閉塞感と身体論
『シガテラ』の描く時代の空気
いまの日本を表現する言葉に、「閉塞感」があると思います。ストーカーやクレーマーといった現代的な事象についてひもといていくと、その根っこのほうで「閉塞感」という言葉に行き当たる。ちょうど、酒鬼薔薇聖斗事件のあった90年代以降、15年以上にわたって、閉塞感って、今の日本を読み解くキーワードになっていると僕は思うんです。
閉塞感って何なのか。閉塞感ってどこにあるのか。確かに僕も閉塞感を覚えるんだけど、それがどこにあるのかわからない。自分の内側にあるのかというとそうじゃないですよね。自分を取り巻くこの世界、人と人との間にある空気感みたいなものを、僕らはなんとなく、閉塞感と呼んでいる。
90年代後半から2000年代の始めぐらい、そういう空気を象徴的に描ける若い作家が次々とブレイクしました。たとえば漫画では、古屋実さんの『シガテラ』とか、浅野いにおさんの『ソラニン』といった作品ですね。これらの才能ある作家さんが描き出す閉塞感あふれる世界に、僕は読んでいて怖いくらい、引き込まれました。
その時代がもっている空気感をいったん客観的に捉えなおして、それを表現していくというのは、それこそギリシャ悲劇の時代から、芸術家の仕事でした。どうして、その時代で起きたことを作家が自分のなかで消化し、表現しようとするのか。また、どうしてそれを多くの同時代人が待ち望んでいるのかといえば、人間というのは、そうやることでしか自分の位置を確認できないからです。
身体と精神、あるいは自分と世界との間に感じている違和感のようなものを、作品を通じて確認し、解消しようとする。当然、その違和感は決してすべて解消されるわけではないんですが、そこにより深いリアリティを見出そうとするアーティストたちの運動のなかで、結果として多くの文化が生みだされてきたということです。
つまり、閉塞感のなかで僕たちは、「俺たち(日本人)はいったい何者なんだ」という問いを繰り返してきたと見ることもできる。僕はそう考えています。
閉塞感から時代をみる
もちろん、殺傷事件にいたるようなストーカーなどは絶対に許されない犯罪だし、クレーマーだって、不当なものは取り締まるべきです。しかし、そういう正論とは別の次元で、これらの事象は、僕たち1人ひとりの自己像、あるいは社会のある側面を反映してもいます。つまり、僕らが感じている漠然とした閉塞感に対して、何らかの答えを欲する。そうした運動のひとつの極端な形が、こうした行為なのではないか、ということはいえると思うんです。
ですから、閉塞感に対する、すごく生産的な方向の取り組みだってある。先に述べた漫画作品はもちろんですが、それ以上に僕がものすごく大きな変革だと思うのが、身体論の勃興です。
それまでの観念的な議論に対して、身体に目を向けること、もっと身体について考えることが大切なんじゃないか、というコンセンサスが生まれつつある。この流れに先鞭をつけたのはもちろん養老先生だと思いますし、武術研究者の甲野善紀先生、そして内田樹先生のブレイクの背景にも、身体論があると思います。
特に、養老先生の議論は独特のポジションです。いまの脳ブームよりもずっと前から脳を主題とした話をされながら、その内容をひもといていくと、必ず身体の話をされている。
養老先生、甲野善紀先生、内田樹先生といった、身体をベースに置いた議論を行う人たちが人気を博すようになった背景に、90年代から社会に蔓延しはじめた閉塞感があるんじゃないか、というのが僕の考えです。この因果関係はある種、僕の直感で認識している面が大きいので説明が難しいのですが、すごくそういう実感があるんですね。
身体論が開く可能性
なぜ、閉塞感を背景として、身体論がこれほどまでに勃興してきたのか。その因果関係を説明するのは難しいのですが、とりあえず、以下のようなことは言えると思います。
閉塞感というのは、基本的にとらえどころがないものですよね。自分の内側に感じることもあれば、時代の空気として感じることもある。そういう、ゴーストのような存在を前にして、僕らは自分たちの身体、ひいては自分たちの存在について、あらためて強烈に感じるようになったんじゃないかということです。
そしてここでいう身体というのは、医療者にとって慣れ親しんだ解剖的身体ではなく、感覚経験そのもののことです。逆にいえば、「身体」という言葉が、それまでの素朴な実体としての捉え方から、哲学用語として、思想用語として位置づけて語る語り口が、これまでになく広まってきた、といえるでしょう。
閉塞感の蔓延するこの世界でどう生きていったらいいのか、どう自分を保てばいいのか。どう職場のなかで自分を位置づければいいのか。そういう問いを、多くの人が自分の問題として抱えるなかで、それを身体の問題と結びつけて問う必要がある、ということを直感している人が増えていると思うんです。
身体とは何か、心とは何か、精神とは何か。そういう人間存在の原理的な部分を一度解体し、再構築しないとやっていけない、という感覚が共有された。身体論の勃興の背景には、そういう事情があると思うんです。
出入り自由の身体へ
それぞれの論者がどのように身体論を論じているかについては、ここではとてもご紹介できませんが、1点、共通しているのは、それまでの単なる物質的な身体観に対する批判です。身体というのは単に物として存在しているものではなくて、周囲との関係性だったり、内的な感覚世界として存在している。そういう身体観が、少なくとも議論の俎上にのるようになりました。
そして、僕の考えでは、これは日本人がもともともっていた身体観の再評価でもあるんです。
日本画をみても、漢字仮名文化を考えてみても、日本の文化というのは、境界線が動きやすいんです。明治維新の頃に境界線を明確にするまでは、国境という感覚が希薄であったように、身体においても境界があいまいで、身体から出たり入ったりする心のありようというものを受け入れてきた文化です。
そう考えてみると、身体論の勃興というのは、自分の身体をはじめとしたあらゆる領域を明確にし、境界線を引くことに取り組んできた100年に対して、僕らの身体が反乱をはじめたと見ることはできないでしょうか。僕らが感じている閉塞感とは、僕らがより自由な、出入り自由な身体と精神のあり方に向おうとするなかで生じているのではないか。僕の空想ではあるんですが、そんな気がしています。
【お知らせ】
2011年6月29日 名越康文連続講義、スタートします。
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