14-2 看取りをとおして思い知ったこと(最終回)

14-2 看取りをとおして思い知ったこと(最終回)

2014.4.09 update.

なんと! 雑誌での連載をウェブでも読める!

『訪問看護と介護』2013年2月号から、作家の田口ランディさんの連載「地域のなかの看取り図」が始まりました。父母・義父母の死に、それぞれ「病院」「ホスピス」「在宅」で立ち合い看取ってきた田口さんは今、「老い」について、「死」について、そして「看取り」について何を感じているのか? 本誌掲載に1か月遅れて、かんかん!にも特別分載します。毎月第1-3水曜日にUP予定。いちはやく全部読みたい方はゼヒに本誌で!

→田口ランディさんについてはコチラ
→イラストレーターは安藤みちこさんブログも

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【対談】「病院の世紀」から「地域包括ケア」の時代へ(猪飼周平さん×太田秀樹さん)を無料で特別公開中!

前回まで 

 

一番しんどかったのは

 幼少のころから核家族の中で育ってきた私には、祖父母と一緒に暮らした記憶がありません。人を介助したり、弱い者を助けて共に生きるという経験がないのです。私がこんな荒んだ気分になるのは、そもそも私が人の世話をするような育ち方をしてこなかったからなのかなあ……と、自分の薄情さを切なく思ったことが何度かありました。
 ご老人のお世話をするのが苦にはならない人もいると聞きます。介助に喜びを感じる方もいると聞きます。私は違います。私は人のお世話は苦手ですし、それをすることにさほどの喜びも感じません。ただ、目の前にいつもさし迫った現実があり、その現実は自分が引き受けなければどうしようもないから、精一杯向き合ってきただけなのです。
 もちろん、一緒に暮らしているわけですから、心が触れ合い、相手を思う気持ちは自然と育ってきます。でも、いつもそんな優しい人でいられるわけではなく、「あーあ!」という冷めた気持ちで物事を見ていることも多かったです。
 私は、責任感はあるほうかもしれませんが、温情とか優しい心根というのが自分にはあまりないように感じます。何よりも、自分がどうかしていると思うのは、私には人の死がさほど悲しくないのです。
 家族が亡くなっても、友人が亡くなっても、死んでいくことはいたしかたないことだ、しょせん人はいつか死ぬものだしな、という気持ちが強く、お気の毒に思ったり、もっと長く生きてほしかった、というような悔いや、この世からいなくなったという喪失感は、それほど感じないのでした。
 お葬式などで、大変な悲しみに打ちひしがれている人を見るにつけ、なぜあの人はあんなに悲しんでいるのだろうか。もちろん、人が亡くなるのは悲しいに決まっていようが、しかし、私はあんなふうに悲しめないなあ……と、呆然としてしまい、こういう自分はどこか少し性格的な問題でもあるのだろうか、と悩んだりもしました。
 今、目の前に苦しんでいる人がいるのであれば、現実的に何とかするための努力を惜しむことはありません。どちらかと言えばおせっかいで、他人様の問題に関わると、とことん面倒を見てしまうほうです。でも、それが相手への愛情かと問われると、そうでもないような気がしてしまい、いったい自分はなぜ他者とこんなに真剣に向き合わざるえないのか、それもまた己の業のような気がしてきます。
 心のどこかに、若くして孤独死をした兄に対する思いがあり、もう一歩、自分が兄の思いに踏み込んで行動していたら最悪の結果を避けられた、という無念から、他人に対しては精一杯のことをやり遂げたいと考えてしまうのかもしれません。
 家族が老いて病気になれば、落ちていく体力をどうフォローして、今の状態で最善の生活をしてもらうか。それを、まるで職業のように冷静に考え対応してきました。ですが、そこに愛情があったかどうかは、自分ではよくわからないのです。
 実の父母、義父母の4人がみな亡くなってしまうと、ネガティブな記憶ほどはやく消えていきます。だから、残された私と夫と娘は、おじいちゃん、おばあちゃんたちが生きていたときの、一緒に暮らした楽しい出来事しか思い出さなくなっています。
 ですが、楽しいことと同じだけ、うんざりするような出来事も多々あったのです。いつもお手洗いがおしっこで汚れていたこと、廊下にころころした便が落ちていたこと、洗面所のコップの中に置いてあった入れ歯とか、タンスの中に突っ込まれていた使用済みの紙オムツとか。
 そういうことは「あらあら……」と笑って受け流していたのですが、月のうち何日か、どうしてもそれが骨身に堪えるような日があり、そういうときに、老いを嫌悪している自分の心に気づき、ああ、やっぱり私も、老いるということがみじめなことだと感じているのだなあ……と、がっくりと落ち込んでしまうのでした。
 看取りのなかで一番しんどかったのは、この、老いや死に対する、吐き気のような嫌悪感に自分がハッと気がつくときでした。こればかりは、どうしようもないのです。
 そして、この私の、老いや死への隠されていても強い恐れ、嫌悪が、相手に気づかれているのではないかと、ドキドキしてしまうのです。
 もし、自分が老いたときに、一番つらいのはたぶん、介護してくれる家族の顔に老いへの嫌悪を見てとったときではないかなあ、と思います。そういうとき、私はきっと「私がおじいちゃんやおばあちゃんに対して感じてしまったことを、この人も感じているのだな」と思ってやるせなくなるのでしょうね。
 この、なんとも言うに言われぬ老人に対する冷めた眼差しは、自分の肉親、身近な人に対して感じるものであって、まったくの他人にはほとんど感じません。自分と相手との距離が近しいから、相手の老いと自分の姿が重なってしまうのじゃないかと思います。近親者というのは、一番自分の心を映してしまうんですよね。

 

つづく

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訪問看護と介護

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