【第9回】いのちの責任は誰がとる?

【第9回】いのちの責任は誰がとる?

2013.7.09 update.

伊藤佳世子(いとう かよこ/右)×大山良子(おおやまりょうこ/左)  イメージ

伊藤佳世子(いとう かよこ/右)×大山良子(おおやまりょうこ/左)

いとう かよこ:千葉県千葉市在住。法律事務所勤務後、国立病院機構の介護職員として勤務。2008年りべるたす株式会社設立、代表取締役(在宅障害福祉サービス事業所管理者)。介護福祉士・社会福祉士・相談支援専門員。千葉大学大学院人文社会科学研究科博士前期課程修了,立命館大学大学院先端総合学術研究科博士後期課程在籍中。第47回NHK障害福祉賞第2部門(障害のある人とともに歩んでいる人)優秀賞受賞。 「りべるたす」ホームページはこちらから

おおやま りょうこ:千葉県千葉市在住。本連載のイラストレーター。 2009年特定非営利活動法人リターンホーム設立、代表理事(長期療養者へのエンパワメントを行うための研修事業等)。SMA(脊髄性筋萎縮症)療養のため、1978年大和田小学校から下志津病院隣接の四街道養護学校転入。1983年同小学部卒。86年同中学部卒。89年同高等部卒。 「リターンホーム」ホームページはこちらから

 

【第8回】こちらから

 

  「2008年4月1日に、病院を出る」という私たち(伊藤・大山)のプロジェクトの最初の活動は、2007年11月7日に行なった淑徳大学での講演会でした。ボランティア探しのためです。地元の記者さんによって新聞記事にも取り上げていただきました。

 「自由な暮らし支えて―下志津病院の大山さん,越川さん」(毎日新聞千葉版 2007年11月19日)

 ここでの聴講者との出会いから、引っ越しボランティアとその後、事務所のスタッフになってくださる方を見つけることができました。

 

 本連載で既に紹介した内容と重複しますが、当時の私たちの状況・葛藤がよくわかるので、そのまま掲載します。

 

大山良子さん講演録(淑徳大学,2007年11月)

 

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 これから病院での生活と自立生活についてお話させていただくわけですが、めちゃめちゃ病院でお世話になっている患者が、こうやって自分の思いや意見を生で語るのは珍しいことだと思います。それだけ貴重な体験だし、障害のど真ん中で生きている『生の教科書』の着色料を一切使用していない言葉を聞いて少しでも何かを感じていただけたら嬉しいです。

 私は長い間、病院と言う狭い空間で暮らしてきました。私は8歳から親元を離れ同じような病気と闘う仲間と生活を共にしてきました。

 

 ‟病院の生活はどんなの?”と思いますよね?

 下志津病院には、3つの筋肉の病気専門の病棟があります。私達がいる病棟には、9歳から50代・30人前後の入所者が生活しています。

 毎日毎日、朝から晩までTime Scheduleが決まっていて、平日や休日も関係なく規則正しく進んでいきます。(…)朝起きてご飯食べてトイレして車椅子に乗れたと思ったら昼食でリハビリに行ったら車椅子から降りる時間で夕食になり寝る時間になる・・・多少の違いはありますが、皆この流れで一日を過ごしています。

 この流れ作業の波に乗れない人は、かなりNGで嫌われてしまいます。「嫌われるなんてちょっと大袈裟じゃない?」と思うかもしれませんが、本当ですよ!!

 トイレの時間を例にすると、私は、大体1日5回しています。朝10時にしたら午後の15時30分までは、排尿はしないのが普通です。だけども涼しくなったりするとお昼頃にたまにしたくなります。

 お昼の時間帯と言うのはスタッフも昼食タイムになり人数がいなくナースコールの対応で一杯一杯なんですね。そんな状況の中で、いつもしないトイレをお願いする事は日常の流れに反するのです。

 昔に比べらたら、そう言う雰囲気は少なくなりましたが、やはり決められた時間外のトイレ介助は『えっ』と言う顔をされます。

 女子の排尿介助は時間がかかるので大変なんですよ。敬遠する気持ちもわからなくないし、自分自身も頼むのが面倒だし、『えっ』と言う顔をされるのが嫌なので、私はあまりトイレをしません。なるべくおしっこはしたくならないように水分コントロールをしています。時々自分の膀胱にエールを送ることもあります。

 日常の流れに背かないように、『えっ?』と言う顔をされないように、目立たないように過ごしています。

 

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 一日は忙しなく時間に追われて過ぎていきます。やりたいときにやりたいことができない状態です。みんなそれぞれの「自由時間」に色んなことをやりたいんです。本や新聞を読みたかったり、散歩したかったり売店に行きたかったり絵を描いたりゲームをやったり…十人十色にやりたいこともさまざまにあります。

 でも、本や新聞は開いたりページをめくったりしてもらわなきゃならないし、絵を描くのには、紙やペン、色鉛筆を準備してもらわなきゃいけません。ぶっちゃけちゃうと、ひとりひとりの要望を聞いてもらえる余裕がなく満たされることはありません。趣味的な要望の他にも入浴も週2回じゃなくもっと入りたいとか、寝る時にパジャマに着替えさせて欲しいとか思う事は色々あります。けれど病院の体制的に叶えられない。

 そして要望は、ひとつ間違えればただの我がままと受け止められてしまうことになります。

 して欲しいことと我がまま儘の境界線をわかるのはとても難しいし、スタッフの言うことを聞いたほうが得というか、楽なので私たちは何も言いません。

 まあ…要望しても無理だしこれ以上生活が悪くならなければ何も望まないと思うようになります。

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 あと、病院の生活は待ち時間とも付き合わなくてはなりません。起床の介助、朝の整髪の介助、トイレの介助、お風呂の介助など何事も順番に介護は始まるので自分の番が来るまで静かに待ちます。一日の待ち時間を合計すると映画が2本観られるかもしれません。

 

 

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 「QOLの尊重」なんて誰のための言葉なんでしょう?と思います。

 毎日がこんな感じなので、気分転換に買い物をしたり美味しい物を食べに行ったり映画を観に行ったりしたいのですが外に連れ出してくれる人がいません。病院は、外出の支援はしてくれませので、自分で付き添いのボランティアを探して外出します。最近は、そのボランティアさんを見つけるのも大変で思うように外出が出来ずストレスが溜まります。

 

  病院の生活を聞いていたら暗くなっちゃいましたね。
 でも私はこんな生活を何の疑問も持たずに30年近く続づけてきたんですよ。凄いですよね。

 ■やらなければならないこと・困難なこと■

 私のような全身性の障害者が自立生活を始めるのには、やらなくてはならないことがたくさんあり、高いハードルを何個も何個も乗り越えなきゃ実現できません。

 自分の意志を強く持ち、親(保護者)を説得する

 私の場合は、同じ病気の兄が自立生活をしていたので理解がありましたが、大体のご家族は、病院にいて医療の側にいてもらう方が安心なので自立には難色を示します。理解してもらえるように何度も説得します。

次は、住む地域を決め、アパートを探し、ヘルパーさんの確保をして24時間の介護をしてもらえるよう行政に交渉、訪問介護やかかりつけの病院探しなどが挙げられますが…。

 実際のところ、何をどのようにやらないといけないのか分からない状態です。

 やらなければならないことが、山ほどあるというのは何となくわかるのですが、具体的にわからない。どの地域に住んだらいいのか。不動産屋さんにアパートを借りるのにはどうしたらいいのか。

 行政との交渉も、今までそうした大人(社会人)と事務的な話をしたことがないので、会話ができるのか不安です。やらなければならないことが、すべて高いハードルとなります。

 不動産屋にも行かなきゃいけないし、市役所にも行かないといけないし、外出もままならない・・・自力では何一つできない身障者が、一人で何もかもやらなければならないというのはかなりの重労働です。困難さに負けてしまうのではないか?とさえ思ってしまうほどに、自立生活を始めるというのはかなり厳しい作業です。自立生活のマニュアルがあれば楽なのになあーと思っています。

 

 でも、この厳しさが年相応の経験なんじゃないのかなとも思います。今までが、砂糖のように甘く蜂蜜のようにトロリとした生活でしたからね。

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  自立を目指すと決めてから、“自分”というキャラが現れてきたように思います。

 “自分”は、かなり大胆な人なんじゃないかなと驚いています。今日も話す内容を決めたり、付き添いのボランティアさんを探したり大変だったけど、講演の経験ができるのが楽しくてしかたないです。自立生活では、甘いも苦味も酸っぱさも色々と経験しながら、障害者が住みやすい社会は誰もが暮らしやすいものなんだと広めていきたいです。

 できれば、私も皆さんのように福祉を学びに大学に行き、自立したいと思っている仲間の助けになれるようにしたいなあと思っています。

 障害を持っていても、夢を持って生きていきたいです。

 

 

病院の外で闘っていた,その頃~~りべるたす設立

 

 この講演の時期、私(伊藤)は、これから自分が立ち上げる介護事業所、その名も「りべるたす」の法人格を何にするのか考えていました。ラテン語で自由を表わすこの言葉には、‟みんなが自由に生きられるように“という願いを込めました。

 ただ、当時、私と大山ちゃんには、お互いの他に仲間がいなかったのです。

 「株式会社」と「特定非営利活動(NPO)法人」のどちらにするかを考えたとき、ふたりの理想を他の誰かと合議するような状況にありませんでしたので、そうした人員が必要になるNPO法人という選択肢をもつことはできませんでした。

 とはいえ、法人格でよい福祉をするかどうかを判断するものでもないし、問題は中身です。営利が第一の目的か否かということだけにとらわれず、会社という存在価値が社会貢献をするものであるなら、税金を払うことも一つの立派な社会貢献だと思い、私は株式会社を設立することに決めました。

 『かんたんな株式会社の作り方』というようなハウツー本を参考にして自分で定款をつくり、公証人役場や法務局に行ったりしてその体裁を整えていきました。

 いつか自分で起業しようなんて思っていたわけではないので、そんな資金はなかったのですが……こっそり学資保険を解約したり、その他子どもたちのためにずっと貯めてきたお金をかき集めてみると200万円程度になりました。それを、家族の誰にも相談することなく会社設立の準備資金に充当したのです。

 

 そうして、2008(平成20)年1月30日に、資本金たった50万円の会社の設立登記をしました。事業所を始めた頃のスタッフの人数は、自分と、バイトに入ってくれた方の3人ほどでした。

 3月1日、千葉市の担当さんから「今日から事業指定をします。おめでとうございます。法律に則った事業所の運営をお願いします」とお電話をいただいたのは、さてこれからヘルパーに入ろうという利用者さんのお宅の駐車場でした。

 事業所の指定が下りることは、大山ちゃんを地域で受け入れるための第一歩ですので、それはそれでとても嬉しかったのですが、喜びをかみしめるような暇はありませんでした。

 同時期、私は大山ちゃんのアパート探しに必死で、それが大変難航していたのです。

 最初の頃、不動産屋さんに電話して「電動車いすで、生活保護の人の一人暮らしのアパートって借りられますか?」と聞いていたら、「そういう方にお貸しできるアパートはありません」とにべもなく断られるか、どうみても割高に見えるようなボロいアパートしか紹介されませんでした。

 こういった正攻法ではとても借りられそうもないなと思い、それからは直接不動産屋さんに出向き、まるで私自身が借りるかのように相談し、いよいよ決まりそうになってから小出しに色々な条件を話していくようにしました。

 しかし、「電動車いすでは床が傷つけられる「出入り口の間口が狭い」「アパートで死なれたら部屋の価値が下がる」などと難色を示されて、実際にまともな物件を貸してもらうことはできませんでした。

 結局、不動産屋さんを何十か所も廻りましたけれども、とにかく障害者の一人暮らしに理解を得ることは難しかったです。

 

 既に一人暮らしされている脊髄損傷の男性に相談したところ、

 「この地域ではアパートを借りるのは本当に大変で、僕は自宅から出るのに2年かかりました」

 と言われ、私はとても焦りました。

まだ病院にいる大山ちゃんにこの話をいうこともはばかられ、「このまま約束が守れなかったらどうしよう…。でもここで立ち止まることはできない。そうだ、貸店舗なら床や出入り口のことはクリアできるかもしれない」と、発想を変えて貸店舗物件を探し始めました。

 最終的には、実際に貸店舗の一角を借りることができ、そこを改修して大山ちゃんの自宅にしたのです。

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制度,固定観念,そして孤独の壁に直面して

 

 大山ちゃんが病院を出て地域で暮らすためには、障害基礎年金だけでは到底足りませんから生活保護で補足していただくしかありませんし、入浴やトイレや電動車いすへの乗り降り、家事全般の生活の援助については自立支援法からの給付を受ける必要があります。それらは法律上、大山ちゃんが堂々と獲得できるものでした。

 私は退院日に向けて事前に準備をしておこうと思い、市の生活保護課と障害福祉課に相談したのですが、彼女が「まだ入院中である」との理由から、申請すらさせてはもらえませんでした。

 もし、大山ちゃんがいったんでも実家に帰る(退院する)ことができたなら、その住所地で支給決定でき、その後ひとり暮らしということもスムーズにできたでしょう。

 実際、大山ちゃんの退院後に地域移行できた方だと、そういった手段を使うことができました。しかし、彼女のように事情があって実家に帰ることができず、病院から直接地域移行しなければならない人は、退院しなければ支給決定が下りません。

 介護給付が市の標準支給量を超えるような場合は、どうしても退院と支給決定にタイムラグが出てしまうのです。ですから、退院時はどのくらいの介護給付が下りるかわからないまま、そして、生活保護の支給が決定するかわからないままです。

 実際に両方ともが判明したのは、退院して40日を過ぎた頃でした。

 このような現実ですから、単身の重度障害者には地域移行は絶対に無理なしくみのように思えました。ましてこの地域での前例もない中で、長期に渡って療養している障害者が、介護の見通しも立たないまま地域に出ようなどという冒険をできるはずもないと思いました。

 そういった理由から、退院までに在宅生活の介護の見通しも経済的な見通しもたたないので、病院側が退院に賛成をするはずもありませんでした。でも、どんなに反対されたとしても大山ちゃんのようなケースの場合は、見通しを先に立たせることはできないのですから、まずは、大山ちゃんが前例をつくる挑戦をするしかないのです。

  「順番がおかしい」とか「もっと良いやり方があるはず」だと言う人もいました。それならあれこれ批評しないで――実際に「正しい順番」や、「もっと良いやり方」を教えてほしいと思ったものです。もしも、どうしても介護給付が受けられないというのなら、私が大山ちゃんを家に引き取る覚悟でした。そうでもしなければ、病院を出るなんてことはできそうにありませんでした。

 

  同時に、在宅医と訪問看護も探さなくてはなりませんでした。本来は病院から紹介状をもらって在宅医を探すのが筋でしょうが、病院サイドは退院に反対しているため紹介状をもらいにくく、一軒一軒飛び込みで相談していました。これまでの経緯を相談支援事業者にも相談しましたが、病院と調整してくれる様子はありませんでした。

 5軒くらい断られたあげく、ようやく相談に乗ってくれた病院のMSWがいました。

 最初は「長期療養者の地域移行って素晴らしいですね」と前向きに話を聞いてくれていたのですが、いざ大山ちゃんのいる病院からの情報提供を受けた後、態度が豹変しました。

 

「病院から出たら生きられないような人を退院させるのですか?」

「いのちの責任は誰がとるつもりですか?」

 

 と、くだんの改修した貸店舗――大山ちゃんにやっとできた「おうち」にやってきて、詰め寄めよって言われるのです。

 「いのちの責任は、大山さんが自分自身でとるしかないと思います」という私の言葉に対し、事業所としていい加減だし、無責任な答えだと非難されました。そして、

 

「アパートでもないこんな場所で生活させるなんてひどい」

 

 とも言われました。

 私にもとてもたくさん言いたいこともあったのですが、大山ちゃん本人に会ってもいないこの人に、病院の情報だけを信じている人に、何を言ってもわかってもらえないように思いました。空しい闘いになるだけです。

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 ‟国立病院機構”から提供された格式ある情報と、起業ほやほやの私の話なら、病院のほうがよほど正しいと思われたのでしょう。

 今となってはその病院から提供された「情報」に実際に何が書いてあったのかはわかりませんが、大山ちゃんが病院以外の場でも生きていけることを、彼女自身と私は確信するようになっていましたから、その判断には信憑性が感じられませんでした。

 

 ただ、こんなやりとりに直面した事業所の従業員は動揺して、

 

「やっぱりやめたほうがいい、自分は関わりたくない。やっぱり難病ってそんなに甘くないのではないか」

 

 と言い始めました。私も折れそうになる心を奮い立たせ、ただ大山ちゃんとの約束を果たすために改めて説得してゆきました。

 こうして、他に誰ひとりとして「正しいことをしているから大丈夫よ」と支えてくれる人がいない中、私たち二人は退院を進めていかなくてはなりませんでした。

 

 それは孤独な戦いでした。今回の内容を書き出すのには大変つらい思い出ばかりで、苦しい気持ちでいっぱいです。

 大山ちゃんには私の周りがこんな状況であることについての話は、その頃できませんでした。なぜなら、彼女もまた、病院の「中」での闘いと、家族の説得という難事業に直面し続けていたからです。

 だからこそ、私は地域での生活調整だけは、同じように頑張ろうと思ったのでした。

 

つづく

*「おうちにかえろう 30年暮らした病院から地域に帰ったふたりの歩き方」は,

  隔週で連載予定です*

 

■医学書院にはこんな本もあります■

看護倫理  見ているものが違うから起こること イメージ

看護倫理  見ているものが違うから起こること

患者さんの声から、看護倫理を考える――なぜ、患者さんはわかってくれないの? それは、患者の体験している世界と、看護師の体験している世界が異なるから。看護師と患者の体験世界の違いがどこから生じ、論点がどこにあるかを考えることが、倫理的な看護の第一歩です。「あとでっていつ?」「決めつけないで」…患者さんの声の背景には、看護師の立ち位置から見えにくい、患者・家族のストーリーがあるはずです。

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