第17回 世間の理屈と<障害者>の理屈

第17回 世間の理屈と<障害者>の理屈

2022.10.19 update.

三谷雅純(みたに・まさずみ) イメージ

三谷雅純(みたに・まさずみ)

人やヒトの社会や行動の本質を科学的に探る、霊長類学、人間行動進化学に強い興味を持つ研究者。アフリカ中央部(カメルーン、コンゴ共和国)を中心に、鹿児島県屋久島、インドネシアの熱帯林で調査・研究を行ってきたフィールド・ワーカー。


2002年4月に脳塞栓症に陥り、以来、右の半身まひと失語となる。自由に森には行けなくなるが、代わりに人やヒトの多様性に興味を持ち研究を続ける。生涯学習施設の講演や緊急災害情報などの放送はどうあれば「聴覚失認」のある高次脳機能障害者、聴覚情報処理障害者が理解できるか、視聴覚実験によって検証している。


文化的、遺伝的多様性を持つ人で作る社会のあり方を研究していきたいと考えている。

◆同僚の言葉に苦しむ


2009年、日常から解放されたインドネシアでの調査を終えて日本に帰ると、大学から厳重に封をした封筒が届きました。何だろうと開けると、わたしは「退職勧告者候補」であるという書類でした。動悸が速まります。

 

この連載の8回「もうひとつの生き方―前哨戦」には、

 

脳塞栓症におちいる以前は仲の良かった同僚が、研究室を代表して、わたしに「最後通告」を告げに来ました。


君はもう研究はできない。これからできることは、脳梗塞の患者として、医学者の研究に(自分の身体を使って)素材を提供することだ。

 

とあります。そして

 

職場に残りたいのなら、(障害がどうのと)あれこれ言わずに<健常者>のように働くべきだ。(それができないなら辞職するべきだ)

 

と言われたと書きました。


それでも、わたしは、失語や易疲労性のこと、たった今したことでも簡単に忘れてしまう悔しさについて、できる限り説明してみました。聞きながらその人は怪訝な表情をしていましたが、それ以上、わたしの進退を追求することはありませんでした。ただ、本当のところは、いまだに分かっていないと思います。


と続きます。

 

今では、社会は<障害者>を受け入れるのが当然のこととされています。事実、法律上も、前身の身体障害者雇用促進法から数度の改正を経て、理念上は現行の障害者雇用促進法(障害者の雇用の促進等に関する法律)が、働きたいという希望を持つ障害者の味方となっています。

 

◆容易に差別と見なせない言葉の存在


しかし、わたしが脳塞栓症を発症した2000年代初め頃の社会には、<障害者>は「<健常者>のように働けないのなら、辞職するのが当然だ」という<健常者>がつくった暗黙のルールが生き残っていました―これを読んでいる皆さんもうすうす気が付いているように、この暗黙のルールは今も生き残っています。理想は理想として、<健常者>の本音は別にあります。

 

わたしは、兵庫県には哺乳類の専門家として務めました。もともとは霊長類学という人類学が本来の専門だったのですが、研究者は職がない時代を迎えていました。少しょうのことには目をつぶり、狭き門から「哺乳類の専門家」として職を得ました。

 

この連載の2回「頭が引き裂かれて角が生えてきた」の中に「当時わたしは、兵庫県で新しく野生動物の研究施設を立ち上げようとしていて、その基礎となる哺乳類や鳥類のデータをまとめ、分かりやすく行政職員の言葉に直す(翻訳する?)という作業を行っていました」という文章があります。


私は、もともとはフィールド・ワーカーですから、机に座って行うGIS(地理情報システム)の取り扱いは、どちらかと言えば苦手です。しかし、兵庫県域の哺乳類の現状を行政職員に説明するためには、是が非でもGISを使いこなす必要がありました。また、この経験がインドネシアのスマトラ島で行った哺乳類調査(14回「ついにインドネシアに上陸した(1)」)でも役立ったのです。


わたしにその言葉を投げ掛けた人に悪意はあったのでしょうか?

 

悪意があったと思うこともありますし、なかったとも言えます。どちらにせよ、今、言えることは、わたしに投げ掛けられた言葉の罠は、わたしの心を引き裂く力を持ちながらも、容易に差別とは見なせなかったということです。

 

◆レイシズムについて


この原稿を書くにあたり、いくつか論文に当たってみました。その中で「古典的レイシズム」と「現代的レイシズム」という言葉がある(高・雨宮, 2013)ことを知りました。「レイシズム」とは人種差別のことです。

 

「人種」は科学的には根拠のない言葉です低緯度地域の人の肌の色が濃いのは、降り注ぐ紫外線に抵抗するためですが、それでも社会には人種差別が根強く残っています。

 

アフリカ系アメリカ人から始まった黒人差別反対運動のスローガン「ブラック・ライブズ・マター(BLM)」は有名で、「黒人の命を粗末にするな」と京都大学で文化人類学を教えておられる竹沢泰子さんが訳されています。

 

そして日本には民族差別があります。レイシズムを民族差別と読み替えてみれば、日本に住むわたし達にも「黒人の命を粗末にするな」という意味がよく分かるはずです。

 

古典的レイシズム(Old Fashioned Racism)とは、対象のグループが生まれつき劣っているという偽の信念に基づいた、公然とした偏見のことです。アフリカのカメルーンで出会ったホテルのオーナーは、「ここはお前の泊まるところじゃない」と言い放って、泊まろうとしたわたしのカメラの入ったカバンを道に叩きつけました。そのオーナーは初老の白人女性でした。しかし、このような露骨な偏見による古典的レイシズムは、今はほとんど見られません。たいていの人は露骨な差別をしないのです。

 

古典的レイシズムに取って代わったのが、現代的レイシズム(Modern Racism)です。

 

現代的レイシズムでは人間の平等原則を認めています。そして偏見や差別は、今では認められない過去の遺物でしかないと主張します。それでも一部の人種が貧困にあえいでいるのは、他ならぬ当事者の努力が足りないからだと主張するのです。そんな努力の足りない人たちが公的な優遇を求めるのは、現代的レイシズムを信じる人たちにとっては理屈に合わないことでしょう。そして、もうとっくになくなってしまった昔の偏見や差別があった時代の出来事を、当事者はただ言い立てているだけだと言うのです。

 

レイシズムは人種差別が顕在化している地域や国での言い方ですが、人種差別を障害者差別に置き換えてみれば、同じことを言っているのだということがよく分かるでしょう。試しに人種差別を障害者差別に言い換えて作文してみます。

 

現代的レイシズムでは人間の平等原則を認めています。そして偏見や差別は、今では認められない過去の遺物でしかないと主張します。それでも障害者が貧困に(うつなどの二次的精神疾患に、社会からの孤立感に、etc.)あえいでいるのは、他ならぬ障害者自身の努力が足りないからだと主張するのです。そんな努力の足りない障害者が公的な優遇、例えば物価の高騰に応じた障害者年金の増額や受験のときの障害者に配慮した試験の方法(点字で受験する視覚障害者は晴眼者よりも長い試験時間がもらえます)、そして会社や公官庁に障害者の優先求職枠を求めるのは、現代的レイシズムを信じる人たちにとっては理屈に合わないことでしょう。そして、もうとっくになくなってしまった昔の偏見や差別があった時代の出来事を、障害者はただ言い立てているだけだと言うのです。

 

いかがでしょうか。あまりにもぴったり当てはまると思いませんか。

 

これを他のマイノリティの概念、例えば性的少数者、アイヌ、華僑、在日朝鮮人などの異民族、被差別部落に生きる人びと、外国人技能実習生などに変えたとしても、ほんの少し言葉を変えるだけで今日の状況が説明できてしまいます。つまり「現代的レイシズム」とは、わたしから見れば、マジョリティが常識として社会に定着させてきたマイノリティ排除の理屈に過ぎないのです。

 

◆メリトクラシーについて


メリトクラシー(meritocracy)という言葉もありました。日本では「能力主義」とか「成果主義」という方がよくわかるのでしょうか。つまり、努力をして能力を伸ばした人ほど優遇され、努力をしないし、伸ばすべき能力も見失った人は冷遇され、やがて見捨てられるという主張です。営利企業では、今でもよく使う信念です。

 

この考え方には原則があります。それは「平等な競争」と「平等な判定」です。この2つが、メリトクラシーにはぜひとも必要なのです。

 

どういうことかというと、平等でない競争では、本当は誰が勝ったのかよく分からないし、その判定がいびつでは公平性が保証できません。そしてメリトクラシーが成り立つもっとも大事な要素は、すべての人が「均質な潜在能力」を持っているはずだと信じていることです。つまり人間は、生まれつき誰もが等しい「金太郎飴」のような、どこで切っても同じ顔が覗かなくてはならないのです。

 

「努力をして能力を伸ばした人ほど優遇され、努力をしないし、伸ばすべき能力も見失った人は冷遇される」ということは、一見、理にかなったことに思えます。努力をしたのだから、どんな人であっても、その努力は正当に評価されてしかるべきです。反対に努力を怠った人は不利に扱われてもしかたありません。資格試験の直前に、集中して勉強した人と、どうしても集中できなかった人で、一方は合格し、もう一方は不合格になるのが当然だとは思いませんか。

 

でもこの競争(資格試験でしたら、実際は「勝ち負けのつく競争」ではないのですが、今は話を続ける都合があるので「競争」としておきます)は、本当に平等になされたのでしょうか。また合否を決める判定が公平であるという保証はどこにあるのでしょう。

 

例えば試験の直前に、運悪くカゼをひいた人がいたら、その人は実力を発揮できないでしょう。また、ある属性の人にだけゲタを履かせていたとしたら、とても公平だとは言えません。思い出してください。医学部の入学試験で、いくつかの大学では女子受験生は男子受験生よりも不利に扱われました。

 

我われはもともと「金太郎飴」のような「均質な潜在能力」など持っていません。社会は一人ひとり違った多様な才能で成り立っているのです。

 

メリトクラシーは競争が大好きな人の理屈です。それに対して研究者は、「自分の才能は他の誰とも違うが、自分は研究を続ける能力がある」と信じることが大切です。わたしはそう信じてきました。

 

◆障害者として、そして人類学者として思うこと


わたしは人類学者として、障害のない人を前提とした社会の設計には反対です。人という存在は、誰しも障害を抱えているもの―DNAレベルで見ると、当然、さまざまな変異があるものです。誰も彼もが非<障害者>の振りをして、毎日毎日、競争に明け暮れなければならない現代はいびつです。そして非<障害者>を前提に設計された社会が、<障害者>を排除してしまう行為はもっといびつです。

 

わたしに<退職勧告者候補>であると伝えた封筒は、わたしが大学院の講義が行えないと告げたことへの返答でした。

 

大学院の講義は「兵庫県域の哺乳類の現状」を語るというものでした。わたしにとって「兵庫県域の哺乳類の現状」を語ること自体は簡単です。しかし、同時に聞いた「職場に残りたいのなら、あれこれ言わずに<健常者>のように働くべきだ」という言葉が、わたしが大学院の講義ができなかった理由なのです。この言葉はトラウマとなり、時に突然思い出すことがあります。わたしを苦しめるのです。

 

「あなたは<退職勧告者候補>であると伝える」ことに合理性はあったのでしょうか。わたしはそこに、現代的レイシズムやメリトクラシーの理屈を感じてしまいます。


(文献)

高 史明・雨宮有里(2013)在日コリアンに対する古典的/現代的レイシズムについての基礎的検討.社会心理学研究 28: 67-76

 

(三谷雅純 「ことばを失う」の人類学 わたしをフィールド・ワークする 第17回おわり) 

16回はこちら


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