第6回 ホモ・ルーデンスの方へ

第6回 ホモ・ルーデンスの方へ

2014.12.22 update.

松本卓也(まつもとたくや)

1987年生まれ。京都大学大学院理学研究科・博士後期課程在籍。2014年4月より日本学術振興会特別研究員(DC2)になる予定。タンザニアの森で約2年のフィールドワークを終え、現在は日本で博士論文を必死に執筆中。趣味は通学途中の読書(漫画を含む)と、大学の体育の授業で学部生に混じって楽しむバスケットボール。
『日本のサル学のあした』(京都通信社)のコラムを執筆。初連載です!

 "...it's hard to define, but I know it when I see it..." (Dolhinow 1999)

 

長期間にわたる森でのキャンプ生活、たまには息抜きも必要である。休暇のとり方は人によって様々だが、私は週に一度、たいてい日曜日を休みにしている(※1)。チンパンジー調査をしない休みの日は、現地のアシスタントたちの給料を計算したり、データ整理などの仕事をする。チンパンジーを追いかけて山登りが続いた週の休みは、気が付いたら半日寝ていることもある。が、休みの日なので、やっぱり遊ぶ。


キャンプでの娯楽のひとつは、大量の蔵書を手当たり次第に消化していくことである(※2)。私はそれまで歴史小説というものを一冊も読んだことがなかったが、アフリカで初めて司馬遼太郎を読み、すっかりハマってしまった(※3)。司馬遼太郎著『燃えよ剣』の中に、三条河原の暗がりに追い詰められた土方歳三が、今宵は月夜で良かった、と述懐するシーンがある。私はタンザニアの森の中で、「月明かり」によって物が見え、「月影」が落ちることを実感として学んだが、現在の京都ではなかなか感じられない月夜の風情が、小説の中とまさかタンザニアの森でリンクするとは、と不思議な気持ちになったのを覚えている。娯楽としては他にも、うどんなどの凝った料理を作る、近くの村でサッカーをする、国立公園管理局のパーティに出席する、などがある(※4)

 

ところで(と言ってもこちらが本題だが)チンパンジーも、遊ぶ。レスリング、おいかけっこ、木の周りをぐるぐるまわる、など遊び方は実に多様だ。アカンボウからオトナまで、年齢を問わず遊ぶ。ガハッガハッ、というプレイパントと呼ばれる遊び特有の音声を出しながら、転げまわって遊ぶコドモたちを見ると、いかにも楽しそうだ。「あ、これは遊びだな」ということは、たいてい観察者(=私、=人間)にもある程度わかる。国立公園を訪れる観光客と森で一緒にチンパンジーを観察している場面で、おそらくチンパンジーを初めて見る観光客の人たちも、激しく取っ組み合うコドモの様子を見て、喧嘩だろうかとハラハラすることはなく、レスリングに興じているのだなと、微笑ましく見守る。取っ組み合う両者のチンパンジーの間に、「これは遊びだ」と了解し合っている様子を、人間も感じ取ることができるからだろう。コドモが滑稽な動きをすると、笑いが起こることもある。

 

この遊びと呼ばれる行動は、一見すぐにそれとわかってしまう(気になってしまう)ものだが、いざ遊びとは何かを定義し、量的なデータをとろうとすると、途端に大きな困難に直面する。つまり、何をもって遊びとするのか、はっきりした基準がないのである。遊び特有の音声はある。しかし、誰も発声しない静かな遊びもある。たとえば私は、第1位オスと第3位のオスが、お互い寝転がって、一方が足で相手の足を握る、もう一方がまた足で握り返す、という静かな遊びを観察したことがある。また、何か名前のついているような行動、例えば毛づくろいや挨拶行動が、遊びとして行われることもある。ワカモノオスがひとりで木についた苔を「毛づくろい」していることもあれば、オトナメスがよたよたとした足取りで遊びっぽくオトナオスに挨拶することもある。

 

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つまり、ほとんどあらゆる行動(様式)が、遊びになる要素を秘めている、と言えるだろう。そこに、遊びの捉えがたさがあり、また、遊びのおもしろさがあるはずだ。それでは、チンパンジーはどのようにして遊びを遊びと捉えている(あるいは、遊びを遊びとして行動している)のか。その考察の一助になりそうな事例を紹介したい。

 

【観察事例①】「第1位オスの遊びが遊びでなくなる」2012年10月1日 13時56分より
第1位オスのプリムスと、老齢オスのカルンデが向かい合って毛づくろい。(その後、私は別のチンパンジーを観察していたが)突然カルンデがガハッガハッと言い出し、プリムスとじゃれあって遊ぼうとし始めた。プリムスもそれに応じるように上体を起こして動き出す。すると、近くにいたワカモノオスのエモリーが、ガハッガハッと激しく発声しながらプリムスの方へやってきた。プリムスは、エモリーの接近に対し、遊び始めの初動から滞りなくカルンデから離れ、毛を逆立ててディスプレイ(誇示行動)を始めた。

 

この事例に解釈を加えてみたい。まず、老齢オスのカルンデの音声は『プレイパント』と呼ばれる遊びの際によく発せられる音声と考えて間違いないだろう。両者のやりとりには、喧嘩や闘争の前のような緊張感・激しさはなく、遊ぼうとし始めたのだと考えられる。両者が遊んでいる姿を、私はそれまで頻繁に観察していた、というバックグラウンドもある。

 

ところが、ワカモノオスのエモリーのガハッガハッは、音こそ似ているものの、はっきりと『挨拶の音声(パントグラント)』なのである(参照:連載第1回)。カルンデの発した音声を上位オスへの挨拶行動だと思ったのか、あるいはプリムスの動きをディスプレイ(参照:連載第3回)だと思ったのか、あるいは両方か。まだオトナオスへの仲間入りを果たしておらず、オトナオスとの関係作りに気を揉みがちなエモリー青年は、自分も第1位オスのプリムスに挨拶をしなくては!と思ったのかもしれない(※5)。激しく、つまり周囲で休んでいた個体にもそれとわかるように挨拶を始めた。

 

そして、おもしろいのはプリムスの反応である。カルンデと遊ぼうとしていたにもかかわらず、エモリーから挨拶行動をされると、そのまま(遊びでない)ディスプレイを始めたのだ。エモリーの激しい挨拶によって、周囲の注目が、「ワカモノオスから挨拶行動を受けた第1位オスの反応」に集まってしまったために、ディスプレイを始めざるを得なかった、のではないだろうかと思えてならない。つまり、ワカモノオスのエモリーの登場によって、第1位オスのプリムスの行動は、遊びから(本当の)ディスプレイの文脈になってしまったのではないかと思えるのだ。もっと言えば、プリムスの「上体を起こして動き出す」という動作は、プリムスの意図とは無関係に、周囲の個体によって遊びからディスプレイの文脈へと置き換えられてしまったのである。

 

遊びは、「これは遊びなのだ」という当事者の了解があってこそ可能になる。そして、今回の事例に基づいて考えれば、周囲の個体が「彼/彼女(ら)は遊んでいるのだ」と了解しているからこそ、遊びが成立していると言えるだろう。すなわち、周囲の文脈によって、遊びはすぐに遊びでなくなってしまう、という側面を持っている(※6)。そういう意味では、チンパンジーのコドモの(時にかなり激しい動きを伴う)遊びを微笑ましく見つめる人間の観光客、という状況は、遊びが遊びであるために必要な特徴が、種を超えて共有されていることの表れと言えるかもしれない。

 

【本文註】

(※1)調査を手伝ってくれるアシスタントは日曜が休みなので、日曜に森へ入ろうと思うと、休日出勤手当てを余計に支払わなければならなくなる、という事情もある。

(※2)私の先生が書いた「キャンプ生活の心得」の中には、寝不足になるのでおもしろい長編小説を持ち込まないこと!と明記されている。しかし、キャンプの蔵書は、おもしろい長編小説がかなりの割合を占めている。

(※3)本当に余談だが、私のイチオシは『夏草の賦』である。また、これも余談だが、『国盗り物語』を読み始めたら、最終巻が見つからず、数時間をかけて書庫を掃除しつつ探し回ったことがある。結局、見つからず、休みの日なのに疲れてしまった。

(※4)村でアシスタントの結婚式に出席したときのことを、コラムに書いたことがあります。興味のある方は読んでみてください。 (参考:http://mahale.main.jp/chimpun/018/04.html)

(※5)エモリーを弁護するわけではないが、カルンデがいきなりガハッガハッと言い出したのには、正直私も驚いた。なんだ!?と警戒してプリムスとカルンデの様子を見、「ああ、遊びか」と判断するに至った、という経緯がある。

(※6)チンパンジーの母親は、自分の子供が遊びの最中に軽く悲鳴を上げるだけで(私からすれば「ちょっと空気が読めてないなぁ」と思うほど)、ささっ!とやってきて遊び相手のほうを追い払うことがある。母親の育て方の違いなどによっても、大きく反応は異なるだろうけれど、このような母親の反応を見ていると、遊びというのもままならぬものだなぁ、と思う。

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