前編|『やってくる』とはどんな本なのか?

前編|『やってくる』とはどんな本なのか?

2020.12.21 update.

対談者プロフィール

郡司ペギオ幸夫 (ぐんじ・ぺぎお・ゆきお)

1959年生まれ。東北大学大学院理学研究科博士後期課程修了。理学博士。現在、早稲田大学基幹理工学部・表現工学専攻教授。著書に、『生きていることの科学』講談社現代新書、『いきものとなまものの哲学』青土社、『群れは意識をもつ』PHPサイエンス・ワールド新書、『天然知能』講談社選書メチエなど多数。

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宮台真司 (みやだい・しんじ)

1959年生まれ。東京大学大学院社会学研究家博士課程修了。社会学博士。現在、東京都立大学教授、社会学者。著書に『社会という荒野を生きる。』ベスト新書、『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』幻冬舎文庫、『14歳からの社会学』ちくま文庫、『日本の難点』(幻冬舎新書)など多数。
 
文字起こし:若泉誠(宮台ゼミ)

この10月に代官山蔦屋書店で行われた郡司ペギオ幸夫さんと宮台真司さんとの対談は、人工知能的知性の「外」でどう生きるかについて熱く語られ、たいへん大きな反響を呼びました。

 

郡司さんの新刊書『やってくる』を導きの糸にしたこのトークイベント全体の書き起こしは、代官山蔦屋書店さんのサイトで5回に分けて掲載されています。しかし、なにせ5万字近くの長尺もの。そこで「かんかん!」では、そのピックアップ版を作成しました! 

 

興味を引かれましたら、ぜひ全文をお読みいただければ幸いです(それぞれの見出し部分をクリックすると当該サイトへ飛べます)。

*2回にわたって掲載します。今回は前編です。

*後編はこちら⇒体験としての『やってくる』

 

■『やってくる』を貫くもの

 

宮台
宮台

僕の言葉で言えば「世界からの訪れ」ゆえに、「わかった」という感じが得られ、無限退行の不安から逃れられる。だから『やってくる』にあるように、外から「やってくる」ものは、不安の源泉ではなくて、むしろ福音です。この図式が全体を一貫しています。ただし場合によって外から「やってくる」筈の何かがやってこないときもある。それが死に関することです。

『やって来る』書影.jpg

 

 

■フレーム問題と自己言及問題

 

郡司
郡司

スペンサーブラウンの解決というのは、フレーム問題をいつの間にか自己言及の問題にすり替えて、フレーム問題で問題化された文脈の無際限さ――つまり現実に接続する意味の問題ですが――これを論理の問題、操作の問題に置き換えることで実現されます。これって、一種の形式的な抽象化だと思われて見過ごされがちですが、私は誤りだと思いました。

郡司
郡司

僕は、むしろ、従来、システムと呼ばれていたようなものは、みんな、自己言及とフレーム問題の二重性、時間と空間の(相互依存的)二重性を基礎におく、「矛盾を内在しているものの、矛盾を明確に指摘できないもの」なんだと思います。

 

宮台
宮台

なるほど。操作的なものとは論理的な操作だから、実際の計算にはスパコンの速度競争に見られるように必ず時間はかかるものの、生成論と違って存立構造論が無時間的であるのと同じで、理念的には無時間的なものだと考えられる。それに対して意味論的なものは、自己言及の中断に象徴されるように、必ず時間的なものを伴います。だから、時間的なパラメーターの中でしか意味は意味を持たない。

 

 

■言語の外と肯定的トラウマ

 

郡司
郡司

言語の根拠は言語の中にないと証明するだけのために、(クリプキはなぜ)わざわざややこしいプラスとかクワスとか議論を持ち出してきたのでしょうか。しかも、それが一度証明されてしまうとその証明方法はいらないことになり、あとは共同体を考えましょうという論旨にみえる。

クリプキ自身はそうかもしれませんが、僕は違うと思ったんですね。それどころか、この懐疑論者の言い分自体が、外部へ向ける我々の窓、外部へ開くために我々が持たざるを得ない装置、「肯定的トラウマ」ではないか、と。

 

宮台
宮台

あえて言うと、事実的として郡司さんと僕が頷き合っている──実際こうして話し合っている時もそう──という事実性に「共同体」という名前をつけているとして、事実として存在するどんな営みに名前をつけているのか。その問題を得も言われぬ繊細さで追求したものが『天然知能』と『やってくる』だと思います。

 

 

■『やってくる』とはどんな本なのか

 

宮台
宮台

さて、万が一『やってくる』を読んでいらっしゃらない方や、ほとんど理解できなかった方がいるかもと思って、こんな話ですよという要約話をしますね。

最初、誰もいないはずの部屋で歌う何者かが登場します。これが「ムールラー」と呼ばれるのは「ムールラー」と歌っているからです(笑)。なぜそれが体験されたのか。そこはユングと同じで、UFOがいるかいないかじゃなく、なぜUFOが体験されたのかと問う営みです。答えは「シニフィアン」と「過少なシニフィエ」の間のギャップに悩む日々が、外から「やってくる」ものを呼び込んだからです。

 

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ムールラー(『やってくる』30頁)

 

宮台
宮台

こうして、さっきお話ししたように、平凡な日常から、非凡な非日常まで、いろんな次元を一貫した同じ図式で説明するところが、まさしく驚きです。さて、ここから先ですね。郡司先生にいくつか質問をさせていただきたいんですけど。

 

郡司
郡司

このように素晴らしい要約をいただいて、まずは深く感謝します。わかりやすく書いたつもりなのに、それでも「何を言っているかさっぱりわからん」「独り善がりだ」「当たり前の精神論」とか言われるので、いつもうんざりしています。

ところで、この全体に通底する標語が、「ダサカッコワルイ」です。そこでは内省ばかりで「カッコワルイ」自己言及と、外部が過剰で「ダサイ」フレーム問題とが、重なって、どちらか一方だけでも問題だと思っていると、重なることで相殺されて、壊れているんだか壊れていないんだかわからないという形の何ものかが立ち上がってくる。それが「ダサカッコワルイ」ということなんです(笑)。

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ダサカッコワルイ.png

「カッコイイ」から「ダサカッコワルイ」へ(『やってくる』162頁)

 

 

■『やってくる』の同時代性

宮台
宮台

話題のクリストファー・ノーラン監督『TENET』にも似たモチーフがあります。僕らは順行する時間を生きています。この存在論的事実を括弧に入れたら何かが「やってくる」んじゃないか。思考実験として逆行時間を生きる人間たちと遭遇できるとしたら、当たり前に規定可能だと思っている世界がどう変じるのか。僕の映画評に譲るけど、映画では何かが「やってきて」、人類学的倫理を帰結します。

なまじ物理学的なモチーフを使うので、物理学的な突っ込み所が満載で、実際突っ込んでいるヤツもいますが(笑)、無意味です。むしろ郡司さんの構えと同じで、未規定な隙間を作れば「やってくる」だろうという見立てが本質です。そこで「やってくる」のは「不安の源泉」よりもむしろ「福音」じゃないかという認識も郡司さんと同じです。ここにもまた同時代性があります。

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郡司
郡司

『TENET』は未見ですが興味ありますね。実は1990年ごろやっていたモデルは、時間が過去から未来へ進む時間順行型力学系と、未来から過去へ進む時間逆行型力学系との干渉によって、運動が実現されるというモデルでした。あまりに突飛な話なので、完全に無視されています。

郡司
郡司

自分はずっと同じことを考えてきたけど、同時代を生きたどころか、孤立していました。最初から、共通感覚とか、同じ人間としての基盤とか、同じ生き物として、とか、一見そのように見えることはあっても、見えない向こう側に探りを入れて生きるしかないし、それは生きることの本質だ。そう思ってきた。それを内部観測者と呼んで、外部とうまく付き合い、外部を招き入れ、生きていく具体例=装置、を考え続けてきました。当時、理論的な仲間は、内部観測という言葉を最初に用いた松野考一郎先生だけです。

非同期な階層的自己言及も、肯定的トラウマも、「やってくる」も、ただその都度、外部と付き合うためにはこれだ、と思う装置を考えるだけでした。

 

 

■外部性はこうして排除される

郡司
郡司

小説家の保坂和志さんは、そういうことが対談で問題になった時、「自動車を発明した奴らは頭がよかった。当初、自動車なんて、でこぼこだらけのこの世界で役に立つのか、と思われていた。それに対し、そこら中に道路を作って、道路があるところが世界だ、と世界を反転させた。そりゃ、自動車は世界で役に立つものになる」と言ってました。

科学が現実を説明するのではなく、説明できるものを現実としてきた。その結果、文学的感性、異質性への感度、徹底した外部、など様々なものが排除されている。そこでは宮台さんがおっしゃっているような外部性は排除されてしまう。

郡司
郡司

現象学的閉域の外部を志向することで、カンタン・メイヤスーの思弁的実在論やマルクス・ガブリエルの新しい実在論が出てきたのだと思っています。それは、僕が考える「認識できないけど存在するだろう外部」と同じ外部を指している。もしそれを実体化するなら、外部は擬似外部に堕すのでそれはできない。外部は認識不可能なので、外部を論じることでできることは、外部との付き合い方であり、外部を召喚する方法という実践です。

 

宮台
宮台

素朴であれ思弁的であれ実在論realism系──存在論ontologyを踏まえて生きろという立場──の議論が、結局「外部に閉ざされる」という同じ「新たなる閉ざされ」図式の拡張版になってしまう可能性があるというのは、そう思います。実際、メイヤスーの思弁的実在論を読むより、ヴィヴェイロス・デ・カストロの人類学的記述──アニミスティックな体験や合体という表象についての理解の仕方を記述する論文──を読む方が面白い。なぜかというと郡司さんがおっしゃった通りで、メイヤスーは結局「新しい閉ざされ」を提供しただけだからですね。

(前編 了)

後編はこちら→

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やってくる イメージ

やってくる

「日常を支える人々」に捧げるアメイジングな思考!

生ハムメロンはなぜ美味しいのか? 対話という行為がなぜ破天荒なのか?――私たちの「現実」は、既にあるものの組み合わせではなく、外部からやってくるものによってギリギリ実現されている。だから日々の生活は、何かを為すためのスタート地点ではない。それこそが奇跡的な達成であり、体を張って実現すべきものなんだ! ケアという「小さき行為」の奥底に眠る過激な思想を、素手で取り出してみせる郡司氏。その圧倒的に優しい知性。

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