第1回 明けない朝はない、か?
ある有名芸能人が、妻との最初の面会で頼んだことが
「伊丹空港の始発の飛行機の時間を調べてくれ」
だったという。
同感である。ただただ時間が知りたいのである。
やっと朝がきた。とても長い夜だった。
鉄格子の張ってある窓からは青く澄みきった空が眩しい。
ここは拘置所である。
四畳半かと思うが、剥き出しのコンクリートのせいなのか、やけに狭く、圧迫感がある。
窓の手前には変な木枠をつけたトイレが設置され、その横の畳半畳もないところにべニア板が立てかけられ、トイレの目隠しの役割を果たしている。
いや果たしきれていないというべきだろう。外から丸見えだ。
デコボコの畳は年季の入った代物であり、しかも歪んでいる。
寝ていると、いまにも底が抜け落ちてしまうのではないかと思うほどだ。
でも、何よりもここには時計がない。
今が何時なのか、あとどれくらいで起床なのか、まったくわからない。
わかっているのは「朝がきた」ということだけだ。
時間がわからないなんて大したことではないと読者の皆様は思われるだろうが、実際に時間のわからない世界へやってきた私は、それがいかにあり得ない大変なことかを身体が実感している。
夜が明け、徐々に空が白みはじめる。
やがてところどころに青空が見えはじめ、一日が始まったことがはっきりとわかるころ、鉄格子から見える空のなかを「ゴォー」という音が響きわたる。
その音は徐々に私のいる拘置所へ近づき、ついには私の真上を通り過ぎていく。伊丹空港に降り立つ飛行機である。
それは私が初めて任意の事情聴取のために訪れた大阪地方検察庁の待合室で、押しつぶされそうになる不安をかき消そうともがきながら目にしたのと同じ光景だった。
ただしそのときは、音のない一つの“景色”として見たのであったが。
2機目が通りすぎて間もなく、起床のチャイムが鳴り響く。これを目安に、拘置所はようやく朝を始める。
朝は、長い長い一日を終わらせ、あらゆることを解放へと一歩また一歩と近づけさせてくれる、儚い希望のようなものなのだ。
取り調べ中には雑談の時間もあり、それは気を休められる瞬間でもあるのだが、その雑談のなかで担当検事から
「拘置所へ拘留されている人から、時計がないことが苦痛だとよく聞くんですが、尾上さんはどうですか?」
と聞かれたことがあった。
私は「そのとおり!」と大きくうなずいた。
私より前に、ある有名芸能人がこの拘置所へ拘留されていたときのことである。
妻との最初の面会で彼が頼んだことが「伊丹空港の始発の飛行機の時間を調べてくれ」だったという。
同感である。ただただ時間が知りたいのである。
拘置所では、眠れないからとか、目が覚めてしまったからといって、本を読んだり布団から出たりしてはいけない(もちろん逆に眠いからといって昼間、布団の中にいてはいけない)。
布団から出れば規律違反で刑務官から厳しい指導を受ける。決められた時間にチャイムが鳴ってから、やっと布団から抜け出せるのである。
であれば、「今は何時なのか」「この布団の中にあと何時間いなければならないのか」、その目安というか、目指すところがほしい。
ゴールがなければ、がんばり続けることは難しい。苦痛だけが残る。
拘置所のなかの“時間”というものは、娑婆にいるときに闘っていた時間と違い、私ががんばり続けるためには絶対に必要な特別な存在なのである。
……それにしてもここは、かつて私が働いていた精神科病院の保護室と同じだ。ではそのときの私はどうであったか。
そう問うてみると、保護室に入っている患者さんを、ただの患者さんとしてしか「見て」いなかったように思う。
でも今ここにいる私は拘置所という独房のなかで、「見られている」存在となっている。まさに関係性の逆転である。
*
本稿は事件そのものについて語ろうというものではない。
大阪拘置所に23日間勾留され、地検特捜部の連日の取り調べを受けた体験から、それまでの関係を突然閉ざされたとき人はどのような心情となるのかを語ろうというものである。
そして私が経験したことを皆様にお伝えしながら、「関係性」という問題について考えてみたいと思う。
(第1回了)
『精神看護』2011年3月号(医学書院)より。
第2回「押し寄せるマスコミ、待ち受ける検事」はコチラから!
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