湿った体のサイボーグ【後編】

湿った体のサイボーグ【後編】

2021.12.17 update.

対談者プロフィール

伊藤亜紗(いとう・あさ)
美学、現代アート。東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター。リベラルアーツ研究教育院教授。著書に『手の倫理』(講談社選書メチエ)、『ヴァレリー─芸術と身体の哲学』(講談社学術文庫)、『どもる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社)、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書)他。


川口有美子(かわぐち・ゆみこ)
NPO法人さくら会理事。『逝かない身体』(医学書院)で第41回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。NPO法人ALS/MNDサポートセンターさくら会副理事長。有限会社ケアサポートモモ代表取締役難病患者向けヘルパー派遣事業を営む。立命館大客員研究員。最新作は『見捨てられる〈いのち〉を考える』(共著、晶文社)。

【←前編はこちら】

 

体の微調整

5 自己目的化したコミュニケーション 

 

川口 ノイズが見えたときにその人が見える。それもコミュニケーションですからね。介助でも、お互いにいろいろ微調整するっていうのが楽しいじゃないですか。「ちょっと曲がってるよ」とか言われて直したりとか。

 

伊藤 微調整が楽しい?

 

川口 『逝かない身体』のテーマの一つは微調整なんです。私たちは体が動いてるので、考えなくても微調整できてるんですよ。お尻が痛くなるまで動かないってことはないですよね。こうやって話しながらでも、知らないうちにちゃんと動かしています。でも神経難病の人とか、障害の方たち、動かなくなってしまう体の持ち主は結構います。

 ただ「動かない」といっても、いろんな病気で動かないわけです。たとえば頸損とか脊損の人の「動かない」と、ALSみたいな神経難病の方の「動かない」は、違う「動かない」なので。介護の仕方が全然違います。

 

伊藤 そうなんですね。

 

川口 全然違います。動かないから、同じ介護の仕方をすればいいってもんじゃない。たとえば、CIL(Center for Independent Living)っていう障害者団体にヘルパーさんがたくさんいるんですけど、彼らはもともと脳性まひとか、あまり医療的ではない人たちのケアをしてきた人たちが多いんです。最近そういう人たちが、医療的な呼吸器つけてたりする神経難病の人たちのケアをするようになっていますが、本当に難しいらしくて。前の感覚でやると、もう怒られまくりなんですね。

 

伊藤 どんな違いがあるんですか?

 

川口 たとえばALSだと神経がなくなって筋肉が細くなって、骨と皮の間にうすく脂肪の層があるだけみたいになる。動けないから体中が非常に痛くなるんです。あと神経がなくなっていくときにもすごく痛みがあったりして。だから少し体を動かしてあげないといけないんです。体をちょっと持ち上げておろす、ということをしょっちゅうしている。それから手の位置とか脚の組み方とか、ベストはないにしてもベターなものがあるんですね。その位置決めにほとんどミリ単位の要求をされるわけです。それも言葉じゃなくて、文字盤だとか、視線でパソコンに入力するとか、そんな特殊な仕方で教えてくれるのを、ヘルパーはいろんな方法で読み取ってやっていく。

 それを一日中繰り返してやっていくので、お互いすごいしんどいことはしんどいです。ただそれさえも、病気がうんと進んじゃうとできなくなって、うちの母も最後できなくなってしまって……。「それをやってるときがはな」なんて言ったら申し訳ないですけど、それ自体がコミュニケーションなんですよ。

 

伊藤 そうやって「ここだ」って決まったらうれしいみたいな話ですか?

 

川口 そう、やった~! って、でもその状況が3分ぐらいしかもたなかったりするんですよ。寝る前にだいたい1時間ぐらいかけて、寝る姿勢をとるんですよ。ミリ単位ですね。

 

伊藤 へぇ~。左右のバランスとかは?

 

川口 左右違います。右がこうだから左もこうだとは限らなくて、肘の置き方だとか、脚の組み方とか、本人の思ってるイメージっていうのがあるんですよ。それに向けて一生懸命やる。病院に入院したりすると、看護の方たちは忙しいから、わりとぞんざいに扱われて……でも本人たちは変な形でおかれると眠れないので、どうしてもそこはこだわるから何回もナースコールを押して呼ぶでしょ。そうすると、それを意地悪だというふうに変換して取る看護師さんも多いんですよ。それでモメちゃうんですけど、ALSのような病気の方のために代弁しますと、意地悪してはいないんです、全然。必死なんです。

 

伊藤 その形でどのくらいもつんですか?

 

川口 位置が少しずつ変わっていったり、このあいだはこうしてたけど、今はこうなってるとかってあるんです。いつも同じではないので、とにかく毎日聞いていて、少しずつ工夫していちばん長くもつ体勢というのを工夫していく。それが仕事なんです。だからもう別に面倒くさいと思わないで、楽しむしかなくて。決まったときにお互いに「よし!」って思うんですね。1時間ぐらいしかもたないときもあるけど。

 私もダメ出しのオンパレードでしたから、ず~っと「ダメ」「ダメ」「ダメ」とか、「もうちょっとこっち」とかっていうふうにして。そのたびに文字盤とか、口の形で「あかさたな」とか、すごい時間をかけてやる。それ自体がコミュニケーションですね。

 

 

ALSの完成形

6 蘭の花のように守ればよい 

 

伊藤 体の位置の微調整がお母さまとのコミュニケーションだったというお話でしたが、介護するなかでナンバー2ぐらいに楽しかったこと、逆にしんどかったからこそよく覚えてるでもいいんですけど、教えていただけますか。

 

川口 うちの母は本当に早く進んでしまったので、最終的には眼球も全部止まっちゃったんですよ。目が少し動いてれば、「Yesのときは眼球を右に向けて」とかでYes/Noも取れるんですが、それもできなくなって。ちょうどそのころ、頭にディテクター(探知器)をくっつけて脳波を読み取る「マクトス」という機械の試作品みたいなのができたんです。「試作品でもいいので、とにかく最初に使わせてくれ」ってお願いをして、社長さんに持って来てもらったりしたんですけど。

 結局、うちの母の場合はそうこうしているうちに、脳波を測るとθ(シータ)波が出るようになっちゃったんですね。α、β、γ……の先のθ。θ波って何かなと調べたら、もう「瞑想状態」というか、意識がないような状態なんですね。たとえばすごい高僧が瞑想するときの状態。たぶんすごい穏やかなんですよ。「あれ~っ!?」って思いました。「苦しんでないな」って。もう苦しいのもわからない、そこまで行っちゃったと。

 私は一生懸命母に話しかけて、なんとかコミュニケーション取り戻したいと思ってた。「こうやったら痛い?」とか「かゆい?」とか、そういうレベルのケアをしなきゃいけないとずっと思ってた。でも、そこまで行っている体は、たぶんそんなのどうでもいいんじゃないかなと。苦しくないんだから。で、もうやめたんです、そういうコミュニケーションとるのを。

 その代わりに、体を放ったらかしにしておくと褥瘡ができちゃったりとか、栄養状態が悪くなったりするので、母の意思と関係なく、体をきれいに保とうと思った。それで「あっ、植物と同じ」と。植物と同じように母の体を育てればいいんだって思って、「魂の器である身体を温室に見立て、蘭の花のように大事に守ればよい」っていう表現が出てきたんですね。

 

伊藤 なるほど。

 

川口 もともとはコミュニケーションを取りたいとは思ってたんですよ。「★○◆▽」などが描かれているエスパーカードを使ってテレパシーの訓練をしたり(笑)。θ波に至るまでの間にもしかしたらなんらかの方法で、もうちょっとコミュニケーション取れるっていう段階があったかもしれないんですけど、そこは私の場合はうまくいかないで、θ波のところまで行っちゃったんですけどね。

 

伊藤 そのときのお気持ちって、あんまり突っ込んで聞くようなことではないかもしれないですけど、どういう感じなんですか。別れみたいな感覚だったり、違う出会いがあったり……どんな感じだったんですかね。

 

川口 なんていうのかな……ALSって病気自体、そこに至るまでに肺炎になったりとか、他の疾患で亡くなっちゃうんですよね。なかなかそこまで到達できない。私はだから「完成形」かなと思って。こういうこと言ったら悪いかもしれないですけど、病気としては進行していって最後そこに至ってるんですけれども、わりと自然だったんですよ。

 途中もちろん葛藤はありましたよ。脂汗かいたりとか、伝わらなくて焦ったりという状況のときもあったんですけど、やっぱり進行していってそこに至ったときに、私は一種の救いのような気がしました。そういう……なんていうのかしらね……うまく言えなくて哲学的な話になりますけど、神の存在を感じましたね。

 

伊藤 結晶化したみたいな感じですか。

 

川口 うん。涅槃(ねはん)って言うじゃないですか、普通の病人は地上にいて、死んだあとは天国というか別のところに行くんですけど、ちょうど真ん中へんにいるかなと思って。でも体は死なないので、それで『逝かない身体』というタイトルが出てきたんです。

 体はあるけれど、θ波で別にそんなに苦しんでない。だから母はこの世の諸々のことにもう全く興味がない。私たちがどんな生活してるかも全然心配してないと。私たちのことも、もう……。それは悪くないと思ったんですよね。

 

伊藤 すごいですね。

 

文中写真2.JPG

 

心身二元論

7 魂が中空から自分の体を見ている 

 

川口 こういうふうに考える人ってあんまりいないかもしれないけど、でも私たちはその母の体の周りで、すごく仲良く暮らせたんです。私たち家族だけじゃなくて、ヘルパーさんたちも毎日同じように来て。ヘルパーさんたちは母が生きてるかぎり仕事があるので(笑)。本当にみんなで大事に大事にしていて、悪くないなぁと思っていたんですね。

 病気になったこと自体は悲しかったんですけど、進行して最終的にそういうふうになっていくという過程を、母もどこかでやっぱりもうしょうがないって思ったんだと思うんですよ。しょうがない、任せようって。このままいくしかないなって。そうなっていったのに、悲しんだら悪いなと思って。

 

伊藤 ……

 

川口 周りも明るくて、「一緒に生きていこう」って腹をくくったというか。私たちだけじゃなくて、たぶんこういう病気で長く在宅で一緒に暮らしてる家族は、みんなどっかしらそういう覚悟でいると思います、患者さんもね。

 途中で呼吸器を取って死ぬっていうのが「治療停止」ですね。そうしたいっていう人も結構いるんですけど、それはそれですごく難しいですよ。だっていつ取るかって決めなきゃいけない。たとえば来週のいつとか、再来週のいつ何時とかって。それはね、やっぱり幸せに療養してたら、ちょっと難しいです。

 

伊藤 私、自分のこの『どもる体』の最初のほうに、「この本は心身二元論の立場をとります」って書いたんです。

 

川口 書いてあった、書いてあった!

 

伊藤 哲学のなかでは、心身二元論なんて「はぁ~っ?」みたいな感じで、完全に否定されている。「心が体である」みたいな言われ方が一般的なんです、今は。だけど、うまくいってる体はそうだけれども、うまくいかないときって基本的に二元論化していきます。吃音は特に、そのある種のピークを経験してると思うんですよね。「これを言いたいのに体が言ってくれない」わけですから。やっぱり二元論、めちゃくちゃ面白いなと思って。

 

川口 いま、私はまさに二元論の話をしたんですよね。

 

伊藤 そうなんですよ。心と体の分離ってだいたい危機的な状況、一刻も早く一体化させないとヤバい事態、みたいに思われがちなのですが、そんな人間観は超狭い、ということを今日知りました(笑)。分離のなかには、その分離そのものが均衡を生み出すような可能性も含まれていたんですね。しかも川口さんのお母さまの場合には、その均衡が、川口さんやヘルパーさんを常時招き入れることで成立する均衡になっている。というか、体はある意味では余白そのものみたいな感じだったわけですよね。心は地上と天国のあいだくらいの場所で完成されていて、地上的な関心からはある意味切り離されているけど、体は物質として地上に残されていて、その余白に、他者が入ってくる。まさに湿った体ですね。心はここにあらずとも体が湿るという永続する世俗性が、均衡を作り出していますね。

 

 

川口 そうですね、毎日毎日他人に介護されながら生きているうちに、「自分の体は自分だけのものじゃない」という自覚が患者さんに生まれてくるんですよ、たぶん。私の周りにも、自分はもう死んじゃってもいいなってつぶやく患者さん結構います。だけど「自分の体がなくなると、周りのみんなが困るので」って言われます。実際にそういうふうに実感されてると思うんですけど、ほとんどの方が、自分の体はもう自分だけのものじゃないって思ってますね。

 

伊藤 へぇぇぇ。

 

川口 だから完全に二元論化してるんですよ。体は残しておかないといけないって思ってる。母の場合も、脳は生きてるんだけれども、どっかに魂が行っちゃってる、意識が行っちゃっている状況ですよね、そのθ波って。

 だけど私たちにしてみれば、体がそこにあるってことがすごい大事だったんですよ。体の調子がいいとみんなご機嫌で。そういう状況だったんですね。

 そういうふうにならなくても、1日中あっちこっち痛いとか、微調整しろって言ってる患者さんとのやりとりっていうのも、まさにそうなんですよ。患者さんだけのものじゃなくて、みんなの体なので。やっぱりいちばんいい状態にしておくことが、家族にとってもヘルパーにとってもすごい重要なことです。自分だけの体じゃないから大事にしなきゃいけないって。

 

伊藤 なるほどねぇ、面白いですね。

 

川口 なんかね、一元論を言わないとお医者さんには怒られるんですね(笑)

 

伊藤 分身ロボットでやってることも、やっぱり二元論なんですよね。

 

川口 二元論ですね、完全に。

 

伊藤 あのロボットは湿ってない体ですけど、やっぱり「ある」ことによって、なんかみんなのものなんです。みんながケアして、ちゃんと電波つながってるかなぁとか、充電足りてるかなぁとか、声聞こえてるかなぁとか。シンプルな機械なので、反応がわからないというところも結構大事かなと思うんです。

 「ロボットが健康な状態にあるか」ってみんなが気にするから、そこにちゃんと存在する理由が生まれるっていう感じがします。

(伊藤亜紗×川口有美子「湿った体のサイボーグ」後編 了)

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■目次

【前編】→ここをクリックしてください。

1 家の中は工場――『逝かない身体』

2 サイボーグになった私――『どもる体』

3 手がかかるから「居る」ことができる――分身ロボットその1

4 ノイズがリアリティをつくる――分身ロボットその2

【後編】→ここをクリックしてください。

5 自己目的化したコミュニケーション――体の微調整

6 蘭の花のように守ればよい――ALSの完成形

7 魂が中空から自分の体を見ている――心身二元論

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どもる体 イメージ

どもる体

しゃべれるほうが、変。
何かしゃべろうとすると最初の言葉を繰り返してしまう(=「連発」という名のバグ)。それを避けようとすると言葉自体が出なくなる(=「難発」という名のフリーズ)。吃音とは、言葉が肉体に拒否されている状態です。しかし、なぜ歌っているときにはどもらないのか? なぜ独り言だとどもらないのか? 従来の医学的・心理的アプローチとはまったく違う視点から、徹底した観察とインタビューで吃音という「謎」に迫った画期的身体論!

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逝かない身体

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言葉と動きを封じられたALS患者の意思は、身体から探るしかない。ロックトインシンドロームを経て亡くなった著者の母を支えたのは、「同情より人工呼吸器」「傾聴より身体の微調整」という即物的な身体ケアだった。 かつてない微細なレンズでケアの世界を写し取った著者は、重力に抗して生き続けた母の「植物的な生」を身体ごと肯定する。

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