かんかん! -看護師のためのwebマガジン by 医学書院-
2020.12.22 update.
郡司ペギオ幸夫 (ぐんじ・ぺぎお・ゆきお)
1959年生まれ。東北大学大学院理学研究科博士後期課程修了。理学博士。現在、早稲田大学基幹理工学部・表現工学専攻教授。著書に、『生きていることの科学』講談社現代新書、『いきものとなまものの哲学』青土社、『群れは意識をもつ』PHPサイエンス・ワールド新書、『天然知能』講談社選書メチエなど多数。
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宮台真司 (みやだい・しんじ)
1959年生まれ。東京大学大学院社会学研究家博士課程修了。社会学博士。現在、東京都立大学教授、社会学者。著書に『社会という荒野を生きる。』ベスト新書、『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』幻冬舎文庫、『14歳からの社会学』ちくま文庫、『日本の難点』(幻冬舎新書)など多数。
文字起こし:若泉誠(宮台ゼミ)
この10月に代官山蔦屋書店で行われた郡司ペギオ幸夫さんと宮台真司さんとの対談は、人工知能的知性の「外」でどう生きるかについて熱く語られ、たいへん大きな反響を呼びました。
郡司さんの新刊書『やってくる』を導きの糸にしたこのトークイベント全体の書き起こしは、代官山蔦屋書店さんのサイトで5回に分けて掲載されています。しかし、なにせ5万字近くの長尺もの。そこで「かんかん!」では、そのピックアップ版を作成しました!
興味を引かれましたら、ぜひ全文をお読みいただければ幸いです(それぞれの見出し部分をクリックすると当該サイトへ飛べます)。
*2回にわたって掲載します。今回は後編です。
*前編はこちら⇒『やってくる』とはどんな本なのか?
さて、ここから先、郡司さんの個人的な話を伺いたいです。まず、この本を読んだ多くの方が思うのは「なぜ郡司ペギオ幸夫さんにだけ変な体験が起こるんだろう」ということ(笑)。「郡司ペギオ幸夫さんって一体どういう人だよ、(本を指して)すべてが変じゃないか」と(笑)。一番最初に出てくるのは、干しブドウだと思って食べたらぺしゃんこになって干からびたウジだったという話ですが、変です。
ほしぶどう?(『やってくる』20頁)
ウジでした(『やってくる』21頁)
僕の町内会は、20軒くらいの小さな町ですが、僕が子供の頃には、職人の町でした。
あるおじさんは、立派な大人なのに「あんちゃん」と呼ばれていましたが、寅さんみたいな恰好をしていて、(自分の子供が)事故でなくなり、支払われた賠償金をいつも腹巻きに挟んでいました。その札束を出しては、ばーっと数えるわけです。「子供が死んじゃって、こんなの、もらっちゃったよ」と。もちろん嬉しいわけではなく悲しいわけですけど、絶妙な表情でいつも数える。それを見て子供心にも「大変なことが起こったんだな」と思うわけです。「それをどう消化していいのか分からなくて」というのも分かるわけですよ。そういう子供時代を生きてきたんですね。
抽象的次元で郡司さんの存在形式って何なんだろうと思った時に思い出すのが、一水会元代表の鈴木邦男さんとドキュメンタリー作家の森達也さん。以前書いたけど、彼らの共通性は「認識におけるラグ(時間差)」です。彼らは早合点しない。しばらく保留する。質問しても「それはよくわかりません。うーん。」と唸って、時間が経ってから「今思ったんですけど…」と。僕はこの時間差に「やってくる」んだと思う。シニフィアンとシニフィエの直結がない。郡司さんもそういう方だと想像するんです。
(笑)
僕は逆に早合点系だと言われます。小さい時から批判されました。
遅れと早合点の話を通じて言えるのは、郡司さんが離人症的体験ないし統合失調症的体験として書かれている「シニフィアンとシニフィエが直結する自動機械的な振る舞い」が孕む問題です。シニフィアンが提示されたときに保留したままのサスペンディングな状態に耐えて「やってくる」ものを待つ構えこそが重要なのに、それを持つ方と持たない方がいるんじゃないかということです。
僕は、何かを呼び込む装置を考えるとき、トラウマとLGBTと腐女子が重要な概念になると思っています。シニフィアンとシニフィエみたいに対概念でありながら、一方でその関係は無関係なものが恣意的に結びついたように見え(ソシュールはそう述べた)、他方、もしかしたらこれは関係づけられるんじゃないか、線で結べるんじゃないかと思うものがありますね。
この二つ(シニフィアンとシニフィエ)が関係づけられるのか否か、という意味で問題化されとき、問題に解答を与えるでもなく、問題が宙吊りになって、両者がぐちゃぐちゃになったまま内部にとどまる。それをトラウマと言っているわけです。
フラッシュバックというのは本人にとって非常に苦しいものです。そこで、フラッシュバックを呼び込むトラウマの意味を脱色してやると、やってくるものが変わるんじゃないか。
シニフィアンとシニフィエのような、一見対立するけど関係づけられるかもしれない問題として成立するもの。それが一緒になったアンチノミー(二つのAとBが共に成り立つもの=肯定的アンチノミー)が本来的なトラウマですが、このトラウマをある意味で磨くわけです。磨いて磨いてトラウマ的な意味が脱色した時に、フラッシュバックではない何かが――治った感じがするなという治癒的な感覚などが――「やってくる」んじゃないかと考えています。
すごく触発されるものがあります。簡単に言うと、郡司さんと僕はトラウマを抱えていて、それを磨いてきた存在だということで、仲間であるみたいな話でした(笑)。
外部への感性において、この「徹底した受動性」というのがきわめて重要で、「徹底した受動性」を立ち上げるには、空白域を形成する必要がある。この空白域こそ、脱色化され、無効になったトラウマではないか、というのが僕の読みです。トラウマは、時代に関係なく、誰でも気づきさえすれば磨きあげられるんではないか。その感受性は、むしろ今のほうが、割と優れている人が多いんじゃないか。だったらなぜ、僕の本が売れないのが、それは謎なのですが(笑)。
ジェントリフィケーション(環境浄化)って文字通り「人にやさしい」ので、人の寿命も延びるだろうし、いろんな病気も克服されるだろうけど、言葉や法や損得の時空に閉ざされて、今おっしゃった「根源的な受動性」に開かれるチャンスが消えていくんじゃないか。
「根源的受動性」って、誰か相手が能動で、こちらが受動というんじゃなく、古代ギリシャ文法学者ディオデュニオス・トラクス(紀元前2世紀)が中動態と名付けたものに近いでしょう。実際、中動性という概念が近代の僕らから失われたように、郡司さんがおっしゃる「根源的な受動性」の享楽を知らない人たちが増えてきているし、増えていくだろうと思うんです。
【根源的受動性とは現象学的な視座からか? という参加者からの質問に対して】ここで言っている根源的受動性、徹底した受動性というのは、トラウマ的なものを完全に脱色して、いわゆる現象学的な知覚世界の外側に対する感受性を開くことなので、そこは違いますね。
なるほど。郡司さんもおっしゃっている受動性について理解するには、中動態に関する國分功一郎さんの『中動態の世界』以降の、彼の議論に触発された様々な議論──僕の議論も含まれます──を一瞥していただくと腑に落ちるでしょう。中動態とはまさに力の流れに開かれることですが、男よりも女の方が有利です。なぜ女の方が火事場の馬鹿力が出やすいか、つまり変性意識状態に入りやすいか。なぜ女の方がストレス耐性が強いか。なぜ女の方が寿命が長いか。プレグナンス(妊娠)という事象を意識や遺伝子が参照するからです。
郡司用語と宮台用語を混ぜれば、「根源的受動性への覚悟」=「受動的能動」=中動です。『やってくる』の最後にある死に関する議論が分かりやすい。相手が能動で自分が受動だから、それを逆転して相手が受動で自分が能動になる、なんて関係は死との間には取り結べません。郡司さんが書くように「根源的受動性への覚悟」は、やはり用語を混ぜれば、「やってくる」=「世界からの訪れ」を待って初めて可能になります。
ヴァルター・ベンヤミンがいう「砕け散った瓦礫の中に一瞬浮かび上がる星座」=アレゴリー(シンボルでは規定できない何かがやってくる)という概念にも関係します。何かが「やってくる」ことで「根源的受動性」に開かれるということです。実はベンヤミンが参照するのも初期ギリシャです。
【外部の人になるには? という質問に対して】あなたが用いた「外部になる」とか「外部にいる」とかいう言葉が典型的で、外側は分かんないものなのに、機能に関して実体化しているわけです。そうじゃない。僕らにできるのは、何か分からないもの、「やってくる」ものを呼び込める装置を、徹底してこちら側に作ることです。それは別に誰でもできることだと思います。僕が言っている装置とは、誰にでもあるトラウマティックなものだからです。みんな忸怩たるものがあるじゃないですか。その忸怩たるものを磨くことこそが、外部を呼び込む感性なのです。
自己決定せよという命令に従う「自己決定」は自己決定なのかというパラドックスがあるよね。同じで、外側に開かれよという命令に従う「外側に開かれる」営みは外側に開かれていることになるのかという問題。
今日は僕のゼミ生も来ているけど、そういう問題があるので、そこから先は郡司先生と同じで「外に開かれろ、ほら外はここだ」という命令は人をパラドックスに追い込むので一切やめて、僕なら概念的な命令は横に措いて、外遊びやコンテンツを含めて言葉にできない何かを体験する──何かが「やってくる」──蓋然性を高める工夫をします。「体験デザイン」と呼ぶけど、郡司さんの本に出てくる数多の体験報告も読者に向けた体験テザインなんですね。
現に『やってくる』をお読みになって安心するでしょう? それでも生きていける郡司さんが現にいらっしゃるんですから(笑)。ことほどさように僕が実践的な指針として話すのは、メンターを持ちなさいってこと。メンターってただの指導者じゃなく、「こんなとき、郡司さんならどう言うかな? どうするかな?」って想像できる参照先のことです。
そうやって開かれに対する恐れを取り除けると思います。ありがとうございました。
(了)
「日常を支える人々」に捧げるアメイジングな思考!
生ハムメロンはなぜ美味しいのか? 対話という行為がなぜ破天荒なのか?――私たちの「現実」は、既にあるものの組み合わせではなく、外部からやってくるものによってギリギリ実現されている。だから日々の生活は、何かを為すためのスタート地点ではない。それこそが奇跡的な達成であり、体を張って実現すべきものなんだ! ケアという「小さき行為」の奥底に眠る過激な思想を、素手で取り出してみせる郡司氏。その圧倒的に優しい知性。