かんかん! -看護師のためのwebマガジン by 医学書院-
2023.1.19 update.
人やヒトの社会や行動の本質を科学的に探る、霊長類学、人間行動進化学に強い興味を持つ研究者。アフリカ中央部(カメルーン、コンゴ共和国)を中心に、鹿児島県屋久島、インドネシアの熱帯林で調査・研究を行ってきたフィールド・ワーカー。
2002年4月に脳塞栓症に陥り、以来、右の半身まひと失語となる。自由に森には行けなくなるが、代わりに人やヒトの多様性に興味を持ち研究を続ける。生涯学習施設の講演や緊急災害情報などの放送はどうあれば「聴覚失認」のある高次脳機能障害者、聴覚情報処理障害者が理解できるか、視聴覚実験によって検証している。
文化的、遺伝的多様性を持つ人で作る社会のあり方を研究していきたいと考えている。
■ALS患者と声の役割
あるALS(筋萎縮性側索硬化症:きん・いしゅくせい・そくさく・こうかしょう)の方が、「声は自分のものだが、けっして自分ひとりのものではない」とおっしゃいました。わたしはこの言葉を聞いて、ALS患者が言葉を喪失するときの思いは、失語症者に似ているんだと感じました。
ALSは全身の運動ニューロン(神経)が、だんだん衰えていく病気です。手足と共に、のどの筋肉も衰えていくので、病気が進行すると声が出せなくなるのです。声を「けっして自分ひとりのものではない」と言った方は、声を失うと、声でつながる人と人のネットワークも失われてしまうと言っているのです。この方にとって「声」は、多くの人と結びつくためのネットワークの要(かなめ)でした。だから「けっして自分ひとりのものではない」のです。
■ALS患者と失語症者、それぞれの声
高次脳機能障害も、その一部の失語症も、言語音(げんご・おん)が出し難いというところはALSとよく似ています。一方、違うところは、失語症者は言葉を出しにくいのではなく「ぴったりした単語が見つからない」というところです。
ALS患者は、運動ニューロンは衰えますが、頭はクリアなままです。その意味でALS患者は、最初から「ぴったりした単語は見つかっている」のです。ただそれを、「発声」という形で表現することはできません。失語症者は「ぴったりした単語が見つからない」のですが、それでもタイミングが合えば、「ぴったりした単語」は見つかることがあります。頭の中の貯蔵庫に収納されてはいるのです。
先のALSの方がおっしゃるように、声は人と人のネットワークの要です。人と人は、声を掛け合うことで楽しい時間を共有できます。いっしょに働くこともできるのです。
何も肉声である必要はありません。最近の人工合成音声は肉声と聞き間違えるほど滑らかなものができています。有名な免疫学者の故・多田富雄さんは脳梗塞で声を失ったとき、一音ずつ五十音が出る鍵盤のようなものでお孫さんと会話するのが楽しみだと、どこかの雑誌に書かれていました。また、多田さんは、発声ができなくなって以後も、大学のセミナーには普通に参加されていたようです。若手の研究者や大学院生の研究内容に辛辣(しんらつ)な意見を述べられていました。その姿をテレビで拝見したことがあります。
■失語症者と介護保険制度のねじれた関係
多田さんのような著名な学者でなくても、以前はコミュニケーションを、失語症の「友の会」で取ることができました。ところが、失語症の当事者会や家族会の活動は下火になっていると聞きます。
理由は介護保険制度とのことです。介護保険制度ができたことで、高齢者であれば「友の会」に参加しなくても、福祉サービスが受けられるようになったからです。それと参加者の高齢化で、実質的に会を運営していける人がいなくなった(原山・種村, 2020)ことも理由にあるようです。
介護保険は2000年に施行された国の社会保険制度です。国の制度以外にも民間の保険会社が提供している介護保険もありますが、ここでは民間の介護保険は置いておきます。
介護保険制度は、介護が必要な高齢者のためのものです。介護士の方が、利用者の家を訪問して介護を行ってくれたり、介護まではいかなくとも、いろいろ援助をしてくれます。施設での介護が必要であれば、入所まで面倒をみてくれることもあり、医療にもつなげてくれます。
介護保険を利用できるのは65歳以上の高齢者だけですが、40歳以上でALSやパーキンソン病など「老化に起因する疾病(指定の16疾病=(介護保険制度でいう)特定疾病)」であれば、介護保険制度の対象になります。この特定疾病に脳血管障害が含まれているのです。なので、失語症者は介護保険を受けられるということになります。
でも待って下さい。脳血管障害によって高次脳機能障害者、失語症者となっている人は、40歳以上の人に限りません。それに高齢者でも、受給資格があるのに受けていない人は、結構いるはずです。
わたしの知っている青年は、高校生のときに脳梗塞になり後遺症が残りましたが、いたって元気で、介護を受けるどころか、がんばって大手企業に入社しました。
また別の高齢女性は、若い頃の脳内出血で重度の聴覚失認があり、肉声でコミュニケーションが取れません。でも ICT(Information and Communication Technology:情報通信技術」を活用してコミュニケーションを取り、(失語症の「友の会」ではなく)一般の市民団体に参加して、積極的に飛び回っておられます。
かく言うわたしも、介護保険料はずっと払っていましたが、65歳を過ぎてからも一度もお世話になったことはありません。本当に必要ならば使えばよいですし、使うのは当然の権利なのですが、(今のところ)わたしには必要ないようです。
■若い失語症者の集い
40歳までの若い失語症者が集(つど)う会があります。若い方々の集まりの話題で、高齢者中心の「友の会」と決定的に違うのは、「就労」の問題です。皆さん若いので、働いて社会人として生活したいという希望があります。勤労によって自力でお金を得るという喜びも必要です。
しかし、障害者の就労は、せっかく障害者雇用促進法があるのですが、相変わらず進んでいません。特に失語症者は「コミュニケーションが難しい」と見なされるので、就労が難しいのだと思います。ちなみに「障害者雇用促進法」は、「身体障害者雇用促進法」という名称で1960年に発布されています。その後、知的障害者や精神障害者も含まれました。1960年と言えばかなり昔のことです。その間、日本では「障害者」をどう扱ってきたのでしょう。不思議な気がします。
若い失語症者の集いについてネットで調べてみると、集まる目的は、まず「仲間づくり」となっています。次に「仕事」や「就職」、その次に来るのが、未婚者は「恋愛や結婚」、既婚者は「子どもの成長・家庭の問題」となっています。そして最後が「親からの独立」です。
「仲間づくり」が、集まる理由の第一に挙げられているのは、失語症になると社会から孤立しがちになるということでしょう。未婚者の「恋愛や結婚」が上位に挙がっているのも同じ理由だと思います。その一方で「親からの独立」が挙がっているのは、それでも社会に出たいという願望の表れなのでしょう。
「仲間づくり」では、「同病のよしみ」や「自分の方が重いんだぞ!」といった「病気自慢」もあるのかもしれません。しかし、そんなことよりも、そのコミュニティに参加すれば、つかえながらも会話ができるというメリットが大きいと思います。それが許される人間関係が大事なのです。
一般の社会では「つかえる会話」や「たどたどしい会話」は受け容れられません。企業では特にそうです。それだけ人びとは「せわしない」「落ち着かない」社会に暮らしているのでしょう。
■失語症者のピア・カウンセリング
集いでは、皆さん、たどたどしくても何かを伝え合います。「溜まっていたものが発散できる」のかもしれません。「恋愛・結婚」や「家庭の問題」「独立」などの話題が挙がるということは、信頼できる人間関係がそこにあるということです。これは「ピア・カウンセリング」に結びつきます。
「ピア・カウンセリング」とは、障害者や難病者がお互いに相談に乗り合っているさまを表します。当事者でなければ気が付かないことを、実感として理解し合えることが大きいのです。もちろん障害者や難病者は医療関係者のような専門家ではありません。しかし、専門家には分からなくて、当事者だからこそ分かるということがあるものです。
世のなかには、医学的にあいまいなまま留まっていることもあります。医学の進歩は日進月歩ですが、研究には分からないことが付きものです。わたしは、医療には「専門家の知識(professional knowledge)」とは別に、「素人の知識(lay knowledge)」でのピア・カウンセリングが必要だと思っています。「専門家の知識」や「素人の知識」は医療人類学で使う言葉です。地域の人間関係や家族・親族の中で「素人の知識」が人を救うこともあるのです。
■地域における多様な人の相互理解
また、若い失語症者の集いは、高齢者の「友の会」とは違って「自分たちだけで集まる」、つまり「脳血管障害者や脳挫傷を起こした人しか集まれない」形ではないようです。積極的に当事者以外の人へも参加を呼び掛けています――新型コロナ禍だからかもしれませんが、参加の呼び掛けに「Zoomで参加できる」としていた会がありました。
同時に感じたのは、当事者以外の人に参加を呼び掛けたのだから、自分たちも地域の人に溶け込んだ活動ができればもっと良いということでした。これは「失語症のことを理解して欲しい」という自分たち本位の態度を取れと言っているのではありません。「失語症のことを理解して欲しい」のであれば、当然「失語症でない人のことも理解しなくてはならない」のです。これは本来、地域で暮らすために必要なことです。
日本精神障害者リハビリテーション学会の野中猛さんが、『心の病 回復への道』という本の中に書かれていたのですが、先進国よりの発展途上国の方が、精神障害者の回復は早いのだそうです。日本などでは、いったん「精神障害者」になってしまうと、一生、元「精神障害者」としてのレッテルを貼られるのですが、発展途上国では急性期に投薬するだけで、その時期を過ぎると「普通の人」として特別な扱いはしなくなるとのことでした。
日本のように医療が「精神障害者」を抱え込み、地域がその人たちを特別視する社会は、ある意味、特殊だと言えるのかもしれません。「失語症者」も同じだと思います。障害がない人と違うところはあるに違いありませんが、それを越えて同じところを探す方が、地域で暮らす上では有益だと思います。
それにしても、高齢者ばかりが目立つようになった多くの既存の失語症「友の会」は、これからどうなっていくのでしょう。介護保険制度にばかり頼るのも考えものです。介護の必要な人も参加されているのは事実ですが、元気な失語症高齢者も多くいます。それにこれまでは、仮にも「友の会」の運営を主体的にこなしてきたのです。
若い失語症者の集いについて指摘したように、わたしは地域に開かれた会とかコミュニティにすることが第一だと思います。「失語症のことを理解して欲しい」のなら「失語症でない人のことも理解しなくてはならない」のです。それは本来、地域で暮らすためには、どなたにとっても必要なことです。
必要ならば人に頼ることは必要です。人に頼り、頼られるのが社会です。でも「失語症者」は地域で暮らす普通の人だという当たり前のことを忘れないようにしたいのです。
1)原山 秋・種村 純(2020)失語症友の会の加盟団体数の推移とその関連要因の検討. 高次脳機能研究40: 432-436
2)野中猛(2012)心の病 回復への道.岩波新書1373