第19回 障害者と少数民族は似たところがある

第19回 障害者と少数民族は似たところがある

2022.12.19 update.

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三谷雅純(みたに・まさずみ)

人やヒトの社会や行動の本質を科学的に探る、霊長類学、人間行動進化学に強い興味を持つ研究者。アフリカ中央部(カメルーン、コンゴ共和国)を中心に、鹿児島県屋久島、インドネシアの熱帯林で調査・研究を行ってきたフィールド・ワーカー。


2002年4月に脳塞栓症に陥り、以来、右の半身まひと失語となる。自由に森には行けなくなるが、代わりに人やヒトの多様性に興味を持ち研究を続ける。生涯学習施設の講演や緊急災害情報などの放送はどうあれば「聴覚失認」のある高次脳機能障害者、聴覚情報処理障害者が理解できるか、視聴覚実験によって検証している。


文化的、遺伝的多様性を持つ人で作る社会のあり方を研究していきたいと考えている。

■フィリピンの先住民アエタについて

 

吉田舞さんの『先住民の労働社会学―フィリピン市場社会の底辺を生きる』(吉田, 2018)という本を読んでいます。この連載の執筆のために読んだというわけではありません。狩猟採集民と都市環境の関係という、どちらかというと民族学に根差した興味から読んだのです。

 

この本を読んでいると、わたしにとっては、今さらながらですが、都市の経済社会に取り込まれた先住民の困難さと障害者の困難さには似たところが多いと気がつきます。「今さらながら」と書いたのは、ずっと以前から<障害者>の社会的立場は、さまざまな少数民族と似ている気がしていたからです。

 

フィリピンのルソン島にはアエタという先住民がいます。フィリピンに多く住むのは「マレー人」と総称される直毛が多い人たちですが、アエタは「マレー人」よりもずっと肌の色が濃く、巻き毛で、身長も低い人たちです。そのため「小柄で黒い人」という意味の「ネグリト」と呼ばれることがあります。

 

アエタは少数民族で、自分たちの言葉を失った人たちです。同じ島に住む「マレー人」と似た言葉を母語にしています。このことは、わたしには不思議でも何でもありません。アフリカのピグミーも同じでした。ピグミーはバンツー農耕民の古い言葉を母語にしていました。

 

もうひとつピグミーと同じなのは、アエタが狩猟採集をしていることです。一方、ピグミーと違うこともあります。それは、焼き畑農耕をすることです。ただ狩猟採集にしても、焼き畑農耕にしても、貨幣や時間の感覚とは無縁です。アエタはひたすら子どもが無事に成長することを祈り、里芋やバナナの実りを見守ります。時間を気にすることはありません。元気がないときは無理をせずに休み、また元気になってから、精一杯働くのです。

 

■現在に投げ出されたアエタ

 

そんなアエタの生活に大変なことが起こりました。1991年に起きたピナトゥボ山の大噴火です。

 

これは、20世紀で2番目に大きな噴火だとされています。山の上近くまであった森は火山灰に埋もれ、アエタは住む場所を失いました。それまでは差別されることを恐れて「マレー人」の多い平地民とは接触しないようにしていましたが、噴火によって嫌でも平地に下り、平地民の中で暮らさざるを得なくなったのです。平地民の社会はグローバル化した市場経済社会です。農耕の始まりは1万年程前だと言われていますから、人間は狩猟採集の生活から1万年という時間をかけて市場経済を発見したのです。ところがアエタは噴火という自然災害によって、狩猟採集生活から現在に、一気に「投げ出された」のです。



図1 フィリピンの地図





図2 ピナトゥボ山周辺の地図 

 

それにしても障害者の困難がアエタの困難と似ているとはどういうことでしょう。

 

■障害者の困難とアエタの困難は同一か?

 

障害者と一口に言っても、さまざまな人がいます。なぜなら<障害者>とは<非障害者>の対立概念だからです。「<非障害者>でないのなら、とりあえず<障害者>に入れておけばよい」。

 

また<障害者>とは医療行政上の枠組みでもあります。誰が行政サービスを受けるのか、行政はその優遇措置を執るために<障害者>に属す人を決めておく必要があります。<障害者>にはさまざまな障害種別の人がいるのだから、「アエタと<障害者>が似ている」というと誤解を招きかねません。少数民族であるアエタの立場からも、社会的マイノリティである障害者の立場からも、そんなことはなかなか言えないのです。

 

躊躇しました。そこで、ここは<障害者>のなかでも、わたしの場合ではどうだろうと考えてみました。わたしと同じ障害を持つ人からは文句が出るかもしれませんが許して下さい。わたしも気にしないことにします。ここでは自分を例にとって比べてみます。



 

 

■わたしをアエタと比べてみる

 

まず見かけです。アエタは身長が低く、毛が縮れていて、暗褐色の肌をしています。わたしは右半身にまひがあり、歩き疲れると右足を引きずります。どちらも一目で分かります。今は気にならなくなりましたが、後遺症の初期には人の目が気になりました。

 

アエタの母語をマガンチ・アエタと呼ぶそうです。先にも書きましたが、これはアエタ本来の言葉ではなく、「マレー人」の言葉です。「ピジン語」とか「クレオール」という呼び方はよく知られていると思います。これは、イギリスやフランスが植民をした時に、英語やフランス語が現地の言葉に影響を与え、また影響を受けて変形して出来た言葉のことです。

 

マガンチ・アエタも「クレオール」一種だと思います。わたしがアフリカの村人から習い憶え、使っていた「アフリカ訛りの強いフランス語」というのも、「クレオール」の一種だと言えるのかもしれません。

 

一方、障害者としてもわたしは関西訛りのある日本語をしゃべります。しかし、連続してしゃべるのは1時間半が限度です。1時間半というのは講義1コマの時間です。1時間半を越えると失語が出始めます。これは「便利なタイム・キーパー」だとも言えます。調子に乗って講義時間が過ぎないように、失語の出方で調節ができるのです。

 

わたしよりも失語がひどい人は、ゆっくりとですが、独特のしゃべり方をします。「そう。だからね......、あのね......、(腕を指さして)これがね......、(指で焼き物を指して)これ。ね(と、穏やかに笑う)」といったように。この人が言いことは「そう。だからね、自分の焼き物は評価されているので満足しています」という意味です。これを「正しい日本語ではない」と言って直そうとする人がいますが、考えようによっては、これも「失語症者のピジン語」だとか「失語症者のクレオール」と言えるのかもしれません。

 

狩猟採集や焼き畑農耕では必要があれば多く働き、必要のない時は仕事を止めてさっさと切り上げます。アエタには「勤務時間」という概念がないのです。

 

これは元来の人の時間の過ごし方です。ですからアエタに「勤務時間」を守れというと、とんでもないストレスを与えます。わたしはと言うと「勤務時間」のことはよく知っていますが、易疲労性のために連続して作業ができません。これも、障害者になって分かった自然なストレスかもしれません。

 

■市場経済の中でもがくアエタ

 

市場経済の下で働こうとすると、字が読める・書けるということは必須条件になります。また簡単な四則演算も必須条件です。しかし、アエタはこれができません。学校に通った経験がないからです。

 

突然、市場経済に「放り出された」アエタは、字を知らない・足し算/引き算ができないという理由で職を得る機会を奪われます。また運良く職に就けたとしても、労働者にとって大切な「契約書」はおろか、休日はいつで、給料はいくらといった約束事もあやふやになりがちです。雇用主によっては、ろくに給料も払わず、休日の保証もしないということさえあるのです。事実、吉田舞さんの『先住民の労働社会学』には、イヌの世話係として雇われたけれど、毎晩、イヌといっしょに寝ることを強要されたアエタの少年の話が出て来ます。

 

このような都市の市場経済をアエタはどのように感じているのでしょうか。山に帰って火山灰を取り除き、焼き畑耕作を始めた人もいました。しかし、大勢のアエタは市場経済を受容しようとしています。

 

してはいますが、適応しきれないというのが本当のところでしょう。すでに説明した識字の問題もそうですが、貨幣を数えるのにも訓練が必要です。若いアエタなら早く取得できるのでしょうが、中年や老人はお金をうまく数えられない人がいてもおかしくはありません。カメルーンでわたしの森のお師匠さんだったピグミーの老人も、お金は数えられませんでした。

 

もちろん福利厚生などない場合が多いのです。それどころか、ホームレスになるアエタもいたということです。わたしはというと、公立大学の教員でしたので契約や福利厚生は安定していました。これは中途障害者の怪我の功名です。しかし、生まれつき障害があったのなら、たとえ日本でも、わたしは職に就くこと自体が難しかったはずです。

 

一方、アエタがアエタであるがゆえに、市場経済社会で有利になる点がありました。それは「先住民を売りものにした観光業」です。吉田さんは20名のアエタの職業や収入を調べていますが、その内のひとりは、観光業に就いていた50歳代の男性でした。正規職員として勤めていたので、当然、通常の給与以外に残業代が支払われます。アエタの中で、その男性はもっとも収入があった人でした(吉田, 2013)。他にもガイドや民族衣装のモデルという人もいましたが、いつでも仕事があるというわけではなさそうです。

 

「集落へ電気が供給され、交通手段が整えられると、外資系の所有者によるリゾート施設が建設された。観光地と化したサパには、アエタとの交流やエコ・ツアーを謳ったパッケージツアーが組まれて、多い日には一日に100人以上の外国人が訪れるようになった」(吉田, 2018, p.42)そうです。ちなみにサパというのが、アエタの住んでいた森林地域の名前です。

 

観光事業ではアエタの生活を大げさに脚色して見せるのですから、雇用主にとってアエタは「差異を持った、なくてはならない存在」なのです。

 

脚色の程度が問題ですが、「なくてはならない存在」として、自らの「肌の色が濃く、巻き毛で、身長も低い」という見た目が収入に結びつくのなら、そして市場経済のまっただ中で生きていく覚悟があれば、これを利用しない手はないでしょう。観光客に慣れない高齢者も納得してくれるのではないでしょうか。

 

■<障害者>を人類学的に見直す

 

もちろん、アエタの感じる困難と障害者の感じる困難は違います。ただ同じ原因でもたらされている部分もあります。それは市場経済の下で働くときの決まり事が、多数者の都合と習慣で決まっていること、そして、その決まり事に適応できなければ、二級市民の扱いに甘んじなければならないことです。

 

障害者の未来をポジティブに考えるモデルとして、少数民族の権利運動はよい例になりそうです。失敗した権利運動も多いのでしょうが、よい例を探して、そこから「障害者の未来」について学びましょう。

 

それからもうひとつ。<障害者>はさまざまな少数民族と似ているのだから、<障害者>を人類学的に見直すという気運は、もっと広まってもよいのではないでしょうか。これは、わたしの主張です。

 

吉田舞(2013)市場経済との遭遇―フィリピン先住民にみる排除の構造―社会学論考, 34: pp.65-92

吉田舞(2018)先住民の労働社会学―フィリピン市場社会の底辺を生きる風響社, 東京

(三谷雅純 「ことばを失う」の人類学 わたしをフィールド・ワークする 第19回おわり) 

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