【医療の論点】尊厳死法制化の問題点はなんだ

【医療の論点】尊厳死法制化の問題点はなんだ

2012.7.06 update.

川口有美子

『逝かない身体』(医学書院)で2010年6月第41回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。
NPO法人さくら会理事、有限会社ケアサポートモモ代表取締役、日本ALS協会理事。主な活動として患者会や執筆のほか国の難治性疾患克服研究と重度障害者の地域生活ための政策立案に携わっている。
最近の成果としては、認定特定行為業務従業者研修(たんの吸引と経管栄養の研修)モデル事業を、人工呼吸療法の当事者団体であるさくら会で受託し、8年前に開発した7時間のカリキュラム(「進化する介護」)で非専門職でも医療的ケアを短期間で教習できることを実証。介護職員によるたんの吸引と経管栄養の制度化にこぎつけた(2011年4月から施行)。

【シリーズ 医療の論点】

尊厳死法制化の問題点はなんだ

川口有美子さんに聞く

 

尊厳死法制化に向けた動きが具体化

 

2012年6月6日、超党派の「尊厳死法制化を考える議員連盟」(会長:参議院議員・増子輝彦氏)は「終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案(仮称)」の第2案を公表しました。これは、3月22日に公表された第1案の内容を一部変更したものです。

 

第1案では終末期を迎えた患者が自らの意思に基づいて延命措置を差し控える際に必要な事項を定めていましたが、第2案では、延命措置の差し控えに加えて、すでに行われている延命措置の中止も実施可能とされています。

 

法律案では、延命措置の差し控えや中止が行えるのは、患者がその意思を事前に書面で表明し、2人以上の医師の判断で終末期と判定された場合に限るとされています。また、第2案では意思表示はいつでも撤回することができる、という条文も加えられています。

 

本稿では、尊厳死法制化に対して反対の立場で発言をされている、NPO法人さくら会理事、日本ALS協会理事の川口有美子さんに、尊厳死法制化の何が問題なのかについて、お聞きしました。

 

「死ぬ権利」が法理になる、ということ

 

――川口さんは「安楽死・尊厳死法制化を阻止する会」の世話人、橋本みさおさんとともに主に難病・重度障害者の立場から法案に反対する活動をされてきました。改めて今回の法制化の動きの何が問題なのか、ということを教えていただきたいと思います。

 

尊厳死法制化の議論の背景には「医療が高度化するなかで、人間が尊厳を保ったまま死ぬことができなくなった」という認識が広がっていることがあると思います。非常に大雑把にいえば「病院のベッドで、たくさんのチューブをつけられたままで死ぬのは嫌だ」「自宅で、普通に死にたい」という考え方です。

 

こうした市井の方々の「過剰な医療を受けずに自然に死にたい」というニーズを受けた今回の法制化ということを考えると、自己決定の原則に立てば一見問題のない議論にも思えます。

 

川口さんらが危惧される問題点はどこにあるのでしょうか?

 

川口 尊厳死の法制化とは端的にいえば「死ぬための法律」を作ることです。しかし、私に言わせればいまの日本には生きるための法律も、制度も十分ではありません。そこに「死ぬための法律」が定められようとしていることが問題だと考えています。

 

尊厳死の法制化では、どういう人が対象となっているでしょうか。法制化を進める人たちの言い分を聞くと、例えば交通外傷やその他の疾患で、呼吸器や胃ろうといった高度医療を受けないと生きられなくなった人が「死にたい」と思っても死ねない、そういう状況が想定されています。また、認知症高齢者もしばしば俎上に上げられます。「うちのおじいちゃんはボケて尊厳がなくなった、こんな姿で長く生きていても……」という家族の思いや、「こんな自分を介護する家族が大変だから潔く死のう」という本人の思いをかなえるためには、「尊厳死」の法制化が必要だというわけです。

 

でも、冷静になって考えてみると「そんな姿で生きながえるよりは死んだほうがまし」と言明すること自体が、すでに「そんな姿」で生きている人たちからすれば、ものすごい差別なんですよね。そして、「そんな姿」で生を送っている人は、実際にたくさんいます。「尊厳死」という言葉自体が、そういう人たちに「あなたには生きている価値がない」という、強い差別用語として機能している点に、まずは注意を払ってほしいと思います。

 

もちろん、個人的には「そんな障害を持ったら生きていたくない」という人もおられるでしょう。私が指摘したような差別感情などなく、単純に「そうなったらとても生きてはいられない」と考える人は大勢いる。

 

「重い障害を負って生きるぐらいなら死にたい」という人が、自らの考え方(自己決定)によって治療を断って死ぬのは自由です。それを「尊厳死」と呼びたければ呼んでいいけれど、それを法制化することは、「そう考えない人」に、「死ぬほうが尊厳が守られる」という死生観を正当化し、押し付けることになります。

 

尊厳死法制化の問題は、“「死ぬ権利」が法理になる”ことの問題です。「死ぬ権利」を法的に正当化することは、その背景となる死生観をある種の道徳として社会に広く位置づけようという行為でもあります。法制化をきっかけとして、「尊厳死(治療を断ること)が社会的に望ましい死に方になる」こと、自己決定による死が個人的な選択ではなく、社会制度の欠陥や不備を補う制度として広まっていくことに、私は大変な危惧を覚えています。

 

なぜなら、(「尊厳死」を望ましい死に方だと考えない)重度の障害を持つ者が生きるための保障を社会に求めるという行為が、社会的に非難されることになりうるからです。生きていく手立ても、場所も、介護者もいない重症患者や、障害などで(尊厳死を推進する人から見たら)生きる価値がないように見える人たちが「自ら死にたくなるような状況」を、尊厳死法制化は作りだしてしまうことになります。

 

私は尊厳死法案そのものにその意図を読み取っていますが、仮に法制化そのものにそうした意図がなかったとしても、医療提供を受けなければ生きられない社会的に弱い立場の人間に、死の自己決定(自殺)を迫ることの危険性について多くの人に認識していただきたいと思っています。

 

そして、現実には尊厳死法制化は、単なるルールにとどまるものではなく、特定の価値観を啓発・普及することと分かちがたく結びついています。「胃ろうや呼吸器で生きることは無駄である」という価値観を啓発・普及し、高齢や障害で弱くなったら(なりそうなら)、これらの治療を自ら断って死ぬよう、家族も医療者もそういう人を救わず「自然にまかせて」死なせるよう、社会全体を教育しようという意図が含まれているんです。

 

これは私の勝手な解釈ではなく、法案(第一案も第二案も)の第三条「国及び地方公共団体は終末期医療について国民の理解を深めるために必要な措置を講ずるよう努めなければならない」、第一一条「終末期医療の啓発および知識の普及に必要な施策を講ずるものとする」すなわち、国や自治体において終末医療の啓発をすることも盛り込む文言があることからも明らかです。

 


終末期の人間の本能

 

川口 こうした私の見方に対して、「本人の希望を尊重するための法律だから、本人が生きたければ治療をしてもらえばいいし、治療拒否はいつでも撤回できる。そんなことは杞憂だ」という反論があると思います。しかし、一度、「治療を望まない」と書いてしまうと、それを土壇場で撤回することは非常に難しいのが現実です。難治性疾患では症状が悪化するにともなって家族の負担は増えていきます。本人が「やはり生きたい」と気持ちを変えても、疲れ果てた家族に気を使って口にできなくなることもある。家族の限界をみて医師が治療を控えることもある。

 

そして、支援者としてたくさんのケースを見てきた経験からいえば、実際に死期を迎えると「まだまだ生きていたい」と強く思うようになるのがいわゆる“終末期”に置かれた人間の本能のようです。尊厳死法制化は、比較的初期の段階に「一筆書かせる」ことによってその本能を抑制し、土壇場で気持ちが変わったとしても「やはり治療を継続してほしい」とは言い出せなくする力を持っています。自分が書いた文章(リビングウィル)が、本人や周囲の人間の“遠慮”を強要してしまうことがあるんです。

 

尊厳死協会は「すでに法制化されているアメリカでは何の問題も起きていない」と言いますが、「尊厳死法制化の被害者」というのは、論理的にいって「すでに死んだ人」なんですよね。ですから、訴え出ることができません。でも、遺族のご家族が文句を言っているのは個人的に聞いたことはあります。しかし、法制化されたことによって、医療の差し控えに不満を抱いた家族が訴訟を起こしても裁判で負けてしまうことになるんです。

 

有名な事例では、「テリ・シャイボ事件」があります。15年間植物状態になっているフロリダ州の主婦テリ・シャイボさんを延命させたいテリさんの両親と、延命を拒む夫が対立して裁判になりました。

 

テリ・シャイボ(Terri Schiavo)事件
http://www.arsvi.com/d/et-usa2005.htm
http://glxy.info/tagyou/te/terri.html

 

彼女は植物状態と表現されることが多かったのですが、報道を読む限り、意識はあるし、彼女の意思を読み取れる人に対しては簡単な意思表示はできると私は思いました。経管栄養の中止命令に対してシャイボさん本人が「NO」と答えたとヘルパーが語っていますからね。そうでなくても、水分や栄養を止めるのは餓死させることですから、倫理的にも忍びないことだと思います。でも、本人が以前そうしたいと言っていたのなら、そうしなければならないというのが「リビングウィル」というものです。

 

この事件では、「彼女は以前、あんな姿になるくらいなら尊厳死すると希望していた」という元夫の証言により、胃ろうからの注入を中止して死なせる判決となりました。彼女自身のリビングウィル)を認めることによって、テリさんは合法的に「死んだ」のです。「保険金目当て」という見方も非常に強かった夫の証言ですから、その真偽は定かではありませんが。

 

テリさんは「殺された」のか「自殺した」のか。それとも「死ぬ権利を行使した」のか。尊厳死の法制化は、こうしたグレーゾーンの事例を「死ぬ権利を行使した」と法律で一律に正当化することになります。

 

尊厳死の法制化で真っ先に被害を受けるのは、テリさんのような重度障害者や認知症の人たちですが、「治療したら、そうなるかもしれない」怖れがある人たちの生命も「治療の不開始」という形で、少なからず脅かされることになります。ここには交通事故や水難事故などで救急病院に運ばれた人も含まれますから、尊厳死法制化の問題は、誰にとっても命を救うための治療を制限される方向に進むので、決して他人事ではないんです。

 

いざという時に徹底的な救命治療を受けにくくなるかもしれないという意味で、私や皆さんも含めた、日本の市民全員が巻き込まれる可能性があると言えます。。

 

救命と延命の境界にはグレーゾーンがあり、明確な線引きは難しい。今回の法案には医師の免責条項があり、現場での医師の裁量権が確保されています。家族が救命を望んでも、医師から「もう助からないかもしれない」と言われてしまえば救命治療を継続することが難しくなってしまうでしょう。

 

さらに踏み込んで言うなら、病院の都合(広義には医療資源の分配の都合)が優先された結果、本人や家族の意見は「医学的に適切ではない」として受け入れられないという場面は想像に難くありません。実際、これは現在でも、ALS患者にとってはよくあることです。呼吸器治療を「無駄な延命」と考える神経内科医は、家族に上手に説明(説得)しています。「病院の都合」や「医師の価値感」次第で生存にかかわる治療が受けられなかったにもかかわらず、自己決定ということにされてしまう、ということが起こりうるのです。

 

介護と協同する新しい医療の形

 


川口 繰り返しますが、「重度障害を持って生きるくらいなら死にたい」と考える一般の人が、個人として、納得した死を迎えるということには、何の問題もありません。問題は、治療を受けないことを「尊厳死」として道徳的付加価値を持たせて法制化することによって、「医療提供を受けずに死ぬこと」が「正しいこと」として、社会に定着してしまうことにあります。

 

この法律ができれば、介護依存度の高い高齢者や障害者の命は今以上に軽んじられることになるでしょう。生存のために、あるいは救命のための適切な治療であっても、いわゆる「社会の役に立たない」とされる弱い立場の人々はどんどん医療を受けにくくなります。治療を希望しても「それは無駄な延命だ」と切り捨てられ、「患者家族の自己負担でやるなら勝手にどうぞ」ということになっていく。

 

アメリカではすでに、入院時に書かせた事前指示書を超えた治療を望んでも保険会社が治療をさせないことになっています。日本においても、今回の法案が通るようであれば、今後さまざまな治療が「無益」と判断され、保険適応範囲も狭まっていくでしょうね。イギリスのように年齢で線を引いて透析等を受けられなくする、保険で受けられる医療の質がひどく低下する、などということになっても不思議ではありません。

 

最近の報道を見ている限り、こうした予測が杞憂でないことがわかります。呼吸器と経管栄養を行い、寝たきりで拘縮が強い、きわめて状態の悪い高齢者の映像を映し出し「経管栄養をするとこんな姿になる」と宣伝しています。しかし、実際には拘縮は毎日のリハビリで防げますし、寝たきりの問題の本質は過剰な医療提供というよりも、施設内でのケアやリハビリがまったく充足していないことにあるのです。

 

先に述べたとおり、延命と治療の境界は明確ではありません。一か八かの救命治療で命が助かり社会復帰した人はこれまでも大勢いますが、法制化されれば、そんな救命治療も差し控えられることになっていくでしょう。医師の使命は命を救うことのはずなんですが、いま、その医師たちが「治療」「救命」ということに自信が持てなくなっている。「命が助かっても、重い障害を残してしまうのではないか」「家族に非難されるのでは」と恐れ委縮しているんです。

 

でも、救命した結果、もしも重い障害が残ってしまったら、「支える医療」を提供すればいいと私は思う。難治性神経筋疾患の患者、家族、介護者、医療者が30年かけて作ってきた難病医療の考え方を、高齢者やその他の患者に広げていけばいいんです。求められているのは「死なせるための法律」ではなく「生きるための政策」です。

 

たとえば、嚥下リハや食事介助、呼吸ケアといった専門的な技術を必要とする施策を公費医療制度でがっちり支えていくことです。それをやらずに、「胃ろうはたんなる延命措置だから作らない、外せ」というのは、むしろ「人の尊厳を奪って死なせること」ではないかと私は思います。たいしたお世話も介護もしないで放置して、ひどい状態で死なせることを、誰も「尊厳のある死」とは思わないでしょう。

 

そもそも、胃ろうが増えた背景には、嚥下障害が原因で肺炎になる認知症患者に胃ろうを増設すると診療報酬が高くなることもあって、また食事介助の手抜きもあって「作ってきた」歴史があります。いまその反動から胃ろうを止めようという動きがあるわけですが、その結果、ろくに食事介助もしないで、自分ではもう食べられないから死なせるというのでは、あまりにも短絡的であり、それこそ、その人の尊厳を損なうものだと思うのです。

 

尊厳死法制化で、在宅療養中の患者家族は戦慄している

 

川口 6月6日に発表された尊厳死法制化の第2案をみて、呼吸器をつけて長期療養している方や家族はみな戦慄しています。在宅療養はいつだって不安定ですから。吸引できるヘルパーがそもそもいないし、いてもすぐ辞めて定着しないし、家族も疲れていらいらしています。そういうところに、この法律が成立したら何が起きるか。

 

これまでは、患者や家族が病気以外の要因、たとえば家計の貧困等で困っても、呼吸器を取り外して自殺することはできませんでした。しかし、「治療中止」が法制化されれば、本人の「意思」で呼吸器を外し、自殺できるようになる。いってみれば、家族に世話をかけ、辛い目を合わせてしまっている“責任”を取ることができるようになります。私にはそれがいいことだと思えません。社会が家族の負担を軽減する施策を練るべきです。

 

介護体制のバランスが崩れて在宅での医療・介護体制が破たんしたとき、何が起こるかを考えてほしい。家族や社会の中の弱者に、責任を取らせる形で死なせることが、果たして「尊厳のある死」なのか、ということです。アメリカのように、入院中の呼吸器装着患者も、病院の都合で退院しろといわれ、在宅では誰も介護できないということになったときに「呼吸器を外して死ぬ」という選択肢が法律でもし正当化されてしまったら、ということの意味を考える必要があるでしょう。

 

78年以来、尊厳死法制化は何度か大きな動きがありました。「尊厳死・安楽死を阻止する会」の世話人代表を務めてくださった水俣学の原田正純先生が先日お亡くなりになり、私たちの世代も先人の反対運動を引き継がなければならないと思っています。次世代にバトンタッチするためにも。
 

逝かない身体 イメージ

逝かない身体

言葉と動きを封じられたALS患者の意思は、身体から探るしかない。ロックトインシンドロームを経て亡くなった著者の母を支えたのは、「同情より人工呼吸器」「傾聴より身体の微調整」という即物的な身体ケアだった。
かつてない微細なレンズでケアの世界を写し取った著者は、重力に抗して生き続けた母の「植物的な生」を身体ごと肯定する。

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