2011年6月アーカイブ

 エンゼルケア(死後のケア、死後の処置)が変わりつつあります。これまで慣習的に行われてきた死後のケアから、よりご家族のことを考えたケアに見直されています。

 

本セミナーでは、エンゼルケアの具体的な方法や考え方だけでなく、「どうしてこれをやるのか、やらないのか」「なぜ、このような手順・方法で行うのか」を、患者さんのご家族などに看護師が“説明できる”という視点でお話ししていきます。

 

エンゼルケアに関する質問・お悩み大募集!

 

当日は、講義だけではなく、みなさまからのエンゼルケアに関する質問や悩みに答えられるようなプログラムを考えております。ナーシングカフェセミナーならではの近い距離感で、あなたの悩みを解決します!

 

※お申し込みは締め切りました

 

 

対象:看護師

 

講師:小林光恵先生(エンゼルメイク研究会代表)

『看護ワンテーマBOOK 説明できるエンゼルケア』刊行予定

 

日時:2011年8月17日(水) 18:30-21:00

 

場所:医学書院会議室

東京都文京区本郷1-28-23 電話03-3817-5700

 

受講料:3000円(税込)資料代、茶菓子代、消費税含む。当日受付でお支払いください。

 

定員:70名(先着順)

 

お問い合わせ:医学書院看護出版部(担当:石塚)

TEL:03-3817-5778 FAX:03-5804-0485

第2回 「怒り」と「性格」(1)

<本セミナーは定員を超えるお申込をいただいたため、本日(7月25日)にて、お申込を締め切らせていただきました。ご了承ください>

人の生死が交錯する医療介護の現場には心の問題があふれています。精神を病んだり、告知に動揺する患者さんへの対応はもちろん、同僚との関係性、医療者としての自分のあり方に悩む人も少なくないはず。

 

2011年6月にスタートした、名越康文流“心の技法”を学ぶ連続講義。それぞれの現場で生き残るために。必聴です。

 

(第2回のテーマ)
第1回では怒りの構造と、その取り扱い方について学びましたが、それを現場実践にいかすためには、一人ひとり異なる性格傾向への理解が必要となります。第2回以降では、「性格とは何か」を軸に、心のコントロール方法を学んでいきます。

 

>>お申し込みはこちらから

 

【日時】

2011年7月27日(水)18:30-21:00(開場18:00)


【講師】

名越康文先生(精神科医/京都精華大学教授)

 

【対象】

看護師、研修医、医療従事者、その他

 

【会場】

医学書院本社ビル

文京区本郷1-28-23

 

【参加費】
3000円(当日会場にてお支払いください)


【定員】

70名(定員に達し次第、締め切ります)

 

>>お申し込みはこちらから

 

【申し込み・お問い合わせ】

医学書院看護出版部
E-mail:kankan@igaku-shoin.co.jp
Fax:03-5804-0485
Tel:03-3817-5772
(お電話でのお申し込みは受け付けておりません。申し込みフォーム、ファックス、E-mailをご利用ください)

『助産雑誌』の連載「現場で即使える! 助産師のための英会話」と連動して、各回のスキットの音声を掲載します。妊娠・出産の場面でよく使われる用語を集めた音声へのリンクも掲載していますので、合わせてチェックしてみてください。 

 

第5回 Health Guidance for Pregnant Women(2)
【妊婦への保健相談(2)】  

 

第4回に続き,第5回では妊婦への保健相談に関する表現を学習していきます。「継続的なおなかの張りがある時」など病院への連絡が必要な場面の伝え方を取り上げます。胎動が感じられなくなった時,破水した時,陣痛が起こった時など,Check Sheetを使って,妊婦の相談内容に沿ったアドバイスができるように応用してみましょう。

 

よく使う例文集はこちら

 

単語集の音声はこちら

 

チェックシートの音声はこちら

 

Scene

 
Midwife:Ms. Thomas, you have gained 2kgs since the last check-up. You should not gain more than 2 kg a month or 500g a week.

 
Ms. Thomas:I'm trying to eat well but I'm hungry all the time.

 

Midwife:You only need an extra 300 calories each day. Your baby is growing fine. Eat a well-balanced diet and get some exercise. Is anything else bothering you?

 

Ms. Thomas:Yes, my back hurts. 

 

Midwife:As your uterus grows please try to maintain good posture. A continuous lower back pain or continuous cramps may be a sign of premature labor. If you ever have these signs, please let us know.

閉塞感と身体論

 

『シガテラ』の描く時代の空気

 

いまの日本を表現する言葉に、「閉塞感」があると思います。ストーカーやクレーマーといった現代的な事象についてひもといていくと、その根っこのほうで「閉塞感」という言葉に行き当たる。ちょうど、酒鬼薔薇聖斗事件のあった90年代以降、15年以上にわたって、閉塞感って、今の日本を読み解くキーワードになっていると僕は思うんです。

 


閉塞感って何なのか。閉塞感ってどこにあるのか。確かに僕も閉塞感を覚えるんだけど、それがどこにあるのかわからない。自分の内側にあるのかというとそうじゃないですよね。自分を取り巻くこの世界、人と人との間にある空気感みたいなものを、僕らはなんとなく、閉塞感と呼んでいる。

 

90年代後半から2000年代の始めぐらい、そういう空気を象徴的に描ける若い作家が次々とブレイクしました。たとえば漫画では、古屋実さんの『シガテラ』とか、浅野いにおさんの『ソラニン』といった作品ですね。これらの才能ある作家さんが描き出す閉塞感あふれる世界に、僕は読んでいて怖いくらい、引き込まれました。

 

その時代がもっている空気感をいったん客観的に捉えなおして、それを表現していくというのは、それこそギリシャ悲劇の時代から、芸術家の仕事でした。どうして、その時代で起きたことを作家が自分のなかで消化し、表現しようとするのか。また、どうしてそれを多くの同時代人が待ち望んでいるのかといえば、人間というのは、そうやることでしか自分の位置を確認できないからです。

 

身体と精神、あるいは自分と世界との間に感じている違和感のようなものを、作品を通じて確認し、解消しようとする。当然、その違和感は決してすべて解消されるわけではないんですが、そこにより深いリアリティを見出そうとするアーティストたちの運動のなかで、結果として多くの文化が生みだされてきたということです。

 

つまり、閉塞感のなかで僕たちは、「俺たち(日本人)はいったい何者なんだ」という問いを繰り返してきたと見ることもできる。僕はそう考えています。

 

閉塞感から時代をみる

 

もちろん、殺傷事件にいたるようなストーカーなどは絶対に許されない犯罪だし、クレーマーだって、不当なものは取り締まるべきです。しかし、そういう正論とは別の次元で、これらの事象は、僕たち1人ひとりの自己像、あるいは社会のある側面を反映してもいます。つまり、僕らが感じている漠然とした閉塞感に対して、何らかの答えを欲する。そうした運動のひとつの極端な形が、こうした行為なのではないか、ということはいえると思うんです。

 


ですから、閉塞感に対する、すごく生産的な方向の取り組みだってある。先に述べた漫画作品はもちろんですが、それ以上に僕がものすごく大きな変革だと思うのが、身体論の勃興です。

 


それまでの観念的な議論に対して、身体に目を向けること、もっと身体について考えることが大切なんじゃないか、というコンセンサスが生まれつつある。この流れに先鞭をつけたのはもちろん養老先生だと思いますし、武術研究者の甲野善紀先生、そして内田樹先生のブレイクの背景にも、身体論があると思います。

 

特に、養老先生の議論は独特のポジションです。いまの脳ブームよりもずっと前から脳を主題とした話をされながら、その内容をひもといていくと、必ず身体の話をされている。
 養老先生、甲野善紀先生、内田樹先生といった、身体をベースに置いた議論を行う人たちが人気を博すようになった背景に、90年代から社会に蔓延しはじめた閉塞感があるんじゃないか、というのが僕の考えです。この因果関係はある種、僕の直感で認識している面が大きいので説明が難しいのですが、すごくそういう実感があるんですね。

 

身体論が開く可能性

 

なぜ、閉塞感を背景として、身体論がこれほどまでに勃興してきたのか。その因果関係を説明するのは難しいのですが、とりあえず、以下のようなことは言えると思います。

 


閉塞感というのは、基本的にとらえどころがないものですよね。自分の内側に感じることもあれば、時代の空気として感じることもある。そういう、ゴーストのような存在を前にして、僕らは自分たちの身体、ひいては自分たちの存在について、あらためて強烈に感じるようになったんじゃないかということです。

 


そしてここでいう身体というのは、医療者にとって慣れ親しんだ解剖的身体ではなく、感覚経験そのもののことです。逆にいえば、「身体」という言葉が、それまでの素朴な実体としての捉え方から、哲学用語として、思想用語として位置づけて語る語り口が、これまでになく広まってきた、といえるでしょう。

 


閉塞感の蔓延するこの世界でどう生きていったらいいのか、どう自分を保てばいいのか。どう職場のなかで自分を位置づければいいのか。そういう問いを、多くの人が自分の問題として抱えるなかで、それを身体の問題と結びつけて問う必要がある、ということを直感している人が増えていると思うんです。

 


身体とは何か、心とは何か、精神とは何か。そういう人間存在の原理的な部分を一度解体し、再構築しないとやっていけない、という感覚が共有された。身体論の勃興の背景には、そういう事情があると思うんです。

 

出入り自由の身体へ

 

それぞれの論者がどのように身体論を論じているかについては、ここではとてもご紹介できませんが、1点、共通しているのは、それまでの単なる物質的な身体観に対する批判です。身体というのは単に物として存在しているものではなくて、周囲との関係性だったり、内的な感覚世界として存在している。そういう身体観が、少なくとも議論の俎上にのるようになりました。

 


そして、僕の考えでは、これは日本人がもともともっていた身体観の再評価でもあるんです。

 

日本画をみても、漢字仮名文化を考えてみても、日本の文化というのは、境界線が動きやすいんです。明治維新の頃に境界線を明確にするまでは、国境という感覚が希薄であったように、身体においても境界があいまいで、身体から出たり入ったりする心のありようというものを受け入れてきた文化です。

 

そう考えてみると、身体論の勃興というのは、自分の身体をはじめとしたあらゆる領域を明確にし、境界線を引くことに取り組んできた100年に対して、僕らの身体が反乱をはじめたと見ることはできないでしょうか。僕らが感じている閉塞感とは、僕らがより自由な、出入り自由な身体と精神のあり方に向おうとするなかで生じているのではないか。僕の空想ではあるんですが、そんな気がしています。
 

 

【お知らせ】

2011年6月29日 名越康文連続講義、スタートします。

パスタムース

 

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対応

嚥下困難 柔らかいものを好む人 食欲不振

 

レシピの背景

入院期間が一年近くと長く、入院生活に疲れた患者さんでした。また、コミュニケーションがなかなかとれず、食事の要望を聞くのに時間がかかっていました。

 

「食べたい物が思い浮かばない」という患者さんのためにいろいろな工夫を行いましたが、日に日に病状は悪くなる一方で、不安なことがたくさんあり、食事のことを聞いても「いまは何も食べたくない」といわれるばかりでした。

 

ある時、患者さんから「ケチャップ味のものは好き」と教えてもらいました。しかし、ケチャップ粥を出してみたところ「おじやは嫌い」といわれ、新たなメニューを考えることになりました。

 

調理のポイント

パスタは袋のゆで時間より長くします。30?40分は茹でて、芯が残らないようにします。芯が残っているとミキサーにかけた時、滑らかさが悪くなります。

 

 

レシピ紹介(3人分) 

 

一人当たりエネルギー60kcal、たんぱく質1.6g

<材料> 

【ソフトパスタ】

乾燥パスタ     90g

湯冷まし      270cc

塩          少々

ソフティア2※    6g

 

【トマトソース】

トマトピューレ  60cc

たまねぎ     60g

トマトケチャップ  15g

塩          0.6g

砂糖         6g

水         30cc

コンソメ       0.5g

 

<作り方>

(1)パスタを柔らかく茹でる。(30から40分位は茹でて柔らかくしておく)

(2)柔らかく茹でたパスタを湯冷ましとともにミキサーにかける

(3)鍋に(2)とソフティア2※を加えてよく混ぜ、火にかけて80℃まで温度を上げる。荒熱を取ってビニール袋に入れ、冷やし固める。

(4)ゼリー状に固まったら、器に搾り出し、トマトソースをかけたら完成!!

 

【トマトソース】

(1) たまねぎはスライスしてから柔らかく茹でておく

(2) (1)に水、砂糖、コンソメを加えて火にかけひと煮立ちさせ、ミキサーにかける。トマトケチャップとトマトピューレ加えて味を整える。

 

提供を終えて

患者さんからは久しぶりにパスタの味が楽しめたと喜んでいただけました。ソースを変えれば、何通りも楽しめるメニューです。

 

ムース麺はそば、うどんでも同じように作れます。年越には、このムース麺を使えば、家族みんなで年越しそばを楽しんでもらえるのではないでしょうか。

 

また、もう少し食感を残したい場合には、茹でた麺を粒が残る程度にミキサーにかけます。こうすると、麺の食感を楽しめます。このとき、麺は柔らかく茹でておいたほうがミキサーにかけやすいようです。

 

 

※ソフティア2 (ニュートリー株式会社)

食品のゲル化剤ソフティア2のゲルは、60℃でも溶解せずセットできます。暑い季節でも室温で溶けず、寒い季節には温めても使用できます。味噌汁などの温かいゼリーを作ることも可能です。


  

解離的な怒り(3)

 

解離の出発点は「二足歩行」

 

解離と怒りのコントロールという話題を取り上げてきましたが、一方で、人というのはそもそも解離している存在なんだという考え方もあります。以下にご紹介するのは、身体教育研究所の野口裕行先生からうかがったお話ですが、僕は非常に感銘を受けました。

 


人の赤ん坊は、四つ足でハイハイしているとき、身体と精神とが完璧に一致しています。足の指先から手の指先まで力がみなぎっていて、一体感がある。普通の大人が感じているような、心と身体との間の解離感を、赤ん坊は感じていない。

 


じゃあ、いつから心と身体の不一致がはじまるかというと、それは二本足で立ち上がるときです。赤ん坊がはじめて立ち上がるときの身体の状態を見ていただければ多くの方が同意されると思うのですが、手足が所在なく、ブラブラになってしまう。特にわかりやすいのが手先で、まるで幽霊のように、肘から先の力が抜けてしまう。四つ足ではいはいしているときの、力強さが消えてしまうんですね。

 


身体と精神との解離は、まさに人間の身体が直立しようとするときに生じる。このときから、身体は精神の思い通りには動かなくなります。よく「心身一致」ということをスポーツ選手やダンサーの方などが口にします。しかし、それは厳密に言うとそれは不可能なのだと思います。もちろん、不可能に挑むからこそ、スポーツ選手やダンサーはすばらしい瞬間を生み出すわけですが、実は厳密な意味での「心身一致」というのは、誰も達成できない領域なのではないでしょうか。

 


証明は難しい説かもしれませんが、感覚的には全面的に支持します。人は、精神と身体が一致した、赤ん坊のときの全能感にあこがれますが、決してそこには戻れない。精神と身体とが分裂した、ある種の不全感、違和感のなかを生きるしかない。

 

身体が不完全だからこそ、精神の自尊がある

 

さらにおもしろいのは、一方で人間は、「決して四つ足には戻らない」と決意して生きている存在でもある、ということです。

 


どんなに違和感があっても、苦しくても、人間は二足歩行をやめようとはしません。当の赤ちゃんがそうです。一度直立することを覚えた子は、再びハイハイすることを猛烈に嫌がります。どんなに辛くても、立って、歩こうとします。その欲求は一方通行で、帰り道はありません。

 


四つ足の、動物的な存在に戻りたいという根源的な欲求を持ちつつ、人間はそこから離れていこうとする存在でもある。実はこれこそが、文化、文明の第一段階ではないかと考えることができます。

 


人間の二足歩行は不安定です。動物的な、四つ足のほうが、生き物としては充実していたはずです。しかし人間は、そういう非効率的な状態を維持してきました。それはおそらく、そうすることによって、人間の精神が、身体からの独立性を保持することができたからじゃないかと思うんです。

 


仮に身体が100パーセント機能的な構造になったら、ある意味で精神性なんて必要なくなっちゃうわけですからね。身体性だけで生きていけるんなら、精神なんて必要ない。もしもそうだとしたらわれわれの身体が非効率的なまま維持されているのは、精神の自尊のためといえるんじゃないか。

 


人間は、精神の自尊を担保するために、進化をとめ、不完全な身体のままでいようとする。ここではとても大雑把に上澄みの部分だけを説明させて頂きましたし、多分に私の自己流に解釈している部分もあると思います。しかし、これは僕のなかではすごくリアルな人間像なんです。

 

精神から自由になるためのツールとしての言葉

 

でも一方で人間は、その精神からも自由になりたがっている存在です。妬んだり、恨んだり、悲しんだり、執着したり。荒らぶる精神に、人間存在って本当に右往左往させられています。つまり、精神は肉体から自由になろうとするわけですが、その精神に、人間存在自体が支配されているという面もあるわけです。

 


その状況からも、人間は何とか逃げ出そうとする。その結果、生み出されたものが「言葉」なのではないか。文学、小説、あるいは詩、俳句といったものは、そのような文脈のなかで生まれたんだと思います。

 


仏教は、精神がもたらす苦しみについて、欲、怒り、無知の3つであると看破しました。そして言葉は、その苦しみから逃げ出すための、強力なツールとなりえます。言葉は現実を写像するものでもなければ、情報交換のツールでもない。身体から離脱した精神性、そこからさらに自由となろうとする思いが、言葉となる。

 


僕は、カウンセリングにおいて用いる言葉についても、その観点から見つめなおすことが必要だと考えています。

 

 

【お知らせ】

2011年6月29日 名越康文連続講義、スタートします。

居酒屋風 串焼き

 

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対応

食欲不振、気分転換が必要な時、趣向を変えた食事が必要なときなど

 

レシピの背景

化学療法のために、短期入院を繰り返した患者さんでした。治療が始まると、吐き気が強く、食欲が低下しました。「(自分が)何が食べたいのかわからない」と話されていました。

 

若い患者さんで、口から物を食べることに障害はありませんでした。治療のためには病院食を食べて栄養状態を維持していくことが大切であると知っていただくきっかけとしてレシピを検討しました。

 

お話をうかがうと、入院するまでは友達とよく居酒屋さんに行っていたそうです。そこで、見た目や味、盛り付けを居酒屋さん風に工夫しました。

 

調理のポイント

好みの材料をフライパンや魚用グリルで焼き、甘辛いしょうゆダレを絡めるだけで簡単にできるレシピです。

 

レシピ紹介(3人分)

 

一人当たりエネルギー130kcal、たんぱく質43g

<材料> 

アスパラ 90g (3本)

ベーコン 60g (3枚)

しいたけ 30g (3枚)

冷凍フライドポテト 60g

人参   30g 

 

【調味料】

塩  少々

しょう油  6cc (小さじ1杯)

みりん   6cc (小さじ1杯)

酒      6cc (小さじ1杯)

 

<作り方>

(1)アスパラは塩茹でし、ベーコンで巻いて、串を刺す。

(2)しいたけは飾り包丁を入れて、串に刺す。

(3)(1)と(2)の両面をフライパンで焼き、余分な油はペーパーで拭き取って調味料を煮からめる。

(4)人参は花形に型抜きして柔らかく茹でておく。

(5)器にすべてを盛り付けて完成!!

 

提供を終えて

目先を変えてあげることで、気分が変わり、吐き気を誘うことなく食べていただくことができました。

 

患者さんの声

「居酒屋さんみたいで感激でした!!」「何気なく話したこと(居酒屋さん行ったこと)も覚えてくれていてうれしかった」「毎日食事の時間が来るのが苦痛だったけど、今は食事が楽しみです」という、うれしい言葉を聞くことができました。 

第8回 全身の連動性を高める

 

今回は、第5回、6回、7回で行ってきたエクササイズをミックスして、上半身と下半身との連動性を高めるエクササイズにチャレンジしてみましょう。

 

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全身の連動性を高めるエクササイズ

1. 肩幅に両足を開き、胸の前で両手を組みます。
2. そのまま、腕を返しながら前に出しつつ、両膝を曲げていきます
3. 腕を前方に伸ばす動きが下半身に連動して、膝が自然と曲がることを意識してください。
4. また、つま先はこの動きに連動して、外側に開きます。
5. 腕を戻しながら、膝を伸ばしていきます。
6. 元の姿勢に戻ります。

1-6を繰り返します。
 


第6回の「上半身の連動性を高めるエクササイズ」に似た動きですが、下半身の動きが加わっているのが違いです。

上半身の動きと下半身の動きとが連動していることを感じましょう。


腕を引き寄せたときには肩甲骨は背中の中心に寄せられ、股関節は内旋しています。

 

腕を伸ばしてしゃがんでいくに従って、肩甲骨は外側に開き、股関節は外旋していきます。

 

肩甲骨と股関節、この両者が連動して動くようになってくると、上半身と下半身の連動性が高まってくると考えられます。

 

002-02.jpg腕を伸ばすにしたがって、肩甲骨が広がり、股関節が外側に開いていく感覚をつかみましょう  イラスト 三上修(看護学雑誌73巻2号より)

 

 

1セット10回程度もやると、少し汗ばんでくると思います。あまり大きな運動には見えませんが、全身をくまなく使うことで、普段使わない筋肉、関節が刺激されます。特に足の筋肉については、太ももの前面やふくらはぎの筋肉が満遍なく使われていることを感じられると思います。

 

足を踏ん張らない

 

普通,こういった動きでは足を踏みしめて身体を上下させますが,それでは膝や腰に負担が集中しやすくなります。足を踏みしめないことによって,腰を落とすときにはつま先が外へ,立ち上がるときにはつま先が内へと、自然と動くようになります。

 

つま先が外を向いたり内をむいたりするのは、股関節の回内、回外に対応しています。つまり、足元を踏みしめないことによって、股関節の自由な動きを妨げない効果がある、ということです。このように、肩、背中、腰、股関節、そして足元と、全身が連動した結果、腕が伸びたり縮んだりすることができると、動きの質は大きく変わります。

 

いわば、通常の腕の力に頼りがちな動きが「ワンマンプレー」だとすれば、全身が少しずつ協調した動きは、「チームプレー」です。その結果、身体の各所にかかる負担も軽減されるでしょう。動くことそのものが,肩こりや腰痛の予防にもつながっていきます。ただし、目的は全身をくまなく動かすことであり、腰痛予防はその副産物に過ぎない、ということには注意してください。

オンナに効く漢方 第10

「むくみ」と水のめぐり

  

■有機的に関連しあう「気」「血」「水」

前回までで、ざっと、「気」「血」「水」のお話をしました。世間一般に使われる、「気のせい」という言葉が、漢方の世界ではちょっと違う意味で使われていることは、すでに述べました。「あなたの病気は気のせいです」という表現にやや語弊があるのは、“気のせい”の意味が違う、ということ以外に、100%気のせいである病気、という状況は実際には少ない、ということもあるからです。

 

多くの患者さんは、「気」の障害が何%、「血」の障害が何%、「水」の障害が何%、というように、複数の項目にまたがって治療が必要です。漢方処方でも、「100%気剤」で出来ている処方とか、「100%補血剤」で出来ている処方、というのは無いわけではありませんが、実際に使われる頻度はあまり多くありません。気のめぐりが悪くなると、だいたい血や水にも悪影響を及ぼしますし、血や水が悪くなると、やはり気のほうも問題が生じます。人間の体で働いているシステムは、互いに有機的に関連しあっているというのが、漢方らしい発想です。

 

前回お話しした五苓散は、猪苓・茯苓・朮・沢瀉という、4つの水のめぐりを良くする生薬に、桂枝(シナモン)という、気のめぐりを改善する生薬が配合されています。実は、五苓散から桂枝を取り除いた処方で、四苓散という薬もあることはあるのですが、処方される機会は非常に少ないです。水のめぐりが悪くなっている人は、たいてい気のめぐりも悪くなっていることが多い、という経験上の事実が、処方に反映されているのだと考えられます。

 

■むくみを解消するために―当帰芍薬散

水のめぐりといえば、比較的若い女性に多い訴えに、足のむくみがあります。「かんかん!」読者の中には、おそらく長時間の立ち仕事を強いられている方も多いでしょうが、それほど立ち仕事をしていないのにむくむ、という人は、色白で貧血気味で、華奢で、冷え症に悩まされていることが多く、こういう時にお出しするのが当帰芍薬散という薬です。

 

当帰芍薬散には、水のめぐりを良くする生薬が3種類、茯苓・朮・沢瀉が含まれています。五苓散には、猪苓が含まれていましたが、猪苓には熱を取って炎症を抑える作用があり、冷え症のひとに使うのが不適切なため、当帰芍薬散には含まれていません。また、「血虚」「瘀血」に効く薬が3種類、当帰・芍薬・川芎が含まれていて、補血薬の代表選手である「四物湯」に比べると、地黄が省かれています。華奢で色白な女性は、胃腸の機能が低下していることが多く、地黄は補血の作用に優れるのですが、反面胃もたれすることが多いため、当帰芍薬散には含まれていないのです。

 

胃腸が弱いと、栄養が十分に吸収できないので、筋肉が付きにくく華奢になります。また、毎月の生理がある上に、鉄分もやや吸収しにくいのか、貧血気味になって色白です。さらに筋肉が付きにくいと、むくみやすくなります。水分は重力に従って足の方に落ちますが、足の筋肉が動くとそのたびにグイグイと心臓の方に血液を引っ張りあげてくれるので、むくみ水分もその血流に乗って体の方に戻っていきます。ところが、足の筋肉が少ないと、こうしたむくみを解消するメカニズムも働きにくくなります。

 

漢方を勉強する前から、「どうして鉄欠乏性貧血の人はむくみっぽいのかな?」と思っていましたが、漢方の考え方を導入すると、見事に説明ができることに気付きました。それと同時に、当帰芍薬散がいかにうまく設計された薬か、理屈の通った薬かが良く分かります。漢方医の間で、色白で華奢でむくみっぽい女性のことを「当芍美人」と呼んだりしますが、そういうタイプの女性が結構いるということなのです。私の漢方の師匠、花輪先生は、「竹久夢二の美人画のような…」と表現されています。

 

■漢方医の腕

当帰芍薬散でも胃がもたれる、という人もいます。その場合、煎じ薬ならば薬用人参を追加したり、当帰芍薬散の処方自体をあきらめて、人参を中心とした「補気薬」の処方に切り替えたりします。また、冷えが強い場合は、附子(トリカブト)という、からだを暖める作用のある生薬を追加することもあります。このように、生薬を単品で追加することを「加味」といいます。

 

人参や附子の加味は、当帰芍薬散がどういう人に処方されるのか、その趣旨を十分に十分に織り込んだものと言えますが、たとえば地黄を加味したとすれば、それは、当帰芍薬散の処方の主旨からずれている、ということになります。実際の臨床ではいろんな状況があるので、こういう「ずらし」のテクニックが必要な時もありますが、加味には、ある程度のルールがあって、先達の漢方医が遺した書物に記載されている加味の仕方を踏襲することが多いようです。漢方医は、加味をうまく使いこなすことにより、処方の幅を広げ、気・血・水の枠組みをまたいで効果を発揮するようにさせることができるし、また、それが漢方医の腕の見せどころのひとつでもあると言えるでしょう。

『助産雑誌』の連載「現場で即使える! 助産師のための英会話」と連動して、各回のスキットの音声を掲載します。妊娠・出産の場面でよく使われる用語を集めた音声へのリンクも掲載していますので、合わせてチェックしてみてください。

 

第4回 ★ Health Guidance for Pregnant Women(1)
【妊婦への保健相談(1)】 

 

第4回,第5回は,妊婦への保健相談に関する表現を学習していきます。第4回に扱うのは,妊娠初期から中期によく聞かれる内容です。つわりや胎動の有無など,妊婦さんの体調をたずねる際に用いる表現を取り上げています。さらに,妊婦さんの状態に合わせて,日常生活の過ごし方のアドバイス,気をつけておきたい習慣なども,伝えられるようになりましょう。

 

よく使う例文集の音声はこちら

 

単語集の音声はこちら

 

チェックシートの音声はこちら



Scene

 

Midwife:Ms. Thomas, how is your appetite? Do you still have morning sickness?

 

Ms. Thomas:Yes, I feel like throwing up all the time.

 

Midwife:Eat small meals often and try to drink fluids during the day. Do you have regular bowel movements?

 

Ms. Thomas:Yes, everyday without fail.

 

Midwife:Oh, that’s good. By the way, do you smoke or drink?

 

Ms. Thomas:Yes, I smoke. 

 

Midwife:Smoking causes serious complications during pregnancy. It would be best if you would avoid smoking.

コンビニは便利なんだけど…

 

新年度が始まると、引っ越しをしたり、環境が変わったりして、今までとは違う生活に慣れない方も多くなると思います。そんな時、簡単に済ませたいものの1つに「食事」があると思います。疲れていたり、時間が無いとどうしてもファストフードやコンビニに頼りがちですね。でもファストフードやコンビニでは太ってしまう!という悩みの種も…。

 

そんなお悩みの声を聞いたので、今回は「ダイエット時のコンビニ食」について考えてみましょう。コンビニの食事はエネルギーやたんぱく質量、脂質量などが記載されているものが多いので、上手に活用すればダイエット時も安心して食べることができます。

 

と、その前に。

 

コンビニでの食事の選び方の前に、まずはダイエット時のエネルギー摂取量についてお話します。1日に必要なエネルギー量は人によって異なりますが、基本的には

 

体重(kg)×25  30kcal

 

と言われています。しかし、ダイエットする際には

 

標準体重(kg)×25 30kcal

 

で計算します。ここで言う「標準体重」はBMI(体重(kg)÷{身長(m)×身長(m)})=22になる体重の事を表します。標準体重が55kgの方の場合、1日に必要なエネルギー摂取量は

 

55×25kcal 55×30kcal=1375kcal 1650kcal

 

という計算になります。今回は間をとって1540kcal(55×28kcal)で考えてみます。

 

食事を1日3食食べると考えると、昼食でとってよいエネルギーは約500 600kcalということになります。これを踏まえて、食事選びを行いましょう。

 

コンビニに行った時、まず何を選びますか?

 

多くの方が主食となる、おにぎりやパン、麺類を最初に選ぶと思います。そこをちょっと我慢して、まずお惣菜のコーナーに行きましょう。最近はコンビニでもお惣菜が充実していますよね。ここで、野菜系のお惣菜を1品選びます。この時、芋類は主食となる炭水化物の仲間に入るので、かぼちゃや里芋の煮物、じゃがいもが多く入っている肉じゃがなどは避けましょう。

 

次に、昼食でとってよいエネルギー(500 600kcal)から、手にとったお惣菜のエネルギーを引いた、残りのエネルギーにおさまるように主食を買いましょう。

 

さぁ、これでお会計へ、と足を運ぶ前にもう1つチェックして頂きたいことがあります。それは「脂」の量です。脂質の高い食事は肥満に繋がるだけでなく、血管疾患の原因にもなります。全体のエネルギーの25%以下に抑えるようにすると過剰摂取の予防になり、食事全体のバランスがよくなります。

 

25%以下というのはどれくらいの量か想像がつきますか?脂質は1gあたり9kcalのエネルギーがあります。1食500kcalの場合は(500kcal×25%)÷9kcal=14g、同様に600kcalの場合は(600kcal×25%)÷9kcal=17g以下です。コンビニのお弁当は揚げ物が多く、気づくと脂質量が多くなってしまいがちです。栄養素の表示を見て、エネルギーと脂質の量に注意しながら選びましょう。

 

夕飯も考え方は同じです。ただ、夜勤のように遅い時間や深夜帯に食事をとるという方は温かいスープにおにぎりなど軽めの食事にしましょう。カップ麺はどうですか?と聞かれることがあります。カップ麺はお財布にも優しく、その場限りのエネルギー補給には手軽で便利ですが、栄養面から考えると脂質の割合が高いものが多いため、栄養バランスが崩れやすく、肥満の原因になります。

 

このようにエネルギーと脂質の量などバランスを見ながら食事を選ぶことで、ダイエット時もコンビニ食を活用できます。ただし、毎日コンビニ食を取り入れていると塩分過多やビタミン・ミネラル不足になりがちなので、時間のない時、忙しい時に活用する事をお勧めします。  

解離的な怒り(2)


コントロールできない怒りの背景にある解離

 

「過去に誰かに傷つけられた」「親との相性が悪くて、自分の気持ちを十分に表現できなかった」――事実かどうかは別として、そういう感覚や無意識的記憶を抱えている人が、そうした記憶と近似した場面において、瞬間的に感情を爆発させる。(少なくとも周囲の人にとっては)現実世界の文脈とはほとんど無関係に、抑圧された感情を爆発させてしまう。「解離的な怒り」を一言でいえば、こういうことになると思います。
もちろん、こうしたメカニズムを知識として理解しておいたほうがいいのですが、臨床の場面で重要なのは、それよりもむしろ「怒りの取り扱い方」について知っておくことです。

 


僕たちは日常的に、怒りの感情を抱えつつも、それを爆発させることなく生活を続けています。カチン! と来ても、「いや待てよ。ここで相手に怒りをぶつけても何の意味もない。肝心なことは、相手にきちんと理解してもらうことだ」とか「この怒りをもっているままで別の人に対応しても、集中力も落ちるし、相手に対して失礼なことになりかねない。一度落ちついてみて相手に対して万全に関心を持てるような態勢にしよう」と、怒りを手なずけている。こういう作業を、人間というのは折に触れて数多く繰り返しています。

 

 nakoshi03.jpg

ところが、あるポイントにはまると、怒りをやりすごせなくなる。1つの怒りが次の怒りに連鎖し、燃え上がってしまって消えなくなる。その怒りを持続、増幅させるための妄想が次から次へと広がっていく。そうなると、人の忠告も耳に入らなくなる。注意されると、その人に対しても腹を立てる。「なんて心ない人だ。自分は傷ついているのに」「これぐらい自分がきちんと正しいことを主張しているのに、あの人は私のことを軽んじている」と。

 


対人関係がこじれる場合というのは、だいたいこういうふうに、怒りの連鎖が起きています。このとき、怒りのエネルギーを供給しているのは往々にして解離的な、隠された要因であり、その場の現実に根ざしたものではありません。こういう怒りは他人の目から冷静にみると実は文脈がわからないところがあったり、共感することは難しかったるする。でも、本人としては、自分が生み出した妄想も含めて真実だとしか思えない。

 

義憤の構造

 

ブログとかツイッターの炎上、あるいは口論みたいなのを見ていると、「こんなことも知らないのか」「こんなことを安易に言って、傷つく人がいたらどうするのか」という義憤から、相手を非難していることが多いようです。そういう「語り口」が当たり前のようにまかり通っているのであまり誰も指摘しなくなってしまっているのですが、冷静にみれば、そうやって「怒って書き込んでいる人」のほうが、よほど横暴にみえてくる場合も多くあります。

 


頭ごなしに否定したり罵倒しなくても、「ここが疑問なのですが、いかがでしょうか」といえばいい。しかし、多くの場合、いきなり興奮した口調になる。もしかしたら、そういう書き込みをしている人は、「自分が怒っている」ということすら、あまり自覚的でないのかもしれません。あるいは、怒るのは当然で、まったく変だと思っていない。でも、客観的にみると明らかに不穏当な感情のぶつけ方になっている。

 


なぜいきなりエキサイトしてしまうのか、もっと穏当にやれないのかとたぶん誰もが思うのだけれど、そうはできない。この背景にはやはり、僕らが文化的に、解離的なあり方を好んできたし、許容してきたということがあると思います。


 
もっと「怒り」に厳しくなろう

 

実は「怒りは百害あって一利なし」です。そのことが理解できて、それを実践できる人にとっては、こんな長い話は必要ありません。しかしながら、それをすんなり受け入れられないくらい、少なくとも日本では「怒り」というのはもてはやされているし、野放しになっている。そして、その背景には、日本人が、もともと解離的なあり方を好んできた、という傾向がある気がします。

 


前回から述べてきているように、日本人は解離的な怒りに甘い傾向があります。怒りの管理に甘い、ということもあるし、怒りが自分の心をどれだけすさませているか、ということに気づいていない、という点でも甘いと思います。怒りというのは、一つ間違えば人生を台無しにしてしまいかねない力をもっている。怒りがもつ毒性について、僕たちはもっと真摯に向き合わなければいけないと思っています。

 


むしろ、いまの社会は、怒りに任せること、感情的になることをむしろ称揚しているような部分があります。そこに僕の危惧があります。そういう文化的背景のもと、怒りに身を任せていると、少しずつ、大事なものを損なっていってしまうからです。

 


まず、「怒り」が盛り上がっていくメカニズムには解離という構造があることを把握する。そして、その認識に立ったうえで、少しでも怒りから距離を置くことを試みる。不完全であって当然なんです。でも少しでも日々実践してゆくと、けっこう効果が出てくると思います。


 「解離」という視点から丁寧に見ていくと、怒りが引き起こされていくプロセスって、すごくバカバカしいことがよくわかります。しかし現実には、人は怒りに火がついたとたん、現実を見ず、自分の内側にばかり目を向け、次から次へと怒りに火をつけていきます。

 

怒りを恥じるアイデンティティをつくる

 

もしあなたが人生において、人間関係において困っているとすれば、それを立て直すときに最初に手をつけなければいけないポイントが、怒りです。また、怒っている人を相手にしなければいけない人にとっても、同じことがいえます。

 


たぶん僕たちは、お互いに怒っている人に甘すぎるんですね。国会を見てても、怒号ばかりではないですか。それがカッコいいという価値観すらあるようですが、たぶんそれは厳密には、ナンセンスなことなんです。テロや戦争も人間の怒りの集積が引き起こしているといわざるを得ないわけですから。

 


怒りが大きいことと、その人が本気であること、真剣であることはまったく無関係です。むしろ、怒りというのは基本的に私怨ですから、公的な場で怒りをあらわにすることは、本来、恥ずべきことなはずなんです。そういう価値観はどんどん失われていて、むしろ公式な場であっても、怒りがその場を支配する武器として使われているきらいがあります。

 


怒りは、人のパフォーマンスを確実に下げてしまいます。たとえば戦場で怒っている兵士なんて、すぐに狙い撃ちにされてしまうことでしょう。そこまでいかなくても、スポーツの試合だって、カリカリ怒っている人は身体中に無駄な力が入ってしまって視野が狭窄して、動けなくなってしまうはずです。また、オリジナルで新しい発想なんてとても浮かんでこないでしょう。

 


もちろん、怒りに身を任せるのが好きなのは、生き物としてはある程度仕方のないことではあります。動物だって、怒って、ガァっ!って歯を剥くのが好きですからね(笑)。でも、それを気持ち悪い、品がない、と感じるようになってまぁできるだけ抑制しましょうというのが人間であり、文化的であるということだと思います。

 

自然という言葉はくせものです。作為を捨てて自然に還ることがよい場合もあれば、安易に「自然」を信じるととんでもないことをしでかしてしまう場合もあります。少なくとも、集団のなかでリーダーシップを取ろうとする人は、感情のコントロールはできてしかるべきなのでしょう。

 

【お知らせ】

2011年6月29日 名越康文連続講義、スタートします。

七夕ゼリー

 

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対応

食欲不振、嚥下困難、口内炎、嘔気

 

レシピの背景

七夕が近づいたころ、病気のこと、入院生活ことなどを考え、体力が落ち食事も進まない患者さんに七夕の夕食に何か作ってあげたいと思いました。

 

管理栄養士としての患者さんとの関わり

気分が落ち込んだ患者さんに少しでも、楽しい気持ちになってもらえるように3色の星ゼリーを作ってみました。

 

レシピ紹介(3人分)

 

一人当たりエネルギー46kcal、たんぱく質2.3g

 

<材料> 

すいか         120 g

ゼラチン           2 g

牛乳            60 cc

ゼラチン           1 g

林檎ジュース    120 cc

ゼラチン           2 g

角切り林檎       60 g

 

<作り方>

(1) すいかはすりおろして鍋に入れ、分量のゼラチンを加えて火にかけて溶かす。その後、荒熱をとる(80℃くらい)。林檎ジュースも同様に作り、荒熱を取る

(2) 牛乳ゼリーは(1)と同様に作り、バットに流し入れて固まったら星型で抜く。

(3) 牛乳の星型ゼリーをゼリーカップに入れ、その上からすいかゼリーを流し入れ冷やす。

(4) カップのゼリーが完全に固まる前に、その上に林檎ゼリーを流し、角切りりんごを入れて固めれば完成!!

 

提供を終えて

少し手間はかかりましたが、すごく落ち込んでおられた患者さんは『すごくキレイ!!』と喜こばれました。患者さんの気持ちを少しだけ元気にできたような気がします。この時、味や食感、栄養だけでなく、食事を見た時に「おいしそう」と笑顔になってもらえることも大切だと感じました。 

  

 

解離的な怒り(1)

 
 
突然怒り狂うゴモラ
 
 
以前、大学の講義で「怪獣と思想」というテーマで話をしたことがあります。そのとき、「あ、これは今の世界を読み解くキーワードだな」と思ったのが「解離」という言葉です。
 
 
講義では、ウルトラマンシリーズの映像を何本か見たのですが、そのなかで僕が非常に興味深かったのが、ゴモラという怪獣でした。ゴモラは、画面に登場するやいなや、怒っています。実は日本人って、こういう「いきなり怒っている」怪獣が好きなんですね。
 
 
たとえばハリウッド映画の怪獣やエイリアンたちは「人を食べる」とか「人の身体に卵を産みつける」といった、何らかの目的をもって人に危害を加えてす。キングコングが暴れるのも、美女を守るためですよね。
 
 
ところが、ゴモラは、なんで怒っているのかさっぱり意味がわからない。しかし、そういう意味のわからない、解離的な怪獣を、日本の視聴者は好みます。
 
 
なお、ここでは「解離」という言葉を、精神医学用語の「解離性人格障害」の定義からはずれて、少し大雑把に「文脈なく怒る、爆発する」という傾向のことを指すものとして使います。
 
 

ゴジラから神様まで、解離する日本

 
 
こういう傾向は、ゴモラに限らず、日本の怪獣に共通しています。
 
 
たとえばゴジラはどうでしょうか。ゴジラは、水爆実験で目覚めた体験から、人間に恨みをもっているのだと説明されます。しかし僕は、ゴジラ自身は、自らの怒りのメカニズムに自覚的ではないように感じます。海から上がって、東京のネオンサインを遠くからみて、ゴジラは怒り、まっすぐそちらに向っていく。でも、ゴジラ自身はなぜ、ネオンサインをみると腹立たしくなり、そちらに向うのかはわかっていないのではないか。
 
 
なぜわかっていないか。ゴジラは水爆実験のときのすさまじい光とともに蘇りました。しかし、そのときの恐怖体験は抑圧され、自覚されなくなっているんじゃないでしょうか。その抑圧が、怒りとなり、東京の夜の街並みのネオンを見るとめちゃくちゃ攻撃的になって、破壊しまくる。ゴジラはそういう存在なのではないか。
 
 
非常に興味深いのは、ゴジラを楽しむ僕ら観客は、何の説明もなく、そのことを理解していることです。「ゴジラが暴れているのは水爆実験への恨みだ」と解釈してみる人はどちらかというと少数派で、「いきなり、何の文脈もなく大暴れする存在」としてゴジラを楽しむ人のほうが多い。そういう解離的なあり方が、日本人のツボなんです。
 
 
これは、日本の神道に登場する神様のありかたにも通じてきます。たとえば、菅原道真は有名な天満宮ですが、この神様は元々祟り神です。平将門もそう。日本の神にはけっこう多く「祟る」ということで、神格を高めていらっしゃる部分があります。「祟るぐらい大きな力をもっているから、もしも味方についてくださったら大きな力を得られるだろう」という転倒した論理が、ある気がしてきます。
 
 
相手が強大で、暴力的であればあるほど、そういう存在と和解し、自らの庇護者として取り込み、親密感を深め、尊敬もする。あるいは心の支えにまでする。こういう祟り神と和解していく信仰プロセスは、僕たち民衆の精神の歴史として何度となく繰り返されているのではないかと思うのです。
 
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抑圧した感情の爆発
 
 
日本に比べると、欧米の悪役はもう少し論理的というか、文脈依存的ですが、もちろん例外はあります。有名なところでは、「13日の金曜日」のジェイソンは、僕の解釈では解離的です。
 
 
ジェイソンは若者を襲いますが、なぜ襲うのか、ということについてはほとんど明らかにされません。ただ、シリーズをじっくりみていると、どうも金髪の女の子が男漁りして、セックスをはじめると、ジェイソンが登場する(笑)。これについて、「アメリカ人男性の、女性に対する潜在的な怒りを表現している」というのは、比較的筋の通った解釈といえるでしょう。
 
 
潜在的な抑圧があり、そのエネルギーが、僕らの目に見えない地下水路のようなところを通って爆発する。だから、表面的にはほとんど文脈を無視して突然怒っているようにみえる。
 
 
ジェイソンは別に、自分が襲った女の子に個人的な恨みをもっているわけではありません。というよりも、ジェイソン自身、「なぜ、自分が怒っているのか」を、まったく認識できていないんじゃないか。13日の金曜日シリーズは、そういうつくりになっています。
 
 
解離とともに生きる
 
 
文脈なく、抑圧された怒りが爆発する。僕ら日本人はもともとこういうありようがすきなのですが、近年、つとにこういう解離的なあり方に向っているようなところはないでしょうか。
 
 
身近なところでは、ワイドショーがそうですね。タレントの大麻所持とか、破滅的な行動をみていて興味をもち、意外にちょっとわくわくする。このわくわく感の特徴は、なぜ自分が興奮しているのか、うまく説明できないことにあります。かわいそうだとか、腹が立つというのとも、微妙に違う。そこには、僕らが抱えている解離的な感情が隠されているのだと思います。
 
 
あるいは秋葉原の無差別殺傷事件などにも、僕らは解離的なあり方を感じることができると思います。いずれにしても、こうした解離的なありように向き合っていくことが、これからを生きていくうえではポイントとなるような気がしています。
 

第5回 喪失の語り 

 

身体の喪失を語る

 

渡邉美智子さんは、歌を歌うのが大好きだという話をしたあと、唐突にこうつぶやいた。

 

歌を歌うことで私は死ななくていられたの。

 

私は予想外の言葉に一瞬たじろいだが、気を落ち着かせながら、そのまま美智子さんの口からゆっくりと発せられる言葉に耳を傾けた。

 

美智子さんは、昭和6年、山梨に材木屋の娘として生まれ育ち、さまざまな経緯の末、静岡の布団屋へ嫁に来た。

ご主人は機械で綿を打ち、美智子さんがその綿を布団に仕立てた。美智子さんはいろいろな布団屋をまわりながら独学で技術を習得し、そのおかげで店は繁盛した。ところが、機械を扱っていたご主人が癌を患って仕事ができなくなってしまった。

家族で話し合った末、ご主人の代わりに美智子さんが綿を打つ機械を使うようになったのだった。慣れない機械の仕事は大変だった。

 

機械を使い始めて3回目だったかな。お父さんができないから、私一人で仕事をしていたの。そうしたら急に機械がガリガリ、ガリガリという大きな音を立てたんだよ。それで、あれ何だと思って、機械に近寄って覗き込んだのね。その瞬間、右手の指が機械に挟まってしまったの。それであっという間に右手全体が巻き込まれてしまって。うわーっと思ったんだけど、右手が使えないから機械を止めることができなくて。なんとか全身を使って必死で右手を引っ張ったら手首のところからひょいっと外れた。本当にひょいっとね。たぶんの手首の関節がはずれたんだね。それで助かった。血はものすごい出たよ。びっくりするほどね。でも、不思議なことにその時は何も痛いとは感じなかったの。

 

美智子さんは右手首がない。それでも、食事のときなどは器用に左手でスプーンやフォークを使っている。ただ、右耳に補聴器をはめるときは不便そうだ。

利用開始前のフェイスシートには右手の欠損の理由に「事故」と書かれていたが、それ以上の情報はなく、また職員もそれについて触れることはなかった。というより、利用者さんの負の記憶には触れてはいけない、という介護現場の暗黙の了解のもとに、あえて触れないようにしていた、というのが正直なところかもしれない。

 

ところが、この日は何のきっかけだったのか、美智子さんのほうから手首の喪失の記憶について語りだしたのであった。

「こんなこと恥ずかしくて今までは話したことなかったんだけど……」と美智子さんは言うが、その語り口は淀みなく、しかもリアリティたっぷりの表現であり、私はその話に一気にひきこまれていった。

さらに、話は続いていく。美智子さんが失ったのは右手首だけではなかった。

 

美智子さんが一命をとりとめて入院している間に、ご主人が事故のショックで食事が全くとれなくなり、容態が急激に悪化してしまったのだ。ご主人はやせ細り、顔色も悪くなった。お見舞いにきた様子をみて、美智子さんはご主人を説得して入院させた。病院ではあと半年しかもたないだろうと言われたが、それよりももっと短く、10日余りで亡くなってしまったという。

入院中であった美智子さんは、仮退院をして葬式に出た。本当はまだ入院治療が必要だったのだが、そのまま病院に戻ることはなかった。

 

右手とご主人という、美智子さんにとって大切なものを一気になくしてしまった絶望感はどれほどのものだっただろう。美智子さんは生きる希望をすべて失って死のうとしたという。

 

伊豆の崖っぷちに行ったし、それから富士の樹海にも行ったりしたよ。死にたくて死にたくて。こんな体になっちゃったから死ぬしかないと思った。もう仕事もできないし、お父さんもいないし。なんで生きていなきゃいけないのかなとね。

でもね、どうしても死ぬことができなかったんだよ。崖の上から下をのぞいてね飛び込もうと思ったの。だけど途中に木が生えているでしょ、そこにひっかかって死ねなくて結局生き恥をさらすことになるのではないかと思うとね。どうしても死ぬことができなかった。

 

生き恥をさらしたくない、だから下手な死に方はできない、というのは、ぎりぎりのところで自死を思いとどまった人のリアルな感覚なのだろう。

私は息を飲んで美智子さんが発する言葉に聞き入りながら、涙が流れるのをとめることができなかった。美智子さんはそんな私を覗き込んで、「あんたが泣くことじゃないじゃないよ」と少し呆れながらも、さらに話を続けた。

 

死ぬことを諦めた、もう生きるしかないと思ったという。そして生きる希望を持つために、いろんなことを試した。最初は、他人に勧められて押し花をやってみた。それはそれで面白くてがんばったが、額縁を買うのにお金がかかることもあって、2年間続けて結局やめたという。

その後に出会ったのが歌だった。

三島市のカラオケセンターで歌を本格的に習いはじめた。先生から浜北市にある歌手の養成学校の入学試験を受けてみろと言われるぐらい上達したし、とにかく自分の好きな歌をみんなの前で歌うのが気持ちよかった。

 

最初はね、右手がないことが恥ずかしくてさ。みんなが何だろうって手を面白そうに見るだろ。だから、見られないように見られないようにって、ポケットの中に隠してたんだ。

だけどさ、気分よく歌ってたらさ、右手がポケットから勝手に躍り出てきてさ、腕を上にこうやって大きく上げてたんだよ。それからは右手を恥ずかしいなんて思わなくなったんだ。

 

そう言いながら、美智子さんは手首のない右手を天井に向けて思いっきり突き上げて笑っていた。

それからはさらに一生懸命に歌うようになった。昔の歌だけではなく、新曲が出るとその歌がはやる前にレコードを買ってきて一番に覚えて歌った。負けん気が強かったから、と美智子さんは言う。どの歌手が好きだったのか尋ねると、歌手が好きというのではなく、歌がいいと思うと何でも買ってきて練習したと答えた。

カラオケの後は飲み屋に繰り出した。沼津や三島の飲み屋はほとんど渡り歩いたんだよ、と美智子さんは言う。手のけがをしたときにおりた保険金は、カラオケ代や飲み代にほとんどを消えてしまった。

「でも、悲しいときにも歌を歌い、楽しいときにも歌を歌い、歌のおかげで死のうなんて思わなくなった」と美智子さんは大笑いしていた。その屈託のない笑顔が印象的だった。

 

絆の喪失を語る

 

右手の喪失のことをお聞きしてから1年近くたったある日、久々にじっくりとお話を聞く時間ができたので、私は美智子さんに山梨で育ったという子どものころのことをお聞きしたい、とお願いした。すると、美智子さんは、「子どものころは本当に貧乏でみじめだったから今まで話なんてしたことなかったんだよ」と少しためらっていたが、しばらくすると口を開き、両親のことを語りはじめた。

美智子さんの母親は、美智子さんが子どものころに離婚して家を出たという。父親に妾ができて、父親が母親を追い出したのだ。また、父親の母親に対する暴力もひどかった。母親はとてもきれいな人だった。だから、ちょっとでも母親が男の人と口をきいたりすると嫉妬して、背負子に背負った薪で殴ることもたびたびだった。

そういうこともあって、母親は家を出たのだった。だが、幼い美智子さんにはそんな事情は理解できず、なぜ自分たちを捨てていったんだと、ずいぶんと母親のことを恨んだそうだ。

 

親に捨てられた子どもが一番恨むのはやっぱりお母さんだよ。それはお母さんのことが大好きだから、その気持ちの裏返しなんだ。

 

そう語る美智子さんの瞳は少し潤んで見えた。

 

母親は家を出た後に富士駅のすぐ近くにある旅館で仲居として働いていた。それは母親の親戚が経営する旅館だった。ある日、父親が、「お前らの母親はあんな旅館でなんて働いていてみっともないから、連れて帰ってこい」と言って、お金を持たせて美智子さんと弟さんを富士に行かせたことがあった。

美智子さんはまだ小学校1、2年生のときだったから電車に乗るのも初めてだったし、ましてや富士に行くのも初めてだった。だから、弟とたった2人で電車に乗っても不安で情けなくて、「富士ってどこだろうねえ」と不安がっていた。すると、同じ車両に乗っていた人が親切に「富士は終点だよ。私も富士で降りるから一緒におりようね」と声をかけてくれたりした。

 

そんな親切もあって終点で電車を降りて、なんとか旅館についた。玄関先に行くと、女将さんらしき人が「ヒサノ(美智子さんの母親の名前)、子どもたちが来たよ」と奥のほうへ大きな声をかけた。すると母親が出てきた。母親は驚いた顔をしたけれども、やさしく「どうしたの、何の用? 早くおあがりなさい」と旅館の中へと促してくれた。

 

私はね、そのお母さんに向かってさ、言っちゃったんだよ。「お父さんが、お母さんをうちに連れてこいと言ってお金をくれたんだよ。旅館なんかで働くなんてみっともない、って言ってたよ」ってさ。

お母さんは悲しそうな顔をしたよ、そのとき。だけどそれでも優しく、「おばあちゃんの具合が悪いから手伝っているんだよ。おばあちゃんの具合がよくなったら、家に帰るから、お父さんにはそう言っといて」って言ったんだ。そしてね、旅館の外へ連れ出してくれて、私と弟においしいものをたくさん食べさせてくれた。それから電車に乗せてくれたんだ。電車の中で、「お母さんになんてことを言ってしまったんだろう」ってものすごく後悔して、おいおい泣いてしまったよ。

 

そう語りながら美智子さんは目に涙を浮かべていた。私も涙で手元のメモが見えなくなっていた。美智子さんはその後生きているうちには一度も母親に会うことはなかったそうだ。自らが望まないうちに親子の絆を喪失してしまった美智子さんの悲しみは深い。

 

だが、美智子さんはある日を契機に救われたような気持ちを抱くようになったという。美智子さんが母親の実家へと墓参りに毎年通うようになってから、夢の中にきれいな女の人が出てきて、にこやかに笑っていたのだ。手には藤の花を持っていた。

母親は生前藤の花が大好きで、いつも藤色のものを身に着けていた。だから美智子さんは「お母さんだ」と確信したという。

 

それより前はね、お母さんが夢に出てきても、いつもかわいそうな顔をしていて、泣かされるばかりだったけどね。お墓参りをするようになったからだと思うのよ。それからはそういうにこやかなお母さんが出てくるようになったの。

 

美智子さんは、「本当だよ」と言いたげに私の潤んだ目を覗き込んだ。私も、美智子さんの赤い目を見てうなずいた。二人のまわりには何か言葉にできない熱くて、だけど穏やかな空気が満ちていたように感じられた。

 

涙と違和感

 

美智子さんはその後も、幼いころにお兄さんが川で溺れて亡くなったことや、一緒に貧しさを乗り越えてきたお姉さんが駆け落ちしてしまったなど、いくつもの喪失の体験を語ってくれた。

それらはいずれも私の意図したところではなく、別の話からの展開で語られるのだが、私はそのたびに感情が高ぶり涙を流していたように思う。

 

ところでこうした美智子さんの話を聞きながら、人は生きている間に大切なものをどれだけ失うのだろうと私はしみじみと思った。そして、喪失のたびに時間をかけても何とかその絶望から立ち直って生きてきた美智子さんのたくましさに感動するのである。

だが一方で、冷静になって振り返ってみると、美智子さんが喪失を語るときの語り口の滑らかさに、少なからぬ違和感を感じなくもない。

 

たとえば美智子さんは、ときに擬態語や身振り手振りを交えながら、声に抑揚をつけていて、まるでその語りは講談師のようだ。既に述べたように、聞いている私はいつも自然と惹きこまれ感情移入し涙を流してしまう。

私が泣くと、「まったくあんたは泣き虫だね」と言いながら、それを意識してか、さらに語り口を盛り上げていくようだった。また、語りの内容も、本人が「私の人生を小説にしたら面白いよ」と言うほどドラマティックであり、語りの構成も起承転結がはっきりしていてわかりやすい。

 

美智子さんが、実は本連載3回目「幻覚と昔話」で死者の声が聞こえる渡邉美智子さんであることからすれば、その喪失の語りもいくばくかの脚色がなされているか、もしくは語りそのものが幻覚によるものではないか、と疑ってもおかしくないほどだ。

だが、そうした講談師のようなオーバーとも思える語り口は美智子さんばかりに見られるものでは決してない。他の利用者さんによる喪失の語り方もそれによく似ているように感じられることが多いのだ。

 

思うに、おそらく喪失の語りには二通りあるのかもしれない。

ひとつは、未だ絶望の淵にいるときの血を吐くような救いを求めた語りであり、もうひとつは、絶望を時間の経過とともに何とか乗り越えてからの語りである。

 

絶望の淵での語りは、言葉にならない感情を吐き出す叫びのようなものであり、語り手にとっても予期せぬ鋭い刃のような暴力的な言葉が羅列されることがある。聞き手はそこから言葉のもつ底知れぬ力強さを受け止めるとともに、語り手の存在の危うさや不安定さを感じとる。そのため語り手と聞き手との間には緊張関係が生じ、かえって聞き手は感情移入したり共感したりしにくくなるのではないだろうか。

一方の時間を経てからの喪失の語りは、つらい出来事について語り手のなかで自分なりの再解釈がなされたうえで発せられたものであるといえる。言葉にならなかった絶望は何度も咀嚼され、そして血肉へと消化されて生きる強さへと変化している。

だから、発せられる言葉も穏やかである。聞き手は語りに安心して身をゆだねて語りの世界へ没入することができ、最後には語り手の生き方の力強さに圧倒され、淡い光に包まれたような温かさを覚えるのである。

 

それからすると、美智子さんら利用者さんたちの語りは明らかに後者に属するだろう。私が彼らの語りにいつも感情移入し涙した(できた)のは、深い絶望を乗り越え生き抜いてきた存在だからこそもっている大きな懐に安心して身をゆだねていたからだったのではないだろうか。

美智子さんたちも実はそれをよく心得ていて、聞き手である私がより心地よく語りの世界に入り込むことができるように、ときに身振り手振りを交えたり、独りよがりではないわかりやすい表現を使ったりして、語りを盛り上げていたのかもしれない。

 

「昔話」のエネルギー

 

そうした喪失の語りの場面における語り手(利用者さん)と聞き手(私)との関係は、講談における講談師と聴衆との関係、あるいは演劇における演者と観客の関係にも似ているとも言えるが、民俗学を専門としてきた私には、昔話の語りの場が思い浮かんでくる。

薄暗い部屋のなかで囲炉裏を囲んで語られる昔話。語り部のおじいさん、おばあさんは、頬を赤く染め、目を真ん丸に見開いた子どもたちの顔を時折のぞきながら、昔話を語り聞かせる。

 

昔話には、社会の理不尽さや生きることの切なさとともにそれを乗り越えていく人間の強さが込められている。そして、語りの場では語り部自身の歩んできた人生がそれに重ね合わされて再解釈がなされ、さらにリアルに語られていくのだ。

そこでは、昔話の世界と語り部自らの経験との境が曖昧になっていく。重要なのは、聞き手である子どもたちの素直な心にどれだけまっすぐに語りが届くかということである。

 

利用者さんの喪失の語りに涙する私は、まるで昔話を語り聞かされる子どもだ。

語られる喪失の体験は、もしかしたら誇張されていたり、あるいは虚構であったりするかもしれない。しかし、語り部の圧倒的な存在感を前に私にはもはやそのことはそれほど問題ではなくなる。私は、体全体を高揚させてその語りの世界に夢中になり、そして、熱い涙を流した後には、絶望を生き抜く力に変えていく知恵とエネルギーをもらうことができるのである。

 

それが高齢者のケアをする介護職員として正しいあり方なのかどうかは自信がない。また、冷静に事実を見極め、それを資料として積み重ねていかなければならない民俗研究者としては失格なのかもしれない。

けれど、利用者さんとのそうした一つひとつのかかわりが、介護職員として、そして介護民俗学を実践しようとする民俗研究者としての私の意欲を支え、動機を与えてくれている。それだけは確かだ。

 

(web第5回了)

第9回 ノジマさんの生命力 

 

[前回まで]

隣のベッドのノジマさんのもとへ、娘のアキコさんがやってきた。抑揚のない声、馬鹿丁寧な口調。高齢のノジマさんと距離をとろうとしているのが一目瞭然だ。二人のあいだに一体何があったのだろう――。嘉子と真衣はそっと目を合わせ、ロビーへ脱出した。


 

真衣と嘉子はラウンジにたどり着くと大きくため息をついた。

 

大きく開いた窓からは夕方の4時近い都心の空と高層ビル群が迫ってくる。少しだけ傾いた陽の光がビルの無数のガラス窓に反射して鈍く輝いていた。a

窓際のカウンターのような椅子に並んで座り、二人はその静謐な光景を眺めたが、気分は正反対に波立っていた。とにかく話さずにはいられなかった。

 

「もう、全然勉強できなかった、予定が狂った!」

 

真衣は口をとがらせて訴えた。

 

「ほんとにねえ、次から次へとだもん。ロシア語でしょ、それからノジマさんとアキコさんでしょ」

「病室ってあんなに賑やかだなんて、誰も想像しないと思うよ」

「ほんとにびっくりした、想定外って感じだね」

できるだけ小さな声でひそひそと話すように努めながら、しばらくの間二人は病室で経験したことを次々と話した。ひとしきり語りつくすと、やっと落ち着いた。

真衣はポツリと言った。

 

「それにしてもノジマさん、かわいそうだね……」

「ほんとほんと、でも長生きしてもあんな風になるとしたらいやだなあ」

「大丈夫、ママは絶対ノジマさんみたいにはならないって。いくつになっても週刊誌を読んでると思うよ」

「マルジューで週刊誌買ってきてね」

 

ノジマさんのキーワードを決め台詞に使ってみたら、案の定、真衣は大声で笑った。それにつられて嘉子も笑いながら、頭の中で90歳近い自分が杖を片手に近所のコンビニで週刊誌を立ち読みしている姿を思い浮かべた。あまり絵になる光景じゃないな、と思いながら。

 

二人のアフターミーティング

 

「でもさ、アキコさんがあんな態度をとるようになったのは、やっぱり相当大変だったんじゃないの」

 

真衣は鋭いところを衝いてくる。

 

「うん、たしかにいえるかも」

「もういっしょに住みたくないって思ってんじゃないの? アキコさんって結婚してるのかな、それとも独身で仕事してるとか」

「そうか、全然想像もしなかったけどどうなんだろう、だいいち年齢もわからないし」

「ノジマさんの年齢が80歳前後だとすると、娘さんはもう50歳くらいってことにならない?」

「そうか、それにしちゃもっと若い印象だったよね、あの声」

 

真衣の言葉を聞きながら、この「推理欲」は生半可なものじゃない、おまけにかなりの確率で当たっている、ひょっとして自分より上手(うわて)かもしれないと嘉子は思った。

 

嘉子は仕事でいくつかのグループカウンセリングを実施しているが、終わってからスタッフ同士でアフターミーティングを行う。感想や気づきを経過に沿ってざっと話し合うのだ。そして最後はいくつかの視点に沿って総括し、次回に向けての課題を明確にさせる。

 

それはクライエントにとって重要であるのはいうまでもないが、実施するカウンセラーにとっても一種のフォローとクールダウンの効果をもっている。

真衣とのラウンジでのおしゃべりは、どこか「アフターミーティング」に似ていた。カーテン越しの母娘のドラマはそれほどまでに生々しかった。

 

病室に戻ってもノジマさんの隣ではなんとなく落ち着かないような気持ちがしたので、嘉子はいったん仕事のゲラを持ってきてそのままラウンジで夕食前まで校正をしながら過ごすことにした。

真衣はすっかり勉強をあきらめてしまったようで、一階の売店で買い物をしてくると言い残してエレベーターに乗った。

 

病室に入るとロシア人は再び高いびきをかいていた。

ノジマさんのベッドはぴったりとカーテンが閉められており、中からかすかにいびきが聞こえてくる。あれだけのことがあったのだからたぶん疲れて眠っているのだろう。

もうひとりの静さんは相変わらず不思議なくらい静かなままだ。

手提げ袋に入ったずっしりと思いゲラの束を持って、二種類のいびきが交錯する病室を嘉子はそっと後にした。

 

アザブ、アトリエ、ノボリガマ

 

ラウンジの窓から見る光景は、時間と天候によって大きく異なる。南側の空はうっすらと紅色がかっているが、西のほうを見やると太陽がじりじりと沈みかけている。

都心の空は一面に雲海のようなもやがかかっている。気温がかなり高くなっているようだ。しかしラウンジの中は、相変わらず快適な温度のままだ。

 

面会に訪れた人たちも減り、空いたテーブルも多くなっている。窓側の角のテーブルに目をやったとき、嘉子のアンテナがピンと立った。

そこに座っているのは、あの川久保玲似の女性だった。それも男性と向かい合って親しげに話しているのだ。男性は口髭をはやし、渋いグレーのたっぷりとしたシャツを羽織り、編み上げブーツを履いているのがズボンの裾からのぞいている。

 

嘉子は迷わずその隣のテーブルに二人と背中合わせに座り、おもむろに赤いボールペンで校正を始めた。もちろん耳はそのカップルの会話に集中している。

低い声で切れ切れに聞こえてくる内容は、単語と単語を結びつけて想像するしかない。まるで外国語を聞いているときのようだ。

 

西麻布、ブンカムラ、アトリエ、事務所、移転、仲間のオフィス……。

 

これらの言葉をつなぎ合わせれば、彼女の輪郭はかなりはっきりしてくる。嘉子の当初の想像はそれほど外れてはいなかった。やはりアート系の仕事に就いており、おしゃれなエリアに事務所をもち、つい最近移転したということなのだろう。

 

それにしても二人の関係は何だろう? 夫婦なのだろうか。いや、そうではないだろう。こんな場合、多くの夫婦は黙ったままか、どちらかが一方的に話すかのいずれかだからだ。その二人は静かに言葉を交わしながら話し合っていた。

では恋人同士だろうか。それにしてはあまりにも空気が淡泊すぎる。背後から漂ってくる気配は水のようにさらりとしている。

とすれば仕事仲間なのだろう。男性のかなりこだわった服装もそう推測させるに十分だった。

 

そのとき、川久保玲似の女性の口から出た言葉に嘉子の手は止まった。

 

「……それでね、登り窯がね……」

 

やはりそうだったのか!

前日に「陶芸家じゃない?だって指が太いもん」と指摘したのは真衣だった。またやられてしまった、と嘉子は苦笑した。そして何気なく隣のテーブルのほうに体をひねり、素早く川久保玲の指を見た。やはり、太かった。

 

病室に響き渡る生命力

 

真衣は、一階のコンビニでチョコレートクッキーを1箱買ってきた。それをかじりながら嘉子が夕食を食べ終わるのを傍で見届けて、急いで戻っていった。渋谷で待ち合わせの予定があるのだという。

 

驚いたことに、ロシア人女性はほとんど食事を摂らないままだった。実際に見たわけではないが、トレイ上の食事に手をつける音がしなのでそう推測した。

ナースが英語で「もう少し食べませんか」と尋ねても、「ニェット」と答えるだけだ。嘉子には、あのベッドがきしむ体とほとんど食事を摂らないという行動はどうしても不釣り合いだと思われた。

 

それに比べるとノジマさんは実に食欲旺盛だった。カーテン越しに食事を摂るときに発するさまざまな音が聞こえてくるのだ。真衣もそれを聞きながら目を丸くした。

 

ズズーっとポタージュを飲み干す音、お皿のチキンソテーを箸で突き刺す音、トレイにスプーンを置く音、ごはんの器の蓋を開け、そして閉める音……。

物を食べるとき、これほど多様な音が生まれるのかと驚くほど、ノジマさんはさまざまな音を盛んに生み出しながら食べている。その豊かさは、まるでノジマさんの生命力を表しているかのように思われた。

 

嘉子にとってはいつもどおり腹七分目しか満たされない食事だったが、これを機会に少し胃が収縮してくれないかと思いがまんした。

 

「薬じゃないの!」ふたたび

 

昼寝をし、食事を全部食べきったせいか、ノジマさんは心なしか隣のベッドで元気になったようだ。ナースが血圧と体温を測りにくると、いろいろ話しかけている。

 

「あのさ、さっき食べたほうれんそう、冷凍かい?」

「ほうれんそうですか? 私たちはあまりよくわかりませんが……どうかされましたか?」

「ええ?っ、知らないんじゃしょうがないね、アクがさ、あんまりアクがない味付けだったからさ、冷凍じゃないかって。そりゃあんまりしどくないかい?」

「アクがなかったんですね、そうですか」

 

ナースは一生懸命ノジマさんのアク無しほうれんそう事件に応対している。昼間のアキコさん失踪事件の際のナースとは別の担当者だ。おそらく申し送りがされているのだろう、ていねいに一つずつうなずきながら聞いているのが目に見えるようだ。

 

「そいでさ、しとつだけ頼んでいい、看護婦さん」

「ひとつだけですか(笑)。はい、いいですよ」

「ねえ、ここ見てくんない?」

 

相変わらず“ひ”と“し”の区別がつかない発音だが、昼間と同じように声のトーンは高くなっている。それにどこかナースに甘えながら、それでいてからかうような調子が聞く者に伝わってくる。

 

「どこでしょう?」

 

パジャマの衣擦れの音がして、ノジマさんは体の一部をナースに見せているようだ。どこなのか、カーテンを開けて見てみたいと思った。

 

「ほらね、こうなっちゃってんの、わかる? しどいでしょ?」

「ああ、そうですね、」

 

示された患部を見ているらしく5秒間くらいナースもノジマさんも言葉がない。しばらくたってナースが言った。

 

「先生から塗り薬が出ていますので、後で塗りますね」

「また薬? やんなっちゃうって言ったじゃないの。薬なんか効きゃしないんだから」

 

たぶん、この一連のやりとりはノジマさんがナースの関心を引くための取引に使う方法なのだ。体のどこか患部が炎症もしくはただれており、痒みか痛みを訴える。それに対して薬を塗るという対応がナースから提示されたとたんに、「薬じゃないの」と反論する。

多くのナースはそこでどうしていいのか困ってしまうだろう。その様子を見ながら、きっとノジマさんは自分に深く関心を惹きつけることができたという安心感・満足感を得ているのだ。

 

「薬を塗るのがおいやなんですね、でも一回試してみましょうか。そしてしばらく様子をみてみましょう」

 

ナースの発言を聞きながら、よく頑張っていると嘉子は感心した。嫌がっているノジマさんを尊重しながらも、必要な処置を試みるよう動機づけをしている。

このような場面でそれがすぐに実践に移せるというのは、なかなかできるものではない。日頃のカウンセリング業務のことを思い浮かべながら、けっこうやるじゃない、と内心でつぶやきながら、この病院のナースの対応がきわめて厳密にトレーニングされていることに改めて気づかされた。

 

しかし、これでノジマさんが納得したわけではなかった。

ノジマさんの訴えはだんだん痛みに集約されていった。体のどこかがいつも痛いと言うのだ。

その訴えのエネルギーは夜が更けるにしたがって徐々に高まっていき、病棟の消灯時間である午後10時ごろにピークに達した。

(第9回了)

日常生活の中で「あー、今日も腎臓がよく働いてくれているな。」と実感することは無いと思いますが、腎臓は毎日とても大事な働きをしています。例えば、皆さんが食事としてとんかつを食べるとします。とんかつに含まれるたんぱく質は体内で代謝され、余分なものは老廃物として血液中に溜まります。この老廃物をろ過するのが腎臓の働きです。

 

たんぱく質を食べ過ぎるとたくさんの老廃物が血液中に溜まり、腎臓に負担がかかります。その為、腎臓病になるとたんぱく質を制限する食事になるわけです。しかし、ただ単にたんぱく質を減らせば良いかというとそうではありません。たんぱく質は体の細胞を作る大事な栄養素の1つです。その為、食事制限の際には適量の「良質なたんぱく質」を摂ることを重視します。では、一体、良質なたんぱく質というのはどんな食品のことでしょう?

 

人間の細胞は20種類のアミノ酸(たんぱく質の素)で構成されており、その中でも生体内では作ることができない9種類のアミノ酸のことを必須アミノ酸と言います。人間に必要な必須アミノ酸が食品中にどれだけバランス良く含まれているかを表しているのがアミノ酸スコアです。このアミノ酸スコアが100に近ければ近いほど「良質なたんぱく質」と言われています。

 

アミノ酸スコアが高い代表的な食品は卵、肉・魚・牛乳などいわゆる動物性のたんぱく質です。たんぱく質だけ摂ることを考えると、植物性の食品を摂るよりも動物性の食品から摂った方が、余分な老廃物を作らずに必要なたんぱく質を摂ることが出来ます。その為、腎臓病の人は植物性たんぱく質よりも動物性たんぱく質を適量摂ることで、腎臓にかかる負担を軽減出来ます。

 

しかし、動物性たんぱく質だけ摂っていればいいかというとそういうわけではありません。動物性たんぱく質には脂質が過剰に含まれていることが多いからです。脂質は人間の細胞膜を作るための大事な栄養素ですが、摂り過ぎると動脈硬化や心臓病の原因になります。植物性のたんぱく質の代表でもある「大豆」製品にはコレステロールを低下させる働きや、イソフラボンによる抗酸化作用が期待出来ます。

 

でも、植物性たんぱく質はアミノ酸スコアが低いのでは?と心配になる方がいらっしゃると思います。食物性たんぱく質の代表でもある「大豆」製品、例えば豆腐のアミノ酸スコアは86です。100までは届きませんが良質なたんぱく質と言えるでしょう。しかし、精白米はアミノ酸スコアは65とあまり高くありません。ところが、大豆製品と精白米を一緒に摂ると、大豆製品に不足している必須アミノ酸はが精白米には多く含まれ、精白米で不足しているアミノ酸は、大豆製品に豊富に含まれているので、お互いの不足を補い合いアミノ酸スコアが100に近くなると言われています。その為、アミノ酸スコアをより良くするには大豆製品と精白米を一緒に食べると良いでしょう。

 

このように上手な組み合わせで良質なたんぱく質を摂り、健康維持にお役立て下さい。

 

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