3 自由は、後ろのドアを開けてやってくる

3 自由は、後ろのドアを開けてやってくる

2022.8.25 update.

対談者プロフィール

村瀨孝生(むらせ・たかお)
特別養護老人ホーム「よりあいの森」、「宅老所よりあい」、「第2宅老所よりあい」の統括所長。大学卒業後、特別養護老人ホームに生活指導員として8年勤務。その後福岡市で、「宅老所よりあい」にボランティアとしてかかわる。
著書に『おしっこの放物線』(雲母書房)、『ぼけてもいいよ』(西日本新聞社)、『増補新版 おばあちゃんが、ぼけた。』(よりみちパン!セ、新曜社)など。

伊藤亜紗(いとう・あさ)
東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター長。専門は、美学、現代アート。
著書に『ヴァレリー 芸術と身体の解剖』(講談社学術文庫)、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『どもる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社)、『手の倫理』(講談社)など。
第13回(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞(2020)受賞。第42回サントリー学芸賞受賞。

2022723日、東京・代官山 蔦屋書店にて、「シリーズ ケアをひらく」の最新刊、村瀨孝生さんの『シンクロと自由』の刊行記念トークイベントが行われました。

お相手は、同シリーズで『どもる体』を刊行している伊藤亜紗さん。村瀨さんの最高の理解者である伊藤さんは『シンクロと自由』をどう読むか――注目の対談を、当「かんかん!」では4日連続更新でご紹介します。

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【目次】

1 介護と「わたし」(823日更新)

2 心ないシンクロは気持ちいい(824日更新)

3 自由は、後ろのドアを開けてやってくる(8月25日更新)

補 ヒントいっぱいのQ&A826日更新)

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 3 自由は、後ろのドアを開けてやってくる



鼻水に、癒やされ許され、救われる

 

伊藤 ここからはPARTⅡの「自由」の話もうかがいたいです。前回の「お年寄りとシンクロしてる状態が怖くなったときに、そこから離脱してよい」という話は、「そういう自由がある」というように一見読めるんですけれども、たぶんそうじゃない。もし離脱していいという話で終わっていたら、それは介護する人が自分を守るための方法の話にしかならないですから。

 この『シンクロと自由』には、その先があると思うんです。つまり離脱したときって、なんらかの罪の意識っていうんですかね、罪悪感みたいなものを介護する側は背負うんじゃないかと思うんです。離脱をしたことによって背負った罪の意識が、なんかとても不思議な形でお年寄りの側から「許される」――結果的に許されるような不思議な出来事が起こる。そんなことがこの本にはたくさん書かれています。

 たとえば、おばあさんが鼻水すすってるうちに、それがハミングになり、さらにソプラノの歌声に変化した話が出てきます(27頁~)。これは一体何が起こっていたのかなって。

 

 ぼくは危険な領域へと向かいつつあった。それを制したのは、おばさんの悲しみに満ちた口調だった。

「私にもまだ、まだ、やれることがあると思うの。どうして......どうして......」

 シクシクと泣きはじめたのだ。呼吸に合わせてすすられる鼻水。それが徐々にリズムを帯びてきた。やがてリズムはハミングに変わる。ハミングは見事なソプラノの歌声へと変化していった。

 おばさんは自らの歌声に励まされていく。悲しげな顔から、晴れ晴れとした表情になり、艶のある伸びやかな声で歌いあげる。ぼくはあっけにとられ一部始終を見届けた。わずか数分の出来事はぼくを劇的に変えた。

(『シンクロと自由』28頁)

 

村瀨 いわゆる若年性のアルツハイマーの方だったので、「おばさん」って書いてましたね。老いによるものではないんですが、それを抱えて長く生きてこられてるんで、認知症状としてはかなり低下している状態なんです。

 言葉も断片的でしかなかったんですけど、明け方4時ぐらいにね、「わたしにもできることがあると思うんだ」みたいなことをお話しされて、それで急に泣き出されたんですね。もうそのときは本当に号泣に近いというか、慟哭というか、そういうとっても重たいものだったんですよ。僕はもうどうしようもできない。ああいうときには、肩に手を添えることもできないんですよね。

 そしたらね、鼻をすすりながら泣きじゃくっていたら、だんだんリズムに乗ってきて、それがやがてハミングになってきて、最後には、クリスチャンの方だったから讃美歌のようなすごい高いソプラノになって、歌い上げる。鼻をしゃくりあげるのがリズムになって、そこからハミングになって、その自分の歌声がワ~っとのびやかになったときにもう生き生きしてて。

 そのあいだ、僕はなんにもしていないんですよね。さっき泣いてたじゃんって。あんな深刻に泣いてたのにって。そんなことが起こるんですよね。

 

伊藤 その手前の段階では、村瀨さんはかなりその方に手を焼いていた。どう付き合ったらいいんだろうみたいに感じてたのに、その方が自ら慰めていくというか、鼻水の力で癒やされていくみたいな。不思議ですね。

 

村瀨 そうなんですよね。その方が寝ないから僕も結局寝れなくて、限界が来てたんですよね。それ以前に、寝かせよう寝かせようとしてる僕に問題があるんですけどね。そういう関わりの中で、お互いに破綻していったんだと思うんです。だけど、そんな両者が、こんなふうにして鼻水に救われるという......僕もそこで解放された。

 

 

後ろのドアが開いちゃう問題

 

伊藤 なんか救いっていうんですかね。癒しというか。そういうものが常に訪れるわけではないだろうし、繰り返し起こせるものではないと思うんですけど、ときにそういうものがやってくる。これがすごいなぁと思うんですよね。

 わたしの中で、「後ろのドアが開いちゃう問題」っていうのがあるんです。それは、自分がなんとかしなきゃみたいな、この問題をどう解決しようみたいに集中してるときに、ふっと後ろのドアが開いて、ス~って風が入ってきて、「あっ、そうだった」みたいな、「こっちか」みたいなふうにして解決する。

 問題が解決するときって、だいたいそういうパターンのような気がするんです。自分が狙っていた道筋で解決したように見えるときって、実は小さいサーキットの中で問題が一周しただけの話で、根本的な何かはほぐれてないときが多いんですよね。でも根本的な何かがほぐれるときって、いつも後ろのドアが開く感じがする。

 

村瀨 うん、うん、いや、わかりますね。狭い中で自分でコントロールしようと思ってたり、自分の思惑に囚われているとき、しかも「この方法しかない」と思ってるときに、それが崩壊して、たぶん後ろのドアが開いて、外から何かがやってくる。もしくはハツカネズミのようにグルグルグル回ってたけれど、回り過ぎてはじき飛ばされて、囚われから解放される。そういった形で、まったく自分が思いもしなかった方法でその場を乗り切れたりとか、次に展開できるってことがやっぱり起こるんだと思うんです。

 介護現場なんかは、それがむしろ起こりやすい感じがするんですよ。特に言葉による合意ができないお年寄りが多いので、一般社会から比べるとそういうことが起こりやすいのかな。

 

伊藤 なるほど。たしかに言葉じゃないっていうは大きいかもしれないですね。わたしも同じ「ケアをひらく」のシリーズで、『どもる体』という吃音の本の出させてもらったんです。原稿を全部書き終えて、カバーの絵をイラストレーターの三好愛さんが描いてくれたときも、けっこう後ろのドア開いたんですよね。吃音の人、絶対そんな絵描かないよっていう、傷つく絵なんですよね(笑)。


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村瀨 やっぱり傷つくんですね。

 

伊藤 その本の中に「吃音って言葉の代わりに体が出ちゃってる状態」という当事者の方の言葉があるんですが、それをそのまま絵にしてくれてるんです。吃音の人からしたら、痛すぎて、こんな描けないんですけれども(笑)、やっぱり言葉じゃなくて絵でパッと示されると、後ろのドアからフ~って風が入ってきた感じがした。

 

村瀨 絵を見て、「あっ、こういうことなんだな」みたいな了解みたいなものが生じるってことなんですかね。

 

伊藤 そうです、了解って感じですね。ピタッとはまってしまう感じですかね。

 

村瀨 傷つくものであったとしても、でも「あっ、そうなんだ」って自分が了解することって、解放されていく、自由を得ていくという感じなのかなって。

 介護現場ではお年寄りと生活を一緒につくっていきます。その中で「両者の了解」っていうのがやっぱり起こるんだなっていう気はしますね。そこに解放されていくっていうんですかね、そういうものかもしれないです。

 

 

エビデンスから了解へ

 

伊藤 両者の了解っていうのは、お年寄りからするとどういう感じなんでしょう。

 

村瀨 「両者」という言い方をするとまた違ってくるんでしょうね。ただなんとなく、お年寄りの側も、あれだけ怒ってた人が怒らなくなってくるとかね。あれだけ5分おきに「オシッコ」「オシッコ」って言ってたのがスッと治まっていったり。歯ぎしりがすごかった人がいつの間にかしなくなっていったりとか。

「あれは決して本人にとってもいい状態ではないよね」って思えることがなんとなく消失していくことがあるんですよね、時間をかけて。「そういえば最近ないよね」っていう形で。なんかそういうことを、「僕も了解し、おばあちゃんも了解してくれた」と感じてるのかもしれないです。

 

伊藤 なるほど。

 

村瀨 そこに僕らの関わりがまったくなかったかっていうと、やっぱりあったと思うんですよ。でも「何がそうさせたの?」と言われても、エビデンス的には言語化できない。

 

伊藤 わからなさって言うか、ブラックボックスが絶対残るわけですよね。お年寄りだとより不確定さは高まるでしょうけど、本当は誰だってそのわからなさは必ずあるはずです。お年寄りの場合は、そのわからなさがより際立つからこそ、意図とは離れた現象みたいなところで、結果的に介護が成り立っている。そういう不思議な領域が開けますよね。

 

村瀨 そう、そうなんですよ。それがやっぱり醍醐味っていうか、面白いんですよね。意図して計画的に、「これをすればこうなるだろう」とわかってることに基づいてそのとおりになったときに、それはお互いが自由を失うっていう感じがするんです。しかもそれが生活の中で起こってしまうとね。生活外の、限られた時間と限られた空間の中で意図的に行われるのはいいんだけど、生活の中で常にそれが起こるというのは......。それを目論んで介護する側も自由を失うでしょうし、そういった形で落ち着いてしまうお年寄りも、まったく自由ではないなぁって思うんです。

 それに実際には、そんなことは起こらない。そんな科学的に再現されるように、普遍性に基づいて、どの人もこの方法論で落ち着くっていうようなことは絶対にないから心配はしてないんですけど(笑)。


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了解から「仕方ない」へ

 

伊藤 だからこの本で使われてる「自由」って、すごく大きいものに対する「自由」ですよね。ある種の科学的な、エビデンス主義的な、再現性重視的な、そういう価値観からの自由。あるいは、放っておいてもそこに生まれるような自由。介護しようと思ってする介護を超えていく介護。そういう意味での自由というものでもあるような気がします。

 私は、「自由」という言葉が入ったタイトルを見たときに、少しびっくりする感じがあったんですよ。それがどういった経緯で出てきたのか、教えてもらえますか。

 

村瀨 このタイトル自体は編集の白石さんが付けてくれたんですけれど、僕にとっては自由って、ずっと大きなテーマだったんですよね。そもそも介護自体が時間にも空間にもお互いが拘束されます。食べたくないのに食べる時間ですよって言われて、限られた時間の中で食べなかったらお膳を引かれてしまったり。夜食べられなくて空腹で目覚めても「ごはんの時間じゃない」って言われたり。トイレに行きたいのに「今は行けない」って言われたり。そういった形でまったく不自由なわけです。

 一方で介護する側も拘束されるんですよ。僕もいま母の介護で生活そのものが自由じゃなくなってます。じゃ介護を投げ出しちゃっていいのかっていうと、そうはならない。こんなにお互いに拘束しあって不自由を感じている、その拘束しあってる状況の中で、どうしたら自由になれるのかと......。

「介護することによって自由を得る」ということがあるとは最初は思ってなかったです。だけど、介護してお年寄りとず~っと関わっていく中で、今日お話ししたような爽快な気分になっていたり、ホッとしていたりする。それは世間で「ダメでしたよね、あなた失敗しましたよね」って言われてることなのに、「はぁ、もうよかったぁ、これで」「これでなんか自由になった」って感じる。

 あれだけなんとか連れて帰ろうとあの手この手でやってたのに、「いやいやもういい。一緒に歩こうか」っていう現象が起こる。そのときに「あぁよかった」と心から思える。こっちの思いは全然成就してないんですよ。だけど「よし、一緒に歩こう」っていうことになっていく。

 

伊藤 思い通りになっていないけど、了解とか納得みたいなことってすごく大きいことなんでしょうね。結果がどうこうというよりも、そのプロセスの中で、自分の質みたいなものが変わっていく。その変わった方向っていうのは、それまで気づいてなかった自分の形なんだけど、でも変わっていくプロセス自体に了解があったり、納得感があったりすると、実はそれはそれで「新しい土地見つけた」みたいな、「新しいやり方見つけた」みたいなことでもあるっていうことですよね。

 

村瀨 そういう意味では、了解とか納得っていうのはどっちかというとポジティブ感がまだ残ってるんですけど、ある意味、すべての手の内が尽きたときの、「仕方ない」という感じです。「仕方ない」という言葉が、こんなに奥深いと僕は思わなかったんですよ。

「仕方ない」っていうのはあらゆる手段を講じて、そのすべての手段がまったく無効だった。もう自分にはなんの打つ手はまったくありません、どうしていいかわかりませんっていうようなときの「諦め」感ですよね。でもこうして諦めたときに、結果的には「一緒に歩くしかない」という手段が残ってた、ということになるんです。万策が尽きて、すべての仕方がなくっていったときに残された手段が、もしかしたら両者にとっては取るべき道だったかもしれない、と後から了解される。

 もちろんそのときは「あっ、こういうことだったんだ」なんて実感できないですよ。もう失意のもとで歩いてますから(笑)。「今日俺、帰ってあのテレビ観たかったのにぃぃ~」とか「なんで、よりによってこの水曜日の8時なのか~」みたいなね。そういうさまざまなことが諦められた一瞬なんですよね。

村瀨孝生×伊藤亜紗『介護現場から自由を更新する!」第3回了

 

←第2回はこちら 第4回はこちら(8月26日更新)→

シンクロと自由 イメージ

シンクロと自由

介護現場から「自由」を更新する!
「こんな老人ホームなら入りたい!」と熱い反響を呼んだNHK番組「よりあいの森 老いに沿う」。その施設長が綴る、自由と不自由の織りなす不思議な物語。
万策尽きて、途方に暮れているのに、希望が勝手にやってくる。
誰も介護はされたくないし、誰も介護はしたくないのに、笑いがにじみ出てくる。
しなやかなエピソードに浸っているだけなのに、気づくと温かい涙が流れている。

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