【第7回】難病当事者たちの叫び

【第7回】難病当事者たちの叫び

2013.5.29 update.

伊藤佳世子(いとう かよこ/右)×大山良子(おおやまりょうこ/左)  イメージ

伊藤佳世子(いとう かよこ/右)×大山良子(おおやまりょうこ/左)

いとう かよこ:千葉県千葉市在住。法律事務所勤務後、国立病院機構の介護職員として勤務。2008年りべるたす株式会社設立、代表取締役(在宅障害福祉サービス事業所管理者)。介護福祉士・社会福祉士・相談支援専門員。千葉大学大学院人文社会科学研究科博士前期課程修了,立命館大学大学院先端総合学術研究科博士後期課程在籍中。第47回NHK障害福祉賞第2部門(障害のある人とともに歩んでいる人)優秀賞受賞。 「りべるたす」ホームページはこちらから

おおやま りょうこ:千葉県千葉市在住。本連載のイラストレーター。 2009年特定非営利活動法人リターンホーム設立、代表理事(長期療養者へのエンパワメントを行うための研修事業等)。SMA(脊髄性筋萎縮症)療養のため、1978年大和田小学校から下志津病院隣接の四街道養護学校転入。1983年同小学部卒。86年同中学部卒。89年同高等部卒。 「リターンホーム」ホームページはこちらから

 

【第6回】こちらから

 

今回で、私(伊藤)が難病患者と病院をめぐる歴史を振り返ってきた寄り道も,ひと区切り

 世に知られることの少ない、無名の声をまとめて紹介します。

 筋ジス病棟にいた筋ジス当事者たちが、退院した後に病院での暮らしを振り返っている証言です。

 

「もういやだあー 死にたい! 殺せっ!」

 

 私は、ある国立療養所の筋ジス病棟にいたことがあります。そこでの経験は私の脳裏に焼きついて離れません。そこでは、介助に手がかかるという理由で、呼吸器をつけることと引き換えに一日中ベッドに寝かせたきりにされ無為に天井ばかりを見て過ごす毎日を強いられていました。車いすに呼吸器を積み込みさえすれば、自由に動くことができるにも関わらず、車いすに乗せてもらえるのは、週1回か2回で、しかも1回につき1時間だけで、これも介助をする看護師の都合で、さらに削られなくなるというありさまでした。

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 そんな状況のなかで、多くの呼吸器をつけた仲間は、いつしか本当に寝たきりになり、やせ衰えていき、最後には若くして亡くなっていきました。また、口に溜まった痰を取ることや体位交換さえも後回しにされるような劣悪な介助体制のなかで、呼吸器をつけたら「一番に手のかかるわがままな患者」として、やっかいもの扱いを受け、ときに介助を担当する看護師から、暴言や言葉での虐待に遭うこともしばしばでした。

 これは、今でも夢に見ることがあるのですが、毎晩、消灯後になると隣の部屋にいる呼吸器をつけた仲間の叫び声が聞こえてくるのです。「もういやだあー 死にたい!殺せっ! 殺してくれえー」と言う声が何度も何度も繰り返されるのです

冨田直史「『障害者でもいいっしょ!!』と言えなくさせているもの」, 『障害者でもいいいっしょセミナー資料』(2007年.8.5)14-15頁  (要綱・資料集リンク)

 

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 冨田直史(1975年生まれ)は、病院を出た後、在宅で親の介護を受けて暮らしていましたが、その親が亡くなった後のことを考えると、自分はまたあの病院に入るのではないかという不安に襲われ、人工呼吸器をつけたとしても病院に入らずにいられる方法を模索したいと強く思ったそうです。

そして、当時、人工呼吸器をつけて在宅生活を実現している人たちが多く暮らしていた札幌への転居を決断、人工呼吸器を装着しながらも一人で暮らす生活をはじめ、障害者自立生活センター・IL-ismを設立したのです。

 2007年、自ら企画したイベント「障害者でもいいっしょセミナー」開催直前、31歳で亡くなりました。

 

女性の尊厳のない環境で

 

 次に、女性患者の思いを紹介します。国立病院機構東埼玉病院に16 年入院していた見形信子氏の言です。

 

(16年暮らした病院)その中で私は患者と言う括りで扱われてきました。そこでは女性としての尊厳と言うものがありませんでした。

 現在一人暮らしで24 時間介護を受けていますが、同性介助が基本です。これは介助を受ける側もする側もお互いの尊厳を守り、対等に権利があるという考えだからです。しかし、病院はそうではなかった。男性患者も女性患者も平等ということで女性患者は男性の看護師さんにも当たりました。トイレや入浴まで男性看護師が介助するのです。もちろん断ることは出来ません。それに抗議をした女性の患者がいましたが、受け入れられませんでした。それは、あなたは面倒を見てもらって、お世話になっている存在なのにわがままを言うなとか、男性患者は女性看護師から介助を受けているからあなたも我慢しなさいとなります。私は女性らしく生きたいという思いと病院の患者に対しての処遇に異を唱える意味もあって病院を出ました。そのまま我慢していたら、私が私として生きていけないと思いました。

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 病院では月経があることは面倒くさいことと、位置づけられていました。思春期の頃から自分もそう思っていましたが、それは周りからの刷り込みだったのです。また病院の職員からは「子宮もいらない」と言われたこともあります。

 そこには重症心身障害児の病棟もありますが、そこの人たちはみんな摘出していると言われました。私は12 歳の時点で月経は自分にとって意味が無く使い道もないし、どうせなら職員が言うように摘出手術すべきと真剣に思っていました。だから月経の量を減らす薬があるのですが、自らそれを使っていました。結局は勧められたものの手術しなくてすみましたが、ひょっとしたら何の知識もない子供でしたし、わからないまま摘出にOKしていたかもしれない。それは私だけではなく、他の患者にも同様に話をしていたことです。もしかしたら、他の仲間は手術を受けたのかもしれないと思うとぞっとします。

 (中略)筋ジス患者の場合は、生まれる以前に家族や兄弟の血液検査を行い、デュシェンヌ型の子供が生まれる確率を調べるということができます。患者が亡くなっても遺伝子が残され、家族などの発症率が調べられてしまう。その人が亡くなったとしても情報は生きている。その情報を使う家族がいると知ったときに、自分の存在価値が否定されているような気がしました。

見形信子氏発言.障害者でもいいいっしょセミナー,2007年8 月5 日,札幌市視聴覚障害者センターにて (記録リンク)

 

 

 病院には、看護師の他に、児童指導員、最近では療養介護士という職種の男性スタッフがいます。

異性の患者さんのトイレ介助や入浴介助を当たり前のように行います。

まだまだ男性の看護師が珍しかった頃、私の病棟にも1人勤務することになりました。

私は、男の人にトイレ介助をしてもらうなんて嫌だなと思いました。その気持ちを師長さんに

伝えました。でも師長さんは、『看護師に男も女もない』とハッキリと言いました。

たしかに、男の患者さんは女性の看護師さんが介助している。

逆に考えれば、彼ら達も異性スタッフの介助は嫌に違いない。

でも、誰かにやってもらわなければ生活できないので我慢しているのだろうなと

思い、性別を気にしている自分がおかしい気になりました。

ここは病院で、男とか女とか考えてはいけないのだ。そう思う事にして気持ちの整理をしました。

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私は、この時に男でも女でもない患者になったのです。

中には、断固として女性患者さんのトイレ介助をしなかった男性看護師さんがいました。

その人は、たぶん、他のスタッフの人からは叩かれたんじゃないのかなーと思います。

   大山良子

 

 子宮摘出手術が筋ジス病棟で行われていた疑いについては、福嶋あき江氏も言及しています。

 

 病院では、職員に憎まれると、生活のさまざまな場面で支障をきたします。憎まれたくない、そう考えると相手を批判したり揶揄して、トラブルになるような言動をつつしむ習性が、知らず知らずのうちに身についてしまいます。この防衛の姿勢は徐々に強くなり、自分自身の意見を発表するのさえ躊躇するようになってしまうのです。

 意見を言わないと、不満が鬱積します。

福嶋あき江『二十歳 もっと生きたい』(草思社,1987年)60頁

 

 病院の中で自分の人生を自己決定し、自分らしく生きることはできない。

 よって、常に受身的に生きているのだというのです。

 

 過去に障害者施設にいた女性の中には、実際に子宮摘出手術をされた人や、生理がなくなる薬を飲まされていた人も確認されています。また、現在も男性に介護を受けている筋ジスの女性患者は多いのです。病院に男性看護師や介護員が増えていることがその原因です。私が勤めていた施設でも男性の助成への介護は当たり前になされていて、「医療に男女なんてない」と病院でいわれていました。

福嶋あき江『二十歳 もっと生きたい』(草思社,1987年)73-74頁

 

 25年間病院で療養生活を過ごし、そこから自立生活に至るときの話を梶山シゲル氏(イラストレーター)が書いています。

 

 「病院を出たい,地元に帰りたい」。そう訴えたときの両親の驚きと困惑は相当なものだった。(中略)退院を思い止めようとする意見を聞きながら悲しくなることもあったが,反面,仕方がないとも思った。なぜなら僕は今日まで,自分の生き方に関わる大切な自己決定を一度もしてこなかったのだ。(中略)

 病院を出た後の不安を挙げればそれこそきりがない。しかし,僕たちは将来のために今を生きているのではない。今日を生きるからこそ明日があるのだ。

梶山シゲル:今日を生きるからこそ明日がある─25年目にして施設生活から卒業してイラストを描く僕,『看護教育』46巻2号,124-125,2005.

   *梶山シゲル似顔絵画集『深裸万笑』通販サイトこちらから

 

 

患者をもっとも差別したのは「支援者」

 

 続いて、国立病院機構松江病院の筋ジス病棟医長であった河原仁志医師の言葉と、患者へのアンケート結果を引用します。

 

 社会から遠ざけて、情報なんて何も与えないし保障しようともしない。情報がないということは選択肢がないということで、自己決定なんてできっこない。自己決定がないところに自己責任はともなわない。つまり自立なんてできないということだ。(中略)

 病棟の患者たちに「あなた方を差別している者はだれか」というアンケートを取った。結果は彼らの置かれた立場をあざやかに描き出した。「一番目に親。二番目に医療従事者、医者とか看護師だな。三番目は教師だった」(中略)

 本来ならやりたいことを支援する側が彼らのエネルギーを奪ってしまう。あきらめるようにもっていくんだ。そういう親や医者や教師に囲まれて、あいつらは喪失とあきらめの連続だったんだ。アンケートの結果は当然といえば当然だ

清水哲男『決してあきらめないあきらめさせない』(道出版,2007年)96-98頁

 

 歴史をひもといた連続回を経て、私(伊藤)の結論、はこうです。

 1960年代当時からしばらく、確かに筋ジストロフィー患者の就学のためにも病院の役割は重要であったと思われます。

 しかし、「病院収容」の政策は、収容された側の子どもたちには決してよかったといえるものではなかったのです。

 

難病患者の廃用症候群

 

 最後に、私が直接聴いた患者さんの声を紹介します。大山良子さんが影響を受けた人たちです。

 独立行政法人国立病院機構兵庫中央病院にて16 年入院生活をおくり、2006年の退院後に地域で自立生活を営んだ田中正洋氏は、その病院生活について、

 

「医師の勧めを断ると、デメリットを並べたてられて不安になります、しかし、自分ではもっとできることがあると医師のことは鵜呑みにはしていませんでした。でも、病院では医師の指示通りの生活を過ごすしかありませんでした」

 

と語っています。

 進行性の筋ジストロフィーをもつ人たちは、身体の変調をすべてステレオタイプに「進行した」という言葉にまとめられがちです。田中氏もまた、病院では進行した筋ジストロフィーの末期の患者として、そんな医療を受けていました。

 彼はデュシェンヌ型筋ジストロフィーで、24 時間人工呼吸器装着者。私が出会った当時、33 歳で、病院からの自立生活を始めて1 年半でした。高校一年生のときから病棟生活を行い、重病人扱いを受けて、病棟生活の最後の数年間は、医療的理由から清拭だけで、入浴さえしていなかったそうなのです。

 ペースト食を食べ、ほとんど車いすにも乗らずに、白い天井と一日数時間のパソコンの世界で安静にすごしていたそうです。時々、友人が来てくれるものの、遊びに来るというより「お見舞い」という格好ですし、始終看護師が出入りする6 人部屋のベッドの上では、プライバシーもなく話しにくかったそうです。

 交通の便の悪い、町から離れた病院まで、せっかく来てもらっても悪いなと気を使ってしまうばかりなので、外の人との交流はほとんどしなかったそうです。  

 

 田中氏は、安静には廃用性症候群になる弊害があるというのです。筋ジストロフィーのような進行性の身体の機能低下のみられる病であっても、使わない機能は低下していくのだそうです。田中氏は医師の指示によるペースト食を食べながら、自分はもっと固形に近いものを食べられるように思っていたし、いろんなことを余計なおせっかいで、できなくされているような不安があったそうです。しかし、医師の勧めを断るとデメリットを並べ立てられるので不安になる。それが自分の身体のためなのか、病院の効率性からなのか、人員の増えない病院の状況からなのか、よく分からなくなっていたといいます。

 田中氏を自立へ駆り立てた感情は、

 

「変化のない一人前の人間として見られない現状から不信感を抱き、いつしかそれが一生続くことへの恐れをもつようになり、当たり前の生き方をしたいという気持ちかな」

 

 と、病院で迷うこと5年の月日を経て自立生活へ移行しました。

 田中氏は自立してから、日光に当たるようになり、健康的な顔色になりました。病院ではできなかった入浴も、週に2 回以上に。毎日着替えをすることやストレスがないことからなのか、皮膚の状態がよくなって車いすに長時間乗られるようになり、食事も普通食に近いものが食べられるようになりました。

 また、院内ではMRSA(黄色ブドウ球菌)感染があったり、同室の人が風邪を引くとうつっていたが、今ほとんど風邪を引かなくなったという。交友関係も増えて、趣味の友達や他の障害者とも交流ができた。現在は週5日仕事に出かけたそうです。

 田中氏の中に起こった発想の転換は、何かひとつの病院の中の常識を変えるものであるような気がします。

 その後、田中氏は2009年に亡くなりましたが、彼の先駆例のおかげで、その後兵庫中央病院からは長期療養者が退院していけるようになりました。

 その一人が、江口紀幸氏です。

 

 江口氏は、2005年秋、兵庫中央病院の筋ジス病棟へ措置入所となりました(2011年に退院)。

 ナースコールも30分来ないのは当たり前、もう一回鳴らし待つこと1時間、やっと来ていわれる言葉は「何度も鳴らさんといて!!」でした。ほかの患者も同じように手荒い介護を受けているが何も言わないままです。

 あまりにもひどい扱いが続く毎日だったので、患者会で看護師長に訴えたことがありました。ナースステーションに貼ってある「患者の人権を大切に」という紙の通りにもう少しお願いしたいということを話したら、次の日その紙がナースステーションからはがされていたそうです。それをみて、もう無理なのだと諦めはじめたそうです。

 

 病院の暮らしはタイムスケジュールが決まっていました。

 6時に起床、7時20分に朝食、8時30分に排便、12時昼食、16時半夕食。消灯は21時。車いすに乗るのは朝10時から13時、昼は15時から18時。排尿の時間10時、16時、19時。決められた時間以外の排尿は指導員にお願いしていました。時間で排便排尿ができるようにコントロールし、水分は500ミリリットルに抑えていました。お風呂は週に2回、パンツ以外の着替えは週に2回しかなく、介護がしやすいよう毎日Tシャツにジャージを着ていました。

 流れ作業の介護が毎日続いていく中、決まった時間以外の介護を頼んで嫌な顔をされないように気を付けていました。職員に嫌われたら介護を受ける身は不利になるだけだったからです。重度になれば制限がさらに増えていきます。気管切開になれば入浴は駄目、24時間鼻マスク人工呼吸器装着の人も入浴できない人もいました。

 病院でお風呂につかる時間は3分、山の上の病院でたまにお湯が出ないこともあり、ぬるま湯だったりするのです。寒いときはもっと入りたいと思うものですが、3分の入浴時間は守らなくてはなりませんでした。

 食事介助は職員が一人に対し、二人や三人の患者に対して行われていました。

 16時半の夕食の後は、夜におなかが空いても、病院に持ち込みは禁止、私物の差し入れもダメ、病院食のみ。嚥下にまったく問題のない人は、看護師が見ている前で食べるのがルールでした。

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 食事介助は、1時間で食べ終わらないと食事形態を変えられてしまうのです。病院にいた頃の最後はおかゆをつぶしたもの、おかずも豆腐とはんぺんの繰り返しでした。同じ味しかなく、食欲も失せて食べないこともありました。

 病院にいた(19歳の秋~24歳の春)期間に体重が14キロも減りましたが、退院後は普通食を食べられるようになり、10キロ太りました。

 とにかく重度になればなるほど手荒い介護になり、かけるべきところに手をかけてもらえず悪循環が起こっていくのが病院でした。

 前述のように、病院には患者自治会もあって看護師長と話し合いはしていました。ところが、意見を言えば、介護を受けることに支障を受けるので、納得しているわけでないのに言えないままでした。夕ご飯の時間をもう少し遅らせてほしいとか、入浴を週に3回にしてほしいとか、湯船につかる時間をもう少し伸ばしてほしいなどの要望をいっている人がいましたが、全部「個人の我がまま」としか受け取ってもらえませんでした。

 

 何も納得していることはなかったけれど、病院に反抗していにくくなるなら言わないほうがよいと思い、病院に要望も一切しなくなっていました。しかし、とにかくここから出たいとはずっと思っていたのです。

 もし病院を出られるならどんな形でもよいと思いました。一日が終わり、ベッドで横たわり、病院の天井を見ているしかない時間になると、このままここで死ぬのは絶対に嫌だと思っていました――。

 

 ベッドに寝ている側の発言を聞く機会はなかなかないと思います。

 亡くなった方もいらっしゃるのですが、こうして思いを残されることは貴重です。

 1980年代の病院療養者の話と、今(2013年)からほんの数年前に病院を出た方の話が全然違う話ではないことに違和感を持ちつつ、システムとして病院で暮らすことの限界を感じてやみません。

 

つづく

*「おうちにかえろう 30年暮らした病院から地域に帰ったふたりの歩き方」は,

  隔週で連載予定です*

 

■医学書院にはこんな本があります■

≪シリーズ ケアをひらく≫当事者研究の研究 イメージ

≪シリーズ ケアをひらく≫当事者研究の研究

「で、当事者研究って、いったい何?」――当事者本人を超えて、専門職・研究者の間でも一般名称として使われるようになってきた「当事者研究」。その圧倒的な感染力はどこからくるのか? それは客観性を装った「科学研究」とも違うし、切々たる「自分語り」とも違うし、勇ましい「運動」とも違う。本書は、哲学や教育学、あるいは科学論と交差させながら、“自分の問題を他人事のように扱う”当事者研究の魅力と潜在力を探る。

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