第18回 一人ひとりの思いを活かせる社会へ

第18回 一人ひとりの思いを活かせる社会へ

2022.11.22 update.

三谷雅純(みたに・まさずみ) イメージ

三谷雅純(みたに・まさずみ)

人やヒトの社会や行動の本質を科学的に探る、霊長類学、人間行動進化学に強い興味を持つ研究者。アフリカ中央部(カメルーン、コンゴ共和国)を中心に、鹿児島県屋久島、インドネシアの熱帯林で調査・研究を行ってきたフィールド・ワーカー。


2002年4月に脳塞栓症に陥り、以来、右の半身まひと失語となる。自由に森には行けなくなるが、代わりに人やヒトの多様性に興味を持ち研究を続ける。生涯学習施設の講演や緊急災害情報などの放送はどうあれば「聴覚失認」のある高次脳機能障害者、聴覚情報処理障害者が理解できるか、視聴覚実験によって検証している。


文化的、遺伝的多様性を持つ人で作る社会のあり方を研究していきたいと考えている。

■「均質な潜在能力」は存在しない

 

「第17回 世間の理屈と<障害者>の理屈」で、「古典的レイシズム」と「現代的レイシズム」という言葉を例に挙げて、「現代的レイシズム」は簡単に差別を隠すことを示しました。また「能力主義」とか「成果主義」という概念、つまりメリトクラシーも巧妙に差別を隠す機能があるのです。

 

「現代的レイシズム」の信奉者が「障害者があえいでいるのは、他ならぬ障害者自身の努力が足りないからだ」と主張するのは、その人たちが心からそう信じ切っているからかもしれません。

 

また「能力主義」とか「成果主義」の信奉者は、社会が一人ひとり違った多様な才能で成り立っているのではなく、すべての人が「均質な潜在能力」を持っているはずだし、競争の判定は公正に行われているはずだと主張します―わたし達に「均質な潜在能力」はなく、現実の競争では判定が公正に行われてはいないということも十分に認識しているはずだと思うのですが、そうは言いません。人類学的にはその態度が何に由来するのかということに興味がそそられます。

 

■「厳罰傾向」の強化

 

しかし、せっかくの人類学的な興味もあいまいになることがあります。それは世の中には差別かどうかの見極めが難しいことが多いからです。差別されているのか、いないのか、さっぱり判断がつかないということが増えたのです。日本の社会全体に「厳罰傾向」が強まっているという指摘は、その典型例でしょう。

 

社会全体の「厳罰傾向」とは何のことでしょうか。それは裁判所が下す刑罰を考えればよく分かります。犯罪者には、かつてよりも重い刑が科されるようになったのです。

 

これは「被害者が受けた苦痛」を考慮し、道徳的に考えても犯人のやったことは許せないという「社会全体の反感」を考慮してといった、あまり論理的でないものに裁判官や検察官が影響を受けて「厳罰傾向」を強めるということです。そしてこの「厳罰傾向」を後押ししたのが、世界的な新自由主義の盛り上がりだというのです。

 

■押し寄せる「効率化」の波

 

新自由主義の基本的な考え方は「小さな政府」です。大きな事業の国有化と公共事業を進めるのではなく、すべての営みを市場経済に任せてしまおうという発想です。日本では電気やガスなどの基本インフラが民営化されました。鉄道も民営化されています。民営化されれば会社には競争が働いて、より安いものを、より効率よく、より充実したサービスで提供するようになるだろうというわけです。そうしなければ倒産してしまう危険があるからです。

 

新自由主義の考え方は、環境や農業・漁業といった食糧生産の分野と共に、教育や福祉、そして医療の分野にも及んでいます。例えば、公立病院は統合されてまとめられたり、民営化によって効率化されたりしている自治体がいくつもあります。

 

すべての分野を市場経済に任すと、とんでもない欠陥も「効率化」という言葉の前に目をつぶらなくてはならなくなってしまいそうです。わたし自身は、分野によっては採算を度外視してでもやらなくてはいけないことがあると思っています。今は競争と効率化を重視する新自由主義と新自由主義だけではいけないという考え方が、せめぎ合っているのではないでしょうか。

 

■効率化には馴染まない存在―高齢者や幼児、病人、障害者

 

もちろん新自由主義といっても、最初から競争や効率化には馴染まない存在があります。高齢者や幼児、病人、そして障害者はそんな存在でしょう。それならば高齢者や幼児、病人、障害者をどう扱えばよいのでしょうか。

 

今、新自由主義を奉ずる人の間では、どうやって経済的、かつ効率的に面倒をみればよいのか、という議論が主流です。例えば、高齢者医療はどうすれば納税者の負担が軽くて済むかという議論や、障害者が地域の他の住民、つまりわたしの言い方では非障害者と同じ地域で住み続けるために、どのような支援が必要かという議論です。

 

基本的に高齢者と障害者は、幼児や病人などと共に、社会にはコストが掛かるので「(健常者は? 納税者は?)覚悟を決める必要がある」と言っているように聞こえます。そこには「<障害者>ゆえの感性を生産性に、あるいは人生に活かす」という視点はなく、<障害者>という存在は、ただ一方的に「(非障害者から)援助を受けるだけの存在」に過ぎないのです。

 

この新自由主義の考え方を見れば、わたしに投げ掛けられた「職場に残りたいのなら、(障害がどうのと)あれこれ言わずに<健常者>のように働くべきだ(それができないなら辞職するべきだ)」という言葉や、「退職勧告者候補」という書類の持つ意味が痛いほど分かります。

 

「退職勧告者候補」を用意した人に悪意があったのか、なかったのかは分かりません。少なくとも、トラウマのために大学院の講義ができないと言ったわたしに対して、異議を唱えるべきだという思いがあったことは確かでしょう。

 

■「二項対立」によって生まれる厳罰傾向

 

このことを分析するのにぴったりの論文がありました。『法と心理』に載っていた「厳罰傾向と"非合理な"思考」という論文です(向井・三枝・小塩, 2017)。

 

この論文の中で、向井さんたちは、今、犯罪の厳罰化と共に「法律の感情化」ということがよく議論されていると言います。司法では犯罪の反感や憎しみに囚われることなく冷静な判断が求められるはずです。それにもかかわらず「法律の感情化」と言われるのは、現実には司法の現場にも感情的な判断が持ち込まれていて、そのことが厳罰傾向につながっているからだと述べています(向井・三枝・小塩, 2017)。

 

向井さんたちは、いくつかの感情的な思考法を一つひとつ検討していきます。

 

まず「二項対立の思考様式」です。「二項対立の思考様式」とは、「外集団/内集団」、「敵/味方」、「犯罪者/通常人」といったふうに、実際は分けられないのに、無理やり人びとを二つのグループに分ける思考法です。

 

そして「外集団・敵・犯罪者」と見なされた人は厳しく罰し、グループから排除します。また「内集団・味方・通常人」と見なされた人には、本当は犯罪者であったとしても寛大な処置をするというものです。これは一種の認知バイアスです。事実とは異なる感じ方ですが、「二項対立の思考様式」は人びとの判断に、そして司法にも、大きな影響を与えていると指摘する研究者は多くいるそうです。

 

次に挙げるのは「社会的支配指向性」です。「社会的支配指向性」とは秩序の維持のために厳罰傾向が強くなるということです。

 

大きな病院の看護師という集団を考えてみましょう。そこには看護師長がいて大勢の看護師がいるとします。カンファレンスは患者一人ひとりの病状を、さまざまな立場の医療人が報告し合う大切な会議なのに、無断で欠席してしまった看護師がいたとしたら、その看護師長はどうするでしょう。「社会的支配指向性」の強い看護師長なら欠席した看護師に厳罰を下すでしょう。ところが「社会的支配指向性」があまり強くない看護師長なら、むやみに罰を下すのではなく、穏やかに諭すのかもしれません。「社会的支配指向性」はリーダーの人間性が大きく影響しそうです。

 

最後に挙げるのが「仮想的有能感」です。「仮想的有能感」とは、他者の価値を根拠なく低く見積もることです。そうすることで自分自身の価値を高いかのように錯覚するのです。実際に「仮想的有能感」を得るために、人には厳罰傾向が表れるそうです。内集団に属する人には自分と同じだけの価値と有能性を感じ、外集団に属する人には(仮に有能な人であっても)低い価値しか認めないというのはよくある認知バイアスです。

 

医療者と患者は暗黙の内に「仮想的有能感」の影響を受けています。社会的には有能な人であっても、患者になれば価値は低く扱われがちです。医師と看護師も、元来は職種が違い、働き方が異なるだけなのに、「仮想的有能感」の影響を受けて、上下関係があると錯覚するのかもしれません。もちろん「仮想的有能感」は医師側が持ちます。

 

研究の結果はというと、合理的な思考ができない人が「二項対立の思考様式」に囚われると、他者に対して厳罰傾向は強くなることが分かったそうです。また「仮想的有能感」も厳罰傾向を強くします。ただし、この結果は「二項対立の思考様式」に影響を受けているそうです。

 

一方、ちょっと考えると「社会的支配指向性」の強い人は厳罰傾向も高まりそうですが、統計的にその傾向は弱かったということでした。

 

どうも厳罰傾向をもたらす最大の原因は「二項対立の思考様式」にあるようです。つまり、「外集団/内集団」、「敵/味方」、「犯罪者/通常人」という、元来は分けようがない分け方で人びとを分け、「外集団・敵・犯罪者」と見なされた人に厳罰を科していたのです。ということは、わたしも「外集団・敵・犯罪者」と見なされたがゆえに「退職勧告者候補」という書類を送り付けられたということになりそうです。

 

 

■一人ひとりのマイノリティの意図を活かす社会へ

 

先にわたしは「すべての分野を市場経済に任すと、とんでもない欠陥も『効率化』という言葉の前に目をつぶらなくてはならなくなってしまいそうです。わたし自身は、分野によっては採算を度外視してでもやらなくてはいけないことがあると思っています。今は競争と効率化を重視する新自由主義と新自由主義だけではいけないという考え方が、せめぎ合っているのではないでしょうか」と書きました。

 

宇沢弘文という経済学者がいます。2014年に86歳で亡くなりました。新自由主義と市場原理主義を批判し、「社会的共通資本」という概念を打ち出しました。非常に有名な研究者でした。

 

「社会的共通資本」として、宇沢さんは自然環境や農の営み、上下水道や電気などのインフラストラクチャー、そして教育や医療を軽がるしくお金で量るべきではないということを言いました。実はわたしは、この宇沢さんの言葉に感銘を受け、宇沢さんの書いた本を読み、多くのことを学んだのです。特に教育や医療を軽がるしくお金で量るべきではないという言葉は重いと感じています。

 

「職場に残りたいのなら、(障害がどうのと)あれこれ言わずに<健常者>のように働くべきだ(それができないなら辞職するべきだ)」という言葉や「退職勧告者候補」という書類を送って来た行為は、新自由主義の発想を忠実に守ったがゆえの行為だと感じています。ある意味では古くさい発想です。現在はさまざまな立場のマイノリティがさまざまに発言できる時代です。

 

一人ひとりのマイノリティの意図を活かすことが、新しい社会を形づくる時代なのです。


(文献)

向井智哉・三枝高大・小塩真司(2017)厳罰傾向と"非合理な"思考法と心理, 17: 86-94


(三谷雅純 「ことばを失う」の人類学 わたしをフィールド・ワークする 第18回おわり) 

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