第9回 もうひとつの生き方――妻のこと

第9回 もうひとつの生き方――妻のこと

2022.2.17 update.

三谷雅純(みたに・まさずみ) イメージ

三谷雅純(みたに・まさずみ)

人やヒトの社会や行動の本質を科学的に探る、霊長類学、人間行動進化学に強い興味を持つ研究者。アフリカ中央部(カメルーン、コンゴ共和国)を中心に、鹿児島県屋久島、インドネシアの熱帯林で調査・研究を行ってきたフィールド・ワーカー。


2002年4月に脳塞栓症に陥り、以来、右の半身まひと失語となる。自由に森には行けなくなるが、代わりに人やヒトの多様性に興味を持ち研究を続ける。生涯学習施設の講演や緊急災害情報などの放送はどうあれば「聴覚失認」のある高次脳機能障害者、聴覚情報処理障害者が理解できるか、視聴覚実験によって検証している。


文化的、遺伝的多様性を持つ人で作る社会のあり方を研究していきたいと考えている。

 

■怒るわたし、沈黙する家族

 

これは、わたしにとって書くのがつらい原稿になりました。

 

わたしが書いた下書きを読んで(投稿する前には、いつも読んでもらっています)、現実はこんなに穏やかではなかったと妻は言います。怒ったようです。いらだっています。下書きの原稿はボツにしました。

 

確かに退院した直後のわたしはいつも不機嫌で、何かというと怒り出すのです。いつもリハビリだ、リハビリだと言っていろいろな道具を持ち出すのですが、思い通りにできないと癇癪(かんしゃく)を起こします。リハビリ病院を退院して、短い時間でしたが家で過ごしたあと、国立循環器病研究センターに検査入院することになったとき、妻はほっとしたと言います。また別の病院に行っていてくれる。家族で過ごす団らんは、当時の我が家にはありませんした。

 

いらだった妻に聞くのも気が引けたので、こっそりと息子に発病前後のわたしの様子を聞いてみました。

 

発病前のことはあまり記憶にないそうです。考えてみれば、当事のわたしは何年間も野生哺乳類の研究施設の計画作りに没頭し、家にはあまりいませんでした。少なくとも、子どもが起きている時間に家に帰ることは、ほとんどありませんでした。

 

病気をしてからは、病院にいるか、家にいるかだったのですが、家にいるときは何かと言えば怒っていて、そんなとき、息子はどう接すれば良いのか分からなかったそうです。

 

娘はチック症を発症し、まばたきを繰り返すようになりました。チック症というのは子どもがなりやすい心の病気です。ストレスや不安が原因でなるそうです。当時、娘は2歳でしたから、まだ幼稚園にも入っていません。妻も娘に子どもらしい遊びをさせてやる余裕はなく、「公園デビュー」もできないまま幼稚園に入園したのです。ですから、ほかの子どもたちと外で玩具の取り合いをしたり、順番を待って滑り台で滑ったりした経験がないのです。仲の良いお友だちはいましたが、お母さんと「お出かけをする」といっても、わたしの見舞いに病院に行くくらいが関の山でした。

 

確かに、発症後のわたしの写真は、何やら険しい顔をしています。発症してからしばらくは笑う余裕もなかったのでしょうか。

 

 

 

写真1 実はこの写真、無邪気に笑う娘と左手を繋いでいます。

 

妻も笑う余裕はなかったはずです。しかし子どもたちがいます。子どもの前で悲しそうな顔はできません。精一杯、笑顔をつくって触れ合っていました。

 

時には子どもを置いてでも、わたしの顔を確認して妻が承認しなければならないことがあります。特に国立循環器病研究センターは検査入院ですから、通常は使わない放射性薬剤を使って検査をすることがあります。そんなときは託児所に娘を預け、息子には玄関の鍵をかけてから小学校に行くのだと何度も教えて、家を出てくるのです。

 

任せてよい歳ではありません。しかし、任せなければしかたがない。娘は託児所を嫌がって泣きました。息子もひとりでちゃんとできるという保証はありません。まだ小学校1年生なのです。でも、どうしてもわたしの検査には妻の承認が必要です。妻は子どもたちの身の上に、万が一の事故が起こることも覚悟していたはずです。

 

■「わたしはこれからどうなるのか」誰も答えてくれない

 

妻はかなり早くから、わたしが元に戻ることはないと悟っていました。妻は看護師です。若い頃から今まで、何人もわたしと同じような立場の人に出会ってきたはずです。

 

ところがわたしは、いまだに暗闇の中をさまよっていて、自分がこれからどうなってしまうのか、将来はあるのか、それともきれいさっぱりなくなってしまったのかが、どうにも、見通せなかったのです。自宅でやるリハビリテーションは自分で計画を立て、ただひたすら真剣に立ち向かいます。しかし、少なくともわたしには、やった先の見通しはないのです。

 

リハビリで世話になっている医療関係者に、わたしはこれからどうなるのかと聞いてまわったことがありました。皆、異口同音に、どうなるかは人によって違うと答えます。なかには、その人の脳が受けたダメージは、大きさも受けた場所も違うのだから、人によって違うのは当たり前だと、少し理屈っぽく答えてくれた人もいました。でも、わたしが求めていたのは、そうではありませんでした。わたしが聞きたいのは「人によって違う」という答えではなく、「わたしはこれからどうなるのか」だったのです。

 

でも誰にも「わたしはどうなるのか」は分かりません。平均的にどうなりそうだというのなら、答えられたかもしれません。しかし、個人個人がどうなるかまでは答えようがありません。……覚悟を決めるしかありませんでした。消し忘れた炭のように燻(くすぶ)り続ける不安を抱えたまま、生きていくしかありませんでした。

 

■励まし支えてくれる妻

 

わたしの後遺症といっしょに暮らした妻はどんな思いだったでしょう。

 

自宅でリハビリテーションに励んでいた最初の頃、妻はいつも励ましてくれました。回復がどこまで進むのか、それとも無駄な努力で終わるのか、さっぱり先が見通せないというのに、妻はわたしのリハビリテーションに役立ちそうだと、ホームセンターで上下左右に穴の開いたパンチング・ボードと木製ピンを買い求め、お手製のペグ・ボードをつくってくれました。また指先を鍛えるために、一般には「セラパテ」と呼ばれるそうですが、ベタ付かないプラスチック製のセラミック粘土も買ってくれました。

 

室内で使う小さなトランポリンを買ってくれたこともあります――わたしが必要だと主張して買ってもらったのですが、何に使おうとしたのかは忘れてしまいました。これはいつの間にか子どものおもちゃになっていました。

 

わたしは左手だけでもタイピングができましたが、まひした右手も練習すればよいと思ったので、自分でタイピング・ソフトを買ってきて、しばらくは右手も参加して、毎日、ぽつり、ぽつりとキーボードを打つ真似をしていました。ただし2、3か月続けても、わたしの右手の指は思うように機能せず、そのうち、日記などを本気で打ち込む必要が出てきたので、せっかく買ったタイピング・ソフトでしたが、使わなくなってしまいました。

 

 

写真2 右手で箸を使って煮魚を食べてみた

 

 

■暴走するプライド

 

あまりリハビリだ、リハビリだと言って杓子定規な生活を続けるのも息が詰まります。わたしが家にいるときに、たまには外食をしようと言って、妻が家族を連れ出してくれたことがありました。電車に乗って行ったのか、家の近所の店だったのか、今となっては記憶にありません。あいまいです。かすかに記憶に残っているとすれば、そこはレストランだったような気がするだけです。

 

わたしと家族はテーブルを囲みます。子どもたちは、はしゃいでいたのかもしれません。周りでは他の家族が食事をしています。何やら幸せそうです。わたしはお箸を真剣な表情で右手に持たせます。左手なら簡単に扱えます。しかし、ここでは右手です。右手でなければいけないのです。

 

わたしはうまく食べることができませんでした。妻はフォークを頼めばいいと言いますが、わたしは頼みたくありません。どうしてなのかは分かりません。気恥ずかしかったのでしょうか。それともプライドがあったのでしょうか(どんなプライドがあったというのでしょう?)。どうしても頼めなかったのです。そして何度も引っかかり、うまく食べられないと言って、ついには癇癪(かんしゃく)を起こすのでした。

 

妻と子どもは静まり返ってしまいます。わたしはどうしてよいのか分かりません。そんなとき、別のテーブルで食事をしていた老夫婦が、お箸では食べづらいと言ってフォークを頼みました。店員は愛想よくフォークを持ってきてくれます。食べづらければ、別の食事用具を借りるのは当たり前のことなのです。

 

私の後ろで食事をしている家族は笑い声を上げます。その家族は、今日が誰かの誕生日のようです。うちの家族だけが黙って下を向き、座り続けていたのでした。

 

■回復への固執と妻の思い

 

妻は看護師として多くの人に出会いました。その人たちのなかには、回復しないままであったという方もいたはずです。それでは、わたしはどうだったのだろうかというと、先に書いたように妻はわたしが元に戻ることはないと、決して口には出しませんが分かっていたはずです。

 

それなら、なぜ、わたしのリハビリテーションを熱心に手伝っていたのでしょうか。妻が言った言葉があります。

 

――この病気は、リハビリをすればするだけ良くなる一方だ。

 

妻とてためらいはあったはずです。「リハビリをすればするだけ良くなる一方だ」と、まるで信仰のように信じていたわけではありません。おそらく妻の言葉は「(効果的な)リハビリを(適切なタイミングで)すればするだけ(発症のよりときも)良くなる一方だ」と解釈するのが正しいのです。

 

無茶苦茶なリハビリテーションをやみくもにやっても消耗するだけだ。これは妻の経験から分かっていたことです。しかし、(効果的に)とか(適切なタイミングで)といった限定が、この人(つまりわたし)に当てはまるとは限らない。この人は特別であって欲しい。その感情も現にあったのではないでしょうか。「無茶苦茶なリハビリテーションをやみくもにやっても消耗するだけだ」という言葉と矛盾するようですが、リハビリテーションも、数をこなせばその内には必ず(効果的に)とか(適切なタイミングで)に当てはまるものがありそうです。医療関係者も含めて、人間はすべての原理を理解しているわけではないのです。

 

リハビリ病院で理学療法士から身体の進展を見てもらうとき、わたしは必ず、新しくできるようになったことを報告するようにしていました。報告することを自分に強いていました。医学的にどうだとか、理論的にこうだとかいった理屈づけは何もありません。例えば「右手で字が書けた」ことを発見した次の週には「右手で封筒の住所が書けた」と報告しました。また、1キロメートルのウォーキングができたので、その次の週には2キロメートルに伸ばしてみましたといった類いのことです。それは、回復は進行しているのだと自分を納得させるためでもありました。

 

このときはまだ、どこまで治るのか分からないと言って、わたしは回復に固執していたのです。ところが妻の方は、もうとっくに次のステップへ進んでいたようです。それは「もうひとつの生き方」を磨いていくことでした。

 

次回に続きます。

(三谷雅純 「ことばを失う」の人類学 わたしをフィールド・ワークする 第9回おわり)

 

←第8回はこちら

 

このページのトップへ