かんかん! -看護師のためのwebマガジン by 医学書院-
2011.7.06 update.
1946年岐阜県生まれ。お茶の水女子大学大学院修士課程修了後、駒木野病院勤務などを経て、現在に至る。臨床心理士。アルコールをはじめとする依存症のカウンセリングにかかわってきた経験から、家族関係について提言を行う。著書に『アディクション・アプローチ』『DVと虐待』(ともに医学書院)、『母が重くてたまらない』(春秋社)など多数。『一冊の本』(朝日新聞出版)連載中の紙上カウンセリング、「あなたの悩みにおこたえしましょう」が絶好調!
[前回まで]
しわに埋もれたようなノジマさんの目に射すくめられた嘉子の身体は、駆け出し時代のアル中病棟に舞い戻ってしまった。嫌味な男性医師に保護室に閉じ込められたこと、そこでなにより患者に恐怖を感じてしまったこと……。病室に戻る嘉子は、不安と怯えに支配された一人の心臓病患者であった。
さきほどは駆けるようにして通り過ぎたナースステーションの前を、嘉子はとぼとぼとうなだれて歩いた。
立ち止まって横目で眺める半円形の世界はまるで舞台のように輝いている。ナースたちがきびきびと立ち働いているそばで、若手の医師がパソコンの前に座って難しい顔をしている。
厨房がガラス越しに透けて見えるレストランのようだが、嘉子が立っている世界とナースステーションのあいだにはなんの仕切りもない。輝く舞台の世界にそのまま入っていけるように思える。
かつての病院は、ドア越しにガラスを叩いて看護師さんを呼ばなければならなかった。それに比べると、今では大きな病院のほとんどが開放的ナースステーションへと変貌を遂げている。
でも、ほんとうにそうだろうか。
力が奪われてしまい、悄然という表現がぴったりの顔をした嘉子は思った。
パジャマ姿で廊下をよろよろ歩いている自分と、あの光に満ちた世界とのあいだには目に見えない境界が確かに存在する。
かっちりとしたドアがないぶんだけ、その境界はいっそう堅固に思われた。それを乗り越え一歩足を踏み入れれば、異なる空気が流れているに違いない。
ひょっとして嘉子の職場でカウンセリングを待っているひとたちの目には、受付のガラス越しの世界はこのように映っていたのだろうか。
でもそこにはドアと壁、ガラス窓という境界が目に見える装置として厳然と存在している。カウンセラーにとってあの境界は生命線なのだから、自由に入られては困るのだ。
それに比べると、病院=医療の世界の開放ぶりはどうだろう。最近の精神科クリニックも受付と待合コーナーの境目がない設計が流行っている。
気落ちした嘉子は、初めてそれが見せかけであると感じた。
壁はある、壁はあってもいい。
それなのにまるで壁がないかのように設計されることは、もっと強固な壁をつくられているのかもしれないのだ。
「あ〜
あ、やな感じ」
滅多につぶやかない言葉を思わず口にしながら、嘉子は自分の病室にこっそり戻った。ノジマさんもロシア人も静さんも寝入っているようだ。灯りは消えカーテンは閉まっている。
薄暗い病室のカーテンに囲まれた世界で、嘉子はひとりだけ灯りを点けてパソコンを起動させた。しかしメールチェックする元気もなくすぐに横になった。
何がこんなに疲れさせたのだろう。目を閉じて嘉子は振り返った。
ノジマさんと目が合ったことを引き金に自分に起きたことは、一種のフラッシュバックだと思った。
仕事柄、PTSD、被害、解離などと並んでフラッシュバックはフラバと省略するほど馴染みの深い言葉だ。
DVの被害者のグループカウンセリングを実施していると、多くの女性たちがフラッシュバックに苦しむ様子に触れなければならない。襲ってくる感覚、突然降って湧いたように脳裏に浮かぶ記憶に苦しみ、彼女たちがほとほと疲弊してしまう様を嘉子はよく知っていた。でも自分が経験したのは初めてだった。
「へ〜
、フラバってこんなに疲れるんだ」
こんな言葉はクライエントのひとたちには聞かせられないと思いながらも、けっこういろいろなところで口をすべらせている。経験したことがなければ相手の苦しみはわからないはずだ、という思い込みはまるで癌のようだと嘉子は考えているからだ。
大きな災害が起きると、被災者に共感するためには同じ苦しみを経験していなければならない、そうでない共感は偽物だ……といった言説がはびこるのが、嘉子にはたまらなくいやだった。
眼の前に「共感します」という札をぶらさげているようなカウンセラー志望の人たちを嫌悪するあまり、こっそり「共感しないカウンセラー」と自称するほどだ。
そもそもあの精神病院に勤めたのだって、自分の棲んできた世界からもっとも遠いところにあるからだった。だから勤務初日は武者震いをしてしまったのだろう。
長いカウンセラー生活を振り返ってみても、ほとんど自分では経験がないことだから楽々と仕事をこなしてこれたと思う。
そう、しょせん「他人事」なのだ。
こんなショッキングな表現すらためらわない嘉子だった。
他人事だから聞けるのだし、経験がないからこそ精一杯の想像力と脳髄を絞り込むほどの知識と論理的思考力をフル稼働させて聞く。そうやってカウンセラーとして歩いてきた。はたして、それが「共感」といえるのかどうか。
フラッシュバック後の脱力感と疲労感に圧倒されベッドに横たわってしまった自分の姿を顧みて、「だから共感なんかしないほうがいいんだ」と妙に嘉子は納得した。
消灯前に担当看護師が検温と血圧測定のために訪れた。しおらしく横になっている嘉子の手をとって血圧を測定しながら、「木川さん、はい大丈夫ですね」とにっこり笑った。
じっくりと顔を眺めると、目と目のあいだが少し離れているので、美人ではないけれどゆったりとした空気に包まれるような気分になる。
手に触れられること、笑顔を向けられること、大丈夫ですねと言葉をかけられること。
短い時間だが、嘉子は看護師に身を任せることがどれほど心地よいことなのかをしっかりと味わっていた。ここがカウンセラーと異なるところだと思いながら。
身体に触れられることで発生する関係性は、カウンセリングでは得られないものだ。せいぜい「はい、深呼吸して〜」とリラクセーションで声かけをするくらいだ。
手を握られることで得られる安心感、少し疲れたときに「お熱いかがですか」とベッド脇から額に触れられたときのうっとり感を思い出しながら、入院は身体を預けることであり、身を任せることが許される経験なのだ、と嘉子は思った。
看護師は向かいのロシア人のベッドのもとに去って行った。その気配の名残りを肌で感じながら、まだ9時だというのにあくびが出た。ふだんならパソコンに向かって頭脳をフル回転させているころなのに、心地よさで嘉子の全身の神経が弛緩してしまったようだ。
しかしあと3日もすればこの世界から去らなければならない。自分で自分の身体を支え、さまざまなことを選択しなければならない世界に戻っていくのだ。
ロシア語しか話せない向かいのベッドの女性を相手に、看護師は苦労していた。英語でたずねても通じない。あきらめたのか今度は日本語で尋ねている。「ご飯は食べられましたか?」「眠れましたか?」
ロシア人の彼女が話せる日本語はたった一語、「イ・タ・イ」だった。
友人から教えられたのだろうか、それほどずれていないタイミングでそれを使った。
「はい、体温計を見せてください」
「イ・タ・イ」
「特にお熱はありませんね」
「イ・タ・イ」
よく耳を澄ましていると、アクセントのつけ方を微妙に変えている。最初の「イ」にアクセントを置いたり、真ん中の「タ」を高く強く発音したり、彼女なりに努力をしているのがわかる。
言葉も通じない異国の病院で2日後にカテーテル検査を控え、たった一語「イ・タ・イ」だけで看護師とコミュニケーションをとっているロシア人女性のことが、嘉子はふと、いとおしく思えた。
9時半をまわったころ、ロシア人が起き上がってトイレに入った。その後を継ぐように入口脇の静さんがゆっくりと時間をかけて起き上がり、点滴棒をごろごろと引きずりながらトイレに入った。
消灯前の慌ただしい雰囲気を感知したのか、それともトイレのドアの音に反応したのか、隣のベッドでノジマさんが目を覚ましたようだ。
面会に来た娘とのマルジューをめぐるやりとり、その後のナースコール乱打事件、夕食時の盛大な物音……そして嘉子の視線を捕らえた獰猛なまなざし。展開の激しい劇がカーテン越しに繰り広げられ、想像力をいやでも掻き立てられる経験によって、嘉子はいつのまにかノジマさんの動静にいっそう神経をそばだてるようになっている。
寝返りを打つときの寝具の擦れる音、呼吸に伴って起きる空気が漏れる音、唇のぴちゃぴちゃという音。
そのたびにノジマさんの姿がカーテン越しに透けて見えるような錯覚に陥った。
今ごろ目がさめてしまったら、消灯時間を過ぎてもノジマさんは眠くなるどころか、ますます覚醒していくのではないだろうか。
嘉子は不安に襲われた。
2時間近く前に見たあのノジマさんの目の獰猛さが生々しくよみがえる。
嘉子はノジマさんが再び眠りに落ちてくれるように、祈るような気持ちだった。ところがノジマさんのベッドから聞こえてくる音は、いっそう盛んになっていくのだった。
10時ぴったりに嘉子は灯りを消した。
それを見はからっていたかのように、隣のベッドからはうめき声が始まった。
「う〜ん、う〜ん」
かすかだけどはっきりとした音が、等間隔で聞こえてくる。
そのうち、うめき声に言葉が加わるようになった。
「う〜ん、う〜ん」「いたい〜、いた〜い」「う〜ん、う〜ん」
嘉子の耳はノジマさんの発する音に占領されてしまった。薄暗い病室で左隣から聞こえてくる奇妙にリズミカルな音と声は、しばらくのあいだ続いた。
残りの二人にはこの音は聞こえていないのだろうか。一対一ではノジマさんに圧倒されそうだから、残りの二人に仲間になってほしい。そんな嘉子の希望は打ち砕かれた。ほどなくしてロシア人と静さんのいびきが微かに空気を振動させ始めたのだ。ノジマさんの声はかぼそくて向かい側のベッドには伝わらないのかもしれない。
このままうめき声が続くとしたら眠れそうもない。悪い予想が的中したことで嘉子は途方にくれた。
そのうち、ノジマさんは切り札を出した。
「かんごふさ〜ん、かんごふさ〜ん」
隣から聞こえてくる声の組み合わせは少し複雑になった。
「う〜ん、う〜ん、」「いた〜い、いたい〜」「かんごふさ〜ん、う〜ん、いた〜い」「かんごふさ〜ん」
どことなくお経のようでもあり、悪夢のようにも聞こえるノジマさんの声は途切れることなく続く。昼間とは打って変わった弱々しい声なので、もちろんナースステーションに届くはずもない。
それにしてもどうしてナースコールを押さないのだろう。先ほどと同様、嘉子がそう考えた途端それを見透かしているかのように、ノジマさんはナースコールのボタンを押した。
「ノジマさん、どうしましたか?」
パタパタという音を立ててすぐに看護師が飛んできた。
「かんごふさ〜ん、かんごふさ〜ん」
ノジマさんは相変わらず死にそうなかすれ声で呼び続けている。
「はい、ここにいますよ。ノジマさん、どうしましたか?」
消灯後のことでもあり、看護師は声をひそめている。
「痛いんです、痛いの、いたい〜
」「痛いんですね、どこでしょう、どこが痛むんでしょう」
小さな声で尋ねているのは、昼間とは違う看護師だ。おそらくノジマさんのことは申し送りされているはずだ、と嘉子は考えた。
「ここ、ここが痛いの」
衣服の擦れる音がして、身体の一部を見せている様子が伝わってくる。
昼間と同じだ。
部屋の薄暗さ、ノジマさんの声の弱々しさは大きく異なっているが、ノジマさんが看護師に対して訴えていることはほとんど同じだ。
嘉子は既視感に襲われた。耳をそばだてて聞いてみようという好奇心をはるかに凌駕する現実に頭がくらくらする。また、あのようなやりとりが繰り返されるのだろうか。
昼間はどこかでノジマさんの悲鳴にも似たナースコールに納得していた。ところが、夕食後に経験した一瞬の視線の交錯によって何かが変わってしまった。あの瞬間たしかに嘉子はノジマさんの目に狂気にも似た獰猛さを感じ、それは逃れることも、抗うこともできないものとして嘉子を怖れさせた。
老人は果たして非力であり、一歩一歩死に近づいている存在なのだろうか。介護の対象としてケアを必要としている存在なのだろうか。
ノジマさんに捕獲され、狂気の網で絡めとられたと感じた嘉子は、ノジマさんのことが老人という定義を超える存在に思われた。
しわだらけの顔、やせ細った手足、そして内出血の治りきらない跡。
枯れ果てた体躯だからこそ、そこに収まりきらない狂気や恨み、欲望、切望といったものがいっそう露わになって湧きあがり、あふれ出てくる。
それはケアを与える対象ではなく、あらゆるものを取り込みながら決してそれで内部が満たされることのない、どこか妖怪じみた存在だった。
ふと嘉子は宮崎駿のアニメに登場するキャラクターを思い浮かべた。そう言えば、ノジマさんの今夜の声は、まるで底なしの井戸から吹き上げてくる風のようだった。
そんな嘉子の恐怖感を鎮めるかのように、やわらかな声で看護師はノジマさんに伝えた。
「はい、ここですね、お薬を塗っときますね」
しばしのあいだ、ひそやかに肌をさする音が隣から伝わってきた。
(第11回了)
[次回は8月上旬UP予定です。乞うご期待。]
アディクションアプローチ もうひとつの家族援助論 A5判・224ページ・1999年06月発行 定価 2,100円 (本体2,000円+税5%) ISBN978-4-260-33002-2
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DVと虐待 「家族の暴力」に援助者ができること
A5判・192ページ・2002年03月発行 |