かんかん! -看護師のためのwebマガジン by 医学書院-
2022.3.14 update.
人やヒトの社会や行動の本質を科学的に探る、霊長類学、人間行動進化学に強い興味を持つ研究者。アフリカ中央部(カメルーン、コンゴ共和国)を中心に、鹿児島県屋久島、インドネシアの熱帯林で調査・研究を行ってきたフィールド・ワーカー。
2002年4月に脳塞栓症に陥り、以来、右の半身まひと失語となる。自由に森には行けなくなるが、代わりに人やヒトの多様性に興味を持ち研究を続ける。生涯学習施設の講演や緊急災害情報などの放送はどうあれば「聴覚失認」のある高次脳機能障害者、聴覚情報処理障害者が理解できるか、視聴覚実験によって検証している。
文化的、遺伝的多様性を持つ人で作る社会のあり方を研究していきたいと考えている。
第9回「もうひとつの生き方――妻のこと」の原稿を「かんかん!」編集部に出し終えてから思い出したことがありました。それは脳塞栓(そくせん)症になって2、3年は、夜、夢を見なかったことです。
この連載の第2回目「頭が引き裂かれて角が生えてきた」に、血栓が脳血管に詰まって最初に入院した病院で、頭にニョキニョキと角が生えてくる夢を見たと書いています。それは睡眠薬か何かで眠っていたとき、うなされて見た夢だと思います。夢を見なくなったというのは、退院してから日常の生活に戻ってからのことです。
第9回では、わたしの表情のない顔の写真を見てもらいました。パーキンソン病の人は身体の筋肉だけでなく、顔の表情筋もこわばって動かなくなるそうです。パーキンソン病の人のような表情を「仮面様顔貌(かめん・よう・がんぼう)」と呼ぶそうです。写真に写ったわたしの顔も表情筋が動かなくなっているようです。まるで仮面のようです。Webで調べてみると、レビー小体型認知症の人やうつの人にも、この表情が見られるそうです。何か脳のメカニズムに共通のものがあるのでしょうか。
わたしがこの表情をしていた頃は、確実に夢を見なくなっていました。いや、本当は夢を見ていたのかもしれませんが、目が覚めたときにはきれいに忘れていました。
夢を見ないだけではなく、いつの間にか恐怖というものも感じなくなっていました。それは〈怨霊〉とか〈呪い〉といった禍々(まがまが)しい何かだけではなく、〈座敷わらし〉や〈おんぶおばけ〉のように、別に悪さをしない、場合によったら幸運をもたらしてくれる妖怪まで、わたしの前からは消えてしまった感じです。わたしにとって、目に見えないものの一切合切が存在しなくなりました。
そしてこれが一番重大なことかもしれませんが、自分が死ぬことに恐ろしさを感じなくなっていました。もちろん死にたいと願っているのではありません。どう言えばいいでしょう。「生きる」とか「死ぬ」という感覚がなくなったというのが一番近いでしょうか。それとも機械の「心」のような何かを思い浮かべればいいのでしょうか。機械は岩や砂と同じで「生きる」ことも「死ぬ」こともないはずです。ただそこにあるだけです。
もうひとつの不思議な感覚は、微妙な暑さ/寒さを感じなくなったことです。これは何となく理由が分かります。脳にダメージを負った人は赤ん坊の身体にリセットされるのです。
そして微妙な暑さ/寒さを感じなくなったというのは今でもそうなのです。わたしはよく、同じ部屋で仕事をしている人に、こっそりと「今は暑い?」「それとも寒い?」と聞いてから、上着を脱いだり、一枚余分に羽織ったりしていました。赤ん坊時代のようで、体温調節が十分には機能しません――赤ん坊はお母さんに抱かれているので、お母さんの体温をもらうために自分で体温を維持する必要がないのです。
一方、わたしは、極端に暑いとか、極端に寒い場合は、さすがに分かります。なので、体温調節機能が赤ん坊時代のままだというのと、夢を見なくなったとか死ぬことが恐ろしくなくなったというのとは、どうやらメカニズムが違うようです。
いつから再び夢を見始めたのだろうかとか、いつから暗闇が怖くなったのだろうとか、いつから死ぬのが怖くなったのだろうというのは、今となってみれば「少しずつそうなった」としか言えないような気がします。だから、いつから元に戻ったかは分かりません。
暗闇や死ぬのが怖くなるというのは「少しずつそうなった」としてもあまり不思議に感じませんが、夢は見るか見ないかのどちらかしかないのですから、「少しずつ」夢を見始めることなどあるのだろうかと考えてしまいます。でもやはり、「今日は何年かぶりに夢を見た」という記憶はないのです。
若い頃は死ぬのが恐怖でした。夜中に目が冴えてしまい、どうにも眠れなくなったときなど、不意に自分はいつか必ず死ぬのだという思いが募って、布団の中で震えていました。少しずつですが、その頃の感覚が戻ってきたのです。
でも、いったい何がきっかけで、感覚が戻ってきたのでしょうか。
ひとつ考えられることは日記を書き続けたことです。急性期で入院していたときを除いて、わたしは日記を義務だと思って書き続けました。その日記がコンピュータに残っているから、この原稿も書けるのです。
日記を書くことはリハビリ病院の医師からも勧められました。その日一日の出来事をできるだけ思い出し、書き付けていく(わたしの場合は左手でコンピュータに打ち込む)。文章を書くことは苦になりませんが、その日に起こったあれやこれを思い出すのには苦労しました。
そして本の音読です。わたしの口が回らないことを心配してくれた言語聴覚士が、本の音読を勧めてくれました。今から思えば「口が回らない」というのは舌や喉の筋肉が思うように使えていないことと、しゃべる対象を不意に忘れてしまう、つまり短期記憶の障害によって起こることのようです。それならば最初から文字が書いてある本を使って、まず舌や喉の筋肉を鍛えることが効果的かもしれません。音読というのは、高校以来、もう何十年もなじみのない習慣ですが、幸い読書は大好きです。わたしは気に入った本を選んで音読してみることにしました。
神戸新聞出版センターから出ている「のじぎく文庫」というシリーズがあります。そのシリーズの一冊に、当事住んでいた三田(さんだ)のお好み焼き屋さんを題材にした本がありました。筆者は地域づくりを研究している研究者です。薄い本です。まずはこの本を音読することにしました。
やってみると音読は日記を書くより何倍も大変でした。黙読なら普通にできます。ところが音読となると口が動きません。自然な会話ができているつもりでいましたが、とんでもない。最初は1ページを音に出すだけでへとへとになりました。
商店街に並ぶ、なじみのあるお好み焼き屋さんの話です。三田は驚くほど多くのお好み焼き屋が繁盛している街だそうです(どうしてだかは分かりません)。薄いこの本なら音読ができそうだと思って選んだのですが、それでも大変でした。約30分かけて4ページほど音読したでしょうか。読み終わったときには、疲れ切って机に突っ伏してしまいました。
発病から2年ほどたったある日、教員が交代で社会人相手に「出前セミナー」をするという企画がありました。三ノ宮という神戸市でも一番の繁華街で、それも勤めを終えた社会人相手に行う、夜間のセミナーです。教員は全員が参加するというという決まりでした。でも、わたしに務まるでしょうか。
セミナーのまね事は言語聴覚士の前でやったことがありますし、しゃべる言葉が頭の中からスムーズに出なくなっても、大きな字で書いた手持ち原稿があれば平気です。セミナー自体には不安はありません。しかし、脳塞栓症になってからは、夜の繁華街を歩いた経験がありません。夜は非常に疲れているので、よく知った街でも出歩きたくありません。わたしには、ためらいがありました。
そんなためらいを知って、リハビリ病院の医師が言ってくれたことがあります。
「仕事をするというのは、ものすごい負荷が掛かることです。これは<生きている>とか<生活する>というレベルとはわけが違う。その負荷によって三谷さんに脳梗塞が再発する恐れもあります。でもそれは、交通事故で脳損傷を起こした人が<交通事故に遭わないために外出をしない>と言っているのと同じです。ナンセンスです。」
この言葉に勇気をもらいました。
日々の仕事をやり遂げるためには、毎日、何かに挑戦し続けなければいけない。自分にできることもあれば、できないこともある。でも、できるかできないかは、やってみなければ分からない。やる前に、自分にはできないと言って尻込みしていては、できることもできなくなってしまう。ここ一番の踏ん張りどころだと、勇気を出してやってみました。
セミナーは順調に進みました。わたしも人前で穏やかに笑えたと思っています。わたしのセミナーの参加者はごく少なく、3、4人しかいません。セミナーですから向かい合って座ります。すると互いの表情が手に取るように分かります。わたしに意地の悪い質問をしてくる方がいらっしゃいました。そして、あるときを境にその意地の悪い質問はぱったりと止まりました。その方が、わたしの右まひや失語のことに気が付いたからです。ハッと息を呑む声が聞こえました。意地の悪い質問は、わたしの実力を試していたのでしょう。
それからは、皆さん、有益な意見を交換するようになりました。「意地の悪い質問」ではなく、本質を突いた「鋭い質問」を受けました。わたしも、精一杯それに答えました。そのときの参加者のおかげで、わたしはとても良質な時間を過ごすことができました。参加者も研究者も、その場で自分の頭で考えてみる。参加者と共につくり上げる贅沢な時間は研究者の喜びです。そんな時間は、病気をする前にはなかなか経験できませんでした。
そうして、わたしは再び夢を見るようになりました。〈座敷わらし〉や〈おんぶおばけ〉が復活し始めました。そして「自分の死」を怖いものだと感じ始めました。
わたしはこの連載の第2回目「頭が引き裂かれて角が生えてきた」に「(発病後の)わたしにとって<死>は、それほど身近だったのかもしれません」と書いています。生きるか死ぬかの瀬戸際ならば、「自分の死」を怖いものだと感じないほうがいいのかもしれません。そして症状が落ち着いてきて、少しぐらい無理もできるとしたら、「自分の死」が怖いものだと感じることは理にかなっています。わたしの場合は、まさにそうだったと思います。
それにしても、どうやったらこのような変化が生まれるのでしょうか。
わたしの脳神経が、何年もかけて互いに手を繋ぐことによって、目には見えない〈おばけ〉や「自分の死」を復活させたのかもしれません。
生物としてのヒトが他の哺乳類と違うのは「象徴」としての「宗教」や「国家」を生み出したことだと言います。第一、人がコミュニケーションに使う〈ことば〉自体が「象徴」で成り立つのです。例えば「ば」「な」「な」だけではただの音の羅列に過ぎませんが、日本語を知った人なら「ば」「な」「な」から、あの甘いバナナを思い浮かべることができるのです。
わたしは目に見えないもの、言い換えるなら「象徴」を失っていました。しかし、脳神経が何年もかけて手を繋ぎ、あるいは別の脳神経が新しい機能に目覚め、それがあるとき、「死」という人間にとってきわめて重大な概念に気が付いた。自分ではそんなプロセスが頭の中であったのではないかと想像しています。
(三谷雅純 「ことばを失う」の人類学 わたしをフィールド・ワークする 第10回おわり)