100%イヤホンではなく、「むしろイヤホン」という程度でよい

100%イヤホンではなく、「むしろイヤホン」という程度でよい

2019.6.10 update.

郡司ペギオ幸夫(ぐんじ・ぺぎお・ゆきお)

1959年生まれ。東北大学理学部卒業。同大学大学院理学研究科博士後期課程修了。理学博士。現在、早稲田大学基幹理工学部・表現工学専攻教授。
著書に、『生きていることの科学』(講談社現代新書)、『生命、微動だにせず』『いきものとなまものの哲学』(青土社)、『群れは意識をもつ』(PHPサイエンス・ワールド新書)、共著に『内部観測』(青土社)、『TANKURI』(水声社)など。最新の単著は『天然知能』(講談社選書メチエ)。
研究室ホームページはこちら⇒ http://www.ypg.ias.sci.waseda.ac.jp/index.html

*(前編より続く)
 
見ることも聞くこともできないけれど、たしかにそこに実在する世界の外部。
それを「証明」するのではなく、「どうつきあうか」を考える郡司さんの話は、
ご自身のデジャブ体験から、自明と思える安定的な日常の「危うさ」につながっていきます。
しかし、その危うさこそが可能性なのではないか――。
教育や対話を例に語っていただきます。
 
 
聞き手・構成│白石正明+番匠遼介(医学書院)
 
 

なぜ「奇跡」が安定しているか

 
——前回は、奇跡的に成立している部分だけを取り出して、細密に分析しているだけでは現実に迫れないというお話でした。いま私たちがやっている「ケアをひらく」というシリーズのベースも、「普通にしていることこそがとんでもない奇跡である」という感覚なんです。少し前に出た伊藤亜紗さんの『どもる体』という本では、「しゃべれるほうが変。」というTシャツもつくりました(笑)。
 
郡司 できる可能性が奇跡的に選ばれて、できない可能性が排除されている。それだけではなくて、たぶん、できない諸々の可能性が「潜勢力」としてあるからこそ、その奇跡的に実現されたものが非常に安定的に存在できているんですね。僕は、化学反応「物質Aが、触媒αによって物質Bに変わる」といったことも、そういう性質を持っていると考えています。認知や感覚の問題が、物質にもある。
 
 ちゃんとした条件を用意しさえすれば「AがαによってBに変わる」ことは完全にコントロールできて、そういった反応を適切に集めることで、AがBになって、Cを経由して……と繰り返すことで、最後はAに戻るサイクルができるはずだ。こういう考えのもと、皆、生命の起源を再現しようとしているわけです。
 
 ところが、実際はぜんぜんうまくいきません。AがBになる、そういう一方向的なものはつくれる。つなげることもできる。でも、ずっと回り続けることを考えると、非常に難しくなって、できなくなってしまう。ちょっとでも環境条件が変わると、反応が不安定になって、反応経路が壊れてしまうからです。これはおそらく「αがあればAがBになる」とプラモデルのように考えているからだと思います。
 
 本当は、ほとんどのAはたしかにBになる。しかし、タンパク質など生命を構成している物質にはAだけでなくA’、A”、A’’’と少しずつ違う、ものすごくたくさんの立体構造がある。それらはαによってもBにならず、B’、B’’、B’’’というよけいなものもつくり出しちゃう。そしてAやBなどのメジャーなものがうまく作動しないときや、枯渇したときには、控えていたA’、A”、A’’やB’、B’’、B’’’がその反応を動かしている。そういうことなんじゃないかと思います。
 
 つまり、ある原因を実現するための可能性として、目に見えない、データで算出されないものがたくさん控えていて、それによって、実現されている当のものが非常に頑健に維持される。同じ反応が維持されるというのは、実は異なるものの接続とまとめ上げで実現されている。
 
——実現した世界のほうから見てしまうと、A’とかB’とかはノイズにしか見えなくなっちゃうけれども、実はそれが支えているという感じですかね。
 
郡司 そうです。異なるものが実現する同一性。それを再現するには、そのあいだにズレがあったり、時間が非同期だったり、ということを含めてデザインしないとできない。AからBへの反応の同一性は「ほかでもないAが、ほかでもないBに変わる」ことだと考えると、頑健につくれないんじゃないかと思います。
 
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ギリギリで踏みとどまる世界

 
郡司 これは決して理論だけの話ではありません。以前、僕の父親が入退院を繰り返していた際、入院すると、ちょっと頭が混乱する感じになっていました。あるときテレビのイヤホンを渡したらずっと見ていたので、「それ、何だかわかってるの?」って聞いたら、「灰皿だろう」とか言いました。「いやぁ、そんなことを言い出すようになっちゃったか」と思って。
 
 父は退院したら元に戻りましたが、私もこのとき「これがイヤホンだと、私もわかってんのかな?」と思ってしまった(笑)。蛇っぽくもあるし、ツルツルしている昆虫の頭のようにも見えるし、たしかに灰皿のようにも見えた。いろいろなものに似ているにもかかわらず、そのなかからイヤホンだと思う。ただそれだけですよね。
 
 イヤホンにとっての重要な属性と、重要じゃない属性があって、重要な属性を満たしているからイヤホンだと思うのかというと、それは違う。属性って本当は無限にあるわけで、そのなかから適当に選んできて、適当な属性が見つかったところで、思考をやめるわけですよね。
 
 100%イヤホンの属性というわけではなく、イヤホンでないという可能性も常に潜在している。イヤホン以外のものではないというより、「むしろイヤホンだろう」という程度でイヤホンであると言うにすぎない話です。
 
 コミュニケーションの話題も、「まったくわかり合えない」か「すべてわかり合える」か、たいがいこの二項対立で語られていますが、実際はこういった潜在性が重要だと思います。
 
——私の父親も、数年前に病院へ行った際、長谷川式の認知症テストをされました。医者が父の目の前にペンを出して、すぐにしまって、「さっき出したのは何でしたか」と聞く。父親は何も答えられなかったんです。ほんとに悲しかったんですけれども、あとから父に聞いてみると、「隠してもう一回聞く意味がよくわからなかった」というような趣旨のことを言っていました。
 こちらの想定しない文脈にも開かれちゃっているわけです。それこそが「認知症」たるゆえんなのかもしれませんが、私は逆にすごいなと感じました。認知症の人の、こうした「底の抜けた感じ」って、ある意味自由な感じもあるし、むしろ面白いという視点で見たほうがよっぽどいいんじゃないかなと。
 
郡司 ただ、そういうものがありながら自然に生きるというのは非常に難しい。僕は、そうした「ほかの可能性」や「レベルの違う可能性」が同時に、同じ水準で押し寄せることの恐ろしさも体験したことがあります。
 
 大学院の研究会で、みんなで酒を飲んで楽しくやっているときに、「自分は何をやっているんだろう、自分の発表なんて何の意味があるんだろう」と思ってしまった。その瞬間に、頭のなかの留め金が外れた感じになっちゃって、人が話していることの意味がまるでわかんなくなっちゃったんです。
 
 皆が何やら口をパクパクしている様子だけが見えて「これは、エライことになったなぁ」と考えようとすると、突然目の前にモニターみたいなのが下りてきて、「突然とは」みたいな文字が出てきて、その文字に対する意味が、辞書みたいにバーッと出てくるんですね。
 
 最初はそれで済んでいましたが、それがものすごい速度で動いているにもかかわらず、自分では一瞬にして全部わかるみたいな感じになって、現実の世界とそういう世界がつながっているというのが、非常に危うい形で現れてしまった。
 
 たとえば「ハサミ」という言葉が浮かんでしまうと、ハサミについての言葉のなかに「手首を切れば切れる」とかってスクリーンに出てくるんですよ。するとそこが赤字になって、何回も何回もそこに止まっちゃって(笑)。「死なないと、死なないと」みたいになってしまい、それに抵抗するのがものすごく苦しかった。
 
 何日か続いたんですが、どう戻れたのか覚えていません。それは本当に、「ああ、こういうふうになってしまうんだな」という体験でした。
 
——それは……すごいお話ですね。本当に外部に開けちゃうと、ある意味生きていけない。
 
郡司 うん、そうですね。われわれの生はそれくらい微妙なところにある。イヤホンであることを論理的に根拠づけられない「イヤホンでないというよりは、むしろ……」というのと同様に、「生きていないというよりは、むしろ……」というところで成立している。決定的な外部に開ける可能性に絶えずさらされながら、「そこまで開かれるよりは、むしろ……」という程度で踏み留まっている。そこを、どこまでも徹底的に考えたいんですよね。
 
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問う者と問われる者がすり替わる

 
——私たちは看護教育に関する書籍や雑誌もつくっているのですが、そういう「曖昧さ」の意味をどんなふうに伝えられるでしょう?
 
郡司 何かをやらせようとするとか、これをちゃんとやらないと駄目だとか言うのじゃなくて、こっちが相手に問題を出すだけじゃないやり方……こっちも答えるし、向こうが「これ、何なの?」って聞くようなやりとりが大事になるでしょうね。問題と解答のあいだにギャップが開いて、お互いに「これって問題?」「これって解答?」といったやりとりが続いていく。
 
 一方で、問題を出すのとは逆に、たとえば発達障害の人が何かやっていると、「やっていることを受け入れて理解しよう」という形になるじゃないですか。それはどちらかというと向こうが問題を出してるばっかりで、こっちが一生懸命答えることによってコミュニケーションする形になっていますね。ここでも、問題と回答に対する疑問とギャップがお互いに出てくるようにしないといけない。
 
——ああ、発達障害の子のふしぎな行動という「謎」を、ケアする側が解いていくだけでなく。
 
郡司 ええ。こちらがわからないので、それを理解しようとしちゃうじゃないですか。その理解しようとするというのは、「答えようとする立場に自分を留めてしまう」みたいなところがありますね。むしろ問う人と答える人がうまくすり替わっていけるような……。すり替わっていくことによって初めて、問いの外側に答えが潜在していることに気づくというように。
 
——問われることによって、何か新しいことを考える。最近は対話ブームというか、私たちも「オープンダイアローグ」の本を出しているのですが……。
 
郡司 オープンダイアローグって、斎藤環さんたちがやってるやつですか。
 
——ええ。
 
郡司 僕も、本を買って。
 
——ほんとですか。それはうれしいです。あれが面白いのは、話していること自体が目的だというところです。対話をすることによって答えを見つけるのが目的ではない。ちょっと禅問答みたいですが。
 

外部を召喚するための対話

 
郡司 少し前に、代官山蔦屋さんで大澤真幸さんと対談して、“南泉斬猫”という公案についての話をしました。
 

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長谷川等伯「南泉斬猫」
 美の象徴のような猫がいて、その猫を獲得するために僧侶たちが二派に分かれて言い合いをしている。見かねた和尚が、二つの派閥のうち、気の利いたことを言ったほうが、その猫を取ることにしようと提案します。そうすると、皆、下手なことが言えなくなって黙ってしまう。どうしようもないので、その和尚が猫を斬り殺してしまって、皆、引き上げる。
 
 そこへ、外出していた一番弟子が帰ってくる。和尚が「こんなことがあったが、お前だったらどうするんだ」と問いかけると、一番弟子は、頭の上に草履を載せて出ていった。その様子を見て、「お前がいれば、猫は斬らずにすんだのに」と話すものです。
 
 これは法話として、前半部分はわかりやすいですね。ある宗派と別の宗派があって、どっちかが正しければ、どっちかは正しくない。まさに排他的な関係になっていて、その排他的な関係で議論をやろうとすると、どちらが正しいか決定できない。二つの派閥のあいだを循環することになり、二項対立の図式に留まり続けるわけです。
 
 この閉塞的状況から抜け出すため、南泉和尚は原因となる猫を殺してしまった。暴力という破壊的行為によって、二項対立の外部に出るわけです。ところが本当は出ていません。「いずれかが正しい」という、二つの派閥という二項対立から、「二つの派閥の争いをいかに収めるとか」という、問いと答えの二項対立に変わっただけで、相変わらず二項対立の内部に留まっている。
 
 後半部分、頭の上に草履を載せて去って行く行為について、禅宗の寺のホームページなどでは、行ったり来たりするような論理的な思考の隙間を縫っていくような、まさにそういう形で猫が逃げて行けばよかったんだ、と説明されていますが、この説明に私は違和感がある。草履を頭に載せることの意味が不問に付されている。これが意味を持つ、具体的な方法論を後半部分は示しているように感じます。
 
 ふつう、どこかに出ていくためには草履は履いて出ていくわけですね。つまり、草履というのは履かれるから出ていく。出ていかないときには、その草履は履かれない。草履と外へ出る行為のあいだにはそういう対応関係がある。これによって、「出る(草履をはく)/出ない(草履をはかない)」という二項対立が明確に示されている。
 
 ここへきて一番弟子は、頭の上に草履を載せて出ていく。頭の上に草履を載せるというのは、出ていくにもかかわらず草履は履かれないわけです。つまり、出る/出ないという二項対立が、草履を頭に載せて移動することによって無効にされている。これは、「問題を与えて、解答して問いを解消し、また新たな問題を与えて、新たに解答し解消する」という、通常考える対話のキャッチボールの構造自体を無効にしています。問いは半分解答で、解答は半分問いであるように。
 
 こうして、キャッチボールでは計り知れない外部が降りてくる。外部を下ろすための対話の仕掛けこそを、後半部分は示しているのだと思います。
 
——「AかBか」という質問に答えようとすると、もう質問者のルールに乗っかってしまっているから、そこで一生懸命考えて、どっちを答えても衰弱するという方向になっていく。その外部を探すのが対話ということかもしれませんね。しかし考えてみたら、マイノリティって常にそうやって二者択一を迫られる存在ですね。いつも、「どっちか答えろ」って言われているほう。先生と生徒の関係もそうかもしれませんね。そのとき外部への出口をどう探すか。
 
 

はかない関係として

 
郡司 ただ外部と言っても、外部があるからこそ、ときとして離人症だとかの症状が起こってしまうわけであって、それをどうするかという問題も重要です。
 
——『天然知能』でも、自閉症と統合失調症と健常と言われる人の世界の認識の仕方について、タイプ分けをされていて興味深かったです。
 
郡司 自閉症の人は、壁を見ていても、その向こう側に何もないような感じがあって、非常に恐ろしいそうです。それはおそらく、自閉症の人には向こう側という概念がないというよりも、たぶん原初的な、徹底して「外部としての向こう側」を感じているんだと思う。
 
 ふつうの人は、向こう側もこちら側と同じで、全部フラットな、わかりやすい世界として生きていますよね。でも、本来向こう側に何があるなんて絶対にわからないのだから、ふつうに生きるということは、圧倒的な恐ろしい向こう側というものを単に隠蔽しているだけです。
 
 むしろ、自閉症の人たちが向こう側に対して圧倒的な恐怖を持っているほうが当然であり、非常に大事です。その「向こう側に対する圧倒的な恐怖」を持っていることをどうやって理解するか。
 
——「他者の理解」という話になると、多様性といわれたりするようですが。
 
郡司 僕はどうも多様性とかいう言葉もあまり好きじゃなくて……。多様性って一人ひとりを閉じた形にします。「彼はこういう者」「彼女はこういう者」「私はこういう者」というように、一人ひとり規定できるという話にしちゃうわけじゃないですか。で、それがたくさんある、と。
 
 だけど、そうじゃなくて、あなたとか私というもの自体が実は閉じていない。見えないものが潜在している。
 
 さっきの教育の話につながりますが、問いと答えのあいだも閉じていない。教えるほうにも、学ぶほうにも、お互い自分には理解不可能な、けれど橋渡しとなりうるズレや外部がある。そしてその外部への感性があることによって、何かが伝わりうる。だから教員が問題を出すだけではなくて、教員も答えるし、学生が「それ、問いなの?」と問う。その学生の問いに、自分にはわからない外部を感じる力が教員には大切だと思います。
 
 こうやって問う者と答える者が、すり替わっていくことによって初めて、人が何かを伝えうるような、そういったギリギリのはかない関係が成立する、と思います。
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『TANKURI』共著者の中村恭子さんの発表を聞く郡司先生(京橋・ASK?にて)
 
 
(郡司ペギオ幸夫先生「天然知能」を語る 了)
 
 
 
 

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天然知能

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