【第6話】 認知症とロシア人

【第6話】 認知症とロシア人

2011.1.19 update.

信田さよ子 (原宿カウンセリングセンター所長)

1946年岐阜県生まれ。お茶の水女子大学大学院修士課程修了後、駒木野病院勤務などを経て、現在に至る。臨床心理士。アルコールをはじめとする依存症のカウンセリングにかかわってきた経験から、家族関係について提言を行う。著書に『アディクション・アプローチ』『DVと虐待』(ともに医学書院)、『母が重くてたまらない』(春秋社)など多数。最新著に『ふりまわされない』(ダイヤモンド社)、『ザ・ママの研究』(よりみちパン!セ、理論社)がある。

[前回まで]

木川嘉子は狭心症の検査のため、東京タワーの見える病院に入院した。パジャマの襟を立てた陶芸家、最後の晩餐のキリストよろしく無言で家族を睥睨する女性――病院はワンダーランドだ。二つのベッドが空いた嘉子の病室へ、また新たな病人が入院してきたようだ。またもやカウンセラーの嘉子の好奇心は全開に。

 

土日をはさんでいるので、検査まであと二日もある。

定期的な血圧や体温測定はあるものの、ゆったりとベッドの上で過ごしてさえいれば時は勝手に流れていき、おいしい病院食が運ばれてくる。窓越しに少し曇った薄青い空を見上げながら嘉子は考えた。今の自分は誰からも怠けていると非難されることはないのだ、と。

こうして入院しなければ、そう考えることすらできなかったのだろうか?

あらためて嘉子は、日々のカウンセリング業務が常軌を逸するほどに多忙を極めていたことに気づかされた。

 

カウンセリングの合間を縫って、わずか五分で事務処理の書類に印鑑を押す。一時間にも満たない昼休みは、手製の弁当を食べながら、全国から送られてきた季節の贈答品に対するお礼のハガキを万年筆で書く。事務長からの矢継ぎ早の報告に対しては、別の作業をこなしながら「了解」の合図に人差し指を挙げる。

思わず、還暦過ぎた聖徳太子か! とツッコミたくもなる。

一日のカウンセリングが終わるころには、疲労のために大脳がパンパンにふくらんでいるような感覚にいつも襲われるのだった。狭心症になるのも無理ないか……嘉子は妙に納得した。

 

目を閉じると、それらの日々が遠い世界のように思え、ベッドの上では時間の流れる速度が違うように感じられた。

 

ゆったりモードはむずかしい

 

机の上の時計は午前十時五〇分を指している。

「十一時ごろには新しいパジャマを持って到着するよん、楽しみにね♥」

朝食を食べ終わったころに、真衣から絵文字の入ったメールが届いていた。

真衣はもうバスに乗ってるだろうか。どんなパジャマを買ってきてくれるのだろう。ラウンジで会ったコムデギャルソン風の女性のパジャマとどっちがかっこいいだろう。嘉子は頭の中で、陶芸家らしい女性と、もうパジャマ姿を競っていた。

あと十分もないと思うとじっとしていられなくなったので、嘉子は思わず勢いよくベッドから起き上がろうとし、はっとした。昨晩のできごとを思い出したからだ。

 

初めての夜だったので、就寝前に嘉子は、病室の入口にあるピカピカの洗面台で勢いよく歯を磨き三回うがいをした。それからクレンジングフォームで念入りに洗顔した。タオルで顔を拭いてさっぱりしたとたん、ナースステーションから看護師さんが飛んできた。

「木川さん、どうしましたか?」

「はい? 顔を洗ってただけですけど」

洗顔後こんなにさっぱりしているのに、いったい何が問題なんだろう。嘉子はきょとんとして看護師さんの緊張した顔を見た。

心電図のモニターが大きく乱れたので驚いて飛んできたのだと伝えられ、嘉子はそのとき初めて、心電図が二四時間チェックされていることを自覚した。深くうつむいて胸部を圧迫したり、走ったりすると狭心症の発作が起きる可能性があるらしい。

「木川さん、できるだけ静かに歩いてくださいね」

ほっとした様子の看護師さんは、少しほほえみながら、しかしはっきりとした口調で告げた。

「わかりました、ご心配おかけしました」

殊勝な態度で頭を下げながら、いつもの癖でついつい廊下を走ってしまっていたことを反省し、明日からはすべての動作をゆったりモードに変換しようと昨晩深く決意したばかりだった。

 

憧れのナースシューズ

 

嘉子は努力してゆっくりとベッドから起き上がろうとしたが、かえって不自然な姿勢になったのか左腕をひねってしまった。

「いてて……」

思わずつぶやいたとき、廊下からナースシューズのパタパタという音がした。

病棟にはいろいろな音が満ちている。嘉子はなかでも看護師さんが歩く足音=パタパタが好きだった。

 

彼女たちはいつも早足だ。痩せていようと太っていようと、必ず小走りでパタパタという軽やかな音を立てて移動する。走るのを禁じられたせいか、よけいにその音は憧れに近い感覚を呼び覚ました。おそらく多くの患者さんもベッドの中で耳を澄まして、嘉子のようにそれを聞いているだろう。

それにパタパタは、自分や自分の身体が放置され忘れ去られているわけでなく、看護師さんの関心の対象として存在していることを教えてくれる音でもあった。

嘉子は、パタパタが近づいてくるだけで、なんともいえない安らかな感覚に包まれた。

 

ところが、その足音は嘉子のベッドではなく、左隣の空きスペースに入っていった。どうも、ベッドまわりの椅子や床頭台などを整備しているらしい音がする。新しく入院してくるひとがいるのかもしれない。ほどなくして、ナースステーションのほうからゴロゴロとベッドを押す音が近づいてきた。

「さあ、ノジマさん、着きましたよ」

看護師さんの明るい声とともに、新しいベッドが到着した。突然いなくなった母娘に代わって、新たに入院してきたのはノジマさんというひとらしい。

いったいどんなひとだろう。今すぐにでもカーテンの隙間から覗いてみたい欲望がむくむくと湧いてきたが、じっとがまんした。

 

しっしでマルジュウ行きました

 

ベッドを押してきた二人の看護師さんがノジマさんに呼びかけた。

「ノジマさん、こんにちは」「こんにちは」

カーテン越しだが、二人の声は若々しく明るい。

「担当しますマキです」「シマダと申します」

「よろしくお願いします」「よろしくお願いします」

二人の担当チームのいっぽうであるシマダさんは少し後輩なのだろう、一拍遅れてあいさつしている。

少し間をおいて初めて隣人の声がした。

「よろしく」

しゃがれた弱々しい声で、ノジマさんはゆっくり応答した。おそらくかなりの高齢だろうと嘉子は推測した。

「ノジマさん、ここがどこかわかりますか?」

「はあ?」

「ノジマさん、今どこにいらっしゃるかわかりますか?」

二人の看護師が、ゆっくりと語りかけている。耳元に口を近づけながら語りかけている二人の姿が目に見えるようだ。

それには答えず、ノジマさんは振り絞るような声で言った。

「アキコはどうしたの? アキコ、アキコ、アキコー!」

最初は小さな消え入りそうな声だったが、アキコと呼ぶ声はだんだん大きく甲高くなり、最後は悲鳴に近くなった。

 

嘉子は、真衣に会える楽しみより、隣のノジマさんの異様な声にくぎ付けになってしまった。

「アキコさんってお嬢さんですよね、お嬢さんは午後になってからいらっしゃいますよ」

看護師のマキさんは、ノジマさんの声に同調するわけでもなく、最初から変わらないトーンで話しつづけている。そのせいか、少しノジマさんは落ち着いた様子だ。

「ノジマさん、ここは病院です。これは病院のベッドです。わかりますか?」

「ええっ、病院?……あたし、あたしね、買い物に行ったの。はい、しっしでマルジュウまでね。だってトイレットペーパー切らしちゃったんだもの、急がなくっちゃなんないし……」

マキさんもシマダさんも、うなずいて相槌を打っているに違いない。ノジマさんは段々と饒舌になっている。かすれていた声もだんだん通るようになり、一生懸命説明している。

ベッドの上に腰をかけ神経を集中させて聞いたそれまでの内容から、嘉子はノジマさんの入院までを想像してみた。

 

《高齢者のノジマさんは買い物にでかけた途中で転んでしまった。マルジュウという近所のスーパーにトイレットペーパーを買いに行ったのだ。救急車で搬送されたのだが、出血を伴うような外傷や骨折はなかったので、外科ではなく内科病棟に入院になった。しかしここが病院であることがよくわかっていないようだ。ひょっとすると軽度の認知症かもしれない。入院してどれほどたっているかわからないが、歩けなくなってますます混乱がひどくなったようだ。

ノジマさんの言い回しは、「し」と「ひ」が区別できない下町風である。たぶん隅田川に近い土地に住んでいるのではないだろうか。呼び捨てにしているから午後にやってくるのは実の娘だろう。同居中かもしれない。あの甲高い呼び声を聞くと、入院する前から娘を頼っていたに違いない。アキコさんはノジマさんが入院してくれてほっとしているのかもしれない》

 

それにしても、隣のベッドにこのような老人が入院してくることは、嘉子にとってはまったく想定外の事態だった。

 

きしむベッドの同病者

 

ノジマさんの話が一段落し、嘉子も一息ついたところに、ひとりの女性が友人に付き添われて入院してきた。カーテンでさえぎられて見えなかったが、通路をはさんで向かい側の空きベッドに入ったようだ。

ベッドに横たわるときに、ギシギシっとマットレスのきしむ音が聞こえた。通常よほどのことがなければ病院のベッドはきしまない。たぶん相当太った女性なのだろう。二人は大きな声で外国語を話している。特有の語尾のせいですぐにそれがロシア語だとわかった。

お隣のノジマさんも、さすがに驚いたのか、黙っている。

再び想定外の入院患者の登場である。嘉子のセンサーはさらに研ぎ澄まされ、ノジマさんから向かいのベッドの女性へと焦点が移動した。

 

昨晩は四人部屋に二人っきりだったのに、なんと、わずか一時間足らずで一気に満室になってしまった。それも老人とロシア人である。

最後の晩餐のキリスト、トイレットペーパーを買うために転倒した老人、太ったロシア人――。

なんてバラエティ豊かな病室なのだろう。カウンセリングとはまったく異なる世界だが、入院をしなければおそらく接することもなかった三人の女性との、想像力を介したカーテン越しの遭遇に嘉子はすっかり心を奪われていた。

 

都心にあるこの病院は外国人の受診者が多いので、看護師も英語が堪能だということは人づてに聞いていた。しかしロシア人に対してはどうなのだろう。

担当の看護師がノジマさんのときと同様、向かいのベッドに挨拶に訪れた。流暢な英語で話しかけたのだが、同伴してきた友人がさえぎった。

「このひと、英語できません。わたしも英語、できません。日本語を、私が通訳します。でも、わたし、昼休み、お店、抜けてきた。もうすぐ帰ります。このひと、眠いです。いつも夜働いて、昼間寝てるから」

「そうですか、それではナースステーションで少し話しましょう。それをまとめて患者さんに後で伝えてくださいますか」

「オッケー。できれば、通訳をつけてもらいたいです。病院でロシア語できるひと、いますか」

「残念ですが、この病院では医師も看護師もロシア語ができるものがいません」

「ロシア大使館に頼んでもらえませんか」

「わかりました。主治医に相談して、大使館と連絡をとってみます。とりあえず、心臓カテーテル検査は月曜の午前中ですので、そのことだけご本人にお伝えください」

 

 

簡潔にして要を得た説明は、聞いていて気持ちがいい。嘉子はその応対に感心した。

何よりの収穫は、向かいのロシア人は、私の検査の直後に同じ検査を受けるとわかったことだ。とすると彼女も狭心症なのだろうか。同じ病名の仲間だと思うと、妙に親近感が湧いた。

友人と担当看護師が病室を出るか出ないかのうちに、向かいのベッドからはもう軽いいびきが聞こえはじめた。

狭心症仲間であろうロシア人女性の物語を嘉子は想像した。

 

《ロシア大使館の近くには、ロシア料理のレストランが多い。しかし昼夜逆転した職場ではない。だとすれば、ロシア人女性がホステスとしておおぜい働いているパブやキャバレーかバーで働いていたのではないだろうか。入院したときのあのベッドのきしみ具合からすると、彼女はかなり太っているはずなので、ホステスとして働ける体型だとは思えない。とすれば、ロシアンパブの調理場かレジで働いている可能性が高い。調理や掃除、働くロシア人女性のマネージメントなどを担当しているのだろう。それにしても、なぜ日本にやってきたのだろう。同伴した友人は片言だが日本語を話し理解できる。それだけ長く日本にいるからなのだろう。彼女は友人の誘いで来日したのだろうが、おそらく日本に来て間がないせいで日本語が理解できないのだ》

 

嘉子は想像をふくらませながら、カーテンの向こうでいびきをかきながら眠っている白い巨体と、彼女が経験したであろう同じ胸の痛みに思いを馳せた。

 

(第6回了)

[次回は2月中旬UP予定です。乞うご期待。]

 

 信田さよ子先生の著書 

アディクションアプローチ もうひとつの家族援助論

nobuta_book1.jpgA5判・224ページ・1999年06月発行

定価 2,100円 (本体2,000円+税5%)

ISBN978-4-260-33002-2

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DVと虐待 「家族の暴力」に援助者ができること

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A5判・192ページ・2002年03月発行
定価 1,890円 (本体1,800円+税5%)
ISBN978-4-260-33183-8

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