かんかん! -看護師のためのwebマガジン by 医学書院-
2021.12.14 update.
人やヒトの社会や行動の本質を科学的に探る、霊長類学、人間行動進化学に強い興味を持つ研究者。アフリカ中央部(カメルーン、コンゴ共和国)を中心に、鹿児島県屋久島、インドネシアの熱帯林で調査・研究を行ってきたフィールド・ワーカー。
2002年4月に脳塞栓症に陥り、以来、右の半身まひと失語となる。自由に森には行けなくなるが、代わりに人やヒトの多様性に興味を持ち研究を続ける。生涯学習施設の講演や緊急災害情報などの放送はどうあれば「聴覚失認」のある高次脳機能障害者、聴覚情報処理障害者が理解できるか、視聴覚実験によって検証している。
文化的、遺伝的多様性を持つ人で作る社会のあり方を研究していきたいと考えている。
脂汗を垂らし、苦労して思い出しても、手がかりをつくっておかないとすぐに忘れてしまうものがあります。第6回で書いた、店の名前や仕事の上で付き合いのある人の名前もそうですが、地名も「すぐに忘れてしまう」のです。本当のことを言えば、これは今でもそうです。
このように、固有名詞は常に忘れてしまいます。なぜなのかはっきりしたことは分かりませんが、実際にそうなのです。何かと結びつけておかないと簡単に忘れてしまいます。
例えば、関西国際空港があるのは、わたしの住んでいる兵庫県側では「伊丹(いたみ)市」ですが、この「伊丹」という地名が、わたしには、なかなか思い出せません。
そうして忘れては、「あ」の段から始まる言葉であれば、「あ、い、う、え、お」をたどり、「あ、い……」まで行けば、「い」、「い」、「い・た・み」というふうに思い出します。かろうじて言葉を取り返し、記憶を固定しておく碇(いかり)が、わたしにとって「伊丹」であれば、「あ」の段の「あ、い……」なのです。
パソコンのキーボードのさまざまな記号も、脳塞栓を発症したタイミングで基本的なことまで忘れてしまいました。
例えば、「Shift」や「Ctrl」、「Fn」や「Backspace」の区別はあいまいになっていました。
病気をしてもコンピュータが動く原理は理解しています。理解はしているのですが、わたしはその利用のところでつまずいたようです。左手だけでキーボードが打てても、それは習慣的に打てているだけです。
「Shift」を押さえながら「1」を打つと「!」が出ます。「5」なら「%」です。このような詳しいキーボードの使い方が分からなくなってマニュアルを見てみると、例えば「Fn」については、「画面を明るくしたいなら<Fn>を押さえながら<F7>を打て」と指示してありました。しかし、わたしは、そもそも「Fn」が何のことだか分からなくなっていたのですから、言うならば「一からの学び直し」です。
しばらくはマニュアルと首っ引きになりました。
社会復帰の「お試し」を利用して、乗り物の乗り降りに挑戦してみました。これは「喚語(かんご)困難」や「語想起の障害」など、わたしにとって問題のある発話に関係した困難ではありません。ただ乗り物に乗るだけのことです。危険なときはいっしょに乗った妻が見てくれています。それでも、乗り降りの際の足運びは心配でした。
まずは電車です。空いているときを見計らって電車に乗り、降りるときはプラットホームの位置をよく確認して、そこに右足を着きます。
できました。その右足に体重を乗せてホームに出ます。
次は改札口です。改札口は幅の広いバリアフリーのものもありますが、自動改札は多数者が便利なように、切符の挿入口は進行方向の右側に付いています。わたしは右半身がまひしているので、左手で切符を持って身体をねじり、右側の挿入口に入れるのです。
慣れていないせいかドギマギしましたが、これも何とか通過できました。
駅のエスカレーターも使ってみました。エレベーターのほうが簡単なのですが、わざと難しいエスカレーターに挑戦してみました。ステップが目の前に来たときにタイミングを合わせて、右足を踏み出せるかどうかが勝負です。
どうにかこうにか乗れました。ただ、乗ってからが大変でした。わたしは左手で手摺りをつかんでいなければいけないのですが、これがやっかいです。
エスカレーターに乗ったとき、関西では右側に、関東では左側に寄って立つという習慣があります。もともとは「急ぐ人が通過できるようにという配慮から」だそうですが、関西では、左手で手摺りをつかんで乗っていると、通行したいから通せと後ろから腰を突かれるのです。
ですが、わたしは左手を離せません。そのままの姿勢で降り口まで乗っていると、後ろの通行人がものすごい形相で睨み付けていきました――現在では、だいぶ「エスカレーターでは階段のように上り下りしない」というマナーが浸透してきたようです。それでも舌打ちされることが、たまにあります。
なので、我が家では、エスカレーターに乗るときは、わたしの前後に妻や息子が立って、わたしを「守って」くれるようになりました。
当初、バスは電車と違い、ステップの段差が高い印象がありました。乗り降りには気合いが要りそうです。
このときは、走っているバスに乗ってみる勇気はなかったので、ターミナルで停まっているバスで試してみました。するとバスという乗り物は乗降口の両サイドに手摺りが付いていて、思いのほか、スムーズに乗ったり降りたりできるのだと分かりました。
妻がお手玉を落とし、わたしがそれを手の平で受け止める練習をしていたときです。これは指を広げる訓練です。それまで、グーの手は簡単にでき、パーは難しく、指2本が独立して動かないとできないチョキはさらに難しかったのですが……
お手玉を受け止めようとがんばって指を広げているときに、指がばらばらに動いた感覚がありました。
それは前から経験があるような、ないような、奇妙な感覚でしたが、とりあえず右手にとっては(正確には右手をコントロールしている、新しく役割を担うことになった脳神経にとっては)「生まれて初めての経験」です。
指がばらばらに動いたようだと妻に伝えると、「我が家の3番目の子どもが成長している」と言って喜んでくれました。まひした半身を生まれたての赤ん坊に例えたロマンチックな表現です。
ですが、2歳の娘や6歳の息子にとっては指が動こうが動くまいが関係ないらしく、いつものように娘はわたしの右手で遊びますし、息子はわたしが何かしようとして尻餅をついたとき、平気な顔で右手を引っ張り、起こしてくれるのでした。
わたしや妻にとっては「指がばらばらに動いた」ことは大事件でしたが、リハビリ病院に行ってそのことを報告すると、作業療法士の皆さんは別に驚きもしませんでした。きっと「動くようになるのが自然だ」ということなのでしょう。
変わったのは、手の指がばらばらに動いたことで新しい課題がいくつか始まったことです。一つは「お手玉のぶらぶら放り投げ」です。まだ手首がしっかりしていないので、垂直に伸ばした指でお手玉をつかんで、そのままアンダースローで投げる練習です。
これはわりと得意だったのですが、すぐに指が固まってしまいました。脳が慣れていない動作にびっくりして、指の筋肉がこわばってしまったのです。医療現場では「筋緊張の亢進(こうしん)」と表現される現象です。適度に休みながら練習を続けて、やがて、こわばらなくなれば、このステージはめでたくクリアーです。
「輪投げつかみ」は、ボールの代わりに輪投げをつかむのですが、輪投げだけに「つかむ」に加え「持ち上げる」という動作が入ります。ですが、わたしにとってはこちらのほうが、対象が大きいのでボールをつかむよりも簡単でした。
それから手に「ページをめくる」というような動作を覚えこませる練習もありました。やりながら、こうした練習のどれもこれもが、大切であることが実感としてわかりました。
家でできるリハビリテーションを理学療法士や作業療法士、それに言語聴覚士の皆さんと相談しながら、まとめてみました。
装具をつけて5分から15分歩く練習、1時間程度の散歩(万が一のために携帯電話を持っていくことを妻が求めました)、全身の体操、買い物(歩く、買う、運ぶ)、夕方の洗濯物の取り込み(左手で取り、右手で押さえておく)。
本の音読は言語療法士の方から勧められました――これは20年経った今でも続けています。これには30分くらい時間をかけます。それから、子どもたちには評判の悪いしりとり、パソコンの練習、左手での書き取り(ひらがな、漢字、ローマ字)。右手も時々がんばります。
装具をつけて歩く練習とパソコンの練習は、その後、必要なくなりました。パソコンは、左手だけの操作にすっかり慣れてしまったからです。
わたしの病名は脳塞栓症で、血栓が脳血管に詰まったのだということは理解しています。しかし、何だと言ってわたしの身にそんなことが起こったのでしょう。血栓が詰まるなど、考えてみれば異常です。血液は血管の中をさらさらと流れているものです。普通はありえません。
そこで大阪府吹田市にある国立循環器病研究センターで徹底的に調べてもらうことになりました。場合によっては、頭を開いて脳の血管を外科的に手術しなければならないことも覚悟しました。
あらかじめ外来患者として予約をして国立循環器病研究センターの脳神経外科を訪ねます。わたしの治療と再発防止策を探る上で、脳神経外科の医師の意見がひとつの試金石になりそうだったからです。
ところが、脳神経外科の医師は、リハビリ病院で撮ってもらったわたしのMRIを観察し、血栓は流れて消えてしまったというわたしや妻の説明を聞いて、「(血流が)再開通したのですか」とひとこと言い、手術の必要はありませんねと断言するのです。
そして、脳血管の走り方の異常やこぶがないことを確認し、同じ循環器病研究センターの脳神経内科に電話をして、親しい医師に相談に乗ってあげて欲しいと頼んでくれました。
わたしにすれば開頭しなくてもよくなったのですが、一方で、また最初の疑問に逆戻りです。何だと言ってわたしの身に脳塞栓症などということが起こったのでしょう。これが分からなければ再発防止策が決められません。
国立循環器病研究センターに転院したときには、すっかり暑くなっていました。数日間、家で過ごしてから、家族と過ごす時間に未練を残して循環器病研究センターに向かいました。脳神経内科では、よくある原因から始まって「あまり起こらないが、念のために調べておこう」という原因まで、ありとあらゆることを調べてくれました。それでもはっきりとした原因は見当たりませんでした。わたしの検査を担当した医師がこう説明してくれています。
「原因は特定できませんでした。一つは心房の壁にわずかな穴が開いており、その穴が何か悪いことをしたのか――この穴自体は、日本人では全人口の約15パーセントの人に開いているということです――、あるいは、心臓の拍動にイレギュラーがあり(心房細動のことだと思います)、それが悪いことをしたのかもしれません。しかし、今は、原因は治癒(ちゆ)している可能性が高く、<何も悪いところはない>ということになるでしょう。」
「ただ印象としては、脳血管に柔らかい物質(コレステロールだと思います)がたまり、そこに血栓が詰まったが、脳血管に裂け目が入って柔らかい物質はどこかへ行ってしまい、血管のでこぼこが消えた、という推理が、一見筋が通っているようです。」
「あと、一つの可能性として、足に血栓ができて、それが<定期的に>脳に飛んでいるのかもしれません。次は足のエコー検査をやってみます。」
結局、心臓を中心にして足のつま先から頭のてっぺんまで、かなりの検査を重ねたのですが、「健康体」であるということが分かるのみで、これという原因は見つかりませんでした。これが即、本当の「健康体」であることを表すわけではありませんが(現実に右半身はまひしています)、しかし「健康体」である可能性は高いようです。
検査をしていただいた複数の医師には「よく調べていただいた」と感謝しています。ただ、わたしが血栓のできやすい体質なのかどうかわかりませんし、今後も血栓が脳に飛ぶのかどうかも未知です(そのようなことは、もう起こってほしくありません)。ですが、脳に血栓が飛ぶ可能性があることは、否定できないのです。
最終的には「原因はよく分からない」ということが分かっただけでした。それでも予防は必要です。再び脳に血栓が詰まる可能性を下げるように、アンプラーグという薬を飲むことになりました。
C: 同様の2021年05月10日の画像
どれも脳細胞の壊死が楕円でくくった左の側脳室の外側に見られ、脳室は拡大しています。ここにはありませんが、2002年に脳塞栓症を患ってしばらくしてから、わたしの脳のダメージは、ほとんど変わっていません。「脳神経が再生して改善してきている」という証拠もなく、「認知症が進行している」という証拠もありません。
写真は3点とも国立循環器病研究センターに提供してもらいました。
あるとき、国立循環器病研究センターの言語療法士の方から「生態学のレクチャーを1回10分程度でやっていただきたいのですが、どうでしょう」と提案がありました。「生態学のレクチャー」であれば、ついこの前までやっていたことです。お受けしました。
レクチャーが終わると、この言語療法士の方から「言語療法士の立場で見た場合、何か言葉に詰まっては探すという場面があるように見えましたが、それで話の筋が見えなくなったとか、聞きづらいという事はありませんでした。また、いち聴衆としては、<生態学の5回シリーズ>を素直に楽しめました」と言っていただきました。
そして「今後は、ぜひ無理のないように仕事を続けて下さい」とのことでした。
分かりました。おかげで自信がつきました。ありがとうございます。
しかし、わたしが職場に復帰するためには、もっとシビアーな問題が残っていることにも気がつきました。それは周りの人びとの、わたしという「障害者」の捉え方です。
リハビリテーションに夢中になっていると、つい忘れてしまうのですが、わたしはどこから見ても立派な「障害者」です。ただし、まだ慣れていない新米の「障害者」です。言ってみれば「障害者見習い」なのです。
立派な「障害者」として自立した意見を持つまでには、さらに時間が必要でした。
次回は社会に復帰するまでの葛藤のようすです。
(三谷雅純 「ことばを失う」の人類学 わたしをフィールド・ワークする 第7回おわり)