第12回 わたしの興味は変わったか

第12回 わたしの興味は変わったか

2022.5.17 update.

三谷雅純(みたに・まさずみ) イメージ

三谷雅純(みたに・まさずみ)

人やヒトの社会や行動の本質を科学的に探る、霊長類学、人間行動進化学に強い興味を持つ研究者。アフリカ中央部(カメルーン、コンゴ共和国)を中心に、鹿児島県屋久島、インドネシアの熱帯林で調査・研究を行ってきたフィールド・ワーカー。


2002年4月に脳塞栓症に陥り、以来、右の半身まひと失語となる。自由に森には行けなくなるが、代わりに人やヒトの多様性に興味を持ち研究を続ける。生涯学習施設の講演や緊急災害情報などの放送はどうあれば「聴覚失認」のある高次脳機能障害者、聴覚情報処理障害者が理解できるか、視聴覚実験によって検証している。


文化的、遺伝的多様性を持つ人で作る社会のあり方を研究していきたいと考えている。

 

■霊長類学を志すー伊谷純一郎さんとの出会い

 

新聞の連載を続けながら、わたしが後遺症を得る前と後で、自分の興味は変わっただろうかと考えてみました。

 

後遺症を得る前にわたしが主に研究していた学問は霊長類学と言います。霊長類学とは「霊長類」、つまりサルや類人猿や昔の(=今は滅んだ)人類も含めて、その社会と行動を観察し、あるいは思い描いて、今、生きているヒトの本質は何なのかを科学的に探ろうという学問です。

 

わたしと霊長類学との出会いは、かつて教科書で読んだ、伊谷純一郎さんが書かれた高崎山のサルの話でした。初めて読んだときにはそれほど驚いたという記憶はなく、ただおもしろいことを調べている先生がいるものだと思っただけでした。しかし、どこか印象に残る研究で、時間が経ってもしっかりと記憶に残っていました。そして京都大学に入学して実際に伊谷純一郎さんにお会いしてみると、その研究のすごさが身に染みて分かりました。

 

日本に棲むサルは森に溶け込むようにして暮らしています。それが元来のサルの生活です。ですからサル集団の全体像は森に隠れていて目には見えません。またサルは他の哺乳類に比べると寿命が長いので、野生状態でサルの一生をひと通り観察するのも難しくてできません。特にオスザルは集団を出て、短い期間ですが独りで暮らします。だから、メスとコドモ、それにオスまで含めたサル集団の全体像を図に描き出すのは至難のことなのです。

 

ヒントとなる手掛かりは森の陰からちらりと見える断片だけです。伊谷さんは、そこから「ニホンザル集団の社会構造」を描き出したのです。言ってみれば抽象的な現象の具象化です。象徴的な意味を図に表すのです。とんでもなく高度な知的作業です。

 

セミナーの席だったと思いますが、伊谷さんは、自分の研究はクロード・レヴィ=ストロースを手本にしたと話されたことがありました。レヴィ=ストロースとはフランスの人類学者です。自分たちヨーロッパ人だけが優れているのではない。他にも優れた社会はあるのだと言って、南アメリカの狩猟採集民の社会構造を図に表して見せた人です。

 

 

図 伊谷純一郎さんが描いた大分県高崎山のニホンザルの社会構造

 

 

■生態学と重なり合う課題に心血を注ぐー河合雅雄さんに師事

 

わたしは研究者を目指していました。しかし、はたしてわたしに伊谷さんのような「抽象的な現象の具象化」ができるのだろうか。あるいはレヴィ=ストロースのように、自分の知らない民族の社会構造を描き出すことなどできるのだろうか。それを思うと自分の研究者としての将来が見通せなくなりました。

 

霊長類学の中でも人類学に関連の深い分野のフィールド・ワークというのは、とんでもない体力と、とんでもない直感力と、とんでもない知恵がなければ勤まらない学問のようです。自分にはそのような才能はなさそうだけれど、はたしてどうしたものだろう。

 

これが、当時、霊長類学の中でも生態学と重なり合う課題の解明を目指しておられた河合雅雄さんに師事した理由でした。

 

当時のわたしは、生態学というのは、重さでも、長さでも、ともかく測って測って測り抜けば自ずと答えは出るものだと信じていたのです。測り抜いた後は統計学が、どれがよいかを決めてくれる。自分に直感力がなくても何とか研究を続けられそうだ。そう思えたのでした。

 

もちろん現実の生態学はもっとエレガントなものでしたが、ともかく直感力も知恵もないわたしは、河合雅雄さんに従って、アフリカの熱帯林で泥だらけになって霊長類の生態調査を続けたのでした。

 

そして2002年4月に脳塞栓症に倒れました。この病気が原因で亡くなる方も多いそうです。幸いわたしは死にはしませんでしたが、これまで書いてきたような後遺症が残りました。

 

■脳塞栓症後、自分の興味を見失う

 

病気の前後で確実に変わったのは、わたしがICT(Information and Communication Technology: 情報通信技術)を、それまで以上に多用するようになったことです。疲れや緊張から失語が出そうなときは、ICTが便利です。わたしはもう熱帯林には行けません(行けないことになっています。でも本当のことを言うと、今でも行けるチャンスを狙っています)。

 

わたしは今でも研究を続けていますが、では病気の前後で興味の対象はどう変わったのでしょうか。

 

病気をしてすぐの頃は、自分が何者に変わったのか分かりませんでした。何をすれば自分の科学的な興味を満たし、社会の役に立ち、自分やまわりの人の役に立つのかが分からなかったのです。

 

なので、惰性で、それまでの作業を続けようとしました。できることもありましたが、できないこともありました。

 

わたしが行っていたのは、兵庫県に棲む野生動物の研究の基礎となる哺乳類や鳥類のデータをまとめて、分かりやすく行政職員の言葉に直す作業でした。GIS(地理情報システム)というコンピュータを使ったシステムでなら、研究者でなくても分かります。わたしは「霊長類の専門家」ならぬ「哺乳類の専門家」として病気をした後も、行政職員との打ち合わせや会議にも出ようとしていました(事実、いくつかの会議には出ました)。

 

しかし、これはすぐに頓挫しました。一つは行政職員と上手く意思疎通ができなかったこと、もう一つは、研究対象であるはずの「兵庫県に棲む野生哺乳類」に愛着が湧かなくなったことが原因です。

 

■後遺症を負い自分自身を発見する

 

その代わりに、わたしにとって後生大事になったのは人間そのものでした。なかでも自分自身です。

 

後遺症が残っている自分の姿は、安易に見過ごせる姿ではありません。何も考えなくても自動的に腕や足が動き、舌が回る時代は過去のものとなりました。一つひとつ、慎重に動かし方を考えなければ腕や足は動かず、口も利けなくなっていました。自ずと意識は自分に集中します。当然のことです。

 

わたしは自分がどんなになっても生きている価値があると信じています。ですから、正直に言うと障害を負ったからといって悲観する人の気持ちはよく分かりません。そもそも、完璧な人間はいません。障害を負う前の自分も完璧ではなかったはずです。

 

だとすると、病気をする前も、後遺症が残った今も、わたしという存在は何も変わらないはずです。ただ変わったのは、活動の一つひとつに意識が集中していることだけなのです。

 

わたしの存在を中心に置いて考えてみたときに、「わたし」とはいったい何者なのだろうという疑問が浮かび上がります。ずっと付き合ってきて一番よく知っているはずの「わたし」。

 

「わたし」は大阪の下町で育ち、あまり人と争うこともなく研究者となり、結婚して二人の子をもうけました。人生の自慢は深く関わった「ンドキの森」がUNESCOの世界自然遺産になったことぐらいです。あとはごく普通の人生でした。それが病気を境に世の中のわたしの取り扱い方が変わってしまった。中味の「わたし」という存在は何も変わらないのにです。

 

もちろん、気を張って体を操っているのですから、以前のわたしとは違います。それなのに「わたし」の何が変わったというのでしょう。

 

それはおそらく社会の中でのわたしの位置づけが変わり、その反作用でわたしも変わってしまったということ。そしてまた、わたしが変わったことで社会の位置づけが再び変わり、さらにわたしが反応した。そしてそれが何度も繰り返し起こった。そういうことではないでしょうか。

 

■新しい人類学が誕生する予感

 

仲良くなった高次脳機能障害者の仲間を観察していると―人類学や社会学では「参与(さんよ)観察」と呼ぶそうです―、症状は共通するものもあるのですが、細かな点は違うようです。ある人はほとんど喋れません。しかし、手足を動かすのは平気です。別の人は、今しがた恐ろしい目に合ったのに、次の瞬間には何事もなかったかのように忘れてしまいます。脳の中の世界は広大です。果てしがないのです。そのどこかに不都合が起こったのだとしたら、さまざまな点が違うのは当然だとも言えます。

 

つまり同じ「高次脳機能障害」と言っても、その実態は多様なのです。「高次脳機能障害」という言葉は、その共通する側面だけを覗いて付けた仮の呼び名だという気がします。

 

元来人間は、多様な存在です。多様な存在をそのままに研究してみたら、どんな世界が広がるのだろう。しかも観察対象は自分をはじめとする人たちです。これはやってみる価値がある。間違いありません。しかも、研究を行うのはわたしという当事者です。もしかすると、新しい人類学が誕生するかもしれない。誕生して欲しい。

 

■「ことばを失う」の人類学の誕生

 

社会人セミナーの席で高次脳機能障害者の女性にこんなことを尋ねられました。

 

「三谷さんは、どんな立場の人にも必ず優れたところがあると言いますが、私は高次脳機能障害者になってよかったと思ったことはありません。どんなところが優れていると思っていらっしゃるのですか」

 

わたしは、さまざまな社会的マイノリティと同様に、それぞれの障害者にも優れたところがあるはずだと言いました。それがわたしの主張だったのです。それに対して今度はその女性から「どんなところが優れているのか」と聞かれたのです。咄嗟(とっさ)のことで、上手く答えられませんでした。それでつい「落ち着いてものを考えられるところ」「心根(こころね)が優しいところ」とごまかしてしまいました。

 

そのとき上手く答えていたら、現在、どんなところが優れているのかなどとは考えていなかったかもしれません。上手く答えられなかったがゆえに、その質問(叱責?)は澱(おり)となって心の底に残りました。

 

わたしが予感する新しい学問とは、ひと色のヒトではなく、本質的に多様なヒトに向き合える人類学です。そこで向き合うのは「自己」であり「他者(たしゃ)」です。わたしにとっては、さまざまな特質を持った高次脳機能障害者のことです。

 

効率主義の社会ではわたし達の才能を存分に発揮することは不可能でしょう。わたし達はゆっくりとしか動けません。競争社会でも不可能だと思います。市場経済至上主義ならどうでしょう。市場経済至上主義というのは、簡単に効率主義や競争社会になりそうです。ここでも活躍は難しそうです。

 

しかし、世の中には、どうあっても市場に乗せて、価格を付けてはいけないものがあるはずです。教育はそうでしょうし、医療もそうでしょう。さまざまな野生動物や野生植物もそうかもしれません。そしてまさにヒトがそうなのです。どんなヒトも生きる価値があるはずだ。でも、皆がそれを納得するには「生きる価値」を証明して示さなければなりません。

 

今はまだ、マジョリティ中心の、効率優先で経済優先の価値観が色濃く残る社会です。しかし、さまざまな社会的マイノリティが、自分の意見を、誰に遠慮することなく主張できる社会であって欲しい。それが<新しい人類学>、つまり<「ことばを失う」の人類学>の誕生です。

 

(三谷雅純 「ことばを失う」の人類学 わたしをフィールド・ワークする 第12回おわり)

 

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