5.20UP! 【連載】驚きの介護民俗学【4】

| コメント(0) | トラックバック(0)

第4回 同じ問いの繰り返し 

 

柳田國男の問いに息を飲む

 

《時に君はタカボコでしたね。大間知君は越中でしたね……》

 

福井県坂井郡高椋(たかぼこ)村生まれの中野重治が、最晩年の柳田國男の自宅を訪ねたときの会話の一コマである。

日本民俗学の創始者である柳田國男がその晩年に来訪者に対して何度も出身地を確認する質問を繰り返したことは、『読書空間の近代』(佐藤健二著)によってずいぶんと有名になった。中野重治は、その事実に向き合ったときの心情について後にこう記しているという。

 

《私は息を飲んだ。4〜5分もすると話がもどってくる。それがくりかえされる。私は身の置き場がなくなってきた。》

 

同じ問いを数分おきに繰り返す、というのは、言うまでもなく認知症の症状であろう。博覧強記で記憶力も超人的であったという柳田を身をもって知る中野が、認知症による記憶障害から免れなかった柳田の老いを眼前にし、どんなに落胆し、悲しみを感じたことか、容易に想像できる。

「私は打ちひしがれて電車に乗り、打ちひしがれたままで家に帰って行き、模様を話してからも腰の抜けたような気持ちでいた」と中野は言う。

 

認知症の症状が進み老人ホームのサービスを利用するようになった利用者さんたちの個人ファイルを見ていると、多くの家族が認知症の発症に気づいたきっかけのひとつとして「同じ問いを繰り返す」ということを挙げているのがわかる。

だが、在宅で毎日介護をしている家族にとっては、「同じ問いを繰り返す」ということは、大切な存在が認知症という病気に侵されている事実が突きつけられる症状であるばかりではないだろう。

数分おきの繰り返しは毎日毎日繰り返される。中野のように打ちひしがれてばかりはいられない。その禅問答のような決着のつかない問いの繰り返しから何もかも捨てて逃げ出したくなるような激しい苛立ちを覚えることも少なくないのではないか。

 

介護のプロとして働いている当の私も、老人ホームで認知症の利用者さんたちと日々向き合っていると柳田と同様に同じことが繰り返し問われる場面に遭遇することが多いが、あまりに繰り返しの頻度が高いと時には思わずイラついてしまうこともある。

そのたびにこれではいけないと自分を諌めるのだが、それでも未熟な私は自分の気持ちを抑制し笑顔をつくることが難しくなってしまうこともあるというのが正直なところである。

 

自分の至らなさをひしひしと感じていたとき、先の柳田のエピソードを紹介した『読書空間の近代』を読み直す機会があった。

著者の社会学者・佐藤健二は、このエピソードを持ち出したのは単なる興味本位でもなければ、また、どんなに偉大な巨匠でも人の老いは避けられない、という当たり前の事実を指摘するためでもなかった。佐藤はこう指摘する。

 

《「君はタカボコでしたね。大間知君は越中でしたね……」。壊れた自動機械のようにこのフレーズがくりかえされたとして、しかしそれは柳田自らの学の構築にとって、意味のない問いかけではなかった。むしろ彼の方法の運動の、原点を象徴する問いであった。》

 

若いころから柳田は、初めて会った研究者や学生に、決まって出身地を訪ねていたという。そして、どんな地名を言われても、頭のなかに日本全国の地図がはっきり刻み付けられているのではないかと思われるほど明確に、そこにはこんな神社があるとか、こんな史料があるだとか、それまでに蓄積してきた関連知識を惜しげもなく披露したというのだ。

それは、柳田がいかに大きな記憶装置を持っていたのかということを意味するだけではない。そこに見えてくるのは、その頭に蓄積してきた膨大な知識と経験を分類し、新たな知識を関連づけて記憶するために柳田が地名を索引にしていたということである。

それが、彼の学問を支える最も基本的な方法論であったと佐藤は言う。そして、老いによって単純化された柳田の頭脳に最終的に残ったのは、その学問を体系づける知の方法=地名による索引だったということである。

認知症によって記憶障害を負った柳田が、学問の原点にあった、記憶を分類し、検索する方法=地名による索引だけは強固に保持しつづけていたというのは皮肉のようでもあるが、別な見方をすれば、柳田を柳田たらしめる原点は最後まで失われることがなかったということができるだろう。

 

看護や介護を専門とする本マガジンの読者からしたら、柳田國男の学問的方法などと言われても関心の外にあるかもしれない。

しかし、晩年の柳田の老いの症状について、民俗学者たちが、みなその権威を守るためか、はたまた敢えて触れる必要もない些細なエピソードと考えたのか、いずれもまったく不問に付してきたなかで、佐藤がこれに注目し「知の方法への回帰」として積極的に研究対象として論じたことの意味は大きいし、介護の現場で日々認知症の利用者さんに向き合う私たちにも少なからずヒントを与えてくれるのではないかと思うのである。

 

もしかしたら、私たちを閉口させる認知症の利用者さんの「同じ問いの繰り返し」も、意味のない言動ではないのではないか。柳田のように「知の方法」などということはできないかもしれないが、彼ら、彼女らの人生の最も基層にある「生きる方法」につながる言動として理解できるのではないだろうか。そうしたら私たちは「苛立ち」ではないもう少しプラスの感情を抱くことができるのではないか。

そんな期待をほのかに抱きながら、あらためて、私のまわりの利用者さんたちに見られる「同じ問いの繰り返し」の様子を注意深く見てみたい、と思う。

 

繰り返される問い

 

瀬名喜代子さん、大正9年生まれ。たとえば、昼食前に私がショートステイのリビングで、喜代子さんの座っているテーブルを拭いていると、喜代子さんはにこにことして「ありがとう」と言ってくれる。そして次に続く言葉は必ず「あんた、何町?」である。まるで初めて出会ったかのように、喜代子さんは私の住んでいる場所を尋ねてくるのである。

 

私は毎回初めて聞かれたかのように、「沼津です」と答える。そうすると、「へえ、沼津。沼津の何町? 本町?」とさらに質問は続く。

私は「いいえ、○○です」と答えると、あまり聞いたことがないという顔をしながら「○○ってどの辺? 駅の周りじゃないわよね」と言うので、私は、「そうですね、ここから車で30分くらいのところですね」と答えると、喜代子さんはちょっと安心した顔をして、「それじゃあ近いじゃない、私は三島の○○町。今度お友達と一緒に遊びにいらっしゃいよ」と誘ってくれる。

「はい、ではぜひ今度」と私が答えると、喜代子さんはにっこりとほほ笑み、ここで問答はひとまず終わる。

 

「三島の○○町」とは喜代子さんの生まれ育った場所。ときには、この部分が現在居住している「長泉町の○○」と変化することはあるが、喜代子さんのショートステイ利用日には毎日、数分おきに、ほぼ同じ形でこの問答が繰り返される。しかもユニット中に響き渡る大きな声で。

もちろん、喜代子さんの問いの矛先は私だけではなく、目にとまった職員や利用者さんにも向けられる。

 

なかには、あまりの頻度に堪えられなくて、「なんであんたはさっきから同じことばかり言ってるの」と怒りを露わにする利用者さんもいるが、職員もそして多くの利用者さんたちも、何度も繰り返される問答に苦笑いをしながらも、怒ることなく「私は○○町」と答えてくれている。私はその様子を見ながら、みんなエライなあ!と感心し、イラついてしまう自分の未熟さを反省するのである。

 

岡田幸恵さん、大正15年生まれ。彼女も喜代子さんと同様に、「ところであなたはどこ?」と相手の住んでいる場所を尋ねる質問を繰り返す。喜代子さんと異なるところは、幸恵さんの場合には、その繰り返しの頻度が低いことと、そして、質問を繰り返すシチュエーションがだいたい決まっているということである。

私の経験からいうと、幸恵さんがこの質問をするのは送迎車のなかである。たとえば、迎えのときには、施設への道のりの途中でこんな会話が毎回繰り返される。

 

幸恵さん:(自宅近くの道路沿いの広い空き地を眺めながら)ここ、うちの土地なんです。

  六車:ああそうなんですか。

幸恵さん:畑なの。でも、息子たちは今はなーんにも作っていないでしょ。

  六車:そうですね、今は何も作っていないですね。

幸恵さん:まったく、何しているんだか。

 

しばらく静かに車が走る。そして、地元の自動車学校の前を通り過ぎるときにはこんな会話が再開する。

 

幸恵さん:この自動車学校やっているかしら。

  六車:やっているみたいですよ。

幸恵さん:ここうちの土地なんです。校長先生がね、うちにわざわざ来てね、貸してくれっていうから、うちの人が貸したんですよ。

  六車:そうなんですか。

幸恵さん:近くにこういうのがあると便利でしょ。車に乗るにはね、自動車学校に行かなきゃだめでしょ。遠くに行くのは大変だものね。

  六車:そうですね、近くにあると便利ですね。みなさん車乗りますからね。

 

車が自宅のある裾野市から長泉町に差し掛かるあたりになると、今度は幸恵さんはこんなことを話し出す。

 

幸恵さん:ここはどこですか。

  六車:長泉町の上○○です。

幸恵さん:ああ、たしか、上○○、下○○ってありますね。

  六車:そうですね、中○○もありますよ。

幸恵さん:それは知らないわ。私、この辺の出じゃないから、このあたりのことはさっぱりね。小田原高女って知ってます? 私は小田原高女に行ったんです。

  六車:じゃあ、幸恵さんは小田原の出身なんですね。

幸恵さん:いいえ。私はね、小田原の近くで、金原村、金○っていうところ、田舎の生まれなの。金がいっぱいつくって、友達にいつも笑われたんです。村長さんがね、お金がたくさん儲かるようにってつけたんじゃないかと思うのよ。ところであなたはどこ?

 

このタイミングでいつも私は居住地を尋ねられる。

 

  六車:沼津です。

幸恵さん:沼津のどこ?

  六車:○○です。

幸恵さん:○○? ごめんなさいね、知らないわね。私、小田原なの。小田原高女ってご存知? 小田原城のなかに小学校があってね、その隣にあるの。小田原は本当にいいところですよ。海も近いし、お城もあるし。私はね、金原村、金○ってところの出なの。金がいっぱいつくって、友達にいつも笑われたんです。村長さんがね、お金がたくさん儲かるようにってつけたんじゃないかと思うのよ。ところであなたはどこ?

 

この質問が何度か繰り返されるうちに車は施設に到着する。

 

予定調和を演じることによって立ち位置が確保される

 

冒頭の柳田に関連づけて、相手の居住地や出身地を尋ねてくる二人の利用者さんの「同じ問いの繰り返し」の様子について少し詳しく紹介してみた。

 

認知症の利用者さんたちの「同じ問いの繰り返し」を注意深く見てみると、その方によって繰り返される内容にずいぶんと特徴があることがわかる。ここで紹介した二人のように、相手の居住地について尋ねる方もいれば、その日の曜日を何度も尋ねる方もいる。また、相手の年齢を尋ねたり、いま何時かを尋ねる人もいる。

言い換えれば、認知症による記憶障害であっても、何から何まであらゆることを繰り返して尋ねるのではなく、そこにはその方の何らかのこだわりを読み取ることができると思われるのである。

 

では、喜代子さんと幸恵さんは、なぜ相手の居住地や出身地を繰り返し尋ねるのだろうか。また、そこには二人のどんな「生きる方法」が見て取れるのだろうか。先ほど紹介した「同じ問いの繰り返し」の文脈や二人に教えてもらった経験などから想像してみたい。

 

喜代子さんは、相手の居住地を尋ねた後、必ず「それじゃあ今度うちに遊びにいらっしゃいよ」と明るく誘ってくれる。それがお決まりのパターンである。それは、喜代子さんのこれまでの生き方に深く関係していると思われる。

喜代子さんは元気なころ、地域の婦人会やボランティア活動に積極的に参加していたという。喜代子さんも、私たちに時折そのころのことを話してくれる。ボランティア活動でみんなで施設をまわったとか、婦人会活動で公民館に集まって手作業をしたとか。

そんな喜代子さんは、職員たちに対していつも激励の言葉をかけてくれるのだが、そこから彼女がかつてどんなふうに活動にかかわっていたのかが想像できる。

たとえば、利用者さんたちに折り紙を折ってもらっているとき、喜代子さんもそれに参加しながら、こんなことを言うのだ。

 

こういう手を動かすっていうのは、本当にいいですよね。みんなでやるからいいの。そして、なんたってこれを引っ張って行ってくれる人がちゃんとしているからいいですよ。リーダーさんがこんなにいろんな折り方を知っていて、丁寧に教えてくれるんだもの。

 

ここで喜代子さんがリーダーさんと呼んでいるのは、折り方を教えながら利用者さんたちに折り紙を折ってもらっている私のことである。

喜代子さんは決して人をけなしたり、文句を言ったりはしない。いつもみんなに心を配り、その場の雰囲気を盛り上げようと気を遣っている。そして、職員に対しては、上記のようにどんな些細なことでも励まし、そしてリーダーとしてのあり方を嫌味なく教えてくれようとするのだ。

おそらく喜代子さんは、婦人会でもボランティア活動でもリーダー的存在として活動の中心に立ってきたのであり、他のメンバーを激励したり、活動の雰囲気を盛り上げたりしていたに違いない。そして、リーダーにありがちな権力の独占をせずに、後進が育つように役割を譲ったり、陰で支えたりしていたのではないだろうか。

まさにこれぞリーダーというべき、模範的なリーダーのあり方を体現して生きてきたように、少なくとも今の喜代子さんからは想像ができる。

 

ところで、「あなた何町?」から始まる一連の問いは、私の知る限り、喜代子さんが職員を激励した後に必ずといっていいほど続く。そして、「それじゃあ今度うちに遊びにいらっしゃいよ」で一応の終息を迎えるのである。

先ほどの折り紙のときもそうだったし、また、例えば、車椅子利用者である喜代子さんのトイレ介助をしたときもそうだった。介助をしている私にむかって、喜代子さんは、「あんたにこんなことしてもらって申し訳ないよ。本当に助かった。ありがとう」と感謝の言葉をかけてくれ、「ところであんた何町?」と問いかける。そして最後には必ず「うちに遊びにいらっしゃい」と言うのだ。

 

とすると、「あなた何町?」で始まる一連の問答は「それじゃあ今度うちに遊びにいらっしゃいよ」を導き出すためのいわば伏線だと考えられる。そして、自宅への誘いは、喜代子さんの相手に対する最大の激励の言葉だったのではないだろうか。

茶道の先生をしていて社交的であった喜代子さんのことだから、本心からの誘いだったかもしれないし、あるいは外交辞令だったかもしれないが、いずれにせよ、「それじゃあ今度うちに遊びにいらっしゃいよ」というのは相手の存在を受け入れ、その努力を最大限励ます言葉であったことは間違いない。そうやって喜代子さんは、地域で生きてきたのであろう。

「あなた何町?」から始まり「うちに遊びにいらっしゃい」で終わる問いの繰り返しには、地域での様々な場面でリーダーとして活動してきた喜代子さんの「生きる方法」が見て取れるのだ。

 

そして、ここでもうひとつ確認しておきたいのは、この問いの繰り返しは、常に予定調和的に終わることが大切だということである。そう感じたのは、職員のちょっとしたいたずら心による一つのハプニングがきっかけだった。

 

あるとき、職員が、喜代子さんの関心をそらそうと、「あなた何町?」という問いに対して、「僕は、火星です」と答えた。喜代子さんは、この突拍子もない答えに対して、「えー」と大きな声を挙げて驚いたと思ったら、「やだー、この人はまったく愉快な人だねえ」と大笑いした。そして、笑いもおさまらないうちに、「で、あんた何町?」を繰り返したのである。

職員はちょっと拍子抜けしたようだったが、再び「火星です」と答えた。喜代子さんも再び「えー」。そして、「で、あんた何町?」。今度は、なんだか居心地の悪そうな、落ち着かない様子に見えた。

その様子を察した職員は、今度は「沼津です」と答えた。するといつもと同じように「沼津の何町?」と問答が続いていった。喜代子さんは何もなかったかのように、にこにことしていた。

 

認知症の方の「同じ問いの繰り返し」には、実は、「同じ答えの繰り返し」が求められているのではないだろうか。

喜代子さんの問いに対して相手が予定調和的に答える。そのやりとりによって、「うちに遊びにいらっしゃい」という、喜代子さんの「生きる方法」を象徴する言葉が導き出される。そしてそのやりとりが何度も繰り返されることによって、喜代子さんは、ショートステイという未知なる場所において自分の立ち位置を見つけ、ほんのひとときの安心感を確保できるのだろう。

 

予定調和を演じることによって安定が確保される、というのは、ある意味で民俗儀礼に似ている、と民俗学を専門にしてきた私は思う。

たとえば、年中行事の代表格である小正月の儀礼を例に考えてみよう。

日本には元日を祝う大正月と1月15日を祝う小正月の二つの正月があり、特に小正月は農耕に関連する儀礼が多く含まれている。「同じ問いの繰り返し」に関連して挙げたいのは、問答によって進められる「成り木責め」である。

成り木責めは、1月14日、もしくは15日に行われる。庭にある柿や栗などの実のなる木の幹を1人が鉈で叩きながら、「成るか成らぬか。成らねば伐るぞ」と脅し、成り木役のもう一人が「成り申す。成り申す」と答え、その年の実りが豊かであることを呪術的に確かめるのである。

 

この成り木責めでは、夫婦、もしくはその家の家長と子供などのペアで必ず儀礼がおこなわれ、夫や家長が問い、妻や子供が答える。そして、二人は互いに決められた問答を正確に演じなければならない。なぜなら、それによって初めてその年の実りが確保され、家族の安定した暮らしが保障されるからである。

もし、ふざけて子供が「成りません。成りません」などと答えたとしたら、それは実りの不作を起因することになり、新年という一年のなかで最も不安定で混沌とした時期に家族の安定が得られないことになってしまう。それは、農耕に頼った暮らしをしていたころには家族にとって決定的なダメージになったのだ。

ゆえに、民俗儀礼とは、常に決められたことが決められた通りに滞りなく全うされることが重要となる。予定調和が毎回毎回繰り返し確実に演じられることによって、人々の暮らしの安定が保障されてきたのである。

 

この民俗儀礼の特徴になぞらえてみれば、予定調和が演じられる認知症の方の「同じ問いの繰り返し」も、本人にとっては不安定で混沌とした場所において、「生きる方法」を確かにし、ひとときの安心を得るための儀礼的行為だということができるだろう。

 

追体験される悲しみ

 

だが、「同じ問いの繰り返し」は、安定や安心が確認されるばかりではない。それについて、最後に、先に挙げた岡田幸恵さんとの問答から見ておきたい。

 

送迎車の中での幸恵さんの言葉を改めて見てみよう。

幸恵さんは、自宅に近いところでは、どこが自分の家の土地なのかを繰り返し述べている。しかし、それは単なる自慢話ではなく、神奈川県の山村から、静岡県裾野市という、実家から遠く離れた土地の大地主の家に嫁いだ幸恵さんにとっての「生きる方法」だったのではないか。

すなわち、見知らぬ場所で見知らぬ人(彼女にとっては私たちはいつも初めて会う存在である)に対し不安な心持ちでいるときに、自分の立ち位置を確かにし、安定、安心を得るために、何よりも自分の嫁ぎ先の財力や権威を主張することが必要だったのだ。それが親戚も知人もおらず、習慣も異なる見知らぬ土地で、大地主の嫁として生き抜く幸恵さんの「生きる方法」だったのではないかと思う。

 

また、送迎車が施設に近づく頃に繰り返す、小田原高等女学校を出ていることをことさらに強調する言葉にも、自分が大地主の嫁にふさわしいことを示そうと腐心してきた幸恵さんの苦労をうかがい知ることができるように思う。

老人ホームという未知なる場所に赴くにあたって、いかに安定的な場所を確保し、安心感を得るのか、そのための儀礼として、毎回送迎車の中で幸恵さんは同じ問いを繰り返し、かつて培ってきた「生きる方法」を繰り返し確認しているのだろう。

 

だが、幸恵さんの「同じ問いの繰り返し」は寂しさのようなあるいは切なさのような、決してプラスではない感情を帯びているように感じられることがある。

たとえば、小田原高女のことを繰り返すとき、必ずついてくるのは、自分が小田原ではなく、金のつく山村、田舎の生まれであるという言葉である。しかも、そのことを小田原高女の友達にいつも笑われていたというエピソードも添えて。

 

別の機会に幸恵さんに小田原高女でのことを尋ねたことが何度かある。ところが、送迎車の中では小田原高女出身であることを繰り返していたのにもかかわらず、覚えていないと言ってあまり具体的な経験については幸恵さんの口からはほとんど聞くことができなかったし、そればかりでなく、そのときの友達とは裾野に嫁に来てからはほとんど会わなくなったと悲しそうにつぶやいていた。

実際のところはわからないし推測の域を出ないが、幸恵さんの話やその時の様子からは、高女時代の記憶は必ずしも楽しいものばかりではなかったのではないかと想像できる。もしかしたら幸恵さんは、子供時代貧しさでずいぶんと苦労したのかもしれない。それが、小田原高女出身だとか、嫁ぎ先の家の土地がどこだとか、そうした自分を権威づけることにより安定した場所を得るという「生きる方法」につながったのかもしれない。

 

送迎車の中での「同じ問いの繰り返し」によって、幸恵さんは自分の立ち位置と安心を得られるとともに、それが繰り返されるたびに、彼女のなかでは、悲しく切ない記憶をも呼び起されている、そう考えることができる。

実は、そのことは、「あんた何町?」から始まる「同じ問いの繰り返し」をする瀬名喜代子さんの場合にも言える。喜代子さんは、繰り返しの問答の最後を必ず「じゃあ、うちに遊びにいらっしゃい」で結ぶ。それは、地域のリーダー的存在として生きてきた彼女の「生きる方法」を象徴する言葉であったと私は述べた。

 

だが、「うちにいらっしゃい」という言葉は時にネガティブな感情をともなう辛い記憶に結びつくことがある。喜代子さんは、「うちには男の子が2人いるけど、大丈夫よね。女の子もいたんだけど、横浜に取られちゃったのよ」と会話を続けるのだ。

よく話を聞いてみると、喜代子さんには3人の子供がいたが、娘さんは、親の意に反した結婚をして横浜に嫁いでしまったようなのだ。その経験は、最愛の娘を無理やりもぎ取られたような痛みとして喜代子さんの心と体の深いところに刻み込まれている。

「本当にひどいのよ。こんなことがあっていいのかしら。私は大泣きしたわ。お父さんなんて、そのときから体がおかしくなっちゃったのよ」

 

普段はとても明るい喜代子さんが、そう涙ながらに私に訴えてくることさえあるのだ。

「同じ問いの繰り返し」は、安定や安心を確保する一方で、普段は心身の奥に眠っている悲しい記憶を呼び起こし、追体験することに結びついてしまうことがあるのである。

 

コインの裏表のように、ポジティブとネガティブな要素が表裏一体となり、それが時に反転するというのは、民俗儀礼の特徴でもある。先ほどの「成り木責め」も、実りの豊穣が呪術的に保障される一方で、鉈で木の幹を傷つけるという行為によって、木(自然)を傷つけ利用して生きているという人間がもつ原罪が目の前に突き付けられる、そういう儀礼である。

ただし、民俗儀礼の場合には、一年に一回、一か月に一回という決められた機会に行われるだけだが、認知症の方の「同じ問いの繰り返し」の儀礼は、毎日、そして数分おきに繰り返される、それが決定的に異なっている。彼らは、問答を繰り返すたびに、安定と不安定、安心と不安、喜びと悲しみの間を、さまよい、生きているのだ。 

 

(web第4回了)

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://igs-kankan.com/backyard/mt-tb.cgi/337

コメントする

このブログ記事について

このページは、igs-kankanが2011年5月20日 12:00に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「5.19UP! 【小説】カウンセラーは見た!【第8話】」です。

次のブログ記事は「5.21UP! 【名越康文】医療者のための心の技法(8)」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。