【第3回】療養介護病棟での「生活」

【第3回】療養介護病棟での「生活」

2013.3.21 update.

伊藤佳世子(いとう かよこ/右)×大山良子(おおやまりょうこ/左)  イメージ

伊藤佳世子(いとう かよこ/右)×大山良子(おおやまりょうこ/左)

いとう かよこ:千葉県千葉市在住。法律事務所勤務後、国立病院機構の介護職員として勤務。2008年りべるたす株式会社設立、代表取締役(在宅障害福祉サービス事業所管理者)。介護福祉士・社会福祉士・相談支援専門員。千葉大学大学院人文社会科学研究科博士前期課程修了,立命館大学大学院先端総合学術研究科博士後期課程在籍中。第47回NHK障害福祉賞第2部門(障害のある人とともに歩んでいる人)優秀賞受賞。 「りべるたす」ホームページはこちらから

おおやま りょうこ:千葉県千葉市在住。本連載のイラストレーター。 2009年特定非営利活動法人リターンホーム設立、代表理事(長期療養者へのエンパワメントを行うための研修事業等)。SMA(脊髄性筋萎縮症)療養のため、1978年大和田小学校から下志津病院隣接の四街道養護学校転入。1983年同小学部卒。86年同中学部卒。89年同高等部卒。 「リターンホーム」ホームページはこちらから

 

【第2回】こちらから

 

 

介護職「以前」の日々

 

 私(伊藤)は、新興住宅地と呼ばれた埋立地の海岸近くで生まれました。“団塊ジュニア”と呼ばれる世代です。両親と姉の4人暮らしでした。祖父が傷痍軍人で貧しい暮らしを余儀なくされ、小学生から納豆売りをして暮らしてきた父は、通信制高校、夜間の大学へ通いながら働きづめだったようです。そんな父の苦労の多さと反対に、私はまったく苦労なく大人になりました。母は愛情深い人で、専業主婦としていつも家にいて子どもの帰りを待っている人でした。

 大学卒業後、法律事務所に勤務した私は、26歳で結婚。出産を機に夫の地元に移住して、2人の子育てに専念する専業主婦として生きていました。ただ、下の子は小児喘息がひどく、入退院をくり返す病院通いの日々でした。息子の発作時はとても苦しそうで見ていてとても悲しかったです。やがて救急車を待つより先に、自分で自動車を運転できたほうが早いと思うようになり、免許を取っていつ起こるかわからない急変に備えたものでした。発作が起きれば、上の子を起こして、ぐったりとしている下の子をチャイルドシートに括り付けて、車に乗せて救急に行きました。医師が「ステロイドの点滴をする」というのだけど注射針がなかなか刺さらず、1時間近くかかるといったこともしばしばでした。また子どものよちよち歩きの頃には、夫が交通事故に遭って入院、会社を半年休職する大怪我を負いました。

 

 家族ケアにそうして長時間を費やしていた時期もありましたが、漁村の暮らしには楽しいことがたくさんありました。近所の漁師さんにお魚をもらったり、農家からは果物や野菜をよくいただきました。錘とオキアミを釣り糸につけて岩場で垂らせば簡単に魚が釣れました。朝と夕方に食べるものを釣り、余ったら干物にします。そして、夏は貝を採るのです。私の住んでいたところは土壤がよくて、庭にも野菜を植えると素晴らしい野菜ができました。トマト、ゴーヤ、ピーマン、ナスやネギほかにもいろいろなお野菜をつくりました。元気な日には小さな子どもたちと毎日朝から夕方まで海や山で遊んだ日々でした。

 誰一人知る人のいない町に嫁いだ私だったけれど、子どもを通じて優しい友達ができたのもありがたいことでした。

 そんな漁村の町で、2005(平成17)年に私はヘルパー2級の免許を取り、当時の障害者福祉支援費制度の中で、余裕がある時期にはヘルパーとしてアルバイトをしていました。知的障害のある人の移動支援や、若年性認知症のある方の支援など、その仕事は本当に楽しかったです。

 それまで、私にはこうして挙げた程度の介護経験や知識しかありませんでした。

 時に人生には想定外のことが起こります。あるとき、私にはそんな日常を全部変えなくてはならない日が来ました。

 

 2006(平成18)年3月に千葉の実家に戻った私は、4月からすぐ働くことができる仕事を探し、インターネットで見つけた「国立病院機構の障害者病棟」での介護職員募集に飛びつきました。そこで働けば、国家公務員になれる――。それはとても魅力的な条件で、収入も安定し、私1人でも子ども2人を育てていけるのではと希望が持てるものでした。

 その病院面接では、「高校卒業の卒業証明書が必要です。それ以上の学歴の証明書も職歴もいりません。今までの経歴や仕事の経験などはすべて捨てなさい」と言われました。そんな言葉になんとなく違和感を持ちつつも、病院というのはそういうところなのだと自分に言い聞かせて、ここでの仕事を全うしようと決意したものでした。

 これから私が生きて、子どもを育てていくには、この病院で働くしかない、他に手段はないと思っていて、とにかくよい仕事をしたい、その一心でした。

 

 

病棟介護職として勤務スタート

 無事入職し、新人研修最終日のこと。筋ジストロフィー(以下、筋ジス。全国27の国立病院機構に長期療養病棟あり。参考:日本筋ジストロフィー協会病棟に見学に行くことになりました。研修期間は5日程で、病院の歴史や組織のこと、衛生の理解などの説明や介護実習などがありましたが、1日も早く現場で働きたかった私には、ようやく実際の病棟に行けることに心躍る気持ちでした。

 明日から私が勤めるその病棟には長期療養者が40人弱おり、その半数以上が人工呼吸器を付けているという説明を聞きました。

 

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 そのときはけだるい夕方で、4人部屋の病室のガラス越しに、病棟看護師さんの説明を受けながら、ちらりと患者さんたちの様子が見られた程度でした。

 30代かと思える方の隣には、そのお母さんらしき女性がかいがいしく身の回りのことをしながら、自宅から持ってきたと思われるクッションを括り付けたパイプ椅子に座っておられました。皆さん腰痛ベルトなどをして腰に手を当てて歩いていたのが印象的でした。そのお母さんらしき方々はけっして若くなく、50~60代に見えました。

 そんないかにも病院らしい空間で暮らすその人たちを「見学」したのが、私と難病をもつ方との最初の出会いでした。

 

 初めて病棟に出勤したときは日勤で、8時半の朝の申し送りから1日がスタートしました。夜勤の主任看護師さんから、病棟での夜間の様子説明を受け、ベッド上で紙便器を使ってする排便の片づけと、患者さんにズボンを履かせるまでを行うケアを端の部屋から順番に行うのです。驚いたことに、この病院では患者さんみんなに座薬を入れて、同じ時間に排便をしていました。

 

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【大山良子】 まだ私が、自分でズボンや下着を下げたり上げたりできていたときは好きな時間にトイレに行くことができました。それが筋力の低下からできなくなって、はじめて「介護を受けて生活する」ことの窮屈さを味わった気がします。自分で用が足せない人はベッド上での排尿・排便になります。おしっこは尿器で。うんちは新聞紙を使って折り紙の要領で作った箱型の紙便器でします。

 現在では、各個を仕切るカーテンが病室に付きましたが、1992(平成4)年に筋ジス病棟が建て替えられるまで、それもない状態でお尻を出します。

 隣でうんちをしているのにすぐこちらでごはんを食べているという状況もありました。

 

 

 数日後、入浴介護の当番日が来ました。先に経験していた同期の新人スタッフに感想を聞いたら、「すごく怖かった」という話でした。「怖いって、何が?」と不思議になったのですが、非常に緊迫した雰囲気の中で約3時間の勤務が過ぎたというのです。自分の番になるのは恐怖でした。

 火曜日と金曜日の午後1時になると入浴介助がスタートします。まずお風呂の係決めがあります。洗い場係、服の脱着係と運搬係に分かれます。洗い場係は髪の毛だけ、または身体だけを何人も洗います。脱着係は着替えだけをします。広い浴室には仕切りはなく、機械浴が2台と着替え用のベッドが2台ありました。

 脱着係は、車いすやストレッチャーで連れてこられる筋ジス患者さんの服を脱がし、2台の機械浴側に連れていきます。そして、洗い場係が機械浴のストレッチャーに患者さんを移して、さらに頭(髪の毛)側と身体側に分かれて洗うのです。

 当時は日用品費にシャンプー代が入っていることもあり、自分で持参しない人は皆で同じシャンプーを使っていました。身体は共用のナイロンタオルでごしごし洗い、洗髪は2度洗いでした。髪の毛は週に2回しか洗えないので、若い筋ジスの方々の髪は油っぽくなっていて、まず1回目で油だけを落として、2回目にやっときれいに洗い流せるというような状態でした。

 

 そうして、頭と身体を洗い流すと機械浴に浸かります。患者さんたちの身体は浴槽にプカッと浮いて、胸のあたりから上半身は浴槽に沈むことができません。そして機械浴設置の時計で3分が経つと、また交代で出すのでした。こうして30数名いる患者さんを約3時間かけて流れ作業的に風呂に入れて、片づけるわけです。最後に浴槽を掃除して終わります。同じにおいのシャンプーが何となく香る病棟では、そのあと、16時40分から夕食がスタートします。食事介助が終われば、17時15分には勤務が終わります。

 

【大山良子】 午後1時から、入浴という“戦争”が始まります。お風呂用のストレッチャーに乗り、身体と頭と顔を洗い浴槽に入ります。入浴介助には、担当があります。

 1.部屋から風呂場、風呂場から部屋に私たちを連れて行く人

 2.洋服を脱がせたり着せたりする人

 3.頭を洗う人 4.体を洗う人

 私たち患者は、3と4が誰なのかがとても気になりました。週2回しか機会がないお風呂なので、「洗うのが上手なスタッフが洗髪担当にいるか」が気になるのです。先に、お風呂から出てきた人に「今日の洗髪は誰?」と聞いて、上手なスタッフの持ち場に行けるよう願います。お風呂行きのストレッチャーは4台あるので、順番でどこに行けるかそわそわして待っていました。残念なところに当たると、「あー、今日は良く洗ってもらえなかった」とため息です。

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 そして、お風呂は時間との戦いでした。清潔に洗えたかとか血行は良くなったとか、安心

安全にと考えられる暇もないほどです。お風呂場に向かう患者さんを乗せた運搬用ストレッチャーが、ガタガタと音を立てて進んでいくとき、廊下の曲がり角でもスピードを全開にして進んでいくので、その遠心力でストレッチャーが振り回されて壁にぶつかることも。患者さんを持ち上げるリフトが横倒しになったことも。時間を急ぐあまり、周りを見たり、患者さんを見るという行為が忘れられてしまっているのです。

 職員どうしで入浴が終わる時間を競い合って、「今日のお風呂はこの間より30分も早く終わった」と嬉しそうに言い合う人もいました。競うところがずれていておかしいんじゃないかと思っていました。

 

 

 病院での仕事は、こうして時間に追われながら多くの業務を覚えてこなしていかなくてはならないので、そのことにしばらくは夢中になります。はじめは、同じく新規配属の同僚たちと思わず顔を見合わせることばかりでしたが、それも数日すると、こんなものだと慣れていきました。ここでは、生活が「医療」ありきで組み立てられているのです。そんな病院の中の話を一般社会の友人たちにしてみると、皆が驚きました。自分の感覚がずれてゆくことが本当に怖いものに思いました。

 それでも私は、「1日の流れ」の表を片手に時間に追われながら走り回るのです。ともかく時間に追われるのです。1日の流れがわかった頃、はじめて女性患者さんがお昼に排尿をしていないことに気づくのです。そんなことを知るまでに数か月もかかっていました。

 分業化されたルーティンワークの介護では、いま自分がやる介護で精一杯で、患者さん一人ひとりがどんな生活をしているすらもわからないものでした。そうして、常に時間との闘いの中で、相手を心ある人間と思ってはできないと思うようになっていき、それが日常化していくようになります。病棟というところは医師1人の権限ですべてが決められ、行われてしまいます。なんとなくの疑問を感じながら、きっとここで必要な医療が行われているのだろうと、信じたい思いでいっぱいでした。

 国民皆保険でおこなう医療とは、保険診療上必要な治療を行うものといわれるのですから、不必要な治療は何もないはずです。そしてその医療は時代の流れとともにその在り方は変わってくるものだと思います。少ない夜勤人数で病棟を維持するために手のかかる患者さんに睡眠薬を投与するというようなことに対しても、それこそが必要な医療に違いないのだと考えるしか、整合性が保てないように思ったのです。それでも、「患者さんは本当にこれでいいのか?」と違和感は募っていきました。

 

「生活」を「医療」で組み立てる違和感

 病棟では、患者さんが朝のヨーグルトを食べる介助をしてから夜勤が明けて帰宅、次に病院に行くとその人がいない。聞けば私が帰ってから間もなく急変し亡くなったという――。そんなことが日常でした。

 2006(平成18)年から障害者自立支援法がスタートし、国立病院の筋ジス病棟は「療養介護病棟(障害病棟)」となりました。その際に国家公務員としてできた療養介護(助)員という職は病院の中の福祉職ですから、生活支援をうまく行い、病棟の患者さんのご意向を尊重し、生活の質を上げることが目標だと思いました。少しでも患者さんと触れ合う時間や楽しめることをつくるために、効率の良い仕事ができるようにマニュアルを作ったりしていました。

 でも、効率の良い仕事なんて、介護にはめったにありません。

 患者さん一人ひとりのことをわかろうと思い、ナースステーションにあるカルテを読んでいると、いろいろ不思議なことがありました。例えば、カルテの表紙には緊急時の対応として、「気管切開は行わない。心肺蘇生なし」などと書いてあります。「気管切開」という言葉をまだ知らなかったので、調べてみると、呼吸をするための筋肉の力が弱くなってきて痰が出せなくなったりすると、気管に穴をあけて痰をそこから吸引できるようにする手術のことでした。

 

最初は漫然と読んでいたカルテでしたが、だんだん患者さんと親しくなると、「なぜ気管切開しないのか?」と聞きたくなってきました。よく考えると、例えば夜勤時にその患者さんが死ぬか気管切開かどちらかを選ばなければとなったとき、その刹那には迷うかもしれない。「やっぱり助けて」と言われたら、私はどうしたらよいのかと思ったのです。

 そのカルテ自体も随分と古いものという感じがしたので、昔と今とでは本人の意向が違うのではないかなどと疑ってしまい、患者さんと話してみました。すると驚くことに、そんな取り決めが、あること自体を知らないといわれました。

 また、「気管切開は寝たきりになるだけだから先生も薦めないと言うし、自分もいいやと思う」と言う患者さんもいました。

 

 

【大山良子】 私は、医師から病気の告知を受けたことがありません。

 どんな病気でどんな治療をするのか、知らなかったのです。自分の病気のことを知らずに大きくなりました。筋ジス病棟に入院しているので、自分も「筋ジストロフィー」っていう名前の病気らしい。それがどんどん進行して死んじゃうんだな、ぐらいの知識しかありませんでした。

 実際に一緒に入院している仲間が、次々と亡くなっていきます。若くして皆亡くなっていきます。それを子どもの時から見てきているので、自分も若くして天に召されると思っていました。

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 病気の名前(脊髄性筋萎縮症)を正確に知ったのは退院する直前です。

 医師が教えてくれたのではありません。

 その時に、カルテには「緊急処置について気管切開はしない」と書いてあることも知りました。そんなことは、一度も聞かれたことがありません。私が知らないところで、自分の命のことを決められてしまっていました。インフォームド・コンセントという言葉が知られた世の中なのに、自分の事を決められないのはとても恐ろしいことです。

 

 

「それでもここが私の家だから」

 

 そうして看護師さんから仕事は教わったのですが、慣れないうちはとにかく怒られるので怖かったです。うまくできなかったり手が遅いと怒鳴ったりされるので、早くできるようにならなくてはと必死でした。それまで私が働いてきた職場が事務系だったこともあり、怒鳴られるような経験がほとんどなかったので、そのスパルタぶりに社会人としてかなり違和感を覚えました。しかし、できないことには仕方ないので、とにかく急いでできるようにしようと思いました。

 手早くさっさとやれるようになると、スタッフとして褒められます。だから、「手早く行動する介護職」が良いものだと、ずっと思っていました。

 

 だいぶ慣れた「介護」ができるようになったあるとき、患者さんと話していたら、「自分のからだは骨も弱いので、手早く手荒に介護する人は怖い」と言われたことがありました。そのとき初めて、恥ずかしながら、私は患者側の気持ちをこれっぽっちも考えたことがなく、病院側の都合で決められた時間の流れを乱さないように、できるだけ早く終わるようにすることだけを考えていることに気づきました。

 

【大山良子】 介護する側と介護される側。お世話になるので、介護される側が弱くなります。

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 介護する側は、『やってあげているのよ』と強くなります。そして、万年の人手不足がより一層スタッフの強さを大きくします。手足を動かすにも、ポンっと投げるようにするスタッフもいました。トイレを頼むと、露骨に嫌な顔をするスタッフもいました。呼ばれていても聞こえないふりをして逃げて行くスタッフもいました。

 なんで、こんな扱いを受けなきゃいけないのか。

 私は、惨めさを感じていました。でも、私はここで生きていかなくちゃいけないのだ。嫌だとか考えては暮らしていけない。

 そっか! 考えなきゃいいんだ。物事を深く考えちゃだめなんだ。

 

 

 

 患者さんたちの生活のことが色々わかればわかるほど、私には「気管切開をしない」という選択があるのもよく理解できました。こんな生活で、天井だけ見ているなら、生きている意味がないだろうと思いました。こんな生活なら死んだほうがいいってことなのだということが理解できました。

 あるとき、ある患者さんに、「なんでこんな病院にいるの?」と、聞いたことがありました。そのとき、「家に帰りたいけど…」という感じで言葉を濁していました。

 私のように、自由意思で住居を選ぶことができた人間には、この言葉を濁すことの意味はさっぱりわかりませんでした。

 もしかしたら、障害のある人は私たちと感覚が違うのかもしれないとも思いました。別の病院の患者さんと話したとき、「それでもここが私の家だから」と言われました。

 私には返す言葉がありませんでした。

 

つづく

*「おうちにかえろう 30年暮らした病院から地域に帰ったふたりの歩き方」は,

  隔週で連載予定です*

 

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患者になってみえる看護 難病が教えてくれたこと イメージ

患者になってみえる看護 難病が教えてくれたこと

臨床看護9年、看護行政9年、さらに議員秘書として政治立法5年の経験をもつナースが重症筋無力症という難病になった。6カ月の入院と2年に及ぶ自宅療養の経験から学んだことを書き綴った悩みの記録は、自らへの反省か、看護への新たなる模索か。病者の立場にたってはじめて理解できた心理をベースに、患者の視点から現在の看護のあり方に鋭い考察を加える話題の書。看護婦、医師はもちろん医療にかかわるすべての人々の必読書。

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