共感は可能か(3)
第7回 共感は可能か(2) よりつづく
物語は破綻していたほうがいい
患者であれ医療者であれ、人間の語りなんて、すべて作り話といえば作り話だし、嘘のない「ホントの話」なんていうものは存在しません。だから問題は、真実は何かということではなく、その物語がどんなふうに機能しているか、ということです。
そういう点から見ると、自分の苦労話を、あまり熱をこめて語ってしまうのはあまり有効じゃないと思います。それはどうしても、自分のコアの部分を念入りに隠すような物語になってしまう。語れば語るほど精緻な作り話になって、現実から解離してしまうんです。
作り話って、自分も癒せないし、聞いているほうもうんざりします。だから、なるべく淡々と、相手を説得させるような物語を作ってしまわないよう、自分の物語から絶えず距離を作るようなやり方で話すのがよいと思うんです。
ちょっとくらい、物語が破綻してもいいんです。そういう語りのほうが、相手がちょっと共感してくれた、うなづいてくれたことによって癒され、勇気がわいてきます。このコツを手に入れると、臨床家にとっていろんなことがましになると思います。
宮崎駿さんの作る物語って、破綻していることが多いと僕は思うんです。僕が宮崎アニメに共感するのは、その破綻のなかに、いきいきしたものが感じられるからなんですね。そういう意味では、作品に臨場感をもたらすものって、破綻なんです。それがないと人の心には訴えかけてこない。出来合いのものでは、人は感動しないし、自分も満足しないんです。
他人語りにリアリティーを覚える
医療に物語論が取り入れられるようになったことはいいことですが、当人の語りをあまり過大に取り上げてしまうと、うまくいかないことが多いように思います。
誰もがそういう面を持っているという意味でなんですが、苦しんでいる当人の語りというのは、どうしても「私を哀れんで」「私が一番悲惨でしょう」「私が一番大切な人間だと認めて」という欲求に費やされがちです。しかしそれでは、当人が本当に癒されたい部分に届かないんです。
語れば語るほど、聞いているほうはコントロールされる感じを受けて嫌な気分になるし、物語自体がリアリティを失っていくから、感情が伝わらない。
カウンセラーの仕事の大きな役割の1つが、患者さんの断片的な言葉を元に、他者として物語を呈示することです。そうやって呈示された物語に患者さんが「はっ」とさせられることがあるのは、自分の言葉を元にして他人が作り上げた物語のほうが、自分で作った物語よりもむしろリアリティがあるからです。
患者さんがカウンセラーに対して「私以上に、私のことを知っている」と感じることがあるのは、だから不思議なことではないんです。感覚的には事実に近い。「自分はこういう人なんですよ、わかってください」というメッセージを込めずに語るっていうのはそう簡単ではありません。誰もが自分のことを語るときは嘘をつくし、熱心に語れば語るほどそうなります。
自分が医療者として聞き手になったときも、同僚に愚痴を言うときのように語り手になったときも、物語のもつこうした性質を踏まえておくとよいと思います。
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