第15回 ついにインドネシアに上陸した(2)

第15回 ついにインドネシアに上陸した(2)

2022.8.19 update.

三谷雅純(みたに・まさずみ) イメージ

三谷雅純(みたに・まさずみ)

人やヒトの社会や行動の本質を科学的に探る、霊長類学、人間行動進化学に強い興味を持つ研究者。アフリカ中央部(カメルーン、コンゴ共和国)を中心に、鹿児島県屋久島、インドネシアの熱帯林で調査・研究を行ってきたフィールド・ワーカー。


2002年4月に脳塞栓症に陥り、以来、右の半身まひと失語となる。自由に森には行けなくなるが、代わりに人やヒトの多様性に興味を持ち研究を続ける。生涯学習施設の講演や緊急災害情報などの放送はどうあれば「聴覚失認」のある高次脳機能障害者、聴覚情報処理障害者が理解できるか、視聴覚実験によって検証している。


文化的、遺伝的多様性を持つ人で作る社会のあり方を研究していきたいと考えている。


◆サンティさんとのメール


前回書いたとおり、わたしはインドネシアに再上陸しました。それは、信頼して人びとの善意に任せておけば、障害者も安心できる道のりでした。


「かんかん!」にわたしのスマトラ行のようすを書いたとサンティさんにメールで知らせ、その原稿を英語に直して添付すると、しばらくしてサンティさんから返事が届きました。英文原稿はわたしのresearchmapというサイトに載せてあります。興味のある方は、覗いてみてください。第14回 ついにインドネシアに上陸した(1)」の対訳です。テキストファイルのダウンロードもできます。

 

サンティさんからのメールの一部(わたしはインドネシア語がよく分からないので、サンティさんは英語で書いてくれます)を、個人情報や研究の内容などを省いた差し障りのない範囲で、今度は日本語にして載せておきます。


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「ミタニ先生の原稿を全部読みました。ミタニ先生の原稿を読んで私は涙が出ました。ミタニ先生の話を読んでいると、あのときのリアウ州への調査旅行の状況がよみがえるのです。特に最後の段落では、もう一度、泣きながら微笑んでいました。」

 

 

 

「ワタナベ先生は、おっしゃるとおりの方です。特に霊長類を研究しているインドネシアの研究者の間でワタナベ先生は有名で、尊敬の念が広がっています。私たちはワタナベ先生を "とてもインドネシア人らしい日本人 "と呼んでいます。ワタナベ先生はインドネシアをよく廻っているので、インドネシアの文化にも精通しています。ワタナベ先生と出会えたことに、私はとても感謝しています。ワタナベ先生のおかげで、私はようやく多くの研究のチャンスと貴重な経験を得ることができました。」

 

 

 

「最後の段落に書いてあることは本当です。それは私が本当に感じていることです。ミタニ先生と私の父は、顔は似ていませんが仕草に似ているところがあります。空港でのお別れのときは急に悲しくなり、涙が出ました。」 


***


2007年の1回目の調査が終わって、サンティさんもやれやれと落ち着いたころ、サンティさんは妊娠をしました。しばらくは産前・産後と子育てで科学調査はお休みです。一方、わたしにとっては、スマトラ島の調査に優秀な付き添い役がいなくなったことを意味します。

 


2年目のインドネシアーフィールド・ワークの再開


2008年度に行う2年目のインドネシア調査をどうするべきか、渡邊さんと腹を割って話しました。わたしはスマトラ島をもう一度調査してみたかったのですが、サンティさんはまったく時間が取れません。どうするか。

 

幸い脳塞栓症になる前に詳しく調査をしていたパンガンダラン自然保護区の公園地域なら、起伏がほとんどないので、わたしでも歩けます。今度は調査地をスマトラ島からジャワ島に移して、渡邊さんといっしょにパンガンダランを調査することにしました。


 

 

1 ジャワ島パンガンダランの位置とパンガンダラン自然保護区の自然保護地域と公園地域 

※Sは二次林を、TMは、それぞれチーク(T)とマホガニー(M)の人工林を表す。二次林にかこまれたメッシュは草地を表す。破線は、市街地、公園地域、自然保護地域のそれぞれの境界を示す。


読者の皆さんは、200412月のスマトラ島北部の海底で起きた地震のことを聞いたことがあるでしょうか。マグニチュード9を越える巨大な地震で、大きな津波を引き起こしました。それ以来、スマトラ島とジャワ島の沖合では、毎年のように大きな海底地震が起こっています。

 

わたしや渡邊さんがスマトラ島にいた2007912日にも地震がありました。我われが泊まっていたホテルは、ゆっくりと長い間揺れていました。その翌日も朝から地震があり、渡邊さんは日本で待つわたしの妻に、こちらは無事だと電話で知らせてくれました。

 

そのような海底地震が2006717日にもジャワ島南西部沖で起こっています。そのとき、パンガンダランは津波に呑み込まれました。

 

その津波の影響が樹木や霊長類にも及んでいるはずです。そのようすを調査することは、津波のなかった年に調査をしていた者の義務かもしれない。これが渡邊さんの意見でした。もっともです。わたしのフィールド・ワークの再スタートです。

 


◆今の自分に合わせたフィールド・ワーク


公園の奥にある自然保護地域は山がちで、わたしが登ったり降りたりすることは(少なくとも、ひとりでは)無理です。そこで、ひとりで歩いて行ける公園地域の調査に的を絞りました。自然保護地域が天然の森に覆われているのに対して、公園地域はもともとチークやマホガニーといった有用木材を育てるプランテーションでした。そしてチークやマホガニーは、サルの仲間の良いエサになるのです。ただしサルなら誰でも食べるというわけではありません。繊維食が大好きなルトンというサルが住み着いているのです。ルトンはチークの葉やマホガニーの新芽が大好物です。そのサルを調べようというわけです。

 

公園地域なら、以前、調査していたときの歩道の地図が手許にあります。この地図がそのまま利用できます。しかし、わたしにはフィールド・ノートが書けません。前年のスマトラ島の調査でも問題になりましたが、わたしは左手しか使えません。フィールド・ノートに代わるものが必要です。さあ、どうする?

 

フィールド・ノートというのは、何でも書いておく小型のノートのことです。わたしの愛用していたものはA6サイズ(5号)で105 mm × 148 mmのものでした。つまりA4サイズの紙を四つ折りにした大きさのノートです。

 

以前、わたしはこのフィールド・ノートを常に太ももに付いている横ポケットに入れて森を歩いていました。何かあったとき、とっさにメモが取れるからです。それを調査期間の長さによって30冊から40冊も用意していたのです。

 

わたしはフィールド・ノートの代わりにボイス・レコーダー(ICレコーダー)を用意しました。ボイス・レコーダーは日本での講義録にも使っていました。フィールドでは、何か気が付いたことは何でもボイス・レコーダーに吹き込んでおくのです。そして一日の終わりにボイス・レコーダーを再生して、それを聞きながら調査日誌をまとめます。音声データをコンピュータに保存することはもちろんです。こうしておけば、いつでも聞き直せます。

 

ただしボイス・レコーダーで絵は描けません。これも工夫が必要でした。わたしはカメラで写真を撮り、記録に残そうとしました。近頃のデジタル・カメラは軽量でも性能が良く、撮りたいものは何でも撮れます。

 

ただ、あまりにも何でも撮れるので(わたしの撮影のしかたがへたなのかもしれませんが)、あとで何を記録したかったのか分からないときがあります。花の構造を撮りたかったのか、葉っぱの付き方が気になったのか、それとも木に隠れたリスの一匹を撮影したのかが、さっぱり見分けられません。ちょっと困ったことになりました。これは未だに解決していません。

 

調査日誌はコンピュータで付けます。調査日誌用にモバイルのノート・パソコンを買いました。日付を振ったフォルダーを用意しておき、シャワーを浴びて落ち着いてから、おもむろに調査日誌を付けるのです。感覚的には日記のようなものです。音声データや映像データも同じフォルダーに保存します。こうしておけば、いつ、何があったのかが一目瞭然です。

 


◆津波の痕跡と復興


下の図2の写真はパンガンダランが津波に呑まれて2年目のようすです。これは海岸近くの森ですが、塩をかぶって立木が枯れ、草が生えてきました。しかし、人工的に植えたマホガニーやチークにはほとんど被害が出ていません。もともと塩をかぶっても枯れることがない樹種なのかもしれません。

 

そのためでしょうか、ルトンが食料が足らなくて困っているようすがないのです。そのことよりも、雨が多い雨期とぜんぜん雨が降らない乾期の交代がルトンにとっては大問題なのかもしれません。雨量と植物の生長は関係が深いからです。ただ、ここでルトンの問題には、これ以上立ち入りません。興味が湧いた読者は、ちょうどこの調査の後出した、わたしと渡邊さんの論文[https://www.jstage.jst.go.jp/article/psj/25/1/25_1_5/_pdf/-char/ja]を見てください。

 

 

 



2 洪水で塩をかぶった木と生えてきた草

 

 

 



3 ルトン

 

 

 



4 チークの葉を食べるルトン

 

 

 



5 公園地域にもう1種類いるカニクイザル

 

パンガンダランには、ボゴール農科大学から大学院生のカンティさんとプジさんが同行してくれました。二人とも自然大好きな女子学生です。わたしが困っていたら助けてやってくれと言われて、渡邊さんとわたしに付いて来たのでしょう。二人とも元気いっぱいで、パンガンダランの調査では公園地区を行ったり来たりしています。

 

 

 



6 カンティさん(左)とプジさん(右)

 

津波の痕は2年経っても修復できていない家並みに残っていました。閉めてしまった店も多く、再開できたところも代の変わったところが多いのです。

 

前からお世話になっていた安宿のラウト・ビル(青い海)は、津波で壊れてしまったところを修理して、仰仰しくも「ラウト・ビル・リゾート・ホテル」と名乗っていました。しかし何のことはない、中味は昔のラウト・ビルのままでした。管理人のご一家は、幸いにも津波でひとりも欠けることなく、以前と同じ笑顔で挨拶してくれます。変わったことと言えば、以前はまだ幼かった女の子が娘さんになり、部屋の掃除など、手伝いをしていたことでした。

 

 

 



7 壊れた家と戻って来た観光客 馬車は観光用ではなく実用

 


◆インドネシアの優しい心根


パンガンダランには、さまざまな人が働いています。公園の管理をする公務員、漁師、漁師の中でも岩場の一本釣りをする人から地引き網猟師、エビ専門に狙う漁師、灯りをともしてタチウオ漁をする人もいます。お客が自炊できる安価な宿もあります。もう少しお金を持った観光客相手には鮮魚レストランもありました。日本で言えば「人力車」とでも言えばよいのでしょうか、前に客を乗せて後ろから自転車で押すベチャ引き(ベチャ押し?)や津波で壊れてしまった堤防の工事をする労働者など。その一人ひとりに津波は異なるしかたで影響を与えたに違いありません。


漁師の生活は以前と何も変わっていないように見えました。宿とレストランは閉めてしまったところが多かったようです。




図8 底引き網を舟からたぐる 小エビやアミが捕れる





図9 魚市場 タチウオが上がっていた

 

ある日、パンガンダランの裏通りを散歩していました。表通りは、かつて洪水が来るまでは土産物屋が軒を並べていました。そして裏通りには、洪水の後先で何も変わっていない普通の生活がありました。

 

公務員の制服を着た人がわたしを見とがめます。でも、わたしと目が合うとにっこりと微笑みます。道ばたでよもやま話をする男性の一団も、道行くわたしが会釈をすると笑って挨拶を返してくれます。

 

「セラマット シアン」(こんにちは)

 

わたしが道に迷っているのだと見て取ると、家から出て来て、どこのホテルだ、どこへ行くのだと聞いて来ます。わたしのことを心配しているのです。

 

「オラン コレア?」(韓国人か?)

「オラン コレア」(韓国人だ)

 

フィールド・ワークで使う洗いざらしの長袖シャツを着ているせいでしょうか、アフリカのコンゴ共和国でも、ここインドネシアでも、わたしはよく韓国人の船員に間違われました。

 

「ジャラン?」(通りは?)

 

この畑の中を行くと、通りに出るよと教えてくれます。「テリマ カシ」(ありがとう)と何度か言い、手を振って分かれると、路地で洗濯をしていた奥さんが手を止めて、「ハロー」と笑いかけてくれました。

 

インドネシアに来るといつも驚くのですが、人びとは、異教徒や、外国人や、そして障害者に、とことん優しいのです。日本人、特に日本の若者の障害者へのよそよそしい態度に慣れてしまった身には、正直なところ、人びとの優しさにびっくりさせられます。そしてほっとします。


初めて来たときにはモスク(イスラム教の礼拝堂)のスピーカーから鳴り響く礼拝の声にびっくりしました。先導する導師の声が大音響で流れ出るからです。しかし、やがて人びとと挨拶を交わし、優しさに触れると、モスクの大音響もさほど気にならなくなりました。

 

わたしに津波のトラウマを聞き出せる語学力があったなら、どれほど良かったかと思いました。

 

ラウト・ビルに帰り着いてひとり座っていると、遠くのモスクから礼拝の声が響きました。


(三谷雅純 「ことばを失う」の人類学 わたしをフィールド・ワークする 第15回おわり)


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