第3回 入って、出て、投げ返す。あとは野となれ......(笑)

第3回 入って、出て、投げ返す。あとは野となれ......(笑)

2015.3.06 update.

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齋藤優紀(さいとう・ゆうき)

保健師。看護大学を卒業した2013年に札幌市の「なかまの杜クリニック」に勤務。
2014年4月より、釧路市の内科病院にて保健指導などにかかわる。
趣味は踊ること歌うこと、食べること。
最近「夫婦喧嘩の歌」をつくって夫に披露したら怒られた。夫婦漫才のネタを考えて夫に提案したらもっと怒られた。

 

 

 皆さんは、病院に行ってなんだかモヤモヤしたことはありますか?

 

 励ましてもらったはずなのに、疲れちゃった……。

 丁寧に説明してもらっただけなのに、責められているような気がした……。

 他に聞きたいことがあったのに、とても聞けなかった……。

 

 病院で働く保健師である私が、こんなことを言ったら怒られるかもしれません。が、医療者とのかかわりの中で、そういった不全感を感じている方は少なくないように感じています。

 

 でも、考えてみれば当然のことなのです。病院側の都合を言って申し訳ありませんが、地方の病院はどこも慢性的な人手不足であるうえに、患者さん一人ひとりのニーズによって、医療者に求められているかかわりが違ってきます。終わらない業務をこなしながら完璧にニーズに応えていくなんて、スーパーマンでもない限り難しいんじゃないかしら(もちろんそんなスーパーナースやスーパードクターもときどきいますが、私は少なくともスーパー保健師にはなれていません……って言わなくてもわかるか^_^;)

 

 要はコミュニケーションの問題なのでしょう。よかれと思って一生懸命やったことが、相手には違う伝わり方をしていたり、期待した結果とまったく逆のことが生じたりするのです。これは、人と人とがかかわるときには当然起こりうる、避けられない永遠のテーマです(もっとも、コミュニケーションに問題が一切なくなって、誰とでもどんなふうにでも関係を築けるようになってしまったら恐ろしいと思いますが……)

 

 そこで今回は前回に引き続き、大切な人に対する「お節介攻撃」について話していきたいと思います。保健指導等で起こりがちな、アドバイスという名の「説教面談」についてです。

 

 

■突然話を変えられること、ありませんか?

 

 さて、私は保健師として、お菓子を食べて太っていく母に対して、どうしても優しくかかわることができませんでした。動脈硬化性疾患のリスクや、現在の自分の生活習慣に問題があることについて、私から大いに説教を受けた母はしょんぼりしていました。そして、バツが悪そうに別の話題に切り替えたのです。苦笑いをして、まったく関係のない話を始めた彼女に、私はハッとしました。

 

 働いているときも、ときどきこうして相手の方がなんの脈絡もなく別の話を始めることがあります。たまたま何かを思い出しただけだったり、もともと話題がそれやすい方ももちろんいますが、やはり対話がうまくいっていないときに、その話題にいったんフタをする意味で話を変える方が多いように感じます。

 

 私は声を荒げて怒鳴ったわけでも、人格を否定するような言葉を使ったわけではありません。はたから見れば、表面上はごくありふれた保健指導の情報提供場面だったでしょう。しかし私の中にある母への否定的な眼差しが、言葉の端々や振る舞いに表れていたのだと思います。お菓子を食べすぎるという苦労に対して、良い悪いの判断を手放すことができず、「その問題行動は一刻も早くおやめになって!」という究極の×印を、言葉にせずとも付けてしまっていたのでしょう。

 

 元来、人は否定されることに敏感にできています。母は私の否定性をキャッチして、そこからすり抜けるようにして対話にフタを閉じたのです。

 

 

■“一生懸命”に乗っ取られてしまった……

 

 だいたいにして、一方的なアドバイスは、「される側」だけでなく「する側」も疲弊します。他者を攻撃することが苦手でない方もときどきはいますが、誰かを本気で怒ったり、人を変えようとしてあれこれ言うのは本当に骨が折れるのです。

 

 実際、母に病気の恐ろしさや間食習慣の問題点についてさんざん説明した私は、ぐったりしていました。対話が閉じられ、自分の支援が失敗したことを痛感する一方で、こんなにがんばって話したのに、変わろうとする気配のない母に対してはなんだかムカムカしてきてしまうのです。

 

 冷静に振り返ればあんな言い方は効果的でなかったとわかるのですが、“一生懸命”に乗っ取られているときは、どうしたって自分をうまくコントロールできません。ではなぜ私は、自分がヘトヘトに疲れてしまううえに、母の行動変容という意味では効果が期待できない「アドバイスという名の説教」を行ってしまったのでしょうか。

 

 それについて述べる前に、いま私が考えている支援の3段階のプロセスについてご紹介します。

 

 

■これが支援の3段階

 

第1段階:相手の中に入っていく(苦労の連帯作業)

 前回、私は対象者の苦労に連帯することの重要性について書きましたが、ここでもまず、間食をやめられない母に対して「もし私があなただったら……」という想像上の連帯を行うのです。ケアの対象者の細胞一つひとつに入っていく感覚が大切だとナイチンゲールも言っていたような気がします。

 

 不思議なことに、相手の中に潜り込むことによって、「もし私がお母さんだったら、仕事のストレスで同じようにチョコを食べすぎちゃったかもしれない」と、苦労に対してのある種の敬意が生じてきます。そこからすべてが始まります。

 

 しかし医療者は、ときとしてこの連帯作業に失敗します。病気に関する専門家であるがゆえに、本人よりもリスクが大きく見えてしまうからです。

 

 子どもが巣立って更年期を迎える女性は、これまで身体を守っていたホルモンの分泌がぐんと少なくなります。この加齢による代謝の低下と相まって、生活習慣病をはじめ疾病の発症リスクが高まります。また、家族構造や社会的役割の変化によってストレスを抱えやすいのに、そのことが外から気づかれにくく、医療や支援につながらずに病気が悪化することだってあり得るのです。そんな健康危機が訪れやすい時期に、身体によくない生活習慣をもつことのリスクや問題点が、私にはとても大きく見えてしまったのですね。

 

第2段階:「人」と「苦労」を分ける(苦労の外在化)

 相手と想像上の連帯をしたら、次に必要なのは、その相手の「人」と「苦労」を分ける「苦労の外在化」です。こうして切り離された苦労を、支援者とケアの対象者双方が、外から一緒に眺めるような姿勢をとります。

 

 本人と同じように苦労の渦中に巻き込まれてしまっては、溺れる人が増えただけにすぎません。ここで支援者は、薄着でよいのでいったん白衣を着る必要があると私は思っています。苦労を“見つめていた”状態から距離をとって、苦労を他人事のように“眺める”わけです。

 

 これだけで解決や解消のヒントが見つかることもあります。苦労に対する手立ては、医療者が一方的に提供するものでは決してなく、「少し見方を変えれば既にその人の中にある」ことが多いのです。

 

第3段階:苦労を相手にお返しする(苦労の再内在化)

 その後ふたたび、生きづらさという研究テーマを本人にお返しします。「苦労の再内在化」ですね。医療者が研究テーマを奪ってしまっては、当人が苦労することができず、見た目上は問題が解決しているようでも、それは回復ではありません。

 

 以上のようなプロセスを経て、当事者研究的な対話や支援は紡がれていきます。当事者研究には、SST(社会技能訓練)に似たステップや、SAやAA(統合失調症者やアルコール依存症当事者の匿名の会)のような分かち合い形式、WRAP(ラップ:元気回復行動プラン)のような自己観察的な手法など、さまざまな要素が含まれています。しかし私はそんなに器用でもないし、決まったマニュアル通りに事を進めるのがとても下手くそなので、自分が支援者として行う当事者研究では、上に述べた、

 

①苦労の連帯作業

②苦労の外在化

③苦労の再内在化

 

というエッセンスだけを確認しながら、あとは野となれ山となれスタンスで(なんて言ったら怒られそう( ;゚Д゚))、できるだけ自由に柔軟に対話を紡いでいくことを大切にしています。

 

 次回は、ここで述べた3段階が、私が母にかかわるときにどうなっていたのか、具体的に振り返ってみたいと思います。

 

(「指導から研究へ。――誤作動系保健師の「当事者研究」ズルズル実践録」

齋藤優紀 第3回 了)

 

次回⇒「第4回 狂気の最終兵器」

 

 

  

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