かんかん! -看護師のためのwebマガジン by 医学書院-
2013.10.02 update.
『訪問看護と介護』2013年2月号から、作家の田口ランディさんの連載「地域のなかの看取り図」が始まりました。父母・義父母の死に、それぞれ「病院」「ホスピス」「在宅」で立ち合い看取ってきた田口さんは今、「老い」について、「死」について、そして「看取り」について何を感じているのか? 本誌掲載に1か月遅れて、かんかん!にも特別分載します。毎月第1-3水曜日にUP予定。いちはやく全部読みたい方はゼヒに本誌で!
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80歳代とはいえ、夫の両親は闊達とした人たちでした。
おじいちゃんが前立腺がんになったことがきっかけで、私たちは同居しました。少しでも一緒に暮らしたほうが、気心が知れる……。私の心の中には、介護をするための準備期間、という思いがありました。
岡山県に住んでいた両親が、神奈川県のわが家に同居を決めたとき、生まれ故郷を離れる2人には、私からは想像のできない「覚悟」があったと思います。同居を提案した私は、今にして思えば甘い考えでした。でもまあ、甘い考えでなければ、決断して前に進むというのは難しいものですが……。
幸いに、おじいちゃんの前立腺がんはホルモン療法で完治し、2人は大病もせず、怪我もなく、週に一度デイケアサービスに通い、はた目にはつつがなく暮らしていました。
同居は……、どちらにとってもストレスでした。
一緒に暮らすようになると、それぞれの生活習慣がことごとく食い違ってくる。その違いを乗り越えて、なんとか歩み寄る……。それが、とても大変でした。最初の半年くらいはお互いにがまんしていましたが、生活とは日々のことですから、がまんもすぐに限界に達してしまうのです。
最初に問題になったのは、「食事」に関すること。食事の時間と内容でした。
おじいちゃんは「食事の量が多すぎる」と言うのです。
「わしを殺す気か?」と言われて、びっくり。
こちらは気を遣っていろんな料理を出していたのですが、その量が多すぎて負担だということでした。
「だったら、残してくれていいんですよ」
と言っても、残すことを潔しとしない世代。
おじいちゃんは、コミュニケーションが苦手でした。社交家で、見ず知らずの他人とは冗談など言いながら会話がはずみますが、本音を言うのが苦手です。年配の男の人というのは、みんなそうではないでしょうか。
「こんなにたくさんいらないから、もう少し減らしてくれるか?」
と、穏やかに言ってくれればよいのですが、がまんして食べるのです。がまんして、がまんして、がまんするものだから吐き出すときは、強い口調になってしまう。殺す気か? と言われたら、さすがにこちらもムッとします。もちろん、言い方は冗談めかしているのですが、あまりよい気分ではありません。
次に問題になったのは「水」でした。
おじいちゃんは、水をペットボトルに入れて水分補給します。そのペットボトルを、洗わずに毎日使うのです。
「ペットボトルには雑菌が繁殖しやすいから、直接口をつけて飲まないほうがいいし、同じペットボトルを使わないほうがいいんだよ。水筒があるから、それを使ったらどう?」と提案してみました。
一日だけは、水筒を使ってくれました。でも、翌日からまたペットボトルに戻っていました。そのペットボトルは、ずっと同じものを使っているので少し茶色く変色していて、私と夫は「衛生的じゃないから、それを使うのはやめてほしい」と頼んだのですが、おじいちゃんはどうしても聞いてくれないのです。理由は、
「わしは、ずっとこうして水を飲んできたが、それで下痢したことはない」
なるほど、経験的に自信があるわけですから、説得力があります。
でまあ、結局どう解決したかと言いますと、水道水を浄化するポットを買ってきて、それを台所に置いたのです。
「水道の水には消毒のための薬が入っているから、それをこのポットで浄化するとおいしい水になる。体にもいいんだって」
そのポットはけっこう大きく、ポットからペットボトルへの移し替えは難しかったのです。で、いつしかおじいちゃんは、その浄化ポットの水を飲むようになり、ペットボトルに入れなくなりました。
他者と暮らしていれば、数限りなくいざこざがあるものです。
そこから学んだのは、「ああせい、こうせい」と言うと、かえって反発される……ということでした。たしかに、子どもじゃないのですから、他人から自分の行動をとやかく言われるのは不愉快でしょう。
まったく違う、第三の道を見つけ出す……というのが、解決のポイントだなあと思いました。しかし、第三の道というのは自分の思い込みをはずさないと見えないので、そう易々とは見つからないのです。
義父母はある宗教を信仰していて、とても強い信仰心をもっていました。
「宗教」の問題も、ずいぶんといさかいの種になりました。とくにおじいちゃんは、息子夫婦にも同じ信仰をさせたかったのです。同居した当初は私も入信を勧められました。信仰すれば娘のアトピーが治ると言われ、これには参りました……。
私の父が亡くなったとき、父の持っていた仏壇を私が引き取り、その仏壇に父の位牌を飾りました。父は曹洞宗でした。仏壇には私の兄と母と祖父母の位牌が入っていました。
四十九日のあけた日に、おじいちゃんから「同じ家に仏壇が2つあるのは困る」と言われました。宗派が違う仏壇が家にあっては困るらしいのです。
私はとくに信仰をもっていませんから、そういうものか……と思いましたが、まだ父が亡くなったばかりなのに仏壇を置くなと言う義父には、なんともやりきれない気分になりました。
「おじいちゃん、仏壇はなぜダメなの?」
と質問すると、どうやら仏壇には信仰の対象である本尊が置かれているからのようでした。
「じゃあ、この仏壇のどれが、そのご本尊にあたるものなの?」
と、私は聞きました。おじいちゃんは、仏壇の中をのぞき込みました。そこには道元禅師の絵が飾ってありました。
「これじゃな」
こんなものが、信仰の対象とは思えないけれど、おじいちゃんがそう言うならそうなのでしょう。私はしばらく道元禅師を眺めていましたが、ふと思い立って道元禅師の絵をべりべりと剥がしました。絵は仏壇の奥にのりづけされていたので、ちょっと破けて跡が残りましたが、きれいに取れました。
「これで、この仏壇は単なる位牌を置いている箱ですよね?」
おじいちゃんは、心底びっくりしたようでした。唖然として、言葉も出ないみたいでした。なんという罰当たりな嫁だと思ったのかもしれません。信仰深い人には想像もできない行動だったんでしょう。
「置いてもいいですか?」
「ああ。これならいい」
納得してくれましたので、仏壇は今もわが家に置いてあります。
私がもし信仰深かったら、お互いの間に亀裂を残す深刻な事態になっていただろうな、と思います。強い信念をもっているおじいちゃんの言動は、正直に言えば不愉快でした。宗教的な問題は、信念の対立になったら泥沼になってしまいます。かと言って、がまんして折れたら、私のストレスがたまります。がまんしたことは、心から消えません。怒りとして静かに沈殿していき、必ずいつか、より大きな怒りとなって出てきます。がまんしてはいけないのです。なんとか別の解決策を模索すること……。そうしないと、ある日、まったく無関係なところで自分が爆発する。それは、父との関係で、私が経験的に学んだことでした。
いよいよ高まる在宅医療・地域ケアのニーズに応える、訪問看護・介護の質・量ともの向上を目指す月刊誌です。「特集」は現場のニーズが高いテーマを、日々の実践に役立つモノから経営的な視点まで。「巻頭インタビュー」「特別記事」では、広い視野・新たな視点を提供。「研究・調査/実践・事例報告」の他、現場発の声を多く掲載。職種の壁を越えた執筆陣で、“他職種連携”を育みます。楽しく役立つ「連載」も充実。
9月号の特集は「懸賞論文大賞発表! 「胃ろう」をつけた“あの人”のこと」。100通近くもご応募いただいた懸賞論文の「大賞」ほか、秋山正子賞・川口有美子賞を発表! このほか、計12作品をご紹介。「胃ろう」へのそれぞれの思いや考え、個別のケアの方法、そして1人ひとりの生き様は真に迫ったもの。「高齢者殺人」をテーマにした日本ミステリー文学新人賞作品をめぐる対談も興味深い。