第2回 頭が引き裂かれて角が生えてきた

第2回 頭が引き裂かれて角が生えてきた

2021.7.19 update.

三谷雅純(みたに・まさずみ) イメージ

三谷雅純(みたに・まさずみ)

人やヒトの社会や行動の本質を科学的に探る、霊長類学、人間行動進化学に強い興味を持つ研究者。アフリカ中央部(カメルーン、コンゴ共和国)を中心に、鹿児島県屋久島、インドネシアの熱帯林で調査・研究を行ってきたフィールド・ワーカー。


2002年4月に脳塞栓症に陥り、以来、右の半身まひと失語となる。自由に森には行けなくなるが、代わりに人やヒトの多様性に興味を持ち研究を続ける。生涯学習施設の講演や緊急災害情報などの放送はどうあれば「聴覚失認」のある高次脳機能障害者、聴覚情報処理障害者が理解できるか、視聴覚実験によって検証している。


文化的、遺伝的多様性を持つ人で作る社会のあり方を研究していきたいと考えている。

■何かに頭をつかまれた

 

 わたしは夢を見ていました。それは夢だと気が付かないほどリアルな夢でした。

 

 わたしは水の中を漂っています。このまま底まで沈んでしまうのか、それとも下流へ流されてしまうのかは分かりません。何も不安は感じず、ただ水の流れに身を任せていたのです。水中では息ができないはずなのに、ちっとも苦しくありません。それとも、わたしは何か勘違いをしていただけで、そこは水中でなどないのでしょうか。

 

 頭に違和感を感じました。頭痛とはちょっと違います。ちっとも痛くはないのです。あえて言うなら、わたしの頭を何かがつかんでいて自由に動かせない。そんな感じです。でも、何につかまれているのかは分かりません。そのうち、何かが力を込めたのか、ずるずると引き裂かれる感じがしました。

 

 この時になっても痛みは感じません。血も出ません。やがて頭はふたつに裂かれ、片方ずつ、先端からニョキニョキと角が伸びはじめます。その様はちょうど、アゲハチョウの幼虫が怖い思いをした時に伸ばす突起のような感じです。しかし、わたしは恐怖を感じていたわけではないのです。その時は得体の知れない違和感だけを感じていました。

 

 これはわたしの見た夢の一部です。もっと別の夢も見たのでしょうが、記録に書き残しているのはこれだけです。

 

 こんな夢はそれまで見たことがありませんでした。

 

■眠りに落ちた日のこと

 

 わたしには柔道の経験があります。わたしは柔道選手にしては身体が小さいのですが、そんな人は相手の懐に潜り込んで投げられるようにすればよいと、背負い投げを教えてもらいました。背負い投げは自分の肘を支えにして相手を持ち上げ、転がす技です。柔道選手は体重の重い人が多いので、この技をかけると肘には大きな負担がかかります。そのためか柔道の練習をしなくなってからも、ときどき、肘が痛みました。

 

 わたしの場合、この柔道の経験が災いしてしまいました。脳塞栓症を発症する2、3日前には、しびれるような肘の痛みを感じていました。ところが、柔道をしていた頃の古傷が痛むのだと、わたしは気にも留めませんでした。

 

 その日は来客と打ち合わせをする用事がありました。GIS(地理情報システム)の専門家が、わざわざ東京から出て来てくれることになっていたのです。当時わたしは、兵庫県で新しく野生動物の研究施設を立ち上げようとしていて、その基礎となる哺乳類や鳥類のデータをまとめ、分かりやすく行政職員の言葉に直す(翻訳する?)という作業を行っていました。行政職員とは書類づくりの専門家です。行政職員がいなければ、研究者だけで研究施設を立ち上げるのは不可能です。その作業の中でGISを利用する計画がありました。その日予定していたのは、そのための打ち合わせです。

 

 わたしは、この研究施設の立ち上げのために、長い間まともに眠っていませんでした。半年以上前から、土日もなく、連日深夜の3時、4時にまで及ぶ残業が続いたのです。ただ、眠りたいという欲求は不思議と起こらず、つねに興奮して、神経がささくれ立っている感じでした。

 

 肘の痛みをきちんと病院で診てもらってと妻は心配していました。その心配に対して、「今日は東京から来てくれる大切なお客がある。その方との打ち合わせが終わったら、必ず病院に行く」そう約束しました。「だから、大丈夫、心配しなくてもいいよ」と。

 

 右肘のしびれは右足にも及び、ついには呂律が回らなくなってきました。この時もまだ自分が何か異常な状態にあるとは自覚していませんでした。

 

 でも、何かがおかしいと感づいた人がいたのです。見かねた後輩のひとりが「病院に行こう」と言って、わたしをその人の自家用車に乗せてくれました。しかしその日は、残念ながら一番近い大きな市民病院は閉まっていました。救急なら何時でも入れるのですが、こちらには救急で診てもらうという意識がありません。30分ほどかかって私立の脳神経外科病院を探し当てました。普段は働きに出ている妻がたまたま家にいて、電話でわたしが病院に向かったという知らせを聞き、大慌てで病院に駆けつけてくれました。

 

 東京からやって来た来客は、わたしが車で出るちょうどその時、わたしと入れ違いに受付に現れました。慌てて出ていくわたしと目が合って、約束を違えて去って行くわたしを唖然と見送っていたのを憶えています。

 

 わたしは、即、入院になりました。MRI(磁気共鳴画像)を見て、脳血管に血栓が詰まったのだとわかったのです。脳の圧力が大きくなっていて、頭痛がします。何種類かの、わたしの知らない薬を使って治療が始まりました。薬の中には睡眠薬が入っていたのかもしれません。そして、病院のベッドで横になっていたわたしはというと……

 

「これでやっと、誰に遠慮することなく眠ることができる」

 

 本当は眠りたかったに違いありません。当たり前です。しかし、その時まで、眠気は自覚できなかったのです。

 

 わたしは眠りに落ちていきました。仕事をあれこれ心配するよりも、その時はただ眠れることが嬉しかったのです。そして見たのが、最初に書いた不思議な夢でした。

 

■寝たり起きたりの日々

 

 わたしは左脳に血栓が詰まっていました。右腕の麻痺はまだ起きていませんでした。緊急に点滴が必要だというので点滴を受けましたが、後はもう寝たり起きたりが続き、記憶も断片的となります。病院の看護師によると、眠って過ごした一日目は、右手も有効に動いていたそうですが、二日目からは動かなくなったということです。その後は寝たり起きたりを繰り返し、夢うつつの中で、現実と夢の境がなくなっていきました。

 

 点滴は毎日何時間も続き、やがては「点滴」に敏感となり、アレルギーが出始めました。上半身一面に発疹が出たのです。

 

 アレルギーが出て変わった点は、それまで使っていた薬剤が使えなくなったことです。腕に赤く痕の残る点滴をがまんしながら、別の薬剤で点滴を受け続けました。

 

 都合1か月強の初期治療となりました。これで命は助かりましたが、代わりに多くのものを捨てました。多くのものを捨て去ったのですが、また、それに変わる多くのものも獲得しました。何を捨て去ったのか、何を獲得したのかは、今後この連載で、ゆっくりと考えながら書きたいと思います。

 

■家族との時間

 

 妻はほとんど毎日見舞ってくれました。子どもたちは近所の仲の良い家族に預かってもらっています。病院で過ごす一日は長く感じるのですが、妻といっしょに過ごす時間はあっという間に過ぎてしまいます。

 

 ひとつ不可解なことがありました。それは、いくら頼んでも、妻は鏡を見せてくれなかったのです。アレルギーが出ていたので発疹は普通ではない気がします。それを確かめたかったのに、頑として鏡を見せてくれませんでした。その時は、なぜだか分かりませんでしたが、後で時間を置いて説明してくれました。顔の半分が垂れ下がっていて、それを見れば、あまりの変わりようにショックを受けるだろうと心配したのでした。

 

 入院した当初は五里霧中でしたが、徐々に霧が晴れてきました。現実のことと夢のことに境がなくなっていたのですから――未だに霧がすべて晴れたというわけではないのですが――わたしの目にも状況は少しずつ明らかになっていきました。わたしは右半身がまひしていました。ことばがうまく喋れなくなっているという自覚はなかったのですが、実際は喋れなかったのだと思います。しかし、感覚や感情は――起きている時には――少なくとも主観的には、正常に働いていました。

 

 理学療法士の若い女性が、毎日、ベッドサイドに顔を見せてくれました。わたしの顔色によって、ある日は他愛ないおしゃべりをして帰って行き、また別の日にはわたしを車いすに乗せ、簡単な運動をする場所まで連れて行ってくれました。ただベッドに寝ているという単調な生活から解放される。少しでも刺激のあるひとときが嬉しかったのです。

 

 わたしにとって入院は初めての経験ではありません――カメルーンから戻った時、抗マラリア薬の副作用で肝臓が壊死したことがありました――が、わたしの子どもたちにとっては、家族の誰かが入院するのは初めてです。男の子が6歳、女の子は2歳でした。

 

 「点滴」が一段落ついて、わたしに、少しくらいならばということで病院の外に出る許可が出ました。わたしは車いすに乗せてもらい、それを妻が押してくれました。子どもたちは、男の子が女の子の手を引いて、いっしょに付いてきました。ひさびさに吸う外の空気は新鮮に感じました。「外に出る」という、ただそれだけのことが、これほど嬉しいことだとは驚きでした。外は晴れていました。わたしの感情は「外に出る」という嬉しさに溢れています。それは「自分が生きている」という自覚とは違っていたと思います。ただ「外に出る」という純粋な嬉しさだったと思うのです。

 

 車いすを押すことに慣れていない妻が車輪を溝にはめ、前にも後ろにも動かせなくなって困っていると、高校生の男の子が自転車を降りて近づいてきて、いっしょに持ち上げてくれました。少年は何も言わずに颯爽と去って行きました。

 

 子どもたちも両親といっしょにいる素直な嬉しさに溢れていました。児童公園に行って滑り台で遊び、元気に走り回りました。どんな時でも、いっしょにいるのが嬉しいのです。見舞いを終えて帰るという時、わたしが廊下まで見送りに出ると、女の子はわたしに「いっしょに帰ろう」と言いました――

 

■「死」と「再生」のイメージ

 

 それにしても、わたしが見た「水中の夢」とは何だったのでしょうか。何か意味のある夢だったのでしょうか。

 

 「水」や「流れ」は「死」と「再生」のイメージに近い気がします。琉球や奄美に伝わるニライカナイは「海底にある死者の魂が戻る異界」を意味します。ゴーギャンの有名な絵『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』には、「死」を司る青い神の姿と、生と死をつなぐ川の流れ――タヒチでは、神がうなずけば死んだ人は再び赤ん坊として生まれ、人生を生き直すことができます――が描かれています。わたしの見た夢は「死」、つまり「終わり」と「始まり」を象徴しているかのようです。

 

 不思議なことに、わたしが脳塞栓症を患ってから2、3年は死を恐ろしいものだとは感じませんでした。わたしにとって「死」は、それほど身近だったのかもしれません。ただこの感覚は、健康を取りもどすにつれて恐ろしいという思いに変わっていきました。

 

 

(三谷雅純 「ことばを失う」の人類学 わたしをフィールド・ワークする 第2回おわり)

 

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