こどもの心の氷が溶け始めるとき

こどもの心の氷が溶け始めるとき

2013.1.29 update.

馬戸史子 イメージ

馬戸史子

米国マサチューセッツ州ボストンのWheelock大学大学院Child Life専攻理学修士課程修了。ボストンでのインターンシップを経て、Certified Child Life Specialist 資格取得。カリフォルニア州のオークランドこども病院にてチャイルド・ライフ・スペシャリスト(CLS)として勤務。2007年7月より大阪大学医学部附属病院小児医療センターにてCLSとして勤務。こどもの頃から、絵本作りが好きで、運動(特にドッジボール)が苦手でした。今も運動音痴は相変わらずですが、こども達の気持ちのボールは大切にキャッチしたい…と願う毎日です。

 

 

CLSになりたい方、留学等に関心がある方は以下のサイトをご参照下さい!

book 北米チャイルド・ライフ協会

book 日本チャイルド・ライフ学会

book チャイルド・ライフ・スペシャリスト協会

 

 

→前回はこちら

 

 

前回、初対面の、もしくは、まだ信頼関係ができていないこどもと接する時に大切にしていることの中から、CLS以外の立場の方々の関わりにおいても共通しているのではと思われる以下のような点を、いくつかご紹介しました。

 

・「話す」前に「聞く」ことから、「聞き出す」よりも「耳を傾ける・汲み取る」ことから

・こどもの安心感を守る「間(ま)」を大切に

・こどもの気持ちに「居場所」を作る

・「何を」よりも「どんなふうに」

 

今回は、それらの大切さを痛感したエピソードのひとつ、CLSになったばかりの頃の経験をご紹介したいと思います。

 

***

 

鏡に映る顔

 

資格取得後、日本での勤務を開始するまでの期間、アメリカのこども病院でCLSとして勤務していた時のことです。新米CLSとして働き始めたばかりということもあり、夢の一歩を踏み出した喜びや感動とともに、インターン時代とは違った不安や緊張感もありました。スーパーバイザーの監督下で学ぶインターンの学生としてではなく、CLSとして初めて担当病棟をもち、担当のこどもたちをサポートしていく責任の重さやプレッシャーだったのだと思います。

 

働き始めて間もないある日の朝、担当病棟の看護師から、急を要する介入依頼の連絡がありました。緊急入院した女の子アリー(仮名)が、強い警戒心を示し、医師・看護師からの説明にも、家族の声掛けにも応じず、視線を合わせず、ブランケットにもぐり、会話も処置もすべて拒絶しているとのこと。その日に予定されている処置の時間に合うようにプリパレイションを、との連絡でした。医師・看護師との打ち合わせの後、使う可能性のあるプリパレイション・ツールを急いで準備して、それをオフィスに一式揃えて置いた後、アリーの病室に向かいました。

 

Gentle Presence―優しさをもって寄り添う

 

ドアをノックする前に深呼吸。そこに先輩CLSが通りかかりました。満面の笑顔で、「自信を持って!あなたは新人だけど、もうインターンの学生じゃなくて、プロのCLSよ。十分にトレーニングと勉強を積んでここまで来たんだから大丈夫。それに、子どもたちがまず最初に、ほっと安心するのは、“gentle presence (優しさをもって寄り添うこと)”。いつものとおりでね」と、私の肩をたたいて、その場を去ってゆかれました。その時、窓ガラスに映った自分の姿に気付き、はっとしました。“優しさをもって寄り添うこと”とは程遠い、緊張した硬い表情の自分の姿が、そこに映っていました。それは、決められた処置の時間に間に合わせなければという焦り、スタッフ側の事情や都合の現れた顔でした。そのまま病室に入れば、どんなにかアリーを不安にさせてしまっていたことでしょう。

 

限られた時間であっても、アリーに何かを伝えようとするよりも前に、少しでも彼女の気持ちを和らげ、彼女の気持ちに耳を傾ける時間をもちたいと思いました。まずは、“アリーのスペース”に急激に足を踏み入れず、少し離れた場所から自己紹介すると、うずくまっていたアリーは、顔をあげました。治療と離れた話題、アリーが好きなものについて少し言葉かけをすると、アリーは私の方に視線を向けました。彼女が少し安心してくれたことを確認して、少し近くに歩み寄りました。アリーは、何も言わずに、私の方に向かって手を伸ばし、私の名札についていた小さなおもちゃで、遊び始めました。遊びは、単なる気晴らしやごまかしではなく、張り詰めた心の緊張を解き、言葉を超えた関わりや感情表出のきっかけや助けになることが多くあります。

 

「拒絶」というSOSのサイン

 

しばらくの沈黙の後、アリーは、「わたしね、お人形遊びが好きなの」と、ぽつりとつぶやきました。「この子、私のお気に入りのお人形なの。ドリー(仮名)っていうのよ」と紹介してくれました。一緒に人形で遊び、お話をしながら、彼女のこわばった表情は、まるで少しずつ氷が溶けるように和らいでいきました。少しずつ人形遊びは発展し、遊びの中で、アリーは、ドリーの周りにその他の大きな人形たちを集め、いっせいにドリーに向かって「がんばって」と励ましたり、「おちついて」と宥めたり、「こうしなさい」と促したりしている状況を表現し始めました。アリーは、ドリーの役を演じて、「わたし、すごく悲しいの。困ってるの。どうしていいか分からないの。しんどいの。彼ら(他の大きな人形たち)はみんな優しい人たちなんだけどね」と言いました。「そうなの、すごく悲しくて、困ってるのね。どうしていいか分からないのはしんどいね」と話しかけると、アリーは、ドリーと一緒に、何度も何度も頷きました。しばらくの沈黙の後、「ドリーはね、ちょっとだけでも、だいじょうぶになりたいの」と言いました。「そうなのね…ドリーは、どうしたら、ちょっとだけだいじょうぶになれるかな…彼ら(他の大きな人形たち)にできることもあるかな…」と言うと、アリーは、「たぶん…あると思う」と言い、大きな人形の役を演じ、ドリーの頭を優しくなで始めました。そして、大きな人形は、ドリーに、「がんばって」「おちついて」「こうしなさい」ではなく、「どんな気持ち?どうしたいの?どうしてほしい?」と話しかけました。

 

アリーは、ドリーを通して、アリー自身の希望を表現し始めました。「本当は、痛いことしないで、お家に帰りたい」。同時に、「痛いことがんばらないと、お家に帰れない」というアリー自身の理解も表現しました。アリーにとって馴染みのある人形遊びから、自然に、メディカル・プレイを通したプリパレイションへと移行し、遊びを通して、これから受ける処置について、アリーが受けとめられる範囲で理解し、安心感を得て心の準備ができるように援助していきました。それは、私からアリーへの一方的な“説明”や“説得”ではなく、「お家に帰る」ために必要で大切な処置を、少しでも乗り越えやすくするための「作戦」を「一緒に考える」“相談”でした。アリーは、今の状況、処置の目的や過程、周囲のスタッフの役割、体験や環境について理解できた時、不安な点と、その不安を和らげるために助けになること、処置を乗り越えるためのアリー自身の希望について、ドリーを使って表現し始めました。アリーの希望の中で、実現が難しいこと(処置を中止すること、処置の時間を遅らせること)と、実現可能なこと(「(処置室に)ドリーを連れていきたい」「“針”とか“注射”って言われるとこわい。“小さなちっくん”と言ってほしい」「(処置の時)手を握って、お話してほしい。歌を歌ってほしい」等)を整理し、一緒にリハーサルをしました。彼女の気持ちを家族とスタッフと共有しました。アリーが“すべて拒絶”しながら抱えていた思い、「どんな気持ちか、どうしたいか、どうしてほしいか」を、周囲の大人(スタッフと家族)が理解し、大切に受け止めていることを確認した後、アリーは少しほっとした表情になりました。

 

アリーは、おそらく、最初から、家族もスタッフも、みんなが彼女の味方であることを「感知」し、力になってくれる存在であることを「理解」していたのでしょう。ただ、「感知」「理解」はしていても、慌ただしい働きかけと励ましの中で、自分のペースやスペースが保てず、誰も自分の気持ちや希望に耳を傾けてくれないのでは?と不安になったのかもしれません。心がついて行かず置いてきぼりになったような不安や、その気持ちをどう表現してよいか分からない苛立ちや無力感から、自分の心を守るための砦、SOSのサイン、「ちょっと待って!私の気持ちを聞いて!」という合図として、“すべてを拒絶”という表現につながっていたのかもしれません。

 

アリーの心がの氷が溶け始めた最初の会話と遊びの時間は、ほんの“数分”でした。もしも、私が、緊張した顔のまま、アリーの病室を訪ねていたとしたら、もしも、その数分の“ひと呼吸”“ワンクッション”無しに、慌て焦ってプリパレイションを始めようとしていたとしたら、彼女は、私との会話も、プリパレイションも拒んでいたかもしれません。アリーの気持ちやアリーが必要としている援助よりも、大人の都合やニーズを優先して説得しに来たと、彼女に感じさせてしまっていたかもしれません。

 

大人の事情とこどもたちの思い

 

医療現場には、多くの“時間との闘い”や“止むを得ない急な変更”があり、時間的余裕がない状況・ままならない状況の連続です。また、こどもの気持ちも取り巻く状況も、ケース・バイ・ケースで様々で、一刻を争う緊急事態や、心の氷が溶け始めるのに数時間・数日・あるいはそれ以上の期間必要な子どもたちもいます。それでも、あの日の窓ガラスに映った緊張した自分の姿と、 “アリーとの最初の数分”を思い出す度、たとえ“一瞬、数秒、数分”であっても、少なくとも、「いきなり」の脅威や「一方的」な侵入者にならないために「可能な配慮」や「必要な関わり」があること、たとえ、目に見えて“心の氷が溶け始める”までには至らなかったとしても、こどもたちの気持ちに寄り添うために「伝えることができるメッセージ」があることを思います。その“一瞬、数秒、数分”のささやかなワンクッションによって、こどもたちにとって、“一方的に用件を言われる状況”から“自分からも伝えることができる状況”に変わり、 “何をされるか分からない状況”から“自分が尊重されていると感じられる状況”に変え得ること、無力感や警戒心や不安が和らいで、安心感や主体性を得る“小さな第一歩”になり得ることを思います。

 

大学院の授業で、「CLSの役割:Supportive(支持的)v.s.Therapeutic(治癒的)」というテーマで論文を書き、クラスで議論したことがありました。Child Life Councilの学会でも取り上げられことのあるテーマです。どちらか一方を優先すべき事項として選ぶのではなく、理論と実践、歴史と実体験に照らして、CLSの役割の在り方について、CLSとしての共通の指針と個々のCLSの指針を議論・熟考していくプロセスでした。

 

個々のCLSによって、考えの違いはあるかと思いますが、こどもたちの思いとニーズに寄り添う“支持的関わり”「どのように(どのような存在・関係としてその場に)いるか(Being)」は、こどもたちの思いとニーズを理解・判断して計画・実践・評価する“治癒的介入”「何をするか(Doing)」に欠かせない基盤となっていると、私は感じています。CLSの役割を木に譬えるなら、“支持的関わり”を根・幹(常に継続して必要な基盤)、“治癒的介入”を枝・葉・花(適切なタイミングで必要な対応)と言えるのではと思います。

 

こどもとの関わりの中で、一番大切な部分は、マニュアル化できない、「空気」や「行間」のような部分なのかもしれません。それは、長期間関わってきたこどもたちとの“継続した歩み”においてだけではなく、初対面、もしくは、信頼関係がまだできていないこどもたちとの“最初の第一歩”においても、大切なのだと実感しています。目に見える部分、言葉にできる部分、形に残る部分、つまり、「具体的に動く」ための「何を」の部分を優先してしまいがちだからこそ、目に見えない部分、言葉にならない部分、形に残らない部分、つまり、「心に寄り添う」ための「どのように」の部分を大切にしたい…と思っています。

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