【最終回】疾病経験がわたしにもたらしたもの

【最終回】疾病経験がわたしにもたらしたもの

2023.3.20 update.

三谷雅純(みたに・まさずみ) イメージ

三谷雅純(みたに・まさずみ)

人やヒトの社会や行動の本質を科学的に探る、霊長類学、人間行動進化学に強い興味を持つ研究者。アフリカ中央部(カメルーン、コンゴ共和国)を中心に、鹿児島県屋久島、インドネシアの熱帯林で調査・研究を行ってきたフィールド・ワーカー。


2002年4月に脳塞栓症に陥り、以来、右の半身まひと失語となる。自由に森には行けなくなるが、代わりに人やヒトの多様性に興味を持ち研究を続ける。生涯学習施設の講演や緊急災害情報などの放送はどうあれば「聴覚失認」のある高次脳機能障害者、聴覚情報処理障害者が理解できるか、視聴覚実験によって検証している。


文化的、遺伝的多様性を持つ人で作る社会のあり方を研究していきたいと考えている。

この連載では、脳塞栓症になってから2023年までの変化を順に辿ってきました。右半身のまひや失語の経験は、わたしの認識にどのような影響を与えたのでしょうか。最後にそれを振り返ってみます。

 


■人類学者として見た障害者の世界

 

わたしの発症は20024月でしたから、もう20年以上も前のことになります。その間わたしの生活している世界は、時には急激に、時にはゆっくりと変化しました。わたしの身体とこころの変化が大きかったのですが、わたしの変化に応じて周りも変化してきたのです。

 

発症直後の数年間は、劇的な変化がありました。それを「不幸なこと」と一口では言えないのですが、今から振り返ると、まるでジェットコースターに乗ったような経験だったのです。

 

こう書くと、今、病気と闘っている当事者からは「何という思いやりのないことを書くのだ」と誤解を受けるのかもしれません。しかし、人類学者として見た障害者の世界は、それまで過ごしてきたわたしの日常とは違った異次元の世界でした。もうひとつ別の例を挙げれば、まるでワープによって時空を超えた異世界に投げ出されたような感覚でした。

 

人類学者にとって「すでにある価値観では理解できない世界」に暮らしてみることは、わくわくする未知の体験です。この体験が調査であり、研究なのです。新しい価値観の理解に努め、何とか自分たちの言葉で表現できる方法を探ろうとします。

 

長く現地に住み、擬似的にその人たちの一員になって生きる術(すべ)を学べば、やがて共感できるようにさえなります。そしてその人たちと同じように振る舞えるのです。わたしの場合は、まさに「障害者という文化圏」の一部となりました。

 

 

■死が怖くなかった時期

 

わたしが飛び込んだ異世界を振り返ってみましょう。わたしは「不思議なことに、わたしが脳塞栓症を患ってから2、3年は死を恐ろしいものだとは感じませんでした。わたしにとって『死』は、それほど身近だったのかもしれません」(第2回 頭が引き裂かれて角が生えてきた)と書いています。この体験は特異です。死ぬことに恐怖を感じなかったと言っているのです。人に限らず生き物は皆、死ぬことが恐ろしいはずです。

 

わたしは、わたしよりも年長者が、死ぬことが恐ろしくてたまらないと言ったことを思い出します。なぜ人は死ぬことを恐がるのでしょうか。現在のような複雑な社会は容易に自殺を誘います。しかしそれは社会の異常性を表しているのでしょう。

 

そもそも死ぬことを恐がらないような生き物は生きていけません。アフリカの草食動物アンテロープはライオンに襲われることを恐がって逃げ回ります。それでもわたしは、死を恐ろしいとは感じなかったと書いたのです。

 

「死を恐ろしいとは感じなかった」あいだ、ことさら死にたかったわけではありません。また漠然と死にたいと思っていたわけでもありません。生きていたいのです。

 

死ぬなら死ぬでしかたがない。そのような感情だったのでしょうか。あるいは生きていることと死ぬことの境目が曖昧で、区別のつかない状態だったのでしょうか。それはちょうど生まれたての赤ん坊とか、死に近い高齢者が死を恐がらないことと近いのかもしれません。

 

その意味で「2回 頭が引き裂かれて角が生えてきた」で触れた、水中を漂う夢は象徴的です。人の「生き死に」を司るタヒチの神は、川のほとりに立ち、「生きて死ぬ」という人間の究極の運命を、水の流れに託しています。わたしの「生きる死ぬ」という運命も、水中で漂う夢の中で決まったのかもしれません。

 


■あがきの先で見つけた研究の道

 

それからの数年間は、わたしにとってあがきの時間でした。がんばれば、まひや失語から回復し、やがて報われる......のかどうか、医療について素人のわたしにはさっぱり見通せませんでした。プライドを持ち続けてみても、そんなプライドが現実になる保証はなく、簡単に潰されてしまいます。そんな中で妻はわたしを励まし、ふたりの子どもたちはわたしと遊ぶことを喜んでくれました。そうして時間は経っていきました。

 

そうしたあがきの先で、わたしは「聴覚失認者に緊急災害情報を届ける」という研究テーマを見つけました。本来、認知できないはずの聴覚失認者に情報を「聞いて」もらうのです。

 

研究テーマという以上、漠然と「聴覚失認者に緊急災害情報を届ける」ことに興味があるというだけではだめです。さらに、研究を仕事としてやるためには、まず研究環境が整った研究室に移籍すること、競争して研究費を取ってくること、研究を助けてくれる仲間を作ることが肝心です。この研究テーマは、障害者のわたしだからできることが強みです。研究者であっても、非障害者にわたしと同様の研究はできません。つまり、研究を続けるのに競争相手が少なくてすむのです。その分、このテーマは未知の部分が多い研究ということになります。

 

幸いなことに研究室はわたしにぴったりのところがありました。それまでの哺乳類の行動や地理分布を調べる研究室から、障害者とどのように付き合うかを研究する研究室に移ることができました。

 

研究を助けてくれる仲間には、失語症者の作業所や失語症の友の会の皆さんがいます。病気になってまもない頃、妻がひとりで抱えてきた思いをぶちまけることのできた人たちです。失語症者の作業所や友の会の皆さんなら、わたし自身が失語症者なのですから十分な信頼感があります。

 

残る課題は研究費の獲得です。「競争して研究費を取ってくる」ためには審査員へのていねいな説明が必要です。

 


■研究費獲得のために

 

14回 ついにインドネシアに上陸した(1)」に、わたしたち研究者がどうやって研究資金を獲得しているのかが書いてあります。下記に引用(一部追記)しておきます。 

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研究者は、文部科学省やその外郭団体の日本学術振興会が世話をしてくれる科研費(かけんひ)と呼ばれるお金で研究活動をしています。もちろん厚生労働省やその他の省庁、またいろいろな財団からも研究費はもらえるのですが、わたしの場合は日本学術振興会が主な財源です。

 

科研費はいわゆる「競争的資金」と呼ばれる公金で、審査委員役を仰せつかった誰かは秘密のままの研究者が、この研究計画は優れている、この研究計画はもうひとつだと順番を決め、優れた計画だと評価された順に研究費が下りるという仕組みです。

 

審査委員はあまり自分に近すぎる分野の審査ではなく、計画調書を読めば何がしたいのかは理解できるが、申請者一人ひとりの顔まではわからないという微妙な距離感で審査をするのです。

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わたしは学問として確立されて間もない「博物館学」で研究計画を立てました。

 

博物館は、建前上、どのような人も拒むことなく受け入れなければならない社会教育・生涯学習のための施設です。そこで緊急事態が起こったとき、情報が聞こえない人がいるのは大問題です。聴覚障害者だけでなく、「聞こえているのに言葉が理解できない」という聴覚失認者も館内放送は分からないことが多いでしょう。これはぜひとも解消しなければなりません。

 

しかし「博物館学」の審査委員に聴覚失認という、一般には理解が進んでいない現象を分かってもらい、どこがどう問題なのかも理解してもらわなくてはいけません。その上で、わたしの提出した計画なら研究が進みそうだと納得してもらうことが必要です。

 

そこでもうひとつ、大切な取り組みを考えました。それは博物館で行う社会実験です。

 

日本の社会は障害者などのマイノリティを受け入れるのに四苦八苦しています。まだまだマイノリティは差別され続けているのです。しかし「どのような人も拒むことなく受け入れなければならない」博物館では、一般の社会で差別されているマイノリティであっても、建前上、差別するわけにはいきません。

 

一般の社会では規模が大きすぎて改革には時間がかかりますが、博物館なら大げさになり過ぎません。いわば社会のひな形です。そこで放送法の実験をやってみる。問題があれば修正して、もう一度やってみる。この観点を取り込むことにしました。このことを計画に書いて研究費を申請しました。すると、幸運なことにわたしの研究は採択されました。首尾よく研究費がもらえるのは全体の約25パーセント前後とのことです。

 


■そして研究は続く

 

20234月からも科研費をもらって研究を続けられることになりました。もう現役は引退しているのでだめかと思ったのですが、もう一度だけ科研費を申請してみて、だめだったら研究者は辞めようと覚悟を決めていました。するとわたしの覚悟とは裏腹に、あっさりと採択されました。今回は「文化人類学・民族学」の一分野、医療人類学で申請してみました。

 

19回 障害者と少数民族は似たところがある」に書いたように、「障害者」は独自の文化や言語を持った少数民族と近いところがあります。視覚障害者は点字という独自の言語体系を持っていますし、聴覚障害者は手話という独自の言語体系を持っています。

 

ご存知の方も多いでしょうが、失語症者にも失語症者独特のしゃべり方があります。それを「失語症者のピジン語」とか「失語症者のクレオール」と呼んでいいのなら、「言葉」が違うのですから、これは少数民族と呼ぶべきではないか。そういう発想です。

 

「障害者」と少数民族が似ているというのは、わたしだけの発想ではありません。実際に「障害者」の側から少数民族であると宣言した文書もあります(木村・市田, 2000)。

 

「障害者」も少数民族になぞらえるなら、いろいろな障害者とさまざまなマイノリティそれぞれの多様性を活かしたマジョリティとの共存の道を探し出せるかもしれない。今、わたしはそう考えています。

 

 

■「障害者の人権モデル」の確立に向けて

 

現在の日本において、「障害者」はけっして「恥ずべき存在」ではなくなりました。「恥ずべき存在」であると誤解を招いた「障害の医学モデル」は衰退し、「障害の社会モデル」や「障害者の人権モデル」がおもてに躍り出てきたのです――日本の「人権の国際基準」との齟齬(そご)を認識するためには国連からの外圧が大きかったと思います。

 

「障害の社会モデル」とは、今、「障害」があるとされている状態は当人のせいではなく、当事者に不便を与え、就労や結婚で差別している社会がおかしいのだから、まず社会を変えていく努力が必要だという考え方です。もう一歩進んで「障害者の人権モデル」では天賦の権利であるはずの人権が「障害者」に与えられないのはおかしいから、当人が成功するにせよ失敗するにせよ、同じ人間として同じだけの権利を主張するべきだという考え方です。

 

わたしは「障害者の人権モデル」を取りたいと考えます。

 

ただ、そこで障害者の側も発想の転換が必要です。障害者も同じ人間なのだから、非障害者と同じだけの権利を主張するべきだという考え方からは、「障害者も一社会人」であるという認識が生まれます。「21回 地域の防災と障害者の役割」で書いたように、「障害者」がいつも自分たちは世話をしてもらう側であるという認識では、地域は回っていかなくなります。べてるの家の皆さんが悪戦苦闘しつつ工夫を重ねてきたように、地域でどのように振る舞っていくかということが問われるようになるのです。

 

「障害者の人権モデル」を障害者が非障害者とは別の人生行路を歩かざるを得ない今の日本社会で実践しようとすると、われわれ障害者にはとんでもない苦労があるはずです。現実には、まず制度や基本的な考え方を改めることが先決であるはずです。

 

では、どう制度や基本的な考え方を改めるのかと言えば、行き過ぎた競争社会を改め、「障害者」を含む多様な人びとが無理なく生活でき、学び、働けるような社会になることです。

 

それは夢のようなことに思えますが、地域の人たちが多様性を受け入れ、「障害者」が地域のことを我が事として真剣に考えるなら、けっして不可能なことではありません。

 

わたしはこの2年間、「『ことばを失う』の人類学 わたしをフィールド・ワークする」の連載を通じて、やっとここまでの認識に辿り着きました。

 

木村晴美・市田泰弘 (2000) ろう文化宣言:言語的少数者としてのろう者. 現代思想編集部(編), ろう文化青土社, 東京, pp. 8-17.



「『ことばを失う』の人類学 わたしをフィールド・ワークする」完




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