「こどもが主役」の本当の意味

「こどもが主役」の本当の意味

2013.3.05 update.

馬戸史子 イメージ

馬戸史子

米国マサチューセッツ州ボストンのWheelock大学大学院Child Life専攻理学修士課程修了。ボストンでのインターンシップを経て、Certified Child Life Specialist 資格取得。カリフォルニア州のオークランドこども病院にてチャイルド・ライフ・スペシャリスト(CLS)として勤務。2007年7月より大阪大学医学部附属病院小児医療センターにてCLSとして勤務。こどもの頃から、絵本作りが好きで、運動(特にドッジボール)が苦手でした。今も運動音痴は相変わらずですが、こども達の気持ちのボールは大切にキャッチしたい…と願う毎日です。

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CLSになりたい方、留学等に関心がある方は以下のサイトをご参照下さい!

book 北米チャイルド・ライフ協会

book 日本チャイルド・ライフ学会

book チャイルド・ライフ・スペシャリスト協会

 

 

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こどもたちが少しでも安心して治療を乗り越えていけるように、“こどもに優しい(Child-Friendly)”環境、“こどもが主役(Child-Centered)”の関わりを目指して、日々取り組んでいます。難しい課題に直面するたび、“こどもに優しい”“こどもが主役”の本当の意味について考えます。今回は、3名の経験豊かなCLSが教えてくださったことの中から、今も原点となり、支えとなっていることをご紹介したいと思います。

 

1%の安心

 

ひと夏3か月間のインターンシップで、手術室専任CLSリズ(仮名)のもと、手術室エリアで過ごしました。手術待合でのプリパレイションと緊張緩和のための治癒的遊び介入、手術室まで同行しての麻酔導入までのコーピング援助、回復室における術後の苦痛緩和のサポートなどがCLSの主な役割です。遠方から手術のために来院するこどもたちや、緊急で手術を受けるこどもたちも多く、ほとんどのこどもたちとは手術当日に初めて会うため、長期間かけてじっくり関係性を築いていく病棟でのインターンシップとは全く異なる体験でした。

 

朝5時に起き、6時には術衣に着替えて、医師・看護師とのミーティング。リズと打ち合わせをして、その日手術を受けるこどもたちを迎える準備をします。病棟ではCLSは私服を着用しているため、服装もこどもたちの緊張や警戒心を和らげる材料のひとつになりますが、手術室エリアでは、CLSも医師や看護師と全く同じ術衣を着用しているため、外見に頼らずに、関わり方のみで、初対面のこどもたちの緊張を和らげ、自分がどのような役割かを伝えなければなりません。

 

手術室エリアでのインターンシップの初日、リズは、こんなことを話してくれました。「病棟では私服を着ているCLSが、最初から最後まで術衣を着てこどもたちと関わらなければならない場所というのは、それだけで、チャレンジだと思う。でも、これは、チャンスでもあるのよ。私服=安心・親しみ、白衣・術衣=緊張・不安というイメージを変えるチャンス。医師も看護師も、ここにいるみんながあなたの味方。その事実を、自分の身をもって伝えるチャンス。こどもたちの気持ちを和らげるとき、服装とか部屋の装飾とかおもちゃとか、視覚的な効果は大きいから、可能な範囲で、活用するのは大切なこと。でも、それだけに頼って、それだけで、“こどもに優しい”とか、“こどもが安心する”とか思い込むと、その場しのぎの表面的な援助になってしまうかもしれない。ここでは、病棟に比べて、視覚的には殺風景な部分が多いからこそ、中身が大事なの。不安のただ中で安心を守ること、“こどもに優しい”関わりの本当の意味を、毎日学べて、いろんな工夫ができるのよ」と。

 

リズが話しかけ、こどもたちと遊び始めると、こどもたちの視界からは殺風景な背景が消え、リズの笑顔と温かく和やかな遊びの世界だけが見えるようでした。こどもたちの緊張を和らげ、何気なく、こどもたちが医師や看護師を身近に感じるきっかけを作り、こどもたちが「みんなが味方」と感じられて、少しでも安心・理解して手術に臨めるようにサポートしていました。

 

毎日毎日、手術を受けるこどもたちをサポートしていて実感したのは、どんなに緊張や不安を和らげられたとしても、当然のことながら、手術を前に心から「安心」できるこどもは(大人でも)1人もいないということでした。たとえ、こどもが理解して心の準備をし、笑顔でおしゃべりしながら手術室に向かい、楽しそうに遊びながら麻酔導入までの時間を過ごせたとしても、それは、「不安なく」ではなく、「不安の中の“1%の安心“が守られて」手術体験を乗り越えたのだということ。大切なのは、「100%の不安」にならないようにすること、「99%の不安」を無理に取り除こうとしたり、否定したりせずに、認め寄り添うこと、そして、こどもにとっての心の拠り所の「1%の安心」がしっかり保たれるように、周囲が協力して温かく守り支えることだと身をもって学んでいきました。

 

私がリズから独り立ちしてから、ある日、担当した女の子にプリパレイションをした後、一緒に遊びながら待ち時間の緊張を和らげるサポートをしていました。女の子は、ポータブルカメラを気に入り、手術待合室のいろいろなものを撮影した後、両親の写真を撮りました。写真をお守りとして手術室に持っていくことを提案すると、「ほんと?持っていっていいの?」と表情が輝き、「じゃあ、お願いがあるの。もう1枚、写真を撮りたいの」と言いました。医師と看護師と私、3人の写真を記念に撮りたいと言うのです。プリパレイションの際のメディカル・プレイを振り返り、「私の仲間だから」と。女の子は私たち3人の写真を撮り、「この写真も手術室に持っていきたいの」と言いました。手術エリアの殺風景な背景、全身青色の術衣を着た医師と看護師とCLS…一見、気持ちを和らげる要素はどこにもないように見えるその写真を見て、ドクターが少し申し訳なさそうに、「こんなのでよかったの?もっと、カラフルな壁画とかおもちゃとか、気持ちが和むものと一緒に映せばよかったかな?」と言うと、女の子は、「これがいいの。これが撮りたかったの。気持ちが和むもの、ちゃんと映ってるよ」と3人の笑顔を指さしました。カメラを持つ女の子に向けられた笑顔です。女の子は、写真を握りしめて手術室に向かい、回復室ではベッドサイドに飾られていました。

 

今でも、女の子が自分で撮って“お守り”にした1枚の写真を思い出すたび、 “こども扱い”や“こどもだまし”ではなく、本当の意味の“こどもに優しい”関わりや環境づくりを、見失わずにいたいと思っています。

 

心のトンネル

 

アメリカでCLSとして働いていた時、CLS全員で行うCLSミーティング、数名のCLSで行うグループ・ディスカッションの他に、各CLSがチャイルド・ライフ・ディレクターと行う一対一のミーティングが週に1回ありました。他のCLSが病棟業務をカバーしてくれる安心感の中で病棟を離れ、担当病棟のこどもたちとの関わりについて落ち着いて振り返り、改善や向上のための試み・取り組み・アイディア、日頃の業務で嬉しかったことや悩んでいることについて、ディレクターのローレル(仮名)に相談する機会でした。専門的な相談をする場としてだけではなく、ほっと一息つき、“心休まる場所”にもなっていました。担当病棟のこどもの状況の厳しさに直面した時など、「CLSとして」の役割を最優先して行動する病棟をしばし離れて、「1人の人間として」安心して気持ちを共有できる場所を作ってくれました。

 

ローレルには、「帰宅途中のトンネルを抜けるときに、物理的にも精神的にも、“CLS”から“1人の人間”に戻っていくのよ。オフィスで温かいコーヒーを飲む時間は、小さなトンネルね。どんな形でもいいから、心の中にトンネルをもってね」とアドバイスしてもらったことがありました。病棟からディレクター室へ向かう静かな廊下、そして、またディレクター室から病棟へ戻っていく廊下は、当時の私にとって、職場の中の小さなトンネルだったのかもしれません。

 

セルフケアという意味だけではなく、「CLSとして」の視点や視野で考えているときには見えていなかったこどもと家族の気持ちが、「1人の人間として」の視点や感受性に立ち返った時に見えてくることも多くあります。ご家族がニーズや要望、心に抱えた疑問や不安をスタッフに伝えやすくするよう援助する場合、「どうしても遠慮や躊躇をしてしまう」気持ちにどこまで寄り添えているでしょうか。自分自身が患者や患者家族の立場の時の視点や気持ちに立ち返ると、「遠慮せずに言ってくださいね」という促しや励ましの言葉そのものよりも、「遠慮せずに言ってもいい」と自然に感じられるような「会話の間」「タイミング」「空気」「表情や姿勢」等の言葉にならないメッセージのおかげで、安心して不安や疑問を伝えることができたことを思いました。私たちスタッフも皆、それぞれに、患者や患者家族の立場になる場面があります。その経験やその時の気持ちを、スタッフとして働いている場面で、心の「前面」や「中心」に置いてしまうと、「自分が主役」になってしまいます。心の「奥」の方にしまっておいて、必要な時にそっと取り出して顧みることができたら、“こどもを主役”にして気持ちに寄り添うための助けになるように思います。

 

帰国後、同職種とのミーティングのない今の職場では、日々の業務の中で、「CLSとして」専門的に判断しなければならない部分は、最終的には、1人で考え1人で決断していかなければなりません。でも、だからこそ、独りよがりや自己満足、過度な自責の念に陥らないよう、「医療チームの一員として」他職種に相談し、他職種の視点から学ぶ機会や、「CLSとして」他施設のCLSと意見交換する機会、そして、「1人の人間として」の視点に立ちかえる“心の中のトンネル”が必要なのだと感じています。

 

「分かり得ない部分」の重み

 

インターンシップのスーパーバイザーだったナタリー(仮名)は、40年以上の経験豊かなCLSで、私のロールモデルのCLSです。常に、一貫して、徹底して、“こどもが主役”“こどもが最優先”のCLSです。

 

広い知識と豊かなスキル、温かみある優しさと鋭い洞察力・感受性を持ち、深く“こどもの気持ち”を汲み取ることのできるナタリーは、同僚のCLSや他職種の同僚はもちろんのこと、私たち学生や、ご家族やこどもたちを含めて、周囲のあらゆる人に敬意を払い、対等に向き合い、学び続ける謙虚さを持ち続けていました。“こどもの気持ち”について話し合うとき、一方的に、「こうだと思うわよ」と断定的に言うことがありませんでした。私のような未熟な学生の見解や視点にも、敬意をもって耳を傾け、「あなたに大切なことを気づかせてもらった。ありがとう」と言うような人物でした。

 

ナタリーは、思慮深い助言や提案、“こどもの気持ち”についての見解を話した後に、最後に温かいまなざしで、「分かり得ない部分」について言葉を付け加えることがよくありました。彼女が、あえて断言を避けて付け加える「分からない」という言葉の奥には、こどもの心の「はかりしれない奥深さ」と「かけがえのない尊さ」への敬意がありました。安易に「分かったつもり」になることによる判断ミス、簡単に「分かる、分かる」と言うことによる配慮の欠如、どんなに分かろうとしても分からない部分・踏み込んではいけない部分・分析できない部分があることを、常に意識していたのでしょう。

 

「決して分かり得ない」「完全には分かることはできない」ことを知っているからこそ寄り添うことができる。寄り添いながら、できる限りのサポートをする。ナタリーのAPIE(アセスメント、計画、介入、評価)には、プロフェッショナルな思慮深さだけではなく、人間味ある“行間”と“奥行”と“余韻”がありました。それは、決して分かり得ない、決して分析できない“人の気持ち”の奥深さや繊細さ、複雑さや気高さへの「敬意」と、簡単には判断・解決できない状況や関係性の「受容」だったように思います。

 

こどもたちや家族がナタリーと話していて、安心して心を許すことができるのは、judgmental(一方的判断で、断定的、批判的)に分析して決めつけるのではなく、こどもと家族自身が、自分で少しずつひもといて整理できるよう、その力を引き出し、その過程を手伝い見守ってくれるからなのだと気づきました。そして、ナタリーは、最後まで残っている「訳の分からない感情」を、「無理に整理しなくていいよ、そのままでいいよ」と柔らかく受け止め、それを、一時的にあるいは継続的に入れることができる「いれもの」、つまり、気持ちの避難場所・保管場所をそっと提供していました。

 

インターンシップの最終日、ナタリーと私は、“Toot & Puddle –You Are My Sunshine”(著:Holly Hobby、出版:Little, Brown Books for Young Readers) という絵本を、一緒に見ていました。インターンシップの間、こどもたちに「もう一回読んで。もう一回読んで」と繰り返しリクエストされた思い出深い絵本のひとつです。ナタリーは、インターンシップの最終日の記念にと、私1人に読み聞かせをしてくれました。こどもたちが病室に戻った後の、がらんとしたプレイルーム。私は、ナタリーの読み聞かせを、CLSではなく、こどもの気持ちになって聞くことにしました。”なぜだか分からないけれど気分がふさぎこんでしまって元気が出ないToot“と、”一生懸命に何とかTootを元気づけようとするPuddle“の物語。物語の最後に、Tootは元気を取り戻しますが、ふさぎこんでいた理由は、最後まで「分からない」ままです。もしも、「Tootはこういう理由で落ち込んでいたことが分かりました。Puddleのおかげでそれが解決されたので、Tootは元気になりました」という物語だったら、こんなにも、こどもたちの心に触れなかったでしょう…と、ナタリーと話しました。

 

”理由のはっきりしない落ち込み“と”簡単には心が晴れない時間“と”時が来て心が晴れる瞬間“を、そのまま、ありのままに受け止める温かい余韻が、この絵本にはありました。言葉で思いを表現するのが苦手な子だけではなく、多弁な子も、この絵本がお気に入りでした。読み終えた後、草原に寝転ぶToot とPuddleのラストシーンを眺めながら、副題の通りの、雲間の日差しのような温かい余韻の中で、こどもたちは、ほっとしたような柔らかな表情になりました。誰もが共通して心のどこかに抱えている「わけがわからない」気持ち、「どうして元気ないの?どうしたの?何かあったの?って聞かれても、自分でもよく分からない」その「もどかしい思い」、そして、力になりたくてもどうしてよいか分からない周囲の人の「もどかしさ」、その居場所と救いが、この絵本の中にあるのかもしれません。

 

経験も知識も感受性も関心も不十分な段階の「分からない」にも、無知・未熟なまま軽率に言ってしまう「分かる」にも、浅い理解で「分かったつもり」で行ってしまう介入にも、勘違いや見落とし、過信や自己満足や配慮の欠如につながる可能性があることを思います。その度、40年以上の経験を積んだナタリーが大切にし続けていた「分かり得ない部分」の重みとぬくもりを思い出しています。

 

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今回で、私の担当は最後になります。お読みいただき、ありがとうございました。次回からは、東京医科歯科大学病院のCLS村瀬有紀子さんが連載を担当してくださいます。お楽しみに!!

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