〈第4回〉言葉によって決まる世界の見方

〈第4回〉言葉によって決まる世界の見方

2015.4.28 update.

尾崎大輔 1983年三重県生まれ。早稲田大学社会科学部在学中にファッション雑誌での編集の仕事を経て、写真家として活動を開始。卒業後、渡英。2007年、London college of communication(ABC diploma in photography)卒業。2011年より視覚障害者を中心に知的障害者、精神障害者などを対象としたワークショップを多数主催。日本視覚障碍者芸術文化協会(Art for the Light)副会長。『写真は私たちの記憶を記録できるのですか?』(発行:PLACE M、発売:月曜社)、『無』(同)、『ポートレート』(月曜社)を出版。

http://www.daisukeozaki.com/

 第4回目は、さまざまな視覚障害のある方たちの写真との関わりの話をしていきたいと思います。

 

  視覚障害者の写真の特徴

 

 よく、「視覚障害者の撮影した写真に特徴はあるのですか」と聞かれます。あえて言うならば、初めてカメラで写真を撮影する場合、ほとんどの視覚障害者が横長の向きの写真を撮ります。これはカメラの使い方に慣れていないせいもありますが、横長の写真の方が縦長の写真に比べて被写体の周囲の状況が分かりやすいことも大きく影響していると思います。情報の享受に困難を抱えることが多い視覚障害者にとっては、横長の写真の方が縦長の写真よりも多くの情報を与えてくれます。

 撮影の介助をしてくれた介助者ができあがった写真の説明をするときも、説明の中心となるものは被写体の上下に広がる空や地面であることよりも、被写体の左右にある周囲のものであることが多いです。進化の過程で私たちの目が縦に並ばず、横に並んだのもおそらく、得られる情報量を増やすためなのかなと思っています。

 

★  イメージや記憶によって決まる世界との関係

 

 ある全盲のご夫婦が、3歳のお嬢さんと一緒に写真教室に参加された時の話です。ご夫婦は、今まで一度もカメラをお嬢さんに向けたことはありませんでした。うまく撮ることができるか分からなかったので、念のため私も、凹凸にしたときに触って分かりやすいような、お嬢さんの顔のアップの写真を別に撮影しておきました。
 しかし様子を見ていると、やはり私が撮るよりもお父さんがカメラを構えた方が、お嬢さんはにっこりと笑ってくれます。写真の中のお嬢さんは池の近くまでちょっとした冒険をし、何か取ってきたみたいで、お父さんに向けて「はい」と差し出し、触らせようとしています。

 

お父さんが撮ってあげたお嬢さんの写真.JPG


お父さんが撮ってあげたお嬢さんの写真

 

 凹凸にして触った場合、お嬢さんの顔自体は事前に私が撮ったアップの写真の方が分かりやすいです。しかし、触って自分で認識できる写真ではなく、会話によってお嬢さんが笑っていることがイメージできる写真の方をお父さんは選びました。

 この連載の第1回目にも記憶やイメージの話をしました。視覚障害者でも晴眼者でも、日々の経験によってイメージができ、それが記憶とつながり、その記憶によって、よくも悪くも世界との関係(晴眼者の場合、世界の見方)が決まっていきます。

 また、写真教室でこんなこともありました。写真教室では、晴眼者の参加者はアイマスクをして仮想視覚障害を体験してもらいます。その状況で写真を撮るのですが、夏の写真教室で「音」をテーマにした際に、ある晴眼者の参加者は「無音」を撮るために公園の中で人がいなさそうな広がりのある空間を撮影しました。

 その時、ある視覚障害者の参加者が「あの公園で無音の空間はどこにもなかったですよ。だって、蝉の声がどこにいてもすごくうるさかったですから。」と話されていました。しかし晴眼者の参加者は今までの記憶で、「誰もいない公園の風景を撮影すれば静けさを表せるだろう」というイメージが念頭にあり、撮影を行いました。このように、晴眼者である私たちは世界を見るときにまず記憶にあるイメージが先行しているのだろうとその時強く感じました。

 

★  言葉によって写真の見方も変わってしまう

 

 1枚の車の写真に関して、「家族でよくドライブにいった車」という説明があるのと、「家族がこの車にひかれて亡くなってしまった」という説明では私たちの受け取り方は全く違ったものになります。

 このように、視覚的に全くなんの変哲もない写真が、言葉による説明によって鑑賞者の記憶を呼び起こし、その写真に対しての見方が全く変わってしまう場合もあります。

 下の写真は私が撮影した写真で、よく写真教室で使用しています。これは、視覚的には何が写っているかほとんど分からない写真です。

 

何が撮られているか分からない写真.jpg

何が撮られているのか分からない写真

 

 実はこの写真は、ナチスドイツがユダヤ人を大量に殺害したアウシュヴィッツ強制収容所のガス室の壁を撮影した写真です。壁の傷になっている箇所は、死ぬ間際の人たちが爪で引っ掻いた跡です。写真教室では実際に、この写真を凹凸にして触ってもらったりもするのですが、この話を聞いた以降は全く触れなくなる方もいます。

 

  「客観的に説明してほしい、きれいかどうかは私が決めます」

 

 この連載もさまざまな方が読まれていると思いますが、視覚障害者のヘルパーをしている方もいらっしゃるでしょう。多くの視覚障害者に関わる方たちに、写真教室に参加していただいていますが、皆さんから聞くのは、「いざ見ている世界を言葉で説明しようとすると、何をどう説明していいのか本当に難しい」ということです。

 以前、ある視覚障害者の方の撮影の介助をしている時のことです。色とりどりの花が咲いていたので、「足元に、きれいな花がたくさん咲いています、花だと触ってから撮ることも簡単なので、花を撮ってみましょうか?」と伝えると、その方は「尾崎さん、よければ客観的情報を中心に言葉で説明して欲しいです。その説明を聞いて、きれいかどうかを私が決めたいです。」と言いました。

 客観的に伝えるという状態を端的に表している文章が、アゴタ・クリストフの『悪童日記』(早川書房・堀茂樹訳)の中にあるので、引用します。

 「ぼくらが記述するのはあるがままの事実、ぼくらが見たこと、ぼくらが聞いたこと、ぼくらが実行したこと、でなければならない。

 たとえば、『おばあちゃんは魔女に似ている』と書くことは禁じられている。しかし、『人びとはおばあちゃんを<魔女>と呼ぶ』と書くことは許されている。

 『<小さな町>は美しい』と書くことは禁じられている。なぜなら、<小さい町>は、ぼくらの目に美しく映り、それでいてほかの誰かの目には醜く映るのかもしれないから。

 (中略)感情を定義する言葉は非常に漠然としている。その種の言葉の使用は避け、物象や人間や自分自身の描写、つまり事実の忠実な描写だけにとどめたほうがよい。」

 

 私たちは主観で世界を見て、その主観から言葉を生み出し使用しています。それに慣れているので、急に客観的に情報を伝えようとしてもとても難しいと感じます。さらに私たち晴眼者は主観的にしか世界を見ていないため、視覚障害者にとっては驚きのある、影、色の違いなどについての説明はほとんどせずに一緒に過ごしています。

 私たち晴眼者は、色が違えば同じものでも受ける印象が違ってくるにもかかわらず、視覚障害者と話すときは、なかなか細かく説明することを省いてしまいます。「生まれつき目が見えない視覚障害者は色が分かるのか」という疑問もあるかもしれませんが、色に関することは次々回以降に詳しく話していきます。

 

どのように説明してほしいかを、まず知ること

 

上記の方のように「客観的な説明してほしい」と言われることは稀ですが、視覚障害者一人ひとりに、その人がどう説明してほしいかを聞きながら細かく説明を行い、撮影介助を行うことが最善です。

毎年夏に、リクルートホールディングスが運営する銀座のギャラリー、「ガーディアン・ガーデン」において、若手の写真家たちと視覚障害者の方で「写真を言葉にして伝えるワークショップ」を行っています。そのワークショップでは、視覚障害者の介助者を若手の写真家が行うという試みをしています。若手の写真家は、普段自分たちの撮っている写真を凹凸の立体写真にし、視覚障害者に言葉で説明するということをします。

このワークショップに参加された視覚障害者の方は、「一般的な介助者の場合、『ビルがあります』というだけの説明だけど、カメラマンだと『灰色の少し古いビルがあります』など、細かく説明してもらえます。私たちもイメージしやすく、それによって自分がそれを撮るかどうかも決めることができます」と言っていました。

 

★  写真を消すことは記憶を消すことになる!?

 

 2014年より、Facebook上に「視覚障害者と一緒に楽しむ写真」というページを立ち上げました。

 

http://www.facebook.com/photographyforthelight

 
 

 携帯などでも簡単に写真が撮れるようになった現在、視覚障害のある方が撮った写真をUPし、コメントなどをして新たなコミュニケーションを始めてもらおうというページです。ご自身でFacebookにUPするのが難しい方には、私の方にメールで写真を送ってもらい、代理で私がUPし、コメントなどがあった場合、それをまとめてメールで返信するということをしています。これにより、今まではヘルパーさんが来る日まで全く確認できなかった写真に関して、早くに最低限の情報は得ることも可能になりました。

 このページを開設してから送られてくる写真の中には、最終的にはUPしなかったものもたくさんあります。真っ白だったり、真っ黒だったりして何が写っているのか全くわからない写真が送られてくることもあります。メールには何を撮ったか書かれているので、「何も写ってないですよ〜」と返信すると「すいません、電気つけるのを忘れていました」という返事が来たこともあります。

 

送られてきた何も写っていない写真.jpg

送られてきた何も写っていない写真

 

 ただ、最近思ったのですが、それぐらい、撮った本人は友人にもらった贈り物やうまくつくることができた料理を撮影して、周りとその気持ちを共有したかったのだと思います。
 そう考えると、何も写っていない写真でもその撮影を行った視覚障害のある方の高揚する気持ちはきちんと写っていることになります。

 先日、第1回から写真教室の介助者として参加している方が、「視覚障害者の方からデジカメの中で不要な写真を消去して欲しいと言われたのですけど、どれが『不要な写真』で本当に消去していいものか判断できず、どうやって選べばいいのか全然分からなかったです」とおっしゃっていました。
 「写真に失敗はない」と言われます。どのような写真であれ、撮影者の意図がそこに存在し、全く何も写っていない写真でも意味をなすことがあるからです。「写真は記憶の大きなパーツ」ということをこの連載の中でも言ってきましたが、特に視覚障害者の写真に関しては、写っているものが不鮮明でも、そこには何らかの撮影者の記憶を担うパーツが存在している可能性もあります。介助者も知らず知らずのうちにそれを感じとってしまったのです。

 

 次回は、写真に関わりの深い方々と行った視覚障害者の写真についての座談会の模様をお届けします。

 また、写真教室にはさまざまな視覚障害者の方が参加してくれます。そこで分かったことは先天的視覚障害者と中途失明の視覚障害者の違いでもありました。次々回以降は何回かに分け、先天的視覚障害者の方の話をしていく予定です。

このページのトップへ