第1回 矛盾の中へ

第1回 矛盾の中へ

2013.7.04 update.

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合気道七段の思想家と、脳性まひの小児科医――。
〈健常な身体〉という常識の外で自らの動きを獲得してきた二人である。
ある初夏の昼下がり、電動車いすを駆って熊谷氏は凱風館を訪れた。
一階の道場でみっちり2時間稽古を見学した後、数人の門人に担がれて階段を上がり、中二階にある内田氏の仕事場へ。
陽光あふれる気持ちのよい空間で、二人の会話は静かに始まった。

身体で出会う言葉

武道家と障害者の逸脱的言語論

[目次]

第1回 矛盾の中へ(2013年7月4日UP)

◆意図を持つと体が動かない――焦点化と拡散化
◆キマイラをつくる――対立と同化
◆感染する身体――二つの方法
◆成熟というプロセス――相反する要請をどう扱うか

第2回 視覚の外へ(2013年7月5日UP)

◆道場の意味――アロセントリックとエゴセントリック
◆バーズアイを超えて
◆視覚に頼らない模倣とは
◆感染の条件としての「おびえ」

第3回 言葉と共に(2013年7月6日UP)

特別ゲスト=佐藤友亮(内科医)、光嶋裕介(建築家)

◆なぜみんな波になれるのか
◆視覚情報をキャンセルする言葉――メタファーの力
◆“過剰キマイラ”を断ち切る言葉――「敬語」の力
◆慣れると言葉が枯渇する
◆身体は言葉でできている(でも方便ね。)

  

[対談者] 

内田 樹   合気道七段、凱風館当主
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1950年生まれ。合気道7段、居合道三段、杖道三段の武道家であり、神戸市に2011年に完成した道場兼能舞台の「凱風館」を主催している。
フランス現代思想、ユダヤ人問題から映画論や武道論まで幅広い著作で知られる。
武道論に『私の身体は頭がいい』(文春文庫)、『武道的思考』(ちくま新書)などがある。
第6回小林秀雄賞、新書大賞2010、第3回伊丹十三賞などを受賞。
『死と身体』(医学書院)は知る人ぞ知る隠れた名著!
ブログURL:  http://blog.tatsuru.com/

 

 

熊谷晋一郎 脳性まひ者、小児科医

1977年生まれ。脳性まひの電動車椅子ユーザー。 

小児科医、東京大kumagaya-prof.jpg学先端科学研究センター特任講師。
東京大学グローバルCOE「共生のための国際哲学教育研究センター」共同研究員。
著書に『リハビリの夜』(新潮ドキュメント賞受賞)、綾屋紗月氏との共著に『発達障害当事者研究』(ともに医学書院)、『つながりの作法――同じでも違うでもなく』(NHK出版)がある。 最新作は『当事者研究の研究』(共著、医学書院)。
ブログURL:http://ayayamoon.blog77.fc2.com/

 

 

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第1回 矛盾の中へ

 

 

 

 

 

◆意図を持つと体が動かない――焦点化と拡散化

 

内田 合気道の稽古をご覧になっていかがでした?

 

熊谷 憑依しながら見るというか、いろいろな人の中に入り込んで追跡する感じで見ていたので、終盤クラクラしてきました(笑)。本当にいろいろなことを連想的に思いましたので、どれからお話ししたらいいのか……。そうですね、うーん……。うまく言葉にできないな。

 

――(司会)準備してきた話題から入りますか?

 

熊谷 いや、でも、今日の話からやっぱり始めたい感じがするんです。うまく言えるかどうかわからないですが。

 道場でどういうことが繰り広げられているのかというのが、最初は全然わからなかったんです。だけど途中から、攻めているのに負ける役の人の中に入り込んだら、少しわかったような気がしました。負ける側の人って、すごく「焦点化された注意」を持っているような感じがして……。それに対して勝つ側といいますか、そちらはすごく「拡散的な注意」というか。

 

内田 ああ、なるほど。

 

熊谷 フォーカスされていないような研ぎ澄まされ感というんでしょうかね。

 

内田 はいはいはい。

 

熊谷 で、自分が負け役だとすると、焦点化された注意――例えば相手の右手をつかもうつかもうと思って、右手だけが見えている――の中でようやく相手の右手をつかまえたというときに、拡散的な注意を持っている相手にどこかで裏切られてしまう。「そっちか!」みたいな感じで。最初に思ったのは、そういう注意の張りめぐらし方の違いですね。全然的外れかもしれないですけど。

 

内田 いやいや、極めて適切だと思います。

 

熊谷 その後に勝つ人の役の中に入り込むと、結構おもしろく見れるようになってきました。稽古中に内田先生からの明示的なインストラクションもあったのですが、全身の、それこそ背中も含めて、皮膚全体で情報をとろうとしているというふうな、そういう注意の散らばりぐあいみたいなものを感じました。

 

内田 僕らは「勝ち」と「負け」というんじゃなくて、「取り」と「受け」と言うんです。投げるほうが「取り」で、投げられるほうが「受け」と言うんですけれども、実は実際には「取り」も「受け」も両方とも拡散的でないといけないんです。

 

熊谷 なるほど。

 

内田 ただ、おもしろいんですけれども、技をかけて攻撃しようというマインドを持っていくと、それだけで人間って体が不自由になるんです。動きの選択肢が減る。

 

――確認ですが、攻めるほうを「受け」と言うんですね。

 

内田 そうです。攻めるほうが「受け」ってちょっと変ですが。

 

熊谷 おそらく「焦点化」というふうに見えたのは、その攻撃を仕掛ける感じを見てたんでしょうかね。

 

内田 不思議なもので、相手をつかむというだけの行為でも、自分自身の身体編成が限定されてしまう。可動域も狭くなる。むしろつかまれるほうが楽なんですよ、選択肢が広がるから。今日の稽古の最後に、一方が両手をつかみに行って、つかまれたほうが倒す「座技呼吸法」という技をやりましたね。あれ、つかんでいるほうが不利なんですよ。肘、肩とかに詰まりができて、体を広々と使うことが難しくなる。つかまれたほうがむしろ動線の選択肢が多い。先手を取ってつかんだつもりのほうが、動きの中では「後追い」になるんです。

 だから変な話ですけれども、最初に攻撃するほうがハンディを負うんです。先手をとるほうが有利だとふつうは思いますけれど、「攻撃しよう」という対立的な図式を持ち込むことで、逆に心身の自由は制約される。対立的に身体を使いながら、鋭い動き、正しい動き、自由な動きをしようとすると、かなり技量がないとできません。だから、形稽古の伝統では、上段者が「受け」を担当するんです。そちらのほうがずっと難しいから。

 

熊谷 脳性まひの身体制御にとって、焦点化の問題って結構アクチュアルなんです。脳性まひの身体には、意図性みたいなものを強く持てば持つほど不随意運動が出てしまうという特徴があります。つまり意志を強く持つと、言うことを聞かなくなる。そうは言ってもやっぱり意志を持たないと生活ができないので、「焦点化」と「散らす感じ」のあわいでいつも調整しているんですね。

 ある脳性麻痺の人の話ですが、酒を飲むとうまく体が動くんだそうです。酔っぱらうと、意図性というか「こうしなきゃいけない」という緊張が少しほぐれて、かえって随意運動がよく出てくるんだって(笑)。攻める側というか、「受け」の人のほうが高度だという今のお話を聞いていて、これはかなり自分に引きつけての理解になるとは思うんですけれども、意図性を強く持ったモメントと、散らすモメントの両方が必要だということなのかなと思いました。

 

内田 意図性を強く持つと全体として運動制御がうまくいかなくなるのは、武道の場合でも同じですよ。

 

熊谷 それに対して、勝つほうの人は、わりと対応するだけでいいというか、楽な部分があるということですね。

 

内田 そうですね。ただこれもまた武道の場合というのは二重、三重に仕掛けがあって、実際には、最終的に勝つ側――「取り」ですけれども――は、向こうが攻撃してきたからといって、それに反応しちゃいけないんです。攻撃させる。

 

熊谷 攻撃させる?

 

内田 蟻地獄の中にアリを誘い込むような感じで場をつくっていて、やむなく相手が攻撃せざるを得ないような形に追い込んでいく。そういう状況設定になっているんです。だからその段階で、つまり相手が打ち込んだりつかんだりしてきた段階で、既に自分のゲームが始まっている。

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(次ページ ◆キマイラをつくる――対立と同化)

 

 

(2ページ目)

◆キマイラをつくる――対立と同化

 

熊谷 それに関連しているような気もするんですけれども、先ほどの稽古を一つのシナリオとして読み込むならば、最初はわりと対立的な構造からスタートしそうになるんだけれども、何かある一手を境に、ちょうど介助する側とされる側の関係みたいなものに近づく感じがしました。二体の意図性を持った対立的な身体があるところから、途中から一体に変わって、「受け」のほう――攻めるほうですから「受け」ですね――が、「道具」になるというか「延長」になるというか。

 

内田 おっしゃる通りです。

 

熊谷 それ、やっぱり最初対立があって、途中から……

 

内田 同化していくんです。

 

熊谷 ええ、同化していく。それはすごく感じました。

 

内田 最初は対立的な図式から始まるんですけれども、最初のファーストコンタクトのところからうまくなじませていって、体を同化的に使うことによって、一個の身体――僕はキマイラ(http://ja.wikipedia.org/wiki/キマイラ)という言い方をするんですけど。

 

熊谷 キマイラ? ああ、なるほど。

 

内田 合気道の場合は二人で一つの身体をつくることになるので、頭が二個あって、胴体が二個あって、手足が全部で四本ずつあるような不思議な生き物ができる。それがキマイラなんです。

 一方の人間が自分にまとわりつく他者の身体を制御しようと考えて動くと、非常に面倒な仕事になる。だから、そうじゃなくて、逆に考える。まず固有の運動法則や行動法則をもつキマイラを想定する。すると、それをどんなふうに制御したらいいのかという技術問題になる。キマイラの身体を制御できるのは、定義上キマイラ自身です。キマイラを構成する二つの身体のどちらもキマイラを制御できない。どちらも身体の一部分にすぎないわけですから。ですから、どちらが先にキマイラになるか、それが技のかんどころになるわけです。

「対立的に体を使う」ということは、言い換えると、「自分の体に居着いている」わけです。だから、原理的にそういう人はキマイラにはなれない。「俺」のままでしかいられない。相手と自分の両方をふくむ身体の制御主体というポジションには立てない。

 

熊谷 はい、わかります。

 

内田 対立的に体を使う人間はキマイラを制御できず、同化的に体を使う人のほうが制御主体になる。ただし「同化」と言ってもね、相手を受け入れるとか、許容するとかいうのとはちょっと違うんですよ。受け入れるとか許容するというのだと、その動作はあくまで「私が」主体になる。それでは「私と相手」という対立図式はそのまま生き延びてしまう。そうじゃなくて、私を消して、相手も消して、両者が一体となったところの非常に複雑な運動体を制御する。

 

熊谷 そこで思い出したんですが、すごく印象的だった場面があったんです。腕を弓のように固くして、肩に作用点がかかり過ぎないように腕を……あれはどうやっているんですかね。

 

内田 肩肘のところに関節がありますよね。関節を関節として使うと、そこで流れが切れちゃうんです。関節というのは動くところと動かないところ、緩んでるところと硬直しているところが分離しているから作動するわけです。でも、こちらとしては、そういうふうに体を切り分けたくない。だから、そこを「ロック」しちゃうんです。関節が曲がらないように。

 

熊谷 ロックって、身体の自由度で言うと、ある種凍結が起きていることですよね。普段はそこはわりと自由度がある場所であるにもかかわらず、自由度を減らして凍結させるんですか。

 

内田 普段は、腕を使うときに、周辺部位の筋肉だけを使って操作しますよね。関節って、そういうものなんです。そこだけで用が足せる、だから便利なんです。でも、武道的に体を使う場合は、関節を逆にロックして使えなくする。すると関節周辺の筋肉は使えなくなる。しかたがないから、それ以外の骨格や筋肉を動員することになる。ふだん、腕を動かすときには使わない体幹の深層筋を使って腕を動かす。そうなると、動員されている筋肉の量が違いますから、そのほうが圧倒的に強い力がそこに発生することになる。そういう理屈です。

 

熊谷 そのときの体感ってどんな感じなのかなと思いまして。自分を例にして言うと、それこそキマイラをつくるときは、基本的には自由度を高めようとするほうがいい。自分を「散らす」ほうにイメージを持つんですよね。そして、ボトムアップに勝手に運動が出てこないかなと待っているような感じにする。

 脳性麻痺の身体って、放っておくとものすごく自由度が減る身体なんです。一個の関節を動かすと、勝手に全部動いちゃうみたいな。そしてさっき言ったように意図性を強く持てば持つほど、さらに自由度が減ってしまう。それを日常の中で動きやすくするためにどうやって緩めるかというと、今言ったように、意図性を弱くして散らすようなイメージを持つんです。

 でも一方で、対談のためにさっき道場からこの部屋まで皆さんに担いでもらっているときなんかは、担いでもらうのを少しでも楽にしたいというふうなキマイラが生じる。そのときは、より一層自由度を減らすというか、荷物になろうと思う。ぐにゃぐにゃしていると持ちづらかったり、力の伝導がおかしくなってしまって周りが大変になることが経験上わかるので、そのときには、待ってましたとばかりに脳性麻痺の身体をフルに先鋭化して(笑)、固い棒になるわけです。

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(次ページ ◆感染する身体――二つの方法)

 

 

(3ページ目)

◆感染する身体――二つの方法

 

熊谷 そこでお尋ねしたいのですが、稽古のときに、さっきの腕を固くするのとよく似た技が、二回続きましたよね。

 

内田 みんなそこで混乱してました(笑)。

 

熊谷 あの二つの差がおもしろいなと思って。視覚的には一見すごく近いように見えるんですが、二回目のときに内田先生が、具体的にどういう表現だったかは忘れたんですけれども、「繊細に」とか「精密に」というような言い方をされたんです。一回目の固くするのと二回目のそれは、なんかものすごく違うことをやっているように見えて……。

 

内田 ええ、そうなんです。使う筋肉が、屈筋系と伸筋系で違っています。前に押し切る形と、手元に引いて切る形で、筋肉の使い方が違うんです。押し切り系の動きのほうが若干主体の側の自由度が減るんですね。でも、接点での操作性をある程度犠牲にする代わりにほかの部位を総動員しなければならなくなる。さっきした話です。ロックしちゃうと、他を使わないとどうにもならなくなる。すると、「烏合の衆」が中枢的な指揮がないままにワーッと出てくる。そうなると、もう統御できない。体が勝手なことを始めちゃうわけです。

 

熊谷 とても脳性麻痺的だ(笑)。

 

内田 でも、体が勝手にやってるほうが武道的には「強い」動きになるんですね。勝手にやってるから、わずかな入力変化でどんどん動きが変わる。全身の筋肉を使って動くと、どこか一点で抵抗に遭遇するとそこはもうあっさり放棄して、すぐに違うところで仕事の続きを始める。どんどん違うところへ違うところへとずれていく。だから、相手からすると、防御がとっても焦点化しにくいわけですね。何が起きているのかわかんないですから。

 お城が攻められているときに、あちこちから無秩序に敵兵が湧いて出てくるようなものです。ある場所を抑えても、別のところからうじゃうじゃ出てくる。だから、城を守っているほうは何が起きているのかわからない。そういうとき、生物は本能的に「待ってしまう」んですね。とりあえず、何が起きているのか理解しようとする。そこへわずかながら入力の変化があると、ついその入力を追ってしまう。「追う」というのはもう「後手に回る」ということなんです。いつの間にか相手の動きの中に巻き込まれていて、気がつくと相手の掌中に置かれている、と。

 

熊谷 なるほど。身体の一箇所に自由度の凍結がおきると、他の部位に自由度が拡散的に伝導していくのですね。自由度の低さが必ずしも焦点化とイコールではないというのは興味深いです。

 

内田 あとですね、これなかなか説明しにくいんですけれど、「強い型」というのがあるんです。型そのものが生物的に強い、そういう体の形があるんです。この「強い型」というのは感染するんです。感染力が強い。相手がこちらのつくる型に感染しちゃうんですね。この型に反応して、同じ形になってしまう。

 「反りが合う」という言葉がありますけれど、文字通り「反りが合う」んです。日本刀には固有の「反り」がありますけれど、これで斬り込むと、この太刀の「反り」に相手の体も感染して、揃ってしまう。

 

熊谷 なるほど。

 

内田 テレビでお相撲を見ていると、座っていても思わず反り返ったりしますけれど、あれと同じ。

 

熊谷 引っ張られちゃうんですね。

 

内田 ミラーニューロン的にと言うとちょっと言葉が便利すぎて説明にならないんですけれど、「強い型」にはお互いの体が揃ってしまう。揃ったものと揃ったもの、同型的なものが重なったり、混じり合ったりしているわけですから、異質なものよりもずっと制御しやすい。運動の伝導性が高い。こういうふうに動いてほしいな、と思う通りに向こうの体が動いてくれる。

 この「強い型」というの、能における「開き」という形や、キリスト教の祝祷(しゅくとう)の形とか、拳法の站椿(たんとう)の形とかって大体同じなんです。両腕と懐を使ってアーチを作る。肩も肘もロックしているから、そこで関節が折れない。たわむけど、折れない。この形は強い力の波動を生み出すので、向こうの体の筋肉繊維が、本人の意志とはかかわりなく、それに揃ってきちゃうんです。二人の体がまとまってしまう。「強い型」という言い方をすると、強弱勝敗とか対立関係で語られているように思えるでしょうけれど、実は非常に同化的な形なんです。

 

熊谷 強くて固いけど、同化的なんですね。

 

内田 その前にやったもう一つの動き、「諸手取り呼吸法」はそれとは原理が逆なのかな。僕の手を取りにきて伸ばしてきた相手の腕の筋肉の流れを、自分のほうの流れに揃えていく。「強い型」は僕の作る型に相手を感染させたわけですけれど、それとはちょっと違いますね。ただ、これも「相手に合わせる」というのとは違うんです。「相手に合わせる」というのは相手が主で、自分が従になりますね。誰かが「責任者出てこい!」と怒鳴っているときに、その後ろからおずおずと「出てこい」と小さな声で唱和するというのが「相手に合わせる」。そうじゃなくて、「責任者出てこい!」と怒鳴っている人間の後ろから、その三倍くらいの声で「出てこい!」とがなり立てて、最初に怒鳴って人を押しのけて前面に立ってしまうような感じ、ってわけのわかんない比喩ですけど(笑)。

 要するに自分が始めた動きなんだけれど、後から来た人間に「乗っ取られてしまう」という感じと言ったらいいでしょうか。たしかに二人とも同じようなことをしているのだけれど、「相手に合わせる」のとは違う。相手が予想もしていないくらいの強度で、相手が始めた動きを加速し、増幅させているわけですから。結果的には「強い型」を感染させるのも、相手の動きを「増幅」させてるのも、どちらにしても動きは同化的になるんです。アプローチがちょっと違う。

 

熊谷 なるほど、同化プロセスが「取りの繰り出す強い型が受けに感染する」のか、「受けの繰り出す動きが取りの繊細な動きによって増幅される」かの違いなんですね。そして順序が先行する側の身体が固い。あの二つの違いは何だろう何だろうとずっと思っていて。

 

内田 でも、よくぞ「そこ」を見取ってくれましたね。視覚的にはほとんど同じものに見えるはずなんですから。

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(次ページ ◆成熟というプロセス――相反する要請をどう扱うか)

 

 

 

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◆成熟というプロセス――相反する要請をどう扱うか

 

熊谷 だからよけいに何が違うんだろうって想像してしまうんですが、今の説明をお聞きして、何となく自分が普段やってることも近いところがあるような気がしました。私の身体はほかの身体よりも自由度が少なくて固い身体なので、職場とかでチームワークを組むときには、周りを自分のほうに引き込むのが基本なんです。そのときにすごく影響してるなと思うのが、一つは今の自由度とか固さの差なんですけど、もう一つが時定数といいますか、リズムの差という感じがしています。

 

 相手のほうがやっぱり変化の時間のコマ送りが速い。自分は一挙手一投足が遅いというふうな感じが当然あるんですけれども、逆に遅さで引き込むんです。うまくいっているときは自分がオーケストラの指揮者になるようなイメージで、ゆっくりとしたテンポで指揮をする。周りが16ビートだとしたら、自分の4ビートに合わせてくれるというふうな形で引き込んでいく。そんなイメージがいつもあるんですが、その時定数が合わなくなると、チームワークはうまくとれないんですね。

 同化の仕方にも二つあるとおっしゃいましたが、このように自分のペースに合わせるほうのは私が普段やっていることに近いと感じました。でも、こういう体であっても、先ほど固い棒になるって言いましたが、相手に沿わせるほうのモメントも少しあるんですよ。

 

内田 鋭い剃刀で薄皮を削ぐような精度の高い運動と、巨大なまさかりで委細構わず叩き割るような豪放な運動の二つが武道的な動きには必要なんです。この二つは共生不能ですから、どうしても、やっぱりどの武道家でも性格的にどっちかに偏っちゃうんです。でも、この矛盾した要請に同時に応えるというのが武道の重い技術的課題なんですね。

 技法的に言うと、たぶん「まさかり」的な動きと「剃刀」的な動きがめまぐるしく交代するということになるんじゃないかと思います。今までは「まさかり」だったけど、次の瞬間「剃刀」になってる。「まさかり」で入ってきた動きが途中で「剃刀」に変わって、また「まさかり」になって抜けていく、みたいな。そういう種類の体の状態の自在な変化ができるようになるのが武道的な身体ということなのかな、と。僕が今のところ考えてるのはそういうことなんです。

 

熊谷 うーん、頭がチリチリする感じですね(笑)。

 

内田 そうですね(笑)。

 

熊谷 その対比って、すごく普遍性があるという気がします。私はいま「発達」の研究をしているんですが、「自由度の凍結と解放を周期的に繰り返す」のが発達プロセスだという理論があるんです。ボディスキーマ(身体図式)のレベルでもそうですし、知覚のレベルでもそういうことが起きていそうだということはよく言われています。今のお話は、過剰な自由度を凍結して一体化させるモメントと、それを散らして繊細に制御するモメントが同時に存在するという緊張感の中で子どもが発達していく、みたいに受け取りました。「発達」だけでなく「熟練」というプロセスもおそらくそういう中で起きるんでしょうね。

 

内田 それは直感的にわかります。熟練とか成熟というプロセスって、二つの原理の中で葛藤することで達成されるわけですから。どっちか一方に片づけてくれと言われてもダメなんです。相反する二つの要請に同時に応えるという葛藤に放り込まれると人間は成熟する。

 

熊谷 うーん。頭がチリチリする。

 

内田 そういうふうに頭がチリチリするのが必要なんです(笑)。不思議なもので、そういうとき、つまり、自分の手持ちの資源を既知の使い方で使うのではどうしても対応できないという状況に放り込まれるときに、初めて資源の潜在可能性が開花してくるんですよね。

 

熊谷 まさに、私が一人暮らしを始めたときには、対応できない状況に放り込まれた感じで、パッケージ化された資源がいったんバラけて、再編集される感じがしました。

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(身体で出会う言葉――武道家と障害者の逸脱的言語論 第1回「視覚の外へ」了)

 

「第2回 視覚の外へ」はこちら

 

 

 

 ボーナストラック!

古武術介護の岡田慎一郎さんが、熊谷さんを車いすから椅子に移乗させるテクニック。お店は本郷の名店「ファイアーハウス」。ハンバーガー、高いけどおいしいです。

 

 

 

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『死と身体』(内田樹著) 

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『リハビリの夜』(熊谷晋一郎著)

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古武術介護実践編(岡田慎一郎著)

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