12-3 崖っぷちでの出来事 家で看取るということ〈その5〉

12-3 崖っぷちでの出来事 家で看取るということ〈その5〉

2014.2.19 update.

なんと! 雑誌での連載をウェブでも読める!

『訪問看護と介護』2013年2月号から、作家の田口ランディさんの連載「地域のなかの看取り図」が始まりました。父母・義父母の死に、それぞれ「病院」「ホスピス」「在宅」で立ち合い看取ってきた田口さんは今、「老い」について、「死」について、そして「看取り」について何を感じているのか? 本誌掲載に1か月遅れて、かんかん!にも特別分載します。毎月第1-3水曜日にUP予定。いちはやく全部読みたい方はゼヒに本誌で!

→田口ランディさんについてはコチラ
→イラストレーターは安藤みちこさんブログも

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【対談】「病院の世紀」から「地域包括ケア」の時代へ(猪飼周平さん×太田秀樹さん)を無料で特別公開中!

前回まで

 

「死は終わりではない」という実感

 柳原さん、黒岩さん、そして私の父を、それぞれに看取った経験は、私の中の死生観を変えました。
 いったい人間にとって死とは何か?
 昨日まで生きていた人が、動かなくなる。この現実がうまく飲み込ません。そもそも、生きているってどういうことなんだろう。
 人間の身体の中を見たことがありますか?
 ものすごくたくさんの臓器がぎゅうぎゅうに詰まっているんです。みっちり詰まっている。機械じゃなく、臓器です。それが、あるべき場所になぜちゃんと収まっているのか。あんな内臓を抱えたままで、歩きまわったり走ったり、フィギュアスケートしたりしている、人間って何なんだろう?
 しかも、細胞は新陳代謝して、1年間でほぼ入れ替わっているという。なぜ、私は生きているのだろう? 私の心臓を、私の頭を動かしているものは何? 脳からの命令が電気信号となって、神経を通じて身体を動かしているのは理屈としてわかる。では、脳に微弱な電気信号を発火させる、その力はどこから来ているのか?
 とくに、父の闘病中に何度か気功師の友人に来てもらい、外気功を受けて父の様態が劇的に変化したときは、「気」というものが本当に存在するのだ……と感じざるえませんでした。父はそのとき、入院していた救急病院で向精神薬を投与されて、意識も朦朧としていました。このまま廃人になってしまうのではないか……と不安でした。
 その父が、気功を受けた翌日には見当識が戻っていたのです。自分で歩くこともできたのです。そのおかげで、精神科病院へ転院がスムーズにできたことに、私はどれほど安堵したか。
 いったい「気」とは何だろうか。
 それが知りたくて自分も「気功」と「太極拳」を習い始めました。
 人間の身体には、どうやら未知のエネルギーが働いているのだ。科学ではまだ証明されていないけれど、東洋の医学はそのことを知っていた。それが西洋医学と結びつけば、どんなにすばらしいだろうか。代替医療、とくに漢方や気功、食事療法は、病院から治療を見放された人が最後の望みをたくすことが多いです。でも、もっとはやく、効果があるのであれば治療に取り入れたらいいのに。特別養護老人ホームのような施設でも、積極的に活用したらよいのに。そう思います。
 そして、もうひとつの大きな疑問。
 「魂」とは何か?
 「魂」は、存在するのか?
 実感として、人間は死んだら終わり……とは思えませんでした。
 死んだらどうなるのか……。それは、死んでゆく人にとって、とても大きな謎、疑問となります。この先、いったい自分は何を体験するのか。
 私の実感は、死は終わりではない……です。
 でも、証明のしようがありませんね。
 古今東西の「臨死体験」の本を読みあさりました。実際に臨死体験をした方のお話も聞きにいきました。いろんな方がいらっしゃいました。やはり、死は個別です。同じ体験というものはないようです。臨死を体験して霊を見るようになった方もいれば、まったく何の変化もない方もいました。
 ただ、いくつかの共通項もありました。
 死ぬ瞬間、身体という物質的な呪縛から、目に見えないエネルギーのようなものが解放される。それは最初、「思念」という同じにように目に見えない別のエネルギーの影響を受けて、しばらくは肉体とつながって思考しているようなのです。

 

個別性の死と、永遠なる普遍性

 人間は、言葉で思考します。言葉は音に意味が重なっています。その音と意味の組み合わせが1つの波長として、心肺機能が停止したあとも肉体に残留するようなのです。
 肉体が消滅してしまえば微弱な波長を物質に留めるものはなく、物理的な次元空間から形のないものの世界に還元されていく。
 今は、そう考えています。
 仏教と量子理論を学んだことで、この考えはより深まっています。
 死とは「私」という肉体のもっていた個別性の死だけれど、私というものは肉体だけの存在ではない。私には個別性と普遍性の両面があり、個別性は死ぬけれど、普遍性は永遠なのだ……と。
 これは私の行きついた、現時点での考えです。
 違う考えの方も多いでしょう。宗教や生まれ育った環境・経験によって死に対する考えはさまざまだし、それでよいのだと思います。私は無宗教の家庭に生まれ、土着の宗教儀礼にもあまり触れずに育ったため、自分には「死生観」というものがありませんでした。だから、自分の感覚と経験から、自分だけの死生観をつくっているのだと思います。
 死生観をもっているか、いないか……。
 これは「看取り」をする場合においても、「死んでゆく」場合においても、とても重要なことです。
 人間は、意識をもっています。そして、意識とは「それからどうなるのか?」と、次々と疑問をもって考えてしまう特性を備えているからです。
 肉体が衰えれば、「死んだらどうなるのか」を意識は考えてしまいます。どんなに抵抗しても考えてしまうのが、意識です。見ないふりをしていても、いつか直面しなければならなくなります。そのとき、どんなふうに「死」と向き合いたいか……によって、逆に、どう生きるのかが問い返されてきます。
 おじいちゃん(義父)は、信仰をもっていました。
 何十年もの間、1日も欠かさずに南無妙法蓮華経を唱えていました。
 でも、病院を退院してからは、一度も、唱えませんでした。
 その理由は、私にはわかりません。
 ただ、おじいちゃんを見ていてわかるのは、おじいちゃんの意識はもう、半分は“別の世界”(私たちはそれを「妄想」と呼ぶけれど、そうとばかりも限らないです)を見ていて、何かを察知していたのではないかと思えます。
 何を察知していたのか……。それは、わかりません。
 

連載第12回了

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訪問看護と介護

いよいよ高まる在宅医療・地域ケアのニーズに応える、訪問看護・介護の質・量ともの向上を目指す月刊誌です。「特集」は現場のニーズが高いテーマを、日々の実践に役立つモノから経営的な視点まで。「巻頭インタビュー」「特別記事」では、広い視野・新たな視点を提供。「研究・調査/実践・事例報告」の他、現場発の声を多く掲載。職種の壁を越えた執筆陣で、“他職種連携”を育みます。楽しく役立つ「連載」も充実。
1月号の特集は「『新生在宅医療・介護元年』の成果と展望」。厚生労働省は2012年度を新生在宅医療・介護元年」と位置づけ、「在宅医療連携拠点事業」を行なった。本事業には訪問看護ステーションも9拠点が取り組んだ。本特集では、事業の成果を概観するとともに、2025年へ向けて、いかに「多職種連携」を行ない、「在宅医療」を充実させていくのか。各拠点の本事業への取り組みから、2014年への示唆を得る。

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