講演録「心の技法」(4) なぜ怒りをコントロールするのか

講演録「心の技法」(4) なぜ怒りをコントロールするのか

2011.8.11 update.

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名越康文

1960年生まれ。近畿大学医学部卒業後、大阪府立中宮病院精神科主任を経て、99年、名越クリニックを開業。専門は思春期精神医学。精神科医というフィールドを越え、テレビ・雑誌・ラジオ等のメディアで活躍。著書に『心がフッと軽くなる「瞬間の心理学」』(角川SSC新書、2010)、『薄氷の踏み方』(甲野善紀氏と共著、PHP研究所、2008)などがある。2011年4月より「夜間飛行」(http://yakan-hiko.com/)にて公式メルマガスタート。

本稿は、2011年1月26日、医学書院で行われた「ナーシング・カフェ 医療者のための心の技法」での名越康文氏の講演をまとめたものです。

 

前回より続く

 

怒りのコントロールは仏教においても大きなテーマ

 

では、僕が東洋の心理学と呼んでいる仏教では、怒りについてどう述べているのか。仏教の経典の現代語訳や解説を読んでみると、なんのことはない、2500年前からお釈迦さまは、怒りを制御していくことの大切さを説かれています。例えば「スッタニパータ」という教典などは、終始「怒ってはいけない」ということばかり書かれています。

 

怒りというものが実は人をものすごく不幸にする。怒りはものすごく僕たちを苦しめる、あるいは疲れさせる。そういうことをお釈迦様が徹底的に説いているということには、僕自身、すごく納得させられたし、勇気づけられました。

 

仏教では、怒りを「瞋(しん)」と表現します。このほか「貧(とん)」、「痴(ち)」を合わせた3つが、大きな煩悩とされています。「貧」というのは欲深いことで、「痴」というのは、無知ということです。……少し脱線しますが、ここでは少し、どうして僕が仏教から話を引っ張ってくるかということについてお話しておきます。

 

ひとつには、僕たちが信じている西洋医学、ひいては科学というものが、どこまで真理に近づいているかということについて、僕らは常日ごろから、自分なりに検証しておく必要があると思うからです。天動説が地動説になったのは昔の話だと思っているけど、つい最近のことですよ。西洋医学だって、この10年、20年で、定説がひっくり返った分野はいくらでもある。

 

ところが、仏教のこういった洞察というのは、2500年間、誰からも決定的な反駁を受けていません。さまざまな宗派があって、宗派による違いがある部分と、共通項がありますが、「貧」「瞋」「痴」も共通項です。原始仏教でも、大乗仏教でも、真言密教でもこれは同じ。そういう普遍性のある場所から僕らの知見を定期的に検証しておくことって、非常に大切だと思うんですね。

 

欲にはかぎりがない

 

さて、「貧」というのは欲深いということです。欲が深いと苦しむのがなぜかといえば、欲には限りがないからですね。

 

39歳でがんで死んだ友達がいます。肝臓がんで、だんだん腹水が溜まってくるところまできました。僕は月に1回くらい行って、いろんな話をしていたんですが、あるとき「何が一番しんどい?」と聞いたんです。そうすると、「新しい治療法があって“これやってみないか”と言われたときが一番しんどい」と言うんです。この言葉は今でも忘れられません。

 

「救われるかもしれないよ」ということだけは言ってくれるな、と。そう言われると欲が出る。死ぬことを受け入れて、残り少ない人生をまっとうしようという、すごく静かな心になったときに、「これやってみるといいかもしれないよ」と勧められると、どうしたって心が乱れる。欲が出る。欲が出ると、それが怒りにつながる。つまり、貧(欲)は瞋(怒り)につながっているんですね。

 

もう1つが「痴」、すなわち無知です。無知が煩悩って言われても困ると思うんですよ。だって、人間の知恵なんてどうしたって限界がありますからね。大日如来の知恵からしたら、誰だって無知です。

 

でも、僕の解釈では、お釈迦様はそういう無知を責めているわけではないじゃないんです。痴というのは、自分が救われる道がある、みんながもうちょっと幸せに生きられる道があるということを追求しようともせず、最初から諦めるような態度のことを言っているんですね。

 

「しょせん人間なんてどうしようもない生き物だ」とか「医療にできることなんてほとんどないよ」といった冷めた態度が、実は根っこのところで怒り、苦しみにつながっているのだ、ということを説いています。

 

つまり、「貧」「瞋」「痴」は根っこのところでは怒りというキーワードでつながっている、というのが僕の解釈です。

 

「不安」は怒りである

 

さて、あまり仏教に深入りすると戻って来れなくなるので、僕らの日常を取り巻く怒りの話に戻ります。僕たちが知っている怒りっていうのは何があるでしょうか。何も大喧嘩するような怒り方というのは、ある程度の年齢の方はそうはやらないと思うんです。

 

でも、「かっとなる」というのはよくあると思うんですね。これも立派な怒りなんです。僕たちは一日のうち、どれだけかっとなっているか。けっこう多いと思います。僕は典型的な怒り型の人間ですので、毎日小さなことでカチンときています。例えばエレベーターで順番待ちしていたら若い子が目の前を追い越して乗っていったりする。別に、目的地に行く時間には変わらないけど、ちょっとむかっとくる。あるいはエスカレーターの前で、田舎から来たおばあさんが孫のお土産の仕分けをしていて通れない。「こっちは急いでんのに!」とカっとくる。こういう小さいものも怒りなんですね。

 

もっと迂回した形での怒りというのも、いろいろあります。まず、ぜひ皆さんに洞察していただきたいのは不安です。不安って、よく考えたらその奥に怒りがあるんですね。ちなみに仏教でも「不安」は「瞋」に分類されると思います。

 

不安があるときって、自分が被害者のように思っているじゃないですか。こんなことが起こった、どうしよう。でも、「こんなことが起こったどうしよう」には「嫌だなあ」という気持ちがあり、その「嫌だなあ」の奥には、怒りがある。「自分だけなんでこんな目に遭うの」とか「こんなことを考えている私ってほんまちっちゃい人間やわ」とか。さまざまなものが連鎖していますが、ひもといていくと、不安の中にもはっきり怒りがあります。

 

もし不安が強い人が「不安とは怒りである」ということを心の底から理解できたら、ものすごい進歩です。そう気づくだけでも、普通は難しいことなんです。不安になったときにはぜひ、そういう視点で自分の心を洞察してみてください。

 

軽視も怒り

 

さらにこれも見落としがちなんですが、相手を軽視するのも、怒りです。「軽視が怒りってどういうこと?」と思われるかもしれませんね。相当センスのいい人でなければ、これだけではなかなかぴんとこないかもしれません。

 

例えば、師長さんが何か喋っている。その話の途中で、「ああ、師長さんが言いたいのは要するにこういうことでしょ」と勝手に相手の考えをまとめている。ここにはかすかな、蔑視があります。これも怒りなんですね。考えてみると傲慢な態度ですし、傲慢さというのも実は、典型的な怒りなんです。明るく傲慢になる人っていませんよね。傲慢になるときというのは、怒っている。傲慢さというのは、言葉にすれば「私がわかっていることを、みんなはわかってない」ということであり、この考えはそのまま「どうして私の価値がわからないの」という怒りに直結しています。

 

これの変種で、やたら自分のことを卑下するような態度をとる人もいますね。「私はバカですよ。でも、こんなバカの言っていることがなんでわからないの?」という形で、ちょっと迂回して周囲を軽視しようとする。これも同じです。怒っているんです。

 

こういう怒りの表出は、結局のところ自分を傷つけます。心のエネルギーを、自分の元気をそぐ方向にばかり使っている。怒りをターゲットに考えていくことで、人間関係や、個々人の心の問題にアプローチしていくことを、ぜひひとつのムーブメントにしていきたい。僕がいま考えているのは、そういうことなんですね。
 

(次回に続く)

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