第14回 ついにインドネシアに上陸した(1)

第14回 ついにインドネシアに上陸した(1)

2022.7.15 update.

三谷雅純(みたに・まさずみ) イメージ

三谷雅純(みたに・まさずみ)

人やヒトの社会や行動の本質を科学的に探る、霊長類学、人間行動進化学に強い興味を持つ研究者。アフリカ中央部(カメルーン、コンゴ共和国)を中心に、鹿児島県屋久島、インドネシアの熱帯林で調査・研究を行ってきたフィールド・ワーカー。


2002年4月に脳塞栓症に陥り、以来、右の半身まひと失語となる。自由に森には行けなくなるが、代わりに人やヒトの多様性に興味を持ち研究を続ける。生涯学習施設の講演や緊急災害情報などの放送はどうあれば「聴覚失認」のある高次脳機能障害者、聴覚情報処理障害者が理解できるか、視聴覚実験によって検証している。


文化的、遺伝的多様性を持つ人で作る社会のあり方を研究していきたいと考えている。

◇先輩研究者に誘われて


ついにインドネシアを訪れることができました。

 

ずっと思い焦がれていた熱帯林へ出かける夢が叶ったのです。2007年のことでした。行先はスマトラ島です。わたしが脳塞栓症になって5年目のことです。

 

わたしたち研究者は、文部科学省やその外郭団体の日本学術振興会が世話をしてくれる科研費(かけんひ)と呼ばれるお金で研究活動をしています。もちろん厚生労働省やその他の省庁、またいろいろな財団からも研究費はもらえるのですが、わたしの場合は日本学術振興会が主な財源です。

 

科研費はいわゆる「競争的資金」と呼ばれる公金で、誰かは秘密のままの審査委員役を仰せつかった研究者が、この研究計画は優れている、この研究計画はもう一つだと順番を決め、優れた計画だと評価された順に研究費が下りるという仕組みです。なので研究を続けるには、次の研究費獲得のために論文を出し続け、学会発表をし続けなければいけません。世に言う「定期的に論文が出せる小ぶりな研究がまかり通る」というやつです。

 

その科研費に、わたしの学問上の大先輩である渡邊邦夫さんが通りました。かなり大型の研究費です。わたしはその研究の研究分担者、つまり、いっしょに研究をする仲間のひとりとして名前を挙げてもらったというわけです。

 

あとで伺うと「(わたしの研究者としての)実力はよく知っているのだが、はたしてインドネシアでの調査に耐えられる体力があるだろうか」と心配していたそうです。

 

実は自分でも不安でした。わたしはフィールド・ワーカーです。フィールドに出なければ調査になりません。ところが、まひの後遺症で野山を走り回るわけにはいかなくなったのです。

 


GISの知識が生きる

 

幸いなことにわたしは、兵庫県でGIS(地理情報システム: geographic information systems)と呼ばれるコンピュータを使った調査法に取り組んでいました(第2回 頭が引き裂かれて角が生えてきた)。渡邊さんは、そこに注目してくださいました。

 

渡邊さんは、リザルディさんやサンティさんという若いインドネシア人研究者といっしょに、スマトラ島という巨大な島(日本列島と同じくらいの巨大さ)で、そこにいる哺乳類がどんなところに棲んでいるかを調査していました。

 

インドネシアにも整備されはじめたGISの技術が使かえるかもしれない。これなら座ってできるので、三谷は障害と関係なく研究に貢献できる。渡邊さんはそう考えたのです。

 

ここは「体力がなくなった」などと言っている場合ではありません。せっかく研究費が下りたのだから、その機会は最大限活かされなければならない。その上、渡邊さんは「スマトラ島では世話を焼いてくれる人がいる」と言うのです。

 

わたしの「世話を焼いてくれる人」? このときは何のことか、それが誰のことか、さっぱり分かりませんでした。また、渡邊さんは「かわいい人」とも言ったような気がします。どんな「かわいい人」が、わたしの「世話を焼いてくれる」というのでしょうか?

 


一路インドネシアへ

 

200799日に関西国際空港を発ちインドネシアに向かいました。空港には妻が見送りに来てくれました。

 

今は障害者がひとりで飛行機や列車に乗ることも珍しくなくなりましたが、2007年頃は、そんなに多くはなかったはずです。

 

当時、航空関係者にも障害者の接遇研修がさかんに行われていました。ですから、わたしを見て空港の職員は妙に丁寧に対応してくれました。わたしがひとりでジャカルタのスカルノ・ハッタ国際空港に着くまでは、何が何でも無事に送り届けるという気概に溢れていました。

 

ただ、わたしは観光に行くのではありません。仕事に行くのです。行くのは熱帯林です。空港の職員がいくら丁寧に扱ってくださっても、森の事情はまた別です。まかり間違っても死ぬことはないでしょう。ないと思います。ないとは思うのですが、しかし、万が一ということもあります。その「万が一」は、わたしの場合、ふつうの確率よりもずっと高いでしょう。妻はだんだん無口になっていきました。

 

離陸です。インドネシアは障害者に優しいところでしょうか。障害者の人権を尊重してくれるでしょうか。それとも「まともに働けない者」として粗末に扱われるのでしょうか。今はまだ分かりません。それでも関西国際空港を離陸してからは、インドネシア人の男性チーフ・パーサーが何かと気を配ってくれています。フライトは快適でした。わたしは、これまで気を張っていた疲れが出たのか、いつしか眠ってしまいました。

 

スマトラ島でサンティさんと出会う

 

インドネシアの空港では大柄な男性職員が私を車いすに乗せて、丁寧に出口まで連れて行ってくれました。

 

渡邊邦夫さんが空港に迎えに来てくれています。日本からはそれぞれ別の便で発っています。渡邊さんは数日前からインドネシアでのいくつかの用事を片付けて、ジャカルタでわたしと落ち合うことにしていたのです。

 

渡邊さんはいつもひょうひょうとして、気取りやこだわりといったものがありません。いっしょにいて安心できる穏やかな人です。それでいて責任感が強く、チーム・リーダーにはぴったりです。インドネシア人にも信頼されていました。インドネシアの大学で出世した人から、若い学生まで、多くの人の尊敬を集めています。

 

そんな渡邊さんに連れられて、ジャカルタのあるジャワ島を飛び立ち、調査地であるスマトラ島のリアウ州に向かいました。リアウ州はスマトラ島の中ほどにあります。そこにサンティさんが待っていました。




図1 スマトラ島のリアウ州

 

サンティさんは女性の大学教員で、最近結婚されたばかりだそうです。渡邊さんやリザルディさんと共にスマトラ島の哺乳類の地理分布について調べています。わたしの「世話を焼いてくれる」「かわいい人」というのは、このサンティさんのことでした。

 

渡邊さんは、サンティさんがリザルディさんと共に調べてきた最新の調査報告を聞いています。その研究タイトルは、日本語にすると「スマトラ島における現生中大型哺乳類の分布現状およびその歴史的変遷に関する調査研究」となります。

 

要は、スマトラ島の中型や大型の哺乳類は人為的な影響で今のような分布をするようになったが、人為的な影響と言ってもそれは農耕に起因するものなのか、それとも企業の行う大規模な開発なのかは確かめなければいけない。もともとの哺乳類の分布がどのように変わったのかが分かれば、スマトラ島の環境保全と人間活動のバランスも取りやすくなる。そういう研究です。

 

なるほど、それならGISの技術が使えます。わたしがスマトラ島に呼ばれた理由が分かりました。がぜんファイトが湧いてきました。サンティさんによれば、スマトラゾウとスマトラトラはぜひ調べたい動物だそうです。

 


神経質なゾウの話

 

渡邊さんは、用事があって一足先にリアウ州を離れ、わたしはサンティさんと二人で調査を続けることになりました。

 

サンティさんの案内でカルテックスという企業(後のシェブロン)の原油採掘の場所を見学しました。そこには、採掘した原油を港まで送るパイプ・ラインが延えんと張られていました。サンティさんによれば、パイプ・ラインはゾウの移動の妨げになっているのだそうです。

 

 




2 原油採掘のようす

 

 



図3 港まで延えんとのびるパイプ・ライン

 

ゾウと言えば、わたしはアフリカのコンゴ共和国で出会った森林生のアフリカゾウ、マルミミゾウのことしか知りません。そして、神経質なマルミミゾウだと、このパイプ・ラインは越えて行けないと思います。

 

ゾウのけもの道は人が掃き清めたようにきれいに続いているのですが、それはマルミミゾウが神経質に「掃除」をするからです。枝が落ちていると足の裏に刺さるので、ゾウは本気で嫌がると聞きました。アジアゾウとアフリカゾウでは性格が違うかもしれませんが、もしマルミミゾウと同じなら、スマトラゾウもパイプ・ラインは絶対に避けるはずです。

 


広がる「緑の砂漠」

 

また、サンティさんは熱帯林を剥いだ跡地にアブラヤシの植え付けをしているところも見せてくれました。アブラヤシから採れるパーム油は食用油としてだけではなく、石鹸や洗剤などに広く利用されています。ただし広大な森林を剥いで苗を植え付けるので、アブラヤシのプランテーションには動物が棲めません。例えて言うなら「緑の砂漠」のような地域が広がってしまうのです。

 

石油の採掘と同様に、アブラヤシ農園も、国や大きな企業が経営しているのが一般的で、小規模な農家では手に負えません。

 

古くなって実が採れなくなったアブラヤシを植え直している農園がありました。その農園の外側に、ジャワ島から移り住んだ農民一家がいました。農園は国の経営で、そのそばに国策としてジャワ島から入植民を勧誘しているのです。ジャワ人は働き者として有名です。その上、ジャワ人は穏やかな人が多いと聞きます。国策の入植者には打って付けなのかもしれません。

 

 




図4 実が採れなくなった古いヤシを取り去り、苗を新しく植え付けたアブラヤシ農園。手前に見えるのはパイプ・ライン

 

 




図5 ジャワ島から入植した若いご夫婦と子ども。ヒジャブで頭髪を隠しているのがサンティさん。その横はわたし

 


サンティさんは森に詳しい人を見つけると、森のようすやどんな動物がいるのかを聞いて回ります。大抵は優しく教えてくれるのですが、なかには拒む人もいます。

 

 

サンティさんが森のようすの聞き込みをしていると娘さんが割り込んできて、「この人に何も言っちゃだめ!」と情報の提供を拒否する場面に出くわしました。わたしは訳がわからず、なぜだめなんだろうと聞くと、サンティさんは民族によって対応が違うのだと教えてくれました。

 

ジャワ人やミナン人(サンティさんはミナン人です)は、知らない人にも友好的だけど、よそよそしく、場合によっては嫌悪感丸出しで応対してくる人もいるとのことです。

 

 




図6 農村で聞き込みをするサンティさん。聞き込みの物珍しさに子どもたちが取り囲む

 


帰国ーそして、後日談

 

このようにして、スマトラ島のリアウ州のようすを見ることができました。わたし自身が現場に行かなければ、決して観察できなかったあれやこれやです。わたしは見せてもらったリアウ州のようすから、自分ならどんな研究をするだろうと考え込んでいました。サンティさんには、そんなわたしの考え込んでいる姿がどう映っていたでしょう?

 

帰国の日が来ました。昼過ぎにサンティさんに伴われて空港へ向かい、ジャカルタに向かう国内線の飛行機を待っていました。サンティさんとはお別れです。サンティさんはわたしの右手が不自由なことを良く知っていて、わたしの右手を包むようにして別れの握手をしてくれました。

 

わたしが身体障害者だということで、中年の太った空港職員も親切にしてくれました。次にインドネシアに来る時には、サンティさんが喜ぶデータを用意して来ようと思います。

 

実はこの話には、後日談があります。

 

日本に帰って、スマトラ島のGISの情報がないだろうかと探していると、サンティさんからメールが届きました。研究者は、国境には関係なくメールでやり取りをするのが一般的です。そんな日常のメールだと思って開くと、意外なことが書いてありました。そして渡邊さんがサンティさんのことを、わたしの「世話を焼いてくれる」「かわいい人」と言った理由が分かりました。

 

サンティさんのメールには

 

ミタニ センセイ

 

ミタニさんを空港で見送った後、私は、長い間泣いていました。ミタニさんのちょっとした仕草から父を思い出していたからです。父は3年前、脳梗塞で他界しました。

 

私はミタニさんが多くの困難を乗り越えてこられたことを誇りに思います。ミタニさんが病気を克服されて、ここ(スマトラ島)にいたことは驚異です。ミタニさんの精神力に敬意を表します。

 

 尊敬を込めて サンティ


そう記されていました。




(三谷雅純 「ことばを失う」の人類学 わたしをフィールド・ワークする 第14回おわり)

 

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