14-3 看取りをとおして思い知ったこと(最終回)

14-3 看取りをとおして思い知ったこと(最終回)

2014.4.16 update.

なんと! 雑誌での連載をウェブでも読める!

『訪問看護と介護』2013年2月号から、作家の田口ランディさんの連載「地域のなかの看取り図」が始まりました。父母・義父母の死に、それぞれ「病院」「ホスピス」「在宅」で立ち合い看取ってきた田口さんは今、「老い」について、「死」について、そして「看取り」について何を感じているのか? 本誌掲載に1か月遅れて、かんかん!にも特別分載します。毎月第1-3水曜日にUP予定。いちはやく全部読みたい方はゼヒに本誌で!

→田口ランディさんについてはコチラ
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【対談】「病院の世紀」から「地域包括ケア」の時代へ(猪飼周平さん×太田秀樹さん)を無料で特別公開中!

前回まで 

 

ダメダメな自分

 末期がんの父が一時帰宅で自分のマンションに戻ったとき、父は5か月ぶりに自分の部屋に帰ることを楽しみにしていました。でも、戻った部屋で、1人で呆然とこたつに座っている父を見たとき、もう父には帰る場所がないんじゃないか……とやりきれない気持ちになったのです。
 「お父さん、どうする? 今日は夕方までここにいる?」
 そう聞いてみると、父はとても寂しそうに言いました。
 「ああ、そうだな。片づけもしたいが……」
 もうかなり痛みのあった父に、部屋を片づける気力はなかったと思います。私は父を1人で部屋に置いて帰っていいものかどうか悩みました。
 「おまえは忙しいんだろう。もう帰っていいぞ」
 「じゃあ、夕方はやい時間に迎えにくるから」
 そう言って、父のマンションを出て、そこから歩いて12分ほどの自宅に戻った私は、1日そわそわして落ち着きませんでした。こんなことなら、ずっと父と一緒にいたほうがよかったのじゃないかとも思ったのですが、でも、もしかしたら父も1人でやりたいことがあるかもしれないし……。私は、午後3時半ごろには父を迎えに行きました。父は、何もした様子もなくこたつに座っていました。
 それから私の家に来て、一緒に食事をしてうちの客間に泊まりました。そのときは、まだ小学生だった娘が父のそばにずっといて、マンガを読んでいました。ただ、隣でマンガを読んでいるだけの娘が本当にありがたかったです。どんなに父が救われたか。子どもというのは、そこにいるだけで天使のような働きをしているのだと思います。
 そのうちに、娘が「じいじの顔を描く」と言い出して、父の似顔絵を描きました。目の下に隈があって怖いような似顔絵だったのですが、それはそれで、具合が悪く、やせ細った今の父をユーモラスに表現していて嘘がなく、小気味いいほどでした。父は「ははは、これが俺か」と笑っていました。
 食事のとき、父が小松菜のおひたしに手をつけないので「野菜も食べないと……」と私が言うと、父は「食べたくない」と答えます。もともと父は、自分が食べたいもの以外はけっして口にしない人でした。贅沢というのではなく、食べたくないものは食べない、お愛想では食べない、そういう人なのです。それがわかっているのに私は、そのとき妙にカチンときて、「よくなりたいなら、そんなわがままを言わないで」と怒ったのでした。
 「うるさい、俺の身体だ」
 そう言い返してきた父と、私は口論になりました。もう余命3か月と言われている父とです。自分でも呆れました。親が親なら子も子です。
 父が、私に言い残した言葉は、わが家の語り草になっています。
 「けい子、お前は最低最悪の女だ……」
 まあ、こんな具合ですから、看取りをしたなどとえらそうなことを書きつづっている自分が、どこか空々しく、きれいごとばっかり言ってるんじゃないわよ、と自分にツッコミをいれてしまいたくなるのでした。
 おばあちゃん(義母)が、脳卒中で倒れて救急車で運ばれていくとき、私はおじいちゃん(義父)と一緒に車に同乗して、ずっとおじいちゃんの手を握っていました。おじいちゃんは「おばあさんは、大丈夫だ」と、私の顔を見て何度も言いました。それは自分に言い聞かせているみたいでした。私は、おじいちゃんとはいつも口げんかばかりしていて、あまり仲良くはありませんでした。どちらかと言えば、おばあちゃんの味方でした。おじいちゃんの手を握りながら、「ああ、おじいちゃん1人になったら大変だなあ」なんてことを考えているのです。それに、おじいちゃんたら、おばあちゃんが発作を起こしているのがわからないで寝ていたなんて、本当に薄情だわ……とか。
 私の心の中には何人もの違った思いの「私」がいて、いろいろなことを考えています。おじいちゃんの手を握っていたわっている私も、偽りの私ではない。だけど、いい人の私ばかりではない。
 おばあちゃんが病院で息を引きとったときも、私が一番冷静でした。涙も出ませんでした。私は、おばあちゃんがもう生きて家には戻ってこられないことを予感していたので、おばあちゃんは私たちに迷惑をかけたくなくて逝ってしまったのだなと思いました。でも、そういう自分が「やっぱり薄情なんじゃないか」と感じて申し訳ないような気持ちでした。
 おじいちゃんの骨折が治って退院してきたときも、もっとおじいちゃんと一緒の時間を過ごせればよかったのだけれど、ちょうど冬休みの時期、子どもがクリスマスで友だちを呼んできていて家の中は華やいでおり、そういう席に認知症が進んできたおじいちゃんを呼ぶ気になれず、おじいちゃんの相手はテレビにさせていました。本当は、お客さんや子どもたちのいる場所に一緒にいてもらえばよかったのかもしれません。でも、あのときは「おじいちゃんは宗教が違うからきっと嫌がる」と勝手に決め込んで、結果的には仲間はずれにしてしまったのです。
 1階から聞こえてくる楽しそうな笑い声が、おじいちゃんに届いていたかなと思うと切ないです。「クリスマスなど必要ない」と頑なだった元気なころのおじいちゃんの記憶が、私を少しいじわるにしていたんだと思います。それから1週間もしないうちに亡くなってしまう人の、ありのままが見えていなかったんですね。
 私は、親族の老いと死をとおして、自分の中の「いじわるな自分」「弱い自分」「老いや死を怖がっている自分」「ケチな自分」「ずるい自分」「身勝手な自分」……本当にたくさんのダメダメな自分を発見して、がっくりしました。
これはきっと
「問い」なのです。
 私は、やっぱり「老人になりたくない」と思っているのだな、ということを自覚せざるえません。どんなにきれいごとを言っても、心のどこかで老いるのが怖い。いつまでも若くて健康でいたいのです。
 そして、義父母も実父も、私と同じように「老い」に脅え、その不安と戦っていたのだな、ということを、自分が50歳代を過ぎた今、理解するようになってきました。これから、60歳代そして70歳代と、年を経ていくにしたがって、この「老いを受け入れる」というしんどさと、ずっと向き合っていくのだろうな……と。
 60歳代の人に言わせると、「50代は本当に若かった」と言います。今、更年期を過ぎて自分の体力に自信がなくなりつつある私は、冗談じゃない、どこが若いのよ、反発したいところですが、60になったら「あのころは若かった」と思うのでしょうね。
 私は50歳代に入る前に、両親の看取りを終えました。はやいほうではないかと思います。看取りの本番は、50歳代後半から60歳代にかけて。そういう方たちが、老いていくご両親と在宅で向き合うとき、多くの方は、自分の「老い」への不安がご両親の姿によってかき立てられるのではないかと想像します。その不安は「嫌悪」として感じられるということを、覚えておいていただきたいです。
 ふとしたはずみで、老いた両親に感じてしまう漠とした「嫌だなあ……」という嫌悪感は、封殺しないほうがいいです。それを見て見ぬふりをすると、それが相手への嫌悪だと勘違いして、本当に相手を退けたり、つらく当たってしまったりして、関係が悪くなってしまいます。その嫌悪感は相手に向けられたものではなく、本当は、自分の老いへの不安、未来への不安なのだと、私は思っているのです。
 人は、誰だって老いていくのが怖いです。私たちが生きている戦後の日本という社会の「社会的価値観」のありようが歪んでいるからです。高度経済成長を成し遂げた先進国日本は、「衰退」を国家レベルで恥じています。黄昏てしまうことは「敗北だ」と社会が思っている以上、そのなかで生きている個人も「衰退」することに抵抗を感じるのは当然だと思います。
 認知症や身体に障害をもった家族を介護するのは、精神的にも大変な負担です。その負担の多くが「家族に対する言い知れぬ嫌悪感」をもってしまうこと、その「嫌悪感」に対する良心の呵責、つまり「罪悪感」を覚えてしまうことではないでしょうか。
 ですが、その嫌悪感の根っこには「自分はどうなるのだろう」「生きる意味ってなんだろう」「人はなぜ死ぬのだろう」「こんな自分はダメではないか」という、宗教的・哲学的な問いかけが隠されているのです。
 そういう、人間の人生最後の「問い」を、語り合ったり、学び合ったりする「場」が地域の中に生まれてきたら素晴らしいな、と思っています。介護や看取りを通じて、壮年期の人たちが「生きるとはどういうことか」という思索を深めることができたなら、青年期とは別の自分たちの「人生」を創造していくことが可能になります。そうなれば、「老いる」ということの社会的な価値も、次第に変化していくのではないでしょうか。

おわり

訪問看護と介護

いよいよ高まる在宅医療・地域ケアのニーズに応える、訪問看護・介護の質・量ともの向上を目指す月刊誌です。「特集」は現場のニーズが高いテーマを、日々の実践に役立つモノから経営的な視点まで。「巻頭インタビュー」「特別記事」では、広い視野・新たな視点を提供。「研究・調査/実践・事例報告」の他、現場発の声を多く掲載。職種の壁を越えた執筆陣で、“他職種連携”を育みます。楽しく役立つ「連載」も充実。
いよいよ「消費増税」がなされます。この増収分は、すべて「社会保障の充実」に当てられる前提ですが、「どう使われるか」は気になるところ。3月号の第1特集では、社会保障の現場の担い手である専門職として知っておきたい「社会保障・税一体改革」のポイントを押さえます。第2特集では、同じくこの4月から第2次施行される「障害者総合支援法」をひも解きました。

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