かんかん! -看護師のためのwebマガジン by 医学書院-
2013.4.09 update.
いとう かよこ:千葉県千葉市在住。法律事務所勤務後、国立病院機構の介護職員として勤務。2008年りべるたす株式会社設立、代表取締役(在宅障害福祉サービス事業所管理者)。介護福祉士・社会福祉士・相談支援専門員。千葉大学大学院人文社会科学研究科博士前期課程修了,立命館大学大学院先端総合学術研究科博士後期課程在籍中。第47回NHK障害福祉賞第2部門(障害のある人とともに歩んでいる人)優秀賞受賞。 「りべるたす」ホームページはこちらから
おおやま りょうこ:千葉県千葉市在住。本連載のイラストレーター。 2009年特定非営利活動法人リターンホーム設立、代表理事(長期療養者へのエンパワメントを行うための研修事業等)。SMA(脊髄性筋萎縮症)療養のため、1978年大和田小学校から下志津病院隣接の四街道養護学校転入。1983年同小学部卒。86年同中学部卒。89年同高等部卒。 「リターンホーム」ホームページはこちらから
私が介護職になろうとおもったのは、患者さんを肉体的な介護だけをしたいというわけではなくて、もっとその人のこころ、人生に寄り添うことをしたかったのです。けれども病院では、そうした思いとはかけ離れた介護でした。
介護とは「自立の支援」だけれども、そのようには思えなかったし。
福祉とは「みんなの幸せ」というけれど、この人たちは幸せなのだろうかと考えるとよくわからないし、そこまで踏み込める時間の余裕もなかったのです。
病棟勤務の当時、「よきスタッフ」となるためにできることは、一人ひとりの患者さんをよく理解することだと思っていました。本や資料などの活字を読むことが好きな私は、福祉や障害学などの領域の本を読み漁り、更に、患者さんのカルテを片っ端から読みました。わからない単語やこの制度の仕組み……そういったことを独学で勉強していきました。
筋ジストロフィー症という病気の過酷さもわかりました。この病気は子どものころに発症して、徐々に全身の筋肉が麻痺し、最後は呼吸するための筋肉や心臓を動かす筋肉も麻痺して最終的には死に至る難病です。
過酷な病気であることには違いないのですが、医師がその目線で書いた本と当事者が書いた本では、だいぶそのとらえ方が違うようにも感じました。
「多子多産」で「間引き」がふつうだった
日本では筋ジスの専門のベッドのある施設は全国で28か所(日本筋ジストロフィー協会ホームページより、専門のベッドのある施設として紹介)あります。
独立行政法人国立病院機構(旧国立療養所)の病院が27か所、数年前に三才山病院が民間では1か所つくられています。現在、障害者自立支援法の療養介護指定を受けているので、いわゆる「筋ジス病棟」と言う括りは2006年に終わり、今は「筋ジス専門のベッドのある施設」という位置づけとなっています。
筋ジス病棟の歴史は1960年から始まります。それまでとその頃の身体障害者の福祉の状況について、重症心身障害児の問題が浮上してきたのは戦後10数年を過ぎてからであったといいます。それまで、日本の農業生産性が低く天災ですぐに飢餓状態になり、また産児調整技術もない時代においては“多子多産”が普通で、出生時に障害児とわかれば“間引き”されるのも普通であったとのことでした。その状況は戦後もしばらく続いていたそうです。
重症心身障害児の問題が出てきたのは、第二次大戦後の人権意識の向上や医療技術の進歩、少子化と家族などの複合要因によるものでした。
明治以降、我が国の身体障害者に対する行政は生活困窮者に対する行政の中で取り 扱われ、一般身体障害者を援護する制度はなかった。ただ、傷痍軍人に対する施策は、国の特別の意図の下に積極的に行われてきた。この手厚い援護行政も1945年8月15日以降、連合国軍の非軍人化、民主化政策の中で解体された。1948年以後国際情勢の変化につれてGHQの対応も転換、傷痍軍人に対する制約も緩和された。この夏ヘレン・ケラー女史が来日、…(中略)…厚生省社会局に身体障害者更生事業を専管する更生課が新設された。そして、翌年49年12月に「身体障害者福祉法」が成立した。
川上武『戦後日本病人史』(農山漁村文化協会,2002年)471頁
この頃、児童福祉についても戦後の孤児・浮浪児の問題が多くあり、GHQも児童は将来の民主主義を担うものとして、児童保護推進を積極的に支援し、1947年12月に「児童福祉法」が誕生します。
こうして、戦後いち早くできた福祉の法は「身体障害者福祉法」と「児童福祉法」でした。しかし内容的には一般の障害者対象ではなく、傷痍軍人や戦災孤児が対象であったわけです。
さらに1960年代から筋ジス児の収容政策が始まっていくのですが、水上勉氏が公開書簡「拝啓池田総理大臣殿」を『中央公論』誌上に載せたのが、1963年6月号でした。多大な反響を呼んだこの論文が、国立療養所の専門病床をつくる契機となってゆきます。
水上勉氏は身体障害(二分脊椎症)のあるお子さんをもった作家です。彼が雑誌社との付き合いから、障害児を産み育てることになった体験談を雑誌に寄稿したところ、300通もの障害児をもつご家族から手紙が来たというのです。そこには、障害児が学校に行くことも難しいとか国からの補助がないこと、ほとんど家に引きこもっているといった当時の障害児をとりまく悲惨な状況とその親たちの苦しみを知ったのです。そこで彼は日本の障害児教育や療養施設の状況などを調べることになりました。
身体障害の子として生まれた人間は、日本のある地方では
教育からしめだしを喰っているような思いがして、慄然としました
水上勉『生きる日々』(ぶどう社、1980年)104頁
当時は軽症児童の学園や養育園も満員で、なかなか入れなかったといいます。
重症児はなおさらで、重症心身障害児施設は、民間の篤志家によってつくられていた島田療育園(1961年、東京都)とびわこ学園(1963年、滋賀県)の2つしかありませんでした。こうした背景から、水上勉が時の内閣総理大臣に障害児の収容施設をつくるよう直訴することになったのでした。
筋ジスだけでなく、重度障害児たちはよほど恵まれた環境がない限り、就学もままなりませんでした。1979年4月1日に養護学校が義務化になる前は、本人や保護者の意思に関わらず、多くの障害児の保護者たちは「就学猶予」や「就学免除」(学校教育法第十八条「前条第一項又は第二項の規定によつて、保護者が就学させなければならない子(以下それぞれ「学齢児童」又は「学齢生徒」)で、病弱、発育不完全その他やむを得ない事由のため、就学困難と認められる者の保護者に対しては、市町村の教育委員会は、文部科学大臣の定めるところにより、同条第一項又は第二項の義務を猶予又は免除することができる」)の適用がなされていました。このため、普通校で教育を受けさせることを希望しても、多くの場合に入学が認められていませんでした。
この時代、本人が就学するために、そして、家族が重たい介護を背負い続けないためには、施設を設立することは避けて通れないことだったのでした。
筋ジストロフィー病棟の歴史
1960年春に国立療養所西多賀病院に筋ジス患者が初めて「収容」(当時はこのような言葉で施設に入っていた)されたことから、その病棟の歴史は始まります。
その当時の経緯などを近藤文雄医師(元・国立療養所西多賀病院長)が語っています。
仙台にある肢体不自由児施設、整肢拓桃園の園長高橋孝文先生の紹介で、止むなく引き受けたと言うのが実情であった。…昭和35年と言えば、我が国が漸く戦争の荒廃から立ち上がり、どうにか戦前の生産水準を超えようとした頃であった。民心にも多少のゆとりが見え始めた年代だった。国立病院、療養所は軍や医療団の病院を引きついだもので、団体は大きいが、朽ちかけたバラックが建ち並ぶ殺風景な病院であった。
…高橋園長から電話があった。筋ジスで困っている一家があるから西多賀で引き受けてくれないか、と言うのである。私は筋ジスのことは何も知らなかったが、治療法もなく、全身の筋肉が痩せ衰えて死を待つだけの病気だということは知っていた。そこで、治療法もない患者を入院させても意味はない。それこそ、肢体不自由児施設に収容すべきではないか、と答えた。高橋園長は、もっともだが、肢体不自由児施設は収容力が不足していて、厚生省からは筋ジスよりも治療効果の期待できる他の疾患を優先収容するよう指示されている、と知らされた。私は困った。とにかく、酷い事情だから一度両親に会ってくれ、と言うので会うだけ会ってみましょうと言うことになった。ところが会ってみて驚いた。この夫婦には3人の男の子があり、その3人とも筋ジスだった。転勤で九州から仙台へきたものの、どこの病院も学校も受け入れてくれない。その上、当時の保険制度では3年以上同じ病気で保健医療は受けられないようになっていた。もし、私が断ったら一家心中でもしかねないような状況であった。私は考えた。治療法のない病気の子を入院させるのは、医療の面だけを考えるなら無意味である。しかし、国立の病院は国民の幸せを守る仕事の一翼を担っているのである。治療はできなくても入院させるだけで、この一家には大きな光明が与えられるのだ。その上、西多賀にはベッドスクールという、寝たきりのカリエスの子のために、病室へ先生が来て教えてくれる学校がある。入院すれば学校にも行けることになり、友達もできるから、今までの孤独の生活に比べればどれだけよいか分からない。偏狭な理屈にこだわって断るより、入院させるほうがはるかに国民のためになる。私は肚を決めた。
…私は彼らをできるだけ外に連れ出すよう奨励した。家にも極力帰る機会を設け、海や山へ、そして街頭へ出かけていった。飛行機にも一度は乗せてやりたいという願いは、いつも慰問にきてくれる麻田機長が、全日空の主脳を説き伏せて実現した。
近藤文雄:筋ジスと障害児の夜明け、あゆみ編集委員会編『国立療養所における重心・筋ジス病棟のあゆみ』(第一法規出版,1993年)8-12頁
これはまだ1964年に厚生省が筋ジス患者を国立の病院に「収容」する方針を決める前の話です。
制度に先駆けて、当時の院長をはじめ病院スタッフや、彼らを取り巻く人たちの驚くほどの努力が見られた話なのです。患者のために何とかしたいという思いと、国立病院としての役割を良く考えられての行動だと感じます。
国会で筋ジスについて議論されたのは1961年が始まりです。
坂本昭参議院議員(当時)の発言
「…進行性筋萎縮症という非常に変わった病気があります。…一種の身体障害児になるわけです。これが全国にかなりありますが、東京都については約五、六百名の数が明確になって、そしてこの母親たちが、進行性筋萎縮症の母親の会というものを作っているんです。…つまりなおるということが今日考えられていない病気です。…だからこの際、一ところに集めて、そして特殊な研究の対象とすると同時に国費をもって教育や、いろいろなことを見て、子供に対して希望を与える。お母さんたちに対しても希望を与える。そういういき方をぜひ作っていただきたい…」
(第38回国会 参議院 社会労働委員会33号 昭和36年06月02日)
坂本昭氏は医師であり、戦後に高知の国立療養所長に就任、転じて参議院議員(社会党)となり、安保闘争のあと地元に帰って高知市長をされた政治家です(初代国立高知療養所所長で「よく働き、よく遊べ」を病院のスローガンにされていたという)。結局、制度化されるのはそれから3年後です。おそらく西多賀の取り組みを知っての発言だったのでしょう。
このようにして、家族会の努力と国立療養所の所長たちの動きから、いよいよ療養所への「収容」が制度化されることになっていくのです。
だが、そこに、本当の当事者はいません。幼い子どもだった筋ジス児たちの思いをよそに、収容計画は進んでいきました。
以下、時系列をまとめます。
1964年3月16日 全国進行性筋萎縮症児親の会が時の厚生大臣小林武治及び医務局長尾崎嘉篤に陳情を行う
1964年5月 6日 厚生省「進行性筋萎縮症対策要綱」を発表
(1) 収容及び治療について、各担当施設は協力大学と連携を密にして収容患者の選定、治療方針の確立に遺憾なきようにするとともに学齢期にある者に対しては教育の機会を与えることとする
(2) 本病は病期、病勢によってはリハビリテーションの対象となるので当該患者には積極的にリハビリテーションサービスを行うこととする
(3) 研究は治療と同様に大学と協力して積極的に推進することとする
(4) 医療費は国立療養所入所費等取扱細則により保険診療費の100分の80とし、療育医療の適応については今後検討すること
(5) 親の会とは連絡を密にしてこれを育成すること
これにより、国立療養所での筋ジスの本格的な病棟整備が始まる
5月 国立西多賀療養所と国立療養所下志津病院に試験的に各20床を設ける(1979年27施設2500床が整備され、現在に至っている)
1965年 事務次官通知で「筋ジスの療育の給付」実現
1966年 中央児童福祉審議会の意見具申での提言
(1)進行性筋萎縮症の児童福祉法上での取り扱いを明確にすること
(2)進行性筋萎縮症児の病床を増設すること
(3)進行性筋萎縮症の発症予防及び治療のための方法を究明すること
1968年 児童福祉法の一部が改正し、重心病棟と同様に国立療養所は委託病床として位置づけられる。
1969年 成人患者にも措置費が出されるようになる
参考:政策医療課:国立療養所における重症心身障害、筋ジストロフィー対策について、あゆみ編集委員会編『療養所における重心・筋ジス病棟のあゆみ』(第一法規出版,1993),72-73頁
最終的には2500床を筋ジス患者のために用意したのですが、入院患者数は増えずに減っていったこともあり、設立当初は最も重たいデュシェンヌ型や介護量の多い福山型に限定して開放していたベッドも、対象を成人筋ジスやSMA(脊髄性筋萎縮症)などの神経疾患にも拡大していきました。
また、『難病対策要綱』にさきがけて、筋ジスには多額の研究費が編成されました。当時、希少な病気の患者のための難病対策をつくるということは世界的にも珍しいことだったようです。
「筋ジスの親の会」の河端二男氏は当時のことを次のように述べています。
三十九年春、この会が生まれてすでに足掛け四年、わづかひとにぎりの人びとの必死の願いが、共感を呼び、世論を揺さぶり、国を動かし、進行性筋萎縮症対策は児童福祉法一部改正を機に今や厚生行政重点施策のひとつであります。日本筋ジス協会は、全国八ブロック、五十支部に千五百名の会員をようし年間数百万の相談療育事業をする団体にまで成長しております。四十三年度厚生省予算概算要求額は筋萎縮症研究費、措置費、整備費あわせて約十億円近くに達しております。この協会が福祉団体として法人化される日もそう先のことではありません…
河端二男:会員に希望する 日本筋ジストロフィー協会会報第一号、14頁、日本筋ジストロフィー協会、1967.9.30
こうした家族会の運動から1964年5月に進行性筋萎縮症対策要綱を定めたところから、制度化していきます。
制度化に伴い色々なことが変わります。昔は小児科と一緒の病棟だったのが、筋ジス病棟だけに変わることになったのです。
筋ジスだけの病棟になったことは、
元気になって退院していく療養仲間がいない病棟になったことでもあるのです。
参考:山田富也『生きる戦いを放棄しなかった人びと』(明石書店,2005年)、87-88頁
*「おうちにかえろう 30年暮らした病院から地域に帰ったふたりの歩き方」は,
隔週で連載予定です*
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