看護師のち研究者になったナースが『摘便とお花見』を読む、その第4回。

看護師のち研究者になったナースが『摘便とお花見』を読む、その第4回。

2013.11.04 update.

「臨床を知らない現象学者」によって書かれた

看護師についての本、『摘便とお花見』。

看護研究書とも、哲学書とも、インタビュー集とも言い切れない

この摩訶不思議な本を、

看護師であり、臨床を知る現象学の研究者たちが読む。

短期集中4回連載。週一更新です。

 

 

田代幸子

首都大学東京人間健康科学科 看護科学域成人看護学博士後期課程

 

 ナースにも人気の「ケアをひらく」シリーズの最新刊がこの「摘便とお花見」だ。このタイトルはなぜか“女心(おんなごころ)”ならぬ“ナース心”をくすぐる。「摘便」という看護師にとってのリアルさと「お花見」というおぼろげな優しい響きのコントラストがそうさせるのかもしれない。

 

 本書では、4人の看護師の語りを著者が丁寧に紐解いていく。語り自体は4人の個別な経験であるが、看護師として患者をケアした経験がある方なら「うん、あるある」と思えるような部分も多い。そのような経験の語りには、語った本人自身も気づいていない何気ない言葉やリズム、ちょっとした言いよどみなどが含まれており、著者はそれらを糸口にしてその意味を探っていく。

 

 そんなこの本を私は今まさに現場で働く中堅からベテランといわれるナースに読んでほしいと思う。看護師として経験を重ねてきた彼らは、目の前の状況を的確に判断し、適切な援助も行っている。しかしその一方で、どこか漠然とした不安のようなものを感じている。私もそうだった。それは、一見、治療やケアにはそれほど必要でないような自らの行為に気が付いた時だ。「この行為に何の意味があるのか」「自分のやっていることは本当に看護と呼べるのか」そんな思いを抱いたことはないだろうか。

 

 そこへ光を当ててくれるのが、本書に出てくる看護師の一人であるFさんと患者(yさん)との関わりの分析である。Fさんが担当しているyさんは病で次第に体が動かなくなり死が目前に迫っている。あるときyさんが文書に署名をする。ほとんど動かない手で書こうとするがなかなか上手くいかない。そのときFさんは、yさんの行為の自由を奪うことなく、yさんが自分で書けるように工夫しながらサポートする。このFさんの行為について著者は、yさんが行為の主体であるための関わりであると分析し、「直接ケアを超えたところで何か大切なことがあり」「医療として必要なケアを超えた〈ケアの彼方〉が暗示されている」と述べている。

 

 本書を読み進めるうち、ベテランと呼ばれる看護師が自分でも〈看護とよべるのかわからない〉と感じるような行為もまた、直接ケアや医療を超えた〈ケアの彼方〉なのかもしれないと思えるようになってきた。

 

 また、看護師の語りを読んでいると、まるでそれを自分が見たり経験したりしているかのような感覚を覚える。さらには本書からは、著者の分析によって看護師が日々実践している看護の構造も知ることができる。そうして読み終わる頃には自分自身の経験を自ら紐解き始めるという作用のようなものがあると私は思う。そんな作用は、経験豊かな看護師だからこそ持つ漠然とした不安と確かな手ごたえに裏付けのようなものを与えてくれる。

 

 時は「お花見」とは少々違っているが、秋の夜長に是非この本を手に取って出会ってほしい、4人のナースたち、……そして、あなた自身の看護に。
 

執筆者略歴

看護師として救命救急センターで11年間勤務後、クリティカルケアでの看護師と患者の関係性に関心を持ち研究の道へ。臨床の現場で起こっている出来事を探究するため、現象学的研究を首都大学東京で学ぶ。

 

 

 

[リンク]

 

朝日新聞(2013.10.20)書評欄に掲載されました。評者は出久根達郎さん(作家)です。

 

北海道新聞(2013.10.20)書評欄に掲載されました。評者は浮ヶ谷幸代さん(文化人類学者)です。

 

図書新聞』に著者、村上靖彦さんのインタビュー記事が掲載されています


 

摘便とお花見 看護の語りの現象学 イメージ

摘便とお花見 看護の語りの現象学

誰も看護師を知らない。
とるにたらない日常を、看護師はなぜ目に焼き付けようとするのか??看護という「人間の可能性の限界」を拡張する営みに吸い寄せられた気鋭の現象学者は、共感あふれるインタビューと冷徹な分析によって、不思議な時間構造に満ちたその姿をあぶり出した。巻末には圧倒的なインタビュー論「ノイズを読む、見えない流れに乗る」を付す。パトリシア・ベナーとはまた別の形で、看護行為の言語化に資する驚愕の1冊。

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