身体の探求——介護と武術をめぐる対話(後編)
組織ではなく、
個として
岡田 「我以外みな師」という表現もありますが、武術はもともと、そういう柔軟な発想をもっていたわけですね。しかし、柔道や剣道といった一般的な現代武道には、そういった柔軟な発想が出にくい傾向にあるようですね。
甲野 それは、いろんな原因があるでしょうね。権威主義的に何かをやろうとしたり、力がないけど権威ある立場に立った人が、自分の小さな枠組みに合わせて決まりを作ってしまったりといった問題があるんじゃないでしょうか。
スポーツでは「基本が大事」「基本をしっかり守ろう」ということをよく耳にしますが、そういう話を聞くたびに、「それは本当に守るべき基本なのか」という疑問をいつも持つんです。
もちろん、本当に優れた基本であれば、それに取り組むのもいいでしょう。でも、本当に優れた基本であっても、教える人がその原理をよく理解できていなけれ ば、単なる繰り返し、ただ形をなぞるという、似て非なるものになってしまいます。「基本が大切」という前に、自分の指導者としての資格を厳しく自問しなけ ればいけないと思います。
岡田 確かに既存の武道は大きな組織になっていますし、段位などで権威化されているようにも見えます。そこに付随する問題は、武道だけではなく、他のあらゆる組織にいえることかもしれませんね。
甲野先生はご自身の研究会については組織化を避けていますし、段級の制度化もされませんが、そこにはそういう問題意識があるということですね。
甲野 2003年に、それまで続けてきた武術稽古研究会を解散したんですが、それは、組織が大きくなってくると、私自身が一研究者としての立場じゃなくなってしまう、ということがありました。
最初は風通しがよかった組織でも、時間が経ち、大きくなってくるとよどみが出てきます。もちろん、会社などは組織化しないとどうしようもないですから、組 織が悪いと一口に断定できるわけではありません。ただ私はあくまでも、一研究者の立場を堅持したかったということですね。
実際、私の研究会は、組織というには本当に小さな会でしが、それでも段々と組織立ってきて、組織独特の問題が生じてくることは避けられないようになりました。
また段級に関して言えば、段や級というのは、その手本となるべき確かな基準があるものですが、私の場合、その基準がしょっちゅう変わって進展していますか ら、評価のしようが難しいということがあります。まあ、その人の技に対する理解のセンスというか、そういうものは評価の対象にはなるかと思いますが、セン スのいい人ほど、段級には関心を持ちませんね。
岡田 私も、介護の取り組みを組織化して伝えていっ たほうがいいんじゃないか、ということをよく言われます。でも、やはり自分自身がまだまだこんなこともできないなっていうことだらけなので、まだまだ学び たい。組織化すると、かえって自分の成長や進展を阻害してしまうように思いますし、そうやって淀んだ自分から発信されるものって、それを受け取る人にとっ ても有益なものにはならないんじゃないかな、ということを思うんです。
甲野 その人にとって力にな るのは、やはり「自得」なんですよ。よく話すんですが、腕のいいセールスマンっていうのは絶対に「これはいい商品ですよ」と言わず、相手に「これはいいも のだ」と思わせます。相手に気づかせる。教育もそうですよね。生徒が自分で発見したかのように筋道を立て、教師自身の手柄を消すような教師がいい教師で す。自分で見つけたもののほうが力になる。
私のところに毎日、毎週のように習いにくるよりも、月に一度ぐらい講習会に出ている人のほうが、二、三年するうちに合気道を何年もやっている人に驚かれるような技ができることがあります。
それはやはり、興味の持ち方が違うからです。1日何時間やっていれば、とか、毎日やらないとだめだ、という気持ちで道場に通っているのと、自分なりに「これは面白いな」と追求しているんじゃあ、進歩の度合いが違って当然ですよね。
岡田 介護技術でも「どれぐらい繰り返したらいいですか」とか「何回くらい講習会に参加したらうまくできるようになりますか」とよく聞かれるんですが、そう いうことじゃないんですよ、とお答えしています。取り組むことに楽しさを感じてもらうことがいちばんなんじゃないでしょうか、と。
甲野 技の世界は、何回繰り返したらできるようになる、というものではありません。才能のある人だったら、一度見たらすぐできることもありますからね。
身体に導かれる探求の道
甲野 たとえば2008年に、私はそれまで30年以上慣れ親しんでいた、刀をもつとき、両手を離した持ち方から、両手を寄せつけて持つように変えました。こ れは現代の剣道の常識ではいわゆる素人の持ち方なんですが、この一見素人風の持ち方から、思いがけない展開がありました。
岡田 その、一見素人のような寄せた持ち方のほうが技が利く、というのは、興味が起こりますね。
甲野 両手を離して持つと、テコの原理も利くし、一見そのほうが良さそうですが、手が使いやすい分、どうしても手を主に使って、体幹の部分は出る幕があまりないという、非常にもったいないことになっているんです。
岡田 どうしても、私たちは形、見た目で捉えようとしてしまいます。でも、内側の感覚では、もっと大きな変化が起きているということがしばしばあるということですね。
それで、その柄を持つ手は、やはりしっかりと握ったりはされていないのでしょうか。
甲野 そうですね。剣術だけではなく、柔術なんかでも昔から「掴まずに逆を取れ」ということは結構言われていますが、一般的にはグッとつかむのが常識になっ ています。しかし、手のひらというのは、相手に情報が漏れやすい。だから親指の背とか、手の甲の側を使ったほうが、相手に情報が漏れなくていいんです。
岡田 確かに、介護するときにも緊張が激しい方とか身体感覚が敏感な方は、力任せにグッとつかんでしまうと、それだけでこちらの緊張感を受け取って、体を固めてしまったり、拒絶感を示す方もいます。
ただ、私たち介助者側の身体感覚って、一般的にはすごく鈍くて、そういう微細な情報を察知できなくなっているのが実情です。被介護者の方の身体感覚は多く の場合、すごく敏感ですから、その反応をきちんと受け止めて、それに対応できる身体でいることがすごく大事だと考えています。
これは「技グルメ」としての個人的興味でおうかがいするのですが、甲野先生は、そうした両手を寄せ、しかも柔らかく柄を握るようになって、2010年夏に驚くような進展があったとお聞きしていますが、それはどのようなものだったのでしょうか。
甲野 そうですね。私が30年以上前から考えていた課題といいますか。まあ、課題というより夢で、自分には生涯かかっても無理ではないかと半分以上あきらめていたことなんですが、真剣(日本刀)が、竹刀を使うよりも速やかに動くようになってきたのです。
切り結ぶだろうという瞬間に相手の刀を抜いて、相手の顔面に刀が飛んでいく、といった形が、竹刀よりも早くなりました。
岡田 それは、現代剣道の人たちはにはとても信じられないことではないでしょうか。
甲野 そうですね。剣道五〜六段の指導者の講習会に行って、実際にやってみせましたら、まるで幽霊でも見るような顔の方が何人もいらっしゃいましたから。
まあ私も、もし今の私の動きを二、三年前に見せられたら、本当に驚いたと思います。真剣が竹刀と同等に迅速に動かせるようになる、ということは、私にとっ て夢のまた夢でしたから。それが竹刀と同じではなく、竹刀よりも早くなったのですから、まあ人間あきらめずに探求していると、思いがけないことも起こるん ですね。
岡田 甲野先生ほどの進展でないことは当然のことですが、私も、以前出版させていただいた DVDなどの映像をみると、自分の介護動作のクオリティの低さに驚きます。もちろん、当時だって間違ったことを行っているわけではないし、それはそれでテ キストとしては参考になる部分も少なからずあるとは思うのですが、当時に比べると、現在の動きはいろいろな点で、質的に向上してきたと思います。
甲野 まあ、いろいろな経験を積み、だんだん身体感覚が育ってくると、指のちょっとした角度や緊張感によって、全身の状態が変わることがわかると思います。 あ、ずれてきたとか、これならいけるといったことがわかるようになる。そういうちょっとした動きで体の中の遊び、ゆるみ、構造のずれ、構造が崩れてきたと いうことがわかると、いろんなことを察知できるようになります。
岡田 そうやって身体の感度が上がってくることは、いろんな場面で応用可能な、総合的な対応能力を養うことにもつながりますよね。それは介護のみならず、あらゆる身体を使った動き、仕事に通じることではないかと思います。
今日は、あらためて甲野先生のお考えを伺い、自分の立ち位置を再確認することができました。ありがとうございました。
(了)