解離的な怒り(2)
コントロールできない怒りの背景にある解離
「過去に誰かに傷つけられた」「親との相性が悪くて、自分の気持ちを十分に表現できなかった」――事実かどうかは別として、そういう感覚や無意識的記憶を抱えている人が、そうした記憶と近似した場面において、瞬間的に感情を爆発させる。(少なくとも周囲の人にとっては)現実世界の文脈とはほとんど無関係に、抑圧された感情を爆発させてしまう。「解離的な怒り」を一言でいえば、こういうことになると思います。
もちろん、こうしたメカニズムを知識として理解しておいたほうがいいのですが、臨床の場面で重要なのは、それよりもむしろ「怒りの取り扱い方」について知っておくことです。
僕たちは日常的に、怒りの感情を抱えつつも、それを爆発させることなく生活を続けています。カチン! と来ても、「いや待てよ。ここで相手に怒りをぶつけても何の意味もない。肝心なことは、相手にきちんと理解してもらうことだ」とか「この怒りをもっているままで別の人に対応しても、集中力も落ちるし、相手に対して失礼なことになりかねない。一度落ちついてみて相手に対して万全に関心を持てるような態勢にしよう」と、怒りを手なずけている。こういう作業を、人間というのは折に触れて数多く繰り返しています。
ところが、あるポイントにはまると、怒りをやりすごせなくなる。1つの怒りが次の怒りに連鎖し、燃え上がってしまって消えなくなる。その怒りを持続、増幅させるための妄想が次から次へと広がっていく。そうなると、人の忠告も耳に入らなくなる。注意されると、その人に対しても腹を立てる。「なんて心ない人だ。自分は傷ついているのに」「これぐらい自分がきちんと正しいことを主張しているのに、あの人は私のことを軽んじている」と。
対人関係がこじれる場合というのは、だいたいこういうふうに、怒りの連鎖が起きています。このとき、怒りのエネルギーを供給しているのは往々にして解離的な、隠された要因であり、その場の現実に根ざしたものではありません。こういう怒りは他人の目から冷静にみると実は文脈がわからないところがあったり、共感することは難しかったるする。でも、本人としては、自分が生み出した妄想も含めて真実だとしか思えない。
義憤の構造
ブログとかツイッターの炎上、あるいは口論みたいなのを見ていると、「こんなことも知らないのか」「こんなことを安易に言って、傷つく人がいたらどうするのか」という義憤から、相手を非難していることが多いようです。そういう「語り口」が当たり前のようにまかり通っているのであまり誰も指摘しなくなってしまっているのですが、冷静にみれば、そうやって「怒って書き込んでいる人」のほうが、よほど横暴にみえてくる場合も多くあります。
頭ごなしに否定したり罵倒しなくても、「ここが疑問なのですが、いかがでしょうか」といえばいい。しかし、多くの場合、いきなり興奮した口調になる。もしかしたら、そういう書き込みをしている人は、「自分が怒っている」ということすら、あまり自覚的でないのかもしれません。あるいは、怒るのは当然で、まったく変だと思っていない。でも、客観的にみると明らかに不穏当な感情のぶつけ方になっている。
なぜいきなりエキサイトしてしまうのか、もっと穏当にやれないのかとたぶん誰もが思うのだけれど、そうはできない。この背景にはやはり、僕らが文化的に、解離的なあり方を好んできたし、許容してきたということがあると思います。
もっと「怒り」に厳しくなろう
実は「怒りは百害あって一利なし」です。そのことが理解できて、それを実践できる人にとっては、こんな長い話は必要ありません。しかしながら、それをすんなり受け入れられないくらい、少なくとも日本では「怒り」というのはもてはやされているし、野放しになっている。そして、その背景には、日本人が、もともと解離的なあり方を好んできた、という傾向がある気がします。
前回から述べてきているように、日本人は解離的な怒りに甘い傾向があります。怒りの管理に甘い、ということもあるし、怒りが自分の心をどれだけすさませているか、ということに気づいていない、という点でも甘いと思います。怒りというのは、一つ間違えば人生を台無しにしてしまいかねない力をもっている。怒りがもつ毒性について、僕たちはもっと真摯に向き合わなければいけないと思っています。
むしろ、いまの社会は、怒りに任せること、感情的になることをむしろ称揚しているような部分があります。そこに僕の危惧があります。そういう文化的背景のもと、怒りに身を任せていると、少しずつ、大事なものを損なっていってしまうからです。
まず、「怒り」が盛り上がっていくメカニズムには解離という構造があることを把握する。そして、その認識に立ったうえで、少しでも怒りから距離を置くことを試みる。不完全であって当然なんです。でも少しでも日々実践してゆくと、けっこう効果が出てくると思います。
「解離」という視点から丁寧に見ていくと、怒りが引き起こされていくプロセスって、すごくバカバカしいことがよくわかります。しかし現実には、人は怒りに火がついたとたん、現実を見ず、自分の内側にばかり目を向け、次から次へと怒りに火をつけていきます。
怒りを恥じるアイデンティティをつくる
もしあなたが人生において、人間関係において困っているとすれば、それを立て直すときに最初に手をつけなければいけないポイントが、怒りです。また、怒っている人を相手にしなければいけない人にとっても、同じことがいえます。
たぶん僕たちは、お互いに怒っている人に甘すぎるんですね。国会を見てても、怒号ばかりではないですか。それがカッコいいという価値観すらあるようですが、たぶんそれは厳密には、ナンセンスなことなんです。テロや戦争も人間の怒りの集積が引き起こしているといわざるを得ないわけですから。
怒りが大きいことと、その人が本気であること、真剣であることはまったく無関係です。むしろ、怒りというのは基本的に私怨ですから、公的な場で怒りをあらわにすることは、本来、恥ずべきことなはずなんです。そういう価値観はどんどん失われていて、むしろ公式な場であっても、怒りがその場を支配する武器として使われているきらいがあります。
怒りは、人のパフォーマンスを確実に下げてしまいます。たとえば戦場で怒っている兵士なんて、すぐに狙い撃ちにされてしまうことでしょう。そこまでいかなくても、スポーツの試合だって、カリカリ怒っている人は身体中に無駄な力が入ってしまって視野が狭窄して、動けなくなってしまうはずです。また、オリジナルで新しい発想なんてとても浮かんでこないでしょう。
もちろん、怒りに身を任せるのが好きなのは、生き物としてはある程度仕方のないことではあります。動物だって、怒って、ガァっ!って歯を剥くのが好きですからね(笑)。でも、それを気持ち悪い、品がない、と感じるようになってまぁできるだけ抑制しましょうというのが人間であり、文化的であるということだと思います。
自然という言葉はくせものです。作為を捨てて自然に還ることがよい場合もあれば、安易に「自然」を信じるととんでもないことをしでかしてしまう場合もあります。少なくとも、集団のなかでリーダーシップを取ろうとする人は、感情のコントロールはできてしかるべきなのでしょう。
【お知らせ】
2011年6月29日 名越康文連続講義、スタートします。
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