第1回 20分でわかる中動態――國分功一郎

第1回 20分でわかる中動態――國分功一郎

2019.10.29 update.

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國分功一郎(こくぶん・こういちろう)

1974年千葉県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。

東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。専攻は哲学。

2017年4月に医学書院より刊行した『中動態の世界』で、第16回小林秀雄賞受賞。最新刊は『スピノザ「エチカ」 100分 de 名著』(NHK出版)。


斎藤 環(さいとう・たまき)  

1961年岩手県生まれ。精神科医。筑波大学医学医療系社会精神保健学教授。

オープンダイアローグ・ネットワーク・ジャパン(ODNJP)共同代表。

医学書院より『オープンダイアローグとは何か』のほか、最新刊として『開かれた対話と未来』(監訳)が出たばかり。

企画:NHKエデュケーショナル・秋満吉彦/

NHK文化センター青山教室

 

小社『精神看護』1月号で「國分功一郎氏×斎藤環――オープンダイアローグと中動態の世界」を特集したところ、大変な反響がありました。

國分氏の示した「中動態」という概念と、斎藤氏が近年紹介につとめる「オープンダイアローグ」――まったく出自の違うこの二つを同じ皿に載せると、何かが起こるようです。

そこで本サイトでは前掲特集の続きとして、今年8月に都内で行われたトークイベントからおふたりの発言を再構成し、4回に分けてご紹介します。

 

《中動態×オープンダイアローグ=欲望形成支援》目次

第1回 20分でわかる中動態――國分功一郎

第2回 オープンダイアローグの衝撃――斎藤環

第3回 討議――國分功一郎×斎藤環

第4回 質疑応答――会場のみなさんと

 

 

《中動態×オープンダイアローグ=欲望形成支援》

第1回 20分でわかる中動態――國分功一郎

 

 

■スピノザはOSが違う

 

 昨年の年末にNHK Eテレの『100分de名著』という番組でスピノザを紹介しました。とても反響があり、テキストもたくさん売れたようです。そこで僕は、スピノザの哲学は「OSが違う」という話をしました。

 

 たくさんの哲学があります。新しい哲学を勉強すると、それが頭の中に入っていって考えが進んだり、いろいろなことを教えてくれたりします。だけどスピノザ哲学は、ただ頭に入れてもなんだかよくわからないんです。うまく作動しない。それはどうしてかというと、僕らと考え方のOSが違うからではないか。

 

 今の僕らの考え方というのは、おおむね近代科学というものにのっとっています。その元をたどっていくと、スピノザの同時代人であるデカルトに行く。だからデカルト的な考え方は今でもしっくりきます。けれども、スピノザはそうではない。

 

 わかった気にならず、しっくりきていない理由を自分で考えてみること、そしてどこに自分の考えとの大きな相違があるのかを自分自身で気づくこと、そうしていくことでスピノザ哲学は少しずつ身近なものになっていきます。

 

 では、そのOSの違いは何か。いろんな説明ができるんですけれども、今日は中動態の概念を通じてそのことを説明してみたいと思います。スピノザが中動態に言及しているわけではありません。しかし、中動態を理解できると、スピノザのOSがどのようなものであるのかが少し見えてくると思います。

 

■「するかされるか」ではなく「内か外か」

 

 中動態とは何なのかをまったく知らない方もいらっしゃると思うので、まずそれを説明したいと思います。

 

 「する」か「される」か、つまり能動か受動かという区別は、僕らの頭の中で非常に強く作用しています。この区別はおそらく文法に由来します。たしかに日本語はこれとは違う区別をもっているのですが、英語なんかを勉強してしまうと、能動態と受動態のあまりに強力な対立によって頭の中が支配されてしまう。この対立が普遍的なものに思えてしまう。

 

 ところが言語の歴史においては、それは実に新しい区別だということが知られています。英語やフランス語などを含むインド=ヨーロッパ語という言語のグループがありますが、これを遡っていくと、能動態と受動態の対立はもともとは存在していなかったことがわかる。

 

 では、もともとはどういう対立だったのか。能動態はたしかにあったのですが、これが中動態と呼ばれる態と対立していたんです。ではそれはどういう対立かというと、「する」か「される」かではなく、「内」か「外」かという対立です。動詞が名指している過程が僕の外で終わるときには能動態を使って、僕がその過程の場所になっていたり、僕の中でその過程が進む場合には中動態を使う。

 

 たとえば、“I want it”って言ったら「僕はこれを欲しい」ですから能動態を使いますよね。だから僕らは“I want it”を能動的なものと捉えます。でも、そうでしょうか。これは僕の中で「何かを欲する」という過程が起きているということです。僕が能動的に何かを欲しているというより、僕の中で何かを欲するということが起こっている。これをかつては中動態で説明していたのです。実際にギリシア語では、“I want”に相当する表現「ブーロマイ」は中動態です。

 

 あるとき、態についての非常に大きな変化が起こったことになりますね。哲学の起源は古代ギリシアにありますが、あのころのギリシア語はちょうど変化のただ中にあり、能動態と受動態と中動態が共存しています。さらに遡って、サンスクリット語までいくと、能動態と中動態の対立に相当するものが見出されます。

 

■「惚れる」は能動か?

 

 なぜ中動態に注目するのか。実は中動態のことを知ると、当たり前のものと思えていた能動と受動の対立が実は非常に不便なものであることがわかってくるのです。僕がよくあげる例は、「惚れる」です。

 

 みなさん、惚れるっていうのは能動ですか、受動ですか。

(会場から 能動……。)

 能動ですかね、でも自分で「惚れるぞ~」って言って惚れられないですよね。

 そちらの方、お名前は…。

(イノウエです。)

 イノウエさんが誰かに惚れるというのは、むしろ、その人に引っ張られちゃうということじゃないですか。「あらこの人、素敵だわ」って。

(そうですね。)

 

 イノウエさんが、「この人を好きになるぞ」って思ってるわけじゃないですよね。つまり会ってみたら、「あっ、この人素敵だわ」と魅力に引っ張られた。たしかに「惚れている」わけですから能動的とも思えますが、同時に「引っ張られて」しまっているということでもありますよね。つまりそういう面では受動的ですよね。

 

 英語だと“fall in love”という良い言い方がありますけど、落っこっちゃうわけですよね。でも、自分で落ちようと思って落ちられるわけでもない。そうすると能動でも受動でもない。でも中動態を持つ言語だったらこれを表現するのは簡単なんです。「私は惚れるという過程の内側にいる」あるいは「私の中で惚れるという過程が進んでいる」ということであって、惚れるはまさしく中動態で表現すべきものであるからです。

 

 これに対して能動態は、ものを与えるとか折るとか、自分の外側で完結する行為を意味していました。

 

 もっと豊富な例をあげたいところですが、能動態と中動態の対立というのは勉強すればするほど便利なものに思えてくるんです。ところが、それがあるときから能動態と受動態の対立に取って代わられていった。これは言語における革命とでも言うべき大きな変化なんですね。

 

 能動態と受動態の対立に支配された僕らの思考に対して、能動態と中動態の対立を別の思考の型として持ってくることで、普段、見えなくなっているものを見えるようにできるのではないか。僕はそんなことを考えながら『中動態の世界』を書いたんです。

 

■意志の登場

 

 その中で僕が最も強調し、また強く批判的に論じたのは「意志will」という概念です。「する」と「される」の対立、能動と受動の対立は意志の概念と強く結びついているのではないかというのが、僕が本の中で提示した仮説でした。というのも、能動というのは自分が自分の意志で行うこと、受動とは意志とは無関係に強制されることを意味するからです。

 

 それに対し、中動態では、先ほどの「惚れる」がいい例ですが、意志が問題になりません。

 

 のちほど斎藤さんともお話ししたいと思っていることですが、能動と受動の対立は法学的な考え方ではないかと思います。「自分の意志でやった」は能動性に対応し、「強制されてやった」は受動性に対応する。そしてこれに基づいて責任が問われる。僕らは司法的な言語を使っていると言えるかもしれない。

 

 それに対して、能動態と中動態の対立は、事態を現象として記述している。あえて言えば、こちらは「科学的」とさえ言えるかもしれない。

 

 驚くべきは、中動態が存在していた古代ギリシアには意志の概念がないということです。古代ギリシアには意志に相当する言葉もない。プラトンやアリストレスを読んでいても、「意志」という言葉は出てきません。たとえばプラトンのなかに魂の三区分という考えがありますが、その三つとは気概と欲望と理性であって、意志のための場所はない。

 

 意志の概念は決して普遍的ではないし、古くからあるものでもない。その意志に人類が注目していく過程と、言語における革命的変化の過程が平行しているような気がしているわけです。

 

■意志と法学的思考

 

 スピノザという哲学者は――繰り返しますがスピノザが中動態についてあれこれ言っているわけではありません――「自由意志」「意志の自由」を徹底的に批判しました。人は自分が自由意志で行為していると思っているけれども、それは単にその人が自分の行為の原因について何も知らないからにすぎないと考えたのです。

 

 今日は僕、昼ごはんはとんかつを食べました。とんかつが大好物なんですが、乗り換えのために四ツ谷駅で降りたときに、ぐるなびで調べて、「よし、ここだ」って決めて自分の意志でそこに行って食べた──もちろん、主観的にはそう思っているわけです。けれども、実際には、たとえば血糖値だとか、きのう食べた食事とか、覚えてはないけど何か目撃したものが僕の欲望をかきたてたとか、数え切れないほどのさまざまな原因が収斂(しゅうれん)していって、今日の昼、僕にとんかつを選ばせ、食べさせたわけですよね。

 

 自分の行為にさまざまな原因があるというのは、ちょっと考えればわかることです。一つの行為が何か一つの原因によって決定されているというのがあまりにも単純な考えであるというのはおわかりいただけると思います。けれども、意志の概念はこれを単純化してしまうのです。行為は多くの原因によって多元的に決定されているはずなのに、たった一つの原因、意志という原因によって一元的に決定されていると、僕らにそう思わせてしまう。

 

 意志とは何ものにも影響されていない、純粋に自発的なものだと僕らは思い込んでいます。しかし、純粋に自発的なものが人間の心の中にあるはずがありません。心は過去とつながっているし、周辺から常に影響を受け続けている。スピノザはそのことを指摘したわけです。ところが、僕らの使っている能動と受動に支配された言語によって、この少し考えればわかることがわからなくなってしまっているのではないか。

 

■中動態としての「欲望形成支援」

 

 最後に一つだけ。昨年秋にオープンダイアローグをめぐってイベントをしたときにお話ししたのですが(詳細は『精神看護』誌2018年11月号)、最近、医療現場では「意思決定支援」ということが言われるそうです。

 

 これはとても大切なことに思えます。今まではお医者さんが勝手に患者の扱いを決めてきた。しかしそれはおかしい。患者には自分で自分のことを決める権利があるはずだ、と。そのために「意思(意志)の決定を支援する」ということが言われるようになった。

 

 これは大切なんですが、しかし、僕がここまで説明してきたことを踏まえるとどこかおかしな感じがする。そして、どこかすごく冷たい感じがする。

 

 これは熊谷晋一郎さん(東大先端研准教授)があげていた例ですけど、意思決定支援といっても、結局は「オレンジジュースがいいですか、リンゴジュースがいいですか」「あっ、リンゴジュースですね、じゃリンゴジュースをどうぞ」というような感じになっている。

 

 インフォームド・コンセントと同じで、医療者の責任逃れのために使われている面があるのではないか。「もう全部説明しました。がんの治療法が五つあります。どうぞ決定してください」と言われても、意思決定などできるはずがない。そもそも意志というものを決定する、このこと自体が、なにか非常に残酷な側面がある。

 

 僕はこれに代わる言葉として、「欲望形成支援」ということを言っています。意思ではなくて欲望、決定ではなくて形成です。

 

 意志というのは“切断”とでも呼ぶべき側面を持っています。「僕はこれを自分の意志で決定したんだ」というのは、何ものからも自由で独立した自分が決めたという意味を持ちますが、本当はそんなことはあり得ない。自分で決めたと言っても、いろんなことから影響を受けているに決まっている。けれども意志という言葉を使うと、そういうものを断ち切る、切断することができる。

 

 そういう切断を強いられるというのは非常にキツいことではないか。決定に関わる無数の要素を無視して、見ないようにしなければならないからです。ならば、切断ではなくて、過去との連続性や周囲とのつながりのなかで、「自分は何をどう欲望しているのだろうか」について誰かと一緒に考え、自分の欲望の形をハッキリさせていく、そういう支援のほうが大切ではないか。これが僕が考える欲望形成支援です。

 

 この言葉を思いついて、ある医療系のシンポジウムで口にしたら、非常に評判がよくて驚いたことがありました。「非常にわかる」「そういう言葉を探していた」という声をかけていただきました。

 

 意思決定支援というのは新自由主義的ですね。「結局は自己責任」という考えが根底にある。一緒に欲望の形をハッキリさせていくというのはそれとは違いますね。つまり、「決定権を委ねます」「決定しました」「決定を受け取りました」というのは、徹頭徹尾、能動・受動の対立に基づいていますね。それに対し、「一緒につくっていきましょう」というのは中動態的だと言えると思います。

 

 中動態を知ることで、「自由意志に基づく人間」というイメージを斥け、別の人間観が得られるのではないか。スピノザ哲学が描き出す人間観や自由の概念も読めるようになるのではないか、そんな風に考えているわけです。

 

■■■自転車に乗る体になる■■■

 

 YouTubeで國分功一郎と入力すると、「中動態」をテーマにした僕の哲学対話の動画が出てきます。中動態についてのより詳しい説明と、今日話すはずだった「使用」の概念についてもお話ししています。

 「使用use」の概念を論じているのは現代イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンです。「使う」なんてありふれていて、特に面白い話ができそうにもないと思うかもしれません。でもそうではないんです。

 アガンベンはこう言います。僕がボールペンを使うんじゃない。僕がボールペンを使うためには、〈ボールペンを使う者〉へと僕が変化しなければならない。自転車に乗るとき、自転車を支配しようと思っていたら乗れませんね。〈自転車に乗る者〉へと僕が変化しなければ自転車に乗れない。

 ものを使うとき、僕が主体として客体であるものを使うと考えるけれども、実は違うわけです。僕が客体としてものから影響を受ける側面が必ず存在する。アガンベンは主体・客体の関係を「支配」と呼んで「使用」から区別しています。僕らは使用を支配と混同している。けれども実際には両者はまったく異なるのです。

 使用というのは中動態的であって、僕が使用が起こる場所になることを意味します。自転車に乗るとき、僕は「自転車の使用」の場所になる。まさしく主語が動詞の名指す過程が起こる場所になるというのが中動態の定義であったように。

 


 

(第1回了)

第2回はこちら→

  

 

 

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中動態の世界

失われた「態」を求めて―《する》と《される》の外側へ
自傷患者は言った。「切ったのか、切らされたのかわからない。気づいたら切れていた」依存症当事者はため息をついた。「世間の人とはしゃべっている言葉が違うのよね」―当事者の切実な思いはなぜうまく語れないのか? 語る言葉がないのか?それ以前に、私たちの思考を条件づけている「文法」の問題なのか? 若き哲学者による《する》と《される》の外側の世界への旅はこうして始まった。ケア論に新たな地平を切り開く画期的論考。

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