かんかん! -看護師のためのwebマガジン by 医学書院-
2022.9.20 update.
人やヒトの社会や行動の本質を科学的に探る、霊長類学、人間行動進化学に強い興味を持つ研究者。アフリカ中央部(カメルーン、コンゴ共和国)を中心に、鹿児島県屋久島、インドネシアの熱帯林で調査・研究を行ってきたフィールド・ワーカー。
2002年4月に脳塞栓症に陥り、以来、右の半身まひと失語となる。自由に森には行けなくなるが、代わりに人やヒトの多様性に興味を持ち研究を続ける。生涯学習施設の講演や緊急災害情報などの放送はどうあれば「聴覚失認」のある高次脳機能障害者、聴覚情報処理障害者が理解できるか、視聴覚実験によって検証している。
文化的、遺伝的多様性を持つ人で作る社会のあり方を研究していきたいと考えている。
◆3年目のインドネシア
インドネシアのジャワ島やスマトラ島でご一緒した渡邊邦夫さんは、インドネシアのスラウェシ島やタイ王国のカニクイザル、中国のキンシコウの調査へと、精力的に飛び回っていました。わたしはジャワ島のパンガンダラン自然保護区でルトンという葉っぱばかり食べる変わったサルの調査を続けていました。
そんな調査も2009年に入り、3年目になりました。家族も息子はいつの間にか中学生、娘は小学校の最終学年になっています。
その年もインドネシアに出発する日が来ました。毎年、大学の夏休みを調査に充てています。いつもは妻が見送ってくれるのですが、その年は妻に代わって息子が空港までエスコートしてくれることになりました。トランクなど重いのに持てるのだろうかと心配になります。しかし、わたしが持ってもマヒがあるので同じようなものです。
わたしが左手で階段の途中までエッチラ、オッチラ運んでいると、見かねた息子が代りに運んでくれました。そして空港に着いて、ご苦労さんと言うと、「じゃ」と言ってあっさり別行動になりました。何のことはない、息子は最初から飛行機を間近で見たかっただけでした。
◆インドネシアのお汁粉
インドネシアに着いてしばらくすると、パンガンダラン(第15回「ついにインドネシアに上陸した(2)」参照)からインドネシア人の観光客が消えてしまいました。イスラム教徒にとって大切な断食月が、2009年は8月22日から始まったのです――暦の仕組みが違うので、太陽暦、つまり普段わたし達が使っている暦とは、毎年、少しずつずれていきます。
断食月は日の出から日の入りまでは飲んだり食べたりできません。今回も調査に付き合ってくれているボゴール農科大学のカンティさんは、わたしや渡邊さんのために、昼間、開いている食堂を探してくれました。しかし、パンガンダランから歩いて行ける距離には見当たりませんでした。しかたがないので、スーパーマーケットで乾パンのような甘くないパンを買ってきて、もそもそと食べていました。
お世話になっている宿のラウト・ビル(青い海)の奥さんは、わたし達が一日の調査を終えてシャワーを浴び、寛(くつろ)いでいると、甘く冷たい飲み物を持ってきてくれます。わたし達は「お汁粉」と呼んでいました。ニコニコしながら持ってきてくれるので、心が温かくなります。断食月といっても日没以後はものを食べてもよいのです。飲み物の名前は忘れてしまいましたが、中に小さなタピオカ(キャッサバ芋のでんぷんを練ったもの)が入っていて、疲れた身体に甘さが染み渡る気がしました。日本ではタピオカ・ドリンクと呼んでいますが、それをもっと甘くした感じです。
その日も遠くのモスクからお祈りを誘う声が響いてきます。ところが、いつもとは声の主が違います。いつもはアラビア語で詠唱する男性の声なのですが、その日は女性の、しかもよく聞くとインドネシア語なのです。きっと断食月の特別な行事が始まったのでしょう。
写真1 石灰岩でできたパンガンダランにはイチジクの仲間が多く育ちます
写真2 パンガンダランを発つ日。左端から、渡邊邦夫さん、カンティさんの先生のバンバンさん、カンティさん、ラウト・ビルの奥さんと、たぶんお孫さん
◆サンティさんへのお土産
スマトラ島のサンティさんに話を移します。サンティさんは、西スマトラ州のアンダラス大学から東隣のブンクル州に移り、ブンクル大学に務めていました。男の子が生まれ、その赤ん坊の世話で休職中です。そのサンティさんのためだと言って、渡邊さんはブンクル大学に挨拶に行く予定でした。わたしも、当然、ブンクルまでお供します。
図1 スマトラ島の西スマトラ州とブンクル州
赤ちゃんでも分かる日本のお土産ということで、わたしは妻と相談して『いない
いない ばあ』という絵本を持って行くことにしました。
『いない
いない ばあ』は息子が赤ちゃんのとき、大好きな絵本でした。何度も繰り返し見たために、背表紙がすり切れています。それに「いない いない ばあ」遊びは、どの民族の赤ちゃんも好きに違いありません――ちなみに「いない いない ばあ」はインドネシアでは「チュルッ―バア」といいます。これを言えば赤ちゃんは大喜びです。
『いない
いない ばあ』に加え、同じような絵本を数冊用意しました。サンティさんや赤ちゃんは喜んでくれるでしょうか。
◆ラマダンの夜に
ブンクルに到着した日のことです。深夜に宿のドアをノックする人がいます。そして「サフール、サフール」と大声で部屋の中のわたしに呼び掛けるのです。「サフール」とは何のことだろうと寝ぼけ眼(まなこ)でドアを開けると、客室係の青年がわたしを見て、
「カーフィル?(異教徒?)」
と言ったのです。びっくりしていました。「サフール」とは、断食月に日が昇る前の深夜、3時頃に食べる朝食のことでした。朝食ができたと告げに来たのです。まさか異教徒が泊まっているとは思わなかったのでしょう。
ブンクルは開発が遅れた地域でした。湿地が多く蚊が湧くためにマラリアになる人が多くいるそうです。それだけ野生動物は豊富なのでしょう。わたしはコンゴ共和国のンドキの森の湿地林のことを思い出しました。とりあえず、ここがどのようなところか確かめてみなければなりません。
◆家畜としてのスイギュウとゾウ
朝の4時に起き出し、渡邊さんに連れられてブンクル近郊の二次林に行ってみました。そこにもカニクイザルや黄色い毛色のコノハザル(リーフモンキー)がいましたが、わたしの興味を引いたのは藪の中から聞こえる「コン、コン」「コン、コン」という奇妙な音です。
渡邊さんは、家畜のスイギュウ(水牛)が首に提げている鐘を鳴らす音だと教えてくれました。スイギュウはウシに似ていますが、まったく別の動物です。「水牛」というくらいですから川に浸って眠り、夜の外敵を避けるのだそうです。スマトラ島の経験ではありませんが、ボルネオ島(カリマンタン島)のサバというところで、突然、川からウシ(実はスイギュウ)がヌッと上がってきて、びっくりしたおぼえがあります。スイギュウを飼うためには伝統的な飼育法が必要なので、最近は子どもを効率よく産むウシを飼う家が多いそうです。
スイギュウはサンティさんたちミナン人とはとても縁の深い動物です。ミナン人のことをミナン・カバウ人ともいいます。「カバウ」というのはミナン語で「オスの水牛」という意味だそうです。
故事によれば、ある王子がミナン人と領地を争ったことがあったそうです。その争いに決着を付けるために、互いのスイギュウを戦わせることにしたのですが、王子の側はいかにも強そうなスイギュウだったのに対して、ミナン人のスイギュウは、まだ母親のミルクを欲しがる子どものスイギュウでした。ただ、子どもの角はナイフのように研いでありました。2頭のスイギュウを出会わせたところ、子どものスイギュウはミルク欲しさに大きなスイギュウのお腹の下に潜り込んで、乳房を探して何度も頭を突き上げたものですから、王子のスイギュウは一溜まりもなく負けてしまったということです。
実際のスイギュウは大変おとなしい動物です。家畜になってからの歴史も長いのです。スイギュウにスポットを当てた文化人類学のドキュメンタリーが撮影できれば、皆がとっくに忘れてしまった時代に戻れるようなドキュメンタリーができあがることでしょう。テーマは「水牛と飼い主のスローライフ」ではどうでしょうか。
ゾウを飼育しているところもありました。野生のゾウが村に来て暴れるので、捕まえて訓練し、家畜にするのだということです。
飼育場の近くまで行ってみると、ゾウのいるところまでは斜面を上っていかなくてはなりません。何カ所かぬかるんだところがあり、坂が急です。道幅は30センチ・メートルほどしかありません。ゾウは、毎日、この坂を上り下りするのだそうです。よくもまあ、巨体のゾウがこの狭い坂を上り下りするものだと感心します。一個所、上りきれなかったのか、大きく迂回した跡がありました。
坂を上ろうとすると、わたしの右足首は力が入らず、内向きに体重がかかるとクニャと曲がってしまいます。しかし、泥の斜面では曲がるのは当然です。難行苦行、悪戦苦闘を続けました。学生や元レンジャー、それに渡邊さんや他の日本人の青年にも助けられて、やっとのことで上りました。
ゾウの繋がれた草地は放棄された畑のように見えました。ゾウはそこで、おとなしく草を食べていました。
わたしにとって本当に大変なのは下りです。上りは足に力を入れれば上れるのですが、下りるときはバランスが必要です。どうやって下りようか迷っていると、元レンジャーの青年がわたしを背負ってくれました。一歩一歩、足下を確かめながら、体重が70キログラムはあろうかというわたしを背負って下りていくのです。一瞬、不安になりましたが、心配することはありませんでした。
坂の麓まであと少しというところで青年が一休みすると、わたしは行けそうに思えたので、滑り台の要領でおしりを付いて滑り降りました。そして最後の滑り台で泥んこにはまってしまいました。それでも、どうにかこうにか、ゾウは見に行けました。
写真3 狭い坂を上るゾウ
写真4 ゾウが野生のバナナを引き倒した痕。ゾウはバナナの茎にある髄が好物です
写真5 草を食べに来たゾウ
◆ブンクル大学へ
渡邊さんの言っていた挨拶をする機会がありました。ブンクル大学で互いの研究内容のお披露目のような集会が開かれたのです。若い学部長と副学長、それに教員が10名以上集まっています。学部長は英語が上手です。まず英語で簡単に大学の成り立ちなどを説明してくれます。渡邊さんは、インドネシア語も英語もどちらもできますが、この時は、インドネシア語だとわたしが分からないので、英語で哺乳類の地理分布を調べにスマトラ島にやってきたと話していました。
次はわたしの番です。昨夜は簡単に英語で自分の研究を振り返り、これでいいだろうと安心して眠ったのですが、いざ本番になると思わぬところで失語が出て、後はぼろぼろでした。話し終えると、思わず肩で息をしていました。それでもブンクル大学の教員は、わたしのたどたどしい英語を黙って聞いていてくれていました。
青年が一人、日本に留学していたことがあると言って、日本語で話し掛けてくれました。東北大学と岡山大学で学位を取り、今は日本で研究者の職を探しているのだそうです。
学部長の招待で、ブンクルのレストランに行きました。海岸近くのレストランです。するとそこにサンティさんが赤ん坊を連れてやってきました。
にこにこ笑いながら、「ミタニ センセイ、わたしの男の子です」と言って赤ん坊を見せてくれます。抱かせてもらおうかと思いましたが、マヒのことを思い出して諦めました。うちの娘なら小さいときに抱いたおぼえがあるのですが、それからは時間が経っています。サンティさんは、それまで抱いていた印象と違う顔立ちに見えました。それでも確かにサンティさんでした。
サンティさんらも交えて、何人かで夕食をとりました。学部長は会話を盛り上げようとして盛んに話し掛けてくれます。しかし渡邊さんにばかり会話の相手をしてもらい、結局、わたしはひと言も喋ることができませんでした。疲れていたのです。ただ笑うことしかできませんでした。
夕食会の後は、学部長をはじめ、副学長やもう一人の丸顔の男性が並んで、わたし達を送り出してくれました。そうすることが正式の礼儀なのでしょう。
サンティさんに我が家からの贈り物だと言って、絵本を差し上げました。妻が娘と一緒に買いに行った絵本です。そのことを伝えると、サンティさんは
「ありがとうございます」
「奥さんや息子さん、娘さんによろしくお伝え下さい」
と、顔がほころびました。
◆突然届いた郵便物
今回も、周りの人に甘えて、無事、調査を終えることができました。インドネシアでは時間がゆっくり流れています。ゆったりとした気分になるのです。
そのゆったりとした気分は、飛行機で日本に向かうとともにじょじょに壊れていきます。日本に向かう飛行機は重い空気の中を飛んでいるようでした。
日本に帰り、溜まったメールをチェックし、郵便物を開封しているところに、大学から厳重に封をした封筒が届きました。何だろうと開けると、わたしは「退職勧告者候補」であるという書類でした。動悸が速まります。筋緊張が上がりました。
話は次回へ続きます。
(三谷雅純 「ことばを失う」の人類学 わたしをフィールド・ワークする 第16回おわり)