第13回 わたしの講義やセミナーはどう変化したのか

第13回 わたしの講義やセミナーはどう変化したのか

2022.6.20 update.

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三谷雅純(みたに・まさずみ)

人やヒトの社会や行動の本質を科学的に探る、霊長類学、人間行動進化学に強い興味を持つ研究者。アフリカ中央部(カメルーン、コンゴ共和国)を中心に、鹿児島県屋久島、インドネシアの熱帯林で調査・研究を行ってきたフィールド・ワーカー。


2002年4月に脳塞栓症に陥り、以来、右の半身まひと失語となる。自由に森には行けなくなるが、代わりに人やヒトの多様性に興味を持ち研究を続ける。生涯学習施設の講演や緊急災害情報などの放送はどうあれば「聴覚失認」のある高次脳機能障害者、聴覚情報処理障害者が理解できるか、視聴覚実験によって検証している。


文化的、遺伝的多様性を持つ人で作る社会のあり方を研究していきたいと考えている。

 

■学校現場における技術の進歩

 

現在の学校現場では、いろいろな場面で液晶ディスプレイが使われています。コンピュータと接続して大型のディスプレイに映し出せば、模擬的に行う理科実験なども、その様子を一度に多くの生徒に見せることができます。

 

わたし達のころは、みんなが先生の周りに集まって、押し合いへし合いしながら先生の手もとを覗き込んだものでした。しかし、今では、生徒は席に座ったまま理科実験を見ることができます。インターネットから取り込んだ情報も、その場で大型のディスプレイに映し出せます。まるで、もう黒板は不要になったかのようです。

 

......ちょっと待って下さい。本当にそうでしょうか?

 

■板書の重要性

 

生徒の前で先生は黒板を使って授業を進めます。授業の中心は、今でも板書なのだと思います。わたしはマヒのために板書ができないので、講義や講演ではコンピュータとスライドを常用していますが、これだと学生や参加者の集中度が落ちてしまうような気がしています。

 

大学では授業時間を90分としているところが多いのですが、だいたい30分過ぎあたりから寝ている学生が出てきます。もちろん、話をしっかり聴いている学生が多いのですが、目は開いていても、ただ座っているだけという学生が何人かはいるものです。教室の後ろの方に座り、あくびをしながら心ここにあらずという学生です。

 

それでも興味を引き出すのが教員の腕だと思います。ただし社会人対象の講演で寝ている人は驚くほど少なくなります。義務で座っている講義と、知識を求めて自ら集まる講演の差なのでしょう。

 

学生が寝ているのは、わたしが板書できないことと大いに関係しているのではないでしょうか。板書というのは、先生が喋った内容をホワイト・ボードや黒板に書くことで先生自身がまとめ直すものです。学生はその内容を自分のノートに書き写します。学生もまた、そうすることで先生の喋った内容を自分の中で確認し直すのです。確認し直すのですから学生にとって書くという行為は、繰り返し刺激を受け続けることを意味します。これが板書の利点だと思います。

 

ということは、わたしには板書ができないことを補う技(わざ)が、どうしても必要になってきます。それが障害者になってから開発した工夫の数かずです。

 

■自己紹介で学生の心を開く

 

セミナーや講義をするのに「障害のあるなしは関係ない」というのが持論(希望?)ですが、それでも、わたしの場合はいろいろと手順を踏んでからセミナーや講義に臨みます。

 

第一に、わたしは話を始めるとき、必ず自己紹介から始めます。話し始めて5分ぐらいはもろに失語が出ます。よく話が詰まります。聴いている方は何事が起こったのだろうと思うかもしれません。また、先程も書いたように、わたしは板書ができません。スライドを映してやる講義も、いつもととは勝手が違うでしょう。

 

そこで、なぜコンピュータを使うのか、なぜ板書をしないのか、聞き手が理解しやすいように、あらかじめ自己紹介から始めるのです。

 

自己紹介では現在の自分の状態を包み隠さず公開します。やってきた研究も大事ですが、それよりもまず病気のことです。

 

――脳の血管に血栓が詰まりました。

 

――今のように緊張していたり(学生や聴衆の前では、今でも緊張します)、疲れた時には失語が出ます。いったん右半身がマヒしていましたから、動きがぎくしゃくしています。そのためにスクリーンの前を行ったり来たりできません。

 

こういった説明を終えたあたりで、わたしはやっと滑らかに口が回り始めます。エンジンが正常に回転し始めたのです。

 

ところが、聞き手は目の前にいる教員が障害者だということにとまどっています。「障害」という事実に圧倒されて口が利けなくなっているのです。

 

――教員は自分の障害のことを話しているけれど、でも、それに関することを本当に質問してもいいのだろうか......

 

明らかに不安に駆られた目をしています。

 

わたしは「わたしの障害について、何か聞きたいことがありますか?」と、なるべく平静を装って声をかけます。そんな時の学生は、聞いてみたいことがあるのだが、他の学生の前で聞くのは気が引けると気をもんでいます。それが良くわかります。学生に比べて社会人の方はよく手を挙げます。たぶん人生経験を積んでいる分、ご自分とわたしが変わらなく思えるのでしょう。

 

このように講義中はもじもじしていた学生ですが、講義が終了した後で「僕はADHD(注意欠如・多動症)の診断を受けています」と言ってきたり、「高校の時、クラブをしていて脳梗塞(こうそく)で倒れ、救急車で運ばれました」と言ってきたりするのです。どの人も深刻な顔つきではなく、わたしに笑いかけて、そう言ってくれるのです。

 

 

講義や講演のときに使う「自己紹介」のスライド

 

■わたしと同じ障害を持つ学生

 

脳梗塞を起こした男子学生へは、わたしと同じ障害なので親近感が湧きました。もちろん、そんな感情を表に出してはいけません。教員はどの学生とも等しく付き合うべきです。そして、一番気になるのは、その学生が講義に興味を持ってくれたかどうかです。

 

その学生は利き腕側がマヒしていたのでノートが取れませんでした。わたしの方も「板書」代わりのスライドで講義をしています。これでは興味が持てなくてもしかたがないでしょう。

 

試しに他の教員の講義ではどうしているのかを聞いてみました。するとその学生は困っていると言うのです。教員は、学生が困っていることに気がつかないのでしょうか。しかたがないと突き放すのは冷たすぎます。教員側に共感と想像力が足らないのかもしれません。

 

その学生が言うには、ノートが取れないので、黙って聞いている。そしてできるだけ憶えておいて、講義の後でコンピュータに入力する。

 

......う~ん。

 

実を言うと、わたしも大事な会議の後では似たようなことをやっていました。ただし、抜けたところがないかを同僚にチェックしてもらいます。たいていはこれでオーケーです。学生に仲間の学生はいないのでしょうか。

 

心配になったわたしは、教員が板書を終えたら、消す前にデジタル・カメラで写すというのはどうかと提案しました。基本は今まで通り記憶に頼るにしても、写しておけば、見直して見ることができる。それで抜けていたら、書き足せば良い。

 

しかし、学生は困った顔をしています。何に困っているのかはよく分からなかったのですが、わたしは、教員が「カメラで撮るな」と怒るのなら、なぜカメラで写すことが必要なのかを、わたしからその教員に説明してあげるからと言ってみました。その場はそれで分かれましたが、結局、この「記憶とデジタル・カメラ」作戦は実現しなかったようです。

 

それでも、この話には後日談があります。まじめなその学生は、何とかしてハンディキャップを乗り越えて大学院に進みました。確か乗り物の設計がしたいと言っていました。そして大学院を終えると、有名な乗り物の会社に研究員として採用されたということです。めでたいことです。ただ、わたしも同様ですが、本人にとって乗り越えるべき障壁はこの先も続けて現れることでしょう。

 

■音声に関する工夫

 

講義は大抵大きな教室でやるので、マイクが必要です。ただし、わたしは手でマイクを持てませんから、世話をしてくださる事務職員にピン・マイクを用意してもらいます。もちろんマヒのない方の手で持つことは可能なのですが、そうするとスライドを示したり、学生や参加者を当てたりできません。

 

それから自分が喋った内容や質問にどう答えたかを記録するボイス・レコーダーも活用しています。ボイス・レコーダーの記録を次の講義のために聞き直し、もっと良い答え方ができるのであれば、それを考えるためです。

 

■対面式、少人数で行うセミナーでの工夫

 

次に少人数でやるセミナーで工夫していることです。

 

第10回「もうひとつの生き方――新たな苦労の喜び」で紹介したセミナーは、わたしにとって不安に満ちた市街でやる社会人セミナーでした。しかし、勇気を出してやってみると、セミナーの参加者もわたしも、共に良質な時間を過ごすことができました。病気をする前には、なかなかできなかった経験です。

 

セミナーで喋ろうと思うことをあらかじめ考えておくことは大切ですが、そのことよりも、その場で自分の頭で考え、参加者と共に作り上げたことが楽しいのです。それができたときは本当に贅沢な時間を過ごすことができました。この経験から、再び研究者の喜びを感じることができたのです。

 

セミナーでは、わたしが「手持ち原稿」と呼ぶ原稿を紙に打ち出しておきます。14ポイントとか、16ポイントとかの大きなフォントを使います。わたしが見てすぐに分かるものでなければ意味がないので、フォントはわたし好みの丸ゴシックです。視認性が良いものが好みです。明朝体は縦と横の線の太さが変わるので、わたしには見にくいのです。

 

これはたぶん、わたしの学習障害と関係があるのだと思います。わたしは小学校以来、漢字が憶えられなくて苦労したのですが、これはわたしの「左右利き」、つまり右側と左側の認識が曖昧なことが関係しているのだと思います。漢字の偏(へん)と旁(つくり)がごちゃごちゃになって、正しく漢字が書けないのです。

 

それが縦と横の線の太さが変わる明朝体が苦手なことと関係しているだと思います――読んでおかないといけない論文の草稿などは、文書作成ソフトで書いたものを送ってくださると、フォントが変換できるので、わたしにとってはとても便利です。明朝体が読めないということはありませんが、好きなものを選んで良いと言われれば、わたしは丸ゴシックで書いたものを選びます。

 

この手持ち原稿の右上には、巨大なページ数を振っておきます。喋っている間に失語で言葉が出て来なかったら、堂どうとこの「手持ち原稿」の該当するところを開きます。そうすれば、すぐに忘れた言葉に行き当たるのです。こうしておけば、わたしにもセミナーの参加者にも大きなストレスはかかりません。

 

配付資料も用意します。絵や写真を使ったスライドをつくっておいて、講義で使うスライドの代わりにセミナー用に印刷して配ります。なるべく大きな文字になるように、1ページにスライドを2コマずつ印刷します。学生のように若い人であれば小さな文字でも平気ですが、セミナーに高齢の社会人が参加する場合を想定して用意しておくのです。

 

セミナーは大体、2時間ほどかかります。わたしは参加者と向かい合わせに座ります。参加者が何か分からないことや意見があったら、遠慮しないでわたしの話を止めて意見を言ってもらうというスタイルが好みです――何だか、古代ギリシャの哲学者・ソクラテスの「問答」みたいですが、わたしはソクラテスのように怖くはありませんよ。

 

いつも出席する参加者は、わたしの好みのスタイルを良く承知していて、セミナーの開始前には机を向かい合わせに並べ替え、セミナーが終わると、次の講義ができるように、元通り戻しておいてくれます。

 

 

セミナーの様子

 

■進歩する技術に対して思うこと

 

現在はソフトウェア、ハードウェア共に、さまざまな技術の進歩があります。障害者だから講義ができないという時代ではありません。ないはずです。脳―マシン・インターフェイスの実用化は、もうそこまで来ています。頭で考えるだけで本物の手のように動くロボット義手でさえ実用化が間近だと言われています。これが実現したら、きっとすばらしい。

 

しかし、開発される技術は、マヒや失語の障害で言えば「欠けている能力」を補うことが主眼の技術ばかりのような気がします。

 

「欠けている能力」を補うということは、多数者の生き方を模擬的に真似するということです。もしかすると、それは人の多様性を認めるのではなく、暗黙の内にひと色の生き方を強要しているのではないでしょうか。わたしには、そういう心配があるのです。

 

 

(三谷雅純 「ことばを失う」の人類学 わたしをフィールド・ワークする 第13回おわり)

 

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