共に死の世界を垣間見る
私は、実父を看取る体験を『パピヨン』(角川文庫)という本に書いています。
この本の中で、「死の受容の5段階」の論文を書いたことで有名な、精神科医エリザベス・キューブラー・ロスの人生を追いかけました。ロスが何万人という人たちをどのように看取ってきたかを調べているうちに、父が末期がんで倒れ、ロスの言葉に導かれるように父を看取ることになりました。その経緯を通して、人間が亡くなるときに体験する変性意識状態について考察しています。
死に向かっていく人たちは、特殊な意識状態に入る。ロスはそう言います。
夢の意識状態に近くなる。それは、たしかです。父もそうでした。そして義父もまた、同じように夢の中に入りました。その夢に、自分もぼんやり入っていけば、夢の中で会話ができるかもしれない。
夢の中に入るって、どうやって?
この本を発表したあと、いろいろな方に質問されました。うまく言葉で表現できないのですが、死にゆく人の時間のテンポに自分が共鳴していくような感じ……と言いましょうか。とにかく、現実的な時間を気にしていては、あらゆるサインはまったく見落とされてしまうのです。もう覚悟を決めて、何もせず傍らにいるしかないんです。でも、それは忙しい現代人には本当に難しいことです。死んでゆく人の傍らにただ漫然と座っていると、まるで相手が死ぬのを待っているような気持ちになってしまいます。
そういう気持ちになるのは、自分がまだ現実の時間の中で生きているからなのです。仕事や家のことなどを気にばかりしていると、そわそわいらいらして、ぼんやりなどとてもできないのです。
看取りの時間が始まると、世界全体がしんとしてきます。忙しいのだけれど、忙しいと感じず、心の軸が次第に定まって安定してきます。意識ははっきりしているのに、とてもゆったりした時間の中に浮いているような感じになります。そういう意識状態に入ると、つらいとか哀しいとか、そういうこともあまり感じなくなってきます。あの不思議な感覚が私にとっての看取りです。正直に言えば、その状態はとても心地よいのです。
アメリカの心理学者、アーノルド・ミンデルが『昏睡状態の人と対話する』(日本放送出版協会)という本を書いています。この本はとても参考になりました。言葉だけでなく、身体の動きから相手のサインを読み取ることが可能だと、ミンデルは言います。
おじいちゃんの言葉は、支離滅裂で意味をなさないように私たちには感じられます。でも、言葉を発しているということは、おじいちゃんの心の中でとても大きな情動が起きているのです。つまり、おじいちゃんは個人的な体験の中で夢中で生きているのです。いえ、もしかしたら、おじいちゃんは死を前にして、個人を越えた家族の歴史、血族の歴史のようなものを体験しているかもしれないのです。
おじいちゃんの、父母、祖父母、先祖、その人たちが背負ってきた時代、歴史、出来事、そういうものの集大成としておじいちゃんは生きてきて、そして死んでいこうとしている。生命体としてのカルマ(諸行)を体験していると言ってもいいかもしれません。
私は縁あっておじいちゃんの家族として、その歴史の最先端に存在している。そう考えていけば、おじいちゃんがせん妄状態の最中で体験していることは、私と無関係ではありえません。
いまこの人に起こっていることは自分と無関係ではない……という認識は、とても大切です。たとえ血のつながりがなくても、いまこの場で一緒に時を過ごしているということは、個人の意識だけでは測り知れない、何か大きな偶然の連鎖によって起こっていることなのです。
私の目の前に、これから命を終えていこうとする人が存在することは、私の人生にとっても大きな意味をもつことであり、私と無縁であるはずがなく、私たちは心の奥深いところでつながりあっている。
それは、少し怖いことでもあります。共に死の世界を垣間見るのですから……。
なので、精神的な問題には深入りせずに、介護の手順に則って、現実世界から離れず、客観的に見つめ続けることもできます。死の神秘に触れないでおくこともできます。そのほうが、楽かもしれません。
でも、ロスやミンデルは、死んでいく人から学びなさいと言うのです。彼らは人生の本当の意味を教えてくれるから……と。
死んでいく人から学ぶこととは、何でしょうか……。
人生の本当の意味って、何でしょうか……。
私は、ロスやミンデルが伝えようとしていることの半分も理解することができていません。きっとまだ学びの途中なのでしょうね。
私が看取った家族から学んだのは、人は案外と死ぬ時期がわかるし、いつ死ぬかを漠然と自分で決めているようなところもあるなあ、ということでした。不慮の事故や災害ではなく、がんや老衰による死の場合、亡くなる人はどこかで自分から自分の身体を手放していくような、そんな感じがしたのです。
つづく