第2回 当事者性を失う私の

第2回 当事者性を失う私の"指導"の研究

2015.2.27 update.

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齋藤優紀(さいとう・ゆうき)

保健師。看護大学を卒業した2013年に札幌市の「なかまの杜クリニック」に勤務。
2014年4月より、釧路市の内科病院にて保健指導などにかかわる。
趣味は踊ること歌うこと、食べること。
最近「夫婦喧嘩の歌」をつくって夫に披露したら怒られた。夫婦漫才のネタを考えて夫に提案したらもっと怒られた。

 

 

■なんで「怒られている」って感じるの?

 

 病院で働いていると、「保健師さんに怒られる!」という言葉をよく耳にします。

 

 もちろん内科の病院で仕事をしているので、患者さんの状態が急変したときや何らかの緊急事態には、医療スタッフとしてピリリとした緊張感をまとうことがあるのかもしれません。しかし、業務のなかで誰かを「怒る」なんて、私を含めほとんどのスタッフにはあり得ないじゃないかしら。だから最初にこの言葉を患者さんから聞いたとき、私はとても不思議に思いました。

 

 保健師になる前は精神科の病院で働いていたので、患者さんの“怒られた感覚”というのは、私にとって馴染みがあるものです。統合失調症をはじめさまざまな苦労をもつ患者さんたちは、怒られる感覚やいじめられる感覚を日常的に感じている人が少なくないですから。私自身も、目上の人と話をする緊張した場面では、なんだか不思議と叱られているような気持ちになってきます。これは誰にとっても身近な感覚ではないかとも思います。

 

 だけれどここで言われる“怒られた感覚”は、どうもそういった妄想や誤作動的な類のものではないみたい。ここはひとつ保健師という専門職として、怒られ現象の研究をしよう! と意気込んでいた私でしたが……、先日明らかに「自分は指導をしているのではなく、怒っていただけなのでは?」と感じる場面がありました。なんてことでしょう。

 

 自分の当事者性がどこかへ飛んでいって、上から目線で自分の持っている情報をあれこれアドバイスしてしまったのでしょうね。アドバイスという名の説教といったほうが正確かもしれません。言った後に「しまった……」と反省したのですが、次に自分の口をつく言葉はなんだかやっぱり説教じみているのです。そこで今回は、「当事者性を失った私の指導」について研究してみようと思います。

 

 

■自己対処していることに、まずは100点満点を

 

 今回お話する方は、正確にいうと職業上の保健指導対象者ではないのかもしれません。が、メタボリックシンドロームには明らかに該当しており、食生活や運動習慣をうかがっても生活習慣にいくつか難のある方でした。

 

 というか、うちの母です。帰省して久し振りに会った彼女は、職場の事務室に置かれる大量のお菓子を食べ続けてしまったらしく、私の記憶にあった姿よりひとまわりは大きくなっていたのです。医療機関で働いていると、身近な人の健康はどうしたって気になります。灯台下暗しでした。

 

 当事者研究では「降りていく」ことを大切にしています。病気という、つらいけれどある意味安定した状態から降りていく。世間体を気にした自分の役割から降りていく。そんなさまざまな場面で、この言葉は大事なエッセンスとして語られます。そして『技法以前』(医学書院、2009年)でも語られているように、特に支援において大切なのは、患者さんの現実に降りていくことだと思います。

 

 それは具体的にいえば、客観的に観察した対象者としてのみ捉えるのではなく、

 

「もし私があなただったら/自分も同じような困難に立ち会ったら」

「きっと同じように苦しんで同じような対処法を取るだろう」

 

という眼差しを大切にすることです。

 

 人と問題を切り離し、人に対しては徹底して肯定的な態度をとる。これこそ、世にあふれる種々の技法“以前”の、スタンスの問題です。このようなあり方を大切にしているのが当事者研究といえるのかもしれません。人に対する「残念ながら100点満点」という眼差しです。

 

 ここで注意しなければならないのが、大量にお菓子を食べるという行為そのものを肯定しているわけではないということです。なんでもかんでも前向きに肯定してしまったら、ストレス発散のために人をぶん殴ってもいいことになるし、倒れるまで暴飲暴食を重ねてもよいことになってしまいます。それでは健康づくりの応援どころか、人としての責任を放棄していることになり兼ねません。

 

 だけど、ここで丁寧にその人が体験している現実に降りていけば、見えるものはまるで違ってきます。「緊張の強い仕事で心が壊れてしまわないために、ちゃんと自己対処している結果、お菓子を食べ過ぎてしまうのかもしれない」というように、問題とされている行為は、現実をどうにか生き延びるための前向きな自分助けである場合がほとんどだと思うのです。

 

 このように、いわゆる問題行動の背景に自己救出という動機が明らかになれば、どうしてその人を否定することができるでしょう。

 

「そんなに大変な仕事のなか、よく心が壊れないようにしっかり対処したね」

「お菓子を食べてちゃんと自分を助けていたんだね」

という感慨がまず来ることでしょう。そして次に、

「だけど、太りすぎても困るし身体にもよくないから、そのほかの自分助けの方法を考えたらいいかもしれないね」と。

 

 困難のなかにある人にまずは100点満点をつけること。当事者研究はここから始まります。

 

 

■身近な人であるほどお節介が暴走する

 

 私は前回もお伝えしたように、チョコレートをどうしても止められないという意味で当事者でもあると思っています。自分のなかに当事者性があれば、自分の苦労の経験という経験知によって他者の苦労に降りていきやすいのではないかと思うのです。その意味で「当事者」とは単に病気の人を指すのでなく、苦労を経験し、その経験知によって降りていく可能性のある人だ、というのが私の勝手な持論です。

 なのにどうでしょう……、私の口をついた母への言葉といえば……。

 

「どうしてそんなにお菓子を食べるの!?」

「こんなに食べ過ぎたら太るのはわかっていたでしょう!?」

「太って病気になって入院しても仕方がないんだからね!?」

 

 こうして書いていても、指導というより本当にただ怒っているだけのかかわりに、あらためて母に申し訳なさを感じます。これはもう「脅迫」とか「攻撃」と表現されるほうが適切じゃないかしら(笑)

 

 今回明らかになったことは、相手が大切な人であればあるほど自分のなかの「お節介」が暴走して、対等な対話のお作法がとれないということです。当事者性を失って、コントロールを失った結果が、説教じみたアドバイス攻撃になるのかもしれません。

 

 誰かのことを大切に思うこと自体は悪いことではないですが、大切にする方法を間違えて、その結果相手が傷ついてしまったら本末転倒です。物事と距離を置いて、人を、なにより自分自身を見つめるのではなく眺めることが、研究的な対話には必要なのかもしれません。

 

 次回はこのことについてもう少し詳しく書いてみたいと思います。

(「指導から研究へ。――誤作動系保健師の「当事者研究」ズルズル実践録」

齋藤優紀 第2回 了)

次回⇒「第3回 入って、出て、投げ返す。あとは野となれ......(笑)」

 

 

 

 

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