共感は可能か(2) 疲弊しないための語りのコツ
第6回 共感は可能か(1) よりつづく
前回から共感をテーマにお話していますが、もうひとつ、共感について考えなくてはならないことは、そのプロセスの中で医療者が疲弊してしまうことがあるという側面です。
医療者として「共感」することをスキルとして教育されてきた人は、かなり暴力的な患者さん相手でも、それこそ受容、共感しようとしてしまう。キャリアのある人であれば一定の距離を置くことができても、経験が浅いとどうしても、患者さんの感情の奔流に巻き込まれてしまうことがあります。
そういうときの基本的な対処としては、そうした体験を「人に話す」ということがありますね。同僚や指導者や上司に自らの体験を話し、それこそ共感してもらうというのは、疲弊しないための方法としては、唯一といっていいくらい有効なものです。
「人に話す」なんてあまりにも当たり前過ぎるように感じるかもしれません。しかし実は、有効なときと、ぜんぜん有効でないときがあることには、注意が必要です。「言ったら気が晴れるよ」っていうような単純なものではなく、ちょっとしたコツがある。それをつかんでいるかいないかで、ずいぶん成功率は違うように思います。

あっさり、淡々と話す
それは、わりに「あっさり、淡々と話す」ということです。信頼している相手に、「聞いてくださいよ、こういうことがあってね。それで……」と長時間話したほうが、いろんなものを吐き出せそうに思うんですが、そういうべったりとした感情の吐露って、往々にして効果が薄い。むしろ、話のなかでふっと漏れ出た言葉に対して、相手が「そういうことあるよね」とうなづいてくれる、それくらいの軽快さのほうが、効果が高いんです。
実はこれはちょっと入り組んで、複雑な話です。つまり、「こんなことあったんですよ、聞いてください」という構えから話してしまうと、私達はその時点で少し、自分に嘘をついているんです。自分の感情を、相手にわからせるための物語を作って、それを話している。でも、その物語は往々にして、自分の内側のドロドロとした感情を隠すために機能してしまうんです。
その典型例が「苦労話」ですよね。「私の若い頃、こういうことがあってね」という語りって、一見すごくいい話に聞こえるんだけど、実は、その人の本音、心の部分を巧妙に隠すように作られている。できあがった「お話」なんです。
依存の構造
じゃあ、それは何のために作ったかというと、相手に依存したいがためです。苦労話をして、相手が共感して、自分を救ってくれないかという期待が、そういう物語を作らせる。しかしながら、その物語は、その人の本当の苦しみを巧妙に隠してしまう。そんな二重構造を、人間の心は自然とつくってしまうんです。
だから、人は依存心を起こせば起こすほど、依存できなくなってしまう。結果的に、話を聞いている相手も辟易としてくるし、そんな話を繰り返す自分も自己嫌悪に陥るという悪循環が生じる。
心って意外と自律的に動いているので、自分の意思で開いたり閉じたりコントロールできるものではありません。だから、話せば話すほど心が閉じて、相手に伝わらなくなり、10分で済む話が3時間になって、それでも伝わらなくて結局は相手との関係性を壊す、ということになりかねない。依存するための物語が、相手に依存しない(できない)方向に働いてしまうんです。
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