨日のよいことは、なんと7つも書いてあった。最後に、「よい1日でした。秋日和」とある。今までの点数は、平均して5点といったところか。でも、3点の日もべつだん落ち込んだりはしていない。「いいんだもん、3点」と思っていた。おおむね◎をつけてあげたい、自分に。

 

そんなことを振り返ってニヤニヤしながら、きょうも手足の手入れをしている。

触り始めてからしばらく経ってからわかったのだが(しばらくは感じることすらできなかったということだと思う)、私の手足は骨と骨の間がかちんこちんに固まっていた。特に、足の小指がへしおれて、爪は爪じゃなくて白い付着物のようにギザギザしていた。その硬い足の指の骨と骨を引き離すように手の節で丁寧に押す。イタタ、と悲鳴をあげられるようになったのは3か月経ってからだった。

 

今、驚くことに、小指の爪は爪になってきている。骨には血が流れているし、小さな骨のなかでも血をつくっているし、それを体にめぐらせている。新しい血がめぐっているうちに、小指の爪は手入れ半年後、この年にして初めて生まれ変わっている。なんかしみじみとする。

 

今は、座ったり、寝たりしたままのストレッチから、片足のつまさきを膝にのせ、片足で立ったりするポーズもできるようになっている。もちろん最初はトトトト、とぐらついた。けれど練習を続けると、少しの間なら立てるようになる。

 

そのとき、思う。片足を支えているのは、反対の足だけだろうか。

 

反対の足だけに力を入れてせいいっぱい突っ張っていると、すぐにグラグラとくる。何度もグラついているうちになぜか立てる。それは、不思議と体がラクになっているときだ。力が入っていなくて、全体の骨がなんだかうまく整いつながったような。上体も腕も、手先も、首も、顔も、目も、頭の後ろ側も。

 

つまり、宙に浮いたつまさきを、体が総出で支えているんだなあと思う。そして、立っている足の裏からすーっと何かが抜けて地面に流れていきながら、そこにもなんだかつながりを感じる。思うに、こんな練習をしている昼間の窓辺に差し込む光も、小鳥のさえずりも、犬の静かなまなざしも、すべてがつながっているような気さえする。

そのとき突然、あおぞら園のある日の出来事が思い出された。

 

■ルカとタクトと秋晴れの日

 

午前中、事務所で子どもの支援について富田さんと話し合っていた。「うん。うん。……だけど……」「でもさあ……」とふたりの意見はかみ合わず、だんだん険悪な空気になっていた。パソコンを並べて仕事をしていたが、煮詰まった空気に富田さんはプイと二階にパソコンを持って上がっていった。それからお昼になって、スタッフが集まって、きょうの打ち合わせがあって、お迎えがあって、その間、すれ違うように富田さんと私は互いに話しかけることもせず、支援の時間に突入した。

 

さわやかな秋晴れだった。

「空が青くて、きれいだねぇ」と送迎車のなかで話すと、小3のルカ君と小2のタクトが「公園、行こう!」と言う。

「そうだね、野球セット持って行こう!!」

近くの公園までみんなで歩いていく。

 

ルカ君は、私がさげていた野球セットをさっと取り、「やるよー、野球」と言う。

プラスチックの軽いバットを構えたルカ君に、私がボールを投げる。ルカ君が打ちやすい感じのコースに、ゆっくりとしたボールを投げる。

ビュン。

ルカ君のバットは空を切る。

「おっ、惜しかったねぇ。もう一度」と言い、タクトが投げ返してくれたボールを持って構える。

ビュン。

ルカ君のバットはまたボールに当たらない。

 

たちまちルカ君は泣きべそ顔になり、バットを放り投げる。そのバットをタクトが拾った。

「ルカ君、ちょっと待ってて。タクトも打ってみる?」

タクトに投げると、へっぴり腰に構えていたタクトのバットにボールがうまく当たり、すべり台のほうへ飛ぶ。タクトが首を回してボールを目で追いながら「うわぁ」と叫ぶ。「すごい、タクト!!」と言ってタクトに駆け寄ると、ルカ君が泣きながらジャングルジムに向かって走り出した。

 

あ、マズイと思い、「ちょっと、ルカ君!!」と追いかけるが、ルカ君はぐんぐんジャングルジムのいちばん上にのぼり、涙を腕で拭いている。「ルカ君、もう一度やってみようよ、今度はきっと打てるよ」と下から声をかけるが、ルカ君は大きく首を振る。

 

タクトがあわててジャングルジムの近くまでやってくる。ルカ君とタクトは同じ小学校の特別支援学級で毎日を過ごし、兄弟のような、ときには親分と子分のような関係だ。親分を差し置いてどうしよう! という気持ちがタクトをあたふたさせている。タクトはジムを囲う柵をまたごうとする。が、柵は意外と高かった。股下より少し高い柵にまたがったタクトはおちんちんが邪魔になり、どうすることもできないで「イタタタ」と股間を押さえている。

 

何やってんのタクト、だいじょうぶ? と思った瞬間、遠くからガハガハと笑う声が聞こえる。富田さんだ。富田さんがタクトの様子を見ながら手をたたいて笑っている。私も振り向きながら、笑い始める。笑っちゃいけないけど、笑ってしまう。富田さんと目が合い、さらにふたりで大笑いする。半日ケンカしていたのに、タクトが笑わせてくれて、その瞬間私たちは、氷が水に解けるように仲直りしていた。

 

支援の時空間には、問題を探すまなざしで見ればそりゃ問題はいっぱい転がっているし、どうにでも深刻になれるけど、そればっかりじゃなあと思う。思い出すなら、子どもたちのおかしくて楽しい場面を思い出すほうが、何倍もその子の味が見えてくるものだ。そして愛しくなる。私たちを含めた彼らをとりまく世界は、決して暗くも固くもなくて、弾力をもったボールのように、柔らかくて楽しいのだと感じる。

 

私の調子は、お天気や犬や梅干しや韓国ドラマや、いろんなものが寄り集まり、総出で上向きにしてくれたのだと今になって思う。つまり、子どもも大人も、周りのいろいろがつながって目的なんか別になしに、なんとなく支え合いながら、ほわっと生きているんだよなあ、と思う。

 (中山求仁子「劇的身体」第25回了)

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嬉しい提案

 リハビリ病院から提案がありました。試しに家に帰ってみてはどうかというのです。病院という、患者が外界から守られた環境から、一歩、社会に踏み出してみよう。その手始めに、一番慣れているだろう家庭に帰ってみてはどうかという提案です。

 

 順調にリハビリテーションが進んだ患者には、誰にでもする提案ですが、嬉しくて、踊り出しそうになりました。なぜかというと、急性期に入院した病院からリハビリ病院に移るとき、車の中からわが家のマンションが小さく見えて、今、あそこに帰れたらどんなにいいかとあこがれた記憶があったからです。

 

 数日間の「お試し」で、社会生活に再び復帰する練習です。病院での、朝食前に片足に装具を付けて病棟の廊下を行ったり来たりする早朝の「自主練習」にも力が入ります。わざとまひした右手でお箸を持って食べるまねごとも(こっそりと)やってみました――作業療法士の皆さんに、やって問題がないかどうかを聞いたわけではなかったので、(こっそりと)なのです。心配をかけるといけないので。

 

 妻に知人から電話があったそうです。昔から親しくしている野生動物の保護管理事務所の皆さんが、私を心配してくれていました。事務所の皆さんは家に電話をかけ、この週末、数日だけですが、お試しでわたしが家に帰ると知ったのです。

 

 そして、それなら自分たちが車で迎えに行きますと言ってくださいました。わたしと仲の良かったお二人が三田(さんだ)市から篠山市まで迎えに来てくれます。長身の男性、濱崎伸一郎さんと女性の岸本真弓さんのお二人です。お二人とも野生動物を診る獣医師です。

 

 嬉しくなったわたしは、ついつい顔の筋肉が緩みっぱなしです。なぜかと言えば、第一に帰りたくてしかたのなかったわが家に帰れること、それから、入院していて長い間お話ができなかったお二人と話ができるからです。

 

友人との再会

 廊下に岸本さんの姿が見えました。濱崎さんは車で待っているのでしょう。岸本さんは、わたしがどんな状態なのかを妻から聞いていたはずです。それでも自分の目で確かめてみるまでは不安があったに違いありません。無理もありません。

 

 そんな心配をしながら病室を一つひとつ探していると、わたしがにこにこ笑って待っていたのです。岸本さんはほっと一息吐きました。

 

 荷物はそれほどありません。エレベーターで階下に下り、さっそく車に案内されます。お二人は義理堅く、最初は仕事の話から始まりました。野生動物のデータをまとめている様子をお二人からうかがいます。聞くときは、にこにこ笑って頷いていればいいのですから気は楽です。ところが一転、しゃべるとなると大変でした。

 

「病院の生活はどうですか?」

「どんなリハビリをしているのですか?」

「お家ではご家族が待っていますね」

 

 その質問の一つひとつに、ていねいに答えていきました。答えているつもりでした。

 

 ところが、自分の言葉がうまく出ていないことに気づいたわたしが、ぎごちなく「言うことは分かりますか?」と問いかけてみると、岸本さんはゆっくりと首を振り、申し訳なさそうに無言で笑うのでした。

 

■わが家がどこか変だ

 わたしは濱崎さん、岸本さんのお二人に助けられながら、無事、マンションまで帰り着きました。マンションの入口には妻が迎えに出てくれています。3か月ぶりのわが家です。帰宅が嬉しくて、踊り出しそうになったわが家です。家族がいて、のびのびとくつろげるわが家です。

 

 濱崎さん、岸本さんにはお礼を言ってお別れをし、一歩、玄関に入ります。

 

……ところがどこか変なのです。どこがとははっきり分かりません。しかし、懐かしいわが家のはずが、どうも違うのです。

 

 まず玄関のつくりが違うような気がします。上がり框(かまち)で靴を脱ぐ場所が、以前と変わった気がしました。

 

 玄関を入ると、阿部知暁(ちさと)さんの絵本『くんくんくん おいしそう』に使ったゴリラの絵やエッチングの作品が飾ってあるはずです。わたしと妻の結婚祝いに、阿部さんご本人から贈っていただいた絵です。確かに飾ってありました。飾ってはありましたが、そして阿部さんの絵であることには違いないのですが、でもどこかが変なのです。この大きさだっただろうか……

 

 リビングに入ると、テーブルがあります。いすがあります。あと、何だか電気が薄暗くなったような気がします。ここは、本当にわが家なのだろうか? 疑う余地はありません。ここはわが家に違いありません。しかし、以前住んでいた場所とは微妙に違う気がするのです。まるで竜宮城に行っていた浦島太郎が人の世に戻ったときのようでした。

 

 アフリカの森の奥で一年以上過ごしたあと、久し振りに日本の家に戻ったときでも、そんな感覚にはなりませんでした。記憶が混乱しているのです。これは発症から3か月目のことです。

 

 

図1 阿部さんのエッチング.JPG

 

わたしを待っていた阿部知暁さんのエッチング

奥に絵本『くんくんくん おいしそう』に使った原画が見えます。妻が撮影

 

 

■店や人の名前が思い出せない

 わたしは脳塞栓症で脳にダメージを負いました。記憶の混乱が、そのことに関係しているのは間違いないでしょう。

 

 試しに近所の地図を描いてみました。

 

 マンションの配置や通りの走り方はどうにか思い出せました。しかし、町の中の商店の名前が思い出せません。店が書店であるか、お好み焼き屋であるか、文房具店であるかは、じっくり考えていれば思い出せます。以前、訪れたときの様子も思い出せます。でも店名は思い出せません。無理をして思い出そうとすると、呼吸が乱れてくるような気がします。脳が酸素を必要としているのかもしれません。大きく息を吸って、吐いて……

 

……やはり店名は思い出せませんでした。

 

 そんな状況も子どもには関係ありません。お父さんが家にいることが嬉しくて、まとわりついてきます。2歳の娘が甘えてまとわりついてきたとき、わたしは思わず「あっちに行ってろ」と怒鳴ってしまいました。驚いた娘は、泣きながら「お父さんこそ、あっちに行ってろ」と言い返すのでした。

 

 これは大変なことになった。

 

 では、人の名前はどうでしょうか。試しに職場の人の名前を挙げようとしてみました。少数ながら思い出せる人もいます。しかし、大半の人の名前は薄ぼんやりとして、霧がかかったようです。結局、思い出せませんでした。

 

 それから一晩、どうしたらこの苦境を抜け出せるか考えてみました。まず店の名前はパソコンで白地図をつくり、それに書き込むことにしました。そのために明日は通りを歩いて店名を確認し、記録しておくことにします。

 

 人の名前はどうでしょうか。こちらは職場でもらったリストを見つけました。これで名前は確認できます。しかし、リストには顔写真がありません。顔写真が付いていれば、それを手がかりにして名前の音と顔が重なります。

 

 名案を思いつきました。「あ、い、う、え、お、……」と順番に呟いていき、例えば田中さんなら「た」、佐藤さんなら「さ」という読みに行き当たったところで思い出せそうです。ただし、名前がラ行やワ行で始まる方は、行き着くまでに時間がかかります。

 

 この「あ、い、う、え、お、……」とこっそり順番に呟いて思い出すわざは、それから長い間、わたしの「必殺わざ」になりました。本来の言葉のリハビリテーションでは反則かもしれませんが。

 

■「語想起」「喚語困難」について

 わたしのような症状を、言語聴覚士は「喚語(かんご)困難」とか「語想起(ご・そうき)の障害」と呼ぶそうです。憶えていたはずのわが家の印象が記憶と違っていたというのが同じ現象なのかどうかは分かりません。少し違う気もします。しかし「喚語困難」や「語想起の障害」の方は、わたしの言葉の障害にぴったり当てはまります。

 

 「喚語困難」とは「言いたい言葉が出て来ない状態」を指すそうです。「言いたい言葉」という以上、脳内言語の段階では、言うべきことがすでに決まっているはずです。しかし、脳内言語から言語音として喉の筋肉に伝える発話の段階がうまくつながりません。何やら越えられない壁があるようです。この壁のために物理的な音声が出てこないということです。

 

 「語想起」という術語も「喚語困難」と似ています。こちらは「思い出す」ことに重点がある感じです。多くの人はいくつかある脳の中の言葉のストックを探し、一番適切な言葉を思い出して(想起して)、文章をつくっていきます。このとき、適切な言葉を探し出せないことが「語想起の障害」です。

 

 わたしは文章を読み、文章を書くことを生業にしている研究者です。そのわたしが適切な言葉を思いつかなかったり、思い出せなかったりするのならば、これは致命的です。まず論文が書けません。この「『ことばを失う』の人類学」のような文章も書けなくなります。言葉が出ないのなら講演もできません。その前に、電話にも出られなくなるでしょう。わたしはこれからの生活を想像して愕然としてしまいました。

 

■しりとりが前に進まない

 わたしの場合、リハビリ病院の言語聴覚室では「語想起がむずかしい」ということから、「野菜の名前を20種類挙げて下さい」とか、「動物の名前を20種類挙げて下さい」といった課題が出されました。「野菜」ですから、「ニンジン、タマネギ、白菜、キャベツ、」と挙げていくのです。普通は20種類ぐらい簡単に挙げられるそうです。ところがわたしはというと、せいぜい10種類くらいが関の山でした。

 

 似た課題に、「『た』で始まる単語を、1分以内に、できるだけ挙げてみてください」というものもあります。『た』で始まる単語ですから、多くの人は「たぬき」「炊き込みご飯」「たらい」と、次つぎに出てきます。ところがこれも、わたしはせいぜい5、6語挙げられたら上出来なのです。それ以上挙げようとすると頭にもやがかかってしまいます。頭痛がするときもありました。

 

 先に書いた「あ、い、う、え、お、……」とこっそり呟くわざを言語聴覚士の前で使ってみたことがあります。動物が課題なら、「あ、アライグマ、い、イタチ、う、ウサギ、……」とやったのですが、これは簡単にばれてしまいました。

 

 それよりも、しりとりをやって、お子さんと遊んでみてはどうかと言われました。ならば、次の週末のお試し帰宅では、さっそく息子や娘と「しりとり遊び」です。これで機嫌よく遊べるようになれば、子どもを怒鳴らなくてもよくなりそうです。

 

 ……ですが、実際にやってみると、子どもはすぐに飽きてしまいました。「しりとり遊び」をしていても、お父さんはもたもたしていて、ちっとも前に進みません。ゲームらしくないのです。お友だちとやるときのようにスムーズに遊べないからだと思います。

 

 この先、わたしの言葉の霧が晴れるまでには、まだ数年の時間がかかります。

 

 

図2 ゴリラの少年.JPG

 

阿部知暁さんのエッチングのモデルになったゴリラの少年

コンゴ共和国のンドキの森で筆者が撮影

 

 

(三谷雅純 「ことばを失う」の人類学 わたしをフィールド・ワークする 第6回おわり)

 

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3月に好評を博した、医療者必見の舞台がオンライン配信で帰ってきました!
役者はプロと乳がんサバイバーの方々。
そして、脚本は乳がんサバイバーの鹽野佐和子SARA(しおのさわこ・さら)さん
によるものです。
当事者の発信だからこそ、患者目線のリアルが学べます。
舞台「ブレ恋!」とご縁のあった放射線科医SATOKOさんによるレビューを現場で感じる想いと共にご紹介します。
春に観られなかった方は、この機会にお見逃しなく!

 

いろいろな気持ちが錯綜した舞台

 

 乳がんサバイバーの方が作った舞台「ブレストウォーズ 恋する標準治療!」(以下、ブレ恋!)を観ました。きっかけはピンクリボン月間のイベントで、私の乳がん検診のセミナーとセットで企画されたからです。

 

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  (舞台「ブレストウォーズ」の配信申し込みは、本記事の下のリンクからどうぞ ↓ )

 

 知り合いの紹介で、「ブレ恋!」の歌の存在は知っていましたが、観るのは初めて。

 

 はて、この舞台、そもそも誰を対象にしているのでしょうか。

 同じく乳がんサバイバー? 患者の家族?

 乳がんになっていない一般の女性?

 はたまた医療従事者??

 

    (ここから、専門用語を歌にした本編の一部を動画でご覧いただけます

    

 乳がんサバイバーの方からは、確実に共感が得られるでしょう。

 一般の人が観るとどうでしょうか? 乳がんの勉強になる? 単純なエンターテイメントとしては、少し重そうな印象を受けます。

 

 医療従事者側からはどうでしょうか?

 私は医師として働き始めてから、医療ドラマをあまり観なくなりました。現実と違う部分も多く、ついつい突っ込みたくなって疲れてしまうので……(看護師さんはどうですか?)。

 

 紹介が遅れましたが、私は乳腺を専門とする放射線科医で、大学病院で毎日数多くのマンモグラフィや超音波、MRIの画像診断をしてきました。加えてマンモグラフィガイド下の生検や、乳がん検診の読影および結果説明も行っていました。スタンフォード大学に研究留学後、そのままカリフォルニアに住んでおり、去年から乳がん啓発のセミナーも行っています。

 そんなバックグラウンドを持つ私は、「ブレ恋!」を観て、いろいろな気持ちが錯綜し、涙がちょちょぎれました。

 また劇中、時に医師である自分が責められているような気がして心苦しくなり、医師の無力感すら感じました。

 

 

★210321-prekoi-soku2-013.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

標準治療を選ばないのはコミュニケーション不足から?

 

 いろいろ書きたいことはありますが、まずは劇タイトルにも組み込まれている標準治療について。

 

 私は日本にいる頃、大学病院で毎週「cancer board」と呼ばれる、カンファレンスの担当をしていました。そこで、乳腺外科医、放射線科診断医(私)、放射線治療医、看護師が一同に集い、珍しい症例や難しい症例についてディスカッションしていました。

 毎週のカンファで私の印象に残っているのは、標準治療を選ばなかったせいで悪化し、大学病院に戻ってくる人が後を絶たない、ということでした。粒子線を当てまくり、胸に穴のあいた状態でくる人もいました。

 なので、小娘の私はいつも思っていました。

 

なぜ標準治療を選ばないのだろう?

 

 標準治療が、みんなの努力の結晶からなる、一番エビデンスレベルが高いベストな治療ということを知らないのだろうか?

 標準治療という名前がよくないのだろうか?

 「標準」という言葉の響きで、何かもっといい治療法、特別な治療法があるのではないか?という幻想すら抱かせるではないか?

 今の標準治療は【大事な胸を切る手術】【ネガティブなイメージの抗がん剤】がメインとなります。すぐには受け入れがたく、「もっといいは方法ないの?」と思われるかもしれません。

 一番エビデンスのある、治療効果が高い方法で治療したい医師と、それをすぐには受け入れられない患者サイド。そしてなんのエビデンスもない、民間療法に走ったりします。

 医師側の伝える力が弱いのでしょうか?

 これに関しては、私の中で答えは出ていませんが、コミュニケーション不足が問題になるケースもあるのではないでしょうか?

 

 

今ある溝を埋めたい

 

 また、セカンドオピニオンについても思うところがあります。

 最初の医師との相性が悪かったり、治療法に納得がいかなかったりする場合、患者さんは他の医師の説明を聞きにセカンドオピニオンを訪れます。まさしく「ブレ恋」でも起こっていることです。

 私の勤めていた大学病院では、土曜日にセカンドオピニオン外来があり、よく他院からの画像の診断を依頼されました。基本的にガイドラインに準じて標準治療を行っている病院は、セカンドオピニオンに行っても治療法が大きく変わることはありません。全く違う治療法を提案してくる場合は、おかしいと考えた方がいいでしょう。しかし、たとえ治療法が変わらなくても、主治医との相性は大切にした方がいいです。乳がんの治療期間は長いですから。

 

 書きたいことは山ほどありますが、最後に一言。

 この舞台には、患者、患者コミュニティ、医師がメインで登場していますが、実際の医療現場はそうではありません。看護師さんや技師さんも多く関わり、乳がん診療は回っています。

 外来で、病棟で、医師と患者の溝を埋めるのに、看護師さんの力は必要不可欠です。お忙しいでしょうし、全ての場面ではりついている必要はありません。

 例えば、がん告知、治療方針決定の外来など、要所要所で患者さんの様子を観察していただき、医師-患者間のコミュニケーションが上手くいってないなと感じた時、さっとフォローに行ってくれると助かる命もあると考えます。

 看護師さんは医師のキャラクターもよくわかっていますし、医師と比べ圧倒的に、患者に寄り添う気持ちに長けていますから。

 

 ひとりでも多くの方に、この「ブレ恋!」を観てほしいと思います。いろんな立場から乳がん診療というものを見直し、少しでも今ある溝が埋まれば、と願っています。(了)

 

 

舞台オンライン配信はこちらから

ブレストウォーズ 恋する標準治療!

 ~女の胸はときめくためにある。

 

【あらすじ】

 48歳の誕生日に乳がんの告知を受けた佳菜。 主治医のドクター曽根山は冷たく、夫は病気を心配してくれず、凹む彼女を救ったのは乳がんの先輩患者たち、そして曽根山のライバル医師・波暮田でした。しかし、なぜだか佳菜は不器用な曽根山のもとへ戻りたくなってしまいます。病いに悩み、人として成長した佳菜が最後に選び抜いた治療方法とは? 運命のドクターは誰?

 

【配信期間】 12月22日 12:00PMまで。 
(ご購入期限は11月22日 12:00PMまでです。ご注意ください!)

チケット&視聴 カンフェティにて3,000円で発売中!

【脚本・演出】 鹽野佐和子(THE RABBITS’ BASE代表)

【医療監修 Dr.中山紗由香(昭和大学病院乳腺外科

本編  2時間14分

 

 

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Q&Aセッション:授乳期の乳がんについて考える」  

 

 助産師さん対象の乳がん講座です。

 多くの助産師さんから、「乳がんのことは気になっていたけど、学ぶ機会がなかった」「乳腺外科の医師と連携をとりたいけれど、どうやって連携すればよいかわからない」といった声を受けて、それらの点を掘り下げていきます。

 

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2021年11月20() 13:00~(日本時間)
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(『精神看護』2021年9月号より転載)

 

 デイヴィッド・リンチが監督した映画『マルホランド・ドライブ』(2001年)の序盤には、その後展開する物語とはほとんど無関係な、ある印象深い場面が登場する。ハリウッドのサンセット大通りに位置するチェーン店のダイナー、ウィンキーズ。ただならぬ表情を浮かべたダンは、他の店舗ではなく「この」ウィンキーズに来たかったのだという。彼は、「この」 店の裏で謎の男を壁越しに目撃する夢を見て感じたという恐怖について語る。そして、その恐怖をぬぐい去るために、同行者を夢で見た場所 へと連れて行く。するとそこには、実際に毛むくじゃらの謎の男がおり、ショックを受けたダンは気絶してしまう。

 

 また、ドナルド・バーセルミの小説『雪白姫』(白水社、原書1967年)にも、物語の本筋からは()れる次のようなジェインと母の会話が現れる。「あの猿みたいな手は何かしら、ほら、わたしの郵便受けのなかへ伸ばしてきてるでしょ?」「何でもないわ。気にしなくていいの。何でもないったら。〔……〕猿なら猿でいいじゃない。変哲もない猿よ。もう気にすることないったら。それだけのことじゃない」「あなたって、こういうことをいとも簡単にうっちゃってしまうのね、ジェイン。それ以上の意味があるにちがいありません。あれは異常です。何か意味があるんです」「そんなことないったら、お母さん。それ以上の意味はないんです。わたしのいった意味以上は」

 

 ダイナーの裏に潜む「毛むくじゃらの男」。あるいは、郵便受けに出現した「あの猿みたいな手」。本書『やってくる』の第1章で紹介される、オペラのような美声で「ムールラー」と歌う男性の声をめぐる幻聴のエピソードを読み直していた時、不意に私の脳裏によぎったのが、幻覚をめぐるこの2つのシーンだった。かつて10 年以上前に関心を抱いていたものの、その後全く思い出すことすらなかったこれらのイメージが、突如として「やってきた」のだ。この2つの例はそれぞれ、本書の言葉でいえば、ダンとジェインの母にとって「知覚できないものに対する圧倒的な恐怖」を喚起したと考えられる。

 

「前縁の神」と「境界の神」

 

 郡司は第7章で、そうした人間の理解を超えた対象を、「原始的な神」あるいは「前縁(フロンティア)の神」と呼んでいる。彼によれば、「こちら側とあちら側の両方を知っていて、その間に引かれる線を意味する」境界(バウンダリー)に対して、前縁は「こちら側しかわからない」限界を指すとされる。前縁は、「地平線や水平線のように」、「その向こう側は 存在するかどうかさえ確信できない」ものであり、だから認識や思考の限界は前縁であるのだという。この区分をもとに彼は、「原始的な神がどのように形成されてくるかを想像する」ことで、「(うかが)い知れない外部に対する圧倒的な恐怖が、どのように捉えられ、出現してくるのか」を考えようとする。

 

「原始的な神は、こちら側とあちら側が断絶しながら接続しているからこそ、 生まれ得る」。この、前縁の向こう側に形成される「知覚できなくとも存在する」神である「前縁の神」は、人間に無関心で、人間と無関係にやってくる不条理なものであり、その意味で「向こう側として感じられる死」と一致するものとされる。それに対して、「恐怖の対象」であり「畏怖すべきもの」でもある「前縁の神」に、安心感や安堵感を持ち込む」方法として郡司があげているのが、「境界の導入」である。

 

 改めて思い返せば、その頃の私は最初に紹介した2つの場面を比較することで、「前縁の 神」がもたらす恐怖といかに向き合うかについて考えていたのだろう。リンチ映画のダンのように恐怖に押しつぶされないためには、バーセルミがそうしたように、「やってくる」対象にどうしても意味を見出してしまう人間のあり方を()(かん)して笑い飛ばすしかない。

 

 当時の私が至ったこの暫定的な結論は、本書の言葉で言い換えれば、「知覚できない向こう側」である「前縁の神」を「目に見える向こう」である「境界の神」へと置き換える、物象化の作用をめぐるものであったように思われる。「猿なら猿でいいじゃない」として知覚できないものを受け入れようとするバーセルミのユーモアが、例えば『幻聴妄想かるた』(医学書院、2011年)などを思わせる形で「やってく る」異物を物象化することで、「猿みたいな手」は不条理な恐ろしいものではなくなる。しかし、郡司も強調する通り「原理的に前縁の神でしかないわたしの死は境界の神に置き換えることで理解されることはない」。その時の自分には、「毛むくじゃらな男」や「猿みたいな手」をそのまま受け入れ、理解する方法はわからなかった。つまり、決して経験できない「わたしの死」と結びついた恐怖の対象は、決して消えることはなかったのだ。

 

ダサカッコワルイの極、『レディ・イン・ザ・ウォーター』

 

 バーセルミをめぐる卒業論文を書き終えたものの、前年に就職活動を全くしていなかったことから留年生となった私は、春に就職先を決めると、釈然としない思いをかかえたまま、その後1年近く大学にもバイトにもあまり行かず「考え、やきもきして、焦って、諦めて、ぼんやりして」いた。もしかすると、この時期に私のなかでも「無意識のうちに、認識することと感じられることの間は違和感を帯び、通常当たり前のように感じられるリアリティは失われ、何かを呼び寄せる準備だけが着々と整えられていた」のかもしれない。自らに「ムールラー」が聞こえた理由をこのように振り返る郡司は、その経験を幽霊やUFOを見る経験と並べて、「外部を呼び込んだ」事例として解釈しているが、偶然にも、その頃の私に 外部から「やってきた」のもまた、幽霊や宇宙人を見てしまった人物を描いた映画作品であった。

 

 幽霊をめぐる『シックス・センス』(1999年)や、宇宙人とある家族の闘いを描いた『サイン』(2002年)で若くして成功を収めた M・ナイト・シャマラン監督の映画は、いずれも「やってくる」サイン=兆候を受け入れることで、喪失をかかえた主人公が再び何かを信じる力を取り戻す物語を描いていた。なかでも、本書終盤の記述を読んで私がすぐに想起したのが、『レディ・イ ン・ ザ・ウォーター』(2006年)だ。おそらく、批評家にも観客にも酷評されたこの作品こそ、「前縁の神」と「境界の神」をめぐるジレンマに突破口を開く、「動物とも人間の世界とも違う、より大きな世界の圧倒的力を受け取る者」であるワイルドマン=カブトムシの存在を最もはっきりと描いた、郡司の言葉でいう「ダサカッコワルイ」映画だったのではないか。

 

                *

物語の舞台は多様な住人が暮らすアパート。主人公で管理人のクリーヴランドはある夜、中庭のプールから出てきた少女ストーリーを発見する。彼女は、自らがブルー・ワールドという別世界からある目的のためにやってきた海の精「ナーフ」であり、目的を果たしたのちに元の世界に戻らなければならないと告げる。しかし、アパートの中庭には、ナーフを襲おうとする怪物スクラントが待ち伏せしていた。もともとは住人たちに対して心を閉ざしていたクリーヴランドは、彼女の出現を機に、住人たちと協力して彼女の目的を達成させ、元の世界へと送り帰そうと奮闘する。

 

 まず重要なのは、ストーリーや木の上に住み異世界の正義を守る獣タートゥティックといったキャラクターが、前縁の向こう側に位置する異界であるブルー・ワールドと、アパートが属する人間の世界を媒介するわけではないという事実だろう。この映画には、ブルー・ワールドの様子が映し出されることは決してない。彼女たちは、本書でワイルドマンについて語られる通り、「むしろその二つの世界の間を象徴的に開き、人間世界や生命の全体のさらに外側にある力を呼び込む存在」であるように思える。

 

アパートの住人たちに何がやってきたのか

 

 そしてさらに興味深いのは、ストーリーがアパートへと「やってきた」目的と、彼女が元の世界へと帰る方法を、住人たちが協力して探ろうとする過程だ。アパートの住人たちは、プールの底とつながっていると思しき、「知覚できない向こう側」に位置する異世界であるブルー・ワールドを決して目にすることができない。にもかかわらず、彼らのほとんどは突如アパートに「やってきた」ストーリーによる、自分は海の精「ナーフ」であるという荒唐無稽な主張を疑うことはない。

 

 さらに彼らはなぜか、何の裏づけもないそれぞれの住人たちが持ち出す推理もまた、一切疑わずに信じ込んでいる。はじめクリーヴランドは、さまざまな住人がそれぞれに語る物語を信じ、それらを頼りに彼女の目的に関する仮説を組み立てていくのだが、「通訳者」や「癒し手」、「守護者」、「ギルド」などと呼ばれ、それぞれ物語のなかで重要な役割を果たす人物たちが誰なのかをめぐる仮説は、いずれも後に否定されることとなる。

 

 住人たちの仮説やストーリーの残す予言といった、本作の中盤までに登場するあらゆる疑問に対する解答は、郡司がパトカーの写真を示したTさんに「これなんだ?」と問われた際の答えであった「カブトムシ」と同様に、いずれも少しずつ間違っていた。しかし、この映画では、新たな解釈(答え)が付け加えられるごとに、そもそものゲームの規則(問い)もまた書き換えられていく。それらは郡司が対話におけるワイルドマン=カブトムシの特徴とした、「相手の言葉を引き取り、何かを限定して答えになるのと同時に、質問として開かれている言葉」でもあった。

 

 実のところ、「かつ」と「または」を混同する、コンピューターのバグ(≒「カブトムシ」) を思わせるそれらのずれは、住民たちの間で繰り返し受け渡されることで有意味な言葉となり、やがて「答えでありながら同時に意図の読めない問い」として、「意味の限定と意味の解放の間」、あるいは「理解を召喚するずれ=スキマ=ギャップ」を開いたと考えられるのだ。ストーリーがやってきてそこへと帰っていくブルー・ワールド、すなわちプールの底の向こう側は決してわからない。「にもかかわらず、決して知覚できない向こう側の存在が、確信できるようになる」。

 

 例えば、自らが「守護者」であるというクリーヴランドの見立ては誤りであったが、実際には彼には別の役割が与えられていた。次々に変更される解釈を再び信じようとする、明らかに常軌を逸した住人たちの姿勢に打たれ、数少ない懐疑派の住人もついには皆と同じ物語を信じるに至る。アパートの住人たちは、恐怖の対象として「毛むくじゃらな男」や「猿みたいな手」を恐れる態度とは逆に、「境界を通して理解される前縁の向こう側」に「ストーリー」が存在することを信じる。最終的に住人たちが辿り着く正しい役割の解釈は、複数回の誤りを経ることで初めて「他でもあり得たにもかかわらず、それしかない」ものとして立ち現れる。つまり、「他でもあり得たことへの気づき」によってこそ、我々は「関係自体が固定できず、関係を指定する文脈がたえず逸脱し、本質的に動的であることに気づかされる」。

 

「ストーリー」を受け入れる――徹底した受動性へ

 

 郡司は本書の最後で、こうした気づきを経て「初めて私たちは、外部に対して徹底して受動的になれる」と強調する。『レディ・イン・ザ・ウォーター』の末尾、ストーリーが消えた後にブルー・ワールドへと通じるプールの水面を見つめるアパートの住人たちの姿は、映画館のスクリーンを見つめる観客の姿勢を強く想起させるが、ここでの水面≒スクリーンもまた、1つの境界として機能しているように思われる。「境界(スクリーン)を通して理解される前縁の向こう側」が同時にその逸脱でもあること。スクリーンに映し出されるイメージや「ストーリー」(=物語)が予想された文脈からずれ続ける様子に目を凝らしてきた私を含むこの映画の観客たちもまた、そのことに気づくことで外部から「やってくる」理解を待ち受ける徹底した受動性を獲得し、少女ストーリーと彼女をめぐる「ストーリー」を信じることができるようになる。

 

 初めてこの映画を観た時に、こうしたことを意識していたわけではもちろんなかった。しかし振り返ってみれば、その後幾度となくこの映画を観直すごとに私が涙してきたのは、外部から「やってきた」「ストーリー」をそのままに受け入れて信じるまでの徹底して受動的な過程を、そのたびに繰り返し経験してきたからだったのかもしれない。

(『やってくる』を読んで「やってきた」もの――書論『やってくる』 了)

 

 

(『精神看護』2021年9月号より転載)

 

 文字通り、(むさぼ)るように読んでしまった。こんな不思議な読書は初めてである。ものすごくわかるところと全然わからないところが(まだら)に入り交じっている。生まれ育った1970年代の東京八王子の田舎とM78星雲みたいな異世界が混在しているような感じとでも言おうか。共感と刺激。安心と冒険。ノスタルジーとエキゾチスム。交感神経と副交感神経。この相反する2つの要素は人間にとって必須だから、両方がほどよく混ざっている本書は私にとって一種、理想の世界であった。

 

 著者の横道誠さんはASD(自閉スペクトラム症)とADHD(注意欠陥・多動症)を合わせ持つ強豪である。そして、2年ほど前に気づいたのだが、私は非常にADHDが色濃い。というより、診断こそ受けていないが間違いなくADHDだろう。本書に掲載されているアメリカ精神医学会の『精神疾患の診断・統計マニュアル第5版』(DSM-5)を見てもほとんどが当てはまり、横道さん同様、暗澹(あんたん)たる気持ちになる。

 

自分手品師のADHDな日々

 

 まず、とにかく忘れっぽい。そう言うと定型発達者は「そんなの誰にでもあるよ」と言うのだが、横道さんや私の場合は「忘れることがデフォルト(初期設定)」なのである。ゴミ袋だろうがタマゴだろうが、メモしないかぎり永遠に買うことができない。買い物メモを作ってスーパーに行こうとしても、メモを持っていくのを忘れてしまうのもしょっちゅうだ。買い物メモに10項目があったとして、10個全部買えることはめったにない。スーパーの店内で赤ペンでチェックしているにもかかわらずだ。もし全部買えたら「パーフェクト!」と喜んでしまい、その気の緩みが帰宅後の別の物忘れにつながったりする。

 

 モノをなくすのも日常茶飯事。先週は銀行通帳をなくした。正確に言えば、先週通帳が必要になって探したら見つからなかったのである。 紛失したのはその日かもしれないし半年前かもしれない。間違えて捨ててしまったのかもしれないし、どこか書類の中に紛れ込んでいるのかもしれない。すべてが藪の中である。

 

 もし私が京都に住んでいたならぜひとも横道さんの主催する自助グループに参加させていただきたかった。その際、私のコードネームは「自分手品師」にしたい。本当によく起こり、 毎回驚くのだが、今さっき、10秒前まで手にしていたものが忽然と消えてしまい、どこにも見当たらないのである。まさにマジック、まさに自分手品。タネも仕掛けもない。というか見つからない。

 

 先日は古紙回収用に古雑誌を紐で束ねようと、自分のデスクからハサミを持ちだして古雑誌置き場に向かったはいいが、そのたった数メートル、時間にして十数秒ほどの間に、手にしていたハサミが消えていた。唖然である。妻に「俺が今の今まで持っていたハサミ、知らない?」と聞いたら「あたしが知るわけないでしょ!」と言われた。そうだよなあ。ハサミは数日後、たんすの靴下コーナーの中から発見された。あくまで推測だが、古紙回収作業の直前、急に靴下がはきたくなって引き出しを開け、邪魔なハサミをそこに放りだしてそのまま引き出しを閉めてしまったのではないか。途中で靴下をはいた記憶が抜け落ちているようだ。

 

命をかけた夢想

 

 また、横道さんほどひどくはないが、私も不断に「夢想(と名づけている)」にとらわれている。それは時に原稿のネタになりそうなアイデアだったりもするが、たいていはどうでもいい過去の失敗の記憶(3年前ある人に失礼なことを言ってしまったとか)や、目の前に世界にただ反応した感想など(トヨタ・レクサスのLはなぜいつ見ても三菱ランサーを思い出させるのかとか)である。そして、その夢想がそれまでの思考や行動を分断してしまうので、生活上の障害となる。

 

 例えば、今は6月であるが、こんなことが起きる。用があって午前中の早い時間に家を出て歩いていたら、風が思いのほか涼しい。「秋風みたいだ」と思った瞬間、今が11月であるという想いに襲われた。「もう暮れか、今年も早かったな」とか「いつも1年が早いが年々早くなる。人生における1年が相対的に短くなっているせいだな」などと考えているうち、Tシャツ姿の通行人などを見て「いや、今は11月じゃない!」と我に返るのはいいが、「あれ、俺、今どこへ向かっていたんだっけ?」とそれまでのことを何もかも忘れている。場合によっては今自分がどこにいるかも一瞬わからなくなり、認知症の人の気持ちが理解できてしまう。

 

 夢想はとても危険である。私は早大探検部に所属しアフリカやアマゾンに通っている頃から、「自分が死ぬ時、死因は感染症でも犯罪・テロでもなく、単なる不注意に違いない」と思っていた。なにしろ、常時ぼんやりしている。よく青信号なのに赤信号と間違えて止まって待つことがある。そして信号が赤に変わると反射的に歩き出し、車に()かれそうになる。日本にいても日々その繰り返しだ。

 

 最近最も危険な夢想は――なんとも皮肉なことに――ADHD についてのあれこれだ。学生時代からの親しい友だちが診断を受けたADHD者であり、私にいろいろと先達として ADHDの知識を教えてくれる。彼とADHDの話をするのは自助グループの集会みたいなもので異常に盛り上がる。彼のケースと私のケースはおおむね重なっているが、ずれているところも多々あり、「ADHDとは何か」を考えるのがすごく面白くなってしまった。

 

 ところがADHD系夢想の没入感はハンパなものでなく、いったんそれを考え出すと、他のことが何も手につかなくなる。いつでもどこでも脳内で始まってしまい、抑制の方法がないという意味では、酒や麻薬よりタチが悪い。なぜ、ADHD者にとってADHDがそれほど夢中になれるネタなのだろうか。その辺も研究してみたいが、なにしろ危険なので二の足を踏んでいる。

 

地図が読めない冒険者たち

 

 その他、マルチタスクが苦手であること。苦手であるのに同時にいろいろなことに手を出すこと。極端な方向音痴であること。レシピやマニュアル、地図が全然読めないこと。主夫なのに料理の段取りが極度に苦手なこと。雑談が不得手なこと(何か1つテーマを決めて集中的に雑談したいとよく思う)。アルコールでもドラッグでも依存しやすい体質であること。何にでもムダにエネルギーを消費するのですぐ疲れてしまうこと。自分で考えて自分ツッコミする癖があること。40 歳ぐらいでようやく歯が磨けるようになり、54 歳で部屋が片づけられるようになるなど「発達障害も発達する(ただし異常に遅い!)」という真理に驚いていること。というように、横道さんがかかえるADHD者としての悩みを私はほぼすべて共有している。

 

 もっとも、悪いことばかりではなくて、取材する時や原稿を書く時にわりとたやすく「ゾーン」(過集中状態)に入れるとか、コレクター性癖のおかげで言語マニアであることなどは、横道さん同様、仕事の役に立っている。というか、そういうポジティブな側面が若干あるので、私たちはこの定型発達者が支配する世界でなんとかサバイブできているのだろう。

 

 それから本書を読んで初めて知ったのだが、ADHDは「冒険主義的」だという。私が小心者のくせに冒険的なのも実はADHDのせいだったのか。そう言えば、日本を代表する冒険家・作家である角幡唯介(私の早大探検部の後輩)も「極端な方向音痴で、ひじょうに忘れっぽく、人の話を聞いていると上の空になり、持ち物をすぐなくす」と言っているので、やはりADHDなのかもしれない。

 

 では、なぜ ADHD は冒険的なのか、そしてそんな不注意な脳の持ち主になぜ冒険や探検ができるのか。その辺は今後、じっくり調べてみたいが、なにしろ危険が伴うので……(以下略)。

 

ASD、この美しき異世界

 

 さて、ここまでが共感部分であるが、横道さんは ADHD 者よりADS者の素養がはるかに勝っているようだ。そしてその部分は私にとっては完全に未知の領域である。

 

 まず本書の統一テーマである「水の中」という感覚は全くわからない。ふだん、水のフィルターに覆われたような不快感を持っているのに、本物の水は大好きというのは一体どういうことなのだろうか。私は十数年前から水泳を始め、今も週に3回ぐらいは2000メートルほど泳いでいるので、水中世界は日常の範疇なのだが、水の中が気持ちいいと思うことはめったにない。泳ぐことも腰痛防止や体力増進のためにやっているだけで、別に好きではない。だからなおさら横道さんらASDの人たちの感性には驚かされる。

 

 ASDの人たちはADHD者よりはるかに生きていく上で苦難が多いと察せられるが、彼らの感性や世界観は美しい。

 

 横道さんは、もし生まれ変わったら「うるおう水際のシダ植物になりたいと答える」と書いている。雌雄両性を備え、ワラビのように先端をくるくると楽しく巻きながら生き、通りすがりの野良ヤギにむさぼり食われて、一生を終えたいという。

 

 ADS者は「蛍光色に陶酔を誘われる」「魔法の世界に住んでいる」「光や砂や水に愛着を感じる」「肉体の桎梏(しっこく)を自覚し、そこから解きはなたれようともがいている」「現実がつねに夢に浸されているような体感」などと表現する。 多くの場合、それらは苦しみなのだが、でも極めて文学的でありファンタジックである。また、自分を「地球に生まれた異星人みたいなもの」と思う人も多いらしい。

 

 ASDの世界はSF的なのである。 だからASDの人の書く本は異世界感に満ちており面 白い。私は「発達障害」という概念が世間に広まるよりずっと前から泉流星さんの『僕の妻はエイリアン――「高機能自閉症」との不思議な結婚生活』や、ニキ・リンコさんの『俺ルール!――自閉は急に止まれない』などを愛読してきた。そこには私を魅了する「未知の世界」があった。しかもそんじょそこらのSFよりも明晰な論理構成と美しい感受性に彩られた世界である。

 

 素直に羨ましいと思う。(ひるがえ)ってADHDは至って「落語的」である。横道さんも少し書いていることだが、ADHD者の先輩である友人によれば「ADHD 者が書いた当事者研究の本は1冊もない」という。あってもマンガだそうだ。他はみな、ADHD者がどうすれば生きやすくなるかというノウハウあるいはライフハック本らしい。

 

 無理もない。ADHD者の話はくだらない。 通帳が見つからないだとか自分手品だとか、ツイッターで「菅政権はどうかしている」を「須賀政権はどうかしている」と書き間違えて恥を書いたとか(あくまで例。こんなツイートしたことはない)、そんな卑近で低レベルなネタのオンパレードである。稀に、自分と妻の全財産をなくしそうになったという壮大な失敗未遂談もあるが(この話は長いのでいつか別の機会にしよう)、たいていは5分か10分で終わる。とても本など書けたものでない。

 

 実際に落語を聴いていると、自分によく似た人が出てくる。相手を間違えてしゃべってしまう人とか、訪ねる家を間違えている人とか、勘違いで激怒している人とか。そういう時は正直言って笑えない。いやあ、そういうことって普通にありそうじゃんと思ってしまうし、そもそもせっかちで喧嘩っぱやいという江戸っ子の典型自体がADHDじゃないかなどという夢想に浸ってしまい、落語の続きが耳に入ってこなくなるからでもある。

 

 ASDはSF的でADHDは落語的。そうツイートしたら、横道さんから「そうです。私は落語的に生きる異星人なんです」というようなリプライをいただいた(横道さんの正確なリプは不明。保存しておいたはずなのにどこかへ消えてしまったから)。

 

コクーン文学者としての村上&大江

 

 本書で最も驚いたのはASDと文学・芸術の関係についてである。

 

 横道さんはこう書く。「文学と芸術は、混沌とした宇宙に明晰さを与えるものにほかならない」。

 

 いや、私は文学をそんなふうに考えたことは一度もなかった。そういう評論やエッセイも見たことがない。文学や芸術には孤独な人やマイノリティに希望や共感を与える機能があるとは思っていたし、そういう意味で私もそれらを愛好していた側面がある。でも「宇宙に明晰さを与える」とは。

 

 もっと具体的には、村上春樹と大江健三郎についての言及に心底驚いた。

 

 私は村上作品を長らく愛読していたが10年ぐらい前からあまりに同じ世界観、あまりに同じような登場人物、あまりに同じような会話に辟易(へきえき)し、長篇からはすっかり離れてしまった(短篇は今でも好きな作品が多い)。村上作品はすっぽりと包まれたような心地よさがある。逆に言えば、「絶対自分のセーフティゾーンから出ない」という強い保守性も感じられる。私の知人は村上作品を「コクーン((まゆ))文学」と呼んでいるし、その凝り固まった内向きの嗜好を批判する人は多い。

 

 でも横道さんが村上作品の執拗な繰り返しをすごく好んでいることを本書で知り、「あー、 村上作品はASD文学だったのか」と目から鱗であった。考えてみれば、コクーン文学とは世界から自分を守ることを第一義とするのだろうし、もしASD文学と考えるなら批判しても仕方がないではないか。村上作品はそれを好きな人だけが読めばよくて、好きじゃない人は読まなきゃいいだけではないか。村上さんはエンドレスに自分の世界観を紡ぎ続ければよく、愛読者はずっと癒やされていればいい。外野があれこれ言う必要はない。

 

 大江健三郎についても同様だ。実は私は大江作品が好きではない。あまりに「文学的なポーズをとりすぎている」と感じられるし、言い回しが難しすぎる。昔、大江氏が新聞か雑誌のインタビューで「私は最初に書いたものを次にわざと難しく書き直す」というようなことを述べていた。それを読んでますます嫌いになった。読者を遠ざけ、難解に見せることが文学だというのは間違った姿勢だと思ったからである。

 

 だが、横道さんは大江作品にも大いなる共感を示している。そこで気づいたのだが、「わざと難解に見せて読者を遠ざける」とは、それもまた「コクーン文学」なのではないのか? 難解さは他者から自分の世界観を守る繭だと考えれば辻褄は合う。となれば、大江作品を見る目もガラリと変わる。ASD文学なら間違っているかどうかなどナンセンスである。「難解さ」という殻を時間をかけて解きほどくことによって、中に(したた)る果実を著者と共有できるという仕組みなのかもしれない。

 

辺境ノンフィクションはメタ当事者研究だったのか!?

 

 ……などと、さんざん他人の作品を俎上に挙げて言いたい放題であったが、自分は一体どうなのであろうか。私だって自分が好きなものしか書いていない。

 

 例えば、今で言うと、ミャンマーの反クーデター運動に共感を抱き、支援活動も行っているが、かといって、日本の政財界がミャンマーの軍と不適切すぎる癒着関係になっていることを追及するノンフィクションなど絶対に書きたくない。「(けが)らわしい」と思ってしまう。個人的には追及に参加しても、誰か別の人に書いてほしい。そんなものを自分の作品のラインナップに入れたくないのである。そういう意味では私もまた、自分の世界観を維持することに汲々としており、コクーン的なノンフィクションと呼ばれても仕方ないのかもしれない。

 

 最後に、もっと大事なことを告白したい。本書で私が驚いた「文学と芸術は混沌とした宇宙に明晰さを与える」という横道さんの考えだが、実を言えば、私は自分が文章を書く時にそれを感じていた。不注意と多動であるだけに私の日常は混沌としている。脳内も同様だ。だからこそ混沌とした脳内情報を整理して明晰にしたいという思いは人一倍強い。いくら口で喋っても混沌はひどくなるいっぽうだが、時間をかけて書いていくと不思議なことに明晰な世界を形作ることができる。

 

 さらに、こうも考えてしまう。アジアやアフリカなど辺境世界の未知の地域や謎を解明したいという私の異常なほどの欲求も、自分の世界が混沌としているからこそ生まれるものなのではないか。もしかすると私の辺境ノンフィクションも当事者研究の一種ではないかとも思えてくる。現地の状況を解き明かしつつ、それを解き明かす自分の脳内も解き明かすというメタ当事者研究である。

 

 この仮説(というか夢想)をもっと掘り下げてみたいと思うが、同時に危険極まりない夢想でもあり、今後いっそうの注意警戒を払いながら、研究していきたいと思ったのである。

(ASDはSF的、ADHDは落語的。――書論『みんな水の中』 了)

 

妻と娘とおばあちゃんと

 リハビリ病院への転院は、わたしが命の危機を脱したことを意味します。治療のステージは一歩先に進んだのです。そんなとき、家にいる妻と二人の子どもたちはどんな思いだったのでしょう。命の危機を脱したのだから、安心していたのでしょうか。それとも、また別の心配ごとが押し寄せていたのでしょうか。

 

 急性期に入院したとき(第3回  リハビリ前奏曲)と同じように、ここからは妻に聞いた話をもとに書きます。

 

 上の男の子は6歳で小学校1年生、下の女の子はまだ2歳でした。妻は看護師ですが、子どもを産み、育てる間は休職していました。下の子が幼稚園に入って、時間に余裕ができれば復職するつもりだったのです。そんなとき、運の悪いことに、夫が脳塞栓症にかかってしまいました。まだ何かと手のかかる子どもの世話だけでも大変なのに、右半身のまひした夫を抱えて、妻は途方に暮れていました。本来ならば、夫は今が働き盛りのはずです。

 
 
 

ーーお父さんが命を取り留めたのは不幸中の幸いだった、そう考えるべきなんだろうなあ。でもそれは、裏を返せば、 家族全員の生活について、私がひとりで責任を負うことだ。

 

 

 

 男の子は小学校に通い始めましたから、半日は学校に行っています。でも女の子はまだ2歳です。元来であればお母さんに甘えたい盛りです。好きなだけ甘えさせてやりたい。まだ、公園デビューもしていません。一方で夫は篠山の病院で妻が来るのを今か今かと待っています。妻は思い悩みましたが、子どもを一次託児所に預け、夫に会いに行くしかないと思い定めました。

 

 

ーー朝、子どもを預けに行くと、下の子は私と離れるのは嫌だと言ってぐずる。託児所の職員は、皆、親切だったから、何も問題なかったけど、ただ、子どもは私と別れることがかなり嫌だったみたい。

 

ーー同い歳くらいの子どものいるAさんは、最初の入院のときと同じように何かと助けてくれた。託児所が利用できないとき、家で預かってくれたりもして。下の子は、少し年長のお姉ちゃんのいるその家が気に入っていたみたい。そのお姉ちゃんは、うちの子のことを、新しくできた妹のように可愛がってくれたよ。

 

 

 それでも、どうしようもないときは、子どもたちだけで留守番させることもあったようです。当時はマンションに住んでいたので、ベランダで遊んでいて転落するのではないだろうかとか、近所の部屋から火事が出たらどうしようとか、子どもだけで留守番をしていると知れて、不審者が部屋に入り込むのではないかとか、心配し始めたら切りがありません。

 

 

ーー胸騒ぎがする日はさっさと用事を済ませて飛んで帰っていた。気が急いてしかたがなくて。やっとの思いで帰り着くと、子どもたちは何事もなかったように笑いかけ、甘えてくる。

 

ーー最初の入院のときは、お父さんが明日、生きていないかもしれないという恐ろしさがあった。それが心の重しになって、心の底から笑うことができなかった。でもこの頃は、家族の生活が私ひとりの肩にかかっているのだから精神的な負担は大きいけど、それでも子どもの笑顔に誘われて、いっしょに笑うことができるようになった。

 

 

 一方、夫であるわたしはというと、そんなことは何も気付かないとでもいうように、呑気に妻が来るのをベッドで待っていたのです。妻は、そのときのことを思い出すと腹が立ってくると言っています。

 

 妻は子どもの笑顔が心の支えだったと言っていますが、それでも誰かに助けてもらいたいときがありました。妻は父母をすでに亡くしています。そんなとき、思いあまって、遠くの郷里に住む伯母に電話をかけました。伯母は妻の窮状を聴いて、何とかしてやらねばと思いました。

 

 けれど伯母は、けっこうな高齢です。ひとりで電車に乗ることも心配です。どうするべきなのか、郷里の親戚が集まって相談をしました。そして、子守ぐらいしてやるという伯母の意思を尊重して、ここは伯母に行ってもらおう。でもひとりで電車には乗せられないので、誰かが車で送っていき、帰るときにはまた車で迎えにいくということになりました。

 

 こうしてはるばる鳥取から、おばあちゃんが来てくれました。下の女の子は託児所に行かなくてよくなりました。その上、一日中、おばあちゃんがいてくれます。これで妻は安心して外出ができるようになったはず……

 

 ですが、女の子にとっては、やはり母親とおばあちゃんとでは何かが違うのでしょう。これはいやだ、あれは嫌いだと、わがままを言い出しました。悲しくなったおばあちゃんは、そんなに言うなら、もう鳥取に帰るけど、それでもいいかと聞いたとき、女の子は血相を変え

 

「帰っちゃだめ!」

 

と答えたそうです。

 

 

 伯母が郷里に帰るとき、旦那さん、つまりわたしにもひと目会ってから帰りたいと、運転してくれる親戚の男性といっしょに、篠山まで、わざわざ会いに来てくれました。

 

 そのとき伯母は、「雅純さんは大丈夫だで。目の細うなる笑い顔が前と同じだが。何も変わっとらあへんで」と言ってくれたそうです。

 

 妻同様に伯母も看護師資格を持ち、しかも長く行政保健師として勤めていたので、脳梗塞や脳内出血の後遺症のこともよく知っていたのです。

 

 

■よいことだってきっとある

 

 話は変わります。私が入院している病院の近く、篠山の商店街のことです。

 

 見舞いを終えて妻がマンションに帰るときは、まず病院の近くの商店街からバスに乗ります。わたしは、まだしっかりはしていないのですが、それでも立って歩けるまでには回復していたので、バス停まで見送りに行きました。

 

 バスの発着は30分に1本ぐらいだったでしょうか。たいていは少し待たなければ乗れません。そんなときは観光客用の土産物屋を覗いたり、季節にだけ店を開ける焼き栗の屋台を覗いたりして時間を過ごしました。大きな栗は篠山の名物です。

 

 遅い夏から秋にかけては黒豆(黒大豆)が人気です。若い黒豆の枝豆は、他の大豆よりも粒が大きくて柔らかいのです。その枝豆は、大きな株を小さめに縛って(それでも十分大きい)、民家の庭先や車庫の床に並べて売られていました。それを観光客が、三々五々買い求めます。

 

 妻は、いつの間にか見つけていたリサイクル・ショップを覗くのが習慣になっていました。別に何か欲しいものがあるわけではないのです。わたしが見たところ、経営者の上品な奥さんも、そんなお客の相手をすることそのものが楽しいといった雰囲気でした。

 

 いつしかその店の奥さんと仲良くなった妻は、わたしがリハビリ病院に入院していることや子どものことを話したそうです。その店の奥さんは、誰しも大変なときというのはあるのよと言いました。実は、その奥さんのご家族が、何人か続けて病気になり、あの家には何か祟(たた)りでもあるんじゃないかと近所の人の噂になったことがあったそうです。

 

「でも、いいこともあるのよ」

 

 そうしている内にバスがやって来ます。今日は、これでお別れです。こうして日びが過ぎていきました。

 

 

■子どもたちが得た財産

 

 子どもたちの心に、わたしの入院は、有形無形の財産となったのでしょうか。今回の最後は、妻に伝えられたことも含めて、わたしが退院してからのことを書きます。

 

 上の男の子は、わたしが元気に走る姿をかろうじて覚えています。それでも入院してからは、リハビリテーションに励む姿と、ぐったりと疲れはてた姿、そして机に向かう姿しか知りません。

 

 子どもは無邪気です。子どもが残酷だという人もいますが――そういう一面があるのは事実ですが――、無邪気か残酷かというのは、おとなの解釈しだいです。男の子は、わたしが積み木をまひした手で握り、そのまま手を離して積み重ねる姿を見て、映画で見る海賊が、クレーン・ゲームの手で遊んでいるところを想像したようです。一枚の印象的な絵を描きました(図1)。わたしはこの絵を見せられて、思わず笑ってしまいました。

 

 

図1:父ちゃん ロボ・バージョン.JPG

図1 男の子の描いた「お父さんロボ・バージョン」

 

 

 また男の子はわたしが乗っていた車いすからも、何かインスピレーションを得たようです。プラスチック製の組み立てブロックで、ヘリコプターのようなプロペラの付いた車いすを作って遊んでいました(図2)。

 

 

図2:自動制御車いす.jpg

 

図2 男の子作の「頭上のプロペラで段差を越えていく車いす」

 

 

 車輪が通常の前進後退だけではなく、左右にも振れるように付いているそうです。頭上にはプロペラが付いているので、段差があっても飛び越えることができるということでした。すると女の子も真似をして「プロペラ付きのベビーカー」を作って遊んでいました(図3)。

 

 

図3:プロペラ付きのベビー・カー.JPG

 

図3 女の子作の「プロペラ付きのベビーカー」

 

 

 身体障害者用ではなく、赤ちゃん用のベビーカーです。こちらにも頭上にプロペラが付いています。赤ちゃんは座って乗るのではなく、寝転がっているのです。

 

 

 その2歳の女の子が、わたしや妻についてリハビリテーション用の体育館にやってくることがありました。子どもは感染の危険があるからなのでしょうか、病棟に入ることはできないのですが、体育館には入ることができました。わたしはすでに退院していたのですが、入院期間だけではリハビリテーションが完結しません。やり残したリハビリテーションに、退院した後も通っていたのです。特に言語リハビリは4年、5年とかかるものです。

 

 若い女性の作業療養士が多く働いていた一角には、子どもの玩具になりそうなものがそろっています。握力の訓練に使うプラスチック粘土とか、きれいな色紙とかです。その上、出会った人が、皆、笑いながら声を掛けてくれます。同じような子どものいる医師も優しい目になりました。女の子はたちまち機嫌がよくなり、貸してもらった玩具で遊んだり、紙をもらって、周りの人や家族の絵を描いて過ごしました(図4)。

 

 

 

図4:お父さんと大きくなった私.jpg
 

 

図4 女の子の描いた「お父さんと大きくなった私」。お父さんには髭が生え、私は「成長した」というより物理的に大きくなっている

 

 

 わたしがリハビリテーションをしている側で、平和な時間を過ごしていたのです。女の子にとっては、お父さんやお母さんといっしょにお出かけをしているといった感覚だったのでしょう。

 

 男の子も女の子も、わたしの入院で「車いす」とか「装具(そうぐ)」といった、普通の子どもは決して使わない言葉を憶えました。幼稚園や小学校に上がれば友達ができます。その時は子どもの関心に従って、それなりの言葉も憶えるのですが、でも、特に女の子は、お母さんがわたしのまひした腕にやっていた筋緊張をやわらげるマッサージを、見よう見まねでやってくれるようになりました。2歳児のマッサージです。効くわけがありません。でもそうしてやってくれるマッサージは、何にも増してわたしの活力となりました。

 

 このようなことのあれもこれもが、子どもたちの未来の糧となってくれたら、わたしは嬉しいのです。

 

 

図5:リハビリテーション02SEP-4.JPG

 

図5 マンションの廊下で歩く練習をしているわたし。妻が撮影

 

 

 

(三谷雅純 「ことばを失う」の人類学 わたしをフィールド・ワークする 第5回おわり)

 

←第4回はこちら

 

 

 やっとのことで転院が決まりました。

 

 最初に入院した病院の脳神経外科は、わたしのような脳血管疾患の患者だけでなく、交通事故で頭を打った人や認知症の人も一緒の部屋に入院していました。脳塞栓症の急性期にお世話になり、いのちを助けていただいた病院ですが、わたしには、あまりにごちゃごちゃしていて精神的に耐えられなくなっていました。こう言っては申し訳ないのですが、正直なところ、はやく逃げ出したい。

 

 わたしの頭には、まだ晴れない霧がかかっています。外から見ると、きっと表情の乏しい顔をしていたに違いありません。しゃべる言葉もよちよちなのでしょう。でも、わたし自身のイメージでは、かなり意識はしっかりしてきました。急性期は過ぎたようです。もう転院しても大丈夫です。

 

 入院中親しくなった患者の男性が、退院するときに玄関まで見送ってくれました。その男性は小脳にダメージを負ったと言っていました。またいつもマスクで顔を覆っていた若い女性看護師は、マスクを取って素顔であいさつをしてくれました。病院関係者は世話をするルーティンを外れるからなのか、転院する患者にはいつもより親切な気がしました。

 

■車は高速道路を走り次の病院へ

 

 妻がタクシーを手配してくれました。玄関を出たら車に乗るだけです。約一か月の入院になりました。

 

 タクシーは無言で走り出しました。病院のそばの市街地を少し走ってから、車は高速道路に乗ります。次の病院までは小一時間で着くはずです。

 

 新しく入院する病院は丹波篠山市(当時は篠山市)にある医科大学が経営するリハビリテーション専門の病院です。現在の診療はリハビリテーションに限らないようですが、当時はリハビリテーションが主だったように思います。あたりには田んぼも広がりますが、病院のそばには観光客用の商店街があります。観光客はさまざまな野菜を買い求め、抹茶やコーヒーを楽しみます。しかし、わたしがそのことを知るのは、ずっと先のことです。

 

 

篠山のまちかど_青山通り1.JPG

リハビリ病院近くの商店街の様子(当時)

 

 

リハビリに対する過剰な期待

 

 ここからは、この病院のことを医科大学の「リハビリ病院」と書きます。

 

 わたしや妻は、その「リハビリ病院」で施されるであろうリハビリテーション技術に、大きな期待を抱いていました。子ども時代に体育の教師に教わるのと同じように、身体の動かし方のコツやタイミングの取り方によって、できなかったことがたちまちにできるようになる、そんなイメージを抱いていました。

 

 もちろん本人の努力は必要です。そのことは分かっています。回復までに、相当の時間がかかることも知っています。しかし、最終的に発病前にできていたことは、リハビリによってできるに違いない。そう信じていました――ほんの少しだけ、そう都合よくはいかないかもしれないと疑う気持ちもありましたが。

 

 そして、作業療法、理学療法、言語療法のそれぞれが始まりました。

 

リハビリでわたしが感じた違和感

 

 作業療法や理学療法のリハビリは、患者が体育館のようなところに集まって行います。作業療法では、まひした右手を使って細かな作業をする訓練をしました。また理学療法では、まず平行棒を支えに使って歩く訓練をしました。言語療法は、療法士が出すヒントをもとに文房具や動物の名称を答える練習から始めたと思います。

 

 ここでわたしは、とんでもないことをやらかしてしまいます。

 

 その女性は両足が自由に動かせないようでした。若い女性患者が平行棒を伝って歩く練習をしていたのです。その様子を見てわたしは、声を上げて笑ったのです。自分で自分にびっくりしてしまいました。自分の中の理性が、何という態度を取るんだと責めています。しかし、笑いが収まる気配はありません。

 

 断じて申し上げておきます。一生懸命リハビリをしている人の姿を見て、声を上げて笑うなど、とんでもない行為です。それが常識にもとる行為であることは、当時も十分に分かっていたのです。しかし、笑ってしまった。その女性の姿に笑うべき要素などどこにもないのにです。

 

 わたしが笑うそばで、理学療養士の皆さんはもくもくと作業を続けています。迷惑ですらないようです。そして男性の理学療養士がわたしに「三谷さん」と声をかけ、次にやる訓練を指示しました。それはまったく自然な流れでした。わたし一人が(そして、ひょっとしたら「笑われた」女性も)、うろたえていただけかもしれません。

 

 しばらくして「笑いの暴発」は収まりました。

 

 作業療法では右手の親指と人差し指を自由に動かせるように訓練していました。訓練をして「思った通りに」とはいきませんでしたが、それでも、前日よりは今日が、今日よりは明日がというように、少しずつ成果は上がっていました。ですが、作業療法士の女性には物足りなく写ったのでしょう。訓練が始まって4週間後に「利き腕の交換をしましょう」と伝えられました。

 

 「利き腕の交換」というのは、利き腕側の半身がまひしたので、それまでサポートする側だった腕で、食事をしたり、字を書いたりを代行させることをいいます。わたしの場合は右手で字を書いたり箸を持ったりしていたので、これからはそれを左手で行うことになります。

 

 考えてみれば当たり前の対応です。その作業療法士の言葉も冷静に受け止めることができました。それがごく普通の対応だという思いがあったのです。

 

 しかし、悲しいと感じる感情もどこかにあったのかもしれません。あるいは、これまで経験のないことに対する不安があったでしょうか。わたしにもそれは奇妙な態度だと感じるのですが、ついに声を上げて泣き出してしまいました。

 

 これには側にいた作業療法士全員が驚いたようです。わたしに利き手交換を伝えてくれた作業療法士は、あわてて「作業療法士としてよりも友人として、三谷さんのために考える」「気に入らなかったかもしれないが、確実に右手の機能は上がっている」といったことをしゃべり続けます。何とかわたしを慰めようとしているのです。その場にいた多くの人は、気まずさに沈黙してしまいました。

 

 その日の日記には、「それにしても、また若い『友人』ができたものだ――○○さん(その作業療法士のこと)は、心根のやさしい、よい娘さんだと思う」と書いてありました。ただ、キーボードは左手で操作し、正確に入力して、この文章を書いたのでした。

 

 以降、いく人もの人が、私のこのトラブルに声をかけてくれます。利き腕の交換はしかたがないこととして、「さし当たっては」あきらめるようにと声をかけるのです。この時は何日もかけて情報が徐々に伝わっていくさまを実感しました。

 

 「病院」という特殊な世界でだけ通じる感覚と、わたしへの親切がないまぜになっています。若い言語聴覚士の男性は「自分が利き腕を変えないといけないなら、たぶん、どうしていいかわからない」と言いました。その方の正直な気持ちでしょう。

 

 今になって考えてみても、わたしが人の姿を見て笑ったり、突然、泣いたりしたことは、自分の自然な感情の流れを辿ってみると、どこか違和感があるのです。この違和感はどこから来るのでしょうか。

 

感情をめぐるフィールド・ワーク

 

 この感情が普通ではないと実感できたのは、今から何年か前、アマチュア・レスリングの女子選手が試合に負け、それを家で見ていたわたしがテレビの前で泣き出したときでした。

 

 常識的に考えれば「アマチュア・レスリングの女子選手が試合に負けた」というそれだけのことです。その選手が知り合いなら、残念だったねと声をかけるでしょう。でも、決して泣くようなことではありません。ましてや、わたしの娘でも何でもないのです。それなのに泣いてしまった。これは一体何事だろう。そういう疑問が胸に引っかかりました。

 

 感情を引き起こすきっかけはさまざまです。そしてきっかけは、レイヤーのように互いに重複しているようなのです。

 

 試合に負けたら、それは「悲しい」ことに違いない(誰にとって?)。理性的に判断すれば、わたしは一介の観客にすぎないのだから、感情移入する必要はないのです。そのことはよく分かっています。しかし、いったんタガが外れてしまうと、一気に感情が吹き出てしまいました。これを医療の現場では「感情失禁」と呼ぶそうです――はじめてこの言葉を知ったときは、思わず「尿失禁」や「便失禁」を連想して不愉快な気分になりました。「感情失禁」も意図せずに感情が漏れ出てしまうことですが、漏れ出た感情に引っ張られて、本当にそんな気分にもなるようです。

 

 その一方で、脳塞栓症になって、笑うこと、怒ること、泣くこと、つまり感情の区分けがよく分からなくなってしまったようなのです。感度が鈍ったというのが正しいのでしょうか。

 

 現在は素直な感情で笑えるようになりました。脳の中で、感情と理性、そしてわたしの行動が結びついて表れるようになったのです。それが普通の行動です。しかし、今でも怒ることや泣くことに、実際のところ、感度が鈍っているのだと感じることがあります。これは「死」が身近に迫っていて、「死」を恐ろしいことだとは感じなくなっていたことと関係があるのでしょうか。

 

 いずれにせよ、同時に複数の感情が存在することを感じるのです。ですが、どの感情が増幅するかは、わたしにも分かりません。他の高次脳機能障害者も同じかもしれません。そして、どれかの感情が異常に増幅して「暴発」してしまうのです。

 

 「笑うこと、怒ること、泣くこと」の中で、他人を見て不自然に「笑うこと」は、幸いにも今はありません。どなたかがリハビリをするたびにけらけら笑うのでは社会生活が送りにくくなります。

 

 また「怒ること」は、血縁者以外に向けることはありません。あるとすれば、よほどの場合です。息子や娘に向けては、度を超した怒り方をしたことが何度かあります――ごめんなさい。謝ります。妻に向けて怒ったこともあります――ごめんなさい。こちらも謝ります。でも、しょっちゅう怒っているのではありませんよ。

 

 そして「泣くこと」は、これは実は日常的にあるのです。たいていはテレビを見たり、本を読んだりしていてです。

 

 先ほど、脳塞栓症になって感情がよく分からなくなった、感度が鈍ったと書きましたが、発症から年数が経った今、振り返ってみると、最近は泣くには泣くだけの理由があって泣いていると感じることが多くなりました。発症後まもなくのように、レスリングの選手が負けたからといって泣くことはなくなりました。どちらかというと、高齢者になって「涙腺が緩んだ」といった類いのことだと思います。

 

 リハビリ病院での理学療養士の皆さんの対応は理にかなったものでした。一方、作業療法士の皆さんは、わたしに対して過剰に反応していたのではないかと思います。

 

 というのも、実は、わたしは右利きだったのではなく、生まれつき左も使える左右利きなのです。信じられないかもしれませんが、右利きでも、左利きでもない、左右利きの人がたまにいるのです。ですから本当は、利き腕交換にさほどのショックはなかったのです(わたしの左右利きの話は、また機会をみて書きます)。

 
 

(三谷雅純 「ことばを失う」の人類学 わたしをフィールド・ワークする 第4回おわり)

 

←第3回はこちら

 

2021年8月19日、東京・代官山 蔦屋書店にて、村上靖彦著『ケアとは何か』(中公新書)と宮地尚子著『環状島へようこそ』(日本評論社)の刊行記念オンライン・トークイベントが行われました。

ケアをめぐって、かつてない新しい論点が頻出したこのトーク。当「かんかん!」が再構成をして、前編《違う道からケアに近づく》と後編《ケアの焦点は「時間」》の2回に分けて掲載します。緊張感のなかにも温かい交流が感じられるおふたりのやりとりをお楽しみください。

(トーク掲載を快くご了承いただいた代官山 蔦屋書店様に深謝申し上げます🙇)。

 

【前編目次】

1 画期的な自前の理論――「環状島」

2 メタファーで考える――海、空、陸

3 証人としての著者――『ケアとは何か』

4 共感と何が違うのか――現象学への疑問

5 自分をどこに置くか――ジェンダーと巻き込まれ

 

 

6 待つ力が試される

 

村上「時間」というテーマがだんだんと宮地さんのなかで際立ち始めているような気がするんですが、いかがですか。しかもいろんなレベルで問題になっているのかなって。

 

宮地そうですね。村上さんの『交わらないリズム』(青土社)も時間の話ですよね。私も去年、共同通信で配信した12回のエッセイの連載で、「ずれる」や「逸(そ)れる」や「ゆれる」といった、いろんな“れる”がつく、でも受身や尊敬ではない言葉を使って書いたんです。身体や感情は人によってリズムが違うから、タイミングがとっても大事です。さっき「インタビューでは待たなきゃいけない」と話されましたけど、「待つ」ってすごく体力がいるんですよね。

 

村上そうですよね。

 

宮地待てなかったり、沈黙に耐えられない、間が持たないと、聞き手がつい喋っちゃって、本来ならそのあとに出て来るはずのものを聞けないということは非常に多いですね。

 あと、人が人と一緒にいるときってリズムが違っていて、どっちかがどっちかに合わせなきゃいけなかったりするわけです。どっちが合わせるかによって、力関係が変わっていく。一緒にいて安心ができる人っていうのは、自分のことを焦らせもしないし、かといって、待たせすぎもしないみたいな。

 その連載のエッセイにも書いたんですけど、「包容力」という言葉は空間的に理解されがちなんだけど、実は「包容力」っていうのは相手を待てる力だったり、なんとなく相手をうながしたりする力だったりするんですよ。時間をうまく相手と合わせつつ、つきあう力。それがいちばんよく表れるのは、危機的な状況のときです。

 

村上危機的というのは。

 

宮地たとえば家族が行方不明の状態にある方と寄り添っているときなどですね。その方は、早く新しい知らせが欲しいと焦りつつ、でも、いつどんな知らせが来るかわからない状態でずっと待たせられ続ける、とってもじれったい状況にあります。そういう時間にサイコロジカル・ファースト・エイドの人は寄り添うわけです。そういうじれてる人のそばにいて、ちょっとでも落ち着かせるというか、待つ時間をなんとか耐えられるようなものにする。「焦っちゃいけません」と言ったって、じれるのは仕方がないじゃないですか。そういう人と一緒にいられる能力とか、その人のテンポをちょっとだけ楽なように戻してあげるとか、そういうこともたぶん、人間と人間のあいだの調律としてあるのだろうなぁと思います。

 

村上今、宮地さんからお話しいただいた部分って、僕自身の今の関心とすごく重なります。一つは僕の場合だと人間関係もポリリズム、つまりリズムがずれたり合ったりずれたり合ったりっていう形でずっと見えていたので。だから医療現場もそういうふうに見えてくる。

 タイミングって、なにか変化する時なのかなって思うんです。いままでの複数の人のあいだのリズムの取り方が、あるタイミングをきっかけにしてガラッと変わるような瞬間というのがたぶんあって、医療とか福祉の場所にいるとそういうものに出会うことがあるんです。そこはすごく僕も面白いなぁと思っています。

 複数の人とのあいだと同時に、自分自身一人ひとりのなかにいろんなリズムがまずありますね。これは中井久夫先生がされてたことだと思うんですけど、自分のなかに生理的なリズムから、友人関係のリズムだったり、家族関係のリズムだったりとか、お仕事のリズムだったりとか、いろんなものが重なり合って、それがうまくいったりうまくいかなかったりする。それが人間なんだっていう感覚が中井先生にはあったんだろうなと思います。

 

宮地尚子.png

宮地尚子さん

 

 

7 時間を支配される

 

宮地あとね、身体的な暴力はなかったけどモラハラというか、精神的なDVを受けた被害者の方が言ってたこと、それがすごい印象に残っているんですね。その人は夫から「あなたは空気みたいな人だから」って言われたと。

 でもその女性が空気のような存在であるためにどれだけ自分を犠牲にしてきたのか。そしてそのことに、モラハラ夫のほうは気づいてないわけですよね。その女性が空気であることが当然のように何十年もやってきた。でも、彼女は、相手にとっての空気になるのがもう無理だと思って離れようとした。そのときに初めてそういう言葉が出てきたわけです。夫からすると妻が空気であることは当然であって、それは要するに夫が自分のタイミングでやりたいようにやっていて、それにすべて彼女が合わせていた。彼女のリズムはまったく尊重されてなかったっていうことなんです。

 DVについては、加害者が家の中のほとんどの場所を仕切ってるという空間的な理解もできるんだけど、誰が時間を支配しているのかっていう意味でも捉えられる。「何かが苦しいんだけど何が苦しいのかわからない」っていうときに、結構自分の時間が支配されていることが多いんです。たとえば、携帯でメッセージ送ったら、即返を常に要求されていたりとかね。それもある種の時間の支配じゃないですか。そういう意味でも、時間についてあらためて考える必要がありますね。

 でも時間についてあんまり良い理論がないというか、特に臨床に関して、時間について明示的に書いているものって、あんまりない感じがします。それこそ中井久夫さんや木村敏さんが書いているのはあるんだけど、もうちょっと身近に使いやすいものがあるといいなぁと。

 

村上DVで、片方の人のリズムが消えちゃうっていうのは僕はまったく知らなかった。そういうこともあるんだなって……。リズムってずれるだけじゃなくて、片方がなくっちゃうまでに不均衡になることもあるっていうのは知りませんでした。

 

 

8 「逸れる」の時空間

 

宮地時間の問題から、それこそ「ずれる」んだけど(笑)、さっき言ったエッセイ連載のなかで「逸れる」っていうのも書いたんですよ。回避することについて。タブー領域のテーマについては、逸れるじゃないですか。みんなその話はしないで、話題が出かけてもスルーして、気が付いたら逸れてる。

 そのなかで「斥力」って言葉を初めて使ったんです。読み方さえも、食パンの一斤、二斤と字が似てるから、「キンリョクだっけ?」とか思いながら。でも排斥の斥だからセキリョクなんだと気づいて、覚えました。村上さんも「斥力」のことをどこかで書いてましたよね。

 

村上書いてますかね。自分で記憶がないけど(笑)

*(『ケアとは何か』第四章「「死や逆境に向き合う」144頁にありました)

 

宮地どこかに書いてあって、面白いなと思ったんですよね。「大変な出来事でした」と語ることがトラウマだと思われてるけど、ほとんどの場合は避けて通られるところにこそトラウマがある。だから、どう斥力がはたらいてるかっていうことをきちんと見られるようになるのがとても大事なんじゃないかって思っています。斥力というキーワードを見つけられたことはよかったと思います。それと時間論をどう結び付けられるかはちょっとまだわからないけれど……。基本的に「逸れる」ってやっぱり空間的なものだとは思うんですが。

 

村上なんか時空間が一体になってますよね。要するに三次元空間でもないし、時計の時間でもない。空間的なイメージとしては「逸れる」けれども、時間的なイメージでは「ずれる」っていうふうに言える場面もきっとありそうです。なにかそういう三次元とか物理学的な時空間とは違った時空間なんでしょうね。

 

宮地う~ん、そっかぁ。やっぱりまた別なのかな。症状としては「回避」と言うんだけど、でもそうやって回避することによって、なんとかそのときをやり過ごして生き延びることは、人生のなかでとても重要な手段だと思うんですよね。そんなにみんな真正面からぶつかってはいかない。逸れられるところは逸れて、避けて生きていくことが多いと思います。そのことと、時間をやり過ごす、しのぐということとの関係も私は見ていきたいですね。

 時間に対してはたくさんの関心があって、先ほどの「焦(じ)れる」「焦(あせ)る」もそのひとつですけど、もうひとつ、患者さんが、「今のこの時間がもうどうしようもなく耐えがたい」というときに、自傷などをしないで――まぁ死ななかったら自傷でもいいんですけど――どうやってその時間を「やり過ごしてもらうか」がとても大事なテーマです。なんとかしのげたら、その後はけっこうケロっとしていることがあるので。とにかく今日もったら明日はまた気持ちが変わるかもしれない。

 

村上過ぎ越す……

 

宮地しのぐとか、やり過ごす。

村上いま、全然関係ないこと思い出したんですけど、ユダヤ教の過ぎ越しの祭りってありますね。出エジプトをお祝いする祭りですよね。神が過ぎ越すになるのかな、ユダヤの人たちの場合は。ちょっと全然関係ないですけど、レヴィナスのことを思い出しちゃいました【注1】

 過ぎるって、何かが過ぎるんですけど、何が過ぎるかわからないですよ。時間をやり過ごすんだけれども……何が過ぎるんでしょうね【注2】

 

宮地そのときはものすごく視野狭窄に陥って、もうそのことしか考えられなくて、どこにも逃げ場がないと思っていたのに、次の日「あれ、なんだったんだろう」と思えることも多い。今、ひどい恐怖に襲われていて、その恐怖に襲われている状態をなんとかやり過ごして――寝逃げでもいいんですけど――なんとかしてその時間をやり過ごしてみたら、次の日はケロっとしているとか。あと「ぎゃ~」って泣いてわめいている子どもの注意をほかに向けさせることで、すっと落ち着くことがあったり、カッとなって暴力行為をしている人をなんとかなだめるなど、いろんな場面が想定されます。

 

村上考えてなかったテーマでした。でもたしかにありますね。

 

宮地そのときはもう、みんなが場に巻き込まれてしまっていて、圧倒されるんだけど、それをやり過ごせたら、ふっと我に返って「あれ、なんだったんだろうね」みたいなのってあると思うんですよね。

 初心者だと慌てちゃって「どうしようどうしよう」となるときに、ベテランの人はそこをうまくやり過ごせる。たとえば誰かが感情を爆発させて大騒ぎになるんだけど、他のことに気を向かせたり、ちょっと休ませたり、何らかの手段によってその時間をやり過ごせたら危機を脱出できることは多い感じがします。たぶん西成でもよく起きてることじゃないかと。

村上そうですね、いっぱい起きてますよね。大変な場面がたくさんありますもんね【注3】

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村上靖彦さん(右ですよ)

 

 

9 カントとレヴィナスはどこにいたか

 

宮地爆発はポリリズムで言うと、どうなるのかな。

 

村上なにか凝縮しちゃってる感じがしますね。ポリリズムがブラックホールに全部吸い込まれるような感じですね。爆発のときって、リズムが複数は成立しえないような状況なので。その人にとってはもうそれだけ、場がそれだけになっちゃうと思います。

 

宮地そうですね。

 

村上そういう凝集の瞬間っていうのがあって、それをやり過ごすには、なにか質的にまったく違った時間が助けになる。

 

宮地でも、もう圧倒されるしかないときもありますよね。環状島の内海で地底火山が爆発したらそれに圧倒されるしかないし、津波や地震が起きたら、そのときはそれに飲み込まれるしかない。

 

村上■それは生き延びることはできるんですか。

 

宮地どこにいるかによりますね。

 

村上いま、カントを思い出したんですけど。カントの崇高論だと、もしも安全な場所にいさえすれば、今のような場面も崇高として受け止めることができて、道徳法則を発見できるって言うんですね。だから安全な場所がないと飲み込まれちゃって、それこそカントはパニックに陥ると言う。それが未開の人たち、キリスト教を持っていない人たちなんだって言うんですけれども……どうなんだろう。

 

宮地カントは飲み込まれた人についても語っているんでしょうか。

 

村上カントは語っていません。理性に対する信頼があったからだと思います。逆にショアーを経験したレヴィナスは語っています。レヴィナスは両親やきょうだいがナチスによって殺されているサバイバーズ・ギルト(生還者の罪悪感)の人で、それをずっと引きずっている人です。だからそれを語ろうとしたんだと思っています。

 

宮地そこ、なんか言語化していただけると……。

 

村上えぇぇぇ、いまのはすごく考えたこともなかったんですけど、大きなテーマですね。

 

宮地ねぇ、過ぎ越しの……。

 

村上過ぎ越しの祭りって、でもそういうことなのかなって。それこそ神さまが過ぎ越すことで、なんとか生き延びるっていうことだと思うので。

 

宮地pass overですよね。

 

村上えぇ、pass overですねぇ。生き延びたことをお祝いするということなんだと思うので。

 

宮地生き延びることだけがいいのかどうかわからないのですけどね。とにかく生き延びよう、とりあえずは生き延びなきゃね、みたいについまとめてしがいがちなんですけど……。こんな話になるとは思いませんでした(笑)。

 

村上まったく予想してなかった……。ありがとうございます。

 

 

■質問1――トラウマの時間

 

――心理職として、病院で働いているものです。トラウマのある方があるとき、そのときから時間が止まってしまっていると述べられたのが非常に印象的でした。周りの時間は流れているのに自分だけはそのまま、とも述べられ、時間性ということと、人とのつながり、孤独感ということのつながりも感じました。

 

村上一言だけいいですか。レヴィナスのことをずっと忘れていたんですけど、今日は思い出しました。彼は1906年に生まれて1995年に死んでいます。倫理の哲学者とよく言われるんですが、リトアニア出身で、両親やきょうだいがナチスによって銃殺されています。ところが、戦争や暴力について彼はずっと書かなかったんですね、戦後ずっと。最初に書いたのが1966年のテキストで、戦争が終わってから20年が経っている。そのなかで、「あのとき以来、時間が止まってる」と書いてるんです。時間のなかに腫瘍=癌ができている、と。小さいテキストなんですけど、それを書いたあとから、トラウマの話をしはじめるんですよね。

 彼の後期に『存在するとは別の仕方で〔講談社版は『存在の彼方』〕』(1974)という主著があるんですけど、そのなかで哲学のタームとして心的外傷という言葉と、あとは内臓という言葉――フランス語で内臓と子宮って同じ言葉です――あと迫害っていう言葉、そういう言葉がタームになってほとんど同義語として使われるんですね。そのきっかけになるのが「名前無しに〔旗なき栄誉〕」っていう1966年のテキストでした……っていうのを思い出しました(『固有名』所収)。それだけです、すいません。宮地さんがちゃんとしたお答えをすると思います。

 

宮地ちゃんとはできないけど(笑)。トラウマ的な出来事で時間が止まるとか、そのときから自分が2つの時間を生きている――ひとつは他の人たちと一緒に流れていく時間で、もうひとつはそのときに留まったままの時間――と言われます。なにかのきっかけで、それこそ時間をおいて、その出来事にもう1回取り組んで、だんだんまた時計が動き始めたということはよくあります。すごく単純化すれば、トラウマ的な出来事で時間がそこで留まり続けるっていうようなことはとても多いだろうなと思います。

 あとは、どうなんでしょうね。さっきの爆発の話とかも、他の人には爆発起きてないけど、自分だけに爆発が起きていて、そのことを誰とも共有できないときも、時間感覚っていうのは……。

 

村上爆発のなかで時間はなくないですか。

 

宮地ないでしょうね。というか、止まらざるをえない。原爆でも、阪神淡路大震災でも東日本大震災でも、その時間で止まった時計というのは写真としても現れるけど、現実の人々の心のなかでもやっぱりそういうことは起きていることが多い。もう1回時間が動き始めるようにするにはどうすればいいか考えなきゃいけない。

 村上さんの言い方で言うとポリリズム――自分のなかにあるポリリズムがどうしようもなく共調できないぐらいのずれが起きちゃってる場合もあるし、周りの人と自分とのあいだでずれが起きている場合もある。そういう時間的な感覚そのものにずれがあるんだということを誰かがちゃんとわかって、その人に伝えられると、それだけでもだいぶ救いかもしれないですね。

 そういう時間のずれがあることさえ、みんな認識してないかもしれない。別にトラウマ的な時間だけじゃなくても、家族のなかの誰かが危篤状態にあって何週間か過ごさないといけないようなときも、その人にとっての時間感覚と、周りの人では全然違いますよね。

 研究者のあいだでも、研究対象によって、歴史学をやってる人と現代政治学をやってる人では、時間の感覚が違っています。“いま現在”という時間そのものについての捉え方も非常に違ってるなぁって感じることがありますね。

 

村上それはそうですね。

 

宮地あとやっぱり子どもですよね。子どもは目に見えて成長していくから、コロナ禍で1年半会っていないと、その1年半という時間が身長の変化として、もろにあらわれるし、子どもと大人では時間感覚がまったく違うでしょうね。

 

 

■質問2――時間の濃淡

 

――おふたりは、時間の濃淡についてはどのように捉えていらっしゃいますか?

 

宮地ちょっと濃淡の話をする前に、思い出したことを言いますね。なぜ時間が気になるかというと、臨床現場って本当に時間が勝負だったりします。精神科の場合はそれほど緊急はないけど、産婦人科なんて5分であっという間に赤ちゃんが死にそうになったり、お母さんが出血多量で死にそうになったりする。その5分はとても濃厚であり、運命を変えるクリティカルなものであり、ものすごく焦らなきゃいけないわけですよね。これは質問された方の言う濃淡とは別のものかもしれないけど。

 

村上僕も助産師さんのインタビューを取ってたときに、それこそ出産の瞬間、あるいは陣痛が来て出産するその瞬間の時間の、それこそ濃度と強度の高さを聞くことはありますね。まさに濃度ですよね。あとクリティカルな場面の濃度もだし、子どもが生まれる、赤ちゃんが誕生するってその場面の濃度もあった。これは生命の濃度なんだと思うんです。

 

宮地同時にね、そういう5分が得意な医療従事者もいるし、それが苦手な人もいる。間延びしている時間が苦手な人というのもいるんですよね。慢性疾患より、急性疾患の対応が得意な人や、緊急対応の方が楽だという人もいます。必ずしも、運命が分かれるような、濃度の高い5分だけが大切だとも限らない。

 「律速(りっそく)段階」という言葉があるんです。自律の「律」に速度の「速」です。化学反応全体にかかる時間を決める段階の話ですが、変化がとても速く起きているときじゃなくて、ダラダラと変化が起きているときのほうが全体の時間を決めるんですよ。

 

村上へぇぇぇぇ。

 

宮地説明うまくできているかなぁ、劇的に変化が起きているところで全体の時間が決まるように思われるけど、別に30秒で起きる変化が10秒でおきても20秒しか変わらないですよね。でも30分で起きる変化が50分に延びたら、全体としては20分違う。30分のところが29分40秒になるだけか、50分になるか。あまり知られていないけど、律速段階という捉え方って大事だなぁと思っていて。どう大事かをここでうまく説明はできないんだけど(笑)。

 

村上なんか、基本的なリズムがあるってことですかね。すごい雑な言い方ですけど……。

 

宮地濃淡でいうと、濃度の濃い部分のほうがみんな大事だと思いがちだけど、実は淡のほうが全体としては大事かもしれない、という話かな、無理やり単純化すると。非日常も大事なんだけど、実はダラダラしている日常のほうを大切にしたほうがいいというふうな言い方もできるし。

 

村上いやぁ、思いがけない方向にいきましたね、打ち合わせとも全然違う話で、すごい楽しかったです。考えたこともないことを考えるきっかけをいただきました。

 

宮地対談って、初め話そうとしていた方向と全然違うところに行くのが醍醐味でもあるので、とても楽しかったです。今後の課題もたくさん出てきましたね。なんらかの形で次につなげられたらと思っています。

 

【注1】「過ぎ越しの祭」はユダヤ教においてエジプト脱出を祝う祭。エジプトで奴隷として囚われていたユダヤ人が解放されて自由になったことを祝う。時期的にはキリスト教の復活祭(イースター)と重なる。

 ユダヤ教では過ぎ越しの祭だけでなく日々の典礼のなかで、この隷属状態からの解放が想起され、民族のアイデンティティを確認する。過ぎ越しはこの民族の解放の記憶という始原の出来事のことである。

 しかしレヴィナスは『諸国民の時に』(合田正人訳、法政大学出版局、1993)に収められた「思い出を越えて」というタルムード講話のなかで、ショアー〔ホロコースト〕は解放の記憶を無効にしたと論じている。それゆえ破壊的な外傷を経過したときには、思い出とは異なる仕方で世界を構想し直す必要があると考えることになる(彼の倫理はこの文脈のなかに位置づけられる)。宮地さんとの対談では、心的外傷の記憶と過ぎ越しの祭を結びつけてしまったが、レヴィナスの論旨は少し異なった。

 

【注2】『存在の彼方』のレヴィナスにおいて、自己は「他者から取り憑かれ、他者の身代わりになる者」という定義になる。それゆえ「外傷」が自己の定義そのものになる。ところで他者から取り憑かれるという出来事は、無限(神)が過ぎ越すことそのものなのだ(「過ぎ越し」のもう一つの意味、より深い意味がここに登場する)。しかし他者による取り憑きを通してしか神は過ぎ越さないので、神の姿が見えることはない。結局のところ何が過ぎ越したのかは分からない。ともあれ、対人関係が起きてしまうこと、これが第2の(レヴィナス的な意味での)過ぎ越しなのだ。

 

【注3】宮地さんが恐怖や爆発を「やり過ごす」と呼んだ出来事は、複雑な仕方で、レヴィナスと接続するのだろう。

 後期のレヴィナスは、外傷体験の「目眩」に囚われることそのもののなかに主体の個体化を読み取ろうとする。外傷をやり過ごすこと、突き抜けることが主体の成立の契機でもあるのだが、そのとき主体の生成のなかに過ぎ越すのが無限=神なのだ。もしも無限=神が過ぎ越さなかったとしたら、主体は外傷体験の目眩のなかに、すなわち「あるil y a」のなかに融解することになる(『存在の彼方』第5章)。

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(了)

 

★村上靖彦さんと宮地尚子さんのトークは好評につき、この続きが予定されています。

       ↓

【オンライン配信(Zoom)】村上靖彦×宮地尚子トークイベント「リズムにふれる」

村上靖彦『交わらないリズム』(青土社) 、宮地尚子『トラウマにふれる』(金剛出版)・『治療文化の考古学(臨床心理学増刊第13号)』刊行記念

https://store.tsite.jp/daikanyama/event/humanities/22083-1056520904.html 

 

2021年8月19日、東京・代官山 蔦屋書店にて、村上靖彦著『ケアとは何か』(中公新書)と宮地尚子著『環状島へようこそ』(日本評論社)の刊行記念オンライン・トークイベントが行われました。

ケアをめぐって、かつてない新しい論点が頻出したこのトーク。当「かんかん!」が再構成をして、前編《違う道からケアに近づく》と後編《ケアの焦点は「時間」》の2回に分けて掲載します。緊張感のなかにも温かい交流が感じられるおふたりのやりとりをお楽しみください。

(トーク掲載を快くご了承いただいた代官山 蔦屋書店様に深謝申し上げます🙇)。

 

 

 

1 画期的な自前の理論――「環状島」

 

村上とっかかりとして、僕から宮地さんの『環状島へようこそ』について感想をお伝えするところから始めましょうか。

 

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宮地お願いいたします。

 

村上「環状島」って今、トラウマの理解にとって誰もが参照する概念というかイメージだと思うんですが、外側から見たときにすごく印象的なことがひとつあります。これは、日本で、すごく久しぶりに自前でガチッとつくられた強力な精神医学の理論じゃないかということです。輸入じゃない形で、こういうふうに誰もが参照するような理論ができたってすごく大きなことだなと思うんです。

 たぶん、先日亡くなられた木村敏先生の「あいだ」ですとか、心理的時間感覚をアンテ・フェストゥム(祭りの前)、ポスト・フェストゥム(祭りの後)などと表現した議論以来じゃないかなぁと思うんです。それがすごく印象的です。

 というのは、医療の世界も、心理の世界も、福祉の世界も、全部カタカナなんですよね。カタカナの理論を取っ替えひっかえいろんなものを輸入してきて、セミナーやって、次のものに移っていく。それをずっと繰り返してきている。そのなかで環状島は、最初の本(『環状島』みすず書房)が出版されてからもう15年ぐらい経ってますよね。でもこうやって、いまトラウマの臨床されている方がみんな参照する言葉になっているって、すごくいなって思うんです。

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環状島(『環状島へようこそ』日本評論社、17頁より)

 

 

宮地誰もが参照するほど有名かどうかはわからないですけど(笑)、モデルとしてほかにないというのは事実かもしれません。ただこのモデルは、私が自分でつくろうと思ったわけではなくて、自然にできていったというか。何年もかかってこういう形にだんだん出来上がっていったんです。私がつくったというよりも、私の脳を通して「勝手にできていった」。もしくは「できざるを得なかった」みたいな感じはありますね。

 安永浩さんのファントム理論ってありますよね。あれなどは、ひょっとしたらとても似たことを言ってるのかもしれないと勝手に思っていました。一度安永さんにお会いして、お聞きしてみたいなと思っていたんですが(残念ながらお亡くなりになりました)。環状島の「内海」をどういうふうに捉えるかによっては、精神病理学とも結びつけうるのかなとは思っています。

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環状島の断面図(『環状島へようこそ』18頁より)

 

 

村上今まで精神医学って統合失調症中心だったじゃないですか。宮地さんも本のなかで何回か指摘されていると思うんですけれど、これには僕もすごく違和感を持っています。むかし小児科の病院で自閉症を研究していたことがあったんですけれども、当時も統合失調症の議論しかなかった。特に精神病理学って言われる哲学的な議論は、統合失調症ばっかりですね。ほかにもっと社会のなかで大事なことがいっぱいあるのにって思ってたんですよね。そのなかで、トラウマについてこうやって強い議論を出されたってすごく大きいです。

 

宮地ありがとうございます。

 

村上もうひとつ言うと、この環状島の話は、当事者の方が傷つかない議論だと思うんですよね。宮地さんの本を当事者の方が読まれることたくさんあると思うんですけど、たぶん、すごく気をつけて書かれていると思います。傷つかないのはなんでかっていうと、当事者の方たちの目線で書かれているから。それをすごく強く感じます。これって精神医学の世界のなかでは――中井久夫先生はそういう方だったと思うんですけれども――実はあまりなかった。

 一般に精神病理学といわれる哲学的な議論って、当事者の人に向けて発せられる言葉じゃないんですよね。たとえば妄想についてのいろいろこねくり回した議論はあると思うんですけど、あれを突きつけたら暴力になるよなって。その感覚が僕のなかではすごく大きい。

 

宮地私も伝統的な精神病理学は、当事者にとって非常に暴力的な物言いが多いと感じています。病者を突き放して、あくまでも自分は正常な傍観者として観察・分析している。それが私には合わなかったし、読んでも正直わからない(笑)。言語ゲームのような感じがして、その界隈から距離を置いていたということはありますね。

 環状島モデルがどこまで本当にトラウマを捉えられるのかはわからないですけど、必然性のようなものは感じます。当事者との関わりの中で生まれてきたものだからでしょうか。自分はメディア(媒介)でしかないというか。当事者や支援者で、このモデルを使ってくださってる方も結構いるので、それはとてもありがたいし、トラウマについてある程度のことは言えるだろうと思っています。

 

 

2 メタファーで考える――海、空、陸

 

村上この『環状島へようこそ』の中で、伊藤絵美先生と映画の『グラン・ブルー』に言及されてる箇所があります。環状島には、こうやってズボッと潜っていくイメージと、あとは野坂祐子先生との対談で登場した、上から環状島を眺めるというイメージの両方がありますよね。その両方を描けるのが大きいのかなと思いました。深いところに潜っていくところと、上から俯瞰するイメージ。

 

宮地空からと海からと、たぶんもう一通りあって、地上ですね。あくまでも地べたを這うというか、外海から外斜面に上陸して、または内海から内斜面に這い上がって、環状島をとにかく歩くというのがメインです。

 

村上あぁ、なるほど。

 

宮地何も道具を持ってなくて、とにかくひたすら歩くしかない、みたいな。そういう地道なものがいちばん基本ですね。でもヘリコプターやドローンを使って、空から俯瞰するようなこともある。マスメディアの報道だったり、ある種の学術的な調査がそれにあたります。そういう方法でしか見えない全体像がある。でもきっといちばん大事なのは、潜るということでしょうね。潜水艦だったり、グラン・ブルーであったり。どこかとても深いところでつながってる地下水脈であったり、海底トンネルであったり、そういうもので伝わる何かなんだろうなぁとは思うんですね。

 ただその、水面下の部分は基本的には見えない。特に最初に『環状島』を書いたころは、どうやったら水面から上がって声を出せるのかというところにポイントを置いていたので、あんまり水面下のことを考えてなかったんです。でも心の問題に関しては、言えないこと、そのとき自分でもわかってないこと、他の人にもわからないことがたくさんあるので、水面下の部分ももっと丁寧にみていきたいなという気持ちが強くなってきました。

 面白いなと思うんですよね。モデルをつくって使ってみたら、次の展開が見えてきて、またそれを使ってみたら、次の展開が見えてくる。全然固まっていなくて、どんどん発展していくっていうのが興味深い。いちおう私がつくったんだけど(笑)、なんかちょっと他人事というか。

 

村上なるほど。先ほど「おのずとできた」と中動態的なことをおっしゃっていましたが、できてからもそうなんですね。たしかに、この『環状島にようこそ』に出てくる7人の方それぞれが自分の環状島のバリエーションをつくっていますよね。それがすごく面白い。

 

宮地そうなんですよね。

 

村上坂上香さんが「二重の輪っか」にしてみたりとか、それぞれに違うことをおっしゃっている。あと「水が乾いたら」とか、「水が深すぎたら」とかそういう話もあって。どんどんイメージが変わっていきますよね。

 

宮地山や海や空など、自然なメタファーを使ってもいるからかもしれませんね。私たちのふだんの思考自体にも、メタファーが入ってるわけですから。そういったメタファー的思考が活性化されるし、遊べるっていうのもいいのかなぁ。舟とか、風船とかね。眉間にしわをよせて深刻に議論をするだけじゃなくて、子どもが遊ぶみたいに、「こういうのありじゃない?」とか「こうしたらどうなの?」みたいな感じで、話が広がっていくのは、とても楽しかったです。

 

村上その遊びの部分って、ふだん宮地さんのトラウマの本を読んでる人が抱いているイメージとちょっと違うかもしれないですよね。だってお話は深刻じゃないですか、どのテキストを読んでも。

 

宮地そうなんですよねぇ。

 

村上だからすごく意外な印象もあるし、でも聞けば「それはたしかにそうだな」とも思う。

 

宮地つらい話が多い、読んでてしんどいとはよく言われます。内容そのものが重いし、そういう重い現実を背負った方々と接することが多いので。だから仕方がないなとは思うんですけど、私自身も深刻な暗い人だと誤解されることがよくあるんです。でも私は結構――悩んだりウダウダはしますけど――遊んだり笑ったりするのが好きな人間なので、そこは難しいですよね。ユーモアや軽さをどこまで文章に入れるのかっていうのは……。

 

 

3 証人としての著者――『ケアとは何か』

 

宮地村上さんの本について、私のほうからも一言。『ケアとは何か』ということで、今までのいろんなご本のエッセンスを集めた感じですよね。たくさんのキーワードがあるし。内容的には全部同意するというか、「本当にそうだよな」って思うんですね。思うんだけど、いろんなご著書のエッセンスを集めたものなので、やっぱり元の本をちゃんと読みたいなって思いました。

 実際に『在宅無限大』(医学書院)『交わらないリズム』(青土社)を読ませていただくと、どうしてこの結論に至ったのかというプロセスが書いてあるから、とっても面白い。だけど、この新書で結論の部分だけを読んでいると、「う~ん、その通りなんですけどね……」みたいな物足りなさがありました。ケアの大事なことって、まとめてしまうとありきたりで、聞き流されてしまいやすいから。

 もう一つ気になったのは、「いいことしか書いてない」ってことなんですね。たぶん他の方にも言われたことがあるだろうと思いますけど、ケアのいい部分を集めているし、登場人物もみんないい人ばっかりなんですね。悪い人が全然出てこないし、意地悪な人も全然出てこない。ケアのネガティブな側面や、暗い部分がほとんど書かれていないですね。そこが臨床現場や、ケアの現場で実際にやってる人からすると、ちょっときれいごとに見えてしまう。これが率直な感想でした。

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村上今、宮地さんに言っていただいたことは、僕自身がすごく意識しています。自分の限界でもあり特徴でもあるなぁと自覚してる部分です。ただ、「きれいごと」っていうのは、ある種、このやり方をとる以上、どうしようもないというか、絶対こうなってしまう部分があると思うんです。もちろん、僕が最初にケアの領域に興味を持ったのは、援助職のみなさんへの驚きというか、「こんなすごい人たちがいるんだ」っていう驚きが最初にあったのはその通りなんですけれども。

 でも現象学っていう方法論をとると、一人称の視点から細かく記述することになるんですよね。そうすると必ずその人の視点になるんです。だからその人に対する批判的な視線というのは、純粋に現象学的なやり方をとったときには出てこない。批判というのは外からの視点なので。ですので仮に、たとえばあんまりよくないケアと言われるようなものをしている人のデータを分析したとしても、その人を肯定するような分析になるんですね。

 それで失敗したこともあって。研究会や授業で聞いていた僕の学生からも、「それはケアとしておかしい」と言われて、原稿を引っ込めたことがいままでもあるんですね。そう言われたら「あ、そうだな、それはまずかった」って自分でもわかるんですけれども、なかなか見えなくて。というのは、どうしても分析するときにはその人の視点に乗っかって動きを分析しようとするので。それが現象学の大きな特徴なので、どうしてもそうすると、きれいごとというか、絶対に相手を肯定することになる。それは方法論上の必然だと思ってます。

 

宮地たぶん村上さん自身も意識的にやってるんだろうなと思いました。他のご著書も併せて読んでいて、いいなと思ったのが、村上さん自身がとにかく話を聞くってことですよね。それを書き記す。インタビュアーというか、聞き手であるっていうことがメインなんだなって思います。それはとても大事だなって思いました。

 私も書いたりしますけど、基本は聞く人間です。精神科医というのは聞くことを専門とする職業です。診断なんかよりも、聞き出すっていうとちょっと強すぎるんですけれども、聞いて受け止めるなり、聞いて次の何かを返すなり、そういうことがいちばん専門なんだろうと思います。そう考えると、村上さんも同じことをされてるんだなと思いました。

 さっき「きれいごとな感じがする」って言ったんですけど、だからこそ、また次に話を聞かせてもらえる。相手にとって村上さんが聞き手として安全であり続けるために、ある意味必要なやり方でもありますね。また、村上さん自身が素晴らしいと思う現場や人に会って話を聞こうと意識的にやっているので、幸せな組み合わせなんだとも思いました。村上さんがインタビューの対象者の方たちに、尊敬の念を持って聞いているということがよくわかるし、細かなところを丁寧に理解しようとしていることもよくわかる。

 もちろん現場でケアをする人たち自身が声を出すということも大事なんだけど、そういう声を出す暇もないぐらい忙しかったり、声を出すことにはあんまり興味がなくて、とにかく支援したりつながったりすることのほうが大事な人にとっては、村上さんがとても貴重な証人というか、witnessですよね。目撃者でもあり、記録者でもあり、代弁者でもあり、伝達者でもあり。翻訳者でもあるかもしれない。そういう意味で、非常に重要な役割を果たしているんだなっていうことを感じました。

 

村上たしかに僕はインタビュアーなんです。聞き手です。たとえば宮地さんのように臨床家として聞くのとはまた違うと思うんですけれど、インタビュアーとしてはその人が何を言おうとしてるのか、何を伝えたいのかというのをひたすら待つ。それがすごく大事なので。否定しないだけじゃなくて、待つ。だから僕は、インタビューのときほとんど口を挟まないです。そして筋があっち行ったり、こっち行ったり脱線してくれたほうがいいインタビューになることが多いんですよね。支離滅裂なほうが、その人の経験の多様さが出る。

 つまり仕事だけが人生じゃもちろんないわけです。看護師さんのインタビューをとったとしても、そこには、その方のライフストーリーのいろんなイベントだったりとか文脈だったりとか背景だったりとかが入り込んで今のお仕事がある。話題が飛んであっちこっちいったことによってそれが浮き上がってくるので、それを待つしかないんですね。こっちはどこにどういう文脈があるのか、わからないですから。

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村上靖彦さん

 

 

4 共感と何が違うのか――現象学への疑問

 

宮地現象学は方法論だと言われるんだけど、私も医療人類学を勉強しはじめたころに、現象学的な文献をいっぱい読まされて……「よくわからんぞ~」みたいな(笑)。カッコに入れるってどうやってカッコに入れられるの? とかね。

 

村上入らないですよ(笑)。

 

宮地根本的な部分で、現象学って方法論になるのかなという疑問を持っています。「その人の視点から」って、そんなことできるのかなとかね。すごく根本的な部分でずっと引っかかったまま来ていたんです。だから現象学的って言われると「う~ん、それってどうなの?」って思っちゃうんですけど。

 

村上こんなこと僕が言っていいのかわからないけど、ちまたに流布してる現象学といわれてるものには、僕はすごく疑問があって。だってカッコに入れるなんてできるわけないじゃないですか。フッサールはフッサールで、なにか彼の自身の経験にそういう名前をつけざるを得なかっただけで、「それは何なのか?」をつかむことが大事なんですよね。そこがわかってる研究者はあんまりいないと思うんです。

 なので、僕にとってはすごくシンプルなことなんです。経験の語りだったり、参与観察でつかまえた動きがあって、その動きを外からじゃなくて、「内側から眺める努力をする」ということだと思ってるんですね。それがいちばん大事なポイントです。そのうえで、経験の動きに対して内側に視点をとろうとしたときに、どういう組立てでその経験が成り立っているのかっていう背景を記述・分析していく技法なんだろうなと思っています。そこがエッセンスなんじゃないかと。だから根本はすごくシンプルなはずです。

 

宮地私が書いてきたことも、被害者の方からはどう見えるかとか、何がおきていてどのように行動せざるを得ないのかとか、何が苦しいのかとかなので、そういう意味では現象学なわけですね、いちおう。

 

村上あ、そうなると思います。だから別に何かと対立するわけではないですし、現象学で閉じこもってるわけではないです。現象学的な視点で宮地さんも書かれていると思うし、それが別に医療人類学や精神医学とクロスしていても全然なんの問題もないと僕自身は思っています。だから視点の取り方と、動きをそのまま捕まえようとするということで、その背景を描き出すってことがポイントだろうなと僕自身は思ってます。宮地さんが人類学の研究をされたときに言われたことも、もしかすると「そこのポイントをキャッチしろ」っていうことだったのかもしれないですよね。

 

宮地1989年に医療人類学を学びに留学したときに、とにかく文献をいっぱいもらって、そのなかに現象学を含め、いろいろあったんですよ。積むと厚さが10センチ以上。今、バイロン・グッドやアーサー・クラインマンの顔が思い浮かんでるんですけど(笑)。でももちろんそれらを全部読みこなすことはできず、エッセンスはなんなんだろうと考えてたんです。

 いま言われた、「中から」っていう話と、共感がどう違うのか――それがたぶんポイントなんだと思うんですね。もうどの本に書いてあったかわからないんだけど、たしか、ごきょうだいに障害がある方で「その子のことを考えるのは共感じゃないんだ」みたいな記述がありましたね。

 

村上■あ、そうですね。この『ケアとは何か』でも引用しなおしたんですけど、もとは『摘便とお花見』(医学書院)ですね。そうそう、「地続きなんだ」っておっしゃった方がいて。

 

宮地あの部分がすごく興味深いなって思って。

 

村上Fさんっていう方ですね。訪問看護師さんなんですけれども、妹さんが重度の心身障害者です。妹さんにも患者さんにも共感はしない、なんでかっていうと「妹と地続きだから」、と言うんです。すごく不思議な感覚で、それであとで聞き直したら、宮地さんが今おっしゃった「妹の視点から世界を見てるから、だから自分で自分のことを同情して泣いたりしないでしょ」と彼女は言ってたんですよね。この視点のとり方自体が現象学的です。Fさんも現象学も、相手の経験の内側から覚めた目で冷静に観察する視点なんだと思います。

『ケアとは何か』全体でも「共感」という言葉は使ってはいないです。相手とコンタクトは取れるけれども、理解はできない、それでも相手が何を望んでいるのかを探るっていうところから始めているので。

 

宮地でも自己憐憫はあり得ますからね。

 

村上自己憐憫はあり得るけど、「私の妹は自分のことを泣いたりはしてない」って言ってますから。

 

宮地そこはかなりポイントですね。とにかく必死で目の前の苦境を乗り越えるしかない人に、その内側から一緒によりそって、乗り越えようとする感じですかね。でも一歩間違えば、過度な同一化にもなっちゃう。このあたりをどう捉えるかによって、ケアやセラピーの現場で、支援者が苦しくなったり、二次的な外傷を受けたり、燃え尽きたりするかしないかが分かれる。単なるヒューマニズム的なものと、本当に役に立つケア――「次に何してほしいのよね?」みたいなことを見分ける力――は、その部分が核となってるんじゃないかなって思います。

 

村上そう、そんな気がします。支援職のみなさんは避けがちだけど、ある意味、今回の『ケアとは何か』でも、その部分を考えたいなというのはありますね。すごく微妙な差異ですよね、それって。

 

宮地そうなんですよね。微妙な差異だし、ヘタしたらものすごく冷たく見えるかもしれないし。誰にわかってもらうかですけどね。

 

村上その部分って、もう1回照れを捨てて考えてもいいんじゃないかなって思うんですけど。

 

宮地照れを捨てて……

 

村上えぇ。

 

宮地照れない!

 

村上照れないで考えてもいいんじゃないかなと思うテーマですよね。支援職のみなさんがされてることは、すごく難しいし、すごく繊細なテクニックだと思う。しかも別に冷たいわけじゃ全然ないじゃないですか。ある意味熱い関わりをされていて、でもバーンアウトするような共感とは全然違った関わり方をしている。これはすごく不思議なことですよね。その仕組みを描くって、本気でやろうとした人って、そんなにいないんじゃないかなと思うんですよね。

 

中┃宮地尚子のコピー.png

宮地尚子さん

 

 

5 自分をどこに置くか――ジェンダーと巻き込まれ

 

宮地あともうひとつ、ジェンダーの視点をあえて抜いてるのかな、と。

 

村上これも本当に弱点ですね。自覚してます、ジェンダーを入れられてないって。この『ケアとは何か』でも、編集の楊木(やなぎ)さんに「ジェンダーの視点を」って言われたんですけれども、結局入れ込めなくて。僕の弱点ですね。これはわかってるんですけれども、すごく難しいです。

 僕の医療関係の本に出て来る登場人物って、8割9割が女性です。もちろんケアラーに女性が多いっていうのもあるんですけど、それは何なのかっていうのは本当は議論しないといけないところだなとは思っています。

 

宮地簡単に入れられる話じゃないだろうとは思うので、ジェンダー入ってないからダメということではないんです。だけど「ケアそのものがフェミニンなものだ」として、女性性と結びつけられることが多い。でも今、たとえばケアリング・マスキュリニティっていう言葉もあるし、実際に男性の看護師さんや介護士さんもたくさんいて、その人たちにはその人たち独特の悩みなんかもあるかもしれないし。そこもとても大事なところだろうなと思うんですね。

 もちろん、性別を明記したらいいという話ではないんだけど、読んでいて、インタビューを受けている人が男か女かもわからないじゃないですか。男か女かわかったからって何がわかるんだとも言えるんだけど。でもやっぱりケアを考えるときに、どうジェンダーを入れていったらいいかも、今後の村上さんのテーマの一つであってほしいんだけど。

 

村上すごく意識してます、そこの部分を。だからたとえばエヴァ・フェダー・キテイなんかのケアの倫理の議論はもうみんなの前提としてあると思うので、それとはちょっと違った仕方で考えないといけないんだろうなと思ってはいます。社会的規範との関係というのが僕のテキスト全体に弱いのですが、ジェンダーの問題と社会規範がどう働いているのかということは、本当は入れ込まないといけないと思っています。つまり女性が引き受けてきたケア労働というのとは違う議論を考えたい。

 

宮地難しいところですよね。さっきの「聞く」ということも、どちらかというと受け身で女性性と結びつきやすいですね。「書く」とか「分析する」のは男性的だったり。

 う~ん、この話をしだすとなんか泥沼に足を突っ込むことになるかもしれないなと思いつつ言いますが(笑)、伝統的な精神病理学に対しての違和感というか、暴力的だなと思うのが、あくまでも自分が外にいて分析する側、観察する側、記述する側であることです。相手からの応答も聞かない。それが私は苦手です。あと、身体性がないという感じもあります。少し前に出した『トラウマにふれる』(金剛出版)でも書いたような、身体性、つまり触覚や嗅覚、味覚などが、臨床やケアに深く関わっていると思います。

 

村上いまパッと思ったんですけど、宮地さんの本には、たしかに宮地さんがどういう人っていうか、どういうお医者さんなのかは透けて見える。身体性が透けて見えるんですよね。たぶん僕が看護の研究をしていたときには、それが薄かったなって思うんですね。構造上、あれ以上現場に入れなかったっていうのもあるんですけど。

 西成が舞台の『子どもたちがつくる町』(世界思想社)ではかなり改善してるのかなって思います。あの本は、現地に通いつめて自分が入り込む仕方でしか書きようがなくなっていたので――ジェンダーの問題は解決できてないとは思うんですが――僕がどういう立ち位置で、どうこの場所に居させてもらってるのかっていうのは、ちょっとは入れ込ませることができるようになってきたかな。

 どうやって自分が巻き込まれているのかが明示されるのかされないのかは、たしかに大きいと思います。看護の研究をしていたときには僕はある意味、抽象的に研究者として書いていた部分があった。それは自分でも意識していた限界でした。今通っている西成の子育て支援では、フッサールが言ったような現象学的傍観者ではなくて、巻き込まれて子どもに殴られたりするものだから現象学的な媒介者になってくる。

 あとやっぱり当たり前なことですけど、宮地さんはお医者さんで、臨床家として責任を負って現場に巻き込まれている。僕はあくまで研究者でしかないので、赤の他人なんですよね、本質的には。なので、そこの責任の度合いがすごく大きいですよね。今いる西成では赤の他人では済まされなくなって、関係者として巻き込まれはじめたことで変化が起きてきました。

 

宮地「距離を置いて観察して記述する」のが、学術的な営みのずっと長い伝統だったわけですよね。それがフェミニズムやポスト・コロニアリズムなどによって変えられていった。医療人類学にもそういう流れがあって――人類学では、他者を記述するということに対して、植民地主義的だという批判が出て、だいぶ変わりました。ただそうなると、今度は人類学者の自省的な悩みばっかりを聞かされるようになって、それはそれでつまらないんですよね。「あなたのことはどうでもいいから、その村の人たちの世界を見せて!」みたいな(笑)。そこはすごく悩ましいところです。

 私の場合、自分が透けて見えるほうが読む人に伝わりやすいというか、そうじゃないと伝わらないだろうと思ってるから書いてるので、自分のことを書きたいわけではまったくないんですよね。

 

村上それはわかります。

 

宮地今までの精神病理学的な精神医学では書かれてこなかったことを書いて、読んだ人に納得してもらうためには、自分の中をどう通っていたのかを言わざるをえない。だぶんそういう意味では、村上さん、いま面白い時期にあるんですね。巻き込まれて……。

 

村上そうですね、どんどんこの場所に引きずり込まれていって、なんていうか、すました顔ではいられなくなってるっていうのが実際のところなんです。僕の意思でという部分もちょっとはあるけれど、それよりは場のほうから足をぐいぐい引っ張られている感じがすごくありますね。

 

宮地そういうもんなんだと思いますよ、きっと。選ぶわけではなく、引きずり込まれていく。巻き込まれて逃げられなくなっていて、気がついたら……みたいなところがある。でもだからこそ見えてくる面白いものもたくさんあるのかなぁって思います。必然性や切迫性のあるものがでてきそうです。

 

村上だからすごく楽しくもなってます。大変といえば大変だけれども。

(前編了)

【後編目次】

6 待つ力が試される

7 時間を支配される

8 「逸れる」の時空間

9 カントとレヴィナスはどこにいたか

■質問1――トラウマの時間

■質問2――時間の濃淡

 

 

第3回 リハビリ前奏曲

 

「あなたの名前は?」
「わたしは誰?」
「子どもたちの名前は?」
 
 これは面会に訪れた妻が、わたしに聞いた最初の質問です。一瞬、奇妙な質問だと感じましたが、素直に答えました。わたしはきっと、しっかりした意識があるのかどうかを疑わせるほど、ぼんやりとした表情をしていたのだと思います。
 
 わたしが「ミタニ マサズミ」「サキコ」……と、詰まりながらもゆっくりと、それでも順番通りに答えていくと、答え終わったときに、妻は心底ほっとした表情を浮かべました。医師からは「答えられないかもしれない」とでも告げられていたのでしょうか。
 
―意識はしっかりしている―
―心配することはない―
―死なないよ―
 

■動かない手を抱いて眠る

 
 ベッドに横たわって何日か経ったころでした。突然ぴくりと右手の人差し指が動いた! 気がしました。しかし、動かそうと意識すると動きません。わたしの錯覚でしょうか。
 
 生まれてこの方、指は自由に動くものだと思い込んでいた。それで「動いた」という錯覚をおこした、ということかもしれません。でも、もう指は動きませんでした。
 
 その日はそのまま、動かなくなった右手を抱いて眠りました。もう動かないのかもしれない。そう思うと、血液が通い、体温もある右手をいとおしく感じました。長く付き合ってきた友との分かれが否応なしに迫ってくる。そんな切なさです。
 
 次の日だったでしょうか。また人差し指がぴくりと動いたのです。反射的に動いただけだったのかもしれません。でも、今日は確かに動いた。動くところをこの目で見た。意識すると動かないことは同じでしたが、仮にも動いた。これはぜひとも、動いたと妻に伝えなければいけない。伝えれば、わが事として喜んでくれるに違いない。そのあせる気持ちが時間の流れを遅くします。面会時間を、今か今かと待ち焦がれます。
 

■病棟の喧噪のなかで

 
 伝えるのは看護師や看護助手でもよかったのかもしれません。その民間の病院では、看護師や看護助手が頻繁に、大勢の患者がいる病室を出入りしていました。ですが、看護師や看護助手には、気軽に話しかけられる雰囲気はありませんでした。
 
 看護師は点滴の針を刺し、薬液を交換し、痰を吸引して廻ります。看護助手はいっぱいになった尿瓶を代え、窓を開け、配膳をしています。見ているだけで大変そうです。少しイライラしているようすも窺えます。それにわたしは、まともに話せません。そんなとき、やっと妻が顔を出してくれました。
 
―右手の指が動いたよ―
 
 そう伝えたかった。それだけのことです。きっと喜んでくれるに違いない。それがうまく伝わりません。言葉にならないのです。妻はきょとんとしています。
 
 やがて早い時間の夕食が始まりました。わたしにはお粥が出ます。それまで利き腕に使っていた右手はまひしています。わたしは起き上がり、妻が食べさせてくれました。食べさせてもらう気恥ずかしさは感じませんでした。
 
 ゆっくりとした食事です。その一匙一匙に、いつしか伝えるべき大切なこと―わたしと妻にとっては本当に大切なこと―待ち焦がれていた「指が動いた」というひと言を伝えることを、その日はきれいさっぱり忘れてしまったのでした。
 
 その翌日は、一瞬、動いたかもしれません。あるいは動かなかったのかもしれません。今となっては思い出せません。しかし、それから数日の内に、「動け!」と念じれば、ぴくりと動くようになりました。まるで念力です。ただし自由自在に動くのではありません。それは「ぴくりと動く」というのがぴったりの、たわいのない単純な動きでした。
 
 次に妻が訪れたとき、わたしは自慢げに「念力」を披露しました。すると妻は泣き出しました。今度はわたしがきょとんとする番でした。
 

■妻の思いと苦悩

 
 わたしは薬の副作用で現実と夢の境がなくなっていたのですから、当時、妻の身に何が起こっていたかよく知りませんでした。そんなときは、直接、聞いてみるしかありません。すると妻は、わたしが入院してから彼女が考えたこと、おこなったこと、行った場所を、びっくりするくらいよく憶えていたのです。
 
 わたしが急性期に入院したその病院の医師からは、死んでしまうか、生き残るのか、たとえ生き残ったとしても再発を繰り返すのかが問題で、その見極めはこの一週間ほどで付くだろうと言われていたそうです。そして「あなたの名前は?」「わたしは誰?」という質問に答えられなかったり、満足に喋れなかったりしたら、それまでやっていた仕事はあきらめて、実家に戻らなくてはいけない。妻はそう考えていました。わたしが寝たきりになることを覚悟していたのかもしれません。
 
 幸い「あなたの名前は?」「わたしは誰?」という質問には正確に答えることができました。だから妻はほっとしたのです。そしてわたしは嬉しそうに「念力」を見せていました。このふるまいを見て、わたしの人格は保たれていると確信できました。だから妻は泣いたのです。
 
 妻の名誉のために書いておきます。妻は誰彼なく、人前で泣いていたわけではありません。わたしが病気になったと聞いたとき、近所の人は驚き、そして、それまで以上に親切に接してくれました。子どもたちも預かってくれました。しかし、悔しかったことや心配なことはその人たちには決して言えません。言うべきではありません。妻は気丈にふるまって見せました。悔しいこと、心配なことを喋り始めれば、親切なだけ、妻の言葉が負担になりそうだったからです。
 
 ただ、妻が悔しかったのは、わたしの仕事など放っておいて、わたしを無理やりにでも病院に連れて行かなかったことでした。早く連れて行っていれば、その後の状況は変わったかもしれない。そんな思いに取り付かれていました。そして何より心配なことは、わたしの死そのものでした。
 

■失語症の会、そして当事者との出会い

 
 数日経ったある日、市の広報に失語症の会のことが載っていました。電話番号が目に飛び込んできたので、さっそくその番号に掛けると、女性が妻の思いを聞いてくれました。それまでは気を張って生活していたのです。それが当事者や当事者の家族の思いを聞いてくれる場があった。妻は涙が止まらなかったそうです。それが兵庫県三田(さんだ)市にある、当時は失語症者の小規模作業所と呼ばれていた「トークゆうゆう」との出会いでした。
 
 「トークゆうゆう」という名前は「ゆっくりと、落ち着いて喋ろう」という意味だと思います。「悠悠(ゆうゆう)」からとったのでしょう。小規模作業所とはいうものの、実体は「失語症者のクラブ活動」といった雰囲気でした。失語症者の友の会事務所そのものです。だから妻のように飛び込みで訊ねてくる人でも、「ゆっくりと、落ち着いて」話を聞く余裕がありました。妻にとってはそれが幸いでした。
 
 似たような作業所はあまり存在していません。兵庫県下でも数は限られていると思います。妻は、その作業所で失語症者の集まりがあるから参加しないかと誘われたので、行ってみることにしました。偶然ですが、作業所は家のすぐ近くでした。そこで田中昌明さんと田中加代子さんのご夫妻に初めてお会いしました。
 
 昌明さんはアルジェリアに長期赴任していて、現地で脳塞栓症になったそうです。完全ではないものの、聞き取りはそこそこできます。しかし、話す事ができません。ひらがなやカタカナ、つまり表音文字を読み取ることは苦手です。ローマ字も同じです。だからコンピュータは使えません。脳塞栓症になったときは35歳でした。息子さんは小学校低学年、娘さんはまだ1歳でした。三谷家と似ています。だから娘は父親の話す姿を知りません。笑ってそう話すご夫妻に、妻は甘えました。
 
 当事者でなければわからないという言葉は事実です。妻は、そこでやっと、ひとりで抱え込んできた思いの丈をぶちまけることができたと言います。
 
 
***
 
 
 脳の神経細胞は再生できないのだと、長い間、考えられていました。今でも死滅した神経細胞が生き返らないのは事実です。しかし、細胞と細胞の繋がりを組み替えたり、別の場所で再生した細胞が移動したりして(ひょこひょことミジンコのように動くのでしょうか、それともアメーバのようにゆっくりと動くのでしょうか)、死滅した細胞の働きを代行することが可能なのだと分かってきました。
 
 わたしの指が動き始めたのも、死滅した細胞に代わって別の細胞が「指を動かす」という機能を引き継いだのだと思います。でも、その「新任」の神経細胞は、まだ動かし方に十分習熟していないので、最初はぎごちない動きしかできなかったのでしょう。
 

■わたしは忘れることを自覚している

 
 わたしと妻にとって大切なはずの「指が動いた」というひと言を伝えようと待っていたのに、お粥を食べさせてもらっているうちに、その大事なことを忘れてしまった。これはいったい、どういうことなのでしょう。それは恐らく、現在のわたしにもある、短期記憶が憶えられない、しかし記憶そのものは脳から消えているわけではない、ということと同じ現象だと思います。
 
 今でもそうなのですが、わたしは大切なことであっても忘れてしまいます。「うっかりしていて」というレベルではありません。忘れてしまうことが、あらかじめ分かっているのです。ですから約束したことはその場で済ませます。その場で済まないことだったら、付箋に書いて貼っておくという対応方針をとっています。こうすれば、人に迷惑をかけないですみます。少なくとも、ずっと減らせます。
 
 忘れるので大事なことは付箋に書き付けておくというのは、小川洋子さんの『博士の愛した数式』の博士と同じです。ただ博士とわたしが違うところは、博士は次に付箋を見たときには、なぜその書き付けをしたのかきれいさっぱり忘れていますが、わたしは、そうだったと思い出すところです。博士の健忘はスザンヌ・コーキンさんの診た患者H・Mさん(ヘンリー・モレゾンさん)と同じです。H・Mさんの健忘の科学的な解釈は、コーキンさんの『ぼくは物覚えが悪い』に詳しく載っています。
 
 説明ついでに書いておくと、わたしの場合、大事なことが思い出せないと気持ちが悪くてしかたがないのです。何が大事なことだったかという自覚はあります。それでよけいに気持ちが悪いのです。
 
 わたしがどれくらい憶えているのか、あるいは忘れっぽいのかという検査のために、憶えたことを無理やり引き出そうとすると極端に疲れます。へとへとになります。見るも無残なありさまです。ですから、日常では無理やり思い出そうとしなくてもいいように、せっせと付箋に書いて張っておくのです。
 
付箋メモ.jpg
実際の付箋メモはこんな感じです
 

(三谷雅純 「ことばを失う」の人類学 わたしをフィールド・ワークする 第3回おわり)

 

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2019年4月は私の人生の分岐点だった。第一に私はこのときから約1年半休職し、自分の人生を見つめなおす時間を多く得た。第二に、私は前月の検査にもとづいて発達障害の診断を受け、生まれながらの「障害者」だったことを40歳にして知った。第三に、未破裂脳動脈瘤の手術を受けた。今回の内容は、この第三の経験を核としている。
 
その前年に受けた生まれて初めての人間ドックで、私の体はあちこちに不具合があることがわかった。もっと早くに人間ドックを受けていれば良かったと呻いてしまった。35歳のとき、健康診断で看護師と話していて、軽く「人間ドックを受けてみたい」と発言したことがあった。すると、その看護師は「まだ少し早いですね」と答えたから、私は「そうか。焦らなくても大丈夫なんだ。とっても健康なんだ」と安心してしまっていた。私がバカで、やはり焦るべきだった。
 
人間ドックの結果を受けとった私は、しばらく問題を放置した。発達障害者によく指摘される「先延ばし癖」だ。「要再検査」、「血液・中性脂肪」、「緑内障」、「未破裂脳動脈瘤」などの言葉を見ると、気分が暗くなった。ギリギリの年度末まで伸ばして、再検査を受けると、脳神経外科の担当医が脳動脈瘤について説明してくれた。「かなり大きい動脈瘤がある」こと、「クモ膜下出血の恐れがある」こと、「急いで精密検査を受けたほうが良い」ことなど。
 
クモ膜下出血とは何か、私は正確に知らなかったのだが、その名に致命的な恐ろしいイメージが付属していることは知っていた。私は「クモ膜下出血」をiPhoneで検索し、それが「破裂脳動脈瘤」のことを意味していると知った。つまり私の脳内の未破裂脳動脈瘤が何かの拍子に破裂したら、それがクモ膜下出血ということだったのだ。私は「クモ膜下出血」に「即死」や「生存率」や「後遺症」などの言葉を組みあわせて検索し、さまざまな記事を読んで絶望的な気分になった。「これが死に体か」とつぶやいた。
 
私は京都市に住んでいて、検査を受けた病院も京都市にある。京都市内の大学病院への紹介状を書いてもらったが、インターネットで調べて、できるだけ安心できる病院で精密検査を受けたいという思いが湧いた。さいわいにして、大阪市に「脳動脈瘤の手術件数が日本一」だと評判の病院を見つけた。私は紹介状をその病院の医師宛に書きなおしてもらって、大阪に向かった。私は大阪市の出身だから、どうせ死ぬなら京都よりも大阪がうれしかった。
 
その大阪市の病院(A病院と呼ぶ)でのこと。診察を始めた医師は私が持参したCD-ROMに入ったMRI写真を見て、「これはかなり大きいね!」と口走った。私は絶望的な気分になった。医者はこのまま放置していると70歳までに破裂する確率は9割以上だと述べた。「私や私の家族がこんな状況なら迷わず手術を選びます」とも言った。その言葉から、問題を放置して逃げまわる道が塞がれた。開頭手術とカテーテル手術という二つの術式があること、問題の動脈瘤は左目の後ろ側に位置しているため、カテーテル手術が適切だという説明を受けた。「手術しますか」とすぐに尋ねられて、私は「詐欺師のテクニックか?」と思いつつも、「わかりました。お願いします」と述べた。
 
開頭手術、つまり頭蓋骨を開いて脳を触って手術するのは、若いころに読んだ悪夢的なディストピアSFやサイコホラーを思いださせた。不安感を大いに刺激する。だから、そちらではない術式を取ると伝えられえて、私はホッとした。太ももから極細の管を挿入して、頭まで到達させ、動脈瘤にプラチナ製のコイルを詰めていく。脳みそを手でいじられるよりずっとマシに思えたが、しかし担当医――手術と入院を決意したため、主治医ということになった――は、どちらの術式にもそれぞれリスクがあることを指摘し、カテーテル手術だから開頭より安全というわけでないと断言した。私は「この人の話し方は私と同じでアスペルガーっぽさがよく出てるな。医者って発達障害っぽい人が多いよね」と考えていた。
 
同じ月の下旬の月曜から金曜までの5日間、入院した。月曜の正午過ぎに入院手続き。入室してすぐに看護師が、局部の剃毛にやってきた。右足の付け根からカテーテルを通すため、そういう事前処置が必要らしかった。入院のために持参すべき用具を前もって教えてもらっていたが、中途半端にしか守っていなかったので、さっそく外出許可をもらって、近所の100円均一ショップにタオルなどを買いに行った。「これが発達障害ってことかな」と私は思った。血圧や体温の検査のあと、それぞれの専門医から集中治療室や麻酔に関する説明を受けた。夜になって主治医との面談。「この病院は脳動脈瘤の手術をたくさんしています。でも毎年1割以下ではあるけど、手術中の動脈瘤破裂で亡くなっています。絶対に事故が起こらない手術はできません」。私はなんとなく「騙された! もっと早くに教えてよ」と思ったが、「分かりました」と答えて、手術の同意書に署名した。
 
主治医が去り、別の医者が来て、「質問などがあったらどうぞ」と言ったので、カテーテル手術の仕組みを尋ねた。太ももから管を入れて、血管伝いに脳まで送る、その管はちゃんと脳の動脈瘤に辿りつく、細い管をさらに細いプラチナが流れていき、瘤の内側に溜まってゆく。私には遠い未来の手術のように感じられた。「さすが21世紀だぜ!」と興奮した。肝心の説明は、よく分からなかった。相手は若く、業務に慣れていなさそうだった。
 
翌日の火曜は朝9時から絶食。16時から手術の予定だったが、時間がずれて18時45分からになった。その延期された3時間近くは、異様なほどゆったりと進行したから、私は船酔いになりそうなほどだった。10歳のときに鼠径ヘルニアで手術を受け、20歳のときに(告白するのになんだか抵抗があるが)真性包茎の手術を受けた。それから20年が経って、未破裂脳動脈瘤の手術を受ける。鼠径ヘルニアは下腹部の手術だったし、真性包茎は陰茎の手術だったし、今回は頭の手術だけど、手術は陰部からおこなう。私の手術歴はおもしろいなと思った。出産は経験できないが、経験できたら「総仕上げ」みたいになったのに、と考えた。そんなことを考えながら、久しぶりの手術室に緊張して入り、手術台に横たわった(注:読んでくれた読者の皆さん、もしこの段落の内容がおもしろかったら、「「シリーズ ケアをひらく」から横道誠さんの新しい本が出てほしいです、書名は『私が真性包茎だったころ』にしてください、と編集部に連絡してください)。
 
全身麻酔を体験するのは生まれて初めてだった。顔の下半分に透明なマスクを装着され、「全身麻酔って、どういうふうに眠ってしまうか興味があったんだよな」と思っているうちに意識が消えた。つぎの瞬間に眼を開くと、主治医の笑っている顔が飛びこんできた。「大成功ですよ! 良かったですね」。私は朦朧としながら「ありがとうございます。いまは何時ですか」と尋ねた。「ちょうど3時間が経ちました。がんばりましたね」と伝えられた。私は何もがんばったつもりがないので、不思議に感じた。だが、私の精神はがんばらなかったとしても身体はちゃんとがんばってくれた、と思いなおした。
 
すぐに集中治療室に入ったが、耐えられないくらいに寝苦しかった。夜勤の看護師が、私には無呼吸症候群があることを指摘した。数年前から不眠傾向が発生していたが、ふだんは寝返りを打つから、ごまかせていた。体の体勢を変えることで、のどに空気が通るのだ。しかし集中治療室では体が仰向けで固定されているから、寝返りが打てない。それで無呼吸が顕在化した。退院後、私は京都市内の耳鼻科のクリニックに行き、無呼吸症候群の治療を受け、別の口腔外科のクリニックで睡眠用のマウスピースを作成してもらうことにした。
 
特筆すべきは、手術を受けた直後から激甚な頭痛に苦しむようになったことだ。主治医にも看護師たちにも訴えたものの、原因が分からない。「脳動脈瘤」「術後」「頭痛」などの言葉を組みあわせてインターネットで調べてみたが、それらしい情報が出てこない。痛み止めのロキソニンをもらって飲みながら堪えていたが、退院後も何週間も頭が痛い。頭をさすると、瘤がある。でもその瘤は5年以上も前からあって、一度も痛んだりしないものだった。「だがもしや」と私はようやく思いいたった。「最近になってその瘤に雑菌が入り、膿んでいるとしたら?」
 
さらに私は想像をめぐらせた。手術の日から痛みだしたが、それは手術中に何か事故が起こったからで、頭をどこかにぶつけられて、それで傷ができ、雑菌が入ったのではないか。私がそのように考えたのは、実は術後、別の医療ミスに気づいていたからだ。カテーテルを挿入した跡とは別に、何か硬いもので数回えぐったような生傷が下腹部にできていて、病室で体を拭いてくれた看護師が見るや否や、「これは一体?」と顔をしかめ、どこかに連絡したことがあった。私はその傷を見て、私の体は意外と粗末に扱われたんだな、と少し傷ついた。そんな記憶があったから、私の頭頂部も何かで引っ掻かれたとしてもおかしくはないと考えたのだ。
 
私は、京都市内の皮膚科のクリニックを受診した。「これは粉瘤かな?」。皮膚科の温厚そうな担当医はつぶやいた。「やはり皮膚の問題だったのか」と私は溜め息をついた。患部を触っていた担当医は「これは膿んでるな」と小さく叫んだ。注射器の針を刺して中身を吸いだすと、膿がたっぷり混じった血液が出てきた。しかも、時間をおいて吸いだすたびに、血液と膿が補充されていくようだった。担当医は、「粉瘤ではなさそうだ。これ以上はここでは処置できない」と説明し、大学病院の形成外科宛に紹介状を書いてくれた。
 
その大学病院に行くと、検査をして、1週間後に手術を受けることになった。主治医から「手術しないとよく分からない」と言われ、心に暗い陰が差した。だが後日受けた手術は局所麻酔を掛けられて45分ほどで終了する簡単なもの。研修医たちが仰向けの私の周りに群がっていて、「何これ?」「わからん」などと会話していた。後日、その腫瘍の分析結果をもらって、「良性のカンセンシュ」だったと伝えられた。「カンセンシュ」は頭のなかで「汗腺腫」に変換されたが、あとで調べてみると「汗管腫」はあっても「汗腺腫」はないようだった。「肝腺腫」というものはあるようだが、これは関係ないだろう。皮膚に関わっているということは「乾癬」の何かだろうか。しかし「乾癬腫」という言葉もない。「乾癬の一種」ということか。それとも「感染腫」? この言葉も存在しない。真相は闇のなかに消えた。
 
話が前後したが、動脈瘤の手術を経たことで、私はケアの問題に目覚めた。集中治療室で寝返りを打てないように拘束された心細い状況。排尿用のカテーテルが尿道に差しこまれて、横たわっていた私は、「空気ポンプで跳ねるプラスチックのカエルのおもちゃに似ている」と考えていた。何度も水を飲ませてもらい、点滴を交換してもらい、尿道のカテーテルを抜いてもらう。ハイデガー哲学を好む私は、「世界・内・存在」をもじって「集中治療室・内・存在」と自分を呼んだ。「存在」と「時間」に対する思索が深まった。
 
集中治療室で対応してくれた看護師はふたりいた。そのうち片方は、びっくりするくらい当時の私の8歳下の恋人に似ていた。だが、それはそれほど不思議ではないのかもしれない、韓国風の流行の化粧をした美人という点で似ていたのだと思う。彼女はデパートで美容部員を務めていたが、もと看護師だった。かつて彼女もこんなふうにして働いていたのだろうかと思うと、看護師の世界が身近に感じられてきた。
 
ベッドから台車に移されて、集中治療室から運びだされた。集中治療室での看護師たちによるケアに私は自分の世界観が更新されていくような感覚を得た。「私は生きのびたのだ」という思いが、世界をきらめかせていた。あらゆるものに感謝したくなっていた。しかも、私がここまで主体性や自由意志を失ったと感じたことは、生まれてから一度もなかった。苦難のあとに恩寵を感じる宗教者の心を理解できた。その喜びに満ちた新世界を体現するのが、周りで忙しく動きまわっている看護師たちだった。
 
集中治療室から運びだされる際、台車の上で仰向けに見た乳白色の流れさる天井の眺めが、心に焼きついた。同じような光景を10歳のときの鼠径ヘルニアの手術でも見た。でも、あのときは、手術前に読んだ手塚治虫の『ブラックジャック』の影響で、手術中の雰囲気が怖くて盛大に泣きじゃくっていたから、流れる天井には何も感じなかった。20歳のときには、包皮を失って下着の刺激になまなましく曝された亀頭の激痛を耐えしのび、ゆらゆらと歩いて帰ったから、このような流れる天井の光景に見放されていた。家に帰ってから何日も寝たきりになり(起きて動くと顔が歪むほど痛いので)、初めてできた恋人と性交できるようになるのを楽しみにしながら、下宿の動かない天井を苦痛に耐えながら見つめていた。読書できないくらい痛く、集中力が乱されつづけたため、天井を見つめながら、いろんなことを空想した。
 
金曜日に退院した私は、十年来の懸案と言える学位請求論文(博士論文)の作成に集中した。そうして半年ほどが過ぎて、その初稿は完成した。すぐに第二稿の作成に取りかかったものの、「同じ作業を続けすぎて心が塞がりそうだ」と思った私は、この博論のあとにどのような研究をするか考えてみると、良い気晴らしになるだろうと判断した。
 
私はさまざまな図書館に行って、いつもどおり文学や芸術や思想に関する書物を読みふけった。ふと思いたって、自分の発達障害の問題を理解するために学術書を読んでみても良いかもしれないと考えた。それまでは一般書ばかり読んで、発達障害について考えていたのだ。医療や看護や福祉に関する本を読むのは、ほとんど生まれて初めての経験だった。発達障害のことが、明確に理解されてきた。この過程を支えてくれたのは、A病院でケアをしてくれた看護師たちの思い出だった。彼女たちの世界をもっと知りたいと考え、発達障害に関係がない看護の本も読むようになった。読む量の比重は次第に文学、芸術、思想から医療、看護、福祉の本に移行した。
 
しばらくして「シリーズ ケアをひらく」という叢書を発見した。私のこれまでの研究は民俗学に少し重なっていたため、数年前、『驚きの介護民俗学』を読んだことがあった。この「シリーズは期待できる!」と思った私は、1冊ずつ購入して読むことにした。どんどん読んでいき、2020年のなかばには、ついに40冊近くすべて読みおえた。春に新しく出た『誤作動する脳』、『「脳コワさん」支援ガイド』、夏に新しく出た『食べることと出すこと』、『やってくる』もむさぼるように読んだ。
 
シリーズには、『発達障害当事者研究』(綾屋紗月・熊谷晋一郎)という本が含まれていた。一読後、私は「ついに発見した」と思った。「最高におもしろい発達障害関連の本を」発見したという思いもあったが、むしろ「自分の人生を変えるかもしれない本を」発見したと感じた。著者のふたりが10年以上前にやったような考察を、いまの自分がヴァージョンアップしたかたちでやることに、意義があるのではないかと考えた。『リハビリの夜』(熊谷晋一郎)という本も含まれていた。こんなすごい本を自分でも書けたらなと夢見た。そうして、私は夏に論文を書いた。その論文を全面的に改訂した書物として、翌2021年の春、『みんな水の中』が刊行された。
 
(横道誠「発達界隈通信!」最終回(第40回)了)

 

 

 

 

 

■何かに頭をつかまれた

 

 わたしは夢を見ていました。それは夢だと気が付かないほどリアルな夢でした。

 

 わたしは水の中を漂っています。このまま底まで沈んでしまうのか、それとも下流へ流されてしまうのかは分かりません。何も不安は感じず、ただ水の流れに身を任せていたのです。水中では息ができないはずなのに、ちっとも苦しくありません。それとも、わたしは何か勘違いをしていただけで、そこは水中でなどないのでしょうか。

 

 頭に違和感を感じました。頭痛とはちょっと違います。ちっとも痛くはないのです。あえて言うなら、わたしの頭を何かがつかんでいて自由に動かせない。そんな感じです。でも、何につかまれているのかは分かりません。そのうち、何かが力を込めたのか、ずるずると引き裂かれる感じがしました。

 

 この時になっても痛みは感じません。血も出ません。やがて頭はふたつに裂かれ、片方ずつ、先端からニョキニョキと角が伸びはじめます。その様はちょうど、アゲハチョウの幼虫が怖い思いをした時に伸ばす突起のような感じです。しかし、わたしは恐怖を感じていたわけではないのです。その時は得体の知れない違和感だけを感じていました。

 

 これはわたしの見た夢の一部です。もっと別の夢も見たのでしょうが、記録に書き残しているのはこれだけです。

 

 こんな夢はそれまで見たことがありませんでした。

 

■眠りに落ちた日のこと

 

 わたしには柔道の経験があります。わたしは柔道選手にしては身体が小さいのですが、そんな人は相手の懐に潜り込んで投げられるようにすればよいと、背負い投げを教えてもらいました。背負い投げは自分の肘を支えにして相手を持ち上げ、転がす技です。柔道選手は体重の重い人が多いので、この技をかけると肘には大きな負担がかかります。そのためか柔道の練習をしなくなってからも、ときどき、肘が痛みました。

 

 わたしの場合、この柔道の経験が災いしてしまいました。脳塞栓症を発症する2、3日前には、しびれるような肘の痛みを感じていました。ところが、柔道をしていた頃の古傷が痛むのだと、わたしは気にも留めませんでした。

 

 その日は来客と打ち合わせをする用事がありました。GIS(地理情報システム)の専門家が、わざわざ東京から出て来てくれることになっていたのです。当時わたしは、兵庫県で新しく野生動物の研究施設を立ち上げようとしていて、その基礎となる哺乳類や鳥類のデータをまとめ、分かりやすく行政職員の言葉に直す(翻訳する?)という作業を行っていました。行政職員とは書類づくりの専門家です。行政職員がいなければ、研究者だけで研究施設を立ち上げるのは不可能です。その作業の中でGISを利用する計画がありました。その日予定していたのは、そのための打ち合わせです。

 

 わたしは、この研究施設の立ち上げのために、長い間まともに眠っていませんでした。半年以上前から、土日もなく、連日深夜の3時、4時にまで及ぶ残業が続いたのです。ただ、眠りたいという欲求は不思議と起こらず、つねに興奮して、神経がささくれ立っている感じでした。

 

 肘の痛みをきちんと病院で診てもらってと妻は心配していました。その心配に対して、「今日は東京から来てくれる大切なお客がある。その方との打ち合わせが終わったら、必ず病院に行く」そう約束しました。「だから、大丈夫、心配しなくてもいいよ」と。

 

 右肘のしびれは右足にも及び、ついには呂律が回らなくなってきました。この時もまだ自分が何か異常な状態にあるとは自覚していませんでした。

 

 でも、何かがおかしいと感づいた人がいたのです。見かねた後輩のひとりが「病院に行こう」と言って、わたしをその人の自家用車に乗せてくれました。しかしその日は、残念ながら一番近い大きな市民病院は閉まっていました。救急なら何時でも入れるのですが、こちらには救急で診てもらうという意識がありません。30分ほどかかって私立の脳神経外科病院を探し当てました。普段は働きに出ている妻がたまたま家にいて、電話でわたしが病院に向かったという知らせを聞き、大慌てで病院に駆けつけてくれました。

 

 東京からやって来た来客は、わたしが車で出るちょうどその時、わたしと入れ違いに受付に現れました。慌てて出ていくわたしと目が合って、約束を違えて去って行くわたしを唖然と見送っていたのを憶えています。

 

 わたしは、即、入院になりました。MRI(磁気共鳴画像)を見て、脳血管に血栓が詰まったのだとわかったのです。脳の圧力が大きくなっていて、頭痛がします。何種類かの、わたしの知らない薬を使って治療が始まりました。薬の中には睡眠薬が入っていたのかもしれません。そして、病院のベッドで横になっていたわたしはというと……

 

「これでやっと、誰に遠慮することなく眠ることができる」

 

 本当は眠りたかったに違いありません。当たり前です。しかし、その時まで、眠気は自覚できなかったのです。

 

 わたしは眠りに落ちていきました。仕事をあれこれ心配するよりも、その時はただ眠れることが嬉しかったのです。そして見たのが、最初に書いた不思議な夢でした。

 

■寝たり起きたりの日々

 

 わたしは左脳に血栓が詰まっていました。右腕の麻痺はまだ起きていませんでした。緊急に点滴が必要だというので点滴を受けましたが、後はもう寝たり起きたりが続き、記憶も断片的となります。病院の看護師によると、眠って過ごした一日目は、右手も有効に動いていたそうですが、二日目からは動かなくなったということです。その後は寝たり起きたりを繰り返し、夢うつつの中で、現実と夢の境がなくなっていきました。

 

 点滴は毎日何時間も続き、やがては「点滴」に敏感となり、アレルギーが出始めました。上半身一面に発疹が出たのです。

 

 アレルギーが出て変わった点は、それまで使っていた薬剤が使えなくなったことです。腕に赤く痕の残る点滴をがまんしながら、別の薬剤で点滴を受け続けました。

 

 都合1か月強の初期治療となりました。これで命は助かりましたが、代わりに多くのものを捨てました。多くのものを捨て去ったのですが、また、それに変わる多くのものも獲得しました。何を捨て去ったのか、何を獲得したのかは、今後この連載で、ゆっくりと考えながら書きたいと思います。

 

■家族との時間

 

 妻はほとんど毎日見舞ってくれました。子どもたちは近所の仲の良い家族に預かってもらっています。病院で過ごす一日は長く感じるのですが、妻といっしょに過ごす時間はあっという間に過ぎてしまいます。

 

 ひとつ不可解なことがありました。それは、いくら頼んでも、妻は鏡を見せてくれなかったのです。アレルギーが出ていたので発疹は普通ではない気がします。それを確かめたかったのに、頑として鏡を見せてくれませんでした。その時は、なぜだか分かりませんでしたが、後で時間を置いて説明してくれました。顔の半分が垂れ下がっていて、それを見れば、あまりの変わりようにショックを受けるだろうと心配したのでした。

 

 入院した当初は五里霧中でしたが、徐々に霧が晴れてきました。現実のことと夢のことに境がなくなっていたのですから――未だに霧がすべて晴れたというわけではないのですが――わたしの目にも状況は少しずつ明らかになっていきました。わたしは右半身がまひしていました。ことばがうまく喋れなくなっているという自覚はなかったのですが、実際は喋れなかったのだと思います。しかし、感覚や感情は――起きている時には――少なくとも主観的には、正常に働いていました。

 

 理学療法士の若い女性が、毎日、ベッドサイドに顔を見せてくれました。わたしの顔色によって、ある日は他愛ないおしゃべりをして帰って行き、また別の日にはわたしを車いすに乗せ、簡単な運動をする場所まで連れて行ってくれました。ただベッドに寝ているという単調な生活から解放される。少しでも刺激のあるひとときが嬉しかったのです。

 

 わたしにとって入院は初めての経験ではありません――カメルーンから戻った時、抗マラリア薬の副作用で肝臓が壊死したことがありました――が、わたしの子どもたちにとっては、家族の誰かが入院するのは初めてです。男の子が6歳、女の子は2歳でした。

 

 「点滴」が一段落ついて、わたしに、少しくらいならばということで病院の外に出る許可が出ました。わたしは車いすに乗せてもらい、それを妻が押してくれました。子どもたちは、男の子が女の子の手を引いて、いっしょに付いてきました。ひさびさに吸う外の空気は新鮮に感じました。「外に出る」という、ただそれだけのことが、これほど嬉しいことだとは驚きでした。外は晴れていました。わたしの感情は「外に出る」という嬉しさに溢れています。それは「自分が生きている」という自覚とは違っていたと思います。ただ「外に出る」という純粋な嬉しさだったと思うのです。

 

 車いすを押すことに慣れていない妻が車輪を溝にはめ、前にも後ろにも動かせなくなって困っていると、高校生の男の子が自転車を降りて近づいてきて、いっしょに持ち上げてくれました。少年は何も言わずに颯爽と去って行きました。

 

 子どもたちも両親といっしょにいる素直な嬉しさに溢れていました。児童公園に行って滑り台で遊び、元気に走り回りました。どんな時でも、いっしょにいるのが嬉しいのです。見舞いを終えて帰るという時、わたしが廊下まで見送りに出ると、女の子はわたしに「いっしょに帰ろう」と言いました――

 

■「死」と「再生」のイメージ

 

 それにしても、わたしが見た「水中の夢」とは何だったのでしょうか。何か意味のある夢だったのでしょうか。

 

 「水」や「流れ」は「死」と「再生」のイメージに近い気がします。琉球や奄美に伝わるニライカナイは「海底にある死者の魂が戻る異界」を意味します。ゴーギャンの有名な絵『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』には、「死」を司る青い神の姿と、生と死をつなぐ川の流れ――タヒチでは、神がうなずけば死んだ人は再び赤ん坊として生まれ、人生を生き直すことができます――が描かれています。わたしの見た夢は「死」、つまり「終わり」と「始まり」を象徴しているかのようです。

 

 不思議なことに、わたしが脳塞栓症を患ってから2、3年は死を恐ろしいものだとは感じませんでした。わたしにとって「死」は、それほど身近だったのかもしれません。ただこの感覚は、健康を取りもどすにつれて恐ろしいという思いに変わっていきました。

 

 

(三谷雅純 「ことばを失う」の人類学 わたしをフィールド・ワークする 第2回おわり)

 

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■ある夕食会で

 

 「聴覚失認」を経験する機会は突然訪れました。

 

 ある夕食会での出来事です。その日は高次脳機能障害者を世話する人のために懇親会がありました。高次脳機能障害の当事者も出席していましたが、当事者よりも、普段お世話している方や病院関係者が目立つ夕食会でした。テーブルに付き、向かい合った人とおしゃべりを楽しみ、ゆっくり夕食をとろう。そして親交を深めよう。そういう主旨の夕食会でした。

 

 わたしの向かいには年配の女性が座りました。お互いに、にこにこ笑ってあいさつを交わします。婦人はある病院で事務の仕事をしているそうです。わたしは研究者で、アフリカや東南アジアに出かけて行く人類学者です。また、高次脳機能障害の当事者で、失語症もあります。

 

「あら、まあ」

 

 おしゃべりは楽しく弾みました。わたしがアフリカの森で出会ったヒョウの話わたしもびっくりしたが、ヒョウの方がもっとびっくりしていて、ヒョウは黄色い‟まり“のようになって、慌てふためいて逃げていったことをしていた時です。突然、あたりに満ちているはずのことばが理解できなくなりました。急な出来事で、自分では何が起こったのかわかりません。

 

 「ブワーン」いう奇妙な音があふれ、見回すと、そこここで人びとは笑顔を作り、口が動きます。向かいのご婦人も、笑いながらくちびるを動かしていました。しかし、ことばは何も聞こえません。知らない外国語を話しているのとは違います。その状態をあえて例えるなら、音の反射がほとんどない無響室の真ん中に、「ザー」というホワイト・ノイズ(白色雑音)が響いている中、ひとり置いてきぼりにされた、そんな感じです。

 

 耳は聞こえていて言葉は脳に届いているはずなのに、何を言っているのかがまったく理解できないのです。

 

 わたしは口をつぐんでしまいました。ご婦人はわたしに何かが起こっていることは察したようです。しかし、そんなことは、よくあるとでもいうように、あまり気にかけず、わたしが突然止めてしまった話を補って、話を継いでくれているようでした。もちろん、ご婦人が何をしゃべったのか、わたしには理解できません。

 

 とりあえず、その場では平気を装って、ご婦人の話を聞いている振りをしていました。それから10分も経ったころでしょうか。また突然、

 

「……があったんです、でも……は引退しました。今は気楽なんです」

 

と、今度はご婦人の話すことが聞こえてきました。きっとわたしは、ほっとした顔をしたことでしょう。ご婦人も、わたしに何かが起こっていたことは察しています。それでも最後まで、何事もなかったかのように振る舞ってくださいました。

 

■わたしの障害について

 

 わたしは脳血管に血栓が詰まる経験をしたことがあります(障害による症状はあとで詳しく説明します)。今では血栓が詰まっても除去する方法がわかっていますし、血栓を溶かす薬もあります。詰まってから短時間であれば、薬によって血栓は溶けて流され、血流は元に戻ります。しかし、わたしに血栓が詰まったのは2002年のことです。血栓を溶かす薬を臨床で使うか使わないかは、確定していなかったはずです。わたしはその薬を使えなかったため、脳の細胞が、一部、壊死してしまいました。おかげで右半身にまひと失語が残りました。まひの認定では2級の重度身体障害者になりました。

 

 ちなみに、まひは身体障害です。失語は高次脳機能障害です。両者は別ものですが、昔から失語症は身体障害とされていました。

 

 わたしの他の障害についても触れておきます。わたしが自分で判断した限りでは、記憶障害や易疲労性、それと感情が漏れ出すという「感情失禁」この「感情失禁」という言い方は、あまり好きではありませんがあります。記憶障害のほうは、おそらく短期記憶障害です。複数の物を憶えておいて、時間が経ってからそれがなんだったかを答えるというチェック法がありますが、この試験で、わたしはどうしても憶えたはずの物が思い出せません。これは今も同じです。

 

 易疲労性というのは疲れやすいことです。不思議なのですが、わたしの場合、少しずつ疲れが増すというより、一定の時間が経つと立っていられないほど疲れが出るというタイプです。今は講義はありませんが、大学に勤めていた現役時代は講義やセミナーが教員の義務としてありました。わたしの失語は5分ほど無理やりしゃべっていると、後はスムーズにことばが出て来るのですが、2時間もしゃべると、とたんに失語が優勢になってしまいます。ですから、大勢の人の前でしゃべる時は、2時間が限度なのです。

 

 いずれにせよ、わたしにはこのような障害があります。しかし、普通に生活している限り聴覚失認はありません。というより、聴覚失認とか純粋語聾(ごろう)とか、最近の言い方では中枢性聴覚処理障害といった症状はない、ことになっているのです。それでも、ふとした弾みで、ご婦人と会話した夕食会で出た症状が出ることがあります。医学的には説明できないことかもしれません。

 

 普段のわたしに聴覚失認はないのですが、わたし以外の高次脳機能障害者には、普段から、耳は普通に聞こえるのに、ことばを理解できないという方がいます。それもあちこちにいらっしゃいます。もちろん「高次脳機能障害者はみんな聴覚失認」というわけではありません。ただ、そんな人は、聴力は普通なのですから、脳がダメージを負ったことが原因で聴覚失認になったことは間違いありません。

 

 わたしは最初、世の中からことばが消えてしまった人の気持ちを理解できませんでした。ふわふわと漂うような気持ちでしょうか。それとも何か固い物に閉じ込められたような気持ちでしょうか。いずれにしても不安なことに変わりはないでしょう。

 

■聴覚失認で失語症の前田さん

 

 わたしが失語症になってから親しくなった方が何人もいらっしゃいます。前田ショウコさんはそのお一人です。

 

 前田さんの聴力は普通に保たれているらしく、ふとした時に「聞こえた」とおっしゃることがあります。しかし、普段は何も聞こえません。その上、発話ができません。それでいて、彼女はいろいろな場所に積極的に出かけて行くのです。

 

 コミュニケーションのために「磁性メモパッド」を持ち歩きます。「磁性メモパッド」とは、磁力だけでペンで書いたところが黒くなり、用が済んだら、また専用の磁石でなぞれば消えるというすぐれものです。子ども向きの「お絵かき磁石ボード」のおとな版です。前田さんは連続した表音文字(ひらがなやカタカナのことです)が読みにくいという、失語症者に多い症状もお持ちです。聴覚失認、プラス失語症というわけです。

 

 快活な方で、話していると前田さんが年配のご婦人だということをつい忘れてしまいます。わたしと同年配で、博物館好きです。生き物が好きだとおっしゃっていました。

 

 わたしが主催していた社会人向けのセミナーにも、おもしろがって参加してくださいました。ただし、他の講師のセミナーには出たがりません。講師に知識がないと、前田さんのような人と、どうやってコミュニケーションしたらよいのか見当がつかないのです。知的障害者なら、わかりやすいことばに言い換え、ひらがなを多用すれば、伝わることもあります。しかし、前田さんは知的障害者ではありません。脳の機能で、ことばに係わる部分だけが障害を受けているのです。ひらがなやカタカナで書くよりも、漢字を使った短い文章で表現する方が伝わるのです。

 

 セミナーの時、わたしはその日喋ろうと思っていたことを大きめの文字で印刷して、セミナーの前に前田さんにお持ちしました。前田さんはそれを読んで、顔を輝かせて喜んでくださいました。

 

 前田さんの場合、視覚や触覚、嗅覚が残ったことは、快活さを失わず、活動的であり続けたことの基本だったと思います。感覚の多くが残っていたことの貢献が大きかったに違いありません。成人してからの障害だったので、手話は覚えられませんでしたが、いろいろな物事の概念は学校教育を通じて、十分認識されていました。その知識を応用して、興味のあることに何でも挑戦しているのだろうと思います。

 

 持って生まれた明るい性格も幸いしたのでしょう。前田さんは話してみるまでは障害者だとわかりませんし、相手が前田さんの障害を認識して、内容を「磁性メモパッド」に書いてくれても、多少のわからないことは類推で補い、それでもわからないことは笑い飛ばして気にしないのです。それがいいのかどうかは別にして「笑い飛ばして気にしない」態度は豪快に見えます。豪快には見えますが、一方でそれは相手を思いやる、前田さんなりの繊細さの表れなのかもしれません。

 

 

***

 

 

 

 前田さんのように快活な方でも困る時があります。それは災害が起こり適切な行動が求められる場面です。ラジオや地域の防災無線はもちろんですが、テレビでも、緊急時にはことばで災害情報を伝えることがよくあります。この時、アナウンサーが肉声で伝えることが多いのです。ところが、聴覚失認の方は脳にことばが届いてからのプロセスがうまく働かないのですから、ことばで伝えられてもよくわかりません。聞こえていることが理解できないのです。

 

 津波の時に「すぐに逃げろ!」というのと、地震の時に「今はまだ外に出ると危ないから、うかつに動くな」というのでは、指示がまったく異なります。それをうまく伝えるためには、どうすればよいのでしょうか……

 

■わたしの体と障害をめぐるフィールド・ワークへ

 

 冒頭で触れた、ある病院の事務をなさっていたご婦人は、夕食会の最後に「今日は楽しかった」とおっしゃいました。そして、最後まで、わたしの様子が変だったことには触れませんでした。

 

 一方、わたしはといえば、突然、何を言っているのかが理解できなくなったのですから、今から思うと、慌てて当然だったのかもしれません。しかし、その時は妙に落ち着いたままでした。

 

「相手は病院の関係者だから、きっと高次脳機能障害者にも慣れているに違いない。それに、たとえそのご婦人がわからなくても、周りには、普段から高次脳機能障害者の手助けをしている人が多くいる。わたしが突然ひっくり返っても、きっと慌てることはないだろう」

 

そんなふうに考えて、ゆったりと構えていました。

 

 そして、その時は気が付きませんでしたが、後になって考えてみると、自分にはわからなかった聴覚失認者の体験を、ほんの少しだけですが、できたのだと悟りました。わたしの「聴覚失認」を「突発性難聴みたいだ」という人もいましたが事実はそうなのかもしれませんが、医学的な分類は、この際、どうでもよいのです。

 

 (突然、ことばが理解できなくなった)

 

 (耳は確かに聞こえていた。自分はちょっぴり不安だったが、ゆったり構えてもいた)

 

 (新しい体験を、ほんの少しだけした)

 

 (わたしのような人類学者にとって、この「聴覚失認」経験は、別の世界に触れるまたとないチャンスかもしれない)

 

 

 幸か不幸か、ことばの理解は、すぐ元に戻りました。ただ、それから少しずつ変わっていく自分も感じていたのです。

 

(三谷雅純 「ことばを失う」の人類学 わたしをフィールド・ワークする 第1回おわり)

 

 

さて

あかんぼは

なぜ あん あん あん あん

なくのだろうか

 

ほんとに

うるせいよ

 

あん あん あん あん

あん あん あん あん

 

うるさか ないよ

うるさか ないよ

 

よんでいるんだよ

かみさまをよんでるんだよ

みんなもよびな

あんなに しつっこくよびな

 

「みんなもよびな」八木重吉 信仰詩集『神を呼ぼう』

 

 

赤ちゃんが泣く理由

 

新米のパパママにとって、子育ての最初の難関の1つが、泣きわめく赤ちゃんとどう向き合うか、であろう。おむつを替える、ミルクをあげる、ということで泣きやむのなら簡単な話であるが、夜も頻繁に泣き声で起こされ、寝不足のぼーっとした頭で考えると、この簡単な解決策すら思いつかないこともある。

 

医者の世界では、次の手が思い浮かばないときのために、あらかじめ「鑑別診断」の一覧表を用意しておくとスムーズで、一覧をチェックする習慣をつけておくと診断の“漏れ”がなくなる。心理的に追い込まれた状況では、とても視野が狭くなってしまい、普段なら容易に思い付くことにたどり着けなくなってしまう。チェックリストを外部化しておくことは、視野狭窄を解除して普段の水準に近付けることにかなり役立つのである。

 

では「泣く」原因のチェックリストをつくってみる。

 

①おなかがすいた

②おむつが汚れている

③眠りを妨げられた

④(ミルクを飲んだ直後)げっぷが出ずに苦しい

⑤体のどこかに痛みを感じている

⑥部屋の温度が暑い/寒い

⑦体の向きを変えたい

 

……このぐらいであろうか。

 

こうやってリストをつくってみると、いわゆる「生理的欲求」が多く、原因にたどり着ければ解決策もおのずから見えてくるなと思えた。生後1~2カ月のときは、夜泣きで睡眠時間が寸断される回数が多かったけれども、これら「生理的欲求」に応えることで泣きやむので次第に頭を悩まさなくなった。

 

疳の強い子とは

 

ただ、赤ちゃんによって泣く「閾値」には個人差があるようだ。いわゆる「疳(かん)の強い子ども」は、そうでない子どもに比べ、わずかなストレスが加わっただけで泣いてしまう。しかも泣き方に特徴があり、より響き渡る声で、高い声から低い声まで幅広い周波数帯を使って泣きわめくのである。これが、泣き声を聞く側の「カンに触る」わけである。

 

東洋医学では聞診(ぶんしん:問診ではない)といって、患者がどんな調子の声でしゃべるかを、診断につながる情報として重視するので、地下鉄やバスで子どもがぐずっている場面に出くわすと、私はついつい「ああ、疳の強い子だな」とか「まだ本気で泣いていないな」とか観察してしまう。「疳」という漢字は、昔は「肝」と書いた。つまり、人目をはばからずギャン泣きしている子どもは「肝」の臓の働きが強く、昂(たかぶ)っていると考えられてきたのだ。

 

小児科で漢方の専門ドクターに言わせると、そもそも子どもは「肝」の働きが高まりやすい生き物なのだそうである。人体の機能を支える5つの器官系「(五臓」)は、小児期において「二有余三不足」、すなわち2つの臓器は機能亢進を来しがちであり、残る3つの臓器は未熟なため機能低下となりがちである、という学説がある。

 

例えば、消化器系「(五臓」のうちの「脾」に当たる)は未熟であるがゆえに、ミルクしか受けつけず、容量にも限界があるので、昼夜を問わず2~3時間おきに哺乳が必要である。早産児では「肺」の成熟が生命予後を大きく左右し、泌尿生殖系「(五臓」のうちの「腎」)の発達は思春期までかかる、というわけで「三不足」は脾・肺・腎である。

 

OSが頻繁にアップデートされている状態

 

他方、「二有余」の肝・心は生下時からロケットスタートである。新生児の心拍数は普段でも120~140/分とされ、これはジョギングをしている大人並みの速さである。

 

そして「肝」であるが、東洋医学では腹部臓器のレバーだけを指すのではなく、神経系や免疫系も包含した一大ネットワークと捉えている。ヒトをヒトたらしめている巨大な脳は、その大きさゆえに出産を危険にさらしているが、出産を終えた後も脳は大変な勢いで発達を続ける。

 

パソコンにたとえればOSのメジャーアップデートが一日のうちに何度も何度もあるような状況だろう。当然、システムとしては不安定になっており、わずかなインプットがあるだけでメモリはオーバーフローしてしまい、異常で過剰な出力を返してしまいがちなのもやむを得ない。

 

新生児期は睡眠時間こそ長いが、睡眠の深さは非常に浅いといわれる。すやすやと寝ていると思っていたら、急に何の原因もなく両腕をパッと広げるモロー反射が出てしまい、それに驚いて目を覚まし、せっかく気持ちよく寝ていたのに起こされたとばかりに、大泣きしてしまうことがある。本当に何も原因がないのではなくて、大人には聞き取れないような、わずかな音に反応してしまったか、あるいは脳内で神経回路が新しくつくられて電気信号が流れたか、そういった要因が働いたのであろう。「肝」が強く神経系の成長力が大きいとはいえ、ゆっくり眠れないようでは気の毒に思える。

 

「カンが強い」親子と視覚優位社会

 

あまりにも「肝が強く」、昼夜を問わず騒ぎすぎて疲れ切ってしまう場合には、「抑肝散(よくかんさん)」という薬を処方するのだが、新生児に漢方薬を服用させるのは難しいため、母親に漢方薬を飲んでもらい、母乳を通じて子どもに投与する方法が古くから採られてきた。この方法はもう1つのメリットがある。子どもの夜泣きで母親も睡眠不足になってしまうと、イライラして「肝」が昂ってくる。そうした母親の状態も含めて改善が期待できるのだ。

 

余談になるが、「抑肝散」に似た名前の「抑肝扶脾散(よくかんふひさん)」という薬がある。これはかつて「神仙労(せんせんろう)」と呼ばれた思春期の神経性食思不振に使われた。身体イメージが歪み、極端に食事を減らしたり、リバウンドで過食に陥ったりする状態も、「カンが強い」ために起こると考えられたのである。厚生労働省の国民健康・栄養調査によると、20代女性の1日の平均摂取カロリーは、今世紀に入って1700kcalを下回っており、これは食糧難で餓死者も出た第二次大戦直後の数字よりも低い。日本の若年女性、妊娠適齢期の女性は総じて「カンが強い」と言ってよさそうである。

 

私の想像だが、最近増えているとされる「発達障害」は、「カンが強い」母親から生まれた「カンが強い」子どものことなのではなかろうか。ここで注目したいのは、西洋医学では「障害」と名付けられているものが、東洋医学では「強さ」とみなされている点である。私は漢方医として「カンが強い」大人の患者を外来で何人も診ているわけであるが、総じてインテリジェンスが高く、優れた視覚的認知を持っている人が多い(ただ、それゆえに体調の悪さを抱えてしまう)。

 

鍼灸医学の古典「黄帝内経」によれば肝は「目に開竅(かいきょう)す」、すなわち目の働きを司るとされている。母親世代が他者の視線を気にして食事の摂取量を減らし、生まれてくる次の世代が鋭敏な視覚的認知を生かしてネット社会を発展させているのだとすると、現代社会は大変な視覚指向社会である。「発達障害」とみなされる子どもの増加も、それに適応した現象と言えるのではないかと思う。

 

シンクロを崩すあやし方

 

さて、「抑肝散」の話に戻す。

 

この漢方薬を飲ませても、ぴたりと泣きやむものではない。それが現代医薬の鎮静剤とは違う点である。少しずつ落ち着いてくる感じで、夜泣きが減るよりむしろミルクを吐かなくなったり、体重が増えるようになったり、胃腸の具合がよくなるという“副作用”が実感されることもあるかもしれない。従って、泣き出してしまった子どもを泣きやませるには、結局あやすことになるわけだが、肝の働きが昂って泣いている場合は、あやし方に多少コツがありそうである。

 

肝の働きが過剰であるということは、神経系が入力に対して過剰な出力を返しているということであり、入力と出力の差分は、自身が生み出している。おそらく自分の発している泣き声や促迫する呼吸のリズム、筋肉の運動が、入力となってしまい、一種のハウリングのようになっているのであろう。うまく泣きやまないときは、だいたいあやす方も焦ってしまっていて、過呼吸になっている赤ちゃんのリズムに合わせて速いリズムで体を揺らせてしまっている。このように、あやす方の入力もシンクロしてしまうと、よりいっそう強い入力となりハウリングを強めてしまう。

 

このようなシンクロを抑えるには、わざとリズムをずらして体を揺らす必要がある。子守歌のリズムは、だいたいゆったりとしていて、シンクロを崩す効果がある。また、黙って抱きあやすよりも、声を発している方がよく、それも赤ちゃんのリズムとずらして声を発すると早く泣きやむ印象がある。歌を歌うのもよいが、私は歌に自信がないので赤ちゃんの泣き声をまねて、エコーのようにずらして発声するようにしている(最近、リモートで講演する機会が増えているが、器械の設定ミスで自分の話し声が少しずれてスピーカーから漏れてくると、とても話しづらい。おそらく赤ちゃんもタイミングのずれた泣き声を聞かされると泣きにくいのではないか)。

 

赤ちゃんと認知症――寝入りばなに泣く理由

 

これだけいろいろ工夫しても、どうしても泣きやまないこともある。実は空腹だったとか、おむつが湿っていた、といった「鑑別診断表」のチェック漏れがあると、まったく泣きやまない。生理的欲求は絶対的であり、小手先のテクニックを弄したところでまったく太刀打ちできない。もう1つは、寝入る前に泣くパターンである。

 

昼寝や夜の遅い時間、ほかに理由がなく不機嫌になっていると、あぁこれは眠いのだなと気付く。あたりを静かにして、照明を暗くすると、眠りに陥るのを嫌がるかのようにやや低い声で長く引っ張り、引きずるような調子で泣くのである。睡魔に抗わずにおとなしく寝ればいいのに、と思うのだが、まるでこの世の終わりを迎えるのを嘆き悲しむかのように切々と泣く。その様子は、生理的欲求の表現として泣くのとは明らかに異質に感じられる。

 

眠りに落ちるのをひどく嫌がったり、恐れたりする“症状”は、成人でも見られることがある。それはたいてい、認知症などで見当識障害がある場合か、終末期を迎えた患者さんで死の恐怖を抱えているケースである。

 

よく考えると、新生児は先述したように神経系が急速に発達していく途上であり、頻繁にシステムの更新が起こっている状態なので、記憶が日々積み重なっていかず寸断された状態であると思われる。私が朝出勤して、夜に帰宅すると、わが家の赤ちゃんは「どちらさまですか?」というような怪訝な顔で出迎えてくれる。これは半日以上も間が空くと、記憶が失われてしまうからであろう。それが証拠に、私たちは新生児の頃の記憶をたどることができない。脳のシステムが安定し、過去から現在に至るまでの記憶が一続きになるのは学童期、つまり物心付いた頃、ということになる。

 

赤ちゃんの脳は認知症にも似た状態であるとすれば、眠りに落ちる際に感じる悲しみと恐怖が入り混じった気持ちは理解できる気がする。今日がどんなに素晴らしい一日であっても、親しい人から笑顔で可愛がられた日であっても、その記憶は次の日には引き継がれない。睡眠は一日の人生の終わり、死を意味する。だとすれば、失われる記憶、身近な人と過ごした時間を惜しみ嘆くのも当然であろう。

 

“大いなるもの”に向けて

 

このような実存不安を力いっぱい表す子どもに、私はどう声を掛けたらいいのであろうか?「大丈夫だよ~」と言ってあやしても、本当に大丈夫なのか、実のところは確証がない。私たちに今日と同じような明日が来ると、なぜ言えるのか?現在の日本は新生児死亡率が極端に低いが、長い人類の歴史の中では例外的な状態であり、これまでずっと赤ちゃんは頻繁に命を落としていたのである。それに、医療関係者である私は、ひょっとしたら新型コロナウイルス感染症に罹患して、あっという間に命を落としてしまうかもしれない。そういう意味では、子どもの杞憂と単純に片付けられないものがある。

 

また、逆にこう考えることもできる。

 

私たちが死を迎えるときに感じる不安は、ちょうど赤ちゃんの寝入りばなの啼泣に似ている。私たちは神様か仏様か分からないけれども、何か“大いなるもの”に抱かれていて、「怖がらなくてもいい」「大丈夫だ」とあやされていても、恐れに支配された私たちの耳にはその声が入ってこない。私たちをあやす“大いなるもの”は、そんなに必死にならなくても、君の存在は滅びることはなく、次に続いていくものなのに……と思っているのかもしれない。

 

詩人が「みんなもよびな」と呼び掛けているのは、この“大いなるもの”の名を呼びな、ということなのであろうか?

(津田篤太郎「漢方医の赤ちゃん観察記」了)

 

 

ずっと不思議だったのだ。発達障害当事者の書く本はなぜあれほど面白いのか。テンプル・グランディン、ドナ・ウィリアムズ、綾屋紗月、東田直樹らが教えてくれる彼らの世界は、いわば「別の世界線」をかいま見せてくれるようなスリルがある。その系譜に連なる新たな傑作が本書である。

 

著者はASD(自閉スペクトラム障害)とADHD(注意欠陥多動性障害)の診断を受けている。彼は、先人の「当事者研究」を踏まえつつ、彼自身の世界のありようを詩のように、論文のように、小説のように記していく。著者自身による漫画やイラストも満載だ。複数の形式を用いることで、彼自身の世界が立体的に立ち上がる。

 

この奇妙なタイトルも、彼自身が常に感じている、水の中を漂っているような感覚に由来する。これに限らず、彼の感覚はわれわれの日常的な感覚とはかなり異質だ。彼らは何が起きるか予測がつかない「魔法の世界」に生きている。水への強い憧れと水に関連する青色を好み、周囲の世界との隔絶感、孤独感をしばしば抱いている。過集中による至高体験をしばしば経験するが、いわゆる「タイムスリップ現象」(トラウマのフラッシュバックに近い現象)にも苦しめられている。また性自認に関しては、男女いずれとも定めがたいXジェンダーが多いという。

 

本書でもっとも興味深いのは、こうした特異な世界の記述に際して、数多の文学作品が縦横に引用される点だ。従来の当事者研究が自然科学的な記述を目指すのに対して、横道は「文学および芸術と関係づける」ことを目指す。近年注目を集めている「中動態」概念も、発達障害者にとっては日常的なモードということになる。彼らはまるで、哲学の概念を感覚的に基礎づけ、観念の受肉を試みるかのようだ。

 

そう、私たち定型発達者(マジョリティー)にも、文学や芸術を通じて発達障害者の世界の一部を共有し、横道のいう「脳の多様性」に思いを馳せることができる。その時過去の傑作群は、まったく異なる相貌をもって立ち現れるだろう。これが面白くないわけがない。その意味で本書は批評の書だ。

 

作品や作家を診断するのが「病跡学」なら、ここにあるのは病跡学を反転させた「当事者批評」という新しい可能性の端緒なのだ。

(日本経済新聞2021年6月5日 書評欄より全文転載)

 

 

 

【イラスト=笹部紀成@『リハビリの夜』】

 

 私の読書はとても場当たり的なものだ。

 

 世の中の知的な動向に絶えず気を配っている人からすると、相当にずっこけている。どんな本が売れていて評判になっているのかにとても疎い。だから世の中の人たちが評価しつくした頃に、ふと手に取ってみて、これは凄い本だ、などと声を出すと、いまごろ何言ってるんだよ、みたいな声が返ってくるという経験をよくする。あるいは、一度読んで感銘を受けたのにしばらく忘れていて、後になって誰かがその本のことを言及したり世間で評判になったりしているのを聞き、ほお、面白そうな本だな、と思って手に取ると、それは以前自分が凄いと思って読んだ本だった、というようなこともある。毎日患者と会うことに忙しくて、たまたまふと出くわした泉で渇きを潤すというような按配で読書をしているせいだろう。この本で頻出する表現で言うなら、本のほうで私を拾ってくれるときしか本を読んでいないのだ。

 

 熊谷さん(書評を書くときにいつも困るのは、著者をどう呼ぶかということである。純粋な学術書を同じ領域の研究者として書評するときは、呼び捨てにするのが正しいような気がしているが、この本の場合、著者の熊谷晋一郎氏とは何度かお目にかかっていて、一方的に親しみを覚えている人なので、ちょっと呼び捨てが難しい。この一文では熊谷さんで通させていただく)の『リハビリの夜』も、たまたま誰かが面白いと言っていたので手に取ってみたら、驚き、唖然とし、凄い本だと思った。だがそれは、すでにこの本が世間に評価されて賞まで取ってから数年経ってからのことだった。

 それからもう6~7年経ってしまった。だがこの本は、何度読んでもそのたびに、別の角度からこの本と対話している自分、この本に魅せられている自分を自覚させてくれる。稀有な本である。そういうわけで、この本は私のオフィスのデスクの上の、手の届くところに置いてある。ときどきふと、この本のところどころを無性に読みたくなるからだ。そんな本が私には何冊かある。

 

 精神分析家のウィルフレッド・ビオンという人が書いた『注意と解釈』という無味乾燥なタイトルの本も私にとってそんな本で、その本の原書と訳書が私の机上にはいつもある。とはいうものの、そのふたつの書物はかなり趣が違う。乾いて硬い『注意と解釈』と湿潤で柔らかい『リハビリの夜』。だが私を惹きつけるものは突き詰めれば共通しているようにも思う。粗雑な言いかたに聞こえるかもしれないが、それはこのふたつの本が帯びている真実の感覚だ。なまの事実というものは豊かな解釈の可能性を持っている。その二冊はまさになまの事実のような生々しさを帯びている。何度読んでも何かを考えるように私を誘ってくるのだ。

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「さもしい分析家」を惹きつけるもの

 

 毎日患者と会って暮らしている精神分析家なので、どんな本を読んでいても、どうしてもその視線がせり出してくる。しかも、この本には、人が変化し、進展していく過程、そしてそれを助けようとする人物が頻出する。だから、いやが上にもその傾向は強まる。人が人と援助的に交流することがどういうことなのか、そして援助されるということが援助する側の思惑によって、あるいは思惑にもかかわらず、どのように達成されあるいは失敗するのか、そうしたことに引き寄せて読んでしまいがちになるのだ。

 

 それはそれでやむを得ないだろう。どうしたって私は精神分析家であって、それ以外ではないからだ。ほかの職業でもそうなのかもしれないが、精神分析はとりわけそういう職業だ。精神分析家は自分のプライベートなこころを差し出して訓練される。つまり、自分自身が精神分析を受ける。このことは、パーソナルな自分が取り返しのつかない形で変わってしまう可能性を前提として、職業訓練に入るということだ。パーソナルな自分が維持された上でスキルや知識を身に付ける、というのとは根本的に違う。私はもはや、何もかも精神分析のレンズを通して見たり聞いたりするしかできなくなっている。その私がこの本を読むと、ある種の実用書として役立てたくなる私がどうしても出てきてしまう。さもしい話だ。

 

 さもしい分析家としての私がこの本から拾い上げるものはたくさんある。熊谷さんが生きた体験から抽出して、名前を付けた多くの興味深い概念である。

 

 たとえば、「ほどきつつ拾う関係」「まなざし/まなざされる関係」「加害/被害関係」という三つの関係性のモデルがある。このあたりは当然、分析家として患者と一緒にいるときの患者と私のあいだに起きていることと即座につなげて読んでしまうことになる。母子関係的で無媒介的な二者関係のなかに、「法」「基準」「父」というものが導入されて三者関係が生まれる。それは精神分析の営みのなかで日々私が体験している、もしくは体験することに失敗しているなりゆきである。

 

 その私の視点からすると、熊谷さんの描き出したなりゆきは、あまりに強引に第三者性、もしくは「基準」が突きつけられてしまったために、きわめて不毛で反復的な迫害的世界に閉じ込められる過程である。私たち分析家が「言語」という第三者を持ち込む手続き、解釈の供給という介入をあまりに性急におこなったときのありさまを彷彿とさせる。どのような援助の局面でも、援助者側の固有の何かが、あまりに早くあまりに強くそこに持ち出されれば、同じようなことが起こるのだろう。それは援助される側の存在の連続性を壊して断片化に導く。その様子を熊谷さんは、体の言葉でビビッドに描き出している。

 

 あるいは、「折りたたみナイフ現象」から「敗北の官能」に至る受身的なゆだねる快の考察にも、さもしい分析家は惹きつけられる。トレイナーがある緊張を維持しながら脳性麻痺の人の関節を伸展させるべく力を入れる。なかなかうまくいかないにもかかわらずそれを持ちこたえていると、そのある種のパワーゲームがクライマックスに達したときに、突然、脳性麻痺の人の緊張が消え去り、関節はストンと伸びてしまう。そのときに彼にはある種の快が生じる。

 

 これは私たち分析家と患者とのやりとりでの行き詰まりがあるクライマックスに到達したときに、そこで起きているできごとそのものに双方が降伏する局面と似ている。事態が不連続に転換し、変化と進展と安堵が生まれるというなじみ深いできごとである。過程そのものにゆだねること、降伏すること、ということの持つ生産性とある種の快。それは「目標」というものが過程のなかで官能的動因へと脱構築されていくことで実効性を生むという逆説のあらわれだ。こうしたことも熊谷さんはきわめてビビッドな体の言葉で語っている。

 

 このように、分析家としての私の営みにとって、この本はとても有用な示唆を与えてくれる。だが、そんなふうにこの本を概念や要旨に還元することは、さもしく実用主義的に読みたい私の部分を喜ばせるだけだ。私のなかのそうでない部分が面白いと思っているのは、そんなこととは関係ない。それははっきり感じられる。この本を読むという体験は、そのようなさもしさを満たす体験をはるかに超えた何かなのである。そんな節穴のような狭い視野では、この本の面白さの中核にたどり着くことはできない。

 

 とにかく、私がオフィスでこの本をときどき手に取って楽しんでいるのは、そういうさもしい動機からではない。それはまちがいない。

溶け.PNG

体験したことのないことが私に生きたまま伝わる

 

 この本は脳性麻痺という事態の当事者が自身の体験を語っている本である。熊谷さんが脳性麻痺というありかたを抱えてこの世に生まれ、その障害を生きてこられたおかげで、私たちはこの本が読めている。その事実こそがこの本の面白さの中核にある。この本の面白さを考えるとしたら、まずこのあたりまえのところを出発点にするべきだろう。

 

 もちろん、脳性麻痺を抱えた人たちは過去にも現在にもおびただしくおられる。だがそうした人たちはこの本を書かなかった。書きたいとも思わなかっただろう。だが、何より熊谷さんのようには書けなかったのではないか。

 

 私は脳性麻痺になったことはない。「折りたたみナイフ現象」を経験したことがない。だが、この本を読むと私はそれをいきいきと実感的に思い描ける感じがしてくる。この本を読む前にはとんと想像もできなかった、脳性麻痺になっているという体験がどんな体験なのか、わかる気さえする。なじみ深いとさえ感じる。

 

 体験を体験としての生気を失わない形で言葉にして伝える。熊谷さんはそれに成功している。そのおかげで私たちは、まだ体験したことのない脳性麻痺を生きる体験を、こころのなかで微(かす)かにでも生きることができる。体験をその生気を維持して伝えうるように言葉を用いる。それが途方もなく困難な課題だということは、どれほど強調してもしすぎることはない。その大きなハードルを越えて彼は書いてくれた。このことがまず、なんと言っても重要だ。

 

 体験というものは言葉にはできない。これはあたりまえのことだ。体験という言葉を純粋に使用するなら、言葉を受け取るという体験は、単に声の音波を聞いたりインクの濃淡を見たりすることでしかない。言葉の意味は体験とは違う。どれほど私が言葉を連ねて、旬の鳥貝の甘み、西瓜に似た香り、酢飯と混然となるときのうっとりする感覚について語ったとしても、けっして私が鳥貝の鮨を食べる体験そのものを読者に伝えることはできない。体験は言葉を超えたものだ。だが、にもかかわらず、体験が生気を失わないで言葉になっていると感じられるときがある。書き手の書く体験が具体的に伝わってきたと感じられるときがある。

 

 言葉は体験そのものを描き出せない。したがって体験を伝達することもできない。言葉は体験そのものでないが、体験の帯びる生気を受け手のなかに生み出すことができる。ひからびた生気のない形での伝達と、生気を保持した伝達、その違いは何なのだろう。おそらく、生気を保持した伝達においては、私たちの内部の何か、おそらく記憶のなかの何かが喚起されるのだろう。体験そのものは伝わってこなくても、その体験をとりまく感じ、雰囲気が、その言葉によって読者にきわめてミクロではあっても喚起される。おそらくそうした「感じ」や「雰囲気」は私たちの記憶のなかにすでに蓄えられているものなのだ。「感じ」「雰囲気」が喚起されたとき、書き手の持った体験、言葉にできなかった体験と相似な、私たちの無意識的記憶のなかの体験が、やはりきわめてミクロに動き始める。

 

 体験そのものを言葉が伝えることがなくても、その体験とつながる、受け手にとってなじみ深い何かがこころのどこかで動く。そのとき私たちは体験が生気を保持した形で言葉で「伝えられた」と感じるのだろう。熊谷さんの言葉は私にとってそれを可能にした。そういう力を持っていた。それはなぜなのだろう。

 

双眼鏡.PNG

夜でつながる

 

 思うにそれは、熊谷さんのことがとても身近に感じられるからだ。身近、という言葉の文字通りの意味、身体的近接感のようなもの、熊谷さんの体温さえ感じられる感覚が、この本を読む体験のなかで私に瞬間瞬間に生まれてくるからだ。そんなことが起きるのはおそらく、私が熊谷さんと大きな共通基盤の上にいるという感覚を持てるからだと思う。

 

 この書物の題が「リハビリの『夜』」であることに注目するべきだろう。彼はリハビリの昼でなく、夜に着目する。もちろん熊谷さんは医者だから、「協応構造」などという固い言葉で物を考えもする。それはこの本の昼の部分だ。私もさもしい分析家として、先ほど述べたように熊谷さんの概念を理解し、自分の実践にとっての示唆として受け取る。そのとき私も昼の人であり、昼の熊谷さんと話している。しかし、昼は夜があってこその昼である。

 

 人が眠っているとき、みんな誰もが眠っている人だ。みんな夢見る人だ。個人と個人とのあいだの差異は溶けて流れ去り、眠り夢見る同じような人間になる。熊谷さんは自分がふつうに歩いている夢を見ると書いている。逆に私は、夢のなかで自分が手足を動かせず溺れてしまう夢を見ることがある。夜はすべての人を同じ場所に立たせやすい。たとえば、精神科病棟で昼間の患者はそれぞれに病気によって特徴的なふるまい、思考、感情を示してくる。彼らはそれぞれに、まだ退院できない程度に私たちの気を揉ませる人たちだ。しかし、夜が来て彼らが眠ってしまえば、彼らはみんな普通の眠っている人になる。それは、体の病気の人が眠っていてもあいかわらず体の病気を持つ人で、当直医が絶えず気を揉ませられていることとは対照的だ。精神科の当直医は要するに、昼の患者を夜の患者に変えればいい。眠ってもらえばいい。

 

 熊谷さんは昼間、脳性麻痺の人としてリハビリを受けていた。しかし夜の彼を必ずしも脳性麻痺の人であると考える必要はない。夜、たいていの人は彼と同じように「二次元の世界」に憩うのだし、そこで思い描く空想や想起には官能がつきまとっている。熊谷さんも私たちも、昼間のことを思い出したりしながら、官能的な世界に入り込んでいく。

 

 熊谷さんの書く言葉には「色気」がある。「官能的」と言ってもいい。それは絶えず昼の体験を裏打ちしている夜の体験を意識しているからだ。彼はたぐいまれな夜の語り手である。たとえば、「ほどきつつ拾う関係」という、リハビリの進展促進的な関係体験を語るとき、彼はそこが非対称の場であると語り、そこで大きな存在に自分をゆだねることが生む、ある種の「官能的」体験を描き出す。それは「敗北の官能」だ。この「敗北の官能」が熊谷さんにとっては、こころ慰められる、憩いと安堵に満ちた体験であり、進展の基盤を作るものだということは、この本で何度も語られている。この「敗北の官能」こそ、リハビリの「夜」のもっとも中心的で建設的な側面なのだ。そしてその夜の側面こそ、熊谷さんと私の共通基盤なのだ。

キャプチャ.PNG

豊かな太腿に「敗北の官能」が……

 

 私は脳性麻痺の体験を持てない。そして、リハビリを受ける体験も持てない。つまり、昼のリハビリ体験を持つことができない。だが、ちょっと思い起こせば、リハビリの「夜」の体験、援助されるときの「敗北の官能」を自分が体験していたことが思い出せる気がする。

 

 小児喘息を克服できないまま思春期を迎えた私は、高校生になると親元を離れて進学校である男子校に進んだ。官能などというものの入り込む余地が微塵もない殺伐とした環境で暮らしながら、ときどき発作を起こしては医院に駆け込んだものだった。

 

 点滴をされ吸入を受ける。ベッドに横たわっていると、自分がとても無力な存在だという気がしてくる。そこにつかつかと若い看護婦さん(この当時は看護師という言葉はなく、看護婦さんだった)が近付いてくる。私には白いストッキングの脚が見えるだけだ。看護婦さんはいつもは華奢に見える割に、太腿はとても肉付きがよい。その太腿に頬ずりしたいような、頬ずりしたまま泣いてしまいたいような気持ちになる。そんなことはできない。でも何か懐かしいような気持ちだ。そのままじっとしていると、徐々に体が楽になり、同時に自分が何か大きなものに降伏してしまったような気分になり、わけもなくうっとりする。しばらくうとうとする。

 

 そうしたことを私は一年に何度も繰り返した。看護婦さんと言葉を交わしたことはほとんどない。彼女はひとりの人間というより、私より大きな何かの一部であり、しいて言うなら豊かな太腿だった。それに私は決定的に降伏するしかない、ゆだねるしかないと高校生の私は感じていた。

 

 別のことも思い出す。私はしばしばモノをなくす。失くし物をするという体験は、確信を持ってそこにあると考えていた場所からモノが消えてしまうという体験だ。当然驚く。そして自分というものがあてにならないことに、ひとことでいえばバカであることに傷つくことになる。毎日三回くらいは探し物をしているので、いい加減慣れそうなものだが、そうはいかない。毎回毎回私は傷つき、自分を罵る。その繰り返しだ。

 

 ある日タクシーから降りて家に着いたら財布がない。激しく動揺する。例によって自分をこころのなかで罵倒する。絶望的によるべなく悲しい。領収書をたよりに翌日電話してみる。財布は届いており、営業所に行けば財布は返ってくるということがわかる。ほっとして胸をなでおろす。緊張が緩んで涙ぐみそうになる。行ってみると営業所は祖師ヶ谷大蔵にある。私が五十年近く前大学1年生のときから2年間暮らした町だ。私鉄を降りて営業所に行き、財布をもらってそのあたりを歩く。微かに自分が住んでいたあたりの街並みが同定できる。なにかものすごく懐かしくなる。同時にとてもかなわないという気持ちがしてくる。

 

 自分がモノをなくしてばかりのどうしようもない人間なのに、この世の中は財布を戻してくれただけでなく、自分をこんなに懐かしい甘美な気持ちにもしてくれた。ほんとにかなわない。自分はちっぽけなダメな奴なのに。降参するしかない。

 

 こうした私の体験はおそらく、熊谷さんの言う「敗北の官能」の体験と同質の体験と言えるだろう。熊谷さんと私が昼間体験していることは大きく違う。だが夜の側面は共通しているということだ。私がたまたま喘息だったり、注意欠陥があったりしたからこうした共通基盤が生まれたのだろうか。私はそうは思わない。私たちは誰もが小さく無力な、自分では何もできない存在としてこの世に生まれてくるからだ。

 

 最早期に私たちが私という意識をもたないまま、思い通りのものが環境から手に入るという状況にいるとしたら、そこには他者はいないから、他者というものが必要な「官能」は存在する余地はない。だが、いったん、「私」という意識に乳児が目覚めれば、自分を世話してくれる、大きな圧倒的な他者を意識しないわけにはいかない。その他者に自分をゆだねることでもたらされる安堵と幸福感は、大きな他者に圧倒される感覚とないまぜになって、「敗北の官能」に結実する。他者が出現したとたん私たちは「官能」あるいは「性愛」にからめとられてしまうのだ。

 

腕.PNG

私たちは「夜」を語れるか

 

 他者としての母親への官能的体験を乳幼児が持つという想定は、精神分析の基本的想定である。そうした想定は人間の夜の側面が絶えず活動しているという想定と同義である。そうした想定を十分に身をもって納得するために私たち分析家は、自分自身が精神分析を受ける体験を持つと言えるだろう。精神分析を受けるなかで大きな他者をもう一度体験する機会を集約的に持つことによって、精神分析家は自分のなかの、ひいては人間ひとりひとりのなかの夜の側面の力を知るのである。

 

 そうした訓練とは無縁な熊谷さんが、どうしてこれほど率直に正直に、かついきいきとした生気を保持したままで、リハビリの夜の側面を語れるのか、私には謎だ。それはおそらく子どもの頃から何度もリハビリという形で「大きな他者」にさらされ、「敗北の官能」を経験したことと無関係ではない。だがそれだけでこのような言葉が語れるわけでないことは、他の脳性麻痺の人たちと比べてみればわかる。

 

 この本が面白いのは、夜を語る存在、たぐいまれな夜の語り手である熊谷さんを近くに感じることにもとづいている。そのことによって、読者の私たち自身もわずかでも夜を語れるようになるかもしれない。私たちは熊谷さんの助けを借りて、官能にからめとられている自分のこころ、からめとられてこそ構築される自分のこころを、認識し、深く受け入れることができるかもしれない。

(『精神看護』2021年3月号より転載)

 

 

 

 
[001]
ぼくは20歳の大学生。レンツと名乗っておこう。きょうは前から興味があった当事者研究に初めて参加する日。街の外れにある市民センターの部屋のなかで、開始時間を待ちながら座っている。続々と人が集まってくる。全員で10名弱。司会者らしき髭の生えた中年男性が、話しはじめる。
 
馬琴

当事者研究会「銀河」にようこそ。まずは「銀河の掟」、つまりこの会のルールについて説明します。

中年男性の隣にいる中年女性がホワイトボードにマジックペンで「銀河の掟」と記入していく。司会者は、その様子を見やりながら話しつづける。
 
 
馬琴

まずは「自分自身で、共に」――参加者各自が自分の問題は自分で背負うということ、ただし同じように苦しんでいる仲間の力は遠慮せず借りましょうということ。

「傾聴」――周囲の人の話によく耳を傾けましょうということ。ほかの人の話が、自分の苦労へのヒントになることがよくあります。

「守秘義務」――このような自助グループは大概そうですが、ここで聞いた話は原則として他言無用、SNSなどに書きこむのも禁止ということ。とはいえ、一般的な情報や経験に基づいた知恵などは自由に御活用ください。

「入退室自由」――気分体調が悪くなることもあると思いますから、出入りはいつでも自由になさってください。

「自分にも他人にも優しく」――苦労を抱えていると、自分に厳しくなったり他人に厳しくなったりしやすいですが、優しさを大切にしましょうということ。

 

それから「他者を否定しない」「説教しない」「上から目線で助言しない」という3つの「ない」。よろしくお願いいたします。
 


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⇒サイコロを振って、1、2、3、4、6が出たら

[010]

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⇒5が出たら

[004]

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[002]
ぼくは答える。
 
レンツ
レンツ

深刻ではありませんが、あります。元カノとの関係も恋愛依存の傾向があった気がします。

 
馬琴さんが質問してくる。
 
馬琴
馬琴

具体的なエピソードはありますか。話せる範囲で良いのですけれども。

 
レンツ
レンツ

たとえばLINEの返事をじーっとひたすら待って、授業中も心ここにあらずでした。未読スルーや既読スルーが怖くて。

 
玲

それはSNS疲れをしますね。

レンツ
レンツ

SNSはどれも雰囲気が苦手なので、LINEを除いてやっていません。「いいね」を義務的にしている人も多くて、息苦しくなります。でも、御指摘のとおり、ぼく自身も誰かからの「いいね」を待ってしまってるんです。いわゆる承認欲求です。

 
やんやん
やんやん

私は藤井聡太くんのファンで、Twitterで将棋関係のアカウントをいろいろフォローしていますが、なかなか楽しいですよ。自分から「いいね」やリツイートはまったく押しません。

 
☆乃
☆乃

私も依存傾向が強かったのですが、年齢が上がるとマシになってきました。感受性が下がってきたのかな。

 
馬琴さんが言う。
 
馬琴
馬琴

歳を取って鈍感さが増すのは、本当にありがたいことですよね。私も若いころは感じやすすぎました。

 
7海
7海

私は多重人格で疲れるから、依存しているものは多いです。Twitterをやってたときはやりすぎて、いわゆる「ツイ廃」でした。Instagramに夢中だったころは、当時話題だった「インスタ映え」のことばかり考えてましたね。

 
Q菜
Q菜

私にも恋愛依存の傾向があります。浮気されたら相手を殺してやりたいです。

 
馬琴さんが尋ねてくる。
 
馬琴
馬琴

レンツさんはさっきロマンチストだということを言っていましたよね。

 
レンツ
レンツ

はい。

馬琴
馬琴

「ソウルメイト」って分かりますか。

 
レンツ
レンツ

はい。

馬琴
馬琴

分からないかたもいると思うので一応説明いたしますと、宇宙のどこかに自分と魂を分けあった誰かがいる、親友や恋人がそうかもしれないと考える人が世の中にはたくさんいます。その求めている理想の相手をソウルメイトと言います。

 
「へえ......」とQ菜さんが呟く。
 
馬琴さんはぼくに向かって言う。
 
馬琴
馬琴

レンツさんはずばり言うと、ソウルメイトを探してるんじゃないですか。

 
⇒「そうだ、そのとおりだ」という場合は、

[009]

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⇒「違う!」という場合は

[020]

へ進んでください。
[003]
馬琴さんの口調は簡潔でありながら、温かみを感じさせるものだった。
 
ぼくは呟く。
 
レンツ
レンツ

そっか、じゃあぼくは違うということになるんですね。

馬琴
馬琴

はい、でもこの会は特別な「属性」で説明できなくても、困っている人みんなに門戸を開いている会ですから、安心してください。なんとなくの生きづらさも、ちゃんとした苦労です。

 
全員分の自己紹介を板書していた玲さんが書きおえた。
 
 
馬琴
馬琴

さて、今日はどの研究テーマから始めましょうか。

 
ジャンケンで決めるみたいだ。勝った人のテーマを最初に扱って、何人分かやる。馬琴さんや玲さんのテーマを扱うこともあるらしい。
 
「じゃーんけん」と馬琴さんが叫ぶ。
ぼくたちは「PON!」と言って、勝負。
何度かあいこになり、勝者になったのは......。
 


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[019]

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[013]

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[004]
司会をしている中年男性が、突如としてぼくたち全員に向かって叫び声をあげた。
 
馬琴

さあ野郎ども、覚悟はできたかい! 黙ってオレに付いて来い!

 
会場の空気が凍った。なんだ、なんだ。なんなんだ、この人は。心からシーンとしてしまった。
うーん、なんだか面倒なところに来てしまったようだ。いたたまれないから、帰ろう。
「入退室自由」だもんね。
 
【おしまい】
 
*このゲームには、さまざまなルートと8種類のエンディングが用意されています。
ぜひ

[1]

に戻って、いろいろ楽しんでみてください。
 
[005]
7海さんがこの流れに抵抗を見せた。
 
7海
7海

ちょっと待ってください。私は納得できないです。人間関係を構築できる具体的な方法が知りたいです。

 
「そうだそうだ、そのとおりですよ、7海さん!」と玲さん。
 
玲

形から入ってみるのはどうでしょうか。人との関わり方をうまく回せるようになることで、あとから人を信じやすくなるかもしれません。

 
 
馬琴
馬琴

コミュニケーション用のテンプレートをたくさん蓄えていくと良いですよ。

 
玲さんが補足する。
 
玲

メールの冒頭で「いつも大変お世話になっております」と書くのと同じ要領ですね。人間関係を円滑に回すための決まり文句を、会話の場面で使っていくんです。

 
無ウ
無ウ

真面目に考えすぎないことも大事かもしれません。ぼく自身もそうなんですが、人間関係について重く考えすぎることで、身動きが取りにくくなってしまいます。

 
 
7海
7海

場所によっては表面的な人間関係でまったく問題ないと割りきると良いのかもしれません。たとえば職場では事務的な関係だけを築くようにして、人間関係の満足はSNSで満たすとか。

 
 
☆乃
☆乃

あとは余裕を持った生活を送ること。そうすることで、他人に対してもゆったりとした気分で接することができるようになります。そこから実りある人間関係が築けるようになるのかもしれない。

 
馬琴さんが「ヤンヤンさんは何かありませんか」と尋ねた。
 
 
やんやん
やんやん

いま☆乃さんが言ったことなんですが、余裕を持った生活って、どうすればできるようになるんでしょうね

 
玲さんは優しく述べる。
 
玲

日常的な自分のメンテナンスに気をつけることではないでしょうか。よく食べて、よくお風呂に入って、よく寝る。

 

[011]へ進んでください。

[006]
馬琴さんは刻一郎さんに言う。
 
馬琴
馬琴

すみません、いまはレンツさんのお話に集中したいところですので、いましばらくお待ちくださいませ。

 
ぼくは言葉を継いでゆく。
 
レンツ
レンツ

大学に入学したとき、しばらくのあいだ軟式野球部に入っていました。軟式を選んだのは、気楽に野球を楽しみたかったからです。それでも体育会系の人たちとあまり話が合わず、半年くらいでやめてしまったのですが、練習試合のときなんかは自分はここの一員なんだという感覚があって、気持ち良かったです。ふだんの走り込み、キャッチボール、ノック練習なども、充実感がありました。

 
☆乃さんがぼくのほうを振りむいて、言ってくる。
 
☆乃
☆乃

野球をするのがお好きなんですね。

レンツ
レンツ

はい、見るのもやるのも好きです。でも同好会みたいな場所でダラダラやるのが好きです。体育会のガッチリした上下関係なんかには付いていけなくて、結局やめてしまいました。

 
 
馬琴
馬琴

Q&Aが始まりましたね。せっかくですし、刻一郎さんが先ほどおっしゃりたかったことも発言していただけるでしょうか。

 
刻一郎
刻一郎

はい、私は自分が所属していた宗教団体に対する嫌悪感に悩まされているのですが、入信していたときは、組織の一員だという実感が心地良かったです。自分たちは正義の側、真理の側なんだという安心感がありました。でもそれは独善的だったといまでは思います。いまはもっと健康的な形で居心地の良さを味わえる場所がないかと思っていますね。

 
☆乃さんが応答した。
 
☆乃
☆乃

私の友人に最近宗教を辞めた人がいるんですけど、彼女は教団のなかでの嫉妬や足の引っ張り合いが辛く、人間関係に疲れて教団に嫌気が差したということを言っていました。宗教団体といってもいろいろなんですね。

 
刻一郎さんが応答する。
 
刻一郎
刻一郎

私の場合は幼いころから入信していて、教団と自分の世界とがほとんど一体になっていたというのが理由かもしれません。教団の内部の人を信じられなかったら、いったい何を信じられるんだと思っていました。

 
 
馬琴
馬琴

ちょっと待ってください。刻一郎さんの問題は、またのちほど、みんなで当事者研究しましょう。まずはレンツさんの話です。

 
馬琴さんがぼくを見て言う。
 
馬琴
馬琴

発言できる範囲で構わないのですが、いちばん辛かった時期はいつですか。また、何か心に強く残っている出来事はありますか。

 
レンツ
レンツ

彼女と別れた時が人生MAXレベルに辛くて、野球もやめていたから、どうして良いのかなと。アルバイト先でもトラブルになったときには心が疲れてしまって、マンションの7階にある自宅のベランダから飛びおりようかどうかと悩みました。夜に長い時間、ベランダから地面を見つめていました。

 
7海さんが「それはかなり危なかったですね」と言ってくれる。
 
ぼくは続ける。
 
レンツ
レンツ

失敗して植物状態で生きのびる、というような可能性もありますから、自殺を試みるのはリスクが大きすぎると思いますが、うまく人間関係が作れない悩みは変わりません。なかなか生きる気力が湧いてきません。

 
馬琴さんが提案した。
 
馬琴
馬琴

ここでひとりひとり、他者に対する不信感があるかどうか、自分の事例を言ってみても良いかもしれませんね。

 


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⇒サイコロを振って、2、3、4、5、6が出たら

[012]

へ進んでください。
⇒1が出たら

[026]

へ進んでください。
[007]
これで研究が収まるところに収まったようだ。ぼくは言う。
 
レンツ
レンツ

みなさん、ありがとうございます。実際やってみようと思うことをいろいろ聞くことができました。

 
 
馬琴
馬琴

日常のなかでいろいろ実験してみて、また困ったら、この会でみんなで話しあうようにしましょう。

 
ぼくは当事者研究にとても興味が湧いていた。このあとの、ほかの人の問題に対する当事者研究も楽しみだ。きょうはここに来て良かった。
 
【おしまい】
 
*このゲームには、さまざまなルートと8種類のエンディングが用意されています。
ぜひ

[1]

に戻って、いろいろ楽しんでみてください。
[008]
馬琴さんの言い方はトゲトゲしい排他的な印象のものだった。ぼくはこの時点で、この会に来たことを後悔するようになってしまった。
 
【おしまい】
 
*このゲームには、さまざまなルートと8種類のエンディングが用意されています。
ぜひ

[1]

に戻って、いろいろ楽しんでみてください。
[009]
ぼくは答えた。
 
レンツ
レンツ

はい、そうだと思います。ソウルメイトに憧れています。

 
馬琴
馬琴

そのお気持ちが、とてもよく分かります。私もロマンチストです。ただ私は、ソウルメイトは結果論ではないかなと思うようになりました。誰かと出会って、ものすごく大切だと思えたら、その人がソウルメイトだったということになるという仕組みです。

 
ぼくは「はい」と呟く。
 
馬琴
馬琴

だから「フィーリングが合う」というくらいで友達付き合いや恋愛をすると、大きな期待がなく、落胆しなくても済むかもしれません。運よく関係が長続きしたら、この人はソウルメイトかも⁉︎と考えることにするんです。

 
そこでQ菜さんが言う。
 
Q菜
Q菜

私はソウルメイトっていう概念をいま初めて知ったんですけれど、ソウルメイトを探すんじゃなくて、誰かのソウルメイトになってあげればいいじゃないですか。

 
無ウさんと7海さんが同時に「おおー!」と叫ぶ。
 
玲さんはQ菜さんに尋ねる。
 
玲

Q菜さんはソウルメイト的なものへの憧れはありますか。

 
Q菜
Q菜

いえ、もっと現実的に考えるほうです。

 
馬琴
馬琴

憧れがないからこそ、素晴らしい閃きが生まれたのかもしれませんね。レンツさんどうですか。フィーリングの会う友人や恋人と出会って、その人のソウルメイトになってあげてみては。

 
ぼくは感動していた。
 
レンツ
レンツ

はい! 本当にそうですね。

 

[007]

へ進んでください。
[010]
司会者が会場のまんなかあたりを眺めながら、言った。
 
馬琴

ではまずは自己紹介ですね。

 
司会者が話しつづける。
 
馬琴

私のアノニマス・ネーム(自助グループで使う匿名用の名前)は馬琴(まこと)です。ASDの大学教員で、いまは休職しています。40代前半です。自助グループを運営していて、当事者研究を盛んにやっていますが、いつも何かに困っています。

 
隣にいる40代くらいの女性が自己紹介の要点をホワイトボードに書きこみ、司会者の馬琴さんに眼で合図してから、私たちのほうを向いて、語りだす。
 
玲

玲(れい)と言います。特別支援学校で事務員をしていましたが、現在は退職しています。統合失調症を煩い、離婚も経験しましたが、現在は寛解しています。10年以上入院していたことがあります。最近は親の介護の問題で頭を悩ませていて、憂さ晴らし目的の買い物依存に走ってしまい、家計が大変な状況です。

 
話しおわった彼女は、自分が話したことの要点をホワイトボードに書いている。
 
馬琴さんが玲さんをしばらく見つめ、また私たちのほうを向いて語りかける。
 
馬琴
馬琴

では、いちばん前のかたからお願いしましょうか。

 
最前列に座っている30代の男性が話しだす。
 
無ウ

私のことは無ウ(むう)と呼んでください。ADHDと双極性障害を診断されています。20代のころはクローズ就労していたのですが、半年前に退職してしまいました。いまは就労継続支援のB型事業所で働きはじめたところです。

 
馬琴さんが、無ウさんの右後に座っている30代の女性に順番を回す。
 
7海

休職中の会社員で、7海(ななみ)といいます。アラサーです。私は解離性同一性障害の当事者です。自分の中に8人の人格がいますが、ひとり勝手に知り合いに変なLINEを送る子がいて、いつも迷惑しています。

 
馬琴
馬琴

ADHDと双極性障害が併発する人はとても多い、ASDと多重人格が併発する人もそれなりにいる、という印象があります。

 
へえ、そういうものなんだ。
 
馬琴さんの隣で玲さんが相槌を打った。
 
玲

それに対して、発達障害で統合失調症の人はあまり聞かない印象がありますね。

 
7海さんの横に座っている初老の男性の番が来た。
 
やんやん

私はやんやんです。60代の嘱託社員なんですが、将来のことが不安です。というのも一人息子が10年以上も引きこもっています。将来は80-50問題(80代の親が50代の子どもを扶養せざるをえないという問題)の当事者になる予感がひしひしとしています。私自身は当事者と言えないかもしれませんが、家族や支援者も参加して構わない、という案内を拝見したものですから。

 
馬琴
馬琴

当事者の家族や支援者も歓迎しています。なぜなら、その人も家族や支援者として、苦労の当事者だからです。お越しくださり、ありがとうございます。

 
7海さんとやんやんさんの後に座っている20代の女性が自己紹介を求められる。
 
 
Q菜

フリーターのQ菜(きゅうな)です。LGBTの問題も歓迎という説明を見たので来ました。バイセクシュアルで、いまは同性が好きなのですが、まわりに打ちあけられる人はいません。周りは好きな男の人の話で盛りあがることが多く、話を合わせるのに、とても神経を使ってしまいます。

 
Q菜の右後に座っている50歳前後の男性が指名され、話しはじめる。
 
 
刻一郎

私は本名の刻一郎(ときいちろう)でお願いします。会社員で、新興宗教の2世です。両親と兄弟はいまでも信仰を持っていますが、私は20代のときに脱会しました。いまは30代前半ですが、身についた宗教の教えがなかなか取れずに苦しい思いをしています。宗教関係のことを扱ってくれるのかどうか分かりませんでしたが、相談できるところが少なく、やってきました。

 
馬琴
馬琴

宗教関係の話題も歓迎しますよ。ちなみに特にどのようなことで困っていますか。

 
刻一郎
刻一郎

フラッシュバックのやわらげ方について知りたいです。

 
馬琴さんは、「承知しました。それでは、つぎのかたに行きましょう」と言い、刻一郎さんの真後、つまりぼくの右隣に座っている中年女性に合図を送っている。
 
☆乃

私は☆乃といいます。歳は、アラフィフです。普段は公務員をしています。私はアダルトチャイルドです。子どものころのことが原因で、愛着形成の不全が起きていると感じます。また、両親との関係をどうしたら良いのかということで、いつも悩んでいます。

 
馬琴さんが何か応答しているが、ぼくの頭には入ってこない。というのも、つぎはぼくの番。ちょっと緊張する。
 

[014]

へ進んでください。
[011]
馬琴さんが話す。 
 
馬琴
馬琴

村上春樹に「小確幸」、つまり「小さいけれども確かな幸せ」という言葉があります。台湾で流行語になったことがあり、現在では中国でも「すてきな日本的価値観」の例として、よく知られているようです。その「小さいけれども確かな幸せ」を集めて回るような生活はどうでしょうか。たとえば何かのサービスのポイントをちまちま収集する、短い休憩時間にスマホでゲームする時間を作る、公園に遊びに行って、四つ葉のクローバーを探す、などなど。

 
 
7海
7海

自分を幸せにして、余裕が生まれやすくするんですね。

 
無ウ
無ウ

ぼくは、親しくなりたい人には、自分がフレンドリーな人間だとアピールしやすい体制づくりをしています。メール、LINE、Twitter、Zoomなどのアプリで表示される自分のアイコンをユーモラスなものにしておくなど。

 
 
Q菜
Q菜

話下手でもうまく交流できるような仕掛けを作っておくわけですね。

 

[007]

へ進んでください。
[012]
馬琴さんに指名されて、Q菜さんが話しだす。
 
Q菜
Q菜

私も人を信じられません。中学校のときに、親友と思っていた子に異性も同性も恋愛対象として気になると打ちあけたら、距離を置かれて、クラスでいじめを受けるようになりました。

 
 
☆乃
☆乃

私には友人がいません。夫と息子に対しても、心から信じているという態度で接していますが、表面だけそうしているということが伝わってしまっているかもしれません。

 
馬琴さんは「あ、玲さんにも訊かないと」と言って、玲さんを指名する。
 
 
玲

私は20代半ばから30代の半ばまで、ほとんど病院で過ごしました。絶望だらけの日々でしたが、だんだんと人を信じられるようになり、心が明るくなりました。

 
無ウさんが玲さんに「どうやって信じられるようになったんでしょうか」と質問する。
 
玲

初めは、信頼できる福祉の援助職の人たちに出会えたことが大きかったです。その人たちから助言されて、自助グループや、この会のような当事者研究会に参加するようになって、世界が変わりました。

 
次は7海さんが話す。
 
7海
7海

私は、人に理解されたいという気持ちがあまり分かりません。別々の人間なのだから、みんな理解しあえなくても、仕方がないと思います。

 
馬琴
馬琴

私たちはこういう会に来るくらいですから、平均よりも脆弱性が高いと思うのです。多くの人とは感じ方や考え方が異なっていて、少数派として孤立しやすいのかもしれません。人を信じたくてもなかなか信じられない現実は苦しいですよね。

 
無ウさんが何度もうなずいて、相槌を打っている。
 
やんやんさんは溜息混じりに言う。
 
やんやん
やんやん

うちの息子も人付き合いができたら、引きこもりにならなったと思います。

 
馬琴さんがぼくを見て、「出てきたさまざまな意見についてどのように感じますか」と尋ねてきた。
 
どのように感じるか? ぼくは、みんなの意見を聞いていて、なんだか心が昂揚していた。そこでぼくは言った。
 
レンツ
レンツ

みなさんぼくよりも年上ですし、男の人も女の人もいますが、人間関係に苦労していることを具体的に聞いていて、不思議な安心感を抱きました。ぼくだけが苦しんでいるんじゃないんだと実感しました。

 
 
玲

自助グループや当事者研究会の魅力ですね。同じような苦しみで、さまざまな人が繋がりあえるという。

 
 
馬琴
馬琴

この会の仲間なら信頼できないでしょうか、弱さを見せあえる集まりなんです。

 
ぼくは「そうですよね」と答える。
 
馬琴さんが畳みかけてくる。
 
馬琴
馬琴

こういう会で信頼できる人間関係を作って、それである程度の満足を得るということが、ひとつの解決にならないでしょうか。完全な解決にならなくても、気が楽になりませんか。

 

⇒気が楽になると感じる場合は[024]

へ進んでください。
⇒ならない場合は

[027]

へ進んでください。
[013]
残念。ジャンケンに負けてしまった。でも、当事者研究は何人分かやるようだ。まだぼくが当たる可能性はある。
 
【おしまい】
 
*このゲームには、さまざまなルートと8種類のエンディングが用意されています。
ぜひ

[1]

に戻って、いろいろ楽しんでみてください。
[014]
指名されたぼくが話しはじめる。
 
レンツ
レンツ

レンツと呼んでください。ぼくには、これといって病気や障害があるわけではありません。発達障害の検査を受けましたが、診断に至りませんでした。でも、なんとも言えない生きづらさがあります。ぼくも☆乃さんと同じくアダルトチルドレンというのに該当するかなと考えています。

 
馬琴さんがぼくに質問してくる。
 
馬琴
馬琴

ということは、子どものときに家庭環境が壊れていたということでしょうか。

 
家庭環境? いや、特にそんなことはなかった。
 
レンツ
レンツ

割と普通の家庭だったかな、と思います。

 
すると、馬琴さんの説明が始まった。
 
馬琴
馬琴

「アダルトチルドレン」という語は、もとは、アルコール依存症者の家庭で子ども時代を過ごして、成長した人たちを意味しています。その後、アルコール依存症者を親に持つ子どもたちの心の問題が、広く機能不全家族で育った子どもたちの心の問題と共通することが分かってきて、いまでは「アダルトチルドレン」は、機能不全の家庭で子ども時代を過ごして成長した人たちを意味しているんです。

 


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⇒サイコロを振って、1、2、4、5、6が出たら

[003]

へ進んでください。
⇒3が出たら

[008]

へ進んでください。
[015]
ぼくは話す。
 
レンツ
レンツ

物心ついたときには、そんな感じだった気がします。小学生のときに仲の良い友達がいて、お互いにいちばんの親友だと感じていました。相手が引っ越しをするときに、きみはぼくの一生の親友だということを一冊のノートをたっぷり使って表現して、プレゼントしました。でも夏休みに小さな旅行をしてそいつのところに遊びに行ったときには、相手にはもうぼく以上の親友ができていて、それにとても傷つきました。ぼくにとっては、彼は変わらずいちばんの親友だったから、裏切られたような気がしたんです。

 
 
馬琴
馬琴

その後、友人関係などで印象に残っている出来事なんかはありますか。

 
レンツ
レンツ

はい、中1の頃から高3まで仲良くしていた親友がいて、その人がぼくの人生ではいちばんの親友だったのですが、大学に入ってから世界が変わり、価値観のズレを感じるようになりました。違いを認めあって緩やかに交流すれば良いと思うのですが、なんとなくそれができなくなりました。いつのまにか連絡を取りあわなくなって、悶々としているところです。自己嫌悪のさなかです。

 
ホワイトボードに要点を書きおわった玲さんがぼくに語りかけてくる。
 
玲

そんなにお若いんですから、人間関係なんかいくらでも修復できますよ。

 
レンツ
レンツ

そうかもしれません。でも連絡を取りなおすのが、なんとなく難しく感じてしまうんですよね。お互いの心は、ますます離れてしまってるんだろうなと思ってしまって。

 
前のほうで刻一郎さんが手をあげている。
 


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⇒サイコロを振って、1、3、4が出たら

[023]

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[006]

へ進んでください。
[016]
ぼくは「いえ、実は最近はあんまりです」と答えた。
 
玲さんは「やっぱり!」と嬉しそうに叫ぶ。
 
玲

それはぜひ再開すると良いですよ。楽しい趣味に浸ってない結果として、人間関係のことでくよくよしてしまう、ということがあるかもしれません。

 
Q菜さんは感嘆したようだ。
 
Q菜
Q菜

そうか、そういうことなんですね。たしかに私も最近、好きな音楽をあまり聴いていなかった気がします。

 
馬琴さんがQ菜さんに、「ちなみにどんな音楽が好きなんですか」と尋ねている。
 
 
Q菜
Q菜

星野源とかあいみょんとか。

 
馬琴さんはぼくに向かって「レンツさん、星野源やあいみょんはお好きですか」と尋ねてくる。
少なくとも嫌いではないから、「ええ、まあ」と答える。
 
 
馬琴
馬琴

ふむふむ、大好きというわけではないのですね。いちばん好きなJポップや邦ロックのミュージシャンは?

 
レンツ
レンツ

OGRE YOU ASSHOLE。

 
すると馬琴さんが身を乗りだしてくる。
 
馬琴
馬琴

それ、どんどん聴きましょう! 恥ずかしながら、知らないバンドではありましたが、きっと素晴らしい音楽を作るのだと思います! そしてカラオケでも自分の家でも歌いましょう。人間関係の悩みがどうでもよくなるくらい歌うんです。

 
⇒なるほどそうか!と思ったら

[007]

へ進んでください。
⇒納得できなかったら

[005]

へ進んでください。
[017]
「いえ、特にはありません」とぼくは言った。
 
不意に、会場がなぜかシーンとした。よくある、なぜか急に場が静まりかえる、理不尽なあれだ。
 
 
馬琴
馬琴

さて、ほかのみなさんで何か発言なさりたいかたはいませんか。

 
なんとなく、馬琴さんも落ちつかなさそうだ。
誰も反応しない。
 
 
馬琴
馬琴

いませんか。すみません、私が医学的な診断めいたことを口にしたのが良くなかったと思います。この場は病院やクリニックではありませんから、診断をおこなう場所ではありません。

 
変わらず誰も反応しない。
 
 
馬琴
馬琴

では、また私から質問してもよろしいでしょうか。レンツさんには、何か特別な御趣味はありますか。

 
レンツ
レンツ

山登りとバードウォッチングがそうです。

 
玲さんが「渋い! 最近もなさっているんでしょうか」と訊いてくる。
ぼくは「いえ、最近はあまり」と答える。
 
 
馬琴
馬琴

では、ぜひしばらく趣味に没頭してみる、というのはどうでしょうか。徐々に、感じ方や考え方が変わっていくのかもしれません。そうなったら、しめたものです。人生そのものが動いていく。趣味に没頭してみて、何も変化がなかったら、またみんなでレンツさんの悩みについて当事者研究する、というのはどうでしょうか。

 
レンツ
レンツ

はい。

 
馬琴
馬琴

では、これでひとまず研究を終えましょうか。

 
ぼくは少し拍子抜けしたけど、1週間後の休日には山登りとバードウォッチングを楽しんでみようと考えた。
 
【おしまい】
 
*このゲームには、さまざまなルートと8種類のエンディングが用意されています。
ぜひ

[1]

に戻って、いろいろ楽しんでみてください。
[018]
馬琴さんが言う。
 
馬琴
馬琴

当事者研究では、結びに「今度日常のなかでやってみようと思うこと」を設定するのが本式です。レンツさんは、今回の当事者研究を受けて、何か実験できそうなことはありますか。

 
レンツ
レンツ

自己表現がうまいと言われたのが意外で嬉しかったです。もっとそれを磨いてみたくなりました。

 
 
玲

名案ですね! そうしたら人生が変わってくるし、いま悩んでいる問題も、解決しなくても解消されるかもしれません。

 
馬琴
馬琴

まさしく、そのとおり!

 
なかなか勉強になった、とぼくは思う。当事者研究からは多くのことを学べそうだと思い、胸が高鳴ってきた。
 
【おしまい】
 
*このゲームには、さまざまなルートと8種類のエンディングが用意されています。
ぜひ

[1]

に戻って、いろいろ楽しんでみてください。
[019]
なんと、ジャンケンはぼくの勝利だ。
 
 
馬琴
馬琴

それではレンツさんの当事者研究を始めましょう。研究テーマは「漠然とした生きづらさ」ですね。

 
玲さんがホワイトボードを裏返して、いちばん上に「漠然とした生きづらさの研究」と書いている。
 
 
馬琴
馬琴

では、話したくないことは話さなくて良いですから、どのように生きづらいのか教えてください。

 
ぼくは話しだす。
 
レンツ
レンツ

いままでなんとなく「普通」に生きてきました。いじめにあったり、仲間外れになったりしたことはありません。友達にもいつも恵まれていたのですが、なんとなく他者への不信感があります。いつも誰かが親友でしたが、本心を打ちあけることがなかなかできません。なんとなく遊んだりして、表面的な関係に終始してしまいます。大学になってから彼女ができて、半年くらい、なんとなく付きあっていたのですが、やはり心を開くことができず、別れてしまいました。これから就活をしますが、ずっとこんな感じなんだろうかと思うと不安になってきます。

 
馬琴さんから質問を受ける。
 
馬琴
馬琴

いつごろからそんな悩みを持つようになったのでしょう?

 
⇒思春期よりも前からだっただろうか(

[015]

へ進んでください)。
⇒それとも思春期よりもあとからだったかな(

[021]

へ進んでください)。
[020]
ぼくは抗議する。
 
レンツ
レンツ

いえ、そんなことはありません。

 
 
馬琴
馬琴

そうですか、レンツさん、あるいはほかの参加者の方でも良いですが、ここで何か追加したいお話などはありますか。

 


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⇒サイコロを振って、1、4、5、6が出たら

[025]

へ進んでください。
⇒2、3が出たら

[017]

へ進んでください。
[021]
ぼくは話す。
 
レンツ
レンツ

高校の頃からだんだんそうなった気がします。ぼくは友達よりも少し心の成長が遅くて、まわりがどんどん変わっていくのについていけない気がしていました。クラスの女子を品定めしたり、セックスについて下品なことを言って騒いだりするのも苦手でした。少し潔癖な面があるのかもしれません。

 
 
馬琴
馬琴

身の回りの清潔さにも敏感なほうですか。

レンツ
レンツ

特別にキレイ好きということはないと思います。自宅の机の上なんかは片付いていないですし、1日に何度もシャワーを浴びたりすることはありません。でも、人間関係についてはロマンチックな幻想を抱くところがあります。彼女がいたときにも、この人はぼくには運命の人なのかどうなのか、と気になりました。小学生の女の子みたいな幻想があります。

 
馬琴さんが「では依存傾向はありますか」と尋ねてくる。
 
馬琴
馬琴

アルコール依存、薬物依存、ギャンブル依存。あるいはセックス依存、過食、自傷行為。深刻でなくても嗜好品依存、買い物依存など。

 
⇒ある場合は

[002]

へ進んでください。
⇒ない場合は

[017]

へ進んでください。
[022]
ぼくは答える。
 
レンツ
レンツ

はい。このまえの週末はとても楽しみましたよ。

 
玲さんは異なる答えを予想していたようで、拍子抜けした声色で語る。
 
玲

そうですか、そうなんですね。楽しいことをしているのに、毎日を冴えなく感じるのは辛いですね。

 
しばらく会場がシーンとした。
すると突然、無ウさんが歌いだす。
「ラララ〜ホゲラ〜♪」
☆乃さんは「この人、歌いだした!」と叫ぶ。
 
無ウさんが説明する。
 
無ウ
無ウ

なんとなく気まずい雰囲気だったので、この場をなごませようかなと思って。


 
7海
7海

なるほど! じゃあ私も。レリゴー♪レリゴーララ。

 
☆乃さんは「こっちでも? ノリ良すぎじゃない」と驚いている。 
馬琴さんは、「みんなも歌おう、みんなで歌おう」と煽りだした。
やんやんさんは7海さんに合わせて、「ありのままで」を歌いだす。
 
馬琴さんは断固と言いだす。
 
馬琴
馬琴

そう、ありのまま、ありのままで良いのですよ。人間関係は解決しなくてもいい、楽しいことでいっぱいになれば、問題は「解決」しなくても雲散霧消する、つまり「解消」する、溶けてなくなってしまうんです。

 
なんだ、なんだ、この展開は。
 

[005]

へ進んでください。
[023]
馬琴さんが刻一郎さんに発言を促す。
 
刻一郎
刻一郎

私は宗教に入信していたときに、教団内の人間関係を中心に生活が回っていましたから、人間関係で困った事はありませんでした。学校や職場の人たちとは表面的にだけ付きあえば良かったわけです。でも脱会してからは、何を信じて良いのか、誰を信じて良いのか判断がつかなくなりました。いまはまた自分が信じられるコミュニティをどこかに見つけなくてはと思っています。レンツさんの悩みが、私のものとどこか通じているのではないか、という気がして、発言させていただきました。

 

馬琴
馬琴

たしかに、通じているかもしれません。そして、この当事者研究のミーティングをそのような「自分が信じられるコミュニティ」として利用していただけると、嬉しいと思っています。

 
刻一郎
刻一郎

そういう期待があって、ここに来たことは確かです。

 
馬琴さんはぼくに向かって尋ねてくる。
 
馬琴
馬琴

レンツさん、どうでしょうか。この会の仲間なら信頼できないでしょうか、弱さを見せあえる集まりですよ。

 
残念ながら、ぼくは馬琴さんに少し押しつけがましさを感じてしまう。そこで本音を言う。
 
レンツ
レンツ

うーん。きょう初めて来たばかりなので、まだ信頼できるかどうかはわからないです。

 
馬琴さんは「そうですか」と残念そうに呟く。
 
ぼくは続ける。
 
レンツ
レンツ

この会には今後もお世話になりたいと思っています。でも日常生活でも人間関係を充実させていきたいです。毎日がじわじわと苦痛すぎるんです。

 
 
玲

「じわじわと苦痛すぎる」! 良い表現ですね。

 
玲さんはマジックペンを黒から青に変えて、ホワイトボードに「じわじわと苦痛すぎる‼︎」と書きこんでいる。
 
無ウさんが口を挟んでくる。
 
無ウ
無ウ

マッチングアプリなんかはどうですか。馬鹿にして言ってるんじゃないですよ。いろんな人とどんどん出会える状況を作るんです。実際ぼくもやっていますが、だいぶ救われました。

 
 
馬琴
馬琴

自分を助けるものなら、反社会的でない限り、なんでもやって良いのでは、と思います。レンツさん、どうでしょうか。

 
レンツ
レンツ

たしかに、よく考えると身近なところ以外で友だちや恋人を作ろうとしたことがないことに気がつきました。

 
 
☆乃
☆乃

レンツさんは、TwitterとかInstagramはなさっていますか。ネットで趣味の合う仲間を見つけられれば、リアルでの人間関係の悩みがやわらぐかもしれません。

 
馬琴さんが「レンツさんの趣味は何でしょうか」と尋ねてくる。
 
レンツ
レンツ

山歩きとバードウォッチングです。

 
馬琴さんは「若いのに渋いねえ」と感心している。
 
そうだろうか。
 
 
馬琴
馬琴

そういうことなら、Twitterでバードウォッチングについて呟いたり、撮影した鳥の写真をInstagramに投稿したりして、同好の士と繋がると良いかもしれませんね。

 
ぼくは「なるほど」と呟く。SNSはなんとなく上品でない印象がイヤで、やっていないのだ。
 
玲さんがぼくに尋ねてくる。
 
玲

最近は山歩きとバードウォッチングはしていますか。

 
⇒そりゃもちろん、やっているよ、という場合は、

[022]

へ進んでください。
⇒あれ、最近はやってないや、という場合は

[016]

へ進んでください。
[024]
ぼくは言った。
 
レンツ
レンツ

はい、ぜひ今後もこの場に助けられたいと思います。

 
馬琴さんが優しく言った。
 
馬琴
馬琴

ほかのかたがやっている当事者研究会も含めて、是非いろいろ参加してみてください。いくらでも成長できると思いますよ。

 
ぼくの問題に関する当事者研究は終了した。
しかし、きょうの当事者研究会もまだまだ続く。ほかの人の研究からもできるだけ吸収して帰ろう、とぼくは思った。
 
【おしまい】
 
*このゲームには、さまざまなルートと8種類のエンディングが用意されています。
ぜひ

[1]

に戻って、いろいろ楽しんでみてください。
[025]
無ウさんが馬琴さんに尋ねる。
 
無ウ
無ウ

あの、レンツさんが話したことに対する感想を言ってみても、良いでしょうか。

 
 
馬琴
馬琴

他者を一方的に裁く、というようなものでないかぎり、歓迎しております。

 
無ウさんがぼくのほうを振りむいて、言う。
 
無ウ
無ウ

ぼくがレンツさんくらい若いころは、もっと子どもっぽかったです。レンツさんの話ぶりを聞いていて、すごく立派だなと感じました。

 
 
やんやん
やんやん

本当にね。いまの若者は自己表現がヘタというニュースをテレビで見たけど、全然そうは感じなかった。

 
 
玲

昔のほうが自己表現のヘタな若者が多かった気がしますね。盗んだバイクで走りだしたり、夜の校舎で窓ガラスを割ってまわったり。

 
☆乃さんが「たしかに!」と叫ぶ。
 
刻一郎さんが抗議した。
 
刻一郎
刻一郎

あのころは学校生活がいまよりもずっと閉鎖的だったと思いますよ。軍隊経験を語りながら暴力を振るいまくる教師もいましたから。

 
☆乃さんがおどけた様子で、「そうでした」と相槌を打っている。
 
ヤンヤンさんが発言する。
 
やんやん
やんやん

とにかく日本の未来も暗いばかりではなさそうだ。

 
馬琴さんが「ほかに発言してくれる人はいませんか」と尋ねる。
 
馬琴
馬琴

いないようですね。どうでしょうか、レンツさん。皆さんの発言をお聞きになった感想は。相手を褒めることは、評価の一種なので、場合によっては不快に感じるかもしれませんが、大丈夫だったでしょうか。

 
レンツ
レンツ

いえ、不快だなんて、とんでもありません。ありがたいと感じました。

 

[018]

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[026]
ところが玲さんが馬琴さんに向かって言った。
 
玲

すみません、私も是非みなさんのエピソードをお聞きしたいのですが、それをいたしますと、ホワイトボードの余白が足りなくなると思われます。ちょっと厳しいかなと......。

 
馬琴さんがホワイトボードを振りむいて、返答する。
 
馬琴
馬琴

あっ、そうか、そうですよね。じゃ、ちょっとこれはやめておきましょうか。あとからそれぞれのかたの研究をやっていきますから、そのときに個別に聞いていけば良いですね。

 
 
馬琴
馬琴

レンツさん、どうでしょうか。この会の仲間なら信頼できないでしょうか、弱さを見せあえる集まりですよ。

 
ぼくはなんとなくピンと来ない。そこで本音を言う
 
レンツ
レンツ

うーん。きょう初めて来たばかりなので、まだ信頼できるかどうかはわからないです。

 
そのあとも当事者研究は進んでいったが、なんとなくしっくり来ないところがあった。でもまだ判断するのは早計かもしれない。きょうはここで、ほかの人たちに関する研究も体験できから、それから判断をくだそう。
 
【おしまい】
 
*このゲームには、さまざまなルートと8種類のエンディングが用意されています。
ぜひ

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に戻って、いろいろ楽しんでみてください。
[027]
レンツ
レンツ

すみません、いまは確かに嬉しいのですが、こういう気持ちってすぐに消えると思うんです。

ぼくはそのように正直に言った。
 
 
馬琴
馬琴

それでは、もっと皆さんの声をいろいろ聞いてみましょうか。

 
会場を眺めまわしながら、馬琴さんは続ける。
 
馬琴
馬琴

どなたか、協力して発言してくださいませんか

 

[025]

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